新規事業の旅220 変えない攻めと変える攻め 牛丼とプロレス

2025年10月23日 木曜日

早嶋です。

かつて、BSE(狂牛病)の発生により日本が米国産牛肉の輸入を停止した際、牛丼業界は深刻な供給危機に直面した。主力商品である牛丼の原材料を失い、多くのチェーンが豪州産牛肉に切り替えることで営業を続けたなかで、吉野家だけは異なる決断を下す。「牛丼の販売中止」だ。

なぜ豪州産に切り替えなかったのか。その理由は、牛肉そのものの味の違いに対する強いこだわりがあったからだ。アメリカ産牛肉の多くは「コーンフェッド(穀物飼育)」で、濃厚な甘みと脂の旨みが特徴だ。吉野家が長年培ってきた牛丼の味も、この穀物肥育牛の脂と肉質を前提に構成されていた。一方、オーストラリア産牛肉は「グラスフェッド(牧草飼育)」が主流で、さっぱりした赤身の多い味になる。見た目は似ていても、食感も風味も異なるのだ。

その違いが、長年通ってくれたファンの舌にどう響くか。吉野家はそこを非常にシビアに見ていた。もし味が変われば、「これは吉野家の牛丼じゃない」と、愛着そのものが裏切られたように感じる顧客が出るかもしれない。そこで彼らは、「無理に似せるより、いっそ別のコンセプトの商品を出す」ことを選び、「豚丼」というまったく異なるカテゴリの商品を開発したのである。味を似せるのではなく、ファンの記憶と矛盾しないよう、まったく違うものとして提供する。その選択は、守るべき「味の記憶」に対する誠実な姿勢の表れでもあった。

味を守るという意味では、三重県伊勢の老舗「赤福」も似たような姿勢を貫いてきた企業だ。300年以上の歴史を持つこの和菓子店は、かつて主要原料の大豆が確保できなかった年、無理な代替をせずにあえて販売を見送ったことがある。変えれば、たちまち「赤福ではなくなる」という判断があったからだ。顧客が期待するいつもの味に対して、別の素材で似せることは逆に不誠実だと考えたのだろう。ただし、そんな赤福も近年では消費期限の改ざんが発覚し、大きな社会的批判を浴びたこともあった。守るべき精神が組織全体に浸透し続けることの難しさ、時代の中で志が揺らぐことの危うさを示す出来事でもあった。

対照的なのが、新日本プロレスの選択だ。一時は隆盛を誇ったプロレス界も、90年代後半から徐々に観客動員が落ち込み、特に新日本プロレスは苦境に立たされていた。かつての新日は「ストロングスタイル」と呼ばれる、実戦性を重んじる硬派な戦い方を掲げ、筋骨隆々のレスラーたちが真正面からぶつかり合う、その男くささが魅力の源だった。力道山の時代から脈々と続く、ガチの戦いという神話性。それこそがコアの価値だった。

だが、時代は変わっていた。格闘技のリアルさを求めるなら総合格闘技があるし、エンタメとしての娯楽性なら他にも多様な選択肢がある。かつては熱狂を集めたスタイルが、いつの間にか古くさくてダサいものと見なされるようになっていた。

この閉塞感を打破するため、新日本プロレスは、「プロレスとは何か」という前提そのものを問い直す決断をする。従来のコアファンに執着するのではなく、まったく新しい層、たとえば女性や若い世代に向けて、自分たちの価値を再編集する方向に舵を切ったのだ。オカダ・カズチカ、棚橋弘至といった強くてカッコいいレスラーを前面に押し出し、ルックスやスター性、ストーリー性を重視した展開へ。試合の見せ方だけでなく、グッズ、演出、SNSでの発信など、ブランドの全方位を変えた。

これは単なるイケメン起用ではない。「プロレスとは何を観る体験なのか」という定義を変えた、ある意味でアルシュ的なイノベーションである。アルシュとは、根源を問い直し、そこから新たな価値体系を築くという変革のこと。既存の枠組みを守るのではなく、壊してでも時代に適合した新しい核を築く。新日本プロレスは、まさにそうした本質の再設計に挑戦したのだ。

吉野家は、変わらぬ味を守るために変えないという選択をし、新日本プロレスは、時代と共に変わるために、あえて自らの定義を壊して再構築するという決断を下した。どちらが正解という話ではない。どちらも、ブランドがそのらしさとどう向き合い、顧客との関係性をどう捉えているかという、極めて本質的な問いに対する真剣な答えだった。

変わらないことで信頼を築く道もあれば、変わることで信頼を生み出す道もある。その選択の背景には、顧客を見つめるまなざしと、自分たちが何を大切にするのかという意志がある。そしてそれこそが、ブランドという営みにおいて、最も問われるべき軸なのだと思う。



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