真実と虚構の間

2025年9月18日 木曜日

早嶋です。1800字。

2022年以降、生成AIが急速に普及した。誰でも、数秒で「それっぽい文章」を書けるようになったのだ。もちろん、大きな可能性であり、情報の民主化の過程とも言える。ただ同時に、いま、私たちが日々接している情報の中には、「本物」の情報と「それっぽく見えるだけのもの」とが、区別なく並んでいる可能性が高い。はじめはなんとなくの違和感だったが、実は深刻な構造変化なのだと思い始めた。

特に、学術の世界では「ペーパーミル(paper mill)」と呼ばれる問題が深刻になっている。本来、論文というのは、研究者が時間をかけて調査し、仮説を立て、検証し、そして何度も推敲して仕上げる営みだ。その重みこそが、論文の信頼性を支えていたはずだ。だが、ペーパーミルはその構造を壊す存在だ。論文のような文章を、AIやゴーストライターを使って大量に作成し、論文として販売する。購入者は、それを自分の成果としてジャーナルに投稿する。もちろん、査読も抜け道がある。仲間内で回す、偽のレビューを仕込む、そもそも査読のないハゲタカジャーナルに投稿する、という手段が使われるのだ。そうして、「見た目は正しそうな論文」が、ひそかに学術界に流れ込みはじめているそうだ。

さらに問題なのは、こうした論文が互いに引用し合い、あたかも信頼性があるかのように見せかける構造だ。何本も似たような論文が並んでいると、人はそれが「定説」だと思い込んでしまう。こうなると、もはやフェイクであるか否かは、内容ではなく、量と反復によって決まってしまう。これは、非常に危うい構図だと思う。

では、信憑性の高い情報はどうなるだろうか。それは、むしろ人目につきにくい場所に追いやられている。時間をかけて丁寧に作られた文章は、当然ながらコストがかかる。そのため、クローズドな研究会や有料の媒体で流通するようになる。結果として、無料でアクセスできる情報の多くが「速くて薄い」ものになり、じっくりと構成された本物の文章は、むしろアクセスしにくくなる。こうして、真実は隔離され、フェイクが主流になる、という逆転現象が起きているのだ。

こうした状況を、社会学の枠組みを通して調べてみた。たとえば「社会構築主義」という考え方がある。現実とは、単に客観的に存在するのではなく、人々の認識や関係性の中で作られていく、という考え方だ。つまり、人が「これは本当だ」と信じれば、それが現実になってしまうというのだ。たとえそれが、AIが自動生成した「それっぽいだけ」の内容でも、何度も目にし、多くの人が信じれば、それが「常識」になってしまう可能性を示している。実に恐ろしいことだが、それが現実なのだ。

ボードリヤールという思想家は、シミュラークルという概念を使い、似たようなことを主張した。「現実のコピーが、本物以上のリアリティを持ってしまうことがある」だ。たとえば、旅行先の風景を見る前にインスタの写真で予習してしまい、実際の景色よりも「見慣れた写真」の方がリアルに感じられるような感覚だ。論文も同じだ。AIが書いたような文章を何度も目にすると、「こういうのが本物っぽいんだ」と脳が学習してしまうのだ。

さらに現代は、情報が信用できるかどうかを、内容の正しさよりも、「わかりやすいか」「共感できるか」で判断してしまう傾向が強いと思う。SNSや動画プラットフォームがそれを助長している。みんながシェアしている、いいねを押している、それだけで情報に信頼を寄せてしまうのだ。だが、その情報の中身を誰が検証しているのか。誰が責任を取っているのか。そうした視点がどんどん失われているように思える。

こうなると、人は知らないうちに「虚構の現実」を生きるようになる。実体のない情報を本物だと思い込み、それを前提に判断し、語り、行動する。しかも、それに気づかないまま、日常を送ってしまうのだ。かなり危うい時代に入ったということだ。これらを踏まえて、我々に今できることは、すぐに答えは出ないが、少なくとも、「目にした情報を鵜呑みにしない」という姿勢が引き続き大切になる。誰が、なぜ、その情報を発信しているのか。その背景を考える癖をつけるのだ。そして、できることなら、自分で考え、自分の言葉で発信する。それが、虚構の波に飲み込まれずに生きる、ひとつの方法なのではないかと思う。



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