新規事業の旅56 情報の民主化と経済格差

2023年7月19日 水曜日

早嶋です。

情報の民主化が進んでいる。インターネットのおかげだと言われるが、結果的に将来は情報格差の縮小によって、経済格差は無くなるだろうか?

私は無くならないと思う。情報の民主化は、文字の発明、言語の発明がルーツだとしたら、インターネットの有無に関係なく昔からあった。それにも関わらず当時から経済格差が生じている理由は、当人の好奇心にこそ格差があるからだ。

インターネットやスマフォの普及により、情報の民主化が進んでいる。これまで一部の役割や職種しかアクセスできなかった情報も簡単にアクセスできるようになった。SNSの普及により誰でも自由に情報を発信することが可能になり、特定の情報を価値の源泉として優位な状況を得ることが従来よりも難しくなる。結果的に情報格差の縮小につながったのだ。

ただし情報格差の縮小の恩恵を得ている人は前提として、意思がある。自分で情報を集める目的があり、情報収集し、その情報の真偽を確かめる。情報をベースに意思決定し、行動する。意思がない人は、情報の民主化のメリットはあまり受けていないとも考えられる。

理由は簡単で、まだ誰も自分の都合とタイミングで、自分が必要と思う情報を提供してくれないからだ。仮に、そのような状況を作れている人は、自分の意思で初動を起こし、必要な情報が集まる仕組みを日々研究している。情報の価値はタイミングと受け取る当人の判断による。どんなに優れた情報でも、相手が興味を示さない、相手が自分にとって必要だと思わないかぎり、単なる雑音になるからだ。

この議論はマーケティングにおける価値の考え方に似ている。ある商品の価値を決めるのは提供する企業ではない。対価を払う顧客だ。企業が優れた商品を作り顧客に提供しても、その顧客が価値を感じなければ商売は成り立たない。顧客が何かを必要としている、何かを達成したいが出来ないと感じている、或はもっと楽に何かをこなしたいと思っている。著書である実践ジョブ理論では、そのような概念を「ジョブ」と捉え、顧客が商品を購買する理由は一定のジョブを解決するためだと説明した。つまり、商品とは顧客の問題を解決する何かと定義できるのだ。顧客が問題を抱えているのであれば、その問題を解決する、或は手助けすることが商品であり、タイミングよく供給できなければ商売は成り立たない。

戦後、焼野原から始まった日本の経済は全てが不足状態だった。企業は分析することなく様々な不足の部分を商品化して顧客に提供した。当時は、企業が提供する商品は間違いなく、顧客の不足を補う役割を果たしていたのだ。経済が復興すると欧米の情報が国内に入ってきて憧れを持つ日本人が増大した。人口爆発も相成り、日本企業の多くは欧米を模倣する商品を提供し商売を拡大させる。一通り経済が発展し日本人の多くが諸外国のトップクラスと同様の生活水準になった頃、商売にとって肝心な不が無くなってしまう。

そこで開発された手法が「あったらいいな」の提供だ。今、不を持たないプラスマイナスゼロの状態の顧客に対して、より良い世界を提案することができれば、現状とその世界に対してギャップ(問題)が生じる。「あったらいいな」の提供は欲求を創造喚起し問題を発生させてしまう手法なのだ。しかし、この取り組みは莫大な認知コストが必要になる。基本的に現状に満足する顧客は、自分から積極的に何かを求めることが無いので、企業側から顧客にアプローチする必要がある。当然、コミュニケーションを行うにはコストがかかるのだ。

ここで話を情報の民主化に戻そう。実は情報の民主化はインターネットによって始まった分けではない。既に昔から始まっていたのだ。それは文字の発明であり、印刷の発明だ。インターネットの普及は1960年代からだが、一般的な大規模な普及は1990年代後半だ。

一方で書籍の普及は奈良時代(710年から794年)以降で、当時中国から文化の伝来により漢字文化が根付き、書物や経典が広がった。当時の書物は貴重品であり、書物の複製や普及は平安時代(794年から1185年)からはじまった。平安時代の後期は貴族や僧侶たちによる書写文化が盛んに行われ多くの書物が作られた。

近代的な書籍の普及は江戸時代(1603年から1869年)の出版文化の発展による。江戸時代は木版印刷技術や活版印刷技術が進歩し、書籍の大量生産が可能になった。庶民が娯楽を含め情報を自由に見られるようになったのはこの頃からだ。ただ当時の1年に得られる平均的な文字情報は、新聞紙面1ページから2ページ分程度と言われたぐらい、物量が圧倒的に少なかった。

現在は、膨大な文字情報がアナログ以外にWeb情報などデジタル情報でも氾濫するようになった。国内では年間に十数万から数十万程度の書籍や専門書、雑誌等が出版されている。新聞やネット記事など、情報に溢れているのだ。それにも関わらず、情報格差は続いている。

その理由は何だろうか。私はひとつの仮説を強く持つ。好奇心の格差だ。好奇心は一般的に年齢が若い時に高く、徐々に減少していき、再度高齢者になると高くなる傾向が知られている。従って、一般的には若い人の好奇心は高いと思われている。しかし、日本人の若者に限って言えば、はじめから好奇心が高い人の母数が少ないのだ。

教育社会学者の舞田敏彦教授がOECD国際成人力調査の生データを独自分析された結果がある。各国の20歳から65歳の大人に、「新しいことを学ぶのは好きですか?」という共通の質問を行い分析する調査だ。例えば日本とスウェーデンを比較した時、若年層の知的好奇心は高く、年齢と反比例して好奇心が減少する様子が分析された。しかし、衝撃的な事実が見えた。それは日本人の20歳の好奇心のレベルがスウェーデンの65歳と同じということだ。肌感覚若者や特にZ世代のやる気の無さを感じている読者も多いと思うが、好奇心の格差が影響していると考えることもできるのだ。

星新一の短編小説、「盗賊会社」の中の一編、「あるエリートたち」に新しいゲームを開発するために選抜されたエリート社員の話がある。エリートを気候の良い重役用の保養施設に閉じ込め、仕事をさせずに暇な時間を与えたのだ。あまりにも暇を持て余すエリートたちは何やら遊びを考え始め、気が付くと時間を忘れてゲーム作りに没頭する。会社の狙いはまさにゲーム開発をエリートにさせることだったのだ。

人から言われて育ってきた人間は、自分で問いを立てない。言われたことを、指示された範囲内で取組むのだ。余計な情報になんてアクセスしない。一方、問いを立てる人間は、問いの答えを媒体関係なく探し自分で考え続ける。1つの問いが明らかになれば、再び複数の別の或は深堀された問いが生まれ、止むことなく考え続けるのだ。アクセスする情報量も年齢に比例して膨大になる。

子供の頃、暗くなっても近所の山で遊んでいた。ある時は、大きな穴をひたすら掘り続け、どれだけの深さを掘れるかを楽しんだ。穴を掘り続けていた期間は、建設現場を観察して、どうやったら楽に効率的に穴を掘れるか観察する。そしてそこで考えたアイデアを試してみるのだ。

意味もなく遊び、没頭する中で、自然の原理を理解して、それらを調べ、先人が様々な方法で体系化している概念があることを知る。そして、それらを活用して役に立つことも、全く役に立たないことも知る。そうやって、興味を持って、実際に行動をしながら知識を知恵に変換する。昔は遊ぶものが無かったので、必死になって考えたのかもしれない。

若者やZ世代がかわいそうなのは、満たされていると勘違いしていることにあるかも知れない。全ては2次情報で得ることはできない。行動すると世界が広がり。視点が変わる。格差社会と他人のせいにせず、自分で問いを立て楽しみながら答えを探す。それが出来ればどの世界でも重宝される人材になれると思う。

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