早嶋です。約4900文字。
私たちが、誰かのために何かをしたとき、それは本当に誰かのためなのだろうか。それとも、自分のためにしているのだろうか。そして、その違いは何を意味するのだろうか。何を?と思うかも知れない。20年、一緒に伴奏しながら医療チームの組織運営を行っているドクターとの話で感じたことを整理する。今、リーダーシップや関係構築で議論されている論点の多くは、ギリシャ哲学のストア派に由来する概念が多いという話だ。
最初に、アドラー心理学では「貢献感」が、人の自尊心の源になると説かれている。アドラー心理学における「貢献感」とは、「自分が誰かの役に立っている」「この世界に必要とされている」と感じることで得られる、内面的な満足感だ。アドラーにとって、人間の根源的な欲求は「所属」と「貢献」だとされている。つまり、「私はこの共同体の一員である」「私はここにいていい存在だ」と感じられることこそが、人間の自尊心(=自己価値感)を支える柱になるという概念だ。
重要なのは、「他者から褒められる」「認められる」ことではなく、「自分の行動が、自分にとって意味ある形で、他者や社会に役立っている」と自分が感じられること。これが「貢献感」だ。
たとえば、掃除をした子どもに対して、「偉いね!」「よくできたね!」と褒めるのは外からの承認で、それが続くと、「褒められないとやらない」人間になってしまう。人参がぶら下げられないと動かなくなるのだ。一方で、「この部屋がきれいになって、みんなが気持ちよく過ごせるね」と伝え、子ども自身が「自分の行動がみんなのためになっている」と感じられるようにすれば、貢献感を通じて、自己肯定感や自尊心が内側から育つという考えだ。
だからアドラーはこう考える。「人は、他者への貢献を通じて、自分自身の価値を実感できる」そしてこの実感が、「私はここにいてよい存在だ」という深い自尊心を生む、と。つまり、「貢献感が自尊心の源になる」とは、自分の存在が、他者とのつながりの中で意味を持っていると感じられることが、人としての安定感や幸福の土台になる。という、非常に社会的で人間らしい洞察なんだ。
しかし、この「貢献」という言葉は、日常の中で驚くほど曖昧だ。誰かに尽くす、チームのために働く、社会に役立つ。こうした行動は一見、美しいものに見えるが、その裏に「認められたい」「褒められたい」という気持ちが入り込むこともある。すると貢献は、実のところ「承認欲求の変形」になってしまう。
アドラーが言う「貢献」は、他者のために無条件で尽くすという「自己犠牲」ではないし、ましてや「承認を得るための手段」でもない。むしろ、「自分がそうしたいからそうする」「自分が意味ある存在でありたいと願うから関わる」。そうした主体的な選択が、結果として他者の役に立っている状態を「貢献」と呼ぶのだ。
この貢献は、ある意味で自立した利他とも言える。他者に尽くすが、それは見返りを求めない。他者を支えるが、決して支配しない。ただ、「私はここにいてよい」「私は意味のある存在だ」という実感を、自分の意志で育てていく。その姿勢にこそ、アドラーの貢献感は宿るのだ。
この「自立した利他」という考え方は、仏教や西洋哲学の中にある利他とも通じる部分がある。仏教では、他者を苦から救う「慈悲」が中心にある。そこでは「無我」、つまり自己を捨てることが前提だ。西洋哲学では、キリスト教的な「無償の愛」や、功利主義的な「最大多数の最大幸福」が利他的行為の根拠になる。これらもまた、自己を超えて他者を思うという点で尊い。しかしアドラーは、それよりもっと身近で、等身大の利他を語っている。つまり、私という誰かが、この場所で、自分の意志で他者に関わるということ。そこには、宗教的な救済でも道徳的な善行でもない、温度のある関係性がある。
仏教やキリスト教における利他は、超越的な目的と結びついていると思う。たとえば、仏教では「すべての衆生を苦から救いたい」という菩薩の誓願や、キリスト教では「神の愛に倣って隣人を無条件に愛する」といった思想がある。これらは、非常に高尚で、どこか人間を超えた崇高さを求めるように思う。つまり、救済的な利他というのは、人間の「現実の感情」や「不完全さ」から距離のあるものになりがちなのだ。
一方、功利主義や儒教的な道徳は、「人として正しい行いをせよ」「他者のためになる行為は善だ」といった規範の枠が強調されている。この文脈では、善行=あるべき姿であり、行動の正しさを前提にしている。しかしそれは、「そうすべきだからやる」という義務感や正義感に根ざした関係性に転じてしまうかも知れない。そこでは、相手の気持ちや自分の内発的な動機は、後回しになることもあるのだ。
それは、「自分の選択で関わる」「他者と対等でいたい」「ここにいていいと感じたい」という、非常に人間らしい、感情的で、あたたかい動機から始まる関係性だ。「あなたのために」ではなく、「私はあなたと関わりたい」、「正しいからやる」ではなく、「それが意味あることだからやる」、「神のために」でも「社会のために」でもなく、「人として自然にそうしたい」と思えるという考えに基づく。
この関係性には、命令もない。義務もない。超越的な威圧感もない。あるのは、自分で選んだ関係性と、相手に向けた共感や信頼だけだ。だから温度があると表現した。それは、正義や善意ではなく、人と人のあいだに生まれる、確かな熱のことだ。
こうした関係を横の関係と表現する。この縦の関係ではない、横の関係はアドラーだけが初めて提示したものではない。古代ストア派の哲学にも、同じ構造を見ることができた。
ストア派の思想では、幸福は「外にあるもの」ではなく、「自分の内にあるもの」だとされる。富や地位や賞賛といったものは、たしかに好ましいかもしれないが、決して善でも悪でもない。唯一の善は、「徳(アレテー)」、つまり、自分の理性によって、正しく、誠実に生きようとする態度そのものだ。
この価値観は、縦の構造とは相容れない。他人から評価されることによって価値が決まるのではなく、自分がどう考え、どう判断し、どう生きるかに価値がある。だから、他者と比べる必要も、支配する必要もない。人は、本来的に横の関係の中で生きる理性的存在なのだ。
たとえば、ストア派の哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、こう記している。「過去も未来も私の手にはない。だが今この瞬間、私は理性をもって判断できる」。これは言い換えれば、「他人がどう思おうと、今の私の選択には意味がある」という立場表明に相当する。他者の視線ではなく、自らの意志と判断にこそ意味がある。ここには、優劣や上下の構造は存在しない。あくまで、自由な意志をもつ者同士としての、フラットな関係性が前提となっているのだ。
アドラーもまた、人間を「理性をもつ自由な存在」として信じていた。だからこそ、「褒めることは支配であり、感謝することは対等である」と言い切ることができたと私は解釈している。「よくやったね」と評価するのではなく、「私は嬉しい」と感情を伝えること。人として向き合うということは、結果を裁くことではなく、意志に寄り添うことなのだ。つまり、縦の評価ではなく、横の共感こそが、人間を真に成長させるのだという点において、ストア派とアドラーは深く共鳴していると思う。
では、こうした「自立した利他」や「横の関係」を、組織の中にどう取り入れることができるのか。
現実の企業やチームでは、利他や貢献がしばしば義務ややりがい搾取にすり替えられる。上司が「感謝しているよ」と言いながら、それが実質的には評価や支配のためのツールになっている。会社が「お客様のために」と掲げながら、それが社員への過剰な負荷になっている。こうした縦の論理が横のふりをしてしまうと、関係性はますます不健康になっていく。
だからこそ、組織に必要なのは、「意味のある横の関係」をどう育てるかという問いだ。そこでは、成果よりも選択が、命令よりも問いかけが、評価よりも感謝が重視されるべきだ。役割としてではなく、人としての判断に敬意を示すこと。報酬の有無ではなく、意志を信じて行動すること。そうした「人としての関わり方」こそが、横の関係を支える本質になる。つまり、人を管理するのではなく、人として関わる組織をつくるのだ。
組織に必要なのは、意味のある横の関係をどう育てるかという問いとは、単に「フラットな関係」や「上下のない組織」が良いのではない。重要なのは、関係が形式的に横並びなのではなく、内面的に意味あるつながりになっているかだ。つまり、「心理的な対等性」や「相互の信頼」によって、意志と感情が通い合っている関係性をどう育てるか、これが核心の問いになっているのだ。
成果よりも選択が、命令よりも問いかけが、評価よりも感謝が重視されるべき、というのは、行動の結果や指示の従順さではなく、その人が何を考え、どう選び、どう関わったかというプロセスの質を重視すべきだという提言になる。「成果」よりも、その行動を「どう選んだか」に注目するし、「命令」よりも、「どう思うか?」と問いかける。そして、「評価」よりも、「ありがとう」と感謝するのだ。このような関わり方が、人を管理対象ではなく、信じるに足る存在として見る姿勢をつくるのだ。
役割としてではなく、人としての判断に敬意を示すことは、「そのポジションにいたからやった」と片付けるのではない。「その人が、その人として考え、選び、引き受けた判断」に対して敬意を向けるということだ。たとえ役割上当然の仕事でも、「その責任をあなたが真摯に選んだこと」に対して感謝し、敬意を持つのだ。これが人として関わるということになる。
報酬の有無ではなく、意志を信じて行動すること。報酬を条件にした行動ではなく、自分が信じることを、自分の責任で選び取って動く。そこには、「誰が見ているか」「得になるか」といった外的動機ではなく、「どうありたいか」という内的な姿勢がある。組織はその姿勢を信じ、支える環境をつくるべきだ、という提言にもなる。
そうした人としての関わり方こそが、横の関係を支える本質になるのだ。繰り返しになりくどいと思うが、横の関係とは、「同じ階層の人間関係」ではない。「お互いを尊重し、信じ、対等な人として関わる姿勢」と定義している。つまり、制度設計や組織構造の話ではなく、一人ひとりの関わり方の美学のあり方なのだ。
横の関係は、肩書きや制度でつくられるものではない。それは、私たち一人ひとりが相手の内面に向き合い、「あなたがそう選んだこと」に敬意を示し、「あなたがそう在ろうとすること」に信頼を寄せる、そんな関わり方の積み重ねからしか、生まれないのだ。この姿勢こそが、理想を現実に引き寄せるための、最も地に足のついた横の関係と言えると思う。
この点、サーバント・リーダーシップは、アドラーやストア派と非常に深い接点をもつ。リーダーが「支配する者」ではなく、「支える者」であるという前提。部下の成長や幸福を第一に考え、その人の内にある意思と能力を信じ、問い、支援する。そして、相手が自分の意志で選んだ判断に対して、「私は嬉しい」「ありがとう」と伝える。ここで重要なのは、結果よりもその人の意志のあり方を大切にするという姿勢だ。評価ではなく共感、管理ではなく信頼。それこそが、本質的な横の関係であり、リーダーとしての「徳」の表れになる。
貢献とは、誰かのためにする行動でありながら、実のところ自分が、自分であるための行為でもある。利他とは、自己を消すことではなく、自己を持ったまま、他者と向き合うことだ。その繊細で強靭な姿勢の中に、アドラーが見た人間の尊厳があり、ストア派が説いた理性の価値があり、サーバントが志向した静かなリーダーシップがあるのだ。