40万年前から人類は火を活用していた

2025年12月19日 金曜日

早嶋です。約4,700文字。

先日、「人類が火を使い始めたのは、約40万年前だった可能性が高い」、という記事を読んだ。これまでは、火の使用は5万年前後という説明だった。ホモ・サピエンスが登場し、旧石器時代後期に入ってから、ようやく火を自在に扱うようになったという理解だった。それが覆される可能性が高いのだ。イギリスの遺跡で、約40万年前の地層から、焼土、炭化物、熱変形した石器が見つかっている。しかも、それらは洞窟の奥深く、自然火災では説明しにくい場所に集中しているという。もちろん、慎重な議論は必要だ。火を「使った」ことと、「自分たちで火を起こして使った」ことは違うからだ。

自然に起きた火を、たまたま利用した可能性も否定はできない。それでも、同じ場所で繰り返し火が使われていた痕跡は、偶然とは考えにくい。もしこれが事実なら、人類は40万年前から、火を生活の中に組み込んでいたことになる。火は、単なる道具ではない。暖を取り、肉を焼き、夜を明るく照らし、集団は火を囲ってコミュニケーションを取り、獣を遠ざけた。火は、人類の生活をアップデートしたのだ。まさに文明の原型のような存在なのだ。

記事を読んで、日本ではいつ頃から火を意図的に使い始めたのか気になった。調べて見ると、日本列島で、人が火を使っていたとされる確実な考古学的証拠は、
世界の最古例と比べると、かなり新しかった。現在、慎重に認められているのは、約3万年前から4万年前で、旧石器時代後期の炉跡や炭化物が見つかっている。その象徴が、群馬県の岩宿遺跡だ。1949年、この遺跡の発見により、日本にも旧石器時代が存在したことが確定した。

それまでは、「日本に旧石器はない」という説が、半ば常識だった。岩宿遺跡以降、日本各地で旧石器遺跡が見つかっている。だが、40万年前や100万年前といった超古代の人類痕跡は、現時点では確実な証拠としては認められていない。このことは、日本考古学の歴史的な文脈も関係している。かつて、日本列島に非常に古い人類がいたとされる遺物が発表されたことがあったが、それが後に捏造だったと判明した事件がある。その経験もあり、日本の考古学は現在、年代測定に極めて慎重な立場を未だ取っているそうだ。つまり現在の考古学では、日本で確実に語れる人類史は、3万年から4万年前以降から始まるのだ。

ここで思考を整理する目的で、人類史を考えるうえで、火と並んで重要な、石器と土器について調べてみた。石器は、火よりもはるかに古い。アフリカでは、約260万年前の石器が見つかっている。石を割り、削り、切る。それは身体の延長であり、生き延びるための工夫だった。一方、土器は違う。土器は、火の制御なしには成立しない。土を焼くには、一定の温度と時間を管理する必要がある。つまり、火を「生活に組み込む」段階に入って、初めて土器が生まれるのだ。

石器は、生存のための道具で、土器は、生活構造そのものを変える技術だ。日本で最も古い土器は、約1万6千年前、縄文草創期のものとされている。世界的に見ても、これはかなり早い。そして、その後の縄文土器は、単なる器を超えて、強い装飾性を持つようになる。何気ない縄文式土器を見て、アートだと思った記憶はないだろうか。そう疑問だらけだ。「なぜ、わざわざ文様をつけるたのか?」と。文様は、生き延びるためには不要だったと思う。それでも縄文人は、時間と手間をかけて文様を刻んでいる。その手がかりを考えるために再び視点を世界に向けてみよう。

日本に人が来る以前、世界では何が起きていたのだろうか。人類の最古級の痕跡は、アフリカにある。タンザニアのオルドヴァイ渓谷では、約260万年前の石器が見つかっている。エチオピアでも同時期の石器群が確認されている。そこから人類は、少しずつアフリカを出ていく。ジョージアのデマニシ遺跡では、約180万年前にユーラシアへ進出した人類の痕跡が見つかっている。南アフリカでは、10万年前にはすでに装飾や象徴行動の痕跡がある。イギリスでは、約50万年前の狩猟と協力行動の証拠が残っている。中東やエジプトには、数万年前から人類が定着し、やがて文明へと進んでいく。

こうして見ると、ひとつの事実が浮かび上がる。アフリカ最古の石器が260万年前。日本の確実な人類痕跡が3万年から4万年前。つまり約250万年の時差があるのだ。これは、日本が遅れていたからではないのだ。日本列島は島だ。最終氷期で海面が下がっても、完全に陸続きにはならない場所が多かった。日本に到達するには、海を越える必要があったのだ。つまり、舟を作る技術。潮流を読む力。集団で判断し、リスクを引き受ける能力。つまり、日本は「歩けば着く土地」ではなかったから、人類が日本に到達するには、火、道具、言語、集団性といった装備が、ある程度そろう必要があったのだ。そのため日本列島は、人類拡散の終端に近く、到達点としての意味を持つとされる。

再び、日本に視点を戻そう。岩宿遺跡は、日本人類史の出発点と考えることができる。そこから縄文文化が始まるのだ。縄文文化の特徴は、「余白」かも知れない。縄文人は狩猟採集民だが、食料源は非常に多様だった。森があり、川があり、海がある。一種類の作物に依存する必要がなかった。考古学的にも、縄文時代には大規模な戦争の痕跡がほとんど見られない。極端な階層差も確認されにくい。そして、土器には文様がある。生存には不要な、余計とも言える装飾だ。これは、単なる技術の未熟さではない。逆に、「やらなくてもいいこと」をやる余裕があった社会だった可能性を示しているのだ。

3000年から5000年前、日本列島には弥生的な要素が流入し始めた。稲作、金属器、効率、成果などだ。一方で、縄文的な生活様式もすぐに消えたわけではない。
日本は、縄文と弥生が並行し、混ざり合いながら進んだ、少し特異な地域だった。

同じ頃、世界では何が起きていたのか。メソポタミアでは、チグリス・ユーフラテス川の氾濫に対応するため、治水と灌漑が不可欠になった。放っておけば洪水で流され、干ばつでは作物が育たない。個々人がバラバラに暮らしていては、生き延びることができなかった。水を管理し、労働を分配し、収穫を記録する必要が生まれる。その結果、都市が生まれ、文字が生まれ、国家が形づくられていく。

エジプトも同じだ。ナイル川の定期的な氾濫は、豊穣をもたらす一方で、制御を誤れば命に直結する。氾濫の時期を読み、農地を配分し、共同体を統率する存在が不可欠だった。王権と宗教が結びつき、「秩序」を維持する仕組みが体系化されていく。

中国でも、黄河や長江という大河が、人々を集めた。黄河は「暴れ川」と呼ばれるほど流路を変え、放置すれば集落は簡単に壊滅する。ここでも、治水と統治は切り離せなかった。青銅器と王朝は、技術の進歩というより、不安定な環境に対する集団的な回答だった。

つまり、これらの文明は、「高度な文化を作ろうとして生まれた」のではない。作らなければ生き延びられない環境に置かれた結果として、都市・国家・文字・宗教が選ばれたのだ。その意味で、文明は進歩ではない。環境への適応の一形態にすぎないのだ。

ここまで整理すると、日本列島の姿が違って見えてくる。日本列島は、水に恵まれ、森があり、海があり、食料源が分散していた。一種類の作物に依存せずとも、狩猟・採集・漁労で生きていける。大河の制御を誤れば即死、という環境ではなかった。人々が分散して暮らしても、致命的なリスクは比較的小さかった。だから、日本では、国家を作らなくても生き延びることができた。文明化は「必須」ではなかった。

それでも、外から稲作や金属といった技術は入ってくる。効率や成果を重視する弥生的な生き方も、確かに合理的だった。だが同時に、縄文的な余白や意味の世界も、簡単には捨てられなかった。ここでようやく、「文明のパラドックス」が見えてくる。文明を定義するのは、文明を持った側だ。文字を持ち、都市を持ち、記録を残した側が、「文明」を語る。記録を必要としなかった社会は、自然と歴史の外に置かれてしまう。

だがそれは、「遅れていた」からではない。文明を必要としなかった環境に、適応していただけなのだ。この視点に立つと、日本が文明化を急がなかった理由も、縄文と弥生が並行して存在した意味も、単なる特殊性ではなく、ひとつの合理的な選択として見えてくる。

再び、思考の方向性を現代に戻してみよう。この100年で、世界は激変した。気温は上がり、気候は不安定になり、自然環境は変わり続けている。本来なら、人類はこうした環境変化に適応するため、生活を引き締め、無駄を削ぎ、文化をそぎ落としていくはずだ。それが、これまでの人類史の基本的な流れだった。

だが、現代は違う。決定的に違うのは、変化の速度だ。まず、1000年という時間軸で見てみる。1000年前といえば、中世だ。日本では平安時代の終盤から鎌倉時代にかけての頃。世界を見ても、移動手段は徒歩か馬、情報は口伝か写本、医療は経験と祈りに近いものだった。この1000年の間に、人類は農業を洗練させ、国家を作り、宗教や思想を整え、社会制度を積み重ねてきた。文明は、この1000年単位の時間の中で、ゆっくりと環境に適応してきた。

次に、100年という時間軸だ。100年前は、20世紀初頭だ。電気はまだ一部のものだった。飛行機は黎明期、電話も限られた場所にしかない。平均寿命は短く、感染症は身近な死因だった。そこからの100年で、人類は電力網を張り巡らせ、車と飛行機で世界を結び、抗生物質を手に入れ、情報を電波と回線で飛ばすようになった。

ここで初めて、人類は環境に「適応する」だけでなく、環境を「制御する」段階に足を踏み入れた。暑ければ冷やすし、寒ければ暖める。遠ければ運ぶこともできる。そして病気は治す。生存の条件そのものが、大きく書き換えられたのだ。

そして最後に、10年という時間軸がある。この10年の変化は、質が更に違う。スマートフォンが生活の前提になり、SNSが人間関係の構造を変え、情報が一気に民主化された。クラウドとAIが思考や判断の一部を代替し始めている。10年前と比べるだけでも、情報の量と速度、比較される範囲、評価される頻度は、桁違いに増えた。これは、農耕革命や産業革命とは違う。人間の認知や感情が追いつく前に、社会の前提が書き換わっていく変化だ。

ここで、重要なズレが生まれた。人類の身体や脳は、100万年単位で形成された。危険を察知し、集団の中で位置を確認し、安心できる環境で休息するようにできている。文明は、1000年単位でそれを包み込んできた。制度や宗教、慣習が、人間の不安をなだめる役割を果たしてきた。だが技術は、100年、10年という単位で、その包みを突き破ってしまった。結果として、私たちは今を生きる。

環境には抗える。暑さ寒さで死ぬことは少なくなった。食料も医療も、かつてより安定している。それなのに、人は穏やかではない。満たされない。常に何かに追われている感覚がある。これは矛盾ではなく、技術進歩でもなく、その感覚に人間の生物としての感覚が追いついていないのだ。

生物としての人類の時間軸。文明としての人類の時間軸。技術としての人類の時間軸。この3つが、初めて大きくズレたのだ。だから今、人は「余白」を求めているように感じる。自然、静けさ、意味、遊び、無目的な時間。それは懐古でも逃避でもない。100万年単位で形成された人間が、10年単位で変わる世界の中で、自分を保つための自然な反応なのだ。

さぁ、久々にPCを置いて、山に籠もって焚き火をしてぼーっとしてみよう。

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