箱と運営の両軸

2025年9月22日 月曜日

早嶋です。2700文字。

福岡や長崎の街を歩いていると、再開発が進むたびに街の表情が変わっていくことを実感する。かつて福岡の天神には、ビルの地下や雑居ビルの一角に地元の名店が集まり、昼も夜も人で賑わっていた。しかし天神ビックバンのような大規模再開発が始まると、立ち退きを余儀なくされた店は今泉や薬院、大名、西中洲といった周辺エリアに移り、再び戻ることはなかった。新しいビルは家賃が高く、外観もどこか入りにくい雰囲気をまとっており、その空間に入るのは資本力を持ったチェーン店や東京資本の高級店ばかりになる。ところがそうした店は地元の需要と合わず、珍しさで一度は人が入っても、やがて売上が立たず撤退してしまう。結果として土地の値段が上がれば上がるほど、街の活気が失われる可能性は無いだろうか?

同じことは長崎でも起きている。浜の町商店街は長らく街の中心であり、人々の暮らしと文化を支えてきたが、駅前や大波止、さらにはスタジアムシティといった大規模施設が相次いで建ち、人の流れは分散した。名店や老舗の商店はその影響で売上を落とし、やむなく店を畳んでいった。その後に入るのは全国チェーンの店やナショナルブランドばかりで、街の景色は全国どこでも見られるものに変わってしまった。浜の町商店街にはパチンコ店や百円ショップ、ファーストフードだけが残り、露店や屋台のような生活の匂いを残すものは衛生の名目で排除された。通りはアスファルトで舗装され、無機質な空間となり、街が本来持っていた温かみや偶然性は失われた。同じ長崎の中でも、住吉や大黒町といった他の商店街も同様の道を辿り、魅力のない通りに変わっている。

一方で、今でも活気を保つ商店街も存在する。高松の丸亀町商店街は民間主導の再開発で新しい施設を導入しながらも地元の店を残し、人の回遊を工夫して維持している。熊本の上通や下通も、市電やバスといった公共交通とつながっており、平日でも人通りが絶えない。こうした街は「歩いて回る楽しさ」を守っている点が共通している。観光地と結びついた金沢の近江町市場もその典型で、公共交通で来て、徒歩で回遊し、偶然の出会いを楽しむ仕組みが残っている。

これに対して、地方の郊外型モールはまったく異なる発想で栄えている。広大な駐車場を無料で備え、車で来ることを前提に設計されている。モールの中には買い物だけでなく、映画館やフードコート、子どもの遊び場、シニアが休めるスペースまで揃い、天候に左右されず一日過ごせるようになっている。田舎であっても「ここに行けばなんとかなる」という安心感があり、家族も若者もシニアも同じ場所に吸い込まれる。

ここで街が栄える要素を考察してみた。

たとえば高松の丸亀町は、地権者が中心になって区画ごとに段階的な再開発を行い、百貨店やホテルなどの核を入れつつ、路面の回遊性と地元店の居場所を残した。箱だけを更新するのではなく、街の運営主体(まち会社)が「家賃設定」「テナント編集」「イベント運営」まで手を入れた点が大きい。結果として、駅→商店街→周辺の歩行回遊が切れず、更新後も日常利用が続いている。これは「再開発=チェーン化」という短絡に陥らず、地場と広域集客を両立させた国内の稀有な例だ。

熊本の上通・下通は、郊外モールが強い九州圏にあっても中心市街のアーケードが粘り強く機能している。市電・バスと一体のアクセス、雨天でも歩ける環境、周辺の飲食集積との相互送客が続いている。観光向けの見せ方に寄り過ぎず、日常需要(買い回り・外食・通過導線)を保ったことが強みだ。

金沢の近江町市場は、観光をうまく抱き込んで日常と非日常を接続した。駅から徒歩圏・短距離バスでつなぎ、場内に細かな買い回りと飲食の偶然性を残している。観光偏重に振れれば地元の台所機能が痩せるが、アクセスの簡便さと「歩いて回る面白さ」を維持する運営で均衡を取っている。

海外事例を見ると、手法はさらに明確だ。コペンハーゲンのストロイエは大胆な歩行者化で滞留時間と来街者を増やし、売上はむしろ下支えされた。歩行空間の質を上げることが、小売の基礎体力を回復させる—その定理を早い段階で証明した。

ソウルの清渓川では高速道路を撤去し、中心部に気候適応型の公共空間をつくったことで、地価や事業者数、歩行者が増え、都市の評価軸そのものを変えた。維持費や通水の課題は残るが、「車中心から人中心へ」の転換が商業と都市価値を押し上げうることを示した。  バルセロナのスーパーブロックは、面的に車の通過交通を減らし、生活道路を広場化するプログラムだ。騒音や大気の改善とともに、近隣小売の来店頻度を引き上げる効果が初期評価で観測されている。

一方で、地方で郊外モールが強い理由は単純だ。車来訪を前提に無料かつ巨大な駐車場を用意し、天候非依存で一日完結できる機能を箱の内側に集約したからだ。ここには明快なメリットがある。家族・若者・シニアの誰が来ても過ごせる安心感、移動コストの低さ、そして施設側の運営一元化による快適性の標準化だ。デメリットは、中心市街の偶然性や多様性を吸い上げ、街の外側で消費を完結させてしまうこと。結果として中心部の地元商店は薄まる。日本のコンパクトシティを掲げた富山市がLRT整備と中心集約を同時に進めたのは、この流れを反転させるためだった。

これらを踏まえると、福岡や長崎のまちづくりに欠けている可能性は3つの議論から言える。第一に、再開発の箱をつくるだけでなく、運営とテナント編集を地場の目線でやり切る体制づくりだ。高松のように、家賃水準と区画寸法を「挑戦できるサイズ」に保つ設計を最初から織り込む必要がある。

第二に、アクセスの総設計である。郊外の車需要を否定せず、中心部の周縁に安価な駐車場やパーク&ウォークを用意し、中心の細街路は歩いて楽しい思想に振り切る。公共交通と徒歩の回遊を太くする一方で、車は最寄りまでのツールとして捉え、穏やかに誘導する。そのために車と公共交通機関の接合を立体的に設計してインストールするのだ。

第三に、路上や仮設のにぎわいを制度として取り戻すことだ。衛生や安全の基準を明文化して露店・屋台・ポップアップを許可し、偶然の発見を街に戻すのだ。清渓川やストロイエの教訓は、空間の質が上がると人は長く滞在し、小売は持ち直す、という単純だが強い事実だ。

要するに、商店街とモールの違いは導線設計にとどまらない。誰が運営を担い、どの価格帯の店が挑戦でき、どの交通手段で来て、どのくらい偶然に出会えるか。国内外の事例は、メリットとデメリットを抱えながらも、「人中心」に振ったときにだけ中心市街が持続的に回復することを示している。福岡でも長崎でも、次の一手は箱の更新より運営の更新に力を言えれるべきだと思う。



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