早嶋です(約1万文字)。
大和王権は奈良纏向遺跡がスタートとされているが、実際は複数の地域国家が緩やかに形成され、結果的に権力を勝ち得たと見たほうが正しいと思う。当時、全国には地方の豪族がいて、それぞれに前方後円墳なり文化を形成している。炭素の減衰期間を使った測定だと纏向より古い古墳が多数ある。大和に権力が集中する過程で、今のストーリーが作られたのだろう。
(纏向遺跡と大和王権)
現在の通説だ。奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむく)は、3世紀前半から中頃にかけて急速に発展した大型の集落遺跡で、「卑弥呼の宮殿跡ではないか」とも言われる。近くには箸墓古墳(全長約280mの前方後円墳)があり、これが最古の大型前方後円墳とされ、大和王権=ヤマト政権の始まりと結びつけられている。だが、反論も多い。九州の吉野ヶ里や筑紫平野の遺跡は、纏向より古い層を持つ複合遺構を持っており、倭国の中心はむしろ西にあったと見る説もある。放射性炭素年代測定(炭素14)によると、東日本や北部九州などにも纏向と同時期あるいはそれ以前の前方後円墳や類似した権力構造の痕跡があるのだ。
前方後円墳は畿内を中心に、4世紀以降は全国に波及しているが、これは「中央政権に従属した印」だという見方(=ヤマト王権の覇権)と、「地方豪族が独自に王権と関係なく築いた」という説がある。たとえば、東海地方(愛知など)や北陸、東北南部にも、4世紀以前の古墳が見つかっており、畿内中心史観に疑義を投げかけている。これらを踏まえると、大和に「一元的に」権力が集中していたのではなく、ゆるやかなネットワーク型の「王権的連合体」と考える方が自然かもしれない。
私は、「今のストーリーが作られた可能性」という点を支持している。理由は、『古事記』『日本書紀』は、8世紀にヤマト王権が自らの正当性を記すために編纂した歴史書であり、政治的意図が色濃く反映されているからだ。後世において「ヤマトがすべての始まりであり、そこに正統性がある」と描かれた可能性が高いのだ。
(各エリアの特徴)
福岡、宮崎、熊本、岡山、出雲、淡路島、徳島、奈良、東北。これらのエリアでそれぞれの特徴をみてみよう。各地域の古墳や古代権力構造の視点から、それぞれの特色をみると、纏向中心の単一王権起源説では説明しきれない、多元的な「王」や「クニ」の痕跡が浮かび上がってくる。
まずは、福岡筑紫エリアだ。吉武高木遺跡、板付遺跡、須玖岡本遺跡など、弥生後期からの高度な集落遺構が集中している。いわゆる奴国(なこく)があった地域だ。後漢書にも記録され、金印(志賀島出土)がその証左だ。古墳も早期から存在し、大和に先行する都市的権力があった可能性が高い。
次に、宮崎西都原エリアだ。西都原古墳群は、300基超の古墳があり、5世紀前半には前方後円墳が集中している。古墳の規模・構造から中央との密接な交流も指摘されている。しかし、独自の豪族連合が存在していた可能性も高く、「日向神話」の地でもあり、記紀神話の「建国神話」とリンクして後付けされた可能性が高い。
熊本菊池阿蘇エリアだ。江田船山古墳(玉名市)は有名な鉄剣が出土している。「獲加多支鹵大王」の銘がある鉄剣だ。大和王権と結びつくが、九州における独立した有力豪族の存在も裏付けられる。火山地帯ゆえの閉鎖性と、九州北部との交流性の両面を持つと思う。
岡山吉備エリアだ。造山古墳(全長350m超)は全国第4位の巨大前方後円墳だ。畿内以外では最大だ。吉備の勢力はヤマトに匹敵する「もう一つの王権」として知られている。記紀では「温羅伝説(鬼退治)」として描かれ、吉備を征服した話があり、後から大和によって「敵視・統合された」痕跡が見える。
島根出雲エリアだ。古墳時代以前からの出雲大社(杵築大社)の存在は、宗教的中心としての重要性を示す。出雲地方の古墳は前方後円墳もあるが、独自形状も多い。ヤマトに対して「異質な王権」があったと推測される。そして『出雲国風土記』は記紀とは違うローカルな神話構造を持っている。
淡路徳島エリア。淡路島には王墓と推定される古墳があり、ヤマト王権との地政学的な中継地点としての役割が指摘される。記紀でも「国生み神話」の重要な舞台とされるが、実際には中継地=交易・外交の拠点だった可能性が高い。徳島(阿波)には弥生後期から古墳前期の遺跡が点在し、「阿波忌部」など古代氏族との関連も濃い。
奈良大和エリア。纏向遺跡・箸墓古墳を中心とする巨大古墳群が多数存在する。記紀と考古学のストーリーが最も整合している地域だ。だが、最初から中央だったとは限らず、他の勢力との統合・連合・征服を経て中核化した可能性がある。「記紀の正統史観」はここから発信されているのだろう。
そして、東北エリアだ。実は、ここだけまだ行ったことがなく、読み物や他者の話での記述になるが、同様に地域の別文化の豪族が既に居たと考えて良いと思っている。前方後円墳も4世紀末以降に出現しているし、特に南東北(福島)には中央との交流の痕跡が見られるそうだ。一方、「蝦夷(えみし)」という独自文化圏が長く続き、古墳の形状も独特だ。ヤマト王権の影響が及ぶのは限定的だと言われている。縄文からの連続性を重視する説では、「別系統の文明圏」という評価もある。
この分布を見るだけでも、大和一元説は明らかに物足りないと感じるだろう。「連合王権・複合権力モデル」の方が整合性があるのだ。現代に至る中央集権体制の原型を作るにあたって、「歴史を編集した」可能性は極めて高いと思う。
(記紀の神話と各エリアにおける考古学的な矛盾や相違)
記紀(『古事記』『日本書紀』)に記される神話や歴史的記述と、福岡・宮崎・熊本・岡山・出雲・淡路島・徳島・奈良・東北の各地域における考古学的な発掘成果を照合し、矛盾点や相違点を洗い出してみる。地域ごとに、記紀に登場する内容と考古学的証拠(古墳・集落跡・遺物・年代など)を対比し、考古学的に裏付けられない記述や、大和中心史観との齟齬を詳しく検証する。
(福岡地域の矛盾点)
福岡は、記紀神話では神功皇后の三韓征伐や磐井の乱など、ヤマト王権と九州勢力の関係が語られる土地だ。『日本書紀』は6世紀初頭、筑紫君磐井がヤマト王権に反旗を翻し、最終的に鎮圧された「磐井の乱」を大反乱として描写している。一方、『古事記』では磐井の乱は小事件として簡略に触れられるに留まる。また、福岡は神話時代において天孫降臨の出発地・日向の近隣として重視され、『日本書紀』では神武東征の起点は「筑紫の日向」とされている。
考古学的な証拠を洗い出して見る。磐井の乱に関する物証として、筑紫君磐井の本拠地とされる福岡南部では、6世紀前半に有力な地方豪族の存在を示す古墳(代表例:岩戸山古墳)や集落遺跡が発見されている。しかし、その規模やヤマト王権との関係を見ると、磐井勢力は既に一地域政権として確立し、ヤマト朝廷と対等の独立性を持っていた可能性がある。つまり、記紀がいう「反乱」ではなく、地域国家間の戦争と解釈できるのだ。金印の存在も重要だ。福岡の志賀島で見つかった「漢委奴国王印(金印)」は、西暦57年に漢の光武帝から授与されたものとされ、日本列島の早期の国家形成を示す重要史料だ。しかし、記紀にはこの史実が一切言及されていない。後漢書に登場する倭国王の朝貢記事と記紀の沈黙は、記紀の記述年代(1~3世紀)のズレを示している。福岡平野は板付・板付遺跡などに代表される縄文晩期から弥生初期の水稲農耕発祥地であり、日本列島最古級の環濠集落・水田跡が集中する。しかし記紀神話では、この地の繁栄や文化的先進性には触れず、あくまでヤマト中心の歴史観で描かれている。この点で考古学が示す北部九州文明の独自性と記紀の従属的描写との間にギャップが存在するのだ。
(宮崎地域の矛盾点)
宮崎(特に日向)は、神武天皇の東征における出発地として記紀に登場する。高千穂峰は『日本書紀』で天孫降臨の地とされ、ニニギノミコトやホデリ・ホオリ兄弟の神話が展開する舞台だ。また、神武東征では「日向三代」の後、神武が日向を出発し大和建国へ旅立ったとされる。
考古学的証拠だ。西都原古墳群の時代。宮崎県西都原には全長200メートル級の前方後円墳を含む日本有数の古墳群(311基)が存在し、その造営は4世紀後半から6世紀にわたる 。規模や数から見て、この地にはヤマトと並ぶ有力勢力があったことがわかる。しかし記紀は宮崎の古墳文化について言及せず、あくまで神武以前は「日向三代」(山之頂上の神話的統治)という断片的記述しかないのだ。神話と遺跡の食い違いもある。 ニニギノミコトとコノハナサクヤ姫の結婚伝承は宮崎各地に伝承地がある一方で、縄文から弥生移行期の遺跡や出土品(酒器や石製品)からは外来文化の波及が示唆されている。記紀神話に描かれた天津神系譜と、遺物が示す文化交流の実態に乖離があるのだ。宮崎には「記紀の道(ききのみち)」という西都原古墳群周辺の伝承地を結ぶ散策路が整備され、記紀神話と古墳文化の関連を示す試みがなされている。しかしこれは近年の観光整備で、実際には古墳時代の宮崎勢力と記紀神話のつながりは明確にされていない。むしろ、伝承と考古学成果を強引に結びつけている面があり、史実との矛盾が潜んでいる。
(熊本地域の矛盾点)
熊本(肥後・火国)は、記紀ではあまり詳細に語られていないが、神武東征の途上で熊野(現在の和歌山)に至るまでに九州から離脱する地域の一部として触れられている。また、熊本を含む九州南部には古代豪族「熊襲(くまそ)」や「隼人(はやと)」が居住し、ヤマトに従わない勢力として描かれている。『古事記』では景行天皇が熊襲征伐を行い、熊襲建(くまそたける)の討伐譚が有名だ。
熊襲・隼人の実像。南九州から熊本にかけての考古学調査では、大和とは異なる文化を持つ人々の痕跡が見つかっている。隼人の本拠である鹿児島や熊本南部では、独特の土器様式や墳墓(地下式横穴墓)が発掘され、これらはヤマト系文化とは連続性が薄いことが判明している。つまり、熊襲・隼人は単なる伝説上の「賊」ではなく、別系統の文化集団だったと考えられる。記紀では彼らを「土着の反逆者」と描くが、考古学的には在地勢力としての独立性が浮かぶ。熊本の江田船山古墳を中心に装飾古墳文化を観察出来る。鉄刀や装飾品(銀象嵌銘文の大刀など)が多数出土しており、5世紀頃にヤマトと深く関わる豪族の存在が確認されている。一方、記紀で熊本の豪族がヤマト政権中枢に影響を及ぼした記述は希薄だ。この点は、考古資料が示す連合政権の広がりと、記紀の中心地偏重の記述との矛盾だ。
8世紀に大隅隼人が起こした反乱(720~721年)は『続日本紀』などに記録され、最終的に隼人は平定されたが、その背景には隼人独自の文化とヤマト朝廷の緊張関係があった。記紀編纂時(8世紀)には既に隼人征討が完了していたため、神話・伝承内で熊襲や隼人が「征服されるべき敵」と描写されているのだ。しかし、考古学的には隼人社会の高度な武力と自治性が窺え、記紀の従属的描写とのギャップが明らかだ。
(岡山吉備地域の矛盾点)
岡山周辺の吉備国は、記紀ではヤマト王権と対等する有力地として間接的に登場する。例えば崇神天皇紀における四道将軍の派遣では、吉備を平定し服属させたと記され、雄略天皇期には「吉備田狭の乱」(463年)や吉備上道弟君の乱(479年)が記録されている。さらに吉備出身の吉備武彦や吉備氏族の娘が皇妃になる伝承など、ヤマトに統合される様子が描写されている。
吉備地方には、造山古墳(全長約350m)や作山古墳(同282m)など、国内でも最大級の前方後円墳が存在する 。これらはヤマト(奈良盆地)の最大古墳に匹敵し、4世紀後半~5世紀の築造と推定される。記紀の中では吉備の勢力が大和に服属するかのように書かれる一方、考古学的にはヤマト王権と肩を並べる勢力が吉備にあったことが明確だ。吉備は古代、日本有数の鉄生産地で、弥生後期から製鉄や製塩で繁栄したことが遺跡から判明している。特に製鉄技術はヤマト王権の軍事力に直結するため重要だが、記紀では吉備が鉄資源を握る強国であった事実に触れず、単に服属させられた地方としている。記紀のナラティブではヤマト中心だが、物証は吉備の経済的独立性を示唆している。
吉備氏族には大和朝廷に重用された者も多く(例:吉備臣、吉備真備)、中央政界で活躍している。しかし、記紀における天皇系譜には吉備の王は現れず、あくまでヤマト天皇の遠征や妃取りの対象として描かれた。考古学的には吉備各地のクニ(国造制以前の首長国)の存在が認められ、吉備内に複数政権の並立があった。記紀は統一的視点で吉備を扱うが、実際には内部多元的な政治構造があった点が矛盾している。
(出雲地域の矛盾点)
出雲は、神話における中心舞台の一つだ。『古事記』上巻の約1/3は出雲神話で占められ、須佐之男命の退避と大国主命の国造り、そして国譲りの物語が有名だ 。記紀では出雲の大国主神が天照大神の使者に国を譲り、以後出雲国造は天皇家に従属する立場になったと描かれている。また、大国主神を祀る出雲大社の創建も、国譲りの代償として述べられている。
四隅突出型墳丘墓と文化圏としての出雲。出雲地方には古墳時代以前(弥生後期)に特徴的な四隅突出型墳丘墓が分布し、これは北陸地方まで広がる独自の埋葬文化だ。ヤマト圏とは異なるこの墓制は、かつて出雲が日本海側一帯に強い影響力を持つ文化圏を形成していたことを示す。記紀神話の「国引き神話」は、この広域文化圏の記憶を投影したものと考える説もある。しかし記紀本文では具体的な出雲勢力の広がりは語られず、考古学的証拠との間に解釈の差がある。
荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡からは、大量の銅剣・銅鐸・銅矛が出土し、弥生時代の出雲が青銅器祭祀の一大中心地だったことが判明した。これらは1980年代以降の発見で、記紀は青銅器祭祀に関する直接の言及をしていない。大国主命や少彦名命の神話はあるものの、出土遺物が示す実際の宗教的繁栄ぶりとの間に大きな隔たりがあるのだ。考古学的・文献的研究から、古代出雲は東部(鉄器生産中心)と西部(青銅器中心)の二大勢力が併存し、その後統一政権化したとの見解がある。出雲大社の祭祀を代々担う出雲国造家は天穂日命(天照大神の子)の後裔と伝えられ、皇室と同格の古い系譜を誇る。これは、ヤマト王権に先行する在地豪族の長寿な統治を示唆するが、記紀では国譲りによりヤマトに従属したとされる。この在地の独立性の長さと記紀の従属化物語に齟齬が見られるのだ。
(淡路島の矛盾点)
淡路島は、『古事記』冒頭の国生み神話で日本で最初に生成された島とされる。イザナギ・イザナミの二神が天沼矛で海をかき混ぜ、生み落とした最初の島が淡路島(淡路穂狭別島)だ。その後も神武天皇の東征において、速吸門(明石海峡)や紀伊半島渡航の過程で地理的に重要な位置に言及されるが、淡路島自体の具体的な歴史事件は記紀にほとんど登場しない。
淡路島には5世紀代の前方後円墳(例えば石神古墳など)が複数あり、ヤマト王権と連携した豪族の存在が示唆される。また、弥生時代の大規模集落跡(五斗長垣内遺跡など)や銅鐸出土(松帆銅鐸など)の成果から、淡路島は古代に瀬戸内海交易や祭祀の拠点であったことが明らかだ。しかし、記紀にはこれら考古学的に重要な遺構の存在が一切記載されていない。
考古学者は、淡路島が「海人族」の活動拠点であり、古代国家の水軍・航路維持に重要だったと指摘している 。例えば製塩土器や漁具の出土から、海上技術者集団の足跡が確認できる。しかし記紀神話では、淡路島は神々の創生の象徴としてのみ登場し、古代国家を支えた海人の実態が描かれていない。これにより、神話上の淡路島と遺跡が語る現実の淡路島に乖離が生じている。
記紀において淡路島は、国生みで最初に生まれた特別な島でありながら、その後の時代区分では大和政権の一部として平板に扱われる。しかし、考古発掘では淡路島がヤマトと瀬戸内海沿岸をつなぐ海路の要衝であった形跡が多く見つかっている。ヤマト政権は淡路の海人勢力を取り込んで覇権を拡大したと推測されるが、記紀にはそのプロセスは描かれず、神話から唐突に律令期の行政区画に組み込まれているのだ。
(徳島地域の矛盾点)
徳島(阿波国)は、記紀には直接的な神話こそ少ないものの、古事記に登場するオオナムヂ(大国主)の御子神の一柱に阿波に関係する神(八多八代神)が見えたり、『日本書紀』景行天皇紀に日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途に阿波津(現在の徳島付近)に立ち寄る記述がある。しかし全体として、阿波や四国の活躍は記紀ではあまり強調されていない。
徳島平野や吉野川流域では、縄文後期から弥生前期に北部九州系統の土器が出土する遺跡が多く、早い段階から稲作文化が伝わっていたことが判明している。また古墳時代には前方後円墳(八倉比売山古墳など)が築造され、畿内ヤマト政権と交流・同盟関係にあった在地首長の存在が示唆される。しかし、記紀は四国の古代勢力に関する言及がほぼなく、これら考古学的証拠との間に大きな情報量の差があるのだ。
阿波には独自の豪族連合があった可能性が指摘されている。『風土記』の逸文などからも阿波の国造や地方伝承が存在したことが窺えるが、記紀では大和朝廷の視点から四国全体が語られ、阿波の政治的主体性は描かれていない。考古学では、吉野川流域の集落規模や副葬品から、ヤマトと緊張関係にあった勢力もあり得ると推測される中、記紀にはそうした衝突や対等交渉の痕跡が見当たらないのが矛盾する点なのだ。
瀬戸内海沿岸として、阿波もまた海上交通の要衝だった。遺跡からは九州・近畿双方の土器や鉄器が見られ、交流のハブとして機能していたことが伺える。しかし、これほどの交流拠点であったにも関わらず、記紀では阿波に関するエピソードが極端に少ない。国家形成期における海路の重要性を考えれば、明らかに史書の記述が不足している。記紀編纂者が四国方面の伝承を軽視・取捨選択した結果と考えられ、考古学が明らかにした広域ネットワーク像と合致しないのだ。
(奈良大和地域の矛盾点)
奈良(大和)は記紀の舞台そのものだ。神武天皇の大和建国から始まり、以降の天皇系譜や政治事件の中心地だ。記紀は基本的にヤマト朝廷の正統性を語る史書で、大和については詳細で都合の良い記述がなされている。たとえば、神武東征では長髄彦ら土着勢力を破り畝傍山東南に橿原宮を開く話、崇神天皇期以降の条では大和を起点に各地へ将軍を派遣し平定する物語などだ。
奈良盆地には最古級の大型前方後円墳である箸墓古墳(3世紀中頃か)がある。考古学者の多くは箸墓古墳を邪馬台国女王・卑弥呼の墓と関連付けているが、記紀には卑弥呼に該当する人物の記述がないという重大な矛盾があある。中国の史書『魏志倭人伝』に詳しい3世紀の女王卑弥呼の統治と、大和朝廷の初期天皇(神武~開化天皇あたり)の年代は合っていない。記紀編纂者は卑弥呼を無視または別名に置き換えた可能性が指摘されているが、考古学・文献学からは3世紀の大和に女性支配者がいた可能性が高いのだ。この点は記紀と真実の歴史の最大の食い違いの一つだ。
大和の古墳年代測定によれば、初期ヤマト政権の成立は3世紀後半から4世紀初頭と考えられる。しかし、記紀の年代では初代神武天皇即位を紀元前660年とし、初期天皇が数百年にわたり存在したとされる。これは明らかに考古学的編年と合致せず、神話的潤色だ。前方後円墳が各地に普及する時期(4世紀)と記紀の崇神・垂仁朝あたりを対比すると、その齟齬が顕著となる。
奈良盆地でも、ヤマト政権成立前に独自の勢力や集落があった。纒向遺跡(まきむく、現桜井市)は邪馬台国との関連が論じられる3世紀の巨大集落跡で、各地の土器や交易品が見つかる連合的祭祀センターだった。記紀はこの纒向文化について何も触れず、神武の建国物語から一気に大和朝廷の話へ進む。つまり考古学で極めて重要な纒向遺跡の存在(邪馬台国中枢の可能性)を、記紀は全く伝えていないのだ。何か不都合があったのだろう。
ヤマト政権内でも有力豪族(葛城氏・平群氏・物部氏など)が権勢を誇り、古墳を築いた。しかし記紀はそれら豪族の繁栄や対立について制限的にしか記さず、天皇中心史観に沿って整理している。考古学では、巨大古墳の被葬者が必ずしも天皇ではなく地方豪族・宗族である例が多く、ヤマト内部の権力多元性を示している。この点、記紀の単線的皇統譜と合致しない。
(東北蝦夷地方の矛盾点)
東北地方は、記紀の時代には「蝦夷(えみし)」の地として知られる。『日本書紀』や続日本紀では、朝廷が東北へ兵を送り「蝦夷征討」したことが記され、桓武天皇の時代(8世紀末)に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり蝦夷平定を進めた話が有名だ。しかし、記紀自体(8世紀初頭成立)は蝦夷について断片的な言及しかせず、古代の東北は「化外の地」と位置づけられている。また、アラハバキ神など東北独自の伝承は記紀には現れない。
東北北部から北海道にかけては、弥生時代に稲作農耕文化が限定的で、土着の続縄文文化や独特の土器(擦文文化への移行期)が継続していた。考古学的に見ると、古代東北の住民(蝦夷)は文化的には和人とは異なるが、アイヌの祖先とも断定できない混在集団だった。記紀は東北を一括して「エミシ」と呼ぶが、考古学は地域ごとの多様性を明らかにしており、記紀の単純化とは合致していない。
7から9世紀にかけ、朝廷は多賀城(宮城)や秋田城などの城柵(じょうさく)を東北に築き、軍事・行政拠点とした。これらの遺跡からは役所跡や大量の木簡が出土し、ヤマト政権の統治が及んでいった実態が判明する。しかし、その過程は主に『続日本紀』『日本後紀』などで記録され、記紀の範囲外だ。記紀では垂仁天皇や景行天皇の時代に東北遠征神話(四道将軍の派遣)を仄めかす程度で、考古学が証明する律令国家の拡大過程とは時代も内容も整合していない。
注目すべきは、東北南部(宮城・福島)には5世紀以降、前方後円墳がいくつも築かれていることだ。ヤマト勢力が東北南端まで影響力を及ぼしたか、あるいは在地豪族がヤマト風儀礼を取り入れた証拠とされる。しかし7世紀以降、東北の古墳は衰退し、代わって平地や山間に横穴墓や無墳丘墓が現れる。これは東北がヤマトの直接統治下に入らず、独自の埋葬文化を保ったことを示している。記紀はこの変化を伝えず、終始「征服すべき蛮族の地」として概念的に扱っており、地域史の実態と記述にギャップがあるのだ。
(まとめ)
各地域の分析から浮かび上がるのは、『記紀』が8世紀初頭の中央集権国家(ヤマト朝廷)を正当化する史観に基づき、実際の各地の古代史を単純化・改変して記録しているということだ。その結果、考古学的発掘成果と以下の点で矛盾が生じている。まずは、年代のズレだ。記紀に記載の年代(神武紀元や天皇在位年)は考古学の編年と大きく食い違う。次に、記紀未記載の重要遺構についてだ。各地に存在する大規模遺跡・古墳・祭祀遺物(纒向遺跡、荒神谷遺跡、志賀島金印、淡路・阿波の銅鐸など)は記紀で全く触れられないか軽微な扱いになっている。そして、地方勢力の独立性と 記紀での従属描写が少ないあるいはないのだ。出雲・吉備・筑紫など、ヤマトと拮抗し得た地方政権の証拠があるにもかかわらず、記紀ではそれらを従属的立場や反逆者として描き、中央への服従を強調しているのだ。
以上の矛盾点は、最新の考古学研究によって次々に明らかにされている。一次資料としての発掘報告や年代測定結果、そしてそれらを踏まえた研究論文を参照することで、神話や伝承の陰に隠れた真実の古代史が浮かび上がりつつある。考古学と歴史学の学際的アプローチが、記紀の記述を相対化し再検討する契機となっていり。このような照合により、日本古代史の理解はより立体的で実証的なものへと発展している。実に興味深い。