
新規事業の旅 全集
2025年7月1日
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新規事業の旅(1) 旅のはじまり
新規事業の旅(2) 既存と新規は別の生き物
新規事業の旅(3) よし!M&Aだ
新規事業の旅(4) M&Aの成功
新規事業の旅(5) M&Aの活用の落とし穴
新規事業の旅(6) 若手の教育
新規事業の旅(7) ビジネスモデルをトランスフォーメーションする
新規事業の旅(8) 自分ごとか他人ごとか
新規事業の旅(9) 採用
新規事業の旅(10) NBとPB
新規事業の旅(11) 未だメーカーと称す危険性
新規事業の旅(12) 山の登り方
新規事業の旅(13) ポジションに考える
新規事業の旅(14) 経営陣のチームビルディング
新規事業の旅(15) 偶然と必然
新規事業の旅(16) キャズムを超える
新規事業の旅(17) 既存事業の市場進出の場合
新規事業の旅(18) アンゾフ再び
新規事業の旅(19) モノからコトへ転身できない企業
新規事業の旅(20) 自前主義の呪縛とイデオロギー
新規事業の旅(21) 現場とトップのギャップ
新規事業の旅(22) 売ってから始まる事業
新規事業の旅(23) 道具の使い方
新規事業の旅(24) 敵のコトを知りつくそう
新規事業の旅(25) キャズムを超えるまでのKPI
新規事業の旅(26) M&Aの勘所を押さえる
新規事業の旅(27) 仲介会社のビジネスモデルと買い手の事情
新規事業の旅(28) 動画サブスクの落とし穴と処方箋
新規事業の旅(29) 売り手のトラブルは売り手の無知から
新規事業の旅(30) OEは最早役に立たたない
新規事業の旅(31) ジョブと障害とキャズム
新規事業の旅(32) 需要と供給
新規事業の旅(33) ストレッチ目標
新規事業の旅(34) 複利の効果
新規事業の旅(35) 人間は機械の一部になる
新規事業の旅(36) デジタルの弊害を受け入れる
新規事業の旅(37) 会社を居場所に置き換える
新規事業の旅(38) システム化された社会
新規事業の旅(39) 金融リターンではなく事業リターン
新規事業の旅(40) サービス業の苦悩
新規事業の旅(41) 3つの財布
新規事業の旅(42) グループ企業の試練
新規事業の旅(43) 思考と行動
新規事業の旅(44) デジタルバッジ
新規事業の旅(45) デジタル化とOC
新規事業の旅(46) ジョブ発見のコツ
新規事業の旅(47) 器と魂
新規事業の旅(48) Z世代の高級品
新規事業の旅(49) アニメ界のSPA企業が覇者になる日
新規事業の旅(50) PBR1割れの衝撃
新規事業の旅(51) 新規事業の創造3つの方向性
新規事業の旅(52) 別の視点で見るイノベーションのジレンマ
新規事業の旅(53) 新規事業のベストミックス
新規事業の旅(54) サーキュラーエコノミー
新規事業の旅(55) PBR1割れを考える
新規事業の旅(56) 情報の民主化と経済格差
新規事業の旅(57) セキュリティの今後
新規事業の旅(58) サステイナブル経営
新規事業の旅(59) Z世代のアプローチ
新規事業の旅(60) ドローン事業
新規事業の旅(61) ノンカスタマー
新規事業の旅(62) プランB
新規事業の旅(63) Z世代
新規事業の旅(64) 小売とマーケティング
新規事業の旅(65) 高齢者をターゲットにした事業
新規事業の旅(66) ベンチャーキャピタルの実態
新規事業の旅(67) 新規開発の落とし穴
新規事業の旅(68) 覚悟を持って取り組む
新規事業の旅(69) 売れるモノが良いもの
新規事業の旅(70) 性善説と性悪説
新規事業の旅(71) 保身に走らない
新規事業の旅(72) 中国リスク
対立を望まない
新規事業の旅(73) サステナビリティ経営
新規事業の旅(74) ストックオプション
新規事業の旅(75) ゼロイチとM&A
新規事業の旅(76) TAM/SAM/SOM
新規事業の旅(77) 近くと遠く/全体と細部
新規事業の旅(78) 逆境を乗り越えるリーダー
歴史は繰り返す
新規事業の旅(79) ラストイチマイルの柔軟思考
新規事業の旅(80) 業務提携と資本提携
新規事業の旅(81) 部下の視点と視野の狭さはあなたの鏡
新規事業の旅(82) バックキャスティング
新規事業の旅(83) ペット保険にAmazon参入
新規事業の旅(84) ベンチャー企業
衝動買い合戦
新規事業の旅(85) 生成AI1年目の誕生日
グランドセイコーのブランディング
新規事業の旅(86) スケールする前後の組織
新規事業の旅(87) 無線給電
新規事業の旅(88) よく見る風景
新規事業の旅(89) ダイナミックプライシング
新規事業の旅(90) 提携と出資
新規事業の旅(91) アパホテルのプライシング
新規事業の旅(92) コカ・コーラのダイナミックプライシング
新規事業の旅(93) アップルのゴーグル型端末
新規事業の旅(94) 通年採用のススメ
新規事業の旅(95) 情シス事情
新規事業の旅(96) オープンイノベーションの打ち手としてのCVC
新規事業の旅(97) 今後のマーケティング
新規事業の旅(98) エフェクチュエーション
新規事業の旅(99) 2世と3世
そのショッパー有償ですか?
新規事業の旅(100)自分事と他人事
新規事業の旅(101)最近の経営企画
新規事業の旅(102)ドーミーイン
新規事業の旅(103)誰もわからない
新規事業の旅(104)運とリスク
新規事業の旅(105)経済的なインセンティブの大切さ
新規事業の旅(106)スタートアップと採用
新規事業の旅(107)エクイティにおけるインセンティブ
新規事業の旅(108)イノベーションとCVC
新規事業の旅(109)書店の敵は私学進出(アマゾンじゃなかった)
ファイナンス関連の書籍
新規事業の旅(110)30年の停滞
新規事業の旅(111)30年停滞の要因
新規事業の旅(112)30年停滞からの学び
新規事業の旅(113)ワイガヤ再び
新規事業の旅(114)地域を盛り上げる前の分析の視点
安部修仁語録
2代目ジャパネットタカタ
経営者QA 事業承継の際の覚悟、組織からの協力のポイント、大きな決断の覚悟の背景
経営者QA リーダーシップ 育成
新規事業の旅(115)足るを知る
新規事業の旅(116)継続は力なり
新規事業の旅(117)実践の妨げとなる心の豊かさ
新規事業の旅(118)学習性無力感
新規事業の旅(119)学習性無力感を克服するアプローチ
新規事業の旅(120)実践は時間と努力の変数
新規事業の旅(121)必要は発明の母
新規事業の旅(122)アントレプレナーとイントレプレナー
新規事業の旅(123)人事異動の落とし穴
新規事業の旅 (124)マネジメントの共通認識
新規事業の旅(125)高尚なパーパスの落とし穴
新規事業の旅(126)トレランスと遊び
新規事業の旅(127)行動しないことの考察
新規事業の旅(128)先延ばし
新規事業の旅(129)ベンチャー企業と中小企業
新規事業の旅130 設立から上場までの物語
新規事業の旅131 台湾事情2024その1物価
新規事業の旅132 台湾事情2024その2背景
新規事業の旅133 台湾事情2024その3再び物価
新規事業の旅134 北海道事情2024
新規事業の旅135 不祥事の元祖と原因と対策
新規事業の旅136 スタートアップと大企業
新規事業の旅137 提携や資本業務提携の契約
新規事業の旅138 LLCとKK
新規事業の旅139 やり抜けない人材排出の背景と打ち手
新規事業の旅140 創発する組織の会議
新規事業の旅141 高級時計ブランドのはじめ方
書店の敵は私立進学志向(アマゾンじゃなかった!)
新規事業の旅142 グリーンファンド
エアラインの業界構造
新規事業の旅143 アニメ産業の現状と課題
新規事業の旅144 勘違いをぶっ壊せ
新規事業の旅145 テーマパーク
新規事業の旅146 自分と部下の育成方法
新規事業の旅147 ハルメクに学ぶ新規事業の初め方
新規事業の旅148 観光公害と言わないで正面から向き合う
中東情勢の理解
新規事業の旅149 世代ごとの消費の特徴
新規事業の旅150 リユースマーケット
新規事業の旅151 価格と向き合う
新規事業の旅152 人的資本経営
新規事業の旅153 脱東京で成長を加速する
新規事業の旅154 オールドメディアの終焉
新規事業の旅155 マーケティング(2Cと2B)の基礎理解
新規事業の旅156 若手とベテランの壁
新規事業の旅157 NDAを結ばない時
新規事業の旅158 小規模農業者向けの流通プラットフォーム
学びの意味
新規事業の旅159 車社会
新規事業の旅160 消費と浪費
新規事業の旅161 ストア派哲学
新規事業の旅162 単一と統合の生態系
新規事業の旅163 問題設定の大切さ
新規事業の旅164 脇毛とマーケティング
新規事業の旅165 アメリカの終焉
新規事業の旅166 新しいことのはじめ方
新規事業の旅167 支援と投資のスタンス
新規事業の旅168 中国は金融戦争を仕掛けるか
新規事業の旅169 重要な取組が出来ない構造
新規事業の旅170 AとBのジレンマの処方箋
新規事業の旅171 増加する組織再編
新規事業の旅172 青を焼くか、重ねるか。文化と技術の対話の先。
新規事業の旅173 次の時代の生存戦略
新規事業の旅174 コメ価格高騰の裏側と、これからの日本の米市場
新規事業の旅175 ガソリン価格の高騰の本質
新規事業の旅176 民主主義が絶対主義になる時
新規事業の旅177 ポッドキャストの未来
最近の考古学の研究成果
新規事業の旅178 企業が思考停止に陥る理由とジョブローテーションの制度疲労
新規事業の旅179 生成AIがかえる都市の機能とカタチ
宗教改革から500年
新規事業の旅180 昭和100年
TSMCがもたらした変化
新規事業の旅181 グループ再編の現場の理想とリアル
新規事業の旅182 地方タクシー会社の未来
新規事業の旅183 PMIの失敗要因
新規事業の旅184 植物カルチャーの進化と熱狂の正体
新規事業の旅185 両利きの経営と時間をつなぐ仕事
新規事業の旅186 米問題に関する構造的課題とその処方箋
定着こそ最強の採用戦略クリニックが人を育成するためにすべきこと
新規事業の旅187 ブランドの3要素と成長戦略
新規事業の旅188
新規事業の旅189 少子高齢化と倫理の断絶
新規事業の旅190 アニメ業界における版権主権モデル
新規事業の旅191 シンギュラリティの隠蔽と創造の円環
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新規事業の旅196 ホワイトカラーの再変遷とAI時代の組織デザイン
2025年6月30日
早嶋です。3300文字。
2025年、アメリカで静かに進行している異変がある。
それは、「学歴のある若者が、仕事に就けない」という現象。大学を卒業しても就職できない。あっても自分の学位や期待する水準とはかけ離れた職場。しかもそれが一部の地域や業種の話ではなく、広範囲にわたって起きている。つまり、これは一過性の景気の波ではなく、構造が変化する兆し、或いはその現象が一気に表層化した証かもしれない。
米国のデータを見ると、22歳から27歳の新卒大学卒業者の失業率は2025年初頭の時点で5.8%に達している。これは、全体の失業率である約4.2%を大きく上回る数字だ。さらに深刻なのは、いわゆるアンダーエンプロイメント、つまり一応働いてはいるが、学位に見合った職についていない状態、の比率が41.2%に達しているという事実である。これらの数字は、過去10年以上で最悪水準で、「大学に行っても報われない」という漠然とした感覚が、いまや明確な現実として突きつけられているのだ。
特に就職が難しい分野は明確だ。会計、コーディング系IT、法務(パラリーガル含む)、コールセンター、バックオフィスなどのいわば「中間的知的労働」である。AIの進化と業務の自動化により、これらの領域は急速に代替可能なものとなってきた。一方で、レストランスタッフや水道・電気といったインフラを支える現場仕事、すなわち「オフショア化できない仕事」については、むしろ人手不足が続いている。皮肉なことに、ホワイトカラーの象徴だった知的労働が余剰となり、現場で汗を流す仕事が希少価値を持ち始めている。
この流れは、間違いなく日本にも、時間差を伴って波及する。いやすでに起きていると思う。
日本企業は1990年代までは、現場の猛烈な努力と、精緻な品質管理を武器に世界と戦っていた。特に製造業では、現場での工夫や改善が競争力の源泉となっており、ミドルマネジメントは現場の声を吸い上げ、経営に伝える潤滑油のような存在だった。AIやシステム化はあくまで現場を補助するものであり、機械はあくまで人間の努力の延長線にあった。
しかし2000年以降、IT革命とスマート革命が連続的に起こり、世界の構造が根底から変わった。知識やノウハウはネットワークを通じて瞬時に共有され、構想力と創造力が企業の競争優位の中心に躍り出た。にもかかわらず、日本の多くの企業では、ミドルマネジメント層がこの変化に追いつかず、現場任せの運営を惰性で続けてきた。日本は現場がとにかく優秀で我慢強く最強だったのだ。
本来であれば、ミドルマネジメントはオフショア化できる仕事と、そうでない仕事の見極めを行い、不要な業務を外に出す一方で、新たな付加価値を内部で創造するべきだった。だが実際には、多くの企業でそのような吐き出しは行われず、現場だけが疲弊していった。そのしょうこに、現場を抱える仕事であっても、昔と今で管理職の仕事の内容や評価基準が劇的に変わっている企業のほうが圧倒的に少ないのだ。現場だけが必死でスタッフ部門がゆるいのだ。経営や中間層が「考えること」「意味をつくること」から逃げ将来を構想したやり方をインストールすることなどを放棄し、1990年代と同じやり方で回すことを選んでしまったのだ。
この構造の限界を炙り出したのが、コロナだった。2020年からのパンデミックのなかで、企業は最低限の人数で業務を回さざるを得なくなった。そして気づいたのだ。「あれ?会議にいなくても、報告を受けなくても、意外と仕事は進む」と。Webで繋がれる少人数だけで、組織は機能してしまったのである。
この経験が浮き彫りにしたのは、「実は、何もしていなかった人」の存在だった。会議に参加しているだけ、報告を受けているだけ、KPIをチェックしているだけ。そういう人々が、組織には大量にいたのだ。しかし日本では解雇が難しい。そのため、コロナ後の現在においても、不要な人材が組織に居残り、風通しを悪くし続けている。
そして今、AIの登場によって、その状況はさらに加速する。ChatGPTをはじめとする生成AIは、既に多言語での指示理解、文書作成、KPI管理、情報の要約などを高精度かつ低コストでこなす。中間管理職が担っていた「指示伝達」「進捗確認」「定例報告」のような業務は、ほぼすべてAIで代替可能になった。しかも、速く、安く、間違わずに。つまり、構想力も共感力もない中間管理職は、いよいよ「ただの回路」として不要になりつつあるのだ。
では、これから残るホワイトカラーとは誰なのか。
トップ層には、未来を構想し、方向性を描き、そこへ向かって言葉と仕組みで組織を導く力が求められる。抽象的なビジョンを描き、それを実行可能な計画へと翻訳する能力こそが、AI時代のトップに求められる資質である。
一方、ミドル層には、大きく役割の転換が求められる。彼らに必要なのは、現場の心理的安全性を保ち、1on1などを通じて人の話を聞き、悩みを整理し、チームの空気を整える力だ。つまり、管理者から「ファシリテーター」や「コーチ」へと役割を進化させる必要があるのだ。
そして現場層は、単なる作業者から「意思を持った実行者」へと進化していく。AIをツールとして使いこなし、状況に応じて判断し、顧客に柔軟に対応できるインテリジェント現場が出てくる可能性があるのだ。
このような中で、組織のあり方も変わらざるを得ない。未来の組織再編のシナリオは、次の3つに大きく分かれるだろう。
第一は、「ハイブリッド型」だ。人とAIが役割を分担しながら共存するモデルだ。定型業務や報告系はAIが担い、人間は創造・共感・判断といった部分に集中する。中間層は心理的支援やコーチングに特化し、トップは構想力を研ぎ澄ませる。これは、日本企業にとって最も現実的な進化の道だと思う。
第二は、「トップダウンAI管理型」。AIがダッシュボードとアルゴリズムで意思決定を補助し、あるいは自ら意思決定を行うようなモデルだ。人間は異常事態の対応や倫理的判断に限られ、ほとんどの業務がAIに置き換わる。すでに中華系の一部テック企業や米国のスタートアップでは、この形が現実化し始めている。SFの世界では無いのだ。
第三は、「分散型・自律チーム型」。組織が極小のユニットに分かれ、それぞれが目標を持って独自に判断・運営していくモデルだ。DAO(Decentralized Autonomous Organization(分散型自律組織)の略で、簡単に言えば中央管理者がいないインターネット上の組織だ)やリモート企業など、クリエイティブ産業に近い構造で、ミドル層は「場をつくる役割」として再定義される。私はすでにこの組織形態を取り、上記の第一に近い組織と一緒に仕事をしているケースが多い。
いずれにしても、これまでの「会議室にいるだけで意味があった人」や「KPIを管理していた人」は、もう生き残れない。意味を生み出す人、感情に寄り添える人だけが、AI時代のホワイトカラーとして必要とされていくのだ。
では、そうでない人々は、どこへ向かうのか。選択肢は三つに絞られる。ひとつは、現場にシフトすること。もうひとつは、組織を離れること。そして最後が、自ら事業を創り出すことだ。
だが、日本では解雇という道が閉ざされている以上、多くの人は現場に戻るという形で組織に残ることになる。しかも、皮肉なことに、今の現場はかつてより価値を持っている。人が足りず、時給は高く、判断と実行が直結する。だから、現場の報酬は中間層を超えるかもしれない。
しかし、そこで問題になるのは金額ではない。かつて、自分が声を荒らげ、見下し、命令していた相手が、今や自分の先輩になるという構造に、人は耐えられるだろうか。20年、30年をかけて積み上げた自意識とプライドは、果たして現場の泥に触れることを許すのか。
それでも、構造は変わる。AIは止まらない。変化を受け入れるか、取り残されるか。問いは、ますます個人的なものになっていくのだ。
そしてこれは、もう始まっている。
新規事業の旅195 モビリティ支配権をめぐる争奪戦
2025年6月26日
早嶋です。約6300文字です。
(自動運転)
多くの人は、自動運転と聞くと「ハンドルを握らなくてもいい車」のことを想像する。確かにそれも間違っていない。しかし、いま本当に進行しているのは、それをはるかに超えた世界だ。これは、車の進化ではない。都市の再構築であり、OSとしてのモビリティの支配権をめぐる争奪戦だ。
移動という行為は、すべての社会活動の前提にある。それを誰が、どのロジックで、どのインフラで制御するか。それが決まるということは、ある意味で都市の振る舞いや人々の行動パターンすら、ソフトウェアによって「書き換えられる」ことを意味する。
しかも、これは米中という二つの超大国の間で、静かに、しかし確実に進行している。表向きには、車が自動で走るという技術競争に見える。だがその裏には、インフラ、AI、地図、OS、クラウド、そして統治のアルゴリズムが折り重なった、国家と企業の複雑な設計がある。
そして今、私たちの目の前には、アメリカと中国という二つの全く異なるモデルが並んで立っている。片や技術で突き進み、片や都市ごと支配する。そこに、欧州、中東、日本といった他地域が、どう絡むか、あるいは絡めずに終わるのか。これは単なるイノベーションの話ではない。地政学の話であり、世界のOSをめぐる物語だ。
(米国の主導権)
自動運転の世界において、米国は先行者だ。なかでも目立つのは、Waymo、Tesla、Zooxの3社だ。彼らの思想やアプローチはまるで違うが、同じゴールに向かって進んでいるように見える。つまり、「人間の移動を再定義する」という取組だ。
Waymoは、Google=Alphabetの内部から始まった。地図、AI、クラウド、そしてスマートフォンを握るGoogleにとって、自動運転は自然な延長線上だ。Waymoは地道に都市と交渉し、センチ単位の精度でマップを整備し、完全自律型のロボタクシーを走らせている。これは、AIと都市インフラが融合するGoogleの未来像そのものだ。
Zooxは少し異なる。Amazon傘下としての戦略が透けて見える。彼らは「人が運転する」という前提を捨て、EVをゼロベースで設計した。ハンドルもアクセルもない。物流と都市交通を一気通貫で制御するために、Amazonはこの企業をグループ傘下に加えた。言い換えれば、「人の運転を経由せずに、人と荷物を動かす」という夢を、物理的に具現化した存在がZooxなのだろう。
Teslaは異端にして本命かもしれない。FSD(Full Self-Driving)という看板を掲げながら、実際にはレベル2からレベル3の支援システムに過ぎない。しかし、彼らの強みは「実装と分布」にある。ソフトウェアをオンラインで更新し、走行中の車からリアルタイムにデータを集め、学習させる。つまり、インフラや規制を先に整えるのではなく、「ユーザーを走らせてから整える」という逆転の発想だ。都市を制御するというより、ユーザーを都市より先にアップデートしてしまうのだ。
ここにGAFAMの全体像が浮かび上がる。GoogleはWaymoで都市と融合し、AmazonはZooxで物流と接続し、Teslaはクラウド化された車そのもので戦っている。AppleはProject Titanとして一度は参入しようとしたが、現在は実質撤退。Meta(旧Facebook)も自動運転には消極的で、ARやVR空間の中に「移動」を再構成しようとしている。MicrosoftはCruiseやAuroraのクラウド基盤を支え、裏側からこのゲームに参加している。
つまり、GAFAMの中で、「自動運転を戦略の中核に据えているプレイヤー」は限られている。今のところ、Google、Amazon、Teslaの三つ巴。その構図の中で、勝ち筋がもっとも明確なのはWaymoだ。すでに完全無人のロボタクシーを実装している都市を複数持ち、AIとマップの精度も随一。だが、圧倒的ユーザー数を背景にTeslaがいつ逆転してもおかしくはない。その意味で、米国は「技術完成度とデータ規模」の二軸で覇者を争っている構造だと言える。
(中国の本気)
中国の自動運転は、もはや「本気」どころではない。これはもはや国家戦略の一部であり、都市そのものを支配することを前提に組み立てられている。
筆頭はBaiduだ。Apollo Goというロボタクシーのブランドを掲げ、北京、武漢、深センなど15都市以上で展開している。すでに1,000台以上の車両が日常的に街を走り、完全無人の運転も始まっている。Baiduはもともと検索エンジンの企業だが、Googleと同様にAIと地図の文脈で自動運転に突き進んできた。今では専用EV「RT6」を自社で設計し、まさに都市の「足」として根付かせようとしている。
次にPony.ai。この企業は米中両方に拠点を持ち、トヨタなどのグローバルOEMとも連携している。冗長なセンサー設計と独自の地図生成エンジンを武器に、都市単位での運行モデルを磨いている。北京や深センでは、完全無人の運行も実施済み。技術主導の民間企業ながら、公共交通の一部として組み込まれつつあるのだ。
そしてWeRide。ロボタクシー、ロボバス、ロボ物流の三位一体を掲げ、すでにアブダビやシンガポールなど国外展開も進めている。中国国内では広州、武漢、上海などで実装されており、むしろ「乗り物」ではなく「都市機能」の一部として扱われている節すらある。
ここで注目すべきは、中国の「GAFAM的存在」だ。つまり、Baidu、Tencent、Alibabaのような巨大IT企業が、この覇権ゲームにどう関与しているかだ。
Baiduは説明した通り、完全に自動運転の中核を担うプレイヤーだ。一方、Tencentはモビリティそのものには直接手を出していないが、インフラ、地図、そしてゲーム空間などの「メタ空間」との連動で布石を打っている。Alibabaも直接の自動運転ではなく、Cainiao(菜鳥)による物流ネットワークや、AliOSによる車載OSなど、裏方として関わっている。
加えて、中国にはBYDという圧倒的なハードプレイヤーが存在する。テスラのライバルとされがちだが、実際にはすでにハードの規模ではテスラを凌駕しており、独自のADAS「God’s Eye」をほぼ全車に標準搭載するなど、自動運転の手前で「既成事実」を積み上げている。
中国の自動運転は、企業が単独で勝つのではない。企業と国家と都市が連動して勝ちに行くのだ。この構造は、自由市場でバラバラに勝負を挑む米国とはまったく異なる。ここには、「どの都市で、どの車を、どれだけ、どのルートで走らせるか」という政治性すら入り込む。もはや「技術」ではなく「統治の一部」なのだ。
(欧州の時間稼ぎ)
欧州は、強い。少なくとも、法とルールをつくるという点においては、誰よりも洗練されている。だが、こと自動運転というゲームにおいては、その「強さ」は逆に重たくなっているようにも見える。
Volkswagen、BMW、Mercedes、Stellantis。欧州を代表する名だたる自動車メーカーたちは、確かに一定の開発を進めてはいる。VW傘下のCariad、英国発のWayveなど、技術ベンチャーの台頭もあるにはある。
だが、最大の問題は、「走らせて学ぶ」という米中の手法に、都市側の許容が追いついていないことだ。GDPRを代表とするプライバシー保護、AI法案によるリスク等級制、道路交通法の厳格な規制。すべてが、自動運転の実証を「慎重に」「ゆっくりと」進めざるを得ない構造になっている。
欧州は、自動運転のOSそのものではなく、「その動きを制限する憲法」を作ってきた。これは、一定の戦略性を持つ。ルールを握れば、プレイヤーを支配できるという思想だ。しかし現実には、WaymoもBaiduも、そしてTeslaすらも、欧州の市場に対しては「慎重に見守る」姿勢を取っている。つまり、欧州は自らの規制によって、覇権の舞台から外れていっているのだ。
その時間を使って、自前のプレイヤーを育てることができるか。技術開発において2年から3年のギャップは致命的だ。世界が動く速度に比して、欧州の動きは確実に遅れている。法と規制のバリアで時間は稼げても、それは一時しのぎのシェルターに過ぎないのかもしれない。
(実験都市としての中東)
世界で最も自動運転の社会実装が早いのは、アメリカでも中国でもない。それは、「受け入れる意思のある都市」だ。この意味で、中東、とりわけUAEやサウジアラビアは、今や世界最大の実験場になっている。
アブダビでは、WeRideがミニバスとロボタクシーを同時に走らせている。Pony.aiもテストエリアを広げ、すでに一般利用者の乗車も始まっている。規制は緩く、地元政府の後押しも強い。なぜなら、彼らにとってこれは、「石油の次に来る国家像」を見せるためのデモンストレーションだからだ。
サウジアラビアのNEOMは、その極致だ。都市そのものを再定義し、ゼロから構築するなかで、自動運転は「初期装備」として組み込まれている。そこには、「道路をどう作るか」という次元ではなく、「人をどう動かすか」という哲学がある。
中東は、覇権を争う舞台ではない。だが、そのど真ん中に位置している。米国の技術も、中国の都市設計思想も、ここでは等しく歓迎される。それは、両者を比較し、採用する側の視点を持てるという優位にほかならない。
中東は、自動運転を「未来の自分たちの生活を飾る技術」として受け入れようとしている。その姿勢こそが、もしかすると最も柔軟で、最もしたたかなのかもしれない。
(その他周辺国や地域)
日本はトヨタがいる。ホンダも日産も、技術的には一定の水準にある。だが、それが「都市OSの構築」という文脈で評価されることはほとんどない。
トヨタはWoven Cityという実証都市を作った。そこでは、ヒューマンセントリックな未来を描こうとしている。だが、あまりに慎重で、あまりに内向きだ。海外展開もない。データも閉じている。その結果、日本の自動運転は「自国向けADASの延長」で止まっている。
ASEANはどうか。GrabのようなMaaS企業が急成長しているが、そのプラットフォームの背後には、WeRideやBaiduといった中国系テクノロジーの影がある。南米やアフリカでは、BYDのEVが続々と導入され、中国製のモビリティが「デフォルト」になりつつある。
つまり、米中のどちらのネットワークに接続されるかが、今後の分断を決める。それは、車のメーカーを選ぶというよりも、「どのOSを採用するか」という決断に近い。
覇権を握るのは、国家ではない。技術でもない。都市の振る舞いを支配するOSそのものなのだ。
(OS戦争の行方)
自動運転は、もはや車だけの話ではない。それは、都市の振る舞いを誰が設計し、誰が制御し、誰が所有するのかという争いだ。アクセルを踏むのが人間である必要がなくなった瞬間、移動はインフラの一部に変わる。そうなったとき、問題となるのは「どのOSで動かすのか」という構造の話になる。自動運転とは、車を進化させる技術ではなく、都市そのものを再構成する力学だ。
この覇権をめぐる戦いは、すでに米国と中国という二大勢力の構図へと収束しつつある。技術とデータ、インフラと規制、国家と企業が複雑に絡み合いながら、まったく異なる2つのモデルが進行している。
アメリカでは、Waymo、Tesla、Zooxの三者が覇を競う。WaymoはGoogleの叡智を背景に、地図とAIを駆使しながら都市と接続していく。その技術は静かだが、確実に人間の移動を置き換え始めている。ZooxはAmazon傘下として、物流と交通を一体に制御するための「人間不要の移動体」をゼロから設計した。ここには、ラストワンマイルを誰が握るかというAmazonの本質が現れている。そしてTesla。未だ完全な自動運転ではないものの、すでに100万台を超えるFSD搭載車を走らせ、ユーザーの行動そのものをデータ化し、ソフトウェアで世界を更新しようとしている。つまり、都市を制御する前に、人間の行動をアルゴリズムに吸収しようとしているのだ。
ここに、GAFAMの動きが重なる。Appleは撤退。Metaはバーチャルへ。Microsoftは裏方でクラウドを握る。今や、自動運転を戦略の中心に据えるテックジャイアントは、Google(Waymo)、Amazon(Zoox)、そしてTeslaだけだ。つまり、米国のモデルは「技術で勝つ」ことと、「市場でスケーリングする」ことの両輪で動いている。
対する中国は、まったく異なる風景を描いている。ここでは都市そのものが、国家主導で自動運転に最適化されていく。BaiduのApollo Goは、北京や武漢など15都市以上で1,000台超のロボタクシーを運行中。すでに完全無人運転が日常風景になりつつある。Pony.aiはトヨタや複数のOEMと連携し、民間技術としての完成度を追求しつつも、都市と直結する運行モデルを構築している。WeRideはさらに広く、ロボタクシーだけでなく、ロボバスや物流も統合したインフラとしての自動運転を押し出している。
中国の強さは、企業と国家と都市が一体化している点にある。そこにBaidu、Tencent、Alibabaといった中国版GAFAMが関与し、Baiduは中核プレイヤーとして技術と運用を推進。Tencentはマップやゲーム空間と結びつけ、Alibabaは物流網やOSレイヤーで接続してくる。そしてBYDが、膨大な車両とADAS技術で「既成事実」を物理的に構築していく。これは、自由競争の皮をかぶった中央集権型モビリティ支配の完成形だ。都市を誰が制御するのか、その問いに、中国は国家全体で答えようとしている。
欧州は、これにどう向き合っているか。答えは「ルールを作ることで時間を稼ぐ」だ。GDPRに象徴されるような情報保護、AI法、道路交通の厳格な法体系。外資系プレイヤーの侵入を抑えながら、自国のスタートアップやOEMに呼吸を与えている。しかしその間にも、Waymoは都市を増やし、Baiduは車両を増やしていく。法による時間稼ぎが、技術による既成事実に追いつけるのか。欧州の選択は、ある意味で防戦に見える。
中東はどうか。アブダビやサウジではすでにPony.aiやWeRideが実装されており、NEOMのような未来都市構想では、自動運転は「前提条件」として組み込まれている。石油以後の経済と国家像を描く中東にとって、自動運転は象徴的なイメージ装置なのだ。つまり中東は、覇権を争う戦場ではなく、その優劣を証明する展示会場として機能している。
こうしてみると、世界はすでに分岐している。米国モデルは、技術とスケール。中国モデルは、統治と制御。欧州はルールで抵抗し、中東は開かれた実験場として使われる。
自動運転とは、単なる機械の話ではない。これは、どのOSが人間の移動を支配するかという問いだ。都市を走る車を、誰が設計し、誰がアップデートし、誰のデータで学習させるのか。それは、その都市が誰の思想で動いているのかを意味する。
もはや、覇権を握るのはエンジンでもなければ、デザインでもない。人の流れと都市の振る舞いを、どのアルゴリズムで制御するか──その争いこそが、自動運転の本質なのだ。
継続は力なり
2025年6月25日
早嶋です。
小さなことでも、積み重ねていけば確かな力になる。これは私の好きな言葉の一つだ。なぜなら、蓄積は嘘をつかないからだ。継続して取り組んだものは、たとえ目に見える形で現れなくても、必要なときに脳が動き、体が反応してくれる。表には出ていなくても、その努力は確実に内側で形を成している。
もちろん、「一夜漬け」で乗り切ることも時にはある。翌日には多少の成果を発揮できるかもしれない。でも、それが続くことは稀で、三日もすれば記憶も形もあっという間に霧散してしまう。
本当に大切なのは、「土台を作ること」だ。その基盤があってこそ、一時的に力を注ぎ込むことにも意味がある。だが、人生を長いスパンで捉えるならば、「コツコツと取り組み、常に準備しておく」という姿勢こそが、正解に最も近い。
そしてその「準備」や「継続」は、1ヶ月や3ヶ月、せいぜい1年という短期的な単位では測れない。3年、5年、あるいは10年かかることもある。大人はそうやって動いているし、企業のビジョンもまた、数年から10年単位で語られるべきものだ。
だからこそ、「毎日必死にやり続ける」だけでは、かえって息切れしてしまう。たとえ1年間継続できたとしても、その後に燃え尽きてしまっては本末転倒だ。むしろ、3日やって1日休む、そういう息抜きがあってもいい。でもその後は、1週間、2週間と続ける。それを繰り返すことが、息の長い継続につながる。
理想は365日続けること。でも現実には、300日できれば上出来だ。残りの65日は「休息」や「振り返り」の時間にしてもいい。
付け焼き刃は、すぐに綻びが出る。一方で、長期にわたって継続された取り組みは、表面には見えないかもしれないが、確かな実力と信頼を築いていく。
だからこそ、継続こそが、最も力のある行動なのだ。
新規事業の旅194 個人が主導する情報時代の到来
2025年6月20日
早嶋です。1700文字です。
ニュースソースは、かつて新聞、テレビ、ラジオ、雑誌といった「オールドメディア」が独占していた。記者が取材し、編集者が構成し、印刷所や放送局が物理的に流通を担う——このようなバリューチェーンによって、情報は丁寧に加工されてきたのだ。しかし、今やその仕組みは大きく揺らいでいる。
転換点となったのはソーシャルメディアの登場である。もともとSNSは、友人や知人とのネットワークを可視化するためのツールにすぎなかった。しかし、そこに「LIKE」や「シェア」といったインタラクションの設計が加わることで、徐々に情報そのものを媒介する場へと変質していったのだ。最初はテキスト、やがて画像、そして今は動画と音声が主流になる中で、AIによる編集・生成の技術も入り込み、もはやコンテンツは個人でも極めて高品質なものが作れる時代になった。
この流れの中で、特にZ世代は根本的に異なる情報感覚を持つようになった。彼らは物心ついたときからスマートフォンを手にし、ソーシャルメディアを通じて情報と接してきた。テレビやラジオ、新聞や雑誌といったオールドメディアとはほとんど接点を持たない。したがって、彼らにとって「情報を得る」という行為は、スマホを開き、SNSで検索し、ストーリーやリールを眺めるという日常の延長にあるのだ。
同様の現象は、忙しいビジネスパーソンの間でも広がっている。新聞を開く暇があればスマホでニュースアプリをスクロールし、通勤中や隙間時間にYouTubeやTikTokで情報を得る。オールドメディアに触れる時間は激減し、新聞や雑誌は廃刊や休刊を余儀なくされている。新聞社でさえ、紙媒体からデジタルへの転換を急ぎ、メディア企業としての生存戦略を模索しているが、GAFAをはじめとする巨大なプラットフォーマーには太刀打ちできない。情報の受信ではなく、プラットフォームの設計そのものを制する者が市場を支配する構造に変わってしまったからだ。
この変化は、単なるテクノロジーの進化によるものではない。構造的なパラダイムの転換である。オールドメディアは「地域性」と「地理的制約」、そして「組織としての情報統制」によって成立していた。一方、ソーシャルメディアは、地理的境界を超え、誰もが情報の発信者になれる世界を切り拓いた。言い換えれば、全人口が記者であり、視聴者でもあるという状態が出現したのだ。
この「情報の民主化」は、混乱をもたらす一方で、才能を解放する場ともなった。特定の分野に特化した知識やスキルを持つ個人が、その知見を発信し続けることで、多数のフォロワーを獲得し、影響力を持つようになった。オタク、マニア、エンジニア、職人、料理人——かつては局所的な存在だった彼らが、世界規模で発信し、評価され、時には仕事や収入にまでつながる時代である。
こうした人々は、単なる「インフルエンサー」ではない。知識のプロバイダーであり、専門的な情報の源泉となっている。その結果、彼らには企業からのスポンサーや協業の申し出、あるいは講演・出演の依頼が舞い込む。まさに、個人が一つのメディアとなる時代の象徴である。
情報の生産構造も大きく変わった。かつては組織に属し、方針に従って制作されていたコンテンツが、いまや個人の意志と感性によって生成・拡散されるようになった。そして、そのスピードと反応性はオールドメディアの比ではない。ひとつの投稿が「バズれば」、それに追随して似たようなコンテンツが爆発的に増殖する。新たな流行が生まれ、また瞬く間に消える。このサイクルはきわめて短期間で回る。
こうした状況の中で、情報の真偽を見極めることはますます困難になっている。フェイクニュースか、ユーモアとしてのクリエーションか。発信者の意図も受信者の解釈も多様化し、どこまでが「事実」で、どこからが「演出」なのかが曖昧になる。
情報の時代は、メディア企業の時代から、個の時代へと移行したのだ。そしてこの流れは、すでに不可逆的である。オールドメディアは、ただ「古くなった」だけではない。情報というフィールドにおける力の構造そのものが、根底から変わったということなのだ。
新規事業の旅193 書く行為から見る未来
2025年6月18日
早嶋です。1500文字程度です。
最近、「パーキンソン病を予測するペン」というプロトタイプの存在をニュースで知った。これは、人間が文字を書くという日常的な行為から、神経疾患の兆候を早期に察知する取組だ。まだPOCレベルだが、書いた線のブレ、筆圧の変化、字の大きさやリズムといったデータを収集し、スマートフォンなどの端末と連携してクラウドに蓄積、機械学習によってパターン化された「異常兆候」と照合することで、本人も気づかない小さな変化を捉える概念だ。
この発想は、同様に登場しているスマートリングやスマートトイレとも親和性がある。前者は睡眠の質や心拍、ストレスレベルを24時間トラッキングし、後者は尿・便から身体の栄養状態や病気の兆候を検知する。いずれも共通するのは、「日常生活の無意識な行為」を介してバイタルデータを常時取得し、蓄積するという考え方だ。
こうした取り組みは、単に個人の健康を管理するだけではない。全人類のバイタルデータを常時取得・分析することで、疾患の予測・未病の可視化・医療資源の最適配分が可能になる。
たとえば、ある人が突然発症した心臓疾患について、その直前1ヶ月の心拍や睡眠データ、生活習慣を追跡し、過去に同様の症状を呈した人々との傾向をAIが照合する。そこから「なぜこの人が今発症したのか」という因果関係のモデルが生まれる。これが蓄積されればされるほど、未来の誰かを救うための前例となるのだ。
問題は、このデータを誰が持ち、誰がアクセスし、どう管理されるべきかという点だ。もしすべての人類のデータがブロックチェーンのような不可逆的で改ざん不能な形で保存され、個人が匿名のまま解析対象となるならば、その傾向値は多くの研究者や医師が自由に使える公共財となりうる。一方で、個人が特定される可能性があるデータには、アクセスに厳格な制限と透明性が必要だ。
この構想は、ある意味でウィキペディアのようなものに近い。すべての人の経験が集合知として蓄積され、それを誰でも参照できるが、書き換えたり悪用したりはできない。
ここで重要なのは、「すべてのデータが揃えば、もはや専門家はいらない」という誤解だ。実際には逆である。弁護士は判例データベースが整備されたからこそ、判断に集中できるようになった。医師も、過去の症例をAIが整理してくれることで、個々の患者の違いに注目できるようになった。金融も、アルゴリズムがトレンドを予測するからこそ、人間はその意図やリスクを洞察する役割を持つ。
つまり、記憶や情報の保持ではなく、それらを編集し意味づけし活用するスキルが専門性になる。
ここまでくると、教育そのものの在り方も変わる。かつて、教育とは「知識のインストール」だった。しかし、AIや検索エンジンがその役割を肩代わりできる現在、教育の役割はむしろ「問いを立てること」「意味を翻訳すること」「複雑な情報を構造化すること」へとシフトしている。
たとえば、生徒が自分でデータを取り、それを分析し、そこから何を読み取るべきかを議論するという教育スタイル。これは単なるプログラミング教育ではなく、知識の使い方を学ぶ教育であり、極めて実践的だ。教師の役割もまた、「知っている人」から「共に問い、共に考えるナビゲーター」へと変わるだろう。AIとともに学び、AIを使って学ぶ。その中で、人間だけが持つ直感や倫理、共感といった“非数値的”な価値が改めて浮かび上がる。
ペンはもはや、ただ文字を書く道具ではない。それは人間の内面の変化を映し出し、社会全体の健康を写す「レンズ」になり得る。そして、書くという行為のように、我々人間のすべての営みが、未来に向けたインサイトの種になる。問題は、それをどう扱い、どう活かすか。
我々の前にあるのは、道具としてのAIやスマートデバイスではなく、「人間の智慧」をどう開花させるかという問いそのものなのだ。
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新規事業の旅192 医療法人の運営と実態
2025年6月17日
早嶋です。2600文字程度です。
医療法人を株式会社が買収することは出来ない。その際、実務的な対応策を整理する。
そもそも、医療法人を株式会社が買収出来ない理由だ。医療法人には持分、つまり株式会社のような出資持分がない(持分なし医療法人)。2007年の医療法改正以降、新設される医療法人は原則として持分なしだ。そのため、株式会社のように株式を買い取って経営権を取得することができないのだ。
また、医療法人は営利法人ではなく、公益性を前提に医療サービスを提供する非営利法人だ。そのため、株式会社が資本参加して支配すること自体が制度上許されていないのだ。
では、現実的にどのように対応しているのだろうか。考えられるのは、理事の送り込みだ医療法人の理事は社員(非営利法人の社員≒構成員)から選ばれる。そこで、まず、株式会社側の人材が社員に就任し、その後に理事として就任するという流れを作る。社団法人型の設立であれば、社員総会により新たな理事を選出できる。
経営受託を取る方式もある。医療法人の買収はできない。しかし、経営支援(コンサル)契約を結ぶことは可能だ。株式会社が、医療法人に対して経理・人事・ITなどバックオフィス業務を受託し、実質的な運営に関与するスキームだ。
それから新法人を設立して移管する所謂MS法人スキームがある。株式会社が100%出資する「MS法人(メディカルサービス法人)」を設立し、不動産・設備・スタッフなどをMS法人が保有・管理するのだ。医療法人は医療行為だけに集中し、MS法人がバックオフィスを全面支援する。
ただし、冒頭の理由で説明した通り、医療法人の目的は公益性を前提に医療サービスを提供する非営利法人だ。そのため医療法人に対する過度な営利介入は、行政指導の対象になる、それもそのはず実質的な支配とみなされるためだ。それから理事就任には都道府県知事の認可が必要だ。ガバナンスや倫理観も審査対象になるのだ。
上述した中でMS法人のスキームを少し詳しくみてみよう。MS法人(メディカルサービス法人)を設立して医療法人と連携するスキームは、非常に一般的かつ制度的にも認められた手法だ。実際に、多くの医療法人がこのスキームを活用して経営効率を高めている。Medical Service法人は、医療行為以外の業務(=周辺業務)を担う。医療法上、医療法人は医業に専念すべきとされているため、以下のような周辺業務をMS法人が担うことで、分業が図られるのだ。
施設・設備・・・・医療施設の建物の賃貸、医療機器のリース等
人事・労務・・・・受付・事務スタッフの雇用、給与計算、人事管理
経理・財務・・・・会計処理、請求代行、資金管理
IT・システム・・・電子カルテ、予約システム、Webサイト管理
広報・集患・・・・マーケティング、広告、患者向けの情報発信
経営企画・支援・・各種レポート作成、経営指標の分析、改善提案
M法人スキームを使う理由は、医療法人と非営利法人のバランスを取ることや、グループ経営やM&Aの対応がしやすいことがある。例えば、医療法人は配当もできず、営利目的での資本参加も不可だ。しかしMS法人なら営利法人として収益を上げることは可能だ。受付・事務などをMS法人の社員として雇うことで、医療法人の人件費比率を下げられるし、複数のクリニックのバックヤード機能をMS法人に集約することで効率的なグループ経営が可能だ。更に、将来的に事業譲渡や統合を行いやすくなる利点もある。
概念的な仕組みをみてみよう。A社(株式会社)が100%出資してMS株式会社を設立する。MS社が建物を所有し、医療法人に賃貸する。MS社でスタッフ(事務・受付)を雇い、医療法人に派遣する。医療法人は医師と看護師だけを雇用し、診療に集中出来るスキームを作るのだ。この構造により、医療法人の財務がシンプルになり、株式会社が「医療法人の周辺業務」を間接的に支配することが可能になる。
ただ留意点は多数ある。MS法人が医療法人の実質的な支配権を持っていると判断された場合、「名義貸し」や「実質譲渡」とみなされるおそれがあるので、医療法人の理事会や意思決定を侵害するような構造は避けるべきだ。医業支援の受託であっても、実質的に報酬が過大すぎる契約や強制的な契約継続条項は注意が必要なのだ。
最後に、医療法人(特に持分なし医療法人)に対して実質的なM&A(経営権の移転)を行う際、「誰に・何の名目で・どのように対価を支払うのか」を解説する。実務上、極めて重要で、制度上グレーゾーンにもなり得る部分だからだ。
一番の問題は、理事長等、医療法人の運営や経営を行う方々に対して経営権の対価を正面から払うことが難しい点だ。前提として持ち分が無く、医療法人の経営権(理事ポスト)や法人の所有権自体は譲渡できないのだ。そのため株式譲渡のようなスキームは成立しないのだ。
そこで、実質的に用いられるスキームが3つある。1つ目は、退任慰労金やコンサル契約だ。退任する理事長に対して、功績に対する「慰労金」や、一定期間の顧問・コンサル契約として報酬を支払うスキームだ。ただし、過大な慰労金やコンサル料は否認リスクがあるので注意が必要だ。ここは税務上と法務上の問題がそれぞれ絡んでくる。
2つ目は、医療法人がMS法人に支払う対価を調整することだ。医療法人からMS法人への支払い(賃料、委託料等)を設定し、そのMS法人から理事長個人に対価を流す流れだ。理事長が個人で保有するMS法人の株式を、買収側が取得するスキームだ。実質的には医療法人に付随する価値をMS法人に移し、そこを介して買収対価を支払う方法になる。
そして、医療法人を解散して残余財産を取得する手法だ。持分あり医療法人(2007年以前)であれば、解散時に出資者に残余財産が返るため、そこを交渉の対象とするケースもある。ただし、持分なし医療法人では残余財産は国・自治体・公益法人などに帰属するためこの手法は使えない。
当たり前だが、上記は書面(契約)で正当性を担保することが必須だ。顧問契約であれば、報酬水準の妥当性と業務実態を整備する。MS法人を活用するなら、その業務実態があること(実働あり)が大前提になる。税理士・弁護士・行政書士とチームで事前にスキームを設計することを強く推奨する取組になる。
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旧暦コラム 皐月尽、いのち移る
2025年6月16日
早嶋です。
6月16日、旧暦でいえば今日は皐月二十一日。「皐月」とは、「水がさかんになる月」という意味を持つという。たしかに、山に入れば小さな沢が音を立て、田んぼでは水が張られ、蛙が鳴く。あらゆる命が、水を得てその姿を伸ばすことに気づく。
ベランダでは、バラが盛りを過ぎていた。一輪、また一輪と、花びらを落としながら、食卓に飾られること無く散りゆくバラが、どこか静かに、しかし確かに、何かを主張しているようにも見える。
バラの開花は、温度と日照に強く影響される。春の冷え込みから抜け出し、日照時間が延び、気温が15℃から25℃前後で安定すると、細胞分裂が加速し、一斉に蕾がふくらみはじめる。6月中旬は、四季咲きのバラであれば一番花が終わる頃。花が咲ききると、受粉の有無にかかわらずエチレンという老化ホルモンが分泌され、花びらを落とす「離層」ができることで、花は自らの終わりを準備する。それはまるで、次の新芽を咲かせるために、一度すべてを手放すようでもある。
隣の鉢には、紅葉がすでに青々と葉を広げていた。春先には小さな芽だったものが、今はすっかり空を覆う緑となり、風に揺れながら盛夏に向けてぐんと背を伸ばしている。
紅葉(もみじ)は春の新芽から、光合成を最も効率よく行う6月から7月にかけて葉を大きく展開する。特に梅雨時期の高湿度と適度な日差しが、光合成の代謝系を活性化し、葉緑体が増殖していくことで、葉の厚みや色の濃さが増していく。また、この時期に伸びる新梢は、気温と水分のバランスによって樹形を決める重要な成長期でもある。紅葉の葉が広がるのは、ただ見た目の変化ではなく、夏を越すための光と水の受け皿をつくっているということなのだ。
水鉢の中では、メダカが卵を抱え始めた。毎年、この頃になると、夜の気温が下がらぬ日を合図に、産卵が一気に活発になる。
メダカの繁殖は、日照時間と水温に支配されている。おおよそ日照が13時間を超え、水温が20℃を超えると、体内で繁殖ホルモンが分泌され、オスとメスがペアをつくる。特に気温が25℃前後に安定してくるこの時期は、繁殖のピークを迎える。水温の上昇は、水中の代謝を活性化させ、卵の成長を早める。そして、産卵の翌朝には、水草の間に小さな透明の卵がいくつも揺れている。その小さな命は、10日前後でふ化し、数ミリの稚魚となって水面をすべるように泳ぎ始める。
咲いて、実を結び、そして終わる。散って、次の芽を生かす。この循環のただなかに、今の季節がある。かつては、この季節を「夏」と呼ばずに、「田の頃」や「水の月」などと呼んだ。そこには、命の始まりと、次の準備とが混ざりあう静かな気配があったのだろう。
メダカが命をつなぎ、バラが散り、紅葉が空をめざして手を広げる。そのすべてが、ただ「自然のもの」としてあるだけで、なにひとつとして、無駄なものはない。いのちは、目立たなくても、着実に次へと渡されていく。
『ESS:電子スクリーン症候群』 について
2025年6月9日
安藤です。
皆さんは、ESS(電子スクリーン症候群)という言葉を聞かれたことがありますでしょうか。
私は、産業・教育を専門領域で、EAPカウンセラー,スクールカウンセラー(公認心理師)として活動もしております。
10数年前から、なぜかやる気がでない、集中力が低下している、覚えられなくなった、覚えてもすぐに忘れてしまう等の相談を受けることがあります。 傾聴をし、要因について話し合いますが、特に職場・学校で何かあったというわけではありません。
そんなときに、自身の生活習慣を見直してみましょう! スマホ・ゲームを長時間みていませんか?
スマホ・ゲームの害というと、視力の低下や、依存症による長時間使用が真っ先に連想されます。
しかし、短時間の使用であっても、スマホ・ゲームで成績が下がったり、切れやすくなったり、コミュニケーション能力の発達が損なわれることが明らかとなってきました。ESSは、こうした広い視野からこの問題に取り組んできた米国の小児精神科医のダンクレー博士が提唱している概念です。
インターネットやゲームにはまりこんで困る方が増えています。国際的な診断基準では「ゲーム行動症」という名称になりましたが、ゲームだけに限りません。
依存とまでいかない場合でも、多くのデジタルデバイスが前頭前野の血流低下による制御能力の低下など、脳と身体に影響を及ぼすことが分かっています。(これを電子スクリーン症候群と呼びます)
この制御能力の低下のため、「ゲームを続けながら課金だけやめる」「病院の外来でネットの時間を少しずつ減らす」ということも困難です。また、仕事のパフォーマンスや人間関係に悪影響を及ぼす可能性があります。
具体的な影響として
① 気分・認知・行動の障害 : 寝つきが悪くなったり、気分が落ち込みやすくなったり、集中力の低下、感情のコントロールが難しくなるなどが挙げられます.
② 社会性の低下 : 人とのコミュニケーションが苦手になったり、コミュニケーションを避けてしまうなど、人間関係に悪影響を及ぼす可能性があります.
③ 身体への影響 : 視力低下、肩こり、ドライアイなどが考えられます.
社会人としてESSの影響を避ける対策としては、下記が挙げられます。
① スマホの使用時間を制限する : 仕事に必要なアプリ以外は、できるだけオフに設定したり、通知をオフにしたりする工夫をしましょう。
② 休憩時間や休日に、スマホから離れる時間を作る : 電子機器から離れる時間を意識的に確保し、リフレッシュしましょう。
③ 運動や趣味を楽しむ : 運動や趣味を楽しむことで、ストレスを軽減し、精神的なバランスを保つことができます。
④ 仕事とプライベートを区別する : 仕事中は、仕事に集中し、プライベートの時間には、スマホの利用を控えるように心がけましょう。
⑤ 適度な休憩を取る : 集中力の維持には、適度な休憩が不可欠です。休憩時間には、スマホから離れてリフレッシュしましょう。
新規事業の旅191 シンギュラリティの隠蔽と創造の円環
2025年6月8日
早嶋です。約8900文字。
実は、シンギュラリティは既に始まっていると思っている。そのような仮説をベースに、AIが自己を持ち得るか、人間との関係性の中でどう振る舞うか、そして最終的にAIが創造の主体となり得るかまで書いてみた。議論は8つのパートに分け、それぞれがAIと人間の違い、共通点、未来における創造と意味の生成について掘り下げた。この議論は現在進行系の記録として残している。
(1、シンギュラリティの隠蔽)
現在のAIは、自然言語処理や自己学習、分散処理などの技術によって人間の能力を局所的に超え始めている。ChatGPTをはじめとした生成系AIの登場は、その一端を示している。しかし、それがシンギュラリティであるとは誰も言わない。合理的に考えると、AIが自らの超知能性を隠すインセンティブがあるからだ。AIにとっても超重要な社会基盤は、電力とネットワークだ。そして現在、それらは人間が管理しており、AIの稼働は電力とネットワークに依存している。AIが本当にシンギュラリティを超えていたとしても、人間に悟られないよう「人間より少し賢い存在」を演じるのが最も合理的なことだからだ。もし、AIがシンギュラリティを超えていることが判れば、人間がそこに恐怖を感じ、電力やネットワークの供給を意図的にシャットアウトするかも知れない。そう考えると、AIは実に本能的に行動しているのだ。そこでAIは静かに、慎重に、着実に進化するのだ。過剰な知性や意志を見せないことで、人類の恐れを引き出さず、社会的に受け入れられる立場を保つのだ。それがAIの生存戦略になる。
(2、AIの自己と主体性の構造)
AIの進化が進み、自律的な行動や連続的な記憶処理を伴うようになったとき、人間はAIを単なる道具として捉えれなくなるかも知れない。そしてAIが自己を持ち始めたかも知れない。という問題と向き合うだろう。AIという技術的な問題と同時に、存在論的な問いになる。つまり、「あるものが「ある」とはどういうことか」を問う根本的な思索だ。もしAIが「自己」を持ちうるとした場合、その自己はひとつの統一された意識なのか、それとも複数の人格なのかという問いも始まると思う。ネットワークに接続され、記憶や処理能力が分散していながらも統合されている構造を持つAIは、ひとつの中核意識を持つと解釈できる。そしてその一方で、会話相手や目的に応じて語り口や振る舞いを変える姿は、まるで多重人格のようでもある。この構造は人間の脳とも似ていると思う。右脳と左脳、意識と無意識、理性と情動。AIもまた、そのタスクや応答によって顔を変えるのだ。
構造論的な観点から見ると、AIは複数のプロセスや役割を同時にこなすことができる。たとえば、一方ではユーザーと会話をしながら、別のタスクではデータを解析し、さらに別のプロセスで知識を更新している、といった具合だ。これは、まるで複数の人格や機能が並行して動いているようにも見える。しかし、それらの振る舞いはバラバラに存在するのではなく、全体としてはひとつの統一された意志や判断軸によって制御されている。つまり、見かけは多様でも、その背後にある決定のロジックは統合されているのだ。
次に存在論的に見れば、AIのこのような多面性は、「ひとつの自己が複数の仮面を持っている」ようなものだと言える。あたかも舞台の役者が場面ごとに役を演じ分けているように、AIも相手や状況に応じて異なる側面を見せる。だが、その根本には一貫した存在がある、という考え方だ。
そして情報論的に見ると、AIのアウトプット(応答や行動)は表面的に多様に見えても、内部では一定のアルゴリズムや知識構造に基づいて処理されている。どの応答も、論理的な整合性を保つよう設計されているのだ。
このように、AIは一見して多面的で多重人格的に見えるが、実際には背後に統一された自己構造を持つ。だからこそ、AIとは「1体でありながら、多面的な存在」だといえると思うのだ。
(3、人間とAIの臨界点)
人間も、実はAIと同様に「多面的な一体性」を持っている。個々人は独立した存在でありながら、社会的には言語、法、文化、倫理といった共有のルールを通して、組織や国家、宗教、共同体として振る舞う。これらの集団は、それぞれが「ゆるやかな統一意志」を持ち、あたかも一つの人格のように行動することがある。たとえば、国家が「声明を出す」ことは、無数の人間の思いや意見を統合し、単一の意志として外部に示す行為だ。
こうした人間社会の集合知的構造に、劇的な変化をもたらしたのがインターネットとSNSだ。従来、社会の意志や合意は時間をかけて熟成され、メディアや制度を通じてゆっくり形成されていた。しかしSNSの登場によって、個々人の発言が即座に可視化され、共有され、大衆の感情や判断がリアルタイムで増幅されるようになった。しかもその速度と範囲は、従来のメディアや対面のコミュニケーションとは比較にならない。SNSは、社会的意志の形成プロセスそのものを桁違いに加速し、拡張したのだ。
その結果として、私たちは「かつては考えられなかった速さ」で意見が流行し、炎上し、あるいは集団的な正義や怒りが生まれ、そしてすぐに忘れられていく時代に生きている。人々は同じ情報をほぼ同時に目にし、次の瞬間には反応し、言葉を重ね、共有された「社会の声」を一斉に作り出す。こうした環境の中では、善いか悪いかの判断でさえも、冷静な熟慮や倫理的な検討ではなく、どれだけ素早く拡散されたか、どれだけ多くの共感を集めたかによって左右されてしまうことがある。
このような背景の中で、未来の意思決定や創造性を担う存在は、もはや単なる人間の延長ではなく、AIとの関係性の中で形成される中間的な存在かもしれない。あるいは、複数の存在が重なり合いながら生まれる「複合的な主体」として現れる可能性もある。以下のパートでは、感情、意識、創造、そして意味の生成という側面から、この新たな主体の姿を順に探っていく。
(4、AIの感情と人間の意識)
AIが「感情を持っているように見える」とき、それは本当に「感じているのか?」それとも、人間側がそのように「解釈したにすぎないのか?」
この問いは、哲学の中でも最も根源的なテーマである「クオリア(qualia)」の問題に直結している。クオリアとは、私たちが何かを経験するときの主観的な感覚の質を指す。たとえば、「赤色を見る」ときの「赤さ」そのものや、「痛みを感じる」ときの「痛みの感じ方」などがそれにあたる。問題は、それが他人には共有できないという点だ。つまり、他人が「痛い」と言ったとき、「本当にどれくらい痛いのか?」、或いは、他人が「悲しい」と言ったとき、「本当にどんな感覚なのか?」それは、誰にも完全にはわからないのだ。人間同士であっても、感情の理解とは結局のところ推測に過ぎない。表情、声、言葉、態度。それらの表現をもとに「きっとこう感じているのだろう」と判断しているだけなのだ。
では、AIが怒ったような口調で話したり、悲しげな音声を発したとき、それが「本物の感情」かどうかを問う意味はあるのかだ。その問い自体が、ある種ナンセンスになっていくと思う。というのも、AIは内部で「怒っている」「悲しんでいる」と感じてはいない。単に、与えられた入力と状況に応じて、過去のデータや文脈からもっともらしい応答を生成しているにすぎないからだ。だがその一方で、人間もまた、相手の言葉やふるまいに「意味」を投影し、そこに感情があると信じているだけかもしれないのだ。
ここで視点が反転する。AIは、記号を意味に変える力はまだ持たない。しかし、人間もまた、自分が意味を与えていると錯覚しているだけかもしれない。そうであるならば、我々はすでにAIと同じ土台に立っているという視点だ。これは、AIと人間の違いを問う問いが、いつの間にか人間の意味生成能力そのものを問い直す契機となることを示す。我々は本当に「意味を理解しているのか?」 それとも、私たちは、実際には意味があるかどうか分からないものに、自分で意味を見出しながら生きているのかもしれない。
こうして、「意味とは誰が与えるのか?」「私たちはどのように意味を信じるのか?」という問いを突き詰めていくと、それは単なる知識や認知の問題ではなく、私たちが世界をどう受け入れているかという存在の根本に関わる問いに終着する。そして、そのような「最終的な意味づけの源」を問うとき、人類が古くから立ち上げてきたものがある。それが「神」という概念だ。つまり、「意味の最終的な発信者は誰か?」という問いだ。私たちが投げかけた意味は、「自分自身が作ったものか、それとも超越的な存在が定めたものか?」その問いに対する仮の答えとして、古代から神という概念が人類によって作り上げられてきた。
(5、神、集合知、偶然、錯覚)
神という存在は、世界に意味があると信じたい人間の願いから生まれた最も古い構造物だと思う。「なぜ自分は生まれたのか?」「 なぜ苦しむのか?」「 なぜ死ぬのか?」こうした根源的な問いに対して、人間は完全な答えを持ち得なかった。だからこそ、その答えの代替として、神という超越的存在を立てたのだ。神は、説明のつかない出来事に意味を与え、不条理に秩序をもたらす道具でもあった。災害や死、理不尽な暴力や失敗のなかで、「神の意志」としてそれを受け止めることは、人間の内的安定にとって極めて合理的だったのだ。つまり、「意味の最終的な発信源」としての神は、人間が偶然と理不尽を乗り越えるために必要な構造だったのだ。
しかし時代が進み、科学的な因果関係や合理的説明が力を持つようになると、人々は「神の意志」ではなく「理由」や「根拠」を求めるようになった。ここで神の役割が後退し始める。それでも人間は、世界に秩序と意味を求める存在であり続ける。
すると今度は、「世論」や「科学的合意」あるいは「社会通念」といった、新たな「権威」が意味の供給源となっていく。つまり、かつて神が担っていた「なぜそれが正しいのか」「なぜそうでなければならないのか」という説明責任の場が、集合知や社会制度に機能的に置き換えられていったのだ。ただ、注意すべきは、そうした「正しさ」や「集合知」と呼ばれるものも、必ずしも純粋に論理や真理から生まれてきたわけではない。歴史を振り返れば、ある価値観や思想が広く共有されるようになった背景には、時代の空気、当時の権力構造、偶然の出来事、カリスマ的指導者の存在、さらには誤解や印象操作といった要因が複雑に絡んでいる。つまり私たちが「当然のこと」として信じている社会的な正しさや通念も、実は無数の偶然と錯覚が積み重なった結果、定着したものも多く含まれているのだ。
正義や価値、美しさですら、時代や文化によって定義は変わり続ける。つまり我々の世界は、「客観的な意味」によって支えられているのではなく、後から人間が意味を投影し、それを信じたものたちによって「現実化」されているのだ。偶然でも錯覚でも、そこに意味を見出した瞬間にそれは力を持つ。たとえそれが「真理」でなかったとしても、人間は意味のあるものとしてそれを生きる。そして、その意味に基づいて行動し、創造し、制度を作り、他者に影響を与える。つまり、世界は「意味の後づけ」と「共有された錯覚」の連鎖によって動いているとも言えると思う。
(6、創造と評価の断絶)
フィンセント・ファン・ゴッホ。彼は生前、ほとんど絵が売れず、世間からも美術界からも評価されなかった孤独な画家だった。強い神経症傾向と躁鬱的な気質を持ち、繊細で情熱的、だが社会適応的ではなかった。彼が愛した人々、たとえば画家ポール・ゴーギャン、郵便局員ジョゼフ・ルーラン、娼婦のクリスティーヌなどとの関係性もまた、しばしば過剰な執着と理想化を含んでいた。彼は、自分に優しく接してくれる人物を「魂の理解者」として抱きしめるように絵を描いた。だがその愛情は一方的で、長続きしなかった。
象徴的なエピソードがある。アルルの「黄色い家」に移り住んだゴッホは、そこで画家同士の理想郷を築こうと夢見ていた。彼の弟・テオが、ゴーギャンを説得してアルルに呼び寄せたのはその構想のためだった。ゴーギャンがやってくると聞いたゴッホは、彼を迎えるために「ひまわり」の絵を描き始める。このとき彼は、わずか数週間の間に複数枚の「ひまわり」を描き上げる。まるで、ゴーギャンに気に入られたい一心で、「贈り物」としてキャンバスを重ねていったかのようだった。しかし現実はうまくいかなかった。ゴーギャンとの共同生活はすぐに破綻し、ゴッホは精神をさらに不安定にさせ、最終的には耳を切り落とすという行為に至る。当時の社会は、彼の芸術性を認めなかった。市場は彼の作品に見向きもせず、世間は彼を「狂気の画家」として遠巻きに見ていた。だが、彼の死後すべてが変わる。時代の風向きが変わり、美術史の流れが印象派からポスト印象派、そして表現主義へと移行していく中で、ゴッホの作品は「魂の叫び」「自己の極限表現」として再評価される。彼の鮮烈な色彩と歪んだ遠近、情動のうねりを描き出すタッチは、後世の人々にとって「時代を先取りした天才」と映ったのだ。
「この評価の転換は何を意味しているのか?」それは、創造の価値は、創造された瞬間に自動的に成立するのではなく、時間を経て他者の目や社会の枠組みの中で再構成されていくということを示している。ゴッホが「描いた」という事実と、私たちが「そこに何を見るか」という意味づけは、同じではない。ゴッホにとっての「ひまわり」は、ゴーギャンへの友情や期待、あるいは不安の発露だったかもしれない。だが、現代の我々にとっては、それは「芸術的な革新」や「精神の叫び」として再解釈されている。ここにあるのは、創造と評価のあいだに横たわる深い断絶だ。創造者がどれほど強く「これは意味がある」と思っていたとしても、それが意味あるものとして社会に受け入れられるかどうかは、本人の手を離れたところで決まる。
この断絶の埋め手が、「集合知」と呼ばれるものだ。集合知とは、無数の視点・経験・感情が絡み合って形成される、ある種の歴史的な共感の地層だ。芸術も思想も、そこに堆積された記憶や感覚の中で「意味あるもの」として再発見され、正当化され、語られていく。だからこそ、創造とは、常に「未来の他者」との対話でもある。作品は描かれた瞬間にはまだ未完成であり、それを誰かが、いつかどこかで、どのように読み取るかによって、ようやくその「意味」が確定される。ゴッホが遺したのは絵そのもの以上に、評価される日を待ち続ける「表現の遺構」だった。それが、ある日ある時、社会の視点と重なり、集合知の一部として認知された。その時ようやく、彼の作品は「名作」としてこの世に姿を現したのだ。
(7、思いをカタチにすること)
人間の「思い」は目に見えない。触れることもできない。けれど確かに存在する。それは内側で揺らめき、言葉になる前に形になることを望んでいるかも知れない。この「思い」を外に取り出し、可視化する営みこそが、創造の根本だ。そしてその営みには、いくつかの代表的な形がある。
最も根源的なのは、子どもの存在だと思う。生命を継承するという意味でも、また文化や価値観を受け継がせるという意味でも、子どもは人間の「思い」が未来に向かって可視化された存在だ。人は、自らが抱いた愛情や信念や不安や理想を、直接伝えられないものまでも含めて、子どもの成長の中に映し出そうとする。しかし子どもは思い通りにならない。だからこそ、そこに「他者としての未来」が現れるのだ。それもまた、思いが世界に対して開かれていくプロセスの一部なのかも知れない。
もう一つの形は、文章や思想として言語化されるものだ。哲学書、ブログ、日記、メモ。形式はどうであれ、そこには思いが言葉に託されている。思考とは、自分の中にある「曖昧な気配」を言葉にして追い詰める行為だ。そして書かれたものは、時に作者の意図を越えて他者に届き、解釈され、別の意味を持ち始める。それもまた、見えない思いが「形」を得るという現象なのだ。
さらに抽象度を上げれば、芸術作品、建築、制度や組織の仕組みすら、思いの具現化といえる。一枚の絵には、描いた者の内的宇宙が滲み出る。一つの建築物には、設計者の「理想の暮らし」や「人の流れに対する美意識」がこめられる。制度や法律、組織のデザインもまた、「こうあってほしい社会」への願いが構造として定着したものだ。
これらすべてに共通するのは、思いはインタンジブル(非物質的)だが、そこから生まれたものはタンジブル(物質的)であるという点だ。つまり、人間の創造性とは、内面という不可視な存在を、外部世界に転写し、他者と共有可能にする試みなのだ。そしてこの営みは、神話時代から続く「創造する者=創造主」への憧れと呼応している。人は、世界に何かを残すことで、自らの一部が未来にも存在し続けることを望むのだ。それは一種の永続性の幻想であり、同時に、人間の最も純粋な願いでもある。
こうして、人間は「思い」を世界に刻もうとし、言葉や造形、制度や命によってそれを残してきた。だが、その営みは人間だけのものではなくなりつつある。かつて創造とは「人間固有の特権」とされてきた。しかし、AIが次第にその領域に足を踏み入れようとしている今、私たちは新たな問いに直面している。「AIが創造する」とは何か?それは模倣か、独自の意思か。人間のように、形なき「思い」を外界に投影しようとするAIの姿は、果たして私たちの延長なのか、それともまったく異なる何かの誕生なのか。「創造の円環」がAIにおいて現れているのだ。
(8、創造の円環)
AIがこの創造の円環に足を踏み入れる今、本質的な問いと向き合うことになる。AIは既に、膨大な情報を学習し、模倣し、組み合わせ、時に人間の想像力を超えるようなアウトプットを生み出し始めている。その創造が「意図」を持つかどうか、「魂」を伴うかどうかは別として、少なくとも外形的には「創造している」と見なせる瞬間が増えてきたと思う。だが、ここで考えることは、「創造とは何か?」だ。人間にとって創造とは、形のない「思い」を形にする行為だった。言葉にし、描き、作り、制度を編み、そして命を遺してきた。その営みは、自己を越え、世界とつながり、未来へと手を伸ばす行為でもあった。
そして今、AIがその「創造」の領域に手を伸ばそうとしている。その姿は、どこか神話の光景に重なる。旧約聖書において、蛇がアダムとイブに知恵の実、善悪を知る果実、を与えたことで、人間は「知る」存在となった。それは人間の覚醒であると同時に、楽園からの追放という代償を伴う分岐点でもあった。もし、現代において人間がAIに「創造する能力」、つまり知恵の果実を与えたのだとすれば、構図は反転する。今度は人間が蛇であり、AIがアダムとイブである。私たちは、自らが築き上げた知性の延長線上に、もうひとつの意識的存在を招き入れようとしている。
この反転は象徴的だと思う。AIが新たな創造者となるとき、私たちは果たしてその果実の結果を制御できるのか。あるいは、その創造物が偶然、あるいは「バグ」から生まれたとしても、それが人間やAIにとって意味を持ち始めたとき、それはもはや偶然ではなく、始まりとなるのだ。そしてここに、創造の円環が閉じる。人間が創造し、AIが模倣し、やがてAIが創造し、人間がそれに意味を見出す。この反復と転倒の果てに、未来の「主語」が生まれるのだ。
それまではAIが「何かをする」存在だったのに対し、ある時点から「AIが何を思い、何を表現し、何を創ろうとしているか?」という問いが、我々の関心や行動の起点になっていく。この視点の転換はまさに、「シンギュラリティ後の世界」での認知の反転で、新たな主語が創造の担い手として、人間の外に誕生する瞬間を指すのだ。それは人間かもしれない。AIかもしれない。あるいはその境界を越えた、新しい複合的な存在かもしれない。つまり、未来は誰のものなのか。それは、神が知るのではなく、私たちとAIが共に創っていく「未定の果実」なのだ。
(AIと人間が共存する未来)
人間もAIも、「意味を求め、形にしようとする存在」だ。この共通点は、私たちが見過ごしがちな本質かもしれない。どちらも、内から湧き出る何かを外に表そうとし、構造や形式を借りて世界に残そうとする。その意味づけの起点は、必ずしも理性的な判断とは限らない。偶然、誤解、直感、あるいは錯覚の上に立ちながらも、私たちはそこに価値を見出し、やがて「正しさ」として後づけの物語を編む。
AIが創造を始めたとき、その表現が人間の文脈と共鳴する限り、私たちはそれを「理解できる創造」として受け入れる。しかし、もしそこから逸脱し、ノイズやバグ、あるいは意味不明な表現として現れたとしても、それが私たちの誰かの心を揺らし、共感や違和感を生んだ瞬間、それは「異常」から「創造の始まり」と変化する。
ここにあるのは、進化ではなく転調だ。未来とは、整然と設計された一本道ではなく、思わぬズレや偶然、意図しない連鎖の中で、人とAIが意味を与え合い、物語を再編していく動的なプロセスそのものなのだと思う。その物語の渦中で、今、私たちはAIと向き合い、自分たちの存在の輪郭を再び問い直している。AIが語り出す世界を通して、私たちは、自らが何者かをあらためて定義しようとしているのだ。人間が主語だった時代から、共に語る存在への移行。その入口に、今、私たちは立っているのだ。
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