早嶋です。
新規事業の旅174で昨今の米問題を考察した。今回は、より本質を深堀りした。JAは組合員のために農業ではなく、大家業の支援をして、農業の関心を全体としては希薄させたこと。国自体が制度が崩壊しているにもかかわらずメスを入れていないこと。従い、農地を集約したくても誰も手放さない状態が放置されていること。これらは今の米問題ではなく、政治の責任として、農政の尻拭いとして、大きな変革の時期が今なのだ。その処方箋は、法人化の躍進と土地の集約、それから米の流通の完全なる自由化だと思う。
(JAの役割と収益構造の変化)
かつて戦後間もない日本では、農業が国民の生命線であり、農家は国民の半数近くを占める存在だった。1950年代には約1,500万人以上の農業従事者が存在し、国の政策は「保護と自給」の色彩を強く帯びていた。これに対応するかたちで、農業共同組合(JA)は、営農支援のみならず生活インフラや金融、保険機能までも一体となって提供する地方の小さな国家としての役割を果たした。JAの当時の機能は素晴らしく、このベースがその後の経済成長を牽引した事実はあると思う。しかし、2020年代の今、農業従事者は100万人から200万人まで減少、国民の1%前後にまで縮小しており、その大多数が65歳以上の高齢者なのだ。にもかかわらず、農政の枠組みや支援制度、JAの構造は、戦後の大多数の農家を支える思想に立脚したままで、アップデートがされていないのだ。この制度疲労こそが最大の課題だ。
JAは、本来「農業を支えるインフラ」として発足し、営農指導や農産物の集荷、販売といった実務を通じて農家を支援する組織だった。だが、今日のJAの実態は、その設立理念から大きく乖離していると思う。JAは現在、実質的に「保険会社+地方銀行」なのだ。JAの総収益のうち約9割以上が「共済(保険)」と「信用(金融)」で占められており、営農収益はわずか1%未満で、しかも赤字が続いている。この結果、JA自身に「農業を強くする」インセンティブがないのだ。むしろ、農家が小規模でバラバラであった方が、農機の個別販売や金融商品の貸し出しにおいて収益性が高いという構造的矛盾すらある。営農指導員は、事業的視点よりも組合員との人間関係を重視し、地域内の均衡と保守的な指導に終始することが多い。
この構造は、農家にとっても少なからず影響がある。たとえば、農家はJAを通じて以下のようなサービスを受けるのだ。農機具購入時のローンやリース(トラクター、田植え機、乾燥機など)、施設建設資金の融資(ビニールハウスや冷蔵施設、選果場の設置など)、自家用車や住宅のローン、共済保険による天候・災害リスクのヘッジ(台風や干ばつに備える収入補填型共済など)などだ。このようなサービスは、一見「農家支援」に見える。しかし、実態としてはJAの信用事業、つまりローン利息の加担、共済事業、つまり保険料がJAの主たる収益源となり、営農支援とは切り離された収益構造があるのだ。さらに近年では、都市部の「準組合員」(非農家の加入者)に対しても保険や金融サービスを提供しており、これが全体収益の安定に貢献している。都市住民が自家用車購入時にJAのマイカーローンを利用したり、住宅購入時にJAバンクを活用することも少なくない。2020年時点でJAの準組合員は1,000万人を超え、正組合員(農家)の数よりも大幅に多いという逆転現象すら起きている。
この構造下では、JAが農業を本気で強くしようという動機付けは乏しい。むしろ、農家が小規模でバラバラであった方が、農機具の販売や個別融資の件数が増え、結果として金融収益の最大化につながる構造なのだ。たとえば、地域で共有できる大型機械を導入するよりも、1軒1軒が自前で小型の機械を購入する方が、JAとしては売上になる。また、JAの営農指導員は、マーケティングや経営分析の専門家というよりは、地域内の人間関係や組合内のバランスに配慮した調整役に近い存在で、事業的な視点からのアドバイスや厳しい経営改革の指導を行うことは稀だ。これは、農家側も同じ地域の人間として指導員を見る傾向が強く、対等な経営相談というよりも、相談しやすいお兄さんとか、おじさんのような存在として関係性が築かれてきた。
このようにして、JAは制度上「農業協同組合」でありながら、実質的には地域密着型の金融・保険事業体へと変質しており、農業の強化や産業化を目指す構造的インセンティブをほぼ失っていると言える。この状況を放置すると、農業はいつまでも「事業」ではなく「保護対象」のまま停滞し続けるのだ。
(スケールメリットが出来ない構造)
日本の農地面積は、一つの農家あたりの平均で1.6ha前後だ。米国が180ha以上、オーストラリアが3,000haを超える現状と比べると、桁違いの零細構造と言える。日本の農機具は極端に小型で、狭小農地に対応する特化型が多い。ヤンマーやクボタは、独自の機械を国内向けに開発し、JAの個別融資との連動により独特の小型農業機器のジャンルを確立した。ちなみに、農業の「単位あたりのスケール」が桁違いに小さいことは、「生産コスト」「機械化の合理性」「販売競争力」に直結する。
戦後直後(1950年頃)の農地は600万ha以上あった。これが現在(2023年時点)で、約430万haまで減少している。農地面積も3割減少しているのだ。背景は、農家の高齢化・後継者不足とともに離農がある。更に、市街地化による農地転用(特に都市周辺)、そもそもの耕作放棄地の増加(2020年で42万ha以上)がある。
農地転用は先に説明したJAの信用事業としてのアパート建設融資と深い関係がある。JAは、農地転用の支援として、市街化調整区域における農地の宅地転用手続きを支援する。そしてアパート建設資金(長期ローン)を提供し、併せて建物の火災や地震保険を提供する。そして、不動産の管理委託や入居者募集の代行までをサポートしたのだ。金融支援スキームを活用して、結果的に農業と無関係な大家業の金融サポートを請け負う存在になっていたのだ。ただJAの理屈は筋が通っている。JAは組合員の所得を増加させる目的があるからだ。実際、米や野菜での所得が年収で200万前後だったのに加え、アパート収入が300万から500万の安定収入を作り出した。JAからの融資を受けて建設したアパートは、JAグループの不動産会社が管理・運営を代行するため、「不労所得」に近い状態を作り出す。大学の多い地域(地方国立大学の周辺)、福岡市西区、京都の伏見・宇治、名古屋市郊外などの郊外のベットタウンで顕著に進んだ。
農業への融資は天候・市場価格に左右されて不安定だが、人口ボーナス時期のアパートローンは土地の担保価値が明確で、入居率が高ければ収益も安定でき、更に保険や管理もグループで内製化できことを考えると、JAにとっても高利回りな安定事業となった。借り手は農家の正組合員で最も信頼できる顧客そうだ、貸し倒れリスクも比較的低いと判断した背景もあるだろう。たしかに農家(組合員)の所得は増加して、農家の救済として機能したのは事実だと思う。しかし、長期的な弊害がどんどん露呈しているのだ。それは、農家が本業である農業から離れる構造が固定化したこと。JAが信用+共済ビジネスで肥大化し、営農支援が空洞化したこと、都市近郊の農地は不動産としてしか見られなくなったこと、結果的に農業者は大家というミスマッチな姿が一般化したことだ。
(オーストラリアの農業との比較)
米豪は、確実に規模の経済を活かせる構造が制度的かつ市場的に整っている。豪州では、農業は法人経営(ファームコーポレーション)が主体だ。そのため土地の集約・売買が自由で、農地規模の拡大が容易だった。人を雇って農業をする、いわゆる雇用型農業が一般的。農作業も人力ありきではなく、巨大な農機具(コンバイン、GPSトラクター)をフル活用している。そのため穀物や綿花など、均一で大量生産が可能な作物に集中した。もちろん政府は市場との連動に注力し、直接的な価格統制は少ないのだ。その結果、一人あたりの農民が数百から数千haの農地を管理する仕組みが成立したのだ。
日本の農業をみてみよう。結論を言えば、今の構造で何かをしてもどうにもならない状態だと思う。土地は分散し、スケールメリットが出ない。小さな土地に機械化を進めている。土地の広さと比較して農機具が高額になるが、土地そのものが狭くて活用回数も収量も少ない。更に、農業を主体的に進める方々が高齢化による体力と判断力の限界がきている。いまだ農業の法人化率は2割以下で、市場で売る努力よりも補助金で赤字を充填する構造が一般的になっているのだ。海外とのコスト比較のみをすると、スタート地点で負けが確定しているのだ。
ただ例外的成功要素はかなりある。特化型高付加価値農業は、日本の得意技だと思う。シャインマスカットや夕張メロン、高級イチゴや果物などだ。それから6次産業化による地域加工や観光とセットとして捉えた農業。また地域での農地集約と法人化は北海道などの一部では進んでいる。
(流通の一律化と品質インセンティブの欠如)
JAによる米の流通もまた問題である。JAは農家から米を集荷し、等級制度に基づき一律に近い価格で買い取る。理論上は品質評価は存在するが、実態としては「量重視」の集荷構造が強く、個々の農家が努力しても報われない仕組みが根づいている。さらに、JA経由での流通は販路が限定され、農家は「売り方」を学ばずとも生き残れてしまう。結果として、農家はマーケットインではなく、プロダクトアウト、つまり自分たちが作りたいものを作るという構図に陥いったのだ。流通やブランディングの視点が育たず、事業者としての意識形成も起きにくい構造にしてしまったのだ。
JAは長年にわたり、全国の農家から米を集荷し、等級制度に基づいて買い取る形をとってきた。表向きは「品質に応じた評価」だが、実態は「量と安定供給」を最優先した仕組みに他ならない。たとえば、1等米、2等米、3等米といった等級差はあるものの、その差額はせいぜい数百円から千円程度。そのため、手間暇をかけて品質を高めても、コストとリターンが合わないという現象が発生していたはずだ。
魚沼産コシヒカリの農家は、山間部の棚田で減農薬・手作業に近い方法で丹精込めて育てている。1kgあたりで言えば市場では2,000円前後で売れるブランド米だ。しかし、JAに卸すと60kgあたり15,000から16,000円(1kgあたり250〜270円)でしか評価されない。この農家は「自分で売らなければ意味がない」と、オンライン販売に移行するも、周囲の多くはJAに出荷するしか販路がなく、「やっても意味がない」という空気が定着するのだ。そして、JAを通じて出荷すれば、誰かが買ってくれる。となる。この安心感は一方で、農家自身がマーケットを知らず、ブランディングも販促も行わない文化を温存させてしまったのだ。本来、農業を「事業」とするならば、「どこに」「誰に」「どんな価値で」売るのかを考えるのが本来だ。しかしJAの仕組みはそれを奪う形で農家の農業経営者化を阻んでしまう結果になった。
更に、飼料米の政策が農家を駄目にしたと思う。国は余剰米の対策で、飼料用米の生産を奨励した時がある。これは、家畜の餌として米を使い、主食用米の供給過多を調整する政策的措置だ。一見何も問題はないのだが、この飼料米が、補助金により主食用米と同じか、それ以上の収入になるよう設計されてしまったのだ。主食用米が60kgあたり13,000円から14,000円に対して、飼料用米が60kgあたり8,000円程度、そして補助金で6,000円以上が加算され、実質14,000円以上になったのだ。つまり、「努力して人間が食べる高品質の米を作る」のと、「大量に作って牛や豚に食べさせる米を作る」のとで、収入がほとんど変わらない、もしくは飼料米の方がリスクが低くて手堅いという逆転現象を起こさせたのだ。農家の意欲を著しく削ぎ、「頑張るより飼料米。飼料米よりアパート経営」という流れを加速させたのだ。
(政治責任と票田としての農政の限界)
農業の制度、構造の中核にあるのは、農業を「競争の主体」ではなく「守るべき存在」と位置づけ続けてきた国家の姿勢だ。確かに、かつての飢餓体験、戦後の食糧難を経て、農業の保護は国策で最重要だった。しかし、人口構造も国際競争も全く異なる現在において、過去の枠組みを延命し続けることが今まさに最大のリスクとなっているのだ。ここまで述べた構造の硬直化の背後には、政治の意図的な不作為がある。日本の政治家は農村を「票田」として耕す」ことに熱心であり、「産業としての農業を再構築する」意思を欠いていたのだ。
農家は人口比では1%から2%に満たないが、地域としての選挙区では政治的影響力が今でも大きい。このため、「農業改革」は票離れを恐れて常に避けられ、JAと政治家の間には見えない相互依存が構築された。その結果として、農業は構造転換を迫られず、補助金と制度で延命され続けてきたのだ。今、総理大臣が「米を3,000円代で提供できなければ責任を取る」と発言する事態に至ったのは、この延命政策の末路だ。構造を変えずに価格だけを操作するのは、経済の原則を無視した幻想に過ぎない。
(処方箋)
日本の農業、とりわけコメを中心とした構造的課題は、ここまで述べた通り制度疲労と構造的矛盾に満ちている。私が考える対策の方向性は、農地の法人化と流通の自由化と販路の多様化だ。国内外の成功事例を研究し、今後の人で不足に備えて機械化を併せて進めていく流れだ。
国内にも成功事例は溢れている。北海道の大規模農業法人モデル、長野の高冷地での高付加価値野菜の生産、熊本や福岡のブランド果実、都市近郊の観光連携型6次産業化など、日本には既に光る成功事例が存在する。これらは高付加価値型の農業として、輸出産業にもなり得る希望の芽である。それぞれの事例を個別に深掘りし、その要諦を明らかにすることが、再現性あるモデルとしての確立に不可欠だ。
海外事例からの学びは、農業の工業化だ。オランダでは温室栽培やAI制御によるスマートアグリ、物流の徹底的な効率化により、国土が狭くても農業輸出大国となっている。カリフォルニアでは干ばつ地帯にもかかわらず、集中管理と高効率生産で世界市場を押さえている。これらは「土地の広さ」ではなく「技術と知恵」で勝っている事例だ。
さらに、流通に関しては視野を国際的に広げる必要がある。安く仕入れられるものは海外から買い、高く売れるものはそのエリアに直接販売するという「経済合理主義」に立つことだ。ただ、米国のように分断を良しとするトランプ的保護主義が再来した場合には最適地への販売が妨げられるリスクもある。そのため、初めから米国依存を避け、アジアや欧州など他の市場を合理的な販売先と見据えて戦略を立てるべきだ。
農業テクノロジーも進んでいる。ドローンによる播種・防除、センシングデータによる水管理、AIによる収穫予測、労働力不足を補うロボット導入、さらにはブロックチェーンを用いた流通履歴の可視化など、農業は既に第四次産業革命の射程にある。問題は、それを使いこなせる経営体と、活用できるだけの規模と人材が存在するかどうかに尽きる。
これらを踏まえて、法人化と流通の自由化を徹底的に進めることが私は良いと思っている。農業の法人化は、しかしながら現実的な壁がある。今の農家は、土地をそもそも手放さないのだ。農地の固定資産税は住宅地に比べて極端に低く、保有コストが小さいため、所有権の移動が進まない。また、相続税も農地については特例措置があるため、代々の相続が繰り返されても土地は細分化されたまま残りやすい。この硬直性を打破するために提案したいのが、農地配当スキームだ。農地を集約化したい法人に対して、農家が土地を提供し、その対価として法人から配当を受け取る仕組みを設ける。さらにこの配当権は1世代まで無税で相続できるようにし、それ以降は通常の課税に戻す。これにより、農家には手放す合理的インセンティブが与えられ、農業からの撤退も「責められることなく選択できる道」として提示される。
それから、流通の自由化と販路の多様化だ。現在、流通業者が中間マージンを乗せて価格を引き上げる構造があるが、価格情報が不透明であり、農産物の価格が実際の原価と乖離している。完全に価格が自由化され、かつ透明化されれば、農産物の原価の3倍程度で市場価格が安定するだろう。今の米の小売価格(5キロで約4,000円)は、そもそも原価が高すぎる構造によるものだ。だが、大規模化と合理化が進めば、現状の1キロ250円から300円の原価は1/10の25円から30円まで下げられる可能性がある。そうなれば5キロ500円でも利益が出せ、1,000円ならば関係者全体が潤う構造になるのだ。
(法人化)
農業の法人化は、現代の日本農業における最大の課題だ。しかも、単に法人をつくれば良いという話ではない。根本にあるのは、土地が動かない構造そのものにある。今の農家は、土地をそもそも手放さない。理由は明確だ。農地の固定資産税は住宅地等と比較すると極端に低く、地域にもよるがおおよそ1/1000以下といった水準である。実際、坪単価で見ると都市部の住宅地では年間数万円の課税がある一方、農地では数百円で済むことが多い。また、農業を継続する限り、相続税においても「農地納税猶予制度」が適用され、最大で100%近くの納税が免除される。結果として、土地を持っていれば課税も売却圧力もかからない、保有コストが極めて小さい資産として農地は温存されているのだ。
この制度構造の中で、「法人化して土地を集約しましょう」と叫んでも、誰も土地を手放さない。結果、法人が事業拡大しようにも農地を確保できず、耕作放棄地が増えても実際には手が出せないという逆説が起きている。この構造を変えるためには、土地を手放すことに合理的なインセンティブを与える制度が必要だ。そこで提案したいのが、「配当受取型土地提供制度(仮称)」だ。この制度は、農地を集約化したい法人に対して、農家がその土地を提供する代わりに一定の配当を継続的に受け取れるという仕組みだ。つまり、農家は地主ではなく法人の収益に連動する出資者となる。さらにこの配当権利については、一世代まで無税で相続できる特例を設け、それ以降は通常の課税対象に戻す。これにより、農地を事業に役立てながら、農家には退場のための尊厳ある出口を提示できると思う。
効果として、農地の流動化が進み、事業化・機械化が可能となる。農家にとっては、農業を辞めた後も安定収入を得られる。法人にとっては、長期的な経営計画や投資が可能になる。農地を手放すことは裏切りだという道徳圧力から、農家を解放できるなどがある。ただし、この制度には新たな法整備が必要になる。農地法の制約を超えて法人への提供を認める仕組み、相続税法上の配当相続に関する特例、そして農地を資本として活かすための新たな農業経済法の設計だ。すでに耕作放棄地は全国で42万haを超え、持ち主不明の農地も急増している。土地が「耕す手段」ではなく、「動かない過去の遺物」と化している現実に、正面から向き合うべき時だ。農業の法人化は、単なる経営体の問題ではなく、農地を事業として活かすか、放置して腐らせるかの選択なのだ。
(流通の自由かと販路の多様化)
流通の自由化と販路の多様化は、農家の収益構造を変える前に、農産物の価格がそもそもなぜ高くなるのか、その根本を問い直すところから始めなければならない。現在、日本のコメの小売価格は、1キロあたり800円から1,000円前後が一般的でだ。一見すると、「流通が乗せすぎている」「中抜きがひどい」と思われがちだが、問題はそこではない。そもそも、1キロあたりの生産コストが250円から300円もかかっていること自体が最大の問題なのだ。農林水産省の2022年統計では、全算入生産費は10aあたり約12万8,932円、60kgあたり約15,273円。つまり、1キロあたりおよそ255円となる。これが標準的な日本の米農家のコスト構造だ。小規模・高齢化・分散化された農地に、個別融資で導入された高額な農機具、補助金依存の営農体制。このすべてが絡み合い、「努力してもコストが下がらない農業」を作り出したのだ。
対して、アメリカではカルローズ米が1キロあたり50円から100円程度の原価で生産されており、オーストラリアに至っては国産中粒米がスーパーマーケットで1キロ約350円(小売価格)で販売されている。輸送費や関税を考慮しても、生産段階の原価は日本より圧倒的に低い。その理由は明白で、大規模農業のスケールメリット、徹底した機械化、土地集約、法人経営、販売までを内製するモデルが機能しているからだ。
つまり、ここで問うべきは「末端価格が高いこと」ではなく、「なぜ1キロ300円もかかる農業を続けているのか」ということだ。そしてこの問いに真正面から答えるのが、農業の法人化と土地集約化であり、その次に必要なのが、この構造から解放された農家が「自由に売る力を取り戻すこと」になる。流通の自由化とは、単にJAを通さずに売るということではない。農家自身が価格を設定し、販路を選び、顧客とつながる「経営主体」に立ち返ることだ。具体的には、契約栽培による飲食店・学校給食・企業向け供給や、D2C(Direct to Consumer)モデルによるオンライン販売、地元マルシェ・直売所との連携、SNS・ECプラットフォームを活用したブランディング、そして地域外消費者や海外富裕層への高付加価値商品提供などがある。
しかし、これにはスキルが必要だ。農業にマーケティング、ブランド戦略、物流、価格設定の能力が求められるのは当然であり、それを支える教育と制度が今後不可欠になる。自由に売るとは、自由に責任を持つということなのだ。だからこそ、国は支援策を構造的に設計すべきである。それは、JA集荷制度の見直しと、販売チャネル多様化の容認、6次産業化に対応した農家向け経営研修の整備、オンライン直販のためのインフラ補助・物流統合、輸出市場向け農産物ファンド(輸送・規格・プロモーションを統合支援)等だ。
価格が自由になれば、農家が原価を意識し始め、コストを下げ、品質で勝負する姿勢が育つ。今は価格が固定され、努力が報われず、「出せば売れる」というぬるま湯の中に、農業が眠っている。この眠りを覚ますのは、法人化による構造変革と、流通自由化による価格競争の導入しかない。農業はもはや「作るだけ」ではなく、「売るまでが農業」なのだ。
農業を「保護対象」から「戦略産業」に変えるには、票田政治の延命装置であった旧来型農政を断ち切る覚悟が不可欠だ。農地は耕作のためにある。農家は地主である前に経営者でなければならない。努力が報われる市場構造を創るために、制度、流通、技術、教育すべてを変える時が来ているのだ。
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