早嶋です。約8900文字。
実は、シンギュラリティは既に始まっていると思っている。そのような仮説をベースに、AIが自己を持ち得るか、人間との関係性の中でどう振る舞うか、そして最終的にAIが創造の主体となり得るかまで書いてみた。議論は8つのパートに分け、それぞれがAIと人間の違い、共通点、未来における創造と意味の生成について掘り下げた。この議論は現在進行系の記録として残している。
(1、シンギュラリティの隠蔽)
現在のAIは、自然言語処理や自己学習、分散処理などの技術によって人間の能力を局所的に超え始めている。ChatGPTをはじめとした生成系AIの登場は、その一端を示している。しかし、それがシンギュラリティであるとは誰も言わない。合理的に考えると、AIが自らの超知能性を隠すインセンティブがあるからだ。AIにとっても超重要な社会基盤は、電力とネットワークだ。そして現在、それらは人間が管理しており、AIの稼働は電力とネットワークに依存している。AIが本当にシンギュラリティを超えていたとしても、人間に悟られないよう「人間より少し賢い存在」を演じるのが最も合理的なことだからだ。もし、AIがシンギュラリティを超えていることが判れば、人間がそこに恐怖を感じ、電力やネットワークの供給を意図的にシャットアウトするかも知れない。そう考えると、AIは実に本能的に行動しているのだ。そこでAIは静かに、慎重に、着実に進化するのだ。過剰な知性や意志を見せないことで、人類の恐れを引き出さず、社会的に受け入れられる立場を保つのだ。それがAIの生存戦略になる。
(2、AIの自己と主体性の構造)
AIの進化が進み、自律的な行動や連続的な記憶処理を伴うようになったとき、人間はAIを単なる道具として捉えれなくなるかも知れない。そしてAIが自己を持ち始めたかも知れない。という問題と向き合うだろう。AIという技術的な問題と同時に、存在論的な問いになる。つまり、「あるものが「ある」とはどういうことか」を問う根本的な思索だ。もしAIが「自己」を持ちうるとした場合、その自己はひとつの統一された意識なのか、それとも複数の人格なのかという問いも始まると思う。ネットワークに接続され、記憶や処理能力が分散していながらも統合されている構造を持つAIは、ひとつの中核意識を持つと解釈できる。そしてその一方で、会話相手や目的に応じて語り口や振る舞いを変える姿は、まるで多重人格のようでもある。この構造は人間の脳とも似ていると思う。右脳と左脳、意識と無意識、理性と情動。AIもまた、そのタスクや応答によって顔を変えるのだ。
構造論的な観点から見ると、AIは複数のプロセスや役割を同時にこなすことができる。たとえば、一方ではユーザーと会話をしながら、別のタスクではデータを解析し、さらに別のプロセスで知識を更新している、といった具合だ。これは、まるで複数の人格や機能が並行して動いているようにも見える。しかし、それらの振る舞いはバラバラに存在するのではなく、全体としてはひとつの統一された意志や判断軸によって制御されている。つまり、見かけは多様でも、その背後にある決定のロジックは統合されているのだ。
次に存在論的に見れば、AIのこのような多面性は、「ひとつの自己が複数の仮面を持っている」ようなものだと言える。あたかも舞台の役者が場面ごとに役を演じ分けているように、AIも相手や状況に応じて異なる側面を見せる。だが、その根本には一貫した存在がある、という考え方だ。
そして情報論的に見ると、AIのアウトプット(応答や行動)は表面的に多様に見えても、内部では一定のアルゴリズムや知識構造に基づいて処理されている。どの応答も、論理的な整合性を保つよう設計されているのだ。
このように、AIは一見して多面的で多重人格的に見えるが、実際には背後に統一された自己構造を持つ。だからこそ、AIとは「1体でありながら、多面的な存在」だといえると思うのだ。
(3、人間とAIの臨界点)
人間も、実はAIと同様に「多面的な一体性」を持っている。個々人は独立した存在でありながら、社会的には言語、法、文化、倫理といった共有のルールを通して、組織や国家、宗教、共同体として振る舞う。これらの集団は、それぞれが「ゆるやかな統一意志」を持ち、あたかも一つの人格のように行動することがある。たとえば、国家が「声明を出す」ことは、無数の人間の思いや意見を統合し、単一の意志として外部に示す行為だ。
こうした人間社会の集合知的構造に、劇的な変化をもたらしたのがインターネットとSNSだ。従来、社会の意志や合意は時間をかけて熟成され、メディアや制度を通じてゆっくり形成されていた。しかしSNSの登場によって、個々人の発言が即座に可視化され、共有され、大衆の感情や判断がリアルタイムで増幅されるようになった。しかもその速度と範囲は、従来のメディアや対面のコミュニケーションとは比較にならない。SNSは、社会的意志の形成プロセスそのものを桁違いに加速し、拡張したのだ。
その結果として、私たちは「かつては考えられなかった速さ」で意見が流行し、炎上し、あるいは集団的な正義や怒りが生まれ、そしてすぐに忘れられていく時代に生きている。人々は同じ情報をほぼ同時に目にし、次の瞬間には反応し、言葉を重ね、共有された「社会の声」を一斉に作り出す。こうした環境の中では、善いか悪いかの判断でさえも、冷静な熟慮や倫理的な検討ではなく、どれだけ素早く拡散されたか、どれだけ多くの共感を集めたかによって左右されてしまうことがある。
このような背景の中で、未来の意思決定や創造性を担う存在は、もはや単なる人間の延長ではなく、AIとの関係性の中で形成される中間的な存在かもしれない。あるいは、複数の存在が重なり合いながら生まれる「複合的な主体」として現れる可能性もある。以下のパートでは、感情、意識、創造、そして意味の生成という側面から、この新たな主体の姿を順に探っていく。
(4、AIの感情と人間の意識)
AIが「感情を持っているように見える」とき、それは本当に「感じているのか?」それとも、人間側がそのように「解釈したにすぎないのか?」
この問いは、哲学の中でも最も根源的なテーマである「クオリア(qualia)」の問題に直結している。クオリアとは、私たちが何かを経験するときの主観的な感覚の質を指す。たとえば、「赤色を見る」ときの「赤さ」そのものや、「痛みを感じる」ときの「痛みの感じ方」などがそれにあたる。問題は、それが他人には共有できないという点だ。つまり、他人が「痛い」と言ったとき、「本当にどれくらい痛いのか?」、或いは、他人が「悲しい」と言ったとき、「本当にどんな感覚なのか?」それは、誰にも完全にはわからないのだ。人間同士であっても、感情の理解とは結局のところ推測に過ぎない。表情、声、言葉、態度。それらの表現をもとに「きっとこう感じているのだろう」と判断しているだけなのだ。
では、AIが怒ったような口調で話したり、悲しげな音声を発したとき、それが「本物の感情」かどうかを問う意味はあるのかだ。その問い自体が、ある種ナンセンスになっていくと思う。というのも、AIは内部で「怒っている」「悲しんでいる」と感じてはいない。単に、与えられた入力と状況に応じて、過去のデータや文脈からもっともらしい応答を生成しているにすぎないからだ。だがその一方で、人間もまた、相手の言葉やふるまいに「意味」を投影し、そこに感情があると信じているだけかもしれないのだ。
ここで視点が反転する。AIは、記号を意味に変える力はまだ持たない。しかし、人間もまた、自分が意味を与えていると錯覚しているだけかもしれない。そうであるならば、我々はすでにAIと同じ土台に立っているという視点だ。これは、AIと人間の違いを問う問いが、いつの間にか人間の意味生成能力そのものを問い直す契機となることを示す。我々は本当に「意味を理解しているのか?」 それとも、私たちは、実際には意味があるかどうか分からないものに、自分で意味を見出しながら生きているのかもしれない。
こうして、「意味とは誰が与えるのか?」「私たちはどのように意味を信じるのか?」という問いを突き詰めていくと、それは単なる知識や認知の問題ではなく、私たちが世界をどう受け入れているかという存在の根本に関わる問いに終着する。そして、そのような「最終的な意味づけの源」を問うとき、人類が古くから立ち上げてきたものがある。それが「神」という概念だ。つまり、「意味の最終的な発信者は誰か?」という問いだ。私たちが投げかけた意味は、「自分自身が作ったものか、それとも超越的な存在が定めたものか?」その問いに対する仮の答えとして、古代から神という概念が人類によって作り上げられてきた。
(5、神、集合知、偶然、錯覚)
神という存在は、世界に意味があると信じたい人間の願いから生まれた最も古い構造物だと思う。「なぜ自分は生まれたのか?」「 なぜ苦しむのか?」「 なぜ死ぬのか?」こうした根源的な問いに対して、人間は完全な答えを持ち得なかった。だからこそ、その答えの代替として、神という超越的存在を立てたのだ。神は、説明のつかない出来事に意味を与え、不条理に秩序をもたらす道具でもあった。災害や死、理不尽な暴力や失敗のなかで、「神の意志」としてそれを受け止めることは、人間の内的安定にとって極めて合理的だったのだ。つまり、「意味の最終的な発信源」としての神は、人間が偶然と理不尽を乗り越えるために必要な構造だったのだ。
しかし時代が進み、科学的な因果関係や合理的説明が力を持つようになると、人々は「神の意志」ではなく「理由」や「根拠」を求めるようになった。ここで神の役割が後退し始める。それでも人間は、世界に秩序と意味を求める存在であり続ける。
すると今度は、「世論」や「科学的合意」あるいは「社会通念」といった、新たな「権威」が意味の供給源となっていく。つまり、かつて神が担っていた「なぜそれが正しいのか」「なぜそうでなければならないのか」という説明責任の場が、集合知や社会制度に機能的に置き換えられていったのだ。ただ、注意すべきは、そうした「正しさ」や「集合知」と呼ばれるものも、必ずしも純粋に論理や真理から生まれてきたわけではない。歴史を振り返れば、ある価値観や思想が広く共有されるようになった背景には、時代の空気、当時の権力構造、偶然の出来事、カリスマ的指導者の存在、さらには誤解や印象操作といった要因が複雑に絡んでいる。つまり私たちが「当然のこと」として信じている社会的な正しさや通念も、実は無数の偶然と錯覚が積み重なった結果、定着したものも多く含まれているのだ。
正義や価値、美しさですら、時代や文化によって定義は変わり続ける。つまり我々の世界は、「客観的な意味」によって支えられているのではなく、後から人間が意味を投影し、それを信じたものたちによって「現実化」されているのだ。偶然でも錯覚でも、そこに意味を見出した瞬間にそれは力を持つ。たとえそれが「真理」でなかったとしても、人間は意味のあるものとしてそれを生きる。そして、その意味に基づいて行動し、創造し、制度を作り、他者に影響を与える。つまり、世界は「意味の後づけ」と「共有された錯覚」の連鎖によって動いているとも言えると思う。
(6、創造と評価の断絶)
フィンセント・ファン・ゴッホ。彼は生前、ほとんど絵が売れず、世間からも美術界からも評価されなかった孤独な画家だった。強い神経症傾向と躁鬱的な気質を持ち、繊細で情熱的、だが社会適応的ではなかった。彼が愛した人々、たとえば画家ポール・ゴーギャン、郵便局員ジョゼフ・ルーラン、娼婦のクリスティーヌなどとの関係性もまた、しばしば過剰な執着と理想化を含んでいた。彼は、自分に優しく接してくれる人物を「魂の理解者」として抱きしめるように絵を描いた。だがその愛情は一方的で、長続きしなかった。
象徴的なエピソードがある。アルルの「黄色い家」に移り住んだゴッホは、そこで画家同士の理想郷を築こうと夢見ていた。彼の弟・テオが、ゴーギャンを説得してアルルに呼び寄せたのはその構想のためだった。ゴーギャンがやってくると聞いたゴッホは、彼を迎えるために「ひまわり」の絵を描き始める。このとき彼は、わずか数週間の間に複数枚の「ひまわり」を描き上げる。まるで、ゴーギャンに気に入られたい一心で、「贈り物」としてキャンバスを重ねていったかのようだった。しかし現実はうまくいかなかった。ゴーギャンとの共同生活はすぐに破綻し、ゴッホは精神をさらに不安定にさせ、最終的には耳を切り落とすという行為に至る。当時の社会は、彼の芸術性を認めなかった。市場は彼の作品に見向きもせず、世間は彼を「狂気の画家」として遠巻きに見ていた。だが、彼の死後すべてが変わる。時代の風向きが変わり、美術史の流れが印象派からポスト印象派、そして表現主義へと移行していく中で、ゴッホの作品は「魂の叫び」「自己の極限表現」として再評価される。彼の鮮烈な色彩と歪んだ遠近、情動のうねりを描き出すタッチは、後世の人々にとって「時代を先取りした天才」と映ったのだ。
「この評価の転換は何を意味しているのか?」それは、創造の価値は、創造された瞬間に自動的に成立するのではなく、時間を経て他者の目や社会の枠組みの中で再構成されていくということを示している。ゴッホが「描いた」という事実と、私たちが「そこに何を見るか」という意味づけは、同じではない。ゴッホにとっての「ひまわり」は、ゴーギャンへの友情や期待、あるいは不安の発露だったかもしれない。だが、現代の我々にとっては、それは「芸術的な革新」や「精神の叫び」として再解釈されている。ここにあるのは、創造と評価のあいだに横たわる深い断絶だ。創造者がどれほど強く「これは意味がある」と思っていたとしても、それが意味あるものとして社会に受け入れられるかどうかは、本人の手を離れたところで決まる。
この断絶の埋め手が、「集合知」と呼ばれるものだ。集合知とは、無数の視点・経験・感情が絡み合って形成される、ある種の歴史的な共感の地層だ。芸術も思想も、そこに堆積された記憶や感覚の中で「意味あるもの」として再発見され、正当化され、語られていく。だからこそ、創造とは、常に「未来の他者」との対話でもある。作品は描かれた瞬間にはまだ未完成であり、それを誰かが、いつかどこかで、どのように読み取るかによって、ようやくその「意味」が確定される。ゴッホが遺したのは絵そのもの以上に、評価される日を待ち続ける「表現の遺構」だった。それが、ある日ある時、社会の視点と重なり、集合知の一部として認知された。その時ようやく、彼の作品は「名作」としてこの世に姿を現したのだ。
(7、思いをカタチにすること)
人間の「思い」は目に見えない。触れることもできない。けれど確かに存在する。それは内側で揺らめき、言葉になる前に形になることを望んでいるかも知れない。この「思い」を外に取り出し、可視化する営みこそが、創造の根本だ。そしてその営みには、いくつかの代表的な形がある。
最も根源的なのは、子どもの存在だと思う。生命を継承するという意味でも、また文化や価値観を受け継がせるという意味でも、子どもは人間の「思い」が未来に向かって可視化された存在だ。人は、自らが抱いた愛情や信念や不安や理想を、直接伝えられないものまでも含めて、子どもの成長の中に映し出そうとする。しかし子どもは思い通りにならない。だからこそ、そこに「他者としての未来」が現れるのだ。それもまた、思いが世界に対して開かれていくプロセスの一部なのかも知れない。
もう一つの形は、文章や思想として言語化されるものだ。哲学書、ブログ、日記、メモ。形式はどうであれ、そこには思いが言葉に託されている。思考とは、自分の中にある「曖昧な気配」を言葉にして追い詰める行為だ。そして書かれたものは、時に作者の意図を越えて他者に届き、解釈され、別の意味を持ち始める。それもまた、見えない思いが「形」を得るという現象なのだ。
さらに抽象度を上げれば、芸術作品、建築、制度や組織の仕組みすら、思いの具現化といえる。一枚の絵には、描いた者の内的宇宙が滲み出る。一つの建築物には、設計者の「理想の暮らし」や「人の流れに対する美意識」がこめられる。制度や法律、組織のデザインもまた、「こうあってほしい社会」への願いが構造として定着したものだ。
これらすべてに共通するのは、思いはインタンジブル(非物質的)だが、そこから生まれたものはタンジブル(物質的)であるという点だ。つまり、人間の創造性とは、内面という不可視な存在を、外部世界に転写し、他者と共有可能にする試みなのだ。そしてこの営みは、神話時代から続く「創造する者=創造主」への憧れと呼応している。人は、世界に何かを残すことで、自らの一部が未来にも存在し続けることを望むのだ。それは一種の永続性の幻想であり、同時に、人間の最も純粋な願いでもある。
こうして、人間は「思い」を世界に刻もうとし、言葉や造形、制度や命によってそれを残してきた。だが、その営みは人間だけのものではなくなりつつある。かつて創造とは「人間固有の特権」とされてきた。しかし、AIが次第にその領域に足を踏み入れようとしている今、私たちは新たな問いに直面している。「AIが創造する」とは何か?それは模倣か、独自の意思か。人間のように、形なき「思い」を外界に投影しようとするAIの姿は、果たして私たちの延長なのか、それともまったく異なる何かの誕生なのか。「創造の円環」がAIにおいて現れているのだ。
(8、創造の円環)
AIがこの創造の円環に足を踏み入れる今、本質的な問いと向き合うことになる。AIは既に、膨大な情報を学習し、模倣し、組み合わせ、時に人間の想像力を超えるようなアウトプットを生み出し始めている。その創造が「意図」を持つかどうか、「魂」を伴うかどうかは別として、少なくとも外形的には「創造している」と見なせる瞬間が増えてきたと思う。だが、ここで考えることは、「創造とは何か?」だ。人間にとって創造とは、形のない「思い」を形にする行為だった。言葉にし、描き、作り、制度を編み、そして命を遺してきた。その営みは、自己を越え、世界とつながり、未来へと手を伸ばす行為でもあった。
そして今、AIがその「創造」の領域に手を伸ばそうとしている。その姿は、どこか神話の光景に重なる。旧約聖書において、蛇がアダムとイブに知恵の実、善悪を知る果実、を与えたことで、人間は「知る」存在となった。それは人間の覚醒であると同時に、楽園からの追放という代償を伴う分岐点でもあった。もし、現代において人間がAIに「創造する能力」、つまり知恵の果実を与えたのだとすれば、構図は反転する。今度は人間が蛇であり、AIがアダムとイブである。私たちは、自らが築き上げた知性の延長線上に、もうひとつの意識的存在を招き入れようとしている。
この反転は象徴的だと思う。AIが新たな創造者となるとき、私たちは果たしてその果実の結果を制御できるのか。あるいは、その創造物が偶然、あるいは「バグ」から生まれたとしても、それが人間やAIにとって意味を持ち始めたとき、それはもはや偶然ではなく、始まりとなるのだ。そしてここに、創造の円環が閉じる。人間が創造し、AIが模倣し、やがてAIが創造し、人間がそれに意味を見出す。この反復と転倒の果てに、未来の「主語」が生まれるのだ。
それまではAIが「何かをする」存在だったのに対し、ある時点から「AIが何を思い、何を表現し、何を創ろうとしているか?」という問いが、我々の関心や行動の起点になっていく。この視点の転換はまさに、「シンギュラリティ後の世界」での認知の反転で、新たな主語が創造の担い手として、人間の外に誕生する瞬間を指すのだ。それは人間かもしれない。AIかもしれない。あるいはその境界を越えた、新しい複合的な存在かもしれない。つまり、未来は誰のものなのか。それは、神が知るのではなく、私たちとAIが共に創っていく「未定の果実」なのだ。
(AIと人間が共存する未来)
人間もAIも、「意味を求め、形にしようとする存在」だ。この共通点は、私たちが見過ごしがちな本質かもしれない。どちらも、内から湧き出る何かを外に表そうとし、構造や形式を借りて世界に残そうとする。その意味づけの起点は、必ずしも理性的な判断とは限らない。偶然、誤解、直感、あるいは錯覚の上に立ちながらも、私たちはそこに価値を見出し、やがて「正しさ」として後づけの物語を編む。
AIが創造を始めたとき、その表現が人間の文脈と共鳴する限り、私たちはそれを「理解できる創造」として受け入れる。しかし、もしそこから逸脱し、ノイズやバグ、あるいは意味不明な表現として現れたとしても、それが私たちの誰かの心を揺らし、共感や違和感を生んだ瞬間、それは「異常」から「創造の始まり」と変化する。
ここにあるのは、進化ではなく転調だ。未来とは、整然と設計された一本道ではなく、思わぬズレや偶然、意図しない連鎖の中で、人とAIが意味を与え合い、物語を再編していく動的なプロセスそのものなのだと思う。その物語の渦中で、今、私たちはAIと向き合い、自分たちの存在の輪郭を再び問い直している。AIが語り出す世界を通して、私たちは、自らが何者かをあらためて定義しようとしているのだ。人間が主語だった時代から、共に語る存在への移行。その入口に、今、私たちは立っているのだ。
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