漫画とアニメで日本贔屓を量産する

2026年2月27日 金曜日

早嶋です。約4000文字です。

ローマ帝国でもいつかは滅びる。それは、軍事力、つまり力で世界を制し、法と道路と秩序を築いた帝国でも、やがては内側から崩れ始める。経済も軍事も、永遠ではないのだ。

しかし、物語は違う。崩れないのだ。体制が入れ替わっても、人の心の奥に沈殿して残り続ける。そして、ある日ふとした選択のときにその物語の影響を受けるのだ。もしそうだとすれば、日本はこの数十年で、意図せずして巨大な実験をしてきているのではないかと思う。それがアニメや漫画だ。この表現媒体は、日本の文化や価値観を間接的に物語の手法で世界に流し続けている。その結果、世界のどこかに、日本に好意を抱く世代が一定数着実に育っているのではないだろうか。

(アニメの輸出の歴史)
1960年代にさかのぼる。鉄腕アトムがアメリカで放送された。だが、当初から歓迎されたわけではない。当時のテレビも制限が強くあり、アメリカの意図に編集され、検閲され、アメリカ的な基準に合わせての放映だった。更に、米国のコンテンツはカラーかが進む中、鉄案アトムは白黒放送だった。鉄案アトムは、そのようななか、暴力表現や倫理観に対する違和感もあり、決して一気に根付いたわけではない。それでも放送は続き、子どもたちの中に異国の物語として記憶が残っていく。爆発はなかったが、種が撒かれたのだ。

その後、日本アニメは断続的に海を渡るが、本格的な社会現象が起きたのは70年代後半のフランスだった。ここには背景があると思う。フランスはもともとバンド・デシネと呼ばれる漫画文化を持ち、絵による物語表現を芸術の一つとして評価してきた国だ。漫画を低俗と見なす土壌ではなかったのだ。だから、日本のロボットアニメや冒険物語は、単なる子ども番組としてではなく、新しい表現として受け止められた。

だが、それだけでは社会現象にはならない。文化は好意だけでは広がらないのだ。そこには流通の構造があった。70年代のフランスのテレビ局は、拡大する放送枠を埋める必要があったのだ。子ども向け番組の需要は高い。しかも予算は限られている。そのとき、日本のアニメは、制作コストと供給量の面で極めて合理的な選択肢だった。安く、大量に、継続して番組を提供できると思ったのだろう。文化的な親和性と、放送制度の事情が、当時のフランスで重なったのだ。

90年代に入ると媒体の構図が変わる。テレビに加えて漫画が翻訳され、書店に並び、ゲーム機が家庭に入り込む。ファミコン世代はそのままアニメ世代だったため、物語は映像に加えて、紙とゲーム体験を通じて繰り返し反復され露出していった。しかもこの時代は日本経済がまだ強かった。コンテンツ産業も活気があった。作品数がどんどん増え、ジャンルも広がり、子どもたちは一過性ではなく、連続的に日常的に日本発の物語に触れることが出来たのだ。

2000年代に入ると一度踊り場がきた。北米では漫画市場が急拡大した後、金融危機の影響で落ち込んだ。しかし流れは落ち込むことはなく、2000年代後半、スマートフォンの登場と共に、SNSの普及も重なり、アニメや漫画の認知が世界規模に広がり配信を同時化した。もはや放送の制限も、国境も関係ない。合法も違法も含め、世界中の子どもがほぼ同時に同じ作品を見る時代が来たのだ。

(日本アニメネイティブ)
2010年前後に10歳だった子どもは、このような環境の中で、日本の漫画やアニメに触れた時間が一定時間続いたはずだ。2026年現在、彼ら彼女らは26歳だ。物心ついたときから、日本のアニメに触れてきたのだ。

実際、日本アニメの海外市場規模は国内を上回る年もあり、フランスでは漫画の年間販売冊数が数千万部規模に達し、コミック市場の半分近くを日本作品が占める年もある。これは一過性のブームではなく、30年にわたるトレンドになっている。

先にも言及したが、フランスの絵で語る文化、バンド・デシネは芸術の一領域として扱われたため、子ども、大人も読む表現形式として定着したのだ。日本のアニメや漫画は、「低俗な外来文化」と言うより、「新しい物語表現」として受け止められる余地があった。さらに、フランスは中央集権的な文化政策を持ちつつも、外来文化に対して開放的な側面もあった。アメリカ文化が強く流入する中で、別の選択肢を求める心理も働いた可能性がある。日本アニメは、ハリウッドとは違うヒーロー像を提示するからだ。完全無欠ではなく、悩み、努力し、仲間と共に成長する主人公。善悪を単純化しない物語構造。それはフランスの哲学的土壌とも相性が良かったのだ。だから社会現象になった。偶然ではなく、文化的な共鳴だったのだ。

一方、アメリカは異なる。アメリカではアニメは長く「子ども向けテレビ番組」の枠に閉じ込められてきた。しかも検閲や倫理基準の中で改変される。暴力や宗教的表現は調整され、ローカライズされる。つまり、日本の物語はそのままの形では入らなかった。それでも90年代後半になると状況が変わった。ケーブルテレビの拡大とともに、アニメ専門枠が生まれ、翻訳漫画が書店に並び始めた。2000年代前半には漫画市場が急拡大し、一つのジャンルとして確立し、アメリカ社会の中に溶け込んだのだ。

日本のジャンプが与えた影響は実は大きいと思う。どれも同じような構造を伴った漫画を結果的に確立したのだ。努力、友情、勝利。この3つは単なるキャッチコピーではない。未熟な主人公が修行し、仲間と出会い、敗北し、再挑戦し、やがて成長するという一貫した型が大量に生産された。しかもそれは連載という形式で毎週反復された。反復は習慣になる。習慣は価値観になるはずだ。90年代に子どもだった世代は、その型を身体で覚え、ジャンプ世代と揶揄された。

当然、この構造は海を渡る。そして、単なるアクション作品としてではなく、一つの倫理体系として広がっていった。日本の物語は、努力を描く。主人公は未熟で、修行をし、失敗を重ねる。勝利は才能ではなく積み重ねの結果だ。仲間は単なる脇役ではない。共に戦い、共に悩み、裏切らず、支え合う。敵は単純な悪ではない。背景があり、悲しみがあり、ときに救済の可能性すらある。善悪は単純に断罪されない。関係性の中でめちゃくちゃ揺らぐ。これは、絶対的な神が善悪を裁く一神教的世界観とはかなり異なる。日本の物語は、神もまた万能ではなく、自然は畏怖の対象であり、人は未完成の存在だ。善悪の単純化よりも、調和と成長が中心に置かれている。

さらに、日本の物語には「義」の感覚がある。自分だけが得をする結末は描かれにくい。恩を返す、仲間を守る、約束を守る。利よりも義が優先される場面が繰り返される。家族は支配者ではなく、安全基地だ。冒険は逃避ではなく、日常に戻るための学びだ。季節の祭り、弁当、制服、神社、花火。説明されることはないが、日本の原風景が物語の中に自然に埋め込まれている。これが20年、30年と繰り返された。漫画やアニメを時々体験しただけでも、心に残っていくだろう。

(行動変容の可能性)
では、その蓄積していった倫理が、そのまま海外の人の日本的な行動様式の模倣に直結しているかと言えば、そこまでは言えないだろう。

物語の中で努力や仲間を尊んだとしても、現実社会で敬語を使い、上下関係を受け入れ、年功序列を肯定するかといえば、それは別の話だろう。制度的な行動は、その国の社会構造や歴史に強く依存する。個人主義が強く、宗教的前提も異なる社会では、日本の形式をそのまま移植することは難しい。

だから、目に見える行動変容は限定的だ。日本式の礼儀作法がそのまま広がっているわけではないし、上下関係文化が世界標準になったわけでもない。だけど、それで影響がなかったと結論づけるのは早い。

物語は制度を直接的に変えることはないだろう。ただし、個人の感情の前提を変える可能性はある。努力や仲間、家族を尊ぶ価値観に触れ続けた世代は、日本という国を、敵対的に見るよりも、どこか好意的に見る傾向を持つ可能性があるのだ。政治的支持ではなく、思想的同化でもない。もっと手前の層、好きか嫌いかの前提の話しだ。

人の感情はすぐに可視化されないが、物事の選択に影響する。旅行先を選ぶとき、製品を手に取るとき、ニュースを見るとき。無意識の前提が働いている。ソフトパワーとは、もしかするとこういう好意の蓄積を指すのかもしれない。軍事は恐怖を生む。経済は依存を生む。しかし物語は好意を生むのだ。好意は目立たないが、長く残り続ける。

いま26歳の世代は、まだ社会の中心ではない。だが10年後、20年後には意思決定層に入る。子どもの頃に浴びた物語は消えることはない。そして制度も急には変わらない。しかし取り巻く空気がゆっくり変わるのだ。すると、判断の重心が動くかも知れない。

(おまけ)
別件だが、ロクローという小さなIPを育てている。年に12話。3年で36話のペースでアニメの作品を増やしている。ロクローは小学生低学年や6歳以下の安全なアニメだ。暴力も血もない。兄弟が旅をし、勇気を出し、最後は家族の元に帰る物語だ。日本では分け合って歯科医院のアプリの中で露出させている。しかし、海外では少しずつ広げている。爆発的なヒットをいきなり狙っているわけではないが、物語を100話まで積み上げた頃に、様々な化学変化が起こるように色々な仕掛けを立体的に仕込んでいる。

もしアニメが日本贔屓をつくっているとすれば、それは派手なナショナリズムではないが、極めて有効な親和性の道具になる。善悪を単純化せず、努力と仲間を描き、帰る場所を示す物語。それが、世界のどこかで、じわりと好意を育てているのだ。そうだ、アニメを見よう!



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