
新規事業の旅220 変えない攻めと変える攻め 牛丼とプロレス
2025年10月23日
早嶋です。
かつて、BSE(狂牛病)の発生により日本が米国産牛肉の輸入を停止した際、牛丼業界は深刻な供給危機に直面した。主力商品である牛丼の原材料を失い、多くのチェーンが豪州産牛肉に切り替えることで営業を続けたなかで、吉野家だけは異なる決断を下す。「牛丼の販売中止」だ。
なぜ豪州産に切り替えなかったのか。その理由は、牛肉そのものの味の違いに対する強いこだわりがあったからだ。アメリカ産牛肉の多くは「コーンフェッド(穀物飼育)」で、濃厚な甘みと脂の旨みが特徴だ。吉野家が長年培ってきた牛丼の味も、この穀物肥育牛の脂と肉質を前提に構成されていた。一方、オーストラリア産牛肉は「グラスフェッド(牧草飼育)」が主流で、さっぱりした赤身の多い味になる。見た目は似ていても、食感も風味も異なるのだ。
その違いが、長年通ってくれたファンの舌にどう響くか。吉野家はそこを非常にシビアに見ていた。もし味が変われば、「これは吉野家の牛丼じゃない」と、愛着そのものが裏切られたように感じる顧客が出るかもしれない。そこで彼らは、「無理に似せるより、いっそ別のコンセプトの商品を出す」ことを選び、「豚丼」というまったく異なるカテゴリの商品を開発したのである。味を似せるのではなく、ファンの記憶と矛盾しないよう、まったく違うものとして提供する。その選択は、守るべき「味の記憶」に対する誠実な姿勢の表れでもあった。
味を守るという意味では、三重県伊勢の老舗「赤福」も似たような姿勢を貫いてきた企業だ。300年以上の歴史を持つこの和菓子店は、かつて主要原料の大豆が確保できなかった年、無理な代替をせずにあえて販売を見送ったことがある。変えれば、たちまち「赤福ではなくなる」という判断があったからだ。顧客が期待するいつもの味に対して、別の素材で似せることは逆に不誠実だと考えたのだろう。ただし、そんな赤福も近年では消費期限の改ざんが発覚し、大きな社会的批判を浴びたこともあった。守るべき精神が組織全体に浸透し続けることの難しさ、時代の中で志が揺らぐことの危うさを示す出来事でもあった。
対照的なのが、新日本プロレスの選択だ。一時は隆盛を誇ったプロレス界も、90年代後半から徐々に観客動員が落ち込み、特に新日本プロレスは苦境に立たされていた。かつての新日は「ストロングスタイル」と呼ばれる、実戦性を重んじる硬派な戦い方を掲げ、筋骨隆々のレスラーたちが真正面からぶつかり合う、その男くささが魅力の源だった。力道山の時代から脈々と続く、ガチの戦いという神話性。それこそがコアの価値だった。
だが、時代は変わっていた。格闘技のリアルさを求めるなら総合格闘技があるし、エンタメとしての娯楽性なら他にも多様な選択肢がある。かつては熱狂を集めたスタイルが、いつの間にか古くさくてダサいものと見なされるようになっていた。
この閉塞感を打破するため、新日本プロレスは、「プロレスとは何か」という前提そのものを問い直す決断をする。従来のコアファンに執着するのではなく、まったく新しい層、たとえば女性や若い世代に向けて、自分たちの価値を再編集する方向に舵を切ったのだ。オカダ・カズチカ、棚橋弘至といった強くてカッコいいレスラーを前面に押し出し、ルックスやスター性、ストーリー性を重視した展開へ。試合の見せ方だけでなく、グッズ、演出、SNSでの発信など、ブランドの全方位を変えた。
これは単なるイケメン起用ではない。「プロレスとは何を観る体験なのか」という定義を変えた、ある意味でアルシュ的なイノベーションである。アルシュとは、根源を問い直し、そこから新たな価値体系を築くという変革のこと。既存の枠組みを守るのではなく、壊してでも時代に適合した新しい核を築く。新日本プロレスは、まさにそうした本質の再設計に挑戦したのだ。
吉野家は、変わらぬ味を守るために変えないという選択をし、新日本プロレスは、時代と共に変わるために、あえて自らの定義を壊して再構築するという決断を下した。どちらが正解という話ではない。どちらも、ブランドがそのらしさとどう向き合い、顧客との関係性をどう捉えているかという、極めて本質的な問いに対する真剣な答えだった。
変わらないことで信頼を築く道もあれば、変わることで信頼を生み出す道もある。その選択の背景には、顧客を見つめるまなざしと、自分たちが何を大切にするのかという意志がある。そしてそれこそが、ブランドという営みにおいて、最も問われるべき軸なのだと思う。
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新規事業の旅219 抹茶の定義と言語化の必要性
2025年10月22日
早嶋です。2400文字。
抹茶の定義が揺らいでいる
お茶は、畑から茶碗や湯呑みに届くまでに、複数のステップがある。まず、育て方だ。日光をそのまま浴びせて育てる「露地栽培」と、収穫前に覆いをかけて光を遮る「覆い下栽培」に別れる。
露地栽培は、煎茶や番茶の原料で、渋味とすっきりとした味わいが特徴になる。覆い下栽培は、玉露や抹茶の原料になる。遮光することでテアニンという”うま味”成分が増え、渋味が減るのだ。
収穫した茶葉は、まず蒸して酸化を止める。その後に「揉む」か「揉まない」かで、また分かれ目がある。揉むと葉の細胞が壊れ、香りが立つ。お湯で抽出する際に、旨味が出るようにするのだ。これが「のび茶」と呼ばれる形で、煎茶や玉露に仕上がる。
一方で、揉まないまま乾燥させたものが「てん茶」だ。これを石臼で挽けば、抹茶になる。抹茶の場合は、茶葉そのものを食すことになる。そのため細胞を壊す必要が無いのだ。
興味深いのは、この「揉む」か「揉まない」の工程の違いで、味わいだけでなく、文化的な意味までも変えてしまうことだ。揉むというのは、茶葉を“開かせる”工程だ。玉露はお湯を注いで成分を抽出するために、細胞を壊して香りを引き出す。
一方で、抹茶は茶葉そのものを飲む。揉むことで細胞が破壊される。すると酸化して色や香りが飛んでしまう。それをさせないために揉まないのが抹茶だ。抹茶は、あえて揉まずに乾かし、熱を避け、静かに挽く。静かに石臼で挽く理由は茶葉に熱を与えないで摩擦熱を出さないようにするためだ。高級抹茶は、石臼で1時間にわずか40グラム程度しか出来ない。非常に手間がかかる工程なのだ。そして、この「時間をかけて守る」工程にこそ、抹茶の繊細さがある。
ところが、いま世界でブームになっている“matcha”の多くは、本来の抹茶とは異なる。覆い下栽培のてん茶を石臼で挽いたものではなく、煎茶やかぶせ茶などの「のび茶」を粉砕機で砕いた“もが茶抹茶”が大量に流通しているのだ。見た目は似ていても、風味は全く違う。まろやかな旨味ではなく、青臭さと渋味が前面に出る。だが価格は安く、加工食品やドリンク用途ではそれで十分に“それらしく”見える。効率と商売が優先され、本来の製法や哲学が置き去りにされているのだ。
抹茶には、「お詰めは?」という言葉がある。これは、どの茶商がどんな茶葉を選び、どのようにブレンドしたかを尋ねる表現だ。その年の気候や収穫時期、葉の出来によって味や香りは微妙に異なる。そこで、茶商は熟練の感覚で複数の産地や品種を見極め、味の均衡を整える。
この“ブレンド”こそが抹茶づくりの核心でもある。つまり、最高級の抹茶とは、単に特定の畑の葉ではなく、「誰が詰めたか」という技に宿るのだ。ブレンダーが持つ審美眼と経験が、味の奥行きを決めている。だから茶席では、「お詰めは?」という問いが交わされる。
それは、茶の銘柄を尋ねるよりも、“その味の背景にある人と思想”を確かめる行為に近い。この伝統的なブレンドの文化は、まさに日本的な感覚の象徴だと思う。一つひとつの工程に意味があり、そこに職人の判断と時間が積み重なっている。だが、その「工程の意味」こそが、現代では語られなくなりつつある。
この問題の根は深い。日本では昔から、「語らずに伝える」文化があった。茶、漆、刀、和菓子。どの分野でも、師の背中を見て学び、感覚で覚える。言葉にしなくても、共同体の中では理解が通じ、嘘をつく人もいなかった。正直さと暗黙知が、自然な品質統制を生んでいた。
しかし、グローバル市場ではそれが通用しない。ヨーロッパでは、製法や地域、作り手の哲学を制度として明文化し、文化ごとに守ってきた。ワインなら、ブドウの品種や土壌、醸造家の考えまでがラベルの中に含まれている。その物語が価値となり、ブランドとなる。
一方で日本は、製法の背景や意味を語る文化を持たない。だから「てん茶」と「のび茶」の違いが説明されず、“matcha”という言葉だけが世界を独り歩きした。そこに利益差を見つけた海外の業者が入り込み、粉末緑茶を抹茶として輸出して荒稼ぎする。これは単なる商売の問題ではなく、文化の知的所有権を奪われているようなものだ。
日本が本当に守るべきは、技術そのものよりも「意味を語る力」だと思う。抹茶とは何か。それは、光を遮り、葉を眠らせ、うま味を引き出す“覆いの文化”であり、
熱や摩擦を避け、自然の香りを閉じ込める“静寂の技術”だ。玉露が「開く茶」なら、抹茶は「守る茶」だと表現できる。この思想そのものが日本の美意識の結晶なのだ。
ヨーロッパでは、ワインが語られる。日本は、それを語らない。だから、文化が正しく伝わらず、価値の一部だけがコピーされていると思うのだ。このまま“matcha”の表面だけがブームになると、根にある哲学が消えていく可能性があると思う。
文化は守るだけでは生き延びない。本物を守るためには、世界に向けて「翻訳」する努力も必要では無いだろうか。製法の厳密さを伝えるだけでなく、そこに込められた時間、静けさ、そして人の手の意味、そのような日本人に取っての当たり前を言語化するのだ。観光や体験、教育を通じて「一杯の抹茶を飲む」という行為を文化として再構築するのだ。
それが“matcha experience”として世界に広がれば、単なる健康食品ではなく「時間を味わう文化」として再び尊敬されるだろう。石臼で1時間にわずか40グラム。その一杯には、手間と静寂と美意識が詰まっている。
日本の問題は、技術を世界一精密に磨きながら、その意味を世界に説明してこなかったことだ。抹茶の話は、お茶の話に見えて、実は日本の構造的な課題そのものだ。暗黙知の文化は美しいが、言葉にしなければ世界には届かない。これからの日本に必要なのは、技術を守りながら、その意味を「語れる文化」として再編集していくことだと思う。
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新規事業の旅218 IPの創造
2025年10月21日
早嶋です。約3000文字。
(IPの重要性)
最近ゲーム関連の展示会での話だ。情報収集をしている際、関係者と話をするなか感じたことだ。それは、ゲームの性能や操作性よりも、ゲームに使われているキャラクターや世界観(IP)の話題が多いことだ。ゲームの技術論よりも、まず「このキャラクター知っているか?」が入口になっているのだ。
IPが重視される背景はシンプルだ。どんなにゲームシステムが優れていても、「まったく知らないキャラ」には、初期の買い手がつきにくいからだ。そのため、「どこのIPとコラボした」「このキャラを起用した」という話題に注目が集まるのだ。
(ゲーム市場)
近年のゲーム市場を見てみよう。2023年の国内ゲームコンテンツ市場(ハード・ソフト・課金含む)は 2兆1,255億円 に達し、前年比 4.6%と拡大している。一方で、2024年の家庭用ゲーム(ハード+パッケージソフト市場)は 3,013億円 にまで落ち込み、前年比で約25%減という速報もある。特にハードは△30%、ソフト(パッケージ)は△18%の落ち込みだ。
ただ、ゲーム全体の文脈では、2024年の国内ゲームコンテンツ市場は前年比 3.4%の 2兆3,961億円 と推計され、パッケージ中心からオンライン/課金中心へのシフトが進んでいるのだ。また、世界市場を含むと、2023年の世界ゲームコンテンツ市場は約 29兆5,162億円 にも上るという推計もある。
このあたりの動きを踏まえると、「市場構造が再編されつつある」状態だと言える。伝統的なハード+パッケージモデルが縮む一方で、オンライン/サブスク/課金モデルが覇権を握ろうとしているのだ。
(大手ゲーム会社の苦悩)
大手ゲーム会社が新しいIP(キャラクターや世界観)を生み出せない背景には、いくつかの事情がある。
まず、新作IPの開発には莫大な投資が必要になる一方で、ヒットするかどうかの見通しが立ちにくいことだ。投資を回収する保証がないのだ。そのリスクを株主や投資家が嫌い、「挑戦」より「安全策」を選ぶのだ。
また、多くのゲーム会社はすでに育ったIPに依存している。たとえば、カプコンの『バイオハザード』や『モンスターハンター』、スクエニの『ドラゴンクエスト』など、長年続くシリーズが安定収益の柱になっている。従い、リメイクやスピンオフ作品といった手堅い延長線で戦う構造を選択するのだ。
さらに、大手企業の多くは上場しているため、四半期ごとに業績が問われる。長時間かけてIPを育てようとしても、数字が出なければ社内的に評価されにくく、現場が自由に挑戦しづらくなっている。
実際、スクエニも「最近はリメイク祭り」だという外部指摘があり、カプコンもバイオ・モンハン以外で大きなヒットを生みづらいという声を聞く。
(IPは時間をかけて育成する)
「ヒット作品=即座に爆発」という錯覚を抱きがちだが、歴史的なIPの多くはじわじわ育ってきた。
例えば、『ドラえもん』は1970年に登場したが、最初のアニメはわずか半年で終了している。その後1979年に再スタートし、1980年の映画『のび太の恐竜』でようやく国民的な人気を獲得したのだ。ここまでおよそ10年かかっている。
『名探偵コナン』も同じだ。1994年に連載が始まり、アニメや映画を重ねながら人気を広げたが、最初の映画が公開されたのは連載から3年後だ。今のように毎年のように話題になるまでには5年から10年はかかっているのだ。
『ワンピース』も1997年に連載が始まり、初期の頃はすぐに爆発したわけではない。単行本が30巻を超えた2005年ごろから読者が急増し、2010年の映画で一気に国民的作品へと成長したのだ。
こうした、じっくり育てる姿勢が必要なのは、漫画やアニメに限った話ではない。映画やオリジナル作品の世界でも、同じように時間と積み重ねがヒットを生み出している。
例えば、映画『君の名は。』は、最終的に興行収入250億円を超える大ヒット作となったが、公開当初からその数字を記録していたわけではない。口コミでじわじわと話題になり、リピーターが増え、上映期間も延びていく中で、少しずつ勢いが広がっていったのだ。そして、その背景には、監督・新海誠の諦めずにつくり続けた姿勢もある。前作の『言の葉の庭』は、目標興行収入10億円に対して、最終的に1億円程度の結果にしかいかず、商業的には大失敗している。
『エヴァンゲリオン』も、テレビ放送が始まった頃は視聴率こそ高くなかったものの、熱心なファンが考察や議論を広げることで独自の文化をつくり出し、やがて伝説と呼ばれる存在になっていった。
『鬼滅の刃』も、連載当初から絶大な人気があったわけではない。コミックスの売れ行きは中堅程度で、アニメ版の放送をきっかけに一気にファン層が広がり、世界中で大ヒットする作品へと成長したのだ。
つまり、どの作品も共通して言えるのは、時間をかけてファンの信頼を得ていったということだ。そして、小さな成功や反応を見逃さずに、それを繰り返しながら広げていったのだ。
IPとは、一発で当てるものではなく、何度も触れてもらって、少しずつ信頼と熱量を積み上げていくものなのだ。ヒットの裏には、そんな地道なプロセスが隠れている。
(合理と非合理)
では、「そうしたIPの成長を、どう見つけ、どう育てるのか?」に興味があるだろう。
多くの企業は、データ分析やマーケティング手法、KPIなど「数値で管理できるもの」に頼る。もちろん、それらが役に立つ場面もあるだろう。だが、ことゲームやアニメ、子ども向けのキャラクターのように、「人の感情に寄り添う」世界では、それだけでは足りないと思うのだ。
大切なのは、小さな違和感や面白さの芽に気づける感性だ。イベント会場で子どもがどのキャラクターに近寄っていくのか。どんな言葉に笑うのか。どこで立ち止まるのか。そういった目に見えない反応を見逃さずに受け取ることが、次の展開につながっていく。
そしてもう一つ大切なのは、アホな挑戦を恐れないことだ。周囲が慎重になる中で、「なんか面白そう」「これ、子どもが好きそう」と感じたものに賭けてみる勇気と覚悟だ。見た目には非合理かもしれない、数字で証明できない、でも心が動いたという一点を信じて積み重ねる力。そんな選択の中に、実は本当のヒットの種があるのかもしれない。
マーケティングでは「合理的に説明できること」が重視されがちだ。しかし、ことIPの世界では、感性や偶然、熱量の連鎖といった見えない力の方がよほど重要なのだ。そしてその「見えない芽」は、もしかしたら今この瞬間にも、我々の目の前に芽生えているのかもしれないのだ。
(ロクローの小さな兆し)
この話を歯科医院経営の現場に置き換えてみてほしい。新しい施術法や新診療サービスを投入する際、最初から大量患者が来るわけではない。小さなリアクション、口コミ、信頼の積み重ねから拡がるものだ。
同様に、子ども向けコンテンツを提供する立場として、「すぐに派手なヒットを狙うより、小さな反応を丁寧に育てる視点」が大切だということを、こうした業界事例から感じていただければと思う。
「ロクローの大ぼうけん」に登場するロクローも、今、じわじわと子どもたちの反応を獲得しつつある。展示会やイベントで子どもが自然に集まり始めており、海外での再生数にもドラえもんと肩を並べる回が現れつつある。ヒットは一瞬では生まれない。小さな反応を、少しずつ、一緒に育てて頂ければ幸いだ。
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「実践『ジョブ理論』」
「M&A実務のプロセスとポイント」
日本の米の価格構造
2025年10月16日
早嶋です。4400文字。
最近、スーパーで米の値段を見るたびに驚く。5キロで4千円から5千円だ。かつてはもっと安かったと思う米だが、随分と値段が高くなったものだ。ただ、考えてみると「上がった」という表現よりも、もともと高かったのだ、という表現が実は正しいかもしれない。
米価を国際的に比べてみると、日本の異質さが際立ってくる。アメリカやオーストラリアの精米ベースの価格は1kgあたり100円前後だ。韓国でも300円台だ。対して日本は800円前後なのだ。世界の相場を100円台としたら、実に8倍、韓国と比較しても倍の値段なのだ。
もちろん、品種や品質、粘りや香りの違いはあるだろう。それでも、品質を維持したまま3倍程度、すなわち300円前後で販売できるのが国際的に見ても妥当ラインだと思うのだ。それが800円という価格は、日本的な構造が何かしらあると見て間違いないのだ。
では、その構造をみてみよ。勿論、昨今の原材料や肥料費の高騰だけでは説明できない。日本の米の値段には、いくつもの層が重なっていて800円になっているからだ。米のサプライチェーンは、ざっと農家からはじまる。苗床を農家が仕入、田んぼで稲を作り、それを精米し、集荷し、保管し、輸送し、小売の棚に並べる。この間、数え切れないほどの手と費用が介在しているのだ。結果として、消費者が支払う800円の金額のうち、農家の取り分は200円から250円程度で、残りの7割近くが流通と販売に渡る金額になっている。
つまり、日本の米は、そもそもの生産コストも高く、更に流通が非常に長いのだ。そのため、価格を底上げしていると考えて良い。実際、他国と比較してみよう。日本の異質さが際立ってくる。
韓国では、政府が収穫期に一定量を直接買い上げる制度(公的備蓄米制度)を持ち、価格の下支えと流通の安定化を同時に行っている。農家が出荷する段階での価格は1キロあたり約2,500ウォン(約270円)で、都市部のスーパーで販売される国産米の平均価格は3,368ウォン(約360円)ほどだ。この差、およそ90円分が精米・流通・小売の取り分になる。つまり、農家の取り分は約7割で、残りの3割が国内の精米所、地域農協(NACF)、大型スーパーが利益としてコストを分け合っているのだ。韓国の農家が比較的高い比率を維持できているのは、政府の価格調整機能と流通の単純化による成果だ。販売の多くは地域農協が直営する精米センターから大型小売店に直送され、在庫も国主導で統合管理されるため、仲介層が極端に少ない。
生産者の米が、ほぼ二段階で消費者の食卓に届く構造を作り上げている。
一方、アメリカはまったく逆だ。米国農務省のデータによれば、農家が受け取る粗玄米価格は1キロあたり約0.46ドル(約70円)だ。これが精米され、パッケージングされて全米のスーパーで販売される時には1キロあたり2.34ドル(約350円)前後になる。つまり、農家取り分は全体のわずか2割で、残りの8割を、精米工場・ブランド業者・卸・小売が分け合っている。アメリカでは、農地は広大で機械化率が極めて高く、生産コストを限界まで削っているため、農家は量で稼ぐ仕組みだ。一方で、最終価格を決めるのはミリング企業(加工)とブランドホルダーだ。カリフォルニアの中粒米であれば、農家→加工企業→Sun ValleyやNishikiなどのブランド→全米流通網という四段階の流れが一般的だ。コストよりもパッケージ、広告、棚のポジションで価格が決まる。消費者が払う3.5ドルのうち、実際に米を育てた人に届くのは70円分に過ぎない。
そして、オーストラリアはさらに明快だ。最大手のSunRice社が、生産者から籾米を買い上げ、精米からブランド展開、海外輸出までを一社で統合している。農家が受け取る価格は1キロあたり約0.45ドル(約70円)で、スーパーで売られる同社のCalrose米は2.5ドル(約375円)前後だ。ここでも農家の取り分は2割程度だ。しかし、この構造は不公平ではなく、効率の代償としての集中管理モデルに相当する。SunRiceは世界70カ国に輸出し、ブレンドやパッケージを変えて販売している。生産者は少人数でも、企業全体で国際市場を押さえる仕組みがある。
つまり、アメリカとオーストラリアでは、価格の主導権が農家ではなくブランドと小売にあるのだ。それを裏返せば、農家は薄利だが安定した販路を確保できるとも言える。
そして、日本だ。日本は両者の中間の構造で、二重に高い構造になっている。農家の受け取りは1キロあたりおよそ220円前後。小売価格は800円前後。韓国よりも生産コストが高く、アメリカよりも流通マージンが厚い。農家の取り分は25%から30%で、残りの70%超が非農家層に分散される。この非農家層とは、精米業者、集荷・卸、商社、物流、スーパー、そして地域ごとのブランド管理組織までを含む。決して、誰か一人が過剰に利益を取っているわけではない。だが、誰も責任を取らずに積み重ねてきた層の厚みが、最終的に消費者価格に反映されているのだ。結果として、韓国の3倍、米豪の8倍という世界でも突出した価格帯を維持してしまっているのだ。
では、なぜこうなったのだろううか。その理由は地形と歴史にあると思う。日本の田んぼは狭く、山と川に挟まれ、分断されている。大区画で機械を動かす欧米型の稲作には向いていない。戦後の農地改革で細分化された所有権がさらに複雑さを増し、圃場の統合が進まなかった。各地の田んぼはまるで猫の額のように小さく、農家は兼業でそれを守ってきたのだ。一方、流通は農協を中心に全国に張り巡らされたが、これもまた複雑だ。集荷、検査、精米、卸、小売という段階がそれぞれ独立し、保管や在庫のコストが累積しているからだ。ふるさと納税やEC直販の拡大で新たな販路が増えたことも、価格の安定をむしろ難しくしている。結果として、店頭では高値が常態化したまま、誰も全体の構造を最適化しない状態が続いているのだ。
では、仮にすべてを効率化したら、いくらになるだろうか。1つの手がかりは北海道の事例だ。北海道の稲作は大区画で機械化が進み、収量も全国平均より1割高い。十アールあたりの収量が579kgと、全国平均の五533kgを上回る。更に、規模の経済によって生産費は60kgあたり8千円台を実現している。これは、全国平均1.5万円台から見るとおよそ4割から5割安いのだ。もし全国が同じ水準に達したなら、農家段階のコストは1kgあたり250円から140円前後まで下げることができる計算になる。
それでも、流通の構造が同じだと、最終的な店頭価格はせいぜい680円から740円ほどだ。つまり、農地や生産の効率化だけでは劇的な値下げは起こせない。繰り返すが流通構造にもメスを入れる必要があるからだ。そう、本当の課題は生産の後工程にあるのだ。
輸送、在庫、卸、小売。ここにある中間マージンと在庫リスクの再設計が、ポイントになる。
現在の米流通は、収穫期の集荷を基点に、1年を通じて在庫を分散して保管し、季節変動を平準化する仕組みだ。その過程で、倉庫や乾燥施設、保冷輸送などの固定費が積み上がる。さらに、農協や商社、小売各社がそれぞれのルートで動くため、全体の最適化が効かない。ただし、ここにデジタル化と共同化の余地が十分にあると思う。保管・輸送・販売の情報を統合すれば、ロスは大幅に減るはずだ。例えば地域単位で倉庫と物流を一体運営し、在庫をリアルタイムで可視化すれば、重複在庫を削減できる。冷凍・真空パック技術を使えば、長期保管の品質劣化も防げる。これらは地味だが、価格を100円単位で下げる効果を持つだろう。
もう一つ、ブランドと販路の問題を議論するなら、日本の米流通は銘柄のデパートになっている。魚沼産コシヒカリ、ゆめぴりか、つや姫、ひとめぼれ、あきたこまち、ななつぼし・・・。これらはもはや個別企業の製品ではなく、地域・地理・文化を背景に持つ無数のブランドとして消費者に訴えかけている。
実数を見れば、その複雑さが浮かび上がる。登録されている水稲品種は1,031品種にも及び、そのうち主食用途として検査された産地品種銘柄は約286品種に上る。 また、別の資料ではうるち玄米に関する産地品種銘柄が934、もち米が137、醸造用が234という数値も出ており、すでにブランドの候補地は多層に重なっている。
そして、ブランドの多さと流通実勢への反映はイコール、とは限らない。実際には、銘柄の名義上の数と、日々スーパーで売られる銘柄の数は乖離しているからだ。
作付割合の統計を見ると、令和5年産のうるち米ではコシヒカリが全体の約33.1%を占め、上位10銘柄で国内市場の半分近くをカバーしている。つまり、ブランド数は多くとも、実需ルートで競う銘柄は限定され、残りは地域名・ロゴ違いとしての余白的存在になっているのだ。
こうしたブランドの細分化には、大きな構造的帰結がある。生産者は地域単位でブランドを立ち上げることが奨励され、それが誇りにもなっている。しかし、それぞれの銘柄を個別に流通させ、小売店も個別銘柄を扱う構造では、物流の統合やコスト分散(スケールメリット)は働きにくい。配送ルート、倉庫拠点、在庫回転、広告・プロモーションコストなどが、銘柄ごとに「重複」して発生するからだ。
対照的に、小麦やパン原料では、銘柄展開は製粉会社やパン/麺メーカー主導であり、農家ブランドを前面に押す構造はほとんど見られない。流通ルートはシンプルで、ブレンド・混合原料を用い、重複物流を回避する設計が日常的に運用されている。だからこそ、小麦原料の多くはブランド分散型米よりもコスト抑制が効きやすいのだ。
このような構造の違いを見える数で示すと、米のブランド/銘柄の分岐点は数百を越え、小麦側のブランド数・ルート数はおそらく十数から数十に抑えられているだろう。つまり、米流通は「多ブランド・多販路の重層構造」が異常に厚いのだ。
つまり、日本の米価を下げる鍵は、誰かを犠牲にすることではない。農家の手取りを守りながら、流通と販売の仕組みを整え直すことで、全体を軽くすることができると思う。いまのように、生産者が高コスト構造の中で疲弊し、消費者が高価格に慣らされていく関係を続けても、誰も幸せにはならない。
農業は、本来、自然と人との関係を持続させるための営みだ。そこに効率と誠実さの均衡を取り戻すことこそが、これからの課題なのだと思う。米は、単なる食料ではなく、日本社会の構造そのものを映す鏡である。どこに無駄があり、誰が何を守っているのか。その全体像を見つめ直すことが、これからの日本の食と農の再設計につながる。高いか安いかではなく、どうしてこの値段なのかを知ること、その理解から次の一歩が生まれると思う。
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【動画】25年度SDGsリーダー育成コース
2025年10月10日
※本ページは、2025年度3期生SDGsリーダー育成コース参加者向けです。
25年度3期生のSDGsリーダーは、必要に応じて以下の動画を視聴の上、当日の研修に参加ください。
(ファシリテーション)
SDGsリーダーを通じて、ファシリテーションを行うことが多いと思います。こちらを通じて、概念を理解ください。
ファシリテーションとは
3つのスキルと4つのステップ
ファシリテーションを行う際の疑問解消
(リーダーシップ関連)
リーダーシップについての概論
リーダーシップの概論について理解を深めてください。こちらはマネジメントシリーズの一部です。SDGsリーダーとして、自分がどのように取り組むかを考えながら視聴すると効果的です。
新しい取組を始める際のマインドセット
新規事業担当者向けに作った動画ですが、新しい取組を始める際のマインドセットにも最適です。SDGsリーダーとして、これまでと異なる取組を行います。その際の考え方や心の持ち方の参考に視聴ください。
リーダーシップの基礎
リーダーシップの概念、他人に影響を及ぼす源泉や根底にあるもの、リーダーが注視する3つの行動、変革時のリーダシップの特徴、今後のリーダシップについて整理しています。SDGsリーダーとして一歩を踏み出した今、改めてリーダシップの基本を理解する目的で視聴ください。
(問題解決関連)
事例と概論
問題解決の考え方を理解するための概論です。事例を通じて全体の流れを把握してください。
問題
問題の定義を理解してください。
課題
問題を細分化して、問題を引き起こす犯人を突き止める。その後に、因果関係を把握して課題を発見する考え方を理解します。
解決策
課題を解決するための解決策の立案の仕方について説明します。
(論理思考関連)
論理思考の活用
思考のあり方について整理しています。
問題解決思考
再び、問題解決を行うためのポイントを整理しています。
ゼロベースで考える
問題解決を行う際に、問題を特定せずに、いきなり現象をみて解決策を思いつくケースが多々あります。それを防ぐための考え方を整理しています。
モレなくダブリなく考える
問題を特定した後に、問題を細分化する「どこどこ分析」、特定した要因の中で問題を引き起こす因果に対して「なぜなぜ分析」をしながら課題を特定する。その際に、網羅的に整理する考え方を整理しています。
仮説を立てて考える
全ての情報が集まる場合が少ないです。その場合、仮説を設定して、それを前提に思考を前に進みます。その際の考え方を整理しています。
採用・定着・出戻りを循環として設計する
2025年10月9日
早嶋です。2250文字。
建設業をはじめ、一定の人手を要する企業が抱える最大の課題は、もはや技術でも資金でもない。「人がいない」「採れない」「辞めていく」だ。とりわけ地方の建設会社は、高卒採用を軸に事業を営んできた。しかし今では100人の募集に対して50人程度しか集まらないという現状が定着している。
背景は、若年人口の減少と進学志向の変化がある。たとえば、2005年に約125万人いた18歳人口は、2025年には105万人を割るとされている。さらに、1975年に50%ほどだった大学進学率は、今や83%(令和5年度文部科学省調査)を超え、高卒で就職するという進路は、地域によってはマイナーな選択になりつつある。
さらに問題は、イメージの側にもある。建設業に対する旧来的な印象、「きつい、汚い、危険(3K)」という言葉はいまだに残り、実態がどうであれ、若者の中では選択肢の候補にすら入らないことも多い。そんな中で、従来どおりの高校訪問や企業説明会を繰り返したところで、人が集まるわけがないのだ。
さらに現代では、若手社員が転職サイトに登録すること自体をリスクと捉える視点もズレている。実際、登録の多くは興味本位だ。すぐに転職する気があるというより、「自分の市場価値がどうなのか」「評価は正当なのか」「このままでいいのか」といった問いに答えがほしいだけなのだ。
しかも今の若者たちは、日常的にSNSでつながっている。高校時代の友人、専門学校の同期、あるいは地元で他社に就職した仲間たちと、日々メッセージを交わしている。そして、その中で「A社は研修が丁寧らしい」「B社の先輩はみんなフランク」「C社はキャリア支援の制度がしっかりしている」といった話がリアルタイムで飛び交っている。時には、社内の人間よりも、他社の制度や上司の性格を知っていることすらある。
つまり、企業の中でつくられた閉じた空間など、彼らにとっては幻想なのだ。情報はつながっている。良い評判も悪い噂も、あっという間に共有されている。この認識が、人材流出に悩む企業には、決定的に欠けていると思うのだ。
若手が未来に希望を持てるかどうかは、意外とシンプルなところにかかっている。それは、「10年後、あんなふうになりたい」と思える存在が、社内にいるかどうかだ。憧れられるロールモデルが近くにいれば、視線は自然と外ではなく内に向く。ただし、日本企業の多くは、ちょうど今の30代後半から40代前半の層の採用を長く絞ってきた。そのため、優秀な社員がいても、若手と接する機会が少なくなり、結果的にロールモデルになりにくいという現象が起きている。制度や研修ではなく、「あの人のようになりたい」という感情を育てられるかが、組織の活力を左右する側面もある。
マッキンゼーやリクルートのように、「辞めた人に価値がつく会社」は不思議と入社希望者が絶えない。「マッキンゼー出身」「リクルート出身」というだけで、人材価値が上がるからだ。これはもはや、企業が人材輩出機関として機能していることを意味する。最近では、民間企業ではないが、たとえば経済産業省や財務省といった官公庁で働いていた人材が、「元官僚」としてスタートアップや地方企業に引き抜かれる例も増えている。そこには、人を育て、外に出してもブランドが残るという構造がある。
ここから言えるのは、辞めた人との関係性を切らないことだ。離職とともに関係絶縁では駄目なのだ。連絡を取らず、再入社を歓迎しない、そんな文化があれば、結果的に人材の血流を滞らせてしまう。逆に、出ていった社員にも、定期的に声をかけ、OB・OGとつながる文化がある企業は、「また戻りたい」と思わせる磁力を持つと思う。まるで、登りきった鯉が再び川に戻ってくるようにだ。
多くの日本企業は、「採用」「育成」「定着」「評価」「再雇用」がそれぞれ別の役割や機能としてバラバラに運営されている。新卒インターンは採用チーム。階層別研修は人事部門。OJTやワンオンワンは事業部任せ。出戻り制度は、そもそも存在しない。
それにもかかわらず、経営陣は「人が最大の資産」と言う。ではなぜ、人に関わる制度設計は、バブル期のやり方のままなのか。人材があふれていた時代には、それでもよかっただろう。しかし今は違う。採用できず、辞められ、次もいない。その構造的な危機を前提に、「人の流れをどうデザインするか」という視点が欠けているのだ。
すでに一定規模の企業では、「高校」や「高専」を自社で運営し、将来の仲間をゼロから育てる動きが出ている。日本国内の人材供給だけでは追いつかないと判断し、ベトナムやカンボジアなどの若者に職業訓練や教育の機会を提供し、5年後・10年後の即戦力として迎えるという中長期戦略に踏み切る企業も出てきている。これは単なる「技能実習」や「外国人労働者」の枠を超え、人材育成を企業活動の一部として捉える視点に他ならない。
人は固定するものというパラダイム(ゲームのルール)を変えるのだ。明らかに、人は動く、転職する、別の場所を見てみたくなる、と。すると、抑止するのは無理だと気づく。視点を変えて、「その流れをいかに企業の成長と連動させるか」と考えて制度を見直すのだ。出ていく人を責めず、戻る人を歓迎し、今いる人の成長を支え、まだ見ぬ人を迎え入れる。そうした循環構造を持った企業は、いずれ「人が育ち、人が戻り、人が集まる」場所になる。それがこれからの、持続可能な組織のあり方だと思う。
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新規事業の旅217 組織布教のフレームワーク
2025年10月8日
早嶋です。2400文字。
先日、異業種間で集まりファシリテーションをしていた時の話。物流業界での取り組みの一貫で、ある企業が行ったデジタル化の推進事例が印象的だった。そこでは、本部が主導して業務のRPA化や業務標準の見直しを進めていた。単なるシステム導入ではなく、現場の作業を抜本的に見直し、手動から自動へ移行するプロセスを本格化させていく。
特徴的なのは、本部が一方的に仕様を決めて展開するのではなく、現場にいる若手のリーダー層、曰く「ITキーパーソン」を要所に配置していたことだ。彼らは単なる操作要員ではなく、現場の声を吸い上げ、導入におけるボトルネックを整理し、時には本部にフィードバックを返す媒介者でもあった。まずはモデル拠点で試し、一定の成果を確認した後に、他の拠点へと段階的に広げていく。その過程でも、一律に拡大するのではなく、進んでいる拠点、進んでいない拠点それぞれの事情に耳を傾け、KPIだけで評価せず、本部はITキーパーソンを活用しながら、定性的なレビューや対話の場を繰り返していた。
このような進め方が求められる背景には、組織構造に特有の事情がある。まず、ひとつの企業といっても、複数の拠点や部門があり、働いている人たちの経験や価値観、業務の細かな習慣に違いがあることだ。本部が考える理想的な仕様や業務フローと、現場が実際に体験している課題との間には、どうしてもギャップが生まれる。
また、日本企業では、上意下達の文化が根強く、本部からの方針を現場が「受ける」ことが前提になっている。結果、本部は「正しい」と思って、「あるいは間違っている可能性がない!」と思って設計し、KPIや制度を考えている。しかし、完璧は常に無く、現場からすれば「使えない」「意味がない」「理解されていない」と感じられ、次第に形骸化していくのだ。特に拠点が全国に分散しているような業態では、地域による温度差や管轄するマネジメント人材のばらつきも重なり、ある現場では順調に進んでいる一方で、別の現場ではまったく進まないといった事態も少なくない。
このような障害や課題に直面したとき、本部主導の進め方にはある種の構造的な歪みがあることに気づく。それは、「制度や仕組みは完成されたものを与えるべき」という発想に縛られている点だ。
現実には、制度や仕組みというのは、試しながら、調整しながら、現場の文脈と擦り合わせながら育てていくものだと思う。たとえば、ある企業では、初期段階で本部がある程度の叩き台を設計しつつも、現場からリーダー格の人材を巻き込み、モデル拠点でのトライアルを実施した。成果が確認できれば、そこで出てきた課題や改善点を反映させながら、徐々に他の拠点へ展開していく。
また別の進め方としては、初期の制度設計段階から本部と現場の代表者が一緒に仕様を詰め、その後も定期的にレビューの場を設けて、不具合や違和感があれば制度そのものを柔軟に見直していくというやり方もある。半年程度の「伴走期間」を設けて、制度を現実に馴染ませていく。これがうまくいく組織は、たいてい制度そのものよりも「制度が育つプロセス」のほうに重きを置いていると観察している。
この考え方は、なにもデジタル化や業務改善だけに限ったものではない。経営方針を全社に浸透させたいとき、あるいはブランド理念を社内に定着させたいとき、新たな人事制度を導入するとき、さらにはサステナビリティやESGのような中長期的なテーマを現場に浸透させたいときにも、同じ構造が立ちはだかる。そしてその都度、同じような誤解とつまずきが起こる。本部は、「方針は示した、あとは進めるだけだ」と思う。一方で現場は、「実態がわかっていない」「話を聞いてもらっていない」と感じる。このすれ違いのまま制度や方針を拡げてしまえば、抵抗や無関心が生まれるのは当然のことだと思う。
だからこそ、あらかじめこの構造を理解し、フレームとして持っておくことが有効だと感じている。まず、本部と現場には課題認識とか、何かしらのギャップがある。次に、現場は一枚岩ではなく、温度差や力量の違いがあり、ばらつきがある。そして最後に、制度や改革は完成形で提供するものではなく、運用しながら熟成させていくべきものだ。この3つの前提を持って取り組むことで、進め方はまったく変わるし、現場の納得感や定着度合いも大きく変わるはずだ。
実際、このような視点で変革を進めてきた有名企業は少なくない。たとえばトヨタは、生産方式の海外展開において、現地の文化や労働習慣とのギャップを丁寧に理解し、現地スタッフを巻き込んだうえで現地仕様のトライアルを経てグローバル展開した。
また、ユニクロは商品開発から店舗運営までの情報連携を見直し、本部と現場が同じデータを見て判断できるようにシステムを再構築した。サイボウズは多様な働き方を支える制度を導入したが、制度の意味や目的を現場と繰り返し対話することで、定着のプロセスを丁寧に育てた。
セブンイレブンは、本部から一方的に送るのではなく、加盟店のモデル店舗での運用試験を通じて制度を現実に馴染ませていった。さらにリクルートは、経営理念やバリューの浸透において、一律の押しつけではなく、部署ごとに自分たちの言葉に置き換えて語り直すという共創のプロセスを大切にしていた。
こうした事例に共通しているのは、単に良い制度を設計することではなく、その制度が現場で育ち、根づき、使われていくプロセスをどう設計するかという発想だと思う。本部の意図と現場の現実。その間に横たわる深くて長い溝を、どうやってつないでいくか。そのためには、一度で正解を出そうとせず、寄り添いながら、間違えながら、制度や仕組みをチューニングしていくという姿勢が欠かせない。制度や仕組みは、導入するものではなく、育てるものなのだ。その視点を持てたときに、組織全体が変わり始めるのだ。
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新規事業の旅215 デジタル選挙の課題
2025年10月5日
早嶋です。
なんで、スマフォを使って選挙をしないのだろうか。デジタルなら不正はないし、コストも下げれると思っていた。ただ、実際のところ、どうなのかについて調べてみた。
現在、スマホで株も買える。ローンも組める。海外送金すら指一本でできる。しかし、なぜ選挙は、未だに紙と鉛筆で行うのだろうか?
選挙こそ、早くデジタル化されるべきだと思っている。投票用紙を刷、投票箱を並べ、封筒に入れ、人の手で回収する。そのたびに国家予算が数百億円も動く。この仕組みは、非効率だし、コストもかかりすぎている。スマホで投票できるようになれば、時間もお金も節約できて、しかも票のカウントミスや開票作業の人為的ミスも防げると、思っていた。
さらに、テクノロジーの進歩を見れば、それは決して夢物語ではない。ブロックチェーンを使えば投票の記録は改ざんできないし、投票履歴が残っていれば監査もできる。投票システムをオープンソース化すれば、誰でも中身を確認できて、透明性も担保される。そういうふうに、「デジタル=合理的、安全、効率的」という考え方が、僕の中には自然に染みついていた。
だが、調べると、選挙という仕組みが思っていた以上に複雑で、繊細なバランスの上に成り立っていることを知った。何よりも驚いたのは、「選挙がそもそも匿名である」という問いに対してだ。それまで、匿名性とは単なる人権的なマナーのようなものだと思っていたが、それはまったく逆で、匿名であることこそが、選挙の自由と公正を守るために不可欠な条件だったのだ。
誰が誰に投票したかがわからないようにすることで、人は圧力から解放される。会社の上司から強要されても、家族や宗教団体から命令されても、外からは本当に誰に投票したかを確認できないからこそ、最後は自分の意志で投票できる。もし投票の中身が誰かに証明できるのであれば、それは票を売ることや、命令に従わせることが可能になるのだ。
匿名性は、つまり「誰にも支配されない自由な選択」を保証するためにある。ところがその一方で、匿名であるということは、自分が本当に投票した内容が正しくカウントされたかどうか、確認する術がなくなるということにもつながる。自分がA候補に投票したのに、開票結果ではB候補にすり替えられていても、それを証明する方法がない。誰がどの票を入れたかを記録できないようにしている以上、個人レベルでも、第三者の立場でも、改ざんの有無を確実に検証するのが難しい。選挙という制度は、この「匿名性」と「検証性」という二つの価値を同時に成立させなければならない。これが根本的に矛盾した課題になるのだ。
実は、この構造自体は、紙でもデジタルでも同じだ。紙であれば、投票用紙をすり替えたり、廃棄することができる。デジタルであれば、スマホ端末が乗っ取られていたら、本人が押したボタンと、送信された投票内容が異なるかもしれない。デジタルは一気に、不正が可能な点を考えると、その影響は一人とか特定のエリアではなく、何千人、何万人規模で同時に行われる可能性がある。
つまり、票の「記録」そのものがいかに安全であっても、その「入力」が不正確であれば、結果は歪められるのだ。これまで、「ブロックチェーンがあるから安全だ」と考えていたが、それはあくまで「正しいものが記録された」場合の話だ。正しくないものが記録されたら、その間違った事実が、より頑強に保存される状態が発生する。
もちろん同じような条件下で、既にデジタル選挙を実現している国がある。エストニアだ。エストニアでは、有権者の半分以上がネット投票を行う。投票は電子IDによって認証され、電子署名が施される。投票は何度でもやり直すことができ、最終投票が有効になるため、仮に誰かに脅されて投票しても、自分の意志で後から修正できる設計になっている。そして何より、e-IDという本人確認の基盤が、医療・行政・金融など生活のあらゆる領域と結びついている。投票のデジタル化が、社会のデジタル化の延長線にあるのだ。
では、なぜ日本やアメリカでは同じようにできないのだろうか。その理由はいくつもある。日本ではマイナンバーがまだ実質的には社会インフラとして活用されていない。アメリカでは州ごとに制度が異なり、連邦単位で共通のIDやシステムを持つこと自体が政治的に難しい。さらに両国に共通しているのは、「デジタル=操作されるかもしれないもの」「紙=信頼できるもの」という根深い意識がまだ根底にあることも理由だと思う。選挙制度への不信が強いからこそ、「目に見える形で投票したい」という気持ちは、制度の設計以上に大きな壁となっている。
結局のところ、「デジタルなら不正はない」という前提は、条件付きでしか成立しないのだ。本人認証、暗号技術、端末の安全性、改ざん検知、そして国民がその仕組みを信頼できるかどうか。こうした複数の条件が揃い、はじめて、デジタル選挙は紙と同等、あるいはそれ以上の安全性と公正さを持つ可能性がある。だが、どれか一つでも欠ければ、かえって危うい制度になるのだ。
技術だけでは、制度はつくれない。透明性だけでは、信頼は得られない。匿名性だけでは、公正は担保されない。選挙という仕組みをデジタル化するなら、それは単なる道具の入れ替えではなく、社会そのものの設計と向き合うことになるのだ。
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地方と都市部と人材育成
2025年10月3日
早嶋です。3300文字。
人は、自分の意思で将来の道を選んでいるように見えて、実は「周囲の人がどう生きているか」に大きな影響を受けている。これは「ピア効果(peer effect)」と呼ばれ、心理学や経済学、社会学の分野でも広く知られた概念だ。
たとえば、東京の23区内で育った人の多くは、幼少期から「良い中学に入り、受験を勝ち抜き、偏差値の高い大学へ進み、名の通った企業に就職する」という道が、ある種の人生の王道として刷り込まれている。これは親や先生、友人の家庭など、周囲の人々の多くがそのような選択をしていることによって形成された見えないレールであり、本人が自覚していなくても、知らず知らずのうちにその道を歩むことが当然のように感じられる。
一方で、地方で育った人たちには、異なるピア効果が働いていることが多い。親や親戚が地元で商売をしていたり、農業や漁業、あるいは地域の行政に携わっている姿を見て育つと、「自分も地元のためになることをしたい」と考えるようになる。大学進学よりも地元での就職や起業、地域活性化に関わる仕事に魅力を感じるようになるのだ。
このように、同じ日本という国に生きていても、置かれた環境や地域コミュニティの文化によって、人生のロールモデルはまったく異なる形で刷り込まれていくことになる。
かつては、都市と地方では、手に入る情報量に大きな差があった。新作の映画、話題の本、最新の音楽やファッション、教育コンテンツなどは、まず都市に集まり、地方にはずいぶん時間が経ってから届くものだった。私が子どもの頃を振り返っても、「少年ジャンプ」は発売日よりも遅れて水曜日に店頭に並び、「笑っていいとも」は夕方に録画で放送されていたのを覚えている。
しかし、今は違う。スマートフォンと高速インターネット、そしてNetflixやSpotify、YouTube、Amazonといったサブスクリプション型のプラットフォームの普及によって、全国どこにいても、ほぼ同時に同じ情報にアクセスできるようになった。東京にいなくても、地方にいながらにして、世界中の知識やエンタメをリアルタイムで享受できる。
このような情報の民主化によって、「あえて都会に行かなくても良い」という発想が、地方に住む人々の間に自然と広がってきている。一方で、都市に住む人たちは逆に、「便利すぎる日常」や「人混み」に疲れ、自然や静けさの中で暮らす地方のライフスタイルに憧れるようになっている。二拠点生活やワーケーションといった新しい生き方が注目されている背景には、こうした価値観の流動化がある。
つまり、かつては場所によって固定されていた「生き方の選択肢」が、今では個人の意思と工夫によって、自由に越境できる時代が訪れつつあるのだ。
こうした時代において、子育てにおいて本当に大切なのは、「あらかじめ用意された正解」を一方的に教えることではないと思う。むしろ、子どもにさまざまな地域の文化や、異なる生き方を見せること。そして、「どれを選んでもいい」「自分の頭で考えて、自分なりの道をつくっていいんだよ」と伝えることこそが、これからの教育に必要な姿勢ではないだろうか。
そのためには、やはり実際に“生きた情報”に触れる必要がある。テレビやSNSで得られるような断片的な情報ではなく、現地に足を運び、人と話し、その土地の空気を肌で感じることで初めて、深く理解できることがある。子どもたちにとっては、それが「自分の人生を考える材料」になる。
この視点を持って街を眺めてみると、まちづくりが人々のライフスタイルや価値観にいかに影響を与えているかが、より鮮明に見えてくる。
たとえば岡山では、岡山駅の隣に巨大なイオンモールが建設されている。これは偶然ではなく、意図的な都市設計の成果だ。もともと駅前に存在していた人流と、モールの集客力をうまく組み合わせることで、駅周辺に新たな賑わいを生み出している。また、岡山駅から後楽園に向かって続く通り(「県庁通り」や「シンフォニーロード」と呼ばれるエリア)では、あえて車線を減らして一方通行とし、歩行者が安全かつ快適に移動できるように設計されている。その結果、百貨店や県庁に向かう人々の流れが「歩くこと」を前提とした空間として機能し、地域の商業施設や文化拠点が点ではなく線で結ばれるようになっている。
このように、「人がどのように動くか」「どこで滞在し、どこで回遊するか」を前提に設計された街は、時間をかけて自然と人を引き寄せる。歩くことに意味があり、動線としての美しさと機能を両立している都市は、やがてその街全体の記憶や魅力を育てていく。
一方、長崎はやや異なる軌跡をたどっている。かつて賑わいの中心だった浜の町は、路面電車やバスといった公共交通の便が非常によく、多くの人が徒歩で行き交う繁華街として機能していた。しかし、駐車場が狭く、車でのアクセスには不便があった。そうした事情もあり、やがて大波止エリアや浦上エリアに車でアクセスしやすい大型のショッピング施設が次々と生まれ、さらに宝町にスタジアムシティという大規模な開発が完成すると、浜の町の地位は相対的に低下していった。
この変化の背景には、地方の多くが「車社会」であるという現実が横たわっている。日常的な移動手段として自家用車が不可欠である以上、駐車スペースが広く、施設内で複数の用事が完結できるようなモールの方が圧倒的に使い勝手が良い。人々の選択基準は、もはや“便利さ”そのものになっている。
佐賀もまた、同じような構造を抱えている。佐賀駅の周辺は整備されているものの、もともと商店街が形成されていたエリアは駅からやや離れており、徒歩でのアクセスには不便があった。そこへ、高速道路のインター近くに大型のモールが開発されると、人の流れは一気にそちらへと移ってしまった。アクセスの良さ、駐車のしやすさ、そして一箇所で衣食住の用事をまとめて済ませられる利便性――それらが現代において人の動きを決定づけている。
そもそも商店街とは、その地域に住む人々が日々の生活に必要なものを、徒歩や自転車で手軽に買い揃えるための場所だった。八百屋、魚屋、クリーニング店、文房具屋など、顔の見える商売が並ぶ、生活と密着した場である。
しかし今や、そうした構造は現代のライフスタイルとズレを生んでいる。共働き世帯の増加によって、平日には買い物に行けず、週末に車でまとめ買いをするスタイルが主流になってきた。大型モールで衣食住のすべてを一括で済ませるほうが効率的だと感じる人が増えているのだ。
さらに、商店街は縦に長い一本道で構成されていることが多く、複数の目的地を回るには歩く距離も時間もかかる。駐車場の数も限られている。その結果、商店街は利便性でモールに劣り、人が来なくなり、店が閉じ、さらに人が来なくなるという悪循環に陥ってしまっている。
こうした街の変化や、人々の生活実態を正確に理解するためには、現地に足を運び、実際にその土地の人と話し、生活の現場を体験するしかない。しかし現実には、東京、特に霞が関に勤務する行政官や政策担当者が、画一的な「地方像」をもとに、2次情報だけで政策を立案し、それを全国一律にコピーして展開している例も少なくない。
だが、「地方」と一括りにされる地域も、それぞれにまったく異なる事情を抱えている。交通インフラの整備状況、生活リズム、地域産業の構造、そして地形や気候の違い。こうした要素が複雑に絡み合い、各地域に固有の人の流れを形成している。これらを無視したテンプレート政策の押しつけは、地方の自律性を奪い、むしろ再生の芽を摘んでしまう危険がある。
地方にも、都市にも、それぞれの生活があり、それぞれの価値がある。問うべきは「どちらが優れているか」ではなく、「どのような生き方が、自分にとって幸せか」という視点だ。
そのために必要なのは、生きたロールモデルとの出会いであり、自分の目で現実を見て、自分なりの問いを立てる力であり、そして「自分の正解を、自分で決めていい」という許可を、自らに与えることなのだと思う。
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新規事業の旅214 破壊と維持と創造
2025年10月2日
早嶋です。1400文字。
イノベーションという言葉は、度々使い古されながらも、今だに人の心を惹きつけている。新しいことをする。壊す。そして、また創る。そんな営みは一見過激に見えても、実は人間の歴史そのものだ。
ヒンドゥー教の「トリムルティ(三神一体)」の話を思い出す。創造のブラフマー、維持のヴィシュヌ、破壊のシヴァ。これらの神々が途方もない月日の年単位で宇宙を創っては壊すという神話がある。そう考えると、人類がイノベーションを巡って議論していること自体が、すでにそのサイクルの中にあるのではないかと思えてくる。
企業においても、コンピテンシー・トラップという罠がある。過去の成功体験が逆に視野を狭め、新しいことに挑めなくなる状態だ。最初は探索し、やがて洗練され、完成形を目指す。だがその時点で、もう衰退の芽が生まれている。イノベーションを真に起こすには、探索と深化、創造と破壊を何度も繰り返さなければならない。
トヨタが米国のスーパーに着想を得て、ジャスト・イン・タイムの生産方式を創ったのも、蔦屋が消費者金融のCRMを取り込み、ライフスタイル提案型店舗という新しい価値を生んだのも、越境の力だ。そして、クロネコヤマトが吉野家の牛丼一筋という特化の姿勢にヒントを得て、宅配市場に個人配送という概念を持ち込んだことも、単なる模倣ではない。そこには、自らの視野を拡張するための異業種の観察があり、概念の翻訳がある。
こうした越境のイノベーションの代表例として、ダイソンのサイクロン掃除機も挙げられる。ジェームズ・ダイソンは、吸引力が落ちない掃除機を開発するにあたって、F1マシンの空気の流れを研究した。遠心力で空気とゴミを分離するサイクロン構造は、レーシングカーの冷却システムや空力制御から着想を得ている。掃除機という日用品に、F1の極限技術が活かされているというのは、非常に象徴的な話ではないかと思う。
このように、創造は単独で生まれない。そこには維持と破壊が必要なのだ。ヒンドゥーの宇宙観では、世界は永遠に存在するのではなく、創られ、維持され、破壊され、また創られる。そのサイクルを「マハーユガ(大輪廻)」と呼び、ブラフマーの1日(カラパ)は43億2000万年というスケールで語られる。何億年も続いた世界が、シヴァの踊りによって破壊される。そして、また蓮の花の中からブラフマーが現れ、新たな宇宙を創る。
経営における「両利き」とは、まさにこの宇宙的リズムの縮図ではないかと感じる。探索と深化の両立、新規事業と既存事業の両立。新しいことを始めるには、古い何かを壊さねばならず、しかしそれは単なる破壊ではなく、次の創造のための土壌を耕す作業でもある。成功している時こそ危機であり、変わらないことこそ最大のリスクである。だからこそ、企業は「創造・維持・破壊」の三位一体を、自らの内部に内在させなければならないのだ。
ヒンドゥーの神話は、それを宗教という形で人類に伝えてきた。そして、私たちはそれを経営という言葉で、あるいはイノベーションという言葉で、また繰り返そうとしている。人類は賢いのではない。忘れっぽいのだ。だが、同じ構造を繰り返すことで、少しずつ前に進んでいるのだと思う。
さあ、次のサイクルへ。破壊の舞が聞こえたら、創造の始まりはもうすぐだ!
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