新規事業の旅194 個人が主導する情報時代の到来

2025年6月20日 金曜日

早嶋です。1700文字です。

ニュースソースは、かつて新聞、テレビ、ラジオ、雑誌といった「オールドメディア」が独占していた。記者が取材し、編集者が構成し、印刷所や放送局が物理的に流通を担う——このようなバリューチェーンによって、情報は丁寧に加工されてきたのだ。しかし、今やその仕組みは大きく揺らいでいる。

転換点となったのはソーシャルメディアの登場である。もともとSNSは、友人や知人とのネットワークを可視化するためのツールにすぎなかった。しかし、そこに「LIKE」や「シェア」といったインタラクションの設計が加わることで、徐々に情報そのものを媒介する場へと変質していったのだ。最初はテキスト、やがて画像、そして今は動画と音声が主流になる中で、AIによる編集・生成の技術も入り込み、もはやコンテンツは個人でも極めて高品質なものが作れる時代になった。

この流れの中で、特にZ世代は根本的に異なる情報感覚を持つようになった。彼らは物心ついたときからスマートフォンを手にし、ソーシャルメディアを通じて情報と接してきた。テレビやラジオ、新聞や雑誌といったオールドメディアとはほとんど接点を持たない。したがって、彼らにとって「情報を得る」という行為は、スマホを開き、SNSで検索し、ストーリーやリールを眺めるという日常の延長にあるのだ。

同様の現象は、忙しいビジネスパーソンの間でも広がっている。新聞を開く暇があればスマホでニュースアプリをスクロールし、通勤中や隙間時間にYouTubeやTikTokで情報を得る。オールドメディアに触れる時間は激減し、新聞や雑誌は廃刊や休刊を余儀なくされている。新聞社でさえ、紙媒体からデジタルへの転換を急ぎ、メディア企業としての生存戦略を模索しているが、GAFAをはじめとする巨大なプラットフォーマーには太刀打ちできない。情報の受信ではなく、プラットフォームの設計そのものを制する者が市場を支配する構造に変わってしまったからだ。

この変化は、単なるテクノロジーの進化によるものではない。構造的なパラダイムの転換である。オールドメディアは「地域性」と「地理的制約」、そして「組織としての情報統制」によって成立していた。一方、ソーシャルメディアは、地理的境界を超え、誰もが情報の発信者になれる世界を切り拓いた。言い換えれば、全人口が記者であり、視聴者でもあるという状態が出現したのだ。

この「情報の民主化」は、混乱をもたらす一方で、才能を解放する場ともなった。特定の分野に特化した知識やスキルを持つ個人が、その知見を発信し続けることで、多数のフォロワーを獲得し、影響力を持つようになった。オタク、マニア、エンジニア、職人、料理人——かつては局所的な存在だった彼らが、世界規模で発信し、評価され、時には仕事や収入にまでつながる時代である。

こうした人々は、単なる「インフルエンサー」ではない。知識のプロバイダーであり、専門的な情報の源泉となっている。その結果、彼らには企業からのスポンサーや協業の申し出、あるいは講演・出演の依頼が舞い込む。まさに、個人が一つのメディアとなる時代の象徴である。

情報の生産構造も大きく変わった。かつては組織に属し、方針に従って制作されていたコンテンツが、いまや個人の意志と感性によって生成・拡散されるようになった。そして、そのスピードと反応性はオールドメディアの比ではない。ひとつの投稿が「バズれば」、それに追随して似たようなコンテンツが爆発的に増殖する。新たな流行が生まれ、また瞬く間に消える。このサイクルはきわめて短期間で回る。

こうした状況の中で、情報の真偽を見極めることはますます困難になっている。フェイクニュースか、ユーモアとしてのクリエーションか。発信者の意図も受信者の解釈も多様化し、どこまでが「事実」で、どこからが「演出」なのかが曖昧になる。

情報の時代は、メディア企業の時代から、個の時代へと移行したのだ。そしてこの流れは、すでに不可逆的である。オールドメディアは、ただ「古くなった」だけではない。情報というフィールドにおける力の構造そのものが、根底から変わったということなのだ。



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