労働者を守る法律が、働く意思を縛るとき

2026年1月23日 金曜日

早嶋です。約1800文字。

最近、人手不足倒産という言葉をニュースで聞くようになった。受注はある。仕事もある。しかし人がいない結果、会社の運営が出来なくなり倒産を余儀なくされるのだ。トラック運送、タクシー、建設、工場。どれも社会にとって必要な仕事ばかりだった。

実際に統計を見てみた。帝国データバンクの調査によれば、2024年に「人手不足」を直接の要因として倒産した企業は342件あった。統計を取り始めて以降、過去最多の水準だ。さらに2025年には427件に増加し、3年連続で最多を更新している。単年の一時的な現象ではなく、構造的な倒産理由として「人手不足」が定着しつつあるのだ。

内訳は、運送業、建設業、製造業、サービス業など、いずれも社会インフラを支える業種が中心だ。受注がないから潰れたのではない。仕事はある。売上の見込みもある。ただ、人が確保できず、事業が回らなくなった結果として会社を畳んでいる。

日本全体の倒産件数は年間で1万件規模だ。割合として見れば数%に過ぎない。しかし、「人手不足」が公式な倒産理由として明確に分類される件数が、すでに数百件規模に達しているという事実は重い。事業構造のボトルネックが、需要や資金ではなく、労働市場そのものに移りつつあることを示している。

世論で議論が始まっているように「残業すれば企業が助かる」という理屈が正しいと思っていない。人が集まらないという事実は、その事業モデルがすでに時代と合っていないことを示している可能性もあるからだ。原材料が手に入らなければ代替素材を考える。人が確保できなければ、機械化、標準化、多能工化、あるいは事業そのものの組み替えを考える。それが経営だ。

安い人件費を前提に、どこにでもあるモデルを続けてきた企業が、人口減少と人手不足の中で立ち行かなくなるのは、ある意味で自然な帰結だ。そう考えれば、倒産は制度の問題ではなく、経営の問題だとも言える。

ただし、一方で労働者側の意思についての疑問は残る。「働きたい人が、健康の範囲で働くことすらできない」という状況が昨今観察されるが、これは合理的なのだろうか。

労働基準法は、労働者を守るための法律だ。制定は1947年、戦後直後だ。当時、労働者が仕事を選ぶ自由はほとんどなかった。働きたい人は溢れており、条件を拒めば職を失う。個人の意思は、実質的に経営者側の力に吸収されてしまう環境だった。

だから法律は、労働者の自由をあえて制限する形を取った。1日8時間、週40時間を超える労働は原則禁止。残業は例外であり、36協定という集団的な歯止めを通してのみ認める。これは「自由を奪う制度」ではなく、「自由が機能しない現実を前提にした保護」だった。

さらに、日本の労働法は強い父権主義を持っている。労働者本人が「大丈夫だ」と言っても、それを信用しないのだ。疲労や同調圧力、評価への不安が、本人の判断を歪めると考えるからだ。特に運転や製造の現場では、事故は本人だけの問題ではなく、社会全体のリスクになる。だから「従業員本人が良くても、社会が困る」という理屈が成立している。

この思想自体は、一貫していると思うが、前提となる社会環境が、大きく変わっているのだ。今は少子高齢化で人口ボーナスから人口オーナスに転じ人が足りない。働く側の交渉力は高まり、「嫌なら辞める」「別の仕事を探す」という選択肢も現実的になった。また、副業や転職、業務委託も珍しくない。それでも制度は、「労働者は常に弱者である」という前提のままだ。

その結果、「働きたいのに働けない」「稼ぎたいのに制限される」というねじれが生まれているのも事実だ。子育てや受験、あるいは一時的な資金需要のために、借金ではなく、自分の体力と健康の範囲で働きたい人もいる。それを一律に封じることは、本当に労働者保護なのか。むしろ、自己決定の権利を奪ってはいないかと疑問が浮かぶのだ。

もちろん、無制限な長時間労働に戻るべきだとは思わない。過労死や事故の歴史を忘れてはいけないからだ。ただ、時間そのものを機械的に縛る設計が、今の社会に最適かどうかは、再考の余地があると思う。労働時間の問題は、善悪ではない。保護と自律をどう両立させるか。その設計が、戦後からほとんど更新されていないことに、違和感が表面化しているのだ。



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