早嶋です。
この10年、日本の植物カルチャーは大きく様変わりしたと思う。かつて観葉植物は、パキラやポトスなどの「空間を彩る緑」として、インテリアの脇役だった。園芸は高齢者の趣味か、郊外の庭付き一戸建ての話であり、都市生活者にとって植物とは「管理すべき存在」にすぎなかった。
しかし今、その常識は覆りつつある。植物はただの装飾ではなく、「再現芸術」としての趣味の対象になった。アフリカや中南米に自生する多肉植物やサボテン、湿度を愛する熱帯雨林系のシダや着生植物、さらには水槽内でジャングルの生態系を構築するアクアテラリウムまで、育てる対象も方法も、驚くほど進化している。
この変化の背景にあるのは、明確にテクノロジーの進化だ。たとえばLEDライト。わずか数年前まで高価だった育成用ライトは、今では波長を調整でき、植物の光合成に最適なスペクトルを安価に再現できる。さらに湿度・温度・風・CO₂濃度といったパラメータを調整できる機材も揃い、もはや日本の四季とは無関係に、地球上の特異な環境を再現することが個人でも可能になったのだ。
この再現の文化は、水槽の中にも及ぶ。熱帯魚ファンから派生したネイチャーアクアリウムでは、自然の渓流やジャングルをそのまま切り取ったような光景が、都市の水槽内で静かに展開されている。もはや水を張ることすら必須ではない。苔や着生植物だけで構築された陸上の熱帯水槽の世界もある。つまり、植物カルチャーは「生育」から「再構築」へと進化したのだ。
そして、この「再構築」の美学が、いま水の中にも、土の上にも静かに広がっている。水槽を使って熱帯雨林の空間を再現するネイチャーアクアリウムやアクアテラリウムでは、水中だけでなく陸上に湿度を帯びたジャングルの一角を描き出すような構成が増えている。流木に着生する植物、ミストで湿る苔、下層に潜むエビや小魚たち。そこにあるのは単なる水槽ではなく、生きた風景なのだ。
この「生きた風景」を、より植生や地域性にこだわって表現しようとするスタイルが、近年静かに注目されている。それが「ハビタットスタイル」だ。ハビタットとは「生息環境」を意味する言葉だが、ここでは、植物が自生する地形や環境、他の植物との共生関係まで含めて再現する飾り方を指す。たとえばナミビアの乾燥地帯で風に削られた岩の裂け目に自生するハオルチアを、あえて同じような岩場風に配置して飾る。または、東南アジアの熱帯林で木にしがみつくように生きるビカクシダを、壁面に倒木を模した流木とともに飾る。
これは単なる見栄えの問題ではない。植物の姿や形、色彩を、なぜそのように進化させたのかという「意味」まで含めて表現するという、より知的なアプローチで、同時に深い没入感を得られる飾り方でもある。都市の室内に、ナミビアの岩場を再現し、インドネシアの熱帯林を壁に掛ける等々。そこには育てるという行為を超え、植物が育ってきた「物語」を空間に翻訳するという新しい愉しみがあるの。
このカルチャーの文脈を語る上で、欠かせない存在が雑誌『BRUTUS』だ。2015年、「珍奇植物(ビザールプランツ)」をテーマにした特集号が話題を呼び、それ以降も2016年、2018年、2019年と連続して特集を重ねた。そして2020年には、過去の内容をまとめた『合本・新・珍奇植物』がムック本として発行されるまでに至る。
『BRUTUS』は単なる園芸雑誌ではない。彼らの特集は「ファッション」と「自然」を接続するという独自の目線で編集されており、植物を美意識の対象として都市生活に再定義することに成功した。そして2025年には、6年ぶりに「珍奇植物」の特集を再掲。LEDの進化、栽培環境の進化、自生地探訪記などを通して、植物カルチャーが趣味やブームの域を超え、知的で情熱的なコミュニティに支えられた一つの文化になったことを証明した。
この文化の深化は、SNSと動画プラットフォームによって加速したと思う。Instagramでは「#コーデックス」「#塊根植物」などのタグが定着し、YouTubeには育成記録や自生地のVlogが次々とアップされている。かつては数少ない専門家が知っていた知識が、民主化され、体系化され、次の誰かの「育成物語」へと変換されていく。
やがて、熱心なマニアたちは自らの育てた植物を互いに交換・売買しはじめる。その過程で自然と目利きの感覚が醸成され、植物を見る目と語る言葉に文化が宿るのだ。同じ種であっても、幹のうねり方、葉のつき方、育ち方、あるいは根の張り具合といった風貌によって価値は大きく異なり、「個体差」というアート的な概念が重要視されるようになる。
こうして、一点ものとしての個体にプレミアムがつき、市場が自然発生的に立ち上がる。それは単なる金銭的な売買ではなく、背景にある育成技術や審美眼、そしてストーリーまでもが取引されているということなのだだ。この構造は、クラシックカーやヴィンテージの機械式腕時計、あるいはアート作品の世界と極めて似ていると思う。機能を超えた「意味」と「時間」が宿る対象物に、人は無意識に価値を感じるのだろう。しかも植物には、時間とともにその姿が変化するという成長がある。固定された物体ではなく、常に変化を続ける存在であるという点が、より一層この市場に奥行きを与えている。
面白い点もある。熱狂が大衆へと波及するきっかけだ。しばしば著名人のふとした所作だったりするのだ。テレビや雑誌、SNSの一枚に映り込んだ塊根植物やサボテン、あるいはリビングの隅に吊るされたエアプランツ。その一瞬の目撃が、熱狂の導火線になることがあるのだ。「◯◯さんの家にあったあれ、なんだろう?」そんな問いが検索され、名前を知り、育て方を知り、やがて市場が生まれるのだ。文化は熱狂だけでは成立しない。認知、共感、再現というプロセスを経て、はじめて人々の間に根を下ろすのだ。著名人の一言がそれを加速させるのは、カルチャーが成熟しつつある証でもあると思う。
現代の植物カルチャーは、単なる園芸の延長ではない。それは、技術と情報を手にした都市生活者が、「自然の一部を自分の部屋で再現する」という地球規模のミクロ表現であり、環境と美意識を自ら編集する創造的な行為なのだ。植物は生き物である。一方で、文化を体現する媒体でもある。このことに気づいた人々が、いま世界中で、静かに熱狂しているのだろう。