
手触りで生きる、概念で生きない。
2026年2月2日
早嶋です。
経営は、意思決定の連続だと言われる。数字、リスク、将来予測、市場環境。どれも大事だ。だが現場を長く見ていると、もう1つ別の層がある。それは「どのような在り方でその場に立っているか」だ。
多くの経営者や管理職は、未来を考えることが仕事になっている。3年後、5年後、株主、評価、失敗したらどうなるか。先を読む力は勿論確実に必要だ。ただ、それが強くなり過ぎると、今日の自分が消えていく。今この瞬間の実感がなくなり、概念の中で生き始めることになる。失敗のシミュレーションばかりが精密になり、日々の行動が萎縮する。これは合理的に見えて、実は組織を弱くする。
禅の世界では「只管打坐(しかんたざ)」という言葉がある。道元 が説いた、ただ坐るという実践だ。何かを得ようとしない。ただその場に在る。これは経営とは関係なさそうに見えるが、実は近い。打算を一度横に置き、今起きていることを引き受ける姿勢だ。未来を制御しようとする緊張を手放した時に、かえって全体が見える。経営も似ている。常に結果を掴みにいこうとすると視野が狭くなる。
人は嫌なこと、怖いこと、責任が重いことから逃げたくなる。それは自然な反応だと思う。ただ逃げた後に残るものがある。「あの時向き合わなかった」という記憶だ。この記憶は、自信を削り続ける。表面的には穏やかに見えても、内側では自分を信用できなくなる。組織のトップがこれを抱えていると、決断が細くなる。言葉に重みがなくなるのだ。
逆に、結果がどうであれ、怖さを抱えたまま進んだ経験は残る。失敗しても残る。そこには「自分はあの場に立った」という感覚がある。この感覚が経営の土台になり人を作る。部下は、論理よりもこれを感じる。覚悟の手触りのようなものだと思う。
マルティン・ハイデガー は、人間を「死に向かう存在」だと語った。極端な話に聞こえるが、意味は単純で、有限性を自覚した時に初めて人は自分の選択に責任を持つということだ。経営も同じだと思う。常に正解があると思っている間は、決断は他人事になる。どの選択にも傷があると知った時、初めて自分の決断になるのだ。
「今を楽しむ」という言葉があるが、これは軽い意味ではない。楽なことを選ぶことではない。怖さや痛みを含め、その場に参加することだ。経営の現場は楽しくない瞬間が多い。それでもそこに居続ける。その時間を引き受ける。そこにしか手触りは生まれない。
言語学でも似た考え方がある。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン は、言葉の意味は使用の中にあると言った。頭の中の定義ではなく、実際の行為の中で意味が立ち上がる。経営理念も同じだ。文章として掲げるのではなく、苦しい局面でどう振る舞ったかの積み重ねが、その会社の意味になる。
未来を考え過ぎて今を失うな。予測は必要だが、予測の中で生きるな。
怖さがある場面で逃げなかった経験や、言いにくいことを言った経験、そして責任を引き受けた経験。これらが積み重なった人の言葉には力がある。役職からではなく、生き方から出る力だ。経営戦略の前に姿勢がある。姿勢は思考からではなく、経験からつくられる。経験は逃げなかった場面からしか生まれない。乱暴に言えば、これを避け続けると、どんなに賢くても組織は弱い。逆に向き合う人が上にいる組織は、多少不器用でも太くて強い。
結局のところ、経営とは未来を当てる仕事ではなく、今この場にどんな態度で立つかを問われ続ける仕事だ。その積み重ねが、あとから振り返った時に「戦略」や「成功」に見えるのだ。
モチベーションは下げないようにする
2026年2月2日
早嶋です。2200文字。
モチベーションの大前提は次の視点をもつことだ。モチベーションは「上げる」ものではなく、「下げないようにする」という点だ。いわゆる衛生要因の発想に近い。給与、安全、労働時間、人員配置、仕事の明確さ。こうした土台が保てていない状態では、人は前向きになる前に防御モードに入る。やる気以前に、保身が前提にくということだ。これはいわば「何によって変わるか」、つまり外的条件の話になる。モチベーションのWhatの領域だと言ってもいい。環境が人の状態を左右するのは間違いない。ただ、ここだけ整えても、人が自分から動き出すとは限らない。
モチベーションには、「どう関わるか」のHowの領域もある。同じ仕事でも、上司の関わり方で部下のモチベーションが変わるのだ。上司の関与があるか無いかを、部下が感じるか否かで、モチベーションが変わる。承認欲求であるとか、期待なんかが関連する。あいつは評価されて、俺は評価されていないなどの公平理論の文脈にもつながる。また、仕事をしている中で「昨日よりもできるようになった」と感じられるかどうかも大きい。学習理論や強化理論の話になるが、要は自分の行動と結果がつながる実感があるかどうかだ。見られている、認められている、成長している。このHowの領域は、まさに上司が如何に部下と関わるかの世界だ。
そして、3つ目がある。最も根源的な問いだ。それは、なぜ人は内側から動き出すのか、というWhyの領域になる。最近の心理学的なアプローチでは、モチベーションの源泉は外側ではなく内側にあるとされる。自己肯定感、心理的安全性、自分はここにいていいという感覚が前提にあり、その上で「自分は役に立っている」「必要とされている」「任されている」と感じたとき、人は自発的に動き始めると言う。つまりモチベーションは、命令で引き出すものではなく、条件が整ったときに内側から湧いてくるものなのだ。
What(環境)、How(関わり方)、Why(内側の状態)。この3層を分けて考えると、やる気がない人を「性格」のせいにしなくて済む。多くの場合は、その人の問題ではなく、環境か関わり方か、あるいは自己効力感が育っていないだけなのだ。
マネジメントと議論を繰り返している中で、現場で良く起きている事例をいくつか見てみよう。
例えば、建設現場だ。無理な工程がやる気を奪う。これはWhatが欠けている状態の事例だ。あるプラント工事の現場、工程が詰まり納期が押している、人員も不足する、残業が続いている、作業員の一人が次のように発言する。
「言われたことはやりますけど、もう考える余裕がないです。」
これは怠慢ではない。明らかにベースが崩れている状態だ。安全リスクが高く、体が疲れ切り、段取りが見えない。この状態で「やる気出せ」は無理だ。この状況をクリアするための取組として行ったのは、気合を出すことではない。工程の組み換えと応援要因の追加だ。現場からは状況の理解とともに自分たちの作業工程の安全性を守っているという態度を見て一定の心の状態に戻ったのだ。しばらくすると、現場から自然に改善提案が出始める。やる気は「作る」より「出せる状態を作る」ほうが早いのだ。
次は、インフラ整備の現場だ。これは上司の眼差しが届いていない、放置されている感覚から来た事例だ。つまりHowによるモチベーションの低下だ。道路保全チームの若手。彼は黙々と仕事をするが、改善提案をちっとも出さなかった。会社は、一定期間に必ず提出するルールを持っていたのにだ。そして、上司は「受け身なタイプ」として部下にレッテルを張っていた。
マネジメントとモチベーションや部下との関わり方の議論をした後、上司は自分から部下に声をかける行動を始めた。「この前の誘導、事故ゼロだったな。あれ、お前の配置判断良かったぞ。」と。若手は少し驚いた顔をしたそうだ。「見てたんですか?」的な。その後、ヒヤリハットの報告が少しづつ増えたそうだ。承認は甘やかしの側面と捉える場合もあるが、状況や部下によっては、自信の存在の確認にもなるのだ。
清掃会社の事例だ。自分は価値がないという思い込み(Why)だった。大型施設の清掃リーダー。ベテランだが常に次のような発言をしていた。「自分なんて裏方ですから。」と。幾分自分たちの仕事を下にみた感情だった。やはりトレーニング中の上司から以下のような話を切り出してもらった。「この施設、クレーム少ないのはお前の段取りのおかげだと思うぞ。」的な。本人は黙った後、ぽつりと言った。「そんなふうに言われたの初めてです。」と。それ以降、若手への指導が増えたと言う。人は「自分が役に立っている」と感じた瞬間に変わる場合もあるのだ。
事象や状況は変われど、多くの現場でも起きているのは同じことだ。モチベーションが下がるのは「無力感」が強くなったときだ。モチベーションが動くのは「自分は役に立っている」と感じたときだ。上司の仕事はやる気を入れることではなく、無力感を減らすことだ。環境を整え、関わり方を変え、その人の中にある「使っていない力」を引き出してあげるのだ。観念的だが、そんなマネジメントもあると思うのだ。
顧客経済圏の覇者は、AIとロボットを融合させる、その結果、技術思考の会社は常に部品として見られ買収対象になる
2026年1月29日
早嶋です。約1.8万字と長いです。
昔は、良いものを作れば勝てた。今は違う。顧客の日常に入り込み、提供サービスは使われ続け、支払いが耐えない仕組みを持つ企業が圧倒的な勝者だ。企業は顧客の使用ログを取り続け、それらを活かして更に、顧客の利便性をあげるための価値を提案する。そのような企業は、将来キャッシュフローが増加するため企業の価値は上がり株価が上がる。その株価を武器に、関連する周辺事業を買収して更に経済圏を広げる。業界の境界は薄れ、通貨に近い領域(決済・ポイント・信用)の奪い合いが始まる。そして次は、AIがロボットとして現実世界にインストールされ、経済圏の端末にシフトする。そこで問われるのは「技術があるか」ではない。「顧客経済の主権」を持てるかだ。持てなければ、技術は称賛されながらも部品として組み込まれるのだ。
顧客接点を重視する企業が勝ち続ける
今後、大企業の勝ち方は変わっていく。正確に言えば、企業が「何を取りにいくか」が激変している。かつては、良い商品をつくり、良い機能を積み上げ、その結果として売上を伸ばすことが王道だった。もちろん、いまでも商品は重要だ。しかし近年、成長している企業の多くは、商品そのものよりも先に「顧客とのつながり」を最重要KPIに置いているように見える。
ここで言う顧客とは、単なる会員数やユーザー数のことではない。顧客の生活の中で、あるいは現場の仕事の中で、その企業が提供する仕組みが使われ続けている状態のことだ。使われ続けるということは、支払いが継続し、使用ログが蓄積され、それが改善に回され、さらに周辺の価値提供へと拡張されていくということを意味する。企業は、顧客の時間と習慣、そして最終的には財布の中に入り込むことを目指しているのだ。
では、なぜ企業はそこまでして「顧客を取りにいく」ようになったのかだ。それは、顧客との関係性を起点にしたビジネスモデルが、構造的に、従来の製品ビジネスよりもはるかに強い成長カーブを持つようになるからだ。この差を生んでいるのが、ハードとソフトの性質の違いだ。
ハードの事業は投資に対して比例して売上が伸びる。売上は(台数×単価)に縛られ、製造能力、在庫、物流、販売網がボトルネックになるかだ。一方でソフトは、一度作り上げれば、コピペ(複製)して通信で届けるコストがほぼゼロに近い。限界費用がほとんどかからないため、同じ仕組みを多くの人に配るほど利益率が上がりやすく、成長のカーブも比例ではなく自乗に近づいていく。
さらに重要なのは、ソフトは「売り切り」である必要がないことだ。むしろ使用を前提に提供し、サブスクや従量課金に寄せることで、顧客が実際に問題を解決している瞬間、つまりリトルハイアを合理的に観測できるようになるのだ。
売り切りの商品を買ってもらって終わり、ではない。使ってもらい、使われ方を観測し、改善し、さらに価値を足す。その循環が回り始めると、顧客の問題解決は深まり、関係性は強くなる。顧客にとって利便性が高く、その商品から離れる必要はなくなる。従って企業は、一定の売上が計画的に見込める。そのため企業は次の価値提供を計画的に設計できるのだ。だからこそ「商品を売る」よりも先に、「顧客を取りにいく」企業が増えているのだ。
その結果、こうした企業は将来のキャッシュフローを高い確度で見通せるようになる。顧客が離れず、使われ続け、そこから新しい価値が生まれ続ける構造を持っているからだ。だから資本市場は、その企業の将来に高い期待を置き、株価も高くなるのだ。顧客を取りにいく企業の株価は高くなりやすい。市場が見ているのは「今の売上や利益」よりも「将来のキャッシュフロー」なのだ。そして、将来のキャッシュフローを最も確度高く見積もれるのは、すでに顧客の習慣と財布を握っている企業だ。
サブスクの企業が評価されるのは、売上が毎月積み上がるからだけではない。リトルハイアの情報を持ち、その情報を使って、顧客あたりの価値提供を増やせるからだ。顧客が何に困り、どう使い、どこで離脱し、何が刺さるのか。これがわかれば、改善も、追加提案も、金融の設計もできる。改善が回ればさらに継続率が上がり、継続率が上がればLTVが伸び、LTVが伸びれば株価が上がる。株価が上がれば資金調達が容易になり、買収も仕掛けやすくなる。これが勝利の方程式になっている。
そしてここが重要だ。高い株価は「結果」ではなく「武器」になることだ。株価が高い企業は、ロールアップで周辺領域を取り込める。ここで言うロールアップとは、株式交換や買収を通じて、周辺の企業や技術を次々と自社の中に取り込んでいく成長戦略のことだ。株価が高い企業は、自社の株を通貨として使い、現金をあまり使わずに他社を買うことができる。技術やノウハウを買い、顧客接点を買い、規制対応のチームすら買う。そうすると成長の速度が上がり、さらに株価が高くなる。資本市場が成長の燃料を供給し、企業がそれを使って領域を拡張する。だから、顧客を取りにいく企業は、ますます勝ちやすくなるのだ。
(産業の境が曖昧になり独自の経済圏が誕生する)
今後、産業の境が曖昧になるのは当然だ。昔は「銀行は銀行」「通信は通信」「小売は小売」だった。しかし顧客の財布と習慣を握る企業は、顧客の問題解決に必要な周辺領域へ事業を拡大する。決済を握ればローンができる。ローンができれば保険ができる。保険ができれば投資ができる。投資ができれば、購買の入口としてのECや広告が欲しくなる。広告が欲しければ、検索やOSが欲しくなる。こうして、領域が連鎖するからだ。
つまり、企業は「隣の産業に進出している」のではない。顧客の問題解決を軸に、連続させて取り組んだ結果、産業の境界線の上を超えてしまっていたのだ。境界が消えるのではなく、昔の業界人が考えた境界の意味が変わるのだ。顧客の生活は一つであり、顧客の財布も一つだからだ。
産業の境が薄くなると、次は「通貨」に近い領域の奪い合いが勃発する。ポイント経済がその典型だ。ポイントは割引のように見えて、実態は経済圏の通貨だ。貯まる、使える、交換できる、優遇条件が変わる。ここに信用が乗ると、実質的な通貨にさらに近づく。この構造が、最も早く、かつ大規模に可視化されたのが中国だった。
中国の話になると、よく「社会信用システム」という言葉が出てくる。少し物々しく聞こえるが、実態はもっと現実的な仕組みだ。中国では、たとえば裁判で「お金を返しなさい」と命じられたのに、それを無視し続ける人がいる。そのような人たちは「失信被执行人」と呼ばれ、一定のリストに載る。すると、高額な飛行機のチケットが買えない、ぜいたくなホテルに泊まれない、といった制限がかかる。要するに、「約束を守らない人は、経済活動がやりにくくなる」仕組みが、制度として組み込まれているのだ。
ここでよくある誤解は、「中国では国民一人ひとりに点数がつけられている」というイメージだ。しかし実際には、ひとつの巨大なスコアがあるわけではない。裁判所のリスト、税務のリスト、規制当局のリストなど、いくつもの行政データが連動して、「この人は信用できるかどうか」を判断する仕組みになっている。つまり中国では、信用が道徳ではなく、経済条件として扱われ始めている。信頼できる人は自由にお金を使え、約束を破る人は不利な条件を受ける。その違いが、決済や移動や消費の場面で、実際の制約として現れるようになっている。
この事例が示しているのは、信用が単なる評判ではなく、「お金の使い方の条件」として社会に組み込まれ始めたという事実だ。約束を守る人は自由にお金を使え、守らない人は使いにくくなる。つまり、信用は通貨の潤滑油として機能し始めている。この構造を企業の視点で見ると、ひとつの結論に行き着く。人の行動を左右するのは、商品ではなく、お金の流れそのものだということだ。
だから、ポイントや信用が通貨の潤滑油として機能し始めると、企業は決済、つまり顧客の財布を取りにいく。決済を握れば、顧客の支出の全体像が見える。支出が見えれば、金融条件(分割、ローン、保険料率、与信)を変えられる。条件を変えられれば、顧客の行動そのものを誘導することもできる。ここまで来ると、競争は「良い商品」ではなく、「良い通貨」に近づく。だから、ポイントとデジタル通貨の取り合いが始まり、すでに始まっているのだ。
覇者は経済圏を構築する
ここまでの流れをみれば、ひとつの結論が見える。これからの覇者は、国を取りにいくのではなく、「経済圏」を取りにいく。国境は、法律や税金、通貨の単位としては残る。しかし人々の行動は、すでに国境を越えて動いている。旅行を予約し、商品を買い、動画を見て、仕事をし、お金を払う。その多くは、ひとつのプラットフォームの中で完結している。そこに「どこの国の会社か」という感覚は、ほとんど関係なくなりつつあるのだ。
いま人々が実際に生きているのは、「国」の中というよりも、「サービスの中」だ。Amazonの中で買い物をし、Appleの中で支払い、Googleの中で検索し、Pay PayやLineの中で会話と送金をする。私たちは知らないうちに、それぞれの経済圏の中で生活しているのだ。だから、これから企業が取りにいくのは、領土のような地理的なエリアではない。人々の生活のまとまり、つまり「生活圏」そのものだ。ある決済で動く生活圏、あるOSで動く生活圏、あるプラットフォームで完結する生活圏。企業は、その単位で世界を取りにいく。
その結果、企業は自然と総合サービスになっていく。買い物、決済、保険、ローン、コンテンツ、移動、仕事が一つの仕組みの中に集まる。そしてその中心にあるのが、通貨、つまり決済とポイントと信用だ。人の行動を束ねる力は、最終的にそこに集まってくる。
中国の事例とDX国家
理解を深めるために、中国の金融大手2社を見てみよう。一般に語られるのは、Alipay(Ant Group)と、WeChat Pay(Tencent)だ。
Alipayは、もともとはネット通販の支払いのための仕組みだったが、そこから送金、ローン、投資、保険へと広がり、中国人の「お金の出入り」のほとんどを通過させる存在になった。一方のWeChat Payは、チャットアプリであるWeChatの中に組み込まれ、人と人の会話の中で自然にお金が動くように設計されている。
両者に共通しているのは、QRコードを入口に、買い物、送金、公共料金の支払い、タクシー、飲食店、ECまでを一つのアプリの中に取り込んだ点だ。多くの中国人にとって、財布よりもスマートフォンの方が重要な存在になっている。
これは単なる利便性の話ではない。決済が日常の中に入り込むと、それは単なる支払いの仕組みではなくなる。誰が、いつ、何に、いくら使ったかという記録が、すべてそこに集まるからだ。そこに信用の情報が重なると、社会の動きそのものが、その仕組みの中で見えるようになる。
ただ「監視」という言葉だけで片付けると、議論が雑になる。実際は、不正や詐欺、踏み倒し、契約違反のコストを下げるために、信用とデータを使う局面が確かにある。裁判所の判決を無視する債務者に対して、一定の高額消費や移動に制限をかける、といった設計は、その典型だと思う。
更に視点を拡げて、国家単位の事例を見てみよう。デジタルで仕組みをアップデートした事例はいくつもある。エストニアは、電子IDとデジタル署名を軸に、行政手続きをオンライン化してきた国として有名だ。Smart-IDやMobile-IDのような仕組みは、本人確認と電子署名の土台を提供し、オンラインでの契約と行政サービスを成立させる。
デンマークも強い。行政とのやり取りをデジタルポスト(Digital Post)に寄せ、公式な通知を電子的に受け取る前提を整えている。これは「紙をなくした」ではなく、「行政と国民の通信路を再設計した」ことを意味する。
シンガポールはSingpassが象徴だ。単一のデジタルIDで政府・民間のサービスへアクセスできる設計を徹底し、本人確認の摩擦を極端に下げた。その結果、口座開設、契約、行政手続きが一つの動線でつながり、「誰であるか」と「何ができるか」がデジタル上で一体化した社会ができている。
インドはAadhaarを軸に、銀行口座(Jan Dhan)とモバイルを組み合わせたJAM構想を語り、補助金の直接給付(DBT)などで漏れや不正を減らす文脈がある。ここも賛否はあるが、「ID×口座×通信」で国家の給付配管を作り直した点が大きい。
ヨルダンではSanadが「政府サービスの入口」として統合され、数百の行政手続きや公共サービスにつながる設計が進んでいる。国民は、どの役所のサービスかを意識することなく、ひとつの入口から国家とやり取りするようになっている。
アイスランドでも、island.isを中心に公共サービスの入口が統合され、行政のデジタル基盤が組み替えられつつある。そこでは、役所の縦割りよりも、「市民が何をしたいか」を起点にした動線が優先されるようになってきている。
こうして見てくると、国家のDXと企業のDXは、実は同じ場所を目指していることがわかる。誰が人を識別し、誰が支払いを通し、誰がその行動を記録するのか。その設計を握った側が、生活の流れを握ることができるのだ。
(企業の事例)
いくつかの企業の事例を見ると、更に解像度が上がってくると思う。アントグループ、衆安保険、ウィーチャット、ペイペイ、アップルとグーグル、アマゾンをみていこう。
●Ant Group
まずアントグループ(Ant Group)だ。アリペイ(Alipay)を入口に、資産運用(Yu’e Bao)や与信(花唄・借唄など)に広がり、信用(Zhima Credit)にまで手を伸ばした流れは、生活金融の統合モデルとして象徴的だ。支払い、貯蓄、借入、そして信用が、ひとつのアプリの中でつながったとき、「銀行に行く」という行為そのものが不要になる。
もう少し丁寧に見ると、Antの強さは「金融商品が揃っていること」ではない。順番と接続の設計が巧いのだ。入口はAlipay、つまり決済だ。決済は毎日使う。毎日使うから、顧客の行動ログが溜まる。行動ログが溜まるから、特定の顧客の与信の精度が上がる。与信ができると、分割や小口ローンの審査が瞬時に判断可能になるのだ。
ここで重要なのは、ローンが特別な取り組みではなくなることだ。従来の金融は、銀行に行き、書類を書き、審査を待つ。しかし生活金融では、支払いの延長として与信が動く。花唄(Huabei)のような後払い・分割は、買い物の文脈で自然に組み込まれる。借唄(Jiebei)のような小口借入も、アプリの中で完結してしまう。
さらにYu’e Baoのような資産運用が重なると、給与や売上の残高がそのまま運用に回り、資金が効率的にキャッシュを生んでくれる。つまり、決済のお金が貯蓄や運用と自由につながるのだ。
Zhima Credit(芝麻信用)は、興味深い。日常の取引における互いの手間を減らすための仕組みなのだ。顧客の信用が高ければ、デポジットが不要になり、手続きが簡素になり、条件がよくなる。日常の決済で普通に支払い、普通にサービスを利用している人の信用高いが、何らかのペナルティや違反を続ける人は企業にとってコストだ。そのような人の信用は下げるのだ。その結果、信用は人格の評価ではなく、経済的な条件になるのだ。
こうして決済、運用、与信、信用がひとつながりになると、Antが握っているのは金融商品ではなくなる。顧客の支払いを入口に、生活の取引コストを低減し、顧客の行動ログをベースに、より快適なサービスを提供することを実現する。生活金融の統合モデルとは、結局、これらを実現したモデルなのだ。
●衆安保険
保険の文脈では、ZhongAn(衆安保険)が象徴的だ。ZhongAnは、いわゆる既存の保険会社とは少し違う位置に立っている。オンライン専業保険として設立され、対面営業や紙の契約を初めから想定していない。保険を「売る商品」ではなく、「行動に紐づくサービス」として設計してきた点がとても特徴的だ。
その成り立ちを見ると、ZhongAnが何を狙っていたのかがよくわかる。株主には Alibaba、Tencent、そして保険大手の Ping An が名を連ねる。テック企業と金融企業が、最初から一体となって設計された保険会社なのだ。
ZhongAnが提供してきた保険は、長期の生命保険や複雑な商品ではない。ECで商品を買ったときの配送保険、旅行に出たときの短期保険、スマートフォンの破損保証といった、行動の発生点に紐づく小さな保険が中心だ。ユーザーは「保険に入る」という意識すら持たないまま、気づけばリスクがカバーされている。
ここで起きているのは、保険の役割の変化だ。従来の保険は、将来の不安に備えるために、あらかじめ契約するものだった。一方、ZhongAnの保険は、行動の結果に自然に組み入れられる。買う、送る、移動する、使う。その一連の流れの中で、リスクだけが切り出され、最小単位で保険がかけられるのだ。
この設計が可能になった背景は、プラットフォームが行動ログを持つ前提だ。誰が、いつ、何をしたのかがわかっているから、リスクを細かく分解できる。その結果として、保険料は小さくなり、不正や過剰なコストも抑えることができる。保険は、特別な金融商品ではなく、生活の些細なリスクを減らす部品になるのだ。
ZhongAnの事例が示しているのは、保険単体の革新ではない。決済、EC、移動、通信といった生活の入口を握るプラットフォームの上に、保険をどう載せるかという問いへの一つの答えだ。金融とテクノロジーが接続するとき、保険は「売るもの」から「自動的に組み込まれるもの」へと姿を変える。その変化が、ここの事例では、はっきりと可視化されている。
●TencentとPayPay
Tencent側の中核にあるのが Tencent の WeChat だ。WeChatは、もともとはチャットアプリとして普及した。しかし中国では、チャットが単なる連絡手段にとどまらなかった。日常の会話が集まる場所は、そのまま生活の入口になり得るからだ。
WeChatの強さは、アプリの中にさらにサービスを内包した点だ。ミニプログラムと呼ばれる仕組みは、いわば「ダウンロード不要のアプリ」だ。飲食店の予約、配車、行政手続き、EC、ゲーム。必要な機能が、会話の中で完結してしまう。ユーザーはアプリを離れて探す必要なない。会話アプリの動線の中に、サービスが埋め込まれているからだ。
その中心を流れているのが WeChat Pay だ。支払いが会話アプリと同じ場所で完結すると、決済もストレスがなくなるし、簡単に支払いができる。勿論、誰が、どの文脈で、何にお金を使ったかが自然に蓄積される。チャットがOSになり、ミニプログラムが市場になり、決済と結びつく。これらが揃ったとき、WeChatは単なるアプリではなく、生活インフラになった。
日本でこれに最も近い位置にあるのが PayPay だろう。PayPayも、決済だけで完結することを目指していない。ポイントを軸に利用頻度を高め、ミニアプリ的な仕組みでサービスとの接点を増やし、金融や投資の文脈へと広がりつつある。
象徴的なのが、PayPayが Binance Japan に出資したという動きだ。これは単なる暗号資産への関心ではない。決済を握ったプレイヤーが、「次の通貨」「次の価値の保存手段」に橋渡しをすると考えると、非常にわかりやすい。
WeChatもPayPayも、目指しているのはスーパーアプリという言葉そのものではない。日常の入口を押さえ、支払いを通し、そこから金融やサービスを自然に拡張していくことだ。決済を中心に据えた経済圏が、確実に形を取り始めている。
●AppleとGoogle
Apple と Google は、生活金融の統合をOS側から進めている。両社に共通するのは、決済アプリを前に出すのではなく、OSそのものに金融と生活の機能を溶け込ましていく取り組みだ。
Appleの場合、その象徴がApple Walletだ。Walletは、クレジットカードを入れる場所にとどまらない。鍵、チケット、搭乗券、身分証といった「生活に必要な証明書」をまとめて収納する場所になりつつある。財布というより、生活の中で使う権利や資格を管理する箱に近い。
決済側でも同じことが起きている。Apple Payは、支払うか否かだけを扱う仕組みではなくなった。サブスクリプション、分割払い、継続課金の管理など、支払いの前後に発生する体験そのものが、OSの中に吸収されていく。ユーザーは「どのサービスで払っているか」を意識しなくなる。
Googleも同様だ。Google Walletは、単なる支払い手段から、取引履歴、各種パス、移動や利用の記録をまとめる器へと広がっている。支払いの結果として生まれるログを、検索や地図、広告と結びつけられる点で、Walletは生活のログを受け止める基盤として位置づけられている。
AppleとGoogleのアプローチは、WeChatやPayPayとは少し違う。彼らは決済から経済圏を広げるのではなく、OSという日常の前提条件の中に、決済と金融を組み込んでいる。その結果、生活の入口はアプリではなく、最初からOSになるのだ。
●Amazon
Amazon は少し毛色が違うように見えるが、構造は同じだ。Amazonは決済アプリやOSを入口にしたわけではない。入口にしたのは「購買」と「物流」だった。
Amazonが強いのは、誰が、何を、どれだけ売り、どのくらいの回転で資金が動いているかを、マーケットプレイスの中で正確に把握している点だ。販売データ、在庫回転、レビュー、返品率。事業者の実力とリスクが、ほぼリアルタイムで可視化されている。
だからこそ、Amazonは Amazon Lending のような形で、出店者向けの資金供給に踏み込める。従来の金融機関が見るのは、決算書や担保だ。一方Amazonが見ているのは、日々の売上と資金の回転そのものだ。
売上の実績と回転を観測できる主体が金融に入ると、審査と回収のコスト構造が根本から変わる。貸せるかどうかを判断するための書類は要らない。売れているか、回っているか、それだけでいい。回収も、次の売上から自動的に行えるからだ。
ここで起きているのは、金融の内製化ではない。購買と物流という生活インフラの延長線上に、金融が自然に組み込まれているだけだ。Amazonもまた、商品を売る企業から、事業者の経済活動そのものを支えるプラットフォームへ移している。
ここまでの企業を眺めると、共通点ははっきりしている。商品を売るのではない。顧客の行動と支払いが発生する場所を起点に、リトルハイアの情報を取り、それをベースに周辺の問題解決へ拡張していくのだ。だから産業の境があいまいになり、決済から通貨の主導権争いが始まり、経済圏を作りにいく争いになっているのだ。
AIと物理ロボットが融合する世界
ここまで見てきた議論は、すべて「人の行動がどこでデータ化され、どこで決済と結びつくか」という話だ。決済、ID、OS、購買、移動。人が画面の中で行う行動は、ほぼすべてログとして蓄積、金融や信用と結びつけて活用されている。
2026年のCESを俯瞰すると、その構造がいよいよ画面の外に出ていく兆しがある。AIはアプリやクラウドの中に留まらず、ロボットという形で物理的な世界で登場する。CESの公式発信でも、ヒューマノイドを含むロボティクスは周辺テーマではなく、次の主戦場として扱われている。
ここで重要なのは、「ロボットの性能がどれほど高いか」ではない。ロボットが、現実世界における経済活動の端末になるという点だ。現場の仕事、家庭内の作業、移動、物流、介護、清掃。これらはすべて、これまで人が担ってきた行動であり、同時に必ず支払いと結びつく行為だ。
ロボットがそれらを担うようになると、やはり売り切りのハードとしての提供は薄まり、使用を前提に配備され、稼働状況や成果が常時ログとして記録されるだろう。そのデータをもとに、対価が決まり、保険やリース、融資といった金融商品が重ねられていく世界が想像できる。つまりロボットは、労働を助ける機械とともに、やはり金融と経済圏を保管する仕組みになるのだ。
この世界を理解するには、ロボットメーカーの理解だけでは不足する。重要なのは、これら全体を脳、体、神経、学習機能、運用、そして支払いと、誰がどう束ねるのかになる。その役割分担を6つに分けて整理すると、今後のプレイヤーの立ち位置が見えやすくなると思う。
●脳(AI)
まずは、脳(AI)をつくる企業だ。ここで言う脳とは、単なる認識AIではない。言語を理解し、状況を判断し、物理世界での行動に結びつく意思決定の中枢を指す。
現時点での中心は、OpenAI、Google DeepMind、そして NVIDIA だろう。OpenAIは汎用モデルをロボット制御へ拡張し、DeepMindは強化学習と世界モデルの文脈で物理行動を扱ってきた。NVIDIAは少し立ち位置が違うが、AIの脳と身体を同時に設計できる点で特異だと思う。NVIDIAが Isaac GR00T N1 をヒューマノイド向け基盤モデルとして提示し、シミュレーションや合成データ生成まで含めた枠組みを出してきたのは象徴的だ。単にモデルを作るのではなく、「どう学習させ、どう現場に出すか」までを一気通貫で押さえにきている。
ただし、この領域はまだ勝者が固定されたとは言い切れない。ワンチャンが十分に残っている。たとえば Tesla。自動運転で蓄積した世界モデルと実走データを、人型ロボットに転用できるポジションにいる。Metaも無視できない。基盤モデルと強化学習、シミュレーション環境を内製し、オープン寄りの戦略で研究者を囲い込んでいる。Microsoft はOpenAIとの関係を軸に、クラウドと実装の側から脳を支配しにいく立場だ。
中国勢も厚い。Baidu は自動運転と大規模言語モデルを結びつけ、Huawei は独自チップとAI基盤をセットで押さえにいく。研究色が強いところでは、Anthropic や Mistral AI のようなプレイヤーも、汎用モデルの別解を提示し続けている。さらに視野を広げると、Boston Dynamics AI Institute のように、ロボット前提で脳を鍛える研究組織もある。大学発やスピンアウトも含めると、名前が知られていないプレイヤーが、特定用途では一気に抜ける可能性も十分ある。
この層の特徴は明確だ。単体で勝ち切るというよりも、「どの身体」「どの運用」「どの経済圏」と結びつくかで、価値が何倍にも跳ね上がる。脳だけでは完結しないからだ。従い、まだ勝敗は決まっていないのだ。
●身体(ロボット)
次に、身体(ロボット)を量産配備する企業だ。ここで問われるのは、デモの完成度ではない。大量に作れるか、壊れたときに直せるか、安全に現場へ出せるか。そのすべてを同時に満たせるかどうかだ。
名前が挙がりやすいのは、Boston Dynamics、Agility Robotics、Tesla、Figure AI といった企業だ。それぞれ強みは違うが、共通しているのは「研究室を出て、現場に出る」ことを明確に意識している点だ。ただし、この領域にはまだ確定覇者は見えにくい。理由は単純で、最後に勝敗を分けるのが、AIの賢さではなく、量産、保守、安全という現実だと思うのだ。ロボットは壊れるし、転倒する。更に現実空間では人と交わるため、事故の責任も問われる。この現実を乗り越えられる企業は、まだ限られている。だからこそ、この層はワンチャン勢が最も多い。
たとえば Agility Robotics は、倉庫という用途に絞り、人と同じ空間で動く前提を徹底している。Figure AI は、設計をシンプルに保ち、量産と外部連携を強く意識した戦略を取っている。Tesla は、車で培った量産、サプライチェーン、保守の知見を、そのまま人型に持ち込もうとしている。
中国勢も無視できない。UBTECH、Unitree、Fourier Intelligence などは、完成度よりもスピードとコストを優先し、実地配備を前提に動いている。制度や社会実装の許容度が高い環境では、こうした企業が一気に前に出る可能性がある。
さらに視野を広げれば、産業ロボット出身の企業が、人型に転用してくる可能性もある。FANUC、ABB、KUKAのように、量産と安全を知り尽くした企業が、本気で参入してくれば、風景は一変すると思う。
●製造
3つ目は、すでに工場を押さえている企業だ。ここは一気に現実寄りだ。FANUC、安川電機、ABB、KUKA、オムロン。彼らはすでに製造現場に深く入り込み、ロボット本体だけでなく、制御、保守、更新という長いサプライチェーンと歴史と経験を保持している。
この層の強みは、技術の先進性ではない。現場で現在進行系の稼働を続けていることだ。既存の生産ラインに組み込まれ、保守網を持ち、SI(システムインテグレーター)のパートナーを抱えている。つまり、長い時間軸で既に「動かし続ける責任」を引き受けているのだ。AIロボットが広がれば広がるほど、既存の自動化ラインや制御システムとの統合は避けて通れない。そのとき、この層の価値は下がるどころか、むしろ爆上がりだ。
ABB が OmniCore のような制御基盤を打ち出し、デジタル接続やソフトウェアアップデートを前提にした設計へ寄せているのも、その文脈で理解できる。ロボット単体ではなく、「工場全体をどうアップデートするか」を視野に入れているのだ。
また、協働ロボットの文脈も重要になる。Universal Robots のように、人と同じ空間で動き、現場の周辺作業へ自然に入り込むプレイヤーは、AIロボット時代のタッチポイントとして存在感を持つ。完全自動化ではなく、段階的な置き換えが進む現場では、こうしたロボットが最初の入口になる。
どれだけ賢い脳や新しい身体が生まれても、既存の工場や現場とつながらなければ、経済圏はつくれない。だから、すでに現場を押さえている企業は、AIロボット時代においても、重要な機能として拡大しつづけると思う。
●ロボット用コンピュータ(神経)
4つ目は、ロボット用コンピュータ(神経)を供給する企業だ。ここで言う神経とは、単なる演算性能ではない。センサーからの情報を受け取り、判断し、身体へ指令を返す。その一連を、どれだけ速く、安定して、安価に実現できるか。その能力が、ロボットの性能とコストを根本から左右する。
中心にいるのは、やはり NVIDIA だ。GPUに加え、Jetsonのようなエッジ向けプラットフォームを揃え、学習から推論、シミュレーションまでを一気通貫で押さえている。ロボット向けにNVIDIAが強いのは、単に速いからではない。開発者が「とりあえずこれを使えば動く」環境を用意しているからだ。
ただ、この層もNVIDIA一強で固定されているわけではない。Qualcomm は、低消費電力と通信を強みに、ロボットを動き続ける端末として捉える立場だ。Intel は、産業用途や既存システムとの親和性で巻き返しを狙っている。AMD は、GPUとCPUの統合設計でコストと性能のバランスを取りにいくだろう。孫さん一押しのArm は、自ら作らず、設計思想を世界中に配ることで、神経の標準を握ろうとしている。
さらに重要なのが、エッジAI勢だ。Hailo、Edge Impulse、Graphcore のように、「学習はクラウド、判断は現場」という前提で最適化された企業は、用途次第で一気に存在感を増す可能性がある。日本でも、ソニーのイメージセンサー系技術や、ルネサスの産業向けSoC(システム・オン・ア・チップ:コンピュータに必要な機能を1つの半導体にまとめたもの)など、部分最適では強いプレイヤーがいる。
この層が重要なのは理由がはっきりしている。ロボットはクラウドだけでは動けない。遅延が許されないからだ。通信が切れても止まってはいけない。安全が最優先されるからだ。そのため、判断の多くは現場、つまりエッジで完結する必要があると思っている。
つまり、神経系を握る企業は、ロボットが「どれだけ賢く」「どれだけ安く」「どれだけ安全に」動けるかを決めてしまうのだ。脳と身体の間に位置しながら、実は全体の制約条件を支配する。この層は地味に見えて、極めて戦略的な立ち位置の企業になる。
●シミュレーション/デジタルツイン(学習)
5つ目は、シミュレーションやデジタルツインなどの学習機能の企業だ。この層が重要になる理由は単純だ。ロボットを現場で一体ずつ人が教えていたら、絶対にスケールしない。2000年代初頭、PCと制御装置を配線で繋いでファームをアップしたことがある。最悪の経験だった。勿論26年移行は、一定人間のように何らかのミスや失敗や事後があれば、そこから学習するなどの機能は必須だろう。ただ、いちいちリアルの場で行っていたら、今度は結構な割合で事故が多発して導入を見送る状況が想像できる。
だから学習は、まず仮想空間で行われる。現実とほぼ同じ物理法則、摩擦、重さ、衝突を再現した環境で、何千回、何万回と失敗させる。そして現場では、最後の微調整だけを行うのだ。この仮想で鍛え、現実で仕上げる前提が、ロボットの普及を現実のものにするのだ。
この学習の工場を押さえる企業も強くなる。その象徴が NVIDIA だ。NVIDIAがGPUやSoCだけでなく、OmniverseやIsaac Sim(NVIDIAが提供するロボット向けの学習環境)といったシミュレーションの枠組みまで含めて語るのは、計算力だけでは勝てないことを理解しているからだ。学習環境を押さえた者が、脳と身体の進化速度を決めるのだ。
ただ、この層もNVIDIA一強ではない。Unity は、ゲームエンジン由来の強みを活かし、物理シミュレーションとインタラクションの設計で存在感を持つ。Epic Games(Unreal Engine)も、フォトリアルな再現性とデジタルツインの文脈で産業用途へ広がっている。Siemens や Dassault Systèmes のような産業系プレイヤーは、製造ラインや設備のデジタルツインを長年扱ってきた経験を持つ。
ワンチャン勢も多い。Ansys のようなCAE(コンピュータ支援エンジニアリング)系は、物理の精度で強い。Covariant のように、学習データそのものを資産として積み上げる企業も出てきている。大学発やスタートアップも含めれば、特定用途に最適化した学習環境で一気に抜ける可能性は十分ある。
ロボットの賢さは、現場ではなく、現場に出る前の学習量で決まるというのが面白いところだ。本番前に、どれだけ多くの失敗をさせるか。その失敗を、どれだけ安く、安全に、速く回すか。そこを支配する企業が、ロボット経済圏の進化速度を握るのだ。
●通信や運用
最後は、通信や運用を担う企業だ。この層は完全に技術の凄さから離れる。問われるのは、ロボットを何台作れるかではない。100台、1000台、1万台と増えたときに、止めずに回し続ける必要がある。
ロボットが普及すると、次は運用が重要になる。ログを集め、状態を監視し、ソフトウェアを更新する。異常を検知した場合、止めるべきときは止めないといけない。事故を未然に防ぎ、起きた場合は記録を残し、責任の所在を整理する。そして、それらを保険や契約、規約に落とし込む作業も必要になる。この一連が回らなければ、どれだけ優れたロボットも、現場では使い続けることはできないい。
中心にいるのは、AWS、Microsoft Azure、Google Cloud といったクラウド事業者だ。彼らは計算資源を提供しているだけではない。ログの集約、デバイス管理、セキュリティ、アップデート配信といった「止めない運用」の型をすでに持っている。
通信キャリアも重要になる。ロボットは常にクラウドにつながっている必要はないが、つながるべきときには確実につながらなければならない。低遅延、冗長性、切断時のフェイルセーフ。こうした条件を満たせる通信インフラを持つ企業は、ロボット経済圏の裏側で不可欠な役割を担う。
さらに、この層には運用ソフトウェアの企業が入ってくる。デバイス管理、遠隔監視、ログ分析、セキュリティ対応。これらは派手ではないが、現場では最も信頼される部分だ。ロボットが「いつ壊れたか」よりも、「なぜ壊れなかったか」を説明できることが、導入の条件になる。
この層の価値は、規模が大きくなるほど増していく。ロボットが数台なら、人が見張れる。数十台でも何とかなる。しかし数千台を超えた瞬間、人の目は役に立たなくなる。そこで初めて、通信と運用の設計が、経済圏の土台として効いてくる。この運用層は地味だ。だが極めて重要だ。
もちろん、ロボットは必ず壊れる。運ぶ人も、直す人も必要になる。ただし重要なのは、その作業を誰がやるかではない。誰の指示で、誰の契約のもとで、誰のデータとして行われるかだ。現場は分散するが、運用は一つに束ねられる。その設計を握った側が、経済圏を支配する。
国内で考えると、この「束ね役」はまったくの新規プレイヤーから生まれるというより、すでに現場と地域を持っている企業が担う可能性が高い。たとえば、ソフトバンクのような企業は、自ら現場に出ることはないが、通信、認証、課金、契約という基盤を持っている。ロボットが増えれば増えるほど、どのロボットが、どこで、どの条件で動いているのかを一元的に把握する必要が出てくる。そのとき、ローカルの保守会社やSIを個別に管理するのではなく、ネットワークとして束ねられる企業が前に出てくる。
一方で、地場のインフラ企業がその役割を引き受ける展開も十分にあり得る。電力、ガス、石油化学といった企業は、すでに「止められない設備」を長年運用してきた。24時間体制、安全管理、行政との調整。ロボットの運用に必要な感覚は、実はこうしたインフラ運用と近い。ロボットが社会に溶け込むほど、こうした企業が担う役割は自然に広がっていく。
さらに、メーカー系やプラント系の企業も見逃せない。彼らはすでに、設備の定期点検や部品交換、長期保守契約をビジネスとして成立させてきた。ロボットは彼らにとって未知の存在というより、「動きが増えた設備」に近い。既存の保守ビジネスの延長として、ロボットの運用を引き受ける余地は大きい。
ここで再び重要になるのは、誰が油をさすか、誰が部品を運ぶかではない。それらの行為が、どの契約に紐づき、どのログとして蓄積され、どの責任分界のもとで実行されるのかだ。現場はローカルに分散していく。しかし、その上位にある運用の設計は、一つに束ねられていく。その構造を設計できた企業だけが、ロボット時代の経済圏を現実のものにするだろう。
機能で売り続ける企業の近未来
ここで今回の議論を再度、もう一段抽象化してみよう。長く日本を支えてきた事業は、機能を磨き、性能を売ってきた企業群だ。光学、精密機械、素材、センサー、制御。世界最高水準の技術を持ち、真面目に作り、壊れにくく、正確に動く。そうした企業は確かにすごい。
しかし、その強さは、いまの潮流の中では、対極に置かれてしまう。なぜなら、機能を軸にしたビジネスは、どうしても「売った瞬間(ビックハイア)」で完結しやすいからだ。良い製品を作り、販売し、代金を受け取る。顧客がその後どう使い、どこでつまずき、何に満足したか。つまりリトルハイアの積み重ねには、構造的に関与しにくい。
市場がいま評価しているのは、そこではない。評価されているのは、顧客の財布と習慣を握り、使用を通じて関係を深め、将来のキャッシュフローを自社の中に積み上げていける企業だ。売上の大きさよりも、関係の継続性。単発の販売よりも、使われ続ける設計。その差が、企業価値の差になっている。
ところが、機能重視の企業ほど、販売や顧客接点を子会社や代理店に委ねがちだ。製品は自社のものでも、使用ログは手元に残らない。顧客が何に困り、どこで離れ、どこで感動したかが見えない。結果として、技術は自社にあるのに、顧客経済の主権を持てない状態が続いている。そして、その致命的な欠陥に気づいていないのだ。
この構造は、資本市場から見ると非常に分かりやすい。優れた技術を持つ、信頼できる企業。しかし、顧客を束ねる力は弱い。将来のキャッシュフローは読みにくい。そうなると、評価はどうしても「頃合いの良いハードメーカー」に落ち着いてしまう。買収しやすい部品供給者、あるいは機能提供者として見られるのだ。
プラットフォーム側の視点に立つと、これはさらに明確になる。彼らにとって、優れた技術は喉から手が出るほど欲しい。しかしそれは、顧客を連れてくる価値だからではない。あくまで、自分たちの経済圏を強化するための機能や部品として見ているのだ。だから、技術は称賛される。しかし、評価の中心にはならない。残酷だが、これが現実だと思うのだ。
まとめ
最後に、全体を振り返ろう。今回も何日かに分けて書いたので、自分のなかの復讐の意味も含めている。今回のブログは、技術が負けたと言う話ではない。ましてや、技術の価値が消えた話でもない。変わったのは、価値の置き場所だ。
かつて価値は、機能の中にあった。より高精度に、より速く、より安定して動くこと。それ自体が価値だった。しかし今、価値はそれだけでは完結しない。価値は、顧客の生活の中に置かれるようになった。顧客が日常の中で使い続けること。毎日の中で使われ、習慣として定着し、そして最終的には財布の流れの中に入っていく。価値は、そうした場所へと移っているのだ。
だから企業は、「良い商品を作る」だけでは足りなくなった。商品より先に、顧客を取りにいく。顧客との関係性を先に設計する。顧客を取りにいく企業は、将来のキャッシュフローを増やすことが可能だ。すると、株価が高くなり、株価が高いから、ロールアップで周辺領域を取り込むことを続ける。そうして事業は拡張し、結果として産業の境界が曖昧になっていく。
境界が曖昧になると、次に争点になるのはポイントや決済、デジタル通貨だ。つまり誰が顧客の財布を握るのかという競争だ。覇者は国境そのものを取りにいくわけではない。経済圏を取りにいく。中国や各国の国家DXは、その未来がすでに始まっていることを示している。
そしてCES 2026が示唆しているのは、その経済圏が、ついに物理世界へ伸びてくるという兆しだ。AIは画面の中から出ていき、ロボットとして現場や家庭に入り込む。ロボットは単なる機械ではなく、支払いと接続される経済圏の端末になる。労働と金融、物理とデータが、そこで重なり始める。
この流れの中で、機能を軸に強さを築いてきた企業は、どう生きるのか。誰と組むのか。プラットフォーマーが国境を簡単に越えていったように、機能を軸に戦ってきた企業も、まもなく選択を迫られる。今回書いてきた経済圏の中で、下流工程として組み込まれるのか。それとも、上流の一部として接続されるのか。
極めて戦略的な議論だと思う。そしてこれは、従業員1,000人から2,000人規模以上の企業にとって、もはや無視できない世界になってきている。
本音が出ない1on1は、失敗ではなくスタート地点だ
2026年1月28日
早嶋です。約2800文字。
1on1をやっているのに、部下が本音を話してくれない。「質問が悪いのか?」と悩む管理職は本当に多い。しかし、それは失敗でも何でもない。理由は、まだ関係構築が出来ていないのだ。部下は「この上司は安全かどうか」を見極めている最中かもしれない。沈黙はやる気のなさではなく、長年身につけた自己防衛の可能性がある。1on1は本音を引き出す場ではなく、本音が出ても大丈夫な関係をつくる場だ。焦りは禁物だ。時間をかけて「受け皿」をつくることが大切だ。
(1on1で本音が出ないのは失敗ではない)
企業で1on1を扱う際、初期に出る質問がある。「部下が本音で話してくれいない」だ。これは、1on1を導入する職場で、必ずと言っていいほど聞く悩みだ。多くの管理職が、真面目に取り組んでいるからこそ出る概念だ。
はじめ、この相談を受けたときは意外に感じた。というのも、そこには1つの前提があるからだ。それは、「1回の面談で、本音が出るはずだ」だ。或いは、互いに何でも話せる関係であるという前提だ。多くの管理職は、自分が部下だった時代から、面談=課題確認の場として経験してきた。目標進捗、問題点、対策等々。つまり「話し合い」というより「確認作業」に近いものだった。さらに、自分は考えを相手に言語化でき伝えることができる人間だ。そして、比較的どのような上司とも関係構築をすることが出来ている。従い、プロジェクション的に目の前の部下が出来ないことが理解できないのだ。だから、「聞けば出てくるはずだ」とか、「本音が出ないのは、質問のせいだ」と考えてしまうのだ。だが現実の職場は、そんな単純な構造ではないのだ。
部下の立場で見てみよう。「1 on 1 ?」「これは評価に影響するのか?」「弱みを見せて損をしないか?」「この上司は本当に話を聞く人なのか?」等々を考えるだろう。悩む管理職以上に、管理職に信用を置いていない部下が一定数いる可能性がある。そもそも、上司と部下の関係性が確立していない場合だ。初めて1 on 1を導入する組織の部下にとっては、「本音を話す場」ではなく、「この上司は安全かどうかを見極める場」になっていることが多いのだ。だから本音が出ないのは失敗ではない。むしろ、関係づくりが始まったばかりだという、自然な状態なのだ。
本音とは質問テクニックで引き出すものではない。本年は、上司と部下との関係性の結果として、出てくるものなのだ。
(沈黙が続く理由)
もう1つ多い質問がこれだ。「何を聞いても、特にないです、としか言わない部下がいます。」だ。例えば、ある建設現場での1on1のイメージだ。30代の作業員で、仕事は真面目だが、面談では毎回こうなるという。
上司:「最近、プロジェクトの様子はどう?」
部下:「・・・特にないです。」
上司:「困っていることはある?」
部下:「・・・ないです。」
このやり取りが続くそうだ。上司の内心はこうだ。「あれだけ工程が押していたのに…?」「何も感じてないのか?」「やっぱり、やる気ないのかな…?」
だが実際は違うと思うのだ。部下の立場からすると、これまでの現場で身につけてきた生き方がある。文句を言うな。自分のことは後回しにされる。現場は黙って動くもの。上司に弱みを見せるな。
つまり、「考えていない」のではないのだ。「余計なことは言わないほうが安全」だと学んできた結果かもしれないのだ。さらに背景には、意見を言う文化がなかった。上司には従うものだと教えられてきた。発言して怒られた経験が多々ある。自分の考えを言葉にする訓練をそもそも受けていない。そう、沈黙は怠慢ではなく、本人なりの誠実な自己防衛の可能性なのだ。
上司がやりがちな取り掛かりの質問だ。「どう思う?」「本音は?」「意見は?」等々。一見、正しい質問に見えるが、これは話す訓練を受けていない部下にとっては、いきなり難問になってしまう。先も述べたが、管理職になる人材の言語能力と部下の言語能力を同じと捉えない方が良い。簡単な質問なのにと思っても、部下にとって、「答えを考えて、それを相手に正しく整理して説明する必要のある質問」、いわゆるオープンクエスチョンは、超難問なのだ。信頼関係が互いにあり、かつ言語化に慣れている人には有効だが、そもそも関係が出来ていない、緊張した関係の中、話す経験や能力が高くない人材にはハードルが高すぎるのだ。
そこで、質問の仕方そのものを変えることで幾分解消する場合もある。例えばこんなイメージだ。
上司:「今日の作業、やりやすかった?やりにくかった?」
部下:「…やりにくかったです。」
上司:「そうか。それはどこがやりにくかった?」
部下:「工具、ちょっと合わなかったです。」
実際は、こんなに簡単に変わるものではないが、ポイントは、最初に選択肢があるとか、感覚レベルで答えられる問い、或いは正解がわかりやすい質問で会話やキャッチボールの勢いをつけることだ。いきなり「どう思う?」と深い海のそこを探るような質問ではなく、まずは足の着くくらいの浅瀬のレベルで試すのだ。話すことに慣れていない部下にとって、また考える経験が浅い部下にとって、1on1は面談であると同時に、「自分の考えを言葉にする練習の場」でもあるのだ。
(傾聴はスキルではなく態度)
傾聴というと、ついスキルの話になりがちだ。相槌の打ち方、オウム返し、質問の技法。もちろんとても大切な概念だ。ただ、現場でまず問われるのは技術より態度なのだ。
部下の話を評価しない。悩みに対して闇雲にすぐ解決しようとしない。相手の話を途中で取り上げない。これらはテクニックというより、上司の心構えに近い。多くの管理職は、部下が何かを言えば「どう直すか」「どう改善するか」とすぐ解決に向かう。が、1on1の場面では、それが逆効果になることがある。目的は会話を進めることでも、答えを出すことでもなく、相手が話しやすくなる状態をつくることだからだ。
上司が解決の仕組みになると、部下はだんだん話さなくなる。一方で、上司が受け皿になれると、部下は少しずつ言葉を重ね始める。最初は断片的でいい。まとまっていなくていい。その「言ってみても大丈夫だった」という経験の積み重ねが、後の本音につながっていくのだ。1on1は上司というより、部下のための時間にするのだ。
多くの管理職が誤解しているが、1on1は情報収集の場ではないということだ。部下が「この上司は味方かどうか」を見極める場だと思った方がいい。本音が出るかどうかは、上司の質問力ではなく、部下の中での評価で決まる。つまり、焦る必要はないのだ。1回で変わらないのが普通だ。3回、5回、10回と重ねていく中で、ある日ふとした瞬間にポロッと本音が出る。そのタイミングは上司がコントロールできるものではないが、準備はできるもの。それが日々の向き合い方だ。
この積み重ねが、やがて職場の雰囲気を変える。相談が早くなり、違和感が共有され、小さな異常が表に出るようになる。その結果として安全や品質にも影響していく。1on1は一見するとやわらかい活動に見えるが、実は現場マネジメントのど真ん中で、現場で起きている情報をつぶさに拾い上げる仕組みの人となのだ。
労働者を守る法律が、働く意思を縛るとき
2026年1月23日
早嶋です。約1800文字。
最近、人手不足倒産という言葉をニュースで聞くようになった。受注はある。仕事もある。しかし人がいない結果、会社の運営が出来なくなり倒産を余儀なくされるのだ。トラック運送、タクシー、建設、工場。どれも社会にとって必要な仕事ばかりだった。
実際に統計を見てみた。帝国データバンクの調査によれば、2024年に「人手不足」を直接の要因として倒産した企業は342件あった。統計を取り始めて以降、過去最多の水準だ。さらに2025年には427件に増加し、3年連続で最多を更新している。単年の一時的な現象ではなく、構造的な倒産理由として「人手不足」が定着しつつあるのだ。
内訳は、運送業、建設業、製造業、サービス業など、いずれも社会インフラを支える業種が中心だ。受注がないから潰れたのではない。仕事はある。売上の見込みもある。ただ、人が確保できず、事業が回らなくなった結果として会社を畳んでいる。
日本全体の倒産件数は年間で1万件規模だ。割合として見れば数%に過ぎない。しかし、「人手不足」が公式な倒産理由として明確に分類される件数が、すでに数百件規模に達しているという事実は重い。事業構造のボトルネックが、需要や資金ではなく、労働市場そのものに移りつつあることを示している。
世論で議論が始まっているように「残業すれば企業が助かる」という理屈が正しいと思っていない。人が集まらないという事実は、その事業モデルがすでに時代と合っていないことを示している可能性もあるからだ。原材料が手に入らなければ代替素材を考える。人が確保できなければ、機械化、標準化、多能工化、あるいは事業そのものの組み替えを考える。それが経営だ。
安い人件費を前提に、どこにでもあるモデルを続けてきた企業が、人口減少と人手不足の中で立ち行かなくなるのは、ある意味で自然な帰結だ。そう考えれば、倒産は制度の問題ではなく、経営の問題だとも言える。
ただし、一方で労働者側の意思についての疑問は残る。「働きたい人が、健康の範囲で働くことすらできない」という状況が昨今観察されるが、これは合理的なのだろうか。
労働基準法は、労働者を守るための法律だ。制定は1947年、戦後直後だ。当時、労働者が仕事を選ぶ自由はほとんどなかった。働きたい人は溢れており、条件を拒めば職を失う。個人の意思は、実質的に経営者側の力に吸収されてしまう環境だった。
だから法律は、労働者の自由をあえて制限する形を取った。1日8時間、週40時間を超える労働は原則禁止。残業は例外であり、36協定という集団的な歯止めを通してのみ認める。これは「自由を奪う制度」ではなく、「自由が機能しない現実を前提にした保護」だった。
さらに、日本の労働法は強い父権主義を持っている。労働者本人が「大丈夫だ」と言っても、それを信用しないのだ。疲労や同調圧力、評価への不安が、本人の判断を歪めると考えるからだ。特に運転や製造の現場では、事故は本人だけの問題ではなく、社会全体のリスクになる。だから「従業員本人が良くても、社会が困る」という理屈が成立している。
この思想自体は、一貫していると思うが、前提となる社会環境が、大きく変わっているのだ。今は少子高齢化で人口ボーナスから人口オーナスに転じ人が足りない。働く側の交渉力は高まり、「嫌なら辞める」「別の仕事を探す」という選択肢も現実的になった。また、副業や転職、業務委託も珍しくない。それでも制度は、「労働者は常に弱者である」という前提のままだ。
その結果、「働きたいのに働けない」「稼ぎたいのに制限される」というねじれが生まれているのも事実だ。子育てや受験、あるいは一時的な資金需要のために、借金ではなく、自分の体力と健康の範囲で働きたい人もいる。それを一律に封じることは、本当に労働者保護なのか。むしろ、自己決定の権利を奪ってはいないかと疑問が浮かぶのだ。
もちろん、無制限な長時間労働に戻るべきだとは思わない。過労死や事故の歴史を忘れてはいけないからだ。ただ、時間そのものを機械的に縛る設計が、今の社会に最適かどうかは、再考の余地があると思う。労働時間の問題は、善悪ではない。保護と自律をどう両立させるか。その設計が、戦後からほとんど更新されていないことに、違和感が表面化しているのだ。
AI助成金が野良AIを量産する不都合
2026年1月21日
早嶋です。今回は短めに2800文字程度。
AI助成金は、AIを導入するための制度ではない。この前提を押さえずに使えば、AI研修は必ず歪む。現場に善意の自動化が溢れ、やがて「野良AI」となり、Excelマクロのように誰も触れない仕組みが増えていくのだ。今回は、制度と人間の合理性という視点から、AI研修が失敗しやすい理由と、本来取るべき向き合い方を整理した。
「AI研修をやっています!」「助成金を使って全社員にAIを学ばせています!」という話を聞く。国の後押しもあり、AIやDXという言葉は、バズワードを超えて民主化している。AI助成金は、一人当たり数十万円規模の助成があり、会社の負担も小さく、提供側も営業しやすい。IT会社や研修会社にとっても合理的な選択に見える。
しかし現場で何が起きているかを冷静に見れば違和感が残る。便利そうなAIツールが社内に点在し、どれを使えばいいのかわからなくなる。部署ごとに細分化した自動化が進むも、全体として仕事が楽にならない。むしろ管理は複雑になり、最後は「勝手にAIを使うな」という空気すら生まれてきそうだ。
少し前提整理をしよう。AI研修で使われている多くは、経済産業省の産業政策ではない。厚生労働省の人材開発支援助成金だ。この制度の出発点は、AIでもDXでもなく雇用だ。技術が変わり、仕事が変わり、ついていけない人が生まれる。そこで再教育を目的にしているのだ。制度の目的は、労働者を働き続けさせることだ。仕事の構造をどのように変え、企業の意思決定をどのように再設計するかなどの視点は、入っていない。
そのため、AI助成金の制度は成果ではなく、何人受講したかと、どれだけの時間をかけたかをKPIに設定する。何人が、何時間、どんな研修を受けたか。これは行政としては極めて合理的だ。業務改革の成否など、外からは評価できない。書類で確認できる項目だけを基準にするしかないのだ。
その結果、制度が評価できるのは、人数と時間で平準化できる研修だけだ。特定の1人や少人数が、会社全体の構造や根本的な課題を発見し、AIを活用して全体最適で企業をアップデートする土台づくりや仕組みを構築する制度ではない。あくまでも「大量育成した」と言う事実にフォーカスされる。
AI研修会社にとっては、受講者数が多い方がいい。人数が増えれば、研修費用も助成額も増える。難易度の高い少人数研修より、横並びの大量研修の方が売りやすい。カリキュラムや情報の提供は、それこそ動画等を活用することで提供側のコストはそんなに掛からない。一方で企業側も同じだ。「AI人材を◯人育成」という目標は、社内外に説明しやすく、国の助成も得られてお得な感じがする。
勿論、基礎的な考えや社内の意識合わせには最適だし、集団型のAI研修にも、意味はある。テンプレートを使えばアウトプットは出しやすいし、「AIを使って、こんなこともできる」という成功体験も得やすい。AIに触れる人が増えること自体は、悪い話ではない。むしろ、企業のDXの入口としては健全だ。
問題は、その先に何が起きるかだ。企業や事業部全体の課題や仕事の流れを把握しないまま、AIを触ることが好きな人が、各現場でそれぞれ業務を効率化し始めるとする。経費精算を自動化する人。日報をAIで書く人。請求書処理を楽にする人も出てくる。どれも個別に見れば良い改善だ。
だが、それらは互いに関連しないし接続していないのだ。どの業務で、どのAIが、どの前提データを使っているのか。誰が管理するのか。全体として、何がどこまで自動化され、何が自社の社員が直接行うべきなのか。それを説明できる人がそもそもいない。
結果として、社内には便利そうだが正体のわからないAIツールが点在し溢れ出すのだ。この状況は、少し前に多くの企業が経験した「Excelマクロ乱立」とよく似ている。当時もそうだった。現場の有志が善意でマクロを組み、業務を効率化する。最初は喜ばれる。だが、作った本人しか中身がわからないし、引き継ぎもされない。ある日その人が異動するか退職すると、誰も触れなくなるのだ。気がつけば、便利なはずなのに怖くて触れない仕組みが社内に乱立して溜まっていくのだ。
AIでも、まったく同じことが起きていると思う。その近い末路は、管理部門や経営からこう言われる。「勝手にAIを使うな」だ。AIを導入するための研修が、皮肉にも、AIを禁止する流れを生む。これは珍しい話ではない。むしろ、制度と現場の論理を考えれば、自然な帰結だろう。
ここで改めて立ち返るべきなのが、DXのXの部分だ。いま多くのAI研修で行われているのは、既存のアナログ業務を、デジタルやAIに置き換えることだ。紙をデータにする。手作業を自動化する。それ自体は否定しない。ただ、それはトランスフォーメーションではない。
本来のDXは、企業のバリューチェーンやサプライチェーンそのものを見直し、仕事の分担や意思決定の構造を変えることだ。どこで判断し、どこで人が介在し、どこをAIに任せるのか。その全体像を描くことが先にある。
しかし、現場にはその権限がない。現場は与えられた仕事を前提に、少しでも楽に、少しでも早く終わらせる工夫をする。それは自然な行動だ。だが、自分たちの仕事をゼロにして、新しい仕事をつくる方向に舵を切るインセンティブは生まれにくいと思う。
経営者であれば、「この仕事自体をなくそう」「構造から変えよう」と考えるかもしれない。だが、現場にその発想を期待するのは酷だ。人は合理的だ。新しい取り組みほど、リスクが高く、評価も不確実だからだ。
では、AI研修や助成金を使う意味はどこにあるのかだ。答えは、AIを「現場に任せる」ためではない。全体を設計する人材を見極め、その人が考える時間と余地をつくるために使うことだ。集団型のAI研修は、あくまで入口だ。AIに触れ、当たり前に活用できる感覚をつくり、共通言語を揃える。その裏側で、誰が全体を設計するのかを決めることが大切だ。AIをどこに使い、どこには使わないのか。その線を引くのだ。
AI研修を使って成功している企業は、派手な成果を語らない。ただ設計の主体を定め、現場と切り分けている。現実は社員全員の力はいらない。そもそも、コンピュータの世界では、1万人分、10万人分の作業であっても、少数の人員とデジタルによって自動化できる。だからこそ、AI活用において「全員ができる」ことは、本質ではないのだ。
AI助成金は、会社を変える制度ではない。だが、会社が変わる覚悟を持っているかどうかの入口を試すにはお手頃な制度だ。だから本当に受けるべきなのは、
AIに触れたことがない社員ではないのだ。その企業の役員であり、経営者だと思う。
価値は機能から顧客経済へシフトし、覇者は財布と習慣を握る
2026年1月19日
早嶋です。約1.8万文字と最近の中でも長いので、簡単にサマリを示す。
(サマリ)
昔は、良いものを作れば勝てた。今は違う。顧客の日常に入り込み、提供サービスは使われ続け、支払いが耐えない仕組みを持つ企業が圧倒的な勝者だ。企業は顧客の使用ログを取り続け、それらを活かして更に、顧客の利便性をあげるための価値を提案する。そのような企業は、将来キャッシュフローが増加するため企業の価値は上がり株価が上がる。その株価を武器に、関連する周辺事業を買収して更に経済圏を広げる。業界の境界は薄れ、通貨に近い領域(決済・ポイント・信用)の奪い合いが始まる。そして次は、AIがロボットとして現実世界にインストールされ、経済圏の端末にシフトする。そこで問われるのは「技術があるか」ではない。「顧客経済の主権」を持てるかだ。持てなければ、技術は称賛されながらも部品として組み込まれるのだ。
(顧客接点を重視する企業が勝ち続ける)
今後、大企業の勝ち方は変わる。正確に言えば、企業が「何を取りにいくか」が激変している。かつては、良い商品をつくり、良い機能を積み上げ、その結果として売上を伸ばすことが王道だった。もちろん、いまでも商品は重要だ。しかし近年、成長している企業の多くは、商品そのものよりも先に「顧客とのつながり」を最重要KPIに置いているように見える。
ここで言う顧客とは、単なる会員数やユーザー数のことではない。顧客の生活の中で、あるいは現場の仕事の中で、その企業が提供する仕組みが使われ続けている状態のことだ。使われ続けるということは、支払いが継続し、使用ログが蓄積され、それが改善に回され、さらに周辺の価値提供へと拡張されていくということを意味する。企業は、顧客の時間と習慣、そして最終的には財布の中に入り込むことを目指しているのだ。
では、なぜ企業はそこまでして「顧客を取りにいく」ようになったのかだ。それは、顧客との関係性を起点にしたビジネスモデルが、構造的に、従来の製品ビジネスよりもはるかに強い成長カーブを持つようになるからだ。この差を生んでいるのが、ハードとソフトの性質の違いだ。ハードの事業は投資に対して比例して売上が伸びる。売上は台数×単価に縛られ、製造能力、在庫、物流、販売網がボトルネックになるからだ。一方でソフトは、一度作り上げれば、コピペ(複製)して通信で届けるコストがほぼゼロに近い。限界費用がほとんどかからないため、同じ仕組みを多くの人に配るほど利益率が上がりやすく、成長のカーブも比例ではなく自乗に近づいていく。
さらに重要なのは、ソフトは「売り切り」である必要がないことだ。むしろ使用を前提に提供し、サブスクや従量課金に寄せることで、顧客が実際に問題を解決している瞬間、つまりリトルハイアを合理的に観測できるようになるのだ。売り切りの商品を買ってもらって終わり、ではない。使ってもらい、使われ方を観測し、改善し、さらに価値を足す。その循環が回り始めると、顧客の問題解決は深まり、関係性は強くなる。顧客にとって利便性が高く、その商品から離れる必要はなくなる。従って企業は、一定の売上が計画的に見込める。そのため企業は次の価値提供を計画的に設計できるのだ。だからこそ「商品を売る」よりも先に、「顧客を取りにいく」企業が増えているのだ。
その結果、こうした企業は将来のキャッシュフローを高い確度で見通せるようになる。顧客が離れず、使われ続け、そこから新しい価値が生まれ続ける構造を持っているからだ。だから資本市場は、その企業の将来に高い期待を置き、株価も高くなるのだ。次に起きるのは、株価の差だ。顧客を取りにいく企業の株価は高くなりやすい。市場が見ているのは「今の売上や利益」よりも「将来のキャッシュフロー」なのだ。そして、将来のキャッシュフローを最も確度高く見積もれるのは、すでに顧客の習慣と財布を握っている企業だ。
サブスクの企業が評価されるのは、売上が毎月積み上がるからだけではない。リトルハイアの情報を持ち、その情報を使って、顧客あたりの価値提供を増やせるからだ。顧客が何に困り、どう使い、どこで離脱し、何が刺さるのか。これがわかれば、改善も、追加提案も、金融の設計もできる。改善が回ればさらに継続率が上がり、継続率が上がればLTVが伸び、LTVが伸びれば株価が上がる。株価が上がれば資金調達が容易になり、買収も仕掛けやすくなる。これが勝利の方程式になっている。
そしてここが重要だ。高い株価は「結果」ではなく「武器」になることだ。株価が高い企業は、ロールアップで周辺領域を取り込める。ここで言うロールアップとは、株式交換や買収を通じて、周辺の企業や技術を次々と自社の中に取り込んでいく成長戦略のことだ。株価が高い企業は、自社の株を通貨として使い、現金をあまり使わずに他社を買うことができる。技術やノウハウを買い、顧客接点を買い、規制対応のチームすら買う。そうすると成長の速度が上がり、さらに株価が高くなる。資本市場が成長の燃料を供給し、企業がそれを使って領域を拡張する。だから、顧客を取りにいく企業は、ますます勝ちやすくなるのだ。
(産業の境が曖昧になり独自の経済圏が誕生する)
今後、産業の境が曖昧になるのは当然だ。昔は「銀行は銀行」「通信は通信」「小売は小売」だった。しかし顧客の財布と習慣を握る企業は、顧客の問題解決に必要な周辺領域へ事業を拡大する。決済を握ればローンができる。ローンができれば保険ができる。保険ができれば投資ができる。投資ができれば、購買の入口としてのECや広告が欲しくなる。広告が欲しければ、検索やOSが欲しくなる。こうして、領域が連鎖するからだ。
つまり、企業は「隣の産業に進出している」のではない。顧客の問題解決を軸に、連続させて取り組んだ結果、産業の境界線の上を超えてしまっていたのだ。境界が消えるのではなく、昔の業界人が考えた境界の意味が変わるのだ。顧客の生活は一つであり、顧客の財布も一つだからだ。
産業の境が薄くなると、次は「通貨」に近い領域の奪い合いが勃発する。ポイント経済がその典型だ。ポイントは割引のように見えて、実態は経済圏の通貨だ。貯まる、使える、交換できる、優遇条件が変わる。ここに信用が乗ると、実質的な通貨にさらに近づく。この構造が、最も早く、かつ大規模に可視化されたのが中国だった。
中国の話になると、よく「社会信用システム」という言葉が出てくる。少し物々しく聞こえるが、実態はもっと現実的な仕組みだ。中国では、たとえば裁判で「お金を返しなさい」と命じられたのに、それを無視し続ける人がいる。そのような人たちは「失信被执行人」と呼ばれ、一定のリストに載る。すると、高額な飛行機のチケットが買えない、ぜいたくなホテルに泊まれない、といった制限がかかる。要するに、「約束を守らない人は、経済活動がやりにくくなる」仕組みが、制度として組み込まれているのだ。
ここでよくある誤解は、「中国では国民一人ひとりに点数がつけられている」というイメージだ。しかし実際には、ひとつの巨大なスコアがあるわけではない。裁判所のリスト、税務のリスト、規制当局のリストなど、いくつもの行政データが連動して、「この人は信用できるかどうか」を判断する仕組みになっている。つまり中国では、信用が道徳ではなく、経済条件として扱われ始めている。信頼できる人は自由にお金を使え、約束を破る人は不利な条件を受ける。その違いが、決済や移動や消費の場面で、実際の制約として現れるようになっている。
この事例が示しているのは、信用が単なる評判ではなく、「お金の使い方の条件」として社会に組み込まれ始めたという事実だ。約束を守る人は自由にお金を使え、守らない人は使いにくくなる。つまり、信用は通貨の潤滑油として機能し始めている。この構造を企業の視点で見ると、ひとつの結論に行き着く。人の行動を左右するのは、商品ではなく、お金の流れそのものだということだ。
だから、ポイントや信用が通貨の潤滑油として機能し始めると、企業は決済、つまり顧客の財布を取りにいく。決済を握れば、顧客の支出の全体像が見える。支出が見えれば、金融条件(分割、ローン、保険料率、与信)を変えられる。条件を変えられれば、顧客の行動そのものを誘導することもできる。ここまで来ると、競争は「良い商品」ではなく、「良い通貨」に近づく。だから、ポイントとデジタル通貨の取り合いが始まり、すでに始まっているのだ。
(覇者は経済圏を構築する)
ここまでの流れをみれば、ひとつの結論が見える。これからの覇者は、国を取りにいくのではなく、「経済圏」を取りにいく。国境は、法律や税金、通貨の単位としては残る。しかし人々の行動は、すでに国境を越えて動いている。旅行を予約し、商品を買い、動画を見て、仕事をし、お金を払う。その多くは、ひとつのプラットフォームの中で完結している。そこに「どこの国の会社か」という感覚は、ほとんど関係なくなりつつあるのだ。
いま人々が実際に生きているのは、「国」の中というよりも、「サービスの中」だ。Amazonの中で買い物をし、Appleの中で支払い、Googleの中で検索し、Pay PayやLineの中で会話と送金をする。私たちは知らないうちに、それぞれの経済圏の中で生活しているのだ。だから、これから企業が取りにいくのは、領土のような地理的なエリアではない。人々の生活のまとまり、つまり「生活圏」そのものだ。ある決済で動く生活圏、あるOSで動く生活圏、あるプラットフォームで完結する生活圏。企業は、その単位で世界を取りにいく。その結果、企業は自然と総合サービスになっていく。買い物、決済、保険、ローン、コンテンツ、移動、仕事が一つの仕組みの中に集まる。そしてその中心にあるのが、通貨、つまり決済とポイントと信用だ。人の行動を束ねる力は、最終的にそこに集まってくる。
(中国の事例とDX国家)
理解を深めるために、中国の金融大手2社を見てみよう。一般に語られるのは、Alipay(Ant Group)と、WeChat Pay(Tencent)だ。
Alipayは、もともとはネット通販の支払いのための仕組みだったが、そこから送金、ローン、投資、保険へと広がり、中国人の「お金の出入り」のほとんどを通過させる存在になった。一方のWeChat Payは、チャットアプリであるWeChatの中に組み込まれ、人と人の会話の中で自然にお金が動くように設計されている。両者に共通しているのは、QRコードを入口に、買い物、送金、公共料金の支払い、タクシー、飲食店、ECまでを一つのアプリの中に取り込んだ点だ。多くの中国人にとって、財布よりもスマートフォンの方が重要な存在になっている。
これは単なる利便性の話ではない。決済が日常の中に入り込むと、それは単なる支払いの仕組みではなくなる。誰が、いつ、何に、いくら使ったかという記録が、すべてそこに集まるからだ。そこに信用の情報が重なると、社会の動きそのものが、その仕組みの中で見えるようになる。ただ「監視」という言葉だけで片付けると、議論が雑になる。実際は、不正や詐欺、踏み倒し、契約違反のコストを下げるために、信用とデータを使う局面が確かにある。裁判所の判決を無視する債務者に対して、一定の高額消費や移動に制限をかける、といった設計は、その典型だと思う。
更に視点を拡げて、国家単位の事例を見てみよう。デジタルで仕組みをアップデートした事例はいくつもある。エストニアは、電子IDとデジタル署名を軸に、行政手続きをオンライン化してきた国として有名だ。Smart-IDやMobile-IDのような仕組みは、本人確認と電子署名の土台を提供し、オンラインでの契約と行政サービスを成立させる。
デンマークも強い。行政とのやり取りをデジタルポスト(Digital Post)に寄せ、公式な通知を電子的に受け取る前提を整えている。これは「紙をなくした」ではなく、「行政と国民の通信路を再設計した」ことを意味する。
シンガポールはSingpassが象徴だ。単一のデジタルIDで政府・民間のサービスへアクセスできる設計を徹底し、本人確認の摩擦を極端に下げた。その結果、口座開設、契約、行政手続きが一つの動線でつながり、「誰であるか」と「何ができるか」がデジタル上で一体化した社会ができている。
インドはAadhaarを軸に、銀行口座(Jan Dhan)とモバイルを組み合わせたJAM構想を語り、補助金の直接給付(DBT)などで漏れや不正を減らす文脈がある。ここも賛否はあるが、「ID×口座×通信」で国家の給付配管を作り直した点が大きい。
ヨルダンではSanadが「政府サービスの入口」として統合され、数百の行政手続きや公共サービスにつながる設計が進んでいる。国民は、どの役所のサービスかを意識することなく、ひとつの入口から国家とやり取りするようになっている。
アイスランドでも、island.isを中心に公共サービスの入口が統合され、行政のデジタル基盤が組み替えられつつある。そこでは、役所の縦割りよりも、「市民が何をしたいか」を起点にした動線が優先されるようになってきている。
こうして見てくると、国家のDXと企業のDXは、実は同じ場所を目指していることがわかる。誰が人を識別し、誰が支払いを通し、誰がその行動を記録するのか。その設計を握った側が、生活の流れを握ることができるのだ。
(企業の事例)
いくつかの企業の事例を見ると、更に解像度が上がってくると思う。アントグループ、衆安保険、ウィーチャット、ペイペイ、アップルとグーグル、アマゾンをみていこう。
●Ant Group
まずアントグループ(Ant Group)だ。アリペイ(Alipay)を入口に、資産運用(Yu’e Bao)や与信(花唄・借唄など)に広がり、信用(Zhima Credit)にまで手を伸ばした流れは、生活金融の統合モデルとして象徴的だ。支払い、貯蓄、借入、そして信用が、ひとつのアプリの中でつながったとき、「銀行に行く」という行為そのものが不要になる。
もう少し丁寧に見ると、Antの強さは「金融商品が揃っていること」ではない。順番と接続の設計が巧いのだ。入口はAlipay、つまり決済だ。決済は毎日使う。毎日使うから、顧客の行動ログが溜まる。行動ログが溜まるから、特定の顧客の与信の精度が上がる。与信ができると、分割や小口ローンの審査が瞬時に判断可能になるのだ。ここで重要なのは、ローンが特別な取り組みではなくなることだ。従来の金融は、銀行に行き、書類を書き、審査を待つ。しかし生活金融では、支払いの延長として与信が動く。花唄(Huabei)のような後払い・分割は、買い物の文脈で自然に組み込まれる。借唄(Jiebei)のような小口借入も、アプリの中で完結してしまう。
さらにYu’e Baoのような資産運用が重なると、給与や売上の残高がそのまま運用に回り、資金が効率的にキャッシュを生んでくれる。つまり、決済のお金が貯蓄や運用と自由につながるのだ。Zhima Credit(芝麻信用)は、興味深い。日常の取引における互いの手間を減らすための仕組みなのだ。顧客の信用が高ければ、デポジットが不要になり、手続きが簡素になり、条件がよくなる。日常の決済で普通に支払い、普通にサービスを利用している人の信用高いが、何らかのペナルティや違反を続ける人は企業にとってコストだ。そのような人の信用は下げるのだ。その結果、信用は人格の評価ではなく、経済的な条件になるのだ。
こうして決済、運用、与信、信用がひとつながりになると、Antが握っているのは金融商品ではなくなる。顧客の支払いを入口に、生活の取引コストを低減し、顧客の行動ログをベースに、より快適なサービスを提供することを実現する。生活金融の統合モデルとは、結局、これらを実現したモデルなのだ。
●衆安保険
保険の文脈では、ZhongAn(衆安保険)が象徴的だ。ZhongAnは、いわゆる既存の保険会社とは少し違う位置に立っている。オンライン専業保険として設立され、対面営業や紙の契約を初めから想定していない。保険を「売る商品」ではなく、「行動に紐づくサービス」として設計してきた点がとても特徴的だ。
その成り立ちを見ると、ZhongAnが何を狙っていたのかがよくわかる。株主には Alibaba、Tencent、そして保険大手の Ping An が名を連ねる。テック企業と金融企業が、最初から一体となって設計された保険会社なのだ。ZhongAnが提供してきた保険は、長期の生命保険や複雑な商品ではない。ECで商品を買ったときの配送保険、旅行に出たときの短期保険、スマートフォンの破損保証といった、行動の発生点に紐づく小さな保険が中心だ。ユーザーは「保険に入る」という意識すら持たないまま、気づけばリスクがカバーされている。
ここで起きているのは、保険の役割の変化だ。従来の保険は、将来の不安に備えるために、あらかじめ契約するものだった。一方、ZhongAnの保険は、行動の結果に自然に組み入れられる。買う、送る、移動する、使う。その一連の流れの中で、リスクだけが切り出され、最小単位で保険がかけられるのだ。
この設計が可能になった背景は、プラットフォームが行動ログを持つ前提だ。誰が、いつ、何をしたのかがわかっているから、リスクを細かく分解できる。その結果として、保険料は小さくなり、不正や過剰なコストも抑えることができる。保険は、特別な金融商品ではなく、生活の些細なリスクを減らす部品になるのだ。
ZhongAnの事例が示しているのは、保険単体の革新ではない。決済、EC、移動、通信といった生活の入口を握るプラットフォームの上に、保険をどう載せるかという問いへの一つの答えだ。金融とテクノロジーが接続するとき、保険は「売るもの」から「自動的に組み込まれるもの」へと姿を変える。その変化が、ここの事例では、はっきりと可視化されている。
●TencentとPayPay
Tencent側の中核にあるのが Tencent の WeChat だ。WeChatは、もともとはチャットアプリとして普及した。しかし中国では、チャットが単なる連絡手段にとどまらなかった。日常の会話が集まる場所は、そのまま生活の入口になり得るからだ。
WeChatの強さは、アプリの中にさらにサービスを内包した点だ。ミニプログラムと呼ばれる仕組みは、いわば「ダウンロード不要のアプリ」だ。飲食店の予約、配車、行政手続き、EC、ゲーム。必要な機能が、会話の中で完結してしまう。ユーザーはアプリを離れて探す必要なない。会話アプリの動線の中に、サービスが埋め込まれているからだ。
その中心を流れているのが WeChat Pay だ。支払いが会話アプリと同じ場所で完結すると、決済もストレスがなくなるし、簡単に支払いができる。勿論、誰が、どの文脈で、何にお金を使ったかが自然に蓄積される。チャットがOSになり、ミニプログラムが市場になり、決済と結びつく。これらが揃ったとき、WeChatは単なるアプリではなく、生活インフラになった。
日本でこれに最も近い位置にあるのが PayPay だろう。PayPayも、決済だけで完結することを目指していない。ポイントを軸に利用頻度を高め、ミニアプリ的な仕組みでサービスとの接点を増やし、金融や投資の文脈へと広がりつつある。
象徴的なのが、PayPayが Binance Japan に出資したという動きだ。これは単なる暗号資産への関心ではない。決済を握ったプレイヤーが、「次の通貨」「次の価値の保存手段」に橋渡しをすると考えると、非常にわかりやすい。
WeChatもPayPayも、目指しているのはスーパーアプリという言葉そのものではない。日常の入口を押さえ、支払いを通し、そこから金融やサービスを自然に拡張していくことだ。決済を中心に据えた経済圏が、確実に形を取り始めている。
●AppleとGoogle
Apple と Google は、生活金融の統合をOS側から進めている。両社に共通するのは、決済アプリを前に出すのではなく、OSそのものに金融と生活の機能を溶け込ましていく取り組みだ。
Appleの場合、その象徴がApple Walletだ。Walletは、クレジットカードを入れる場所にとどまらない。鍵、チケット、搭乗券、身分証といった「生活に必要な証明書」をまとめて収納する場所になりつつある。財布というより、生活の中で使う権利や資格を管理する箱に近い。
決済側でも同じことが起きている。Apple Payは、支払うか否かだけを扱う仕組みではなくなった。サブスクリプション、分割払い、継続課金の管理など、支払いの前後に発生する体験そのものが、OSの中に吸収されていく。ユーザーは「どのサービスで払っているか」を意識しなくなる。
Googleも同様だ。Google Walletは、単なる支払い手段から、取引履歴、各種パス、移動や利用の記録をまとめる器へと広がっている。支払いの結果として生まれるログを、検索や地図、広告と結びつけられる点で、Walletは生活のログを受け止める基盤として位置づけられている。
AppleとGoogleのアプローチは、WeChatやPayPayとは少し違う。彼らは決済から経済圏を広げるのではなく、OSという日常の前提条件の中に、決済と金融を組み込んでいる。その結果、生活の入口はアプリではなく、最初からOSになるのだ。
●Amazon
Amazon は少し毛色が違うように見えるが、構造は同じだ。Amazonは決済アプリやOSを入口にしたわけではない。入口にしたのは「購買」と「物流」だった。
Amazonが強いのは、誰が、何を、どれだけ売り、どのくらいの回転で資金が動いているかを、マーケットプレイスの中で正確に把握している点だ。販売データ、在庫回転、レビュー、返品率。事業者の実力とリスクが、ほぼリアルタイムで可視化されている。
だからこそ、Amazonは Amazon Lending のような形で、出店者向けの資金供給に踏み込める。従来の金融機関が見るのは、決算書や担保だ。一方Amazonが見ているのは、日々の売上と資金の回転そのものだ。
売上の実績と回転を観測できる主体が金融に入ると、審査と回収のコスト構造が根本から変わる。貸せるかどうかを判断するための書類は要らない。売れているか、回っているか、それだけでいい。回収も、次の売上から自動的に行えるからだ。
ここで起きているのは、金融の内製化ではない。購買と物流という生活インフラの延長線上に、金融が自然に組み込まれているだけだ。Amazonもまた、商品を売る企業から、事業者の経済活動そのものを支えるプラットフォームへ移している。
ここまでの企業を眺めると、共通点ははっきりしている。商品を売るのではない。顧客の行動と支払いが発生する場所を起点に、リトルハイアの情報を取り、それをベースに周辺の問題解決へ拡張していくのだ。だから産業の境があいまいになり、決済から通貨の主導権争いが始まり、経済圏を作りにいく争いになっているのだ。
(AIと物理ロボットが融合する世界)
ここまで見てきた議論は、すべて「人の行動がどこでデータ化され、どこで決済と結びつくか」という話だ。決済、ID、OS、購買、移動。人が画面の中で行う行動は、ほぼすべてログとして蓄積、金融や信用と結びつけて活用されている。2026年のCESを俯瞰すると、その構造がいよいよ画面の外に出ていく兆しがある。AIはアプリやクラウドの中に留まらず、ロボットという形で物理的な世界で登場する。CESの公式発信でも、ヒューマノイドを含むロボティクスは周辺テーマではなく、次の主戦場として扱われている。
ここで重要なのは、「ロボットの性能がどれほど高いか」ではない。ロボットが、現実世界における経済活動の端末になるという点だ。現場の仕事、家庭内の作業、移動、物流、介護、清掃。これらはすべて、これまで人が担ってきた行動であり、同時に必ず支払いと結びつく行為だ。
ロボットがそれらを担うようになると、やはり売り切りのハードとしての提供は薄まり、使用を前提に配備され、稼働状況や成果が常時ログとして記録されるだろう。そのデータをもとに、対価が決まり、保険やリース、融資といった金融商品が重ねられていく世界が想像できる。つまりロボットは、労働を助ける機械とともに、やはり金融と経済圏を保管する仕組みになるのだ。
この世界を理解するには、ロボットメーカーの理解だけでは不足する。重要なのは、これら全体を脳、体、神経、学習機能、運用、そして支払いと、誰がどう束ねるのかになる。その役割分担を6つに分けて整理すると、今後のプレイヤーの立ち位置が見えやすくなると思う。
●脳(AI)
まずは、脳(AI)をつくる企業だ。ここで言う脳とは、単なる認識AIではない。言語を理解し、状況を判断し、物理世界での行動に結びつく意思決定の中枢を指す。
現時点での中心は、OpenAI、Google DeepMind、そして NVIDIA だろう。OpenAIは汎用モデルをロボット制御へ拡張し、DeepMindは強化学習と世界モデルの文脈で物理行動を扱ってきた。NVIDIAは少し立ち位置が違うが、AIの脳と身体を同時に設計できる点で特異だと思う。
NVIDIAが Isaac GR00T N1 をヒューマノイド向け基盤モデルとして提示し、シミュレーションや合成データ生成まで含めた枠組みを出してきたのは象徴的だ。単にモデルを作るのではなく、「どう学習させ、どう現場に出すか」までを一気通貫で押さえにきている。ただし、この領域はまだ勝者が固定されたとは言い切れない。ワンチャンが十分に残っている。
たとえば Tesla。自動運転で蓄積した世界モデルと実走データを、人型ロボットに転用できるポジションにいる。Metaも無視できない。基盤モデルと強化学習、シミュレーション環境を内製し、オープン寄りの戦略で研究者を囲い込んでいる。Microsoft はOpenAIとの関係を軸に、クラウドと実装の側から脳を支配しにいく立場だ。
中国勢も厚い。Baidu は自動運転と大規模言語モデルを結びつけ、Huawei は独自チップとAI基盤をセットで押さえにいく。研究色が強いところでは、Anthropic や Mistral AI のようなプレイヤーも、汎用モデルの別解を提示し続けている。さらに視野を広げると、Boston Dynamics AI Institute のように、ロボット前提で脳を鍛える研究組織もある。大学発やスピンアウトも含めると、名前が知られていないプレイヤーが、特定用途では一気に抜ける可能性も十分ある。
この層の特徴は明確だ。単体で勝ち切るというよりも、「どの身体」「どの運用」「どの経済圏」と結びつくかで、価値が何倍にも跳ね上がる。脳だけでは完結しないからだ。従い、まだ勝敗は決まっていないのだ。
●身体(ロボット)
次に、身体(ロボット)を量産配備する企業だ。ここで問われるのは、デモの完成度ではない。大量に作れるか、壊れたときに直せるか、安全に現場へ出せるか。そのすべてを同時に満たせるかどうかだ。
名前が挙がりやすいのは、Boston Dynamics、Agility Robotics、Tesla、Figure AI といった企業だ。それぞれ強みは違うが、共通しているのは「研究室を出て、現場に出る」ことを明確に意識している点だ。ただし、この領域にはまだ確定覇者は見えにくい。理由は単純で、最後に勝敗を分けるのが、AIの賢さではなく、量産、保守、安全という現実だと思うのだ。ロボットは壊れるし、転倒する。更に現実空間では人と交わるため、事故の責任も問われる。この現実を乗り越えられる企業は、まだ限られている。だからこそ、この層はワンチャン勢が最も多い。
たとえば Agility Robotics は、倉庫という用途に絞り、人と同じ空間で動く前提を徹底している。Figure AI は、設計をシンプルに保ち、量産と外部連携を強く意識した戦略を取っている。Tesla は、車で培った量産、サプライチェーン、保守の知見を、そのまま人型に持ち込もうとしている。
中国勢も無視できない。UBTECH、Unitree、Fourier Intelligence などは、完成度よりもスピードとコストを優先し、実地配備を前提に動いている。制度や社会実装の許容度が高い環境では、こうした企業が一気に前に出る可能性がある。
さらに視野を広げれば、産業ロボット出身の企業が、人型に転用してくる可能性もある。FANUC、ABB、KUKAのように、量産と安全を知り尽くした企業が、本気で参入してくれば、風景は一変すると思う。
●製造
3つ目は、すでに工場を押さえている企業だ。ここは一気に現実寄りだ。FANUC、安川電機、ABB、KUKA、オムロン。彼らはすでに製造現場に深く入り込み、ロボット本体だけでなく、制御、保守、更新という長いサプライチェーンと歴史と経験を保持している。
この層の強みは、技術の先進性ではない。現場で現在進行系の稼働を続けていることだ。既存の生産ラインに組み込まれ、保守網を持ち、SI(システムインテグレーター)のパートナーを抱えている。つまり、長い時間軸で既に「動かし続ける責任」を引き受けているのだ。AIロボットが広がれば広がるほど、既存の自動化ラインや制御システムとの統合は避けて通れない。そのとき、この層の価値は下がるどころか、むしろ爆上がりだ。
ABB が OmniCore のような制御基盤を打ち出し、デジタル接続やソフトウェアアップデートを前提にした設計へ寄せているのも、その文脈で理解できる。ロボット単体ではなく、「工場全体をどうアップデートするか」を視野に入れているのだ。
また、協働ロボットの文脈も重要になる。Universal Robots のように、人と同じ空間で動き、現場の周辺作業へ自然に入り込むプレイヤーは、AIロボット時代のタッチポイントとして存在感を持つ。完全自動化ではなく、段階的な置き換えが進む現場では、こうしたロボットが最初の入口になる。
どれだけ賢い脳や新しい身体が生まれても、既存の工場や現場とつながらなければ、経済圏はつくれない。だから、すでに現場を押さえている企業は、AIロボット時代においても、重要な機能として拡大しつづけると思う。
●ロボット用コンピュータ(神経)
4つ目は、ロボット用コンピュータ(神経)を供給する企業だ。ここで言う神経とは、単なる演算性能ではない。センサーからの情報を受け取り、判断し、身体へ指令を返す。その一連を、どれだけ速く、安定して、安価に実現できるか。その能力が、ロボットの性能とコストを根本から左右する。
中心にいるのは、やはり NVIDIA だ。GPUに加え、Jetsonのようなエッジ向けプラットフォームを揃え、学習から推論、シミュレーションまでを一気通貫で押さえている。ロボット向けにNVIDIAが強いのは、単に速いからではない。開発者が「とりあえずこれを使えば動く」環境を用意しているからだ。
ただ、この層もNVIDIA一強で固定されているわけではない。Qualcomm は、低消費電力と通信を強みに、ロボットを動き続ける端末として捉える立場だ。Intel は、産業用途や既存システムとの親和性で巻き返しを狙っている。AMD は、GPUとCPUの統合設計でコストと性能のバランスを取りにいくだろう。孫さん一押しのArm は、自ら作らず、設計思想を世界中に配ることで、神経の標準を握ろうとしている。
さらに重要なのが、エッジAI勢だ。Hailo、Edge Impulse、Graphcore のように、「学習はクラウド、判断は現場」という前提で最適化された企業は、用途次第で一気に存在感を増す可能性がある。日本でも、ソニーのイメージセンサー系技術や、ルネサスの産業向けSoC(システム・オン・ア・チップ:コンピュータに必要な機能を1つの半導体にまとめたもの)など、部分最適では強いプレイヤーがいる。
この層が重要なのは理由がはっきりしている。ロボットはクラウドだけでは動けない。遅延が許されないからだ。通信が切れても止まってはいけない。安全が最優先されるからだ。そのため、判断の多くは現場、つまりエッジで完結する必要があると思っている。
つまり、神経系を握る企業は、ロボットが「どれだけ賢く」「どれだけ安く」「どれだけ安全に」動けるかを決めてしまうのだ。脳と身体の間に位置しながら、実は全体の制約条件を支配する。この層は地味に見えて、極めて戦略的な立ち位置の企業になる。
●シミュレーション/デジタルツイン(学習)
5つ目は、シミュレーションやデジタルツインなどの学習機能の企業だ。この層が重要になる理由は単純だ。ロボットを現場で一体ずつ人が教えていたら、絶対にスケールしない。2000年代初頭、PCと制御装置を配線で繋いでファームをアップしたことがある。最悪の経験だった。勿論26年移行は、一定人間のように何らかのミスや失敗や事後があれば、そこから学習するなどの機能は必須だろう。ただ、いちいちリアルの場で行っていたら、今度は結構な割合で事故が多発して導入を見送る状況が想像できる。
だから学習は、まず仮想空間で行われる。現実とほぼ同じ物理法則、摩擦、重さ、衝突を再現した環境で、何千回、何万回と失敗させる。そして現場では、最後の微調整だけを行うのだ。この仮想で鍛え、現実で仕上げる前提が、ロボットの普及を現実のものにするのだ。
この学習の工場を押さえる企業も強くなる。その象徴が NVIDIA だ。NVIDIAがGPUやSoCだけでなく、OmniverseやIsaac Sim(NVIDIAが提供するロボット向けの学習環境)といったシミュレーションの枠組みまで含めて語るのは、計算力だけでは勝てないことを理解しているからだ。学習環境を押さえた者が、脳と身体の進化速度を決めるのだ。
ただ、この層もNVIDIA一強ではない。Unity は、ゲームエンジン由来の強みを活かし、物理シミュレーションとインタラクションの設計で存在感を持つ。Epic Games(Unreal Engine)も、フォトリアルな再現性とデジタルツインの文脈で産業用途へ広がっている。Siemens や Dassault Systèmes のような産業系プレイヤーは、製造ラインや設備のデジタルツインを長年扱ってきた経験を持つ。
ワンチャン勢も多い。Ansys のようなCAE(コンピュータ支援エンジニアリング)系は、物理の精度で強い。Covariant のように、学習データそのものを資産として積み上げる企業も出てきている。大学発やスタートアップも含めれば、特定用途に最適化した学習環境で一気に抜ける可能性は十分ある。
ロボットの賢さは、現場ではなく、現場に出る前の学習量で決まるというのが面白いところだ。本番前に、どれだけ多くの失敗をさせるか。その失敗を、どれだけ安く、安全に、速く回すか。そこを支配する企業が、ロボット経済圏の進化速度を握るのだ。
●通信や運用
最後は、通信や運用を担う企業だ。この層は完全に技術の凄さから離れる。問われるのは、ロボットを何台作れるかではない。100台、1000台、1万台と増えたときに、止めずに回し続ける必要がある。
ロボットが普及すると、次は運用が重要になる。ログを集め、状態を監視し、ソフトウェアを更新する。異常を検知した場合、止めるべきときは止めないといけない。事故を未然に防ぎ、起きた場合は記録を残し、責任の所在を整理する。そして、それらを保険や契約、規約に落とし込む作業も必要になる。この一連が回らなければ、どれだけ優れたロボットも、現場では使い続けることはできないい。
中心にいるのは、AWS、Microsoft Azure、Google Cloud といったクラウド事業者だ。彼らは計算資源を提供しているだけではない。ログの集約、デバイス管理、セキュリティ、アップデート配信といった「止めない運用」の型をすでに持っている。
通信キャリアも重要になる。ロボットは常にクラウドにつながっている必要はないが、つながるべきときには確実につながらなければならない。低遅延、冗長性、切断時のフェイルセーフ。こうした条件を満たせる通信インフラを持つ企業は、ロボット経済圏の裏側で不可欠な役割を担う。
さらに、この層には運用ソフトウェアの企業が入ってくる。デバイス管理、遠隔監視、ログ分析、セキュリティ対応。これらは派手ではないが、現場では最も信頼される部分だ。ロボットが「いつ壊れたか」よりも、「なぜ壊れなかったか」を説明できることが、導入の条件になる。
この層の価値は、規模が大きくなるほど増していく。ロボットが数台なら、人が見張れる。数十台でも何とかなる。しかし数千台を超えた瞬間、人の目は役に立たなくなる。そこで初めて、通信と運用の設計が、経済圏の土台として効いてくる。この運用層は地味だ。だが極めて重要だ。
もちろん、ロボットは必ず壊れる。運ぶ人も、直す人も必要になる。ただし重要なのは、その作業を誰がやるかではない。誰の指示で、誰の契約のもとで、誰のデータとして行われるかだ。現場は分散するが、運用は一つに束ねられる。その設計を握った側が、経済圏を支配する。
国内で考えると、この「束ね役」はまったくの新規プレイヤーから生まれるというより、すでに現場と地域を持っている企業が担う可能性が高い。たとえば、ソフトバンクのような企業は、自ら現場に出ることはないが、通信、認証、課金、契約という基盤を持っている。ロボットが増えれば増えるほど、どのロボットが、どこで、どの条件で動いているのかを一元的に把握する必要が出てくる。そのとき、ローカルの保守会社やSIを個別に管理するのではなく、ネットワークとして束ねられる企業が前に出てくる。
一方で、地場のインフラ企業がその役割を引き受ける展開も十分にあり得る。電力、ガス、石油化学といった企業は、すでに「止められない設備」を長年運用してきた。24時間体制、安全管理、行政との調整。ロボットの運用に必要な感覚は、実はこうしたインフラ運用と近い。ロボットが社会に溶け込むほど、こうした企業が担う役割は自然に広がっていく。
さらに、メーカー系やプラント系の企業も見逃せない。彼らはすでに、設備の定期点検や部品交換、長期保守契約をビジネスとして成立させてきた。ロボットは彼らにとって未知の存在というより、「動きが増えた設備」に近い。既存の保守ビジネスの延長として、ロボットの運用を引き受ける余地は大きい。
ここで再び重要になるのは、誰が油をさすか、誰が部品を運ぶかではない。それらの行為が、どの契約に紐づき、どのログとして蓄積され、どの責任分界のもとで実行されるのかだ。現場はローカルに分散していく。しかし、その上位にある運用の設計は、一つに束ねられていく。その構造を設計できた企業だけが、ロボット時代の経済圏を現実のものにするだろう。
(機能で売り続ける企業の近未来)
ここで今回の議論を再度、もう一段抽象化してみよう。長く日本を支えてきた事業は、機能を磨き、性能を売ってきた企業群だ。光学、精密機械、素材、センサー、制御。世界最高水準の技術を持ち、真面目に作り、壊れにくく、正確に動く。そうした企業は確かにすごい。
しかし、その強さは、いまの潮流の中では、対極に置かれてしまう。なぜなら、機能を軸にしたビジネスは、どうしても「売った瞬間(ビックハイア)」で完結しやすいからだ。良い製品を作り、販売し、代金を受け取る。顧客がその後どう使い、どこでつまずき、何に満足したか。つまりリトルハイアの積み重ねには、構造的に関与しにくい。
市場がいま評価しているのは、そこではない。評価されているのは、顧客の財布と習慣を握り、使用を通じて関係を深め、将来のキャッシュフローを自社の中に積み上げていける企業だ。売上の大きさよりも、関係の継続性。単発の販売よりも、使われ続ける設計。その差が、企業価値の差になっている。
ところが、機能重視の企業ほど、販売や顧客接点を子会社や代理店に委ねがちだ。製品は自社のものでも、使用ログは手元に残らない。顧客が何に困り、どこで離れ、どこで感動したかが見えない。結果として、技術は自社にあるのに、顧客経済の主権を持てない状態が続いている。そして、その致命的な欠陥に気づいていないのだ。
この構造は、資本市場から見ると非常に分かりやすい。優れた技術を持つ、信頼できる企業。しかし、顧客を束ねる力は弱い。将来のキャッシュフローは読みにくい。そうなると、評価はどうしても「頃合いの良いハードメーカー」に落ち着いてしまう。買収しやすい部品供給者、あるいは機能提供者として見られるのだ。
プラットフォーム側の視点に立つと、これはさらに明確になる。彼らにとって、優れた技術は喉から手が出るほど欲しい。しかしそれは、顧客を連れてくる価値だからではない。あくまで、自分たちの経済圏を強化するための機能や部品として見ているのだ。だから、技術は称賛される。しかし、評価の中心にはならない。残酷だが、これが現実だと思うのだ。
(まとめ)
最後に、全体を振り返ろう。今回も何日かに分けて書いたので、自分のなかの復讐の意味も含めている。今回のブログは、技術が負けたと言う話ではない。ましてや、技術の価値が消えた話でもない。変わったのは、価値の置き場所だ。
かつて価値は、機能の中にあった。より高精度に、より速く、より安定して動くこと。それ自体が価値だった。しかし今、価値はそれだけでは完結しない。価値は、顧客の生活の中に置かれるようになった。顧客が日常の中で使い続けること。毎日の中で使われ、習慣として定着し、そして最終的には財布の流れの中に入っていく。価値は、そうした場所へと移っているのだ。
だから企業は、「良い商品を作る」だけでは足りなくなった。商品より先に、顧客を取りにいく。顧客との関係性を先に設計する。顧客を取りにいく企業は、将来のキャッシュフローを増やすことが可能だ。すると、株価が高くなり、株価が高いから、ロールアップで周辺領域を取り込むことを続ける。そうして事業は拡張し、結果として産業の境界が曖昧になっていく。
境界が曖昧になると、次に争点になるのはポイントや決済、デジタル通貨だ。つまり誰が顧客の財布を握るのかという競争だ。覇者は国境そのものを取りにいくわけではない。経済圏を取りにいく。中国や各国の国家DXは、その未来がすでに始まっていることを示している。
そしてCES 2026が示唆しているのは、その経済圏が、ついに物理世界へ伸びてくるという兆しだ。AIは画面の中から出ていき、ロボットとして現場や家庭に入り込む。ロボットは単なる機械ではなく、支払いと接続される経済圏の端末になる。労働と金融、物理とデータが、そこで重なり始める。
この流れの中で、機能を軸に強さを築いてきた企業は、どう生きるのか。誰と組むのか。プラットフォーマーが国境を簡単に越えていったように、機能を軸に戦ってきた企業も、まもなく選択を迫られる。今回書いてきた経済圏の中で、下流工程として組み込まれるのか。それとも、上流の一部として接続されるのか。
極めて戦略的な議論だと思う。そしてこれは、従業員1,000人から2,000人規模以上の企業にとって、もはや無視できない世界になってきている。
ダブルスタンダードに移行した世の中
2026年1月18日
世界は、ダブルスタンダードに移行している。国際法が機能した前提は「皆が守るから守る」だ。しかし、皆が守らなくなっている。世界の多くの国でナショナリズムが前に出て、力を持つ国ほどルールを選択的に使っている。ダブルスタンダードは、常態化している。
米国は、かつての世界の警察とはかけ離れている。国際連合を含む国際機関との距離は広がり、国益を最優先する姿勢を貫いている。ロシアはウクライナに侵攻し、中国は台湾を内政問題と位置づけ、香港ではすでにそれを実行に移した。国際法は存在しているが、強制執行する主体がいないのだ。つまり、効かない。法が守られる条件は、突き詰めれば2つだ。1つは、皆が守るから自分も守るという均衡が働くこと。もう1つは、誰かが破ったときに合理的に割に合わない罰があることだ。国内法は後者が機能する。警察があり、裁判があり、強制力がある。しかし国際法には、それがない。核を持ち、軍事力を持つ国を、誰も力で縛ることは出来ない。
この前提で日本を見るとどうなるだろうか。日本は資源を持たず、核も持たず、常任理事国でもない。一方で、経済規模は大きく、技術があり、米軍基地を国内に抱え、東アジアの要衝に位置する。米国、中国、ロシア、他のアジア諸国などから見ても重要な国だ。従い、左記の国が動けば真っ先に影響を受ける。沖縄はその象徴だと思う。台湾有事が起きれば、沖縄は必ず巻き込まれる。侵略という言葉を使わなくても、ミサイル、サイバー、情報戦、経済封鎖という形で無力化される可能性は高い。北海道についても、ロシアとの関係を見れば、軍事的圧力や既成事実づくりが進むシナリオは想定しておくべきだ。全面侵攻ではなく、曖昧な形でじわじわ進むなどだ。
こうした世界観の中で、再び選挙だ。政権交代が起こる筋は見えない。自由民主党が圧倒的に票を集め、単体で意思決定できる議席を持つ可能性は高いと思う。公明党や立憲民主党は、「中庸」や「対話」を掲げながら、危機の局面で決められない組織になっていた。少なくとも、多くの有権者はそう見ている。では、その後だ。日本はどうなるのか。かなり右に振れ、アグレッシブに攻撃を仕掛ける国になるだろうか。勿論、日本が自ら先に戦争を始める国家になる可能性は低い。国民感情も、制度も、組織文化も、そこまでの覚悟を前提に作られていない。ただし、重要なのはここだ。日本は「攻撃しない国」であり続けるが、「攻撃できることを前提に振る舞う国」にはなる。
反撃能力、宇宙やサイバーの領域、南西諸島の防衛強化。これらはすでに始まっている。名目は防衛だが、相手から見れば攻撃に見える行動も増えるだろう。殴られてから考える国ではなく、殴られる兆候があれば、殴れる態勢で睨み続ける国になるだろう。これは拡張主義ではない。ダブルスタンダードの世界を生き残るための抑止だ。国際法が効かず、同盟も絶対ではない世界で、理念だけを掲げるのは無責任だ。日本は、右に寄るというより、「覚悟の量」を増やす方向に進むだろう。
怖いのは、戦争が始まることそのものよりも、戦争と平時の境目が消えることだ。宣戦布告なく、日常の延長で、少しずつ現実が変えられる。気がついたときには、選択肢が残っていない。実にきな臭い世の中だ。しかし、目を逸らさずに考える必要がある。選挙は、理想を語る場ではない。どこまで現実を引き受けるかを決める場になった。そういう時代に、もう入っているのだ。どうだろう。
レゴはなぜ「プラスチックの積み木」から、世界で最も強い知的ブランドになったのか
2026年1月13日
早嶋です。約7600文字。
子どもの誕生と共に、レゴの基本セットを購入した覚えは無いだろうか。まだ言葉も話さないうちから、ブロックを積み、崩し、色を並べる。その後、レゴニンジャゴーに夢中になり、クリスマスには毎年新しいセットを欲しがった。アウトレットモールにはレゴストアが入り、子供にとってつまらないアウトレットモールが夢の場所に変わった。
レゴは、およそ90年の歴史があり、「失敗と再発明」を繰り返し成長している企業だ。世界最大級の玩具会社でありながら、同時に「人間はなぜ手で何かを作ると夢中になるのか」という欲求と解消を、産業として向き合い続けてきた稀有な存在だ。
(レゴの概要)
2024年、レゴグループの売上は約743億デンマーククローネ(日本円で約1.6兆円)。営業利益は約187億クローネ、純利益は約138億クローネ。世界中に3万人以上の従業員を抱え、130カ国以上で販売されている。
レゴは上場企業ではない。今も創業家の持ち株会社 Kirkbi A/Sにより支配されている。Kirkbi A/Sは レゴグループ株式の約75%を所有し、残りは非営利組織であるレゴ財団(The LEGO Foundation)が保有する。この所有構造は、短期の株価や投機ではなく、長期的ブランド価値と遊びの思想を守るためのもので、創業家による世代を超えた統制が今も続いていることを示す。
レゴの売上推移を見る、同社の歴史の節目が数字にも表れている。2003年から2004年に会社が経営危機に陥った直後は、売上規模は 約70億から90億デンマーククローネ程度 で推移していた。その後の復活と事業再編で成長が加速する。
2003年:売上 約70億から80億DKK程度(1400億から1500億)
2004年:売上 約60億から70億DKK程度(1200億から1300億
2005年:売上 再び回復し、約 1500億円
2010年前後:売上規模約160億から180億DKK(3600億円)程度と拡大
2015年:約350億から380億DKK(8000億)以上の規模へ成長
2020年代:約550億DKK以上(約1.2兆円)
2023年:売上 約650億から700億DKK(約1.5兆円)に到達したという推計がある。
この数字の流れを見ると、2003年から2004年の低迷期から2005年前後で復調し、2010年代に入って売上が加速度的に伸び始め、2010年代中盤から後半には大台に乗ったという構造が読み取れる。特に2015年以降は、IP戦略(ニンジャゴーや映画・テーマ別ライン)や直販・グローバル展開の強化によって成長が加速し、2020年代には玩具業界最大級の規模にまで到達している。
(木からプラスチックに)
レゴは1932年、デンマークの大工オーレ・キアク・クリスチャンセンによって創業された。最初は木製玩具の工房だった。木の積み木や木製の車は、当時の子どもたちにとって定番の遊び道具であり、レゴもまた、その延長線上にあった。
しかし戦後、プラスチックという新しい素材が登場する。軽く、壊れにくく、寸法を正確に量産できる。この「寸法を揃えられる」という性質に、オーレは決定的な可能性を見た。彼が目指したのは、単なる新素材の玩具ではなく、「互いに正確につながる部品」だった。
1958年に完成したスタッドとチューブによるブロック構造は、見た目以上に革命的だった。それはブロックを、ただ積むための塊から、「組み立てられる部品」へと変えたからだ。しかも、その接続は強すぎず弱すぎない。遊んでいる最中には崩れないが、子どもの手で簡単に外せる。この絶妙なバランスによって、レゴは壊すことを前提とした玩具になった。作って、壊して、また作る。失敗が遊びの中に組み込まれたのだ。
ここでレゴは、木の積み木とはまったく異なる領域を創造した。木の積み木は、その場で形を作る遊びだが、レゴは「構造を設計する遊び」になる。橋や車や街は、重ねるのではなく、組み上げるものになる。しかも、同じ形を何度でも再現できる。説明書が成立し、他人と同じものを作り、そこから改造するという文化が生まれた。
さらに重要なのは、この接続の規格が追加を自由にしたことだ。新しいセットを買っても、古いブロックは無駄にならない。すべてが同じ規格でつながり続ける。家庭の中にレゴの部品が蓄積されるほど、遊びの世界は広がる。レゴは「完成品を売る会社」ではなく、「創造を拡張する部品を売る会社」になったのだ。
プラスチック化は、単なる素材の変更ではない。レゴは、積み木の概念を変えた。子どもの想像力を、再現可能で、共有可能で、拡張可能な構造に作り上げたのだ。そのことが、のちにデジタルやIPの時代が来ても、レゴが中心に居続ける土台になっている。
(デジタル化の誤読)
1994年、ソニーのプレイステーションが登場した。それまでのファミコンとはまったく違う、立体的で、映画のような世界がテレビの中に現れた。コントローラーを少し動かすだけで、キャラクターが走り、ジャンプし、敵を倒す。子どもたちは、リビングの床に座り込み、画面に吸い込まれるように遊び始めた。
1996年にはポケモンが現れる。ポケットの中のゲーム機の中に、小さな生き物の世界があり、友達と交換し、戦わせ、コレクションしていく。学校の休み時間や帰り道の話題は、いつのまにかレゴではなく、ポケモンになっていった。
当然、レゴの経営陣も、その光景を見ていた。子どもたちの視線が、テーブルの上のブロックから、テレビやゲームボーイの画面へと移っていく。これまでレゴで遊んでいた時間が確実にゲームの世界に奪われていくのだ。
一方で、1995年にWindows95が出て、インターネットという言葉が家庭に入り始める。まだ動画もなく、回線も遅い。ただ、「世界とつながる」という新しい感覚が、少しずつ広がっていった。2000年に入れば、これが本格的な社会インフラになることは、薄々見えていた。
レゴの経営陣の中では、こんな不安が膨らんでいたはずだ。「子どもたちは、もうブロックでは遊ばなくなるのではないか」と。そこで彼らは、極端な選択をした。ブロックの会社であることを忘れたように、ゲーム会社になろう、IPの会社になろう、テクノロジーの会社になろうと行動したのだ。
レゴ・アイランドというゲームが作られ、レゴ・レーサーが出る。Bionicleという独自のSF世界が立ち上がり、Galidorというアクションフィギュアと連動したIPも作られる。Mindstormsでは、レゴはロボットとプログラミングの会社になろうとした。外から見ると、未来的で、挑戦的で、格好良かった。だが、レゴの箱を開けたときのあの感覚、床にブロックを広げ、何かを組み立てていく体験とは、少しずつ切り離されていった。
子どもは、手を使ってレゴを組み立てて遊ぶのではなく、レゴのゲームをデジタル上で遊ぶようになる。レゴで創造するのではなく、製造されたストーリーの中で、遊ぶようになり、ただ時間を消費するようになるのだ。そして気がつけば、レゴは「レゴでなくてもよい商品」を山ほど抱えた。ゲーム会社としては中途半端で、IP会社としては弱く、玩具会社としての強みも失いかけていたのだ。
その結果が、2003年の巨額赤字だ。倉庫には売れ残った在庫が積み上がり、開発費とライセンス費が経営を圧迫する。レゴは、ほとんど自分が何の会社なのか分からなくなっていた。倒れかけたのは、ブロックが時代遅れになったからではない。本質のブロックからドメインを切り離したからだった。
(CEO交代と手で考える会社に戻る戦略)
2004年、レゴは創業以来最大の危機に直面していた。莫大な赤字、膨らんだ在庫、分裂した事業。社内には「レゴはもう終わったのではないか」という空気すら漂っていた。その中で創業家が下した決断が、外部から一人の若い経営者をCEOに迎えることだった。ヨルゲン・ヴィグ・クヌーストープ。当時まだ30代半ばの、ほとんど無名の経営者だった。
だが彼が選ばれた理由は、年齢や肩書ではなかった。創業家が求めていたのは、「レゴの組織の外にいながら、内側の組織を見渡せる人間」だった。長年の成功によって、レゴの組織内には「自分たちは創造性の会社である」「子どもの夢を作っている」という強い自己物語が出来上がっていた。その物語が、90年代後半のデジタルの波にうまく適応できず、会社を迷走させていたことを、創業家は直感的に感じ取っていた。
社内の重鎮では、その物語を壊せない。かといって、レゴを何も知らない外部のプロ経営者では、この会社の魂を切り捨ててしまう。ヨルゲンは、その中間にいた人材だ。戦略コンサル出身で数字と構造を冷静に見られる一方で、社内の戦略部門としてレゴの文化や矛盾を組織内部からも同時に見てきた人物だった。レゴの神話に縛られず、しかしレゴの本質を理解している。その稀有な立ち位置こそが、彼をCEOに押し上げた。
創業家は、事業を立て直す前に、「レゴは何の会社なのか」という物語そのものを立て直す必要があると分かっていた。そのためのCEOが、ヨルゲン・ヴィグ・クヌーストープだった。彼に期待された役割は、コストを削ることではなく、レゴという会社の原点をもう一度見つけ直すことだった。
多くの企業なら、まず銀行と交渉し、コストカットを進め、工場を閉める。だが彼が最初にやったのは、まったく別のことだった。彼は世界中の家庭や保育園を訪れ、子どもたちが実際にレゴで遊んでいる様子を観察させた。経営会議室ではなく、床の上に広げられたブロックの山の前に立ち、子どもたちが何を作り、どう壊し、どう考え直すのかを見続けた。
そこで見えたのは、経営陣が想像していた姿とは違う光景だった。子どもたちは、レゴの設定やストーリーをなぞって遊んでいるわけではない。説明書通りに一度は作るが、すぐに崩し、パーツを混ぜ、別の何かを作り始める。車は船になり、城はロボットになり、正解の形は存在しない。彼らが夢中になっているのは、完成した作品ではなく、「組み替える過程」そのものだった。
クヌーストープは、そこでようやくレゴの本質を掴む。レゴの価値は、世界観やキャラクターではない。子どもが「こうしたらどうなるだろう」と試し、失敗し、やり直す、その思考の運動そのものにあった。彼は社内でこう語ったとされている。「我々はエンターテインメント会社ではない。私たちは手で考える会社だ」と。
レゴの進むべき方向はこのような背景で明確になる。ゲーム会社でもなく、IP会社でもなく、テック企業でもない。レゴはあくまで、子どもの手と頭をつなぐ道具の会社なのだ。
そこからレゴは、ばらばらになっていた事業を整理し、再びプラスチックのブロックを中心に据え直す。売れないIPは切り離し、ブロックと結びつかないデジタル事業は縮小、「組み立てる体験」を核に事業を整理した。レゴが復活したのは、奇跡でも運でもない。自分たちの存在意義を、コアユーザーである子ども達に教えてもらったのだ。
(ニンジャゴーの開発)
ヨルゲンが「レゴは手で考える会社だ」と再定義したあと、レゴの中にはひとつの難題が残った。ブロックの会社に戻ることはできた。しかし、2010年代の子どもたちは、90年代とは明らかに異なる。テレビ、ゲーム、YouTube、キャラクターに囲まれて育っているのだ。ただのブロックだけでは、彼らの注意をつかみ続けられないことも分かっていた。
そこでレゴは、過去の失敗をもう一度、慎重に分析した。BionicleやGalidorで失敗した理由は何だったのかを。そして明確な答えにたどり着いた。それらのIPは、ブロックから独立していたのだ。それらのIPはアクションフィギュアになり、アニメになり、ゲームになり、レゴである必要がなくなっていた。そこでヨルゲン体制のレゴは、逆の設計をした。物語をブロックに連携するIPを作ったのだ。こうして生まれたのがニンジャゴーだった。
ニンジャゴーの世界観は、最初から組み立てることを前提に設計されている。忍者、ドラゴン、メカ、都市、敵と味方。これらはすべて、ブロックで作ると楽しい構造になっている。つまり、アニメは世界観を説明するための装置であって、遊びの中心ではない。遊びの中心は、あくまで子どもの手の中にある。
さらにレゴは、ニンジャゴーを「無料で配信する」戦略をとった。テレビやYouTubeで誰でも見られるようにし、入口の摩擦を限りなく下げた。その代わり、世界の続きはブロックの箱の中にあるように設計した。アニメの一話が終わると、次の展開を自分で作りたくなる。ここで初めて、商品が欲しくなる。
これは、Bionicle時代の「キャラを売るIP」とは正反対の構造だ。ニンジャゴーは、物語を消費させるためのIPではなく、創造を引き出すためのIPだった。だからレゴは、他の独自IPを整理した。世界観だけが先行し、ブロックとの結びつきが弱いものは削除する。IPの数を増やすのではなく、「ブロックで遊びたくなるIP」だけに集中した。
結果として、ニンジャゴーは単なるヒット作品ではなく、レゴの戦略そのものを体現する存在になったのだ。子どもはアニメを見る。そしてブロックで再現する。壊して、組み替えて、自分の物語をまた作る。再びアニメに戻る。この循環こそが、「手で考える会社」としてのレゴが、デジタル時代に見つけた答えだった。
ニンジャゴーがブレークした当時、私の子どもたちも、まさにその世界にいた。YouTubeでアニメを見て、レゴのカタログで新しいメカやドラゴンを眺め、H&MのニンジャゴーTシャツを着て、床にブロックを広げて遊ぶ。画面と現実、物語とレゴ、キャラクターと自分の手が、ひとつの循環の中でつながっている。だが、その中心は、常にブロックだった。アニメは入口で、カタログやTシャツは世界観を広げるための仕組みに過ぎない。物語が実際に進み、勝ち負けが決まり、世界が変わる場所は、子どもたちの目の前に広げられたリアルのレゴだった。
これは、90年代にレゴが迷い込んだ「スクリーンの中で完結するデジタル」とは、まったく逆の設計だ。ニンジャゴーは、IPを消費させるための仕掛けではなく、創造を引き出すための文脈として作られていた。デジタルは子どもを引き寄せるが、遊びの主役にはならない。主役はあくまで、組み立て、壊し、考え直す手の動きだ。だからニンジャゴーは、レゴにとって単なるヒット作ではない。レゴの再定義である「手で考える会社」が、実際に現実の世界で機能していたのだ。
(新しいブロック)
ニンジャゴーが当たったからといって、レゴはそれに依存しなかった。むしろレゴは、「手で考える」という思想を、あらゆる子どもとあらゆる年齢に拡張していった。
レゴ・シティの中では、警察官や消防士が街を守り、空港や港が動いている。そこには、現実の社会を自分で再構築できる遊びがある。女の子向けにはお姫様やファンタジーの世界が用意され、そこでも物語は完成品ではなく、組み替えられる舞台として与えられる。スター・ウォーズやハリー・ポッターのような外部IPも、単なるキャラクター商品ではなく、「ブロックで再現できる世界」としてレゴに組み込まれていった。
年齢が上がれば、レゴはより難しくなる。テクニックシリーズでは歯車やサスペンションを使って車やクレーンを作り、子どもは自然に構造や力学を学ぶ。レゴで育った子どもが、レゴを卒業しなくてもいいように、レゴは成長の階段を用意しているのだ。
さらにレゴは、ブロックを教室の中にも持ち込んだ。プログラミングで実際のレゴを動かすキットは、STEM教育の入口となり、レゴ・シリアス・プレイは、企業研修の場で「手を動かしながら考える」ための公式メソッドとして世界中で使われている。レゴは、玩具を超えて、思考のインターフェースになっている。
2026年、レゴは 「LEGO SMART Play(レゴ・スマートプレイ)」 という新しい遊びのプラットフォームを投入する。これは単なるギミックではなく、玩具の根幹である「ブロックで遊ぶ体験」にデジタルの応答性を組み込んだ革新だ。
中心となるのは、これまでのレゴブロックとまったく同じ形状の中に、センサー、LED、スピーカー、無線通信機能などを内蔵した「LEGO SMART Brick(スマートブリック)」だ。このブロックは単独で光や音を出すだけでなく、周囲の動きや他のスマートパーツとの関係を感知し、リアルタイムに反応することができる。たとえば、飛行機のおもちゃを持ち上げるとエンジン音が鳴り、戦闘シーンではライトや効果音が出るように設計されている。しかも重要なのは、これがスクリーンやアプリの操作を前提としていないことだ。デジタル技術はブロックの中に「溶け込んで」おり、子どもがタブレットやスマートフォンを手にする必要はない。ブロックそのものが、遊び手の動きに応じて反応するインタラクティブな相手になるのだ。
第1弾として発表されているのは、スター・ウォーズをテーマにした3つのSMART Playセットで、2026年3月1日に世界各国で発売される予定だ。
『SMART Play: Darth Vader’s TIE Fighter(75421)』
『SMART Play: Luke’s Red Five X-Wing(75423)』
『SMART Play: Throne Room Duel & A-Wing(75427)』
これらにはそれぞれ SMART Brick、SMART Minifigure、SMART Tag が含まれ、スター・ウォーズの世界観を生き生きと再現するサウンドやライト、物語的な反応が楽しめる。たとえばタイ・ファイターならエンジン音やレーザー音、X-ウイングなら補給音や戦闘音が自動的に鳴り、シーンに合わせて光が変化するよう設計されている。
この取り組みは、90年代のデジタル挑戦とは根本的に違う。あの頃、レゴはスクリーンの中の体験を追い求めすぎて、本来の遊びから離れてしまった。だがSMART Playは、デジタルをブロックの体験そのものに埋め込み、スクリーンレスのインタラクティブ性を付与するというアプローチだ。デジタルを「外に出す」のでなく、「フィジカルな遊びの中に織り込む」。これこそ、レゴが過去20年かけて磨いてきた「手で考える遊び」の延長上にある新しい進化なのだ。
天皇制度の発明 :磐井の乱・白村江・壬申の乱から読み解く日本国家の起源
2026年1月10日
早嶋です。約1万文字。
2世紀から3世紀の日本列島は、天皇が治める国ではなかった。そこには、筑紫、隼人、熊襲、吉備、出雲、畿内、さらに関東や東北にまで、それぞれの王や首長が存在し、海と川と山の流通を押さえながら、それぞれの地域を動かしていた。北部九州は朝鮮半島や中国と直結し、鉄も人も情報も入ってくる最前線だった。隼人や熊襲は南九州の独自の軍事文化と霊性を持ち、吉備は瀬戸内海の海上交易を背景に巨大な勢力を築き、出雲は神話に象徴される別系統の宗教と政治の中枢だった。関東や東北にも、ヤマトとは異なる古墳文化と首長層が広がっていた。
当時の畿内は、これらの勢力を一元的に支配していたわけではない。しかし、瀬戸内海と大和川水系の結節点に位置し、海と内陸をつなぐ交通と儀礼の中心として、列島の複数の勢力を束ねうるハブの役割を果たしていた。瀬戸内と大和川水系の結節点として、物流と人の交差点に位置していたにすぎない。つまり当時の日本列島は、一つの国家ではなく、いくつもの政治圏と宗教圏が重なり合う連合体のような世界だったのだ。
ここから、磐井の乱、乙巳の変、白村江の戦いを経て、どうやってこの多極世界が「天皇と藤原」という二重構造に収斂していくのか。その過程が、日本という国が出来上がる物語だ。
(朝鮮半島をめぐる国際政治)
当時の連合体的な日本列島の均衡を、決定的に揺さぶっていたのが、朝鮮半島をめぐる国際政治だった。朝鮮半島では、百済・高句麗・新羅が覇権を争い、その背後から中国の王朝、のちの隋や唐が影響力を伸ばそうとしていた。朝鮮半島は、東アジアの軍事と外交がぶつかる最前線だったのだ。
日本列島から見ると、朝鮮半島は単なる隣国ではない。鉄器や仏教、文字、律令的な統治技術など、当時の「先端文明」は、ほぼすべて半島を経由して入っていた。つまり朝鮮半島は、文化と技術の入口であると同時に、国際秩序と軍事的緊張が流れ込む窓口でもあったのだ。
ここで重要なのは、倭国が中国と直接つながっていたのではなく、百済や高句麗といった半島の国家と交流することで、大陸世界と関係を持つことが出来た点だ。そのため、どの国と組むかによって、入ってくる技術も人材も情報も変わった。中でも百済と結びついた畿内の政権は、仏教や建築技術、文書行政、外交儀礼といったものを一気に取り込むことができた。それは単なる文化交流ではなく、日本列島の政治のあり方そのものを、より国家的なものへと引き上げる力を持っていた。
ところが、日本列島の西端、つまり筑紫は、この朝鮮半島とのネットワークを自前で持つ位置にあった。北部九州は対馬海峡に面し、百済だけでなく、高句麗や新羅とも直接航路を持ち、中国大陸とも短距離でつながる。鉄資源や武器、馬、織物、さらには外交情報までが、まず筑紫に集まり、そこから日本列島へと流れていった。言い換えれば、筑紫は畿内を経由せずに、東アジア世界と直結できる玄関口だったのだ。
この筑紫の自立性こそが、畿内にとって最大の戦略リスクだった。畿内が百済と結び、朝鮮半島を足場に国家を組み立てようとするなら、筑紫が新羅や高句麗と別に動くだけで、日本列島の対外窓口は分裂する。その瞬間、畿内は外交も軍事も主導できなくなる。
(磐井の乱)
ここで起きたのが磐井の乱だ。527年、筑紫君磐井が畿内の命令に抗して動き、翌528年に武力で鎮圧される。史料の細部には議論があるが、骨格ははっきりしている。磐井はもともと畿内王権の外側にいる反逆者ではなかった。むしろ筑紫の代表として、畿内と半島をつなぐ外交と軍事の実務を担う、有力な同盟者だった。
問題は、畿内が百済と連携し朝鮮半島へ軍事行動を行おうとしたとき、その出兵ルートと外交の主導権を誰が握るのか、という点だった。畿内は、筑紫を経由して半島へ兵を送り、鉄や武器、技術を受け取る従来のやり方を、「畿内が直接統制する流れ」に切り替えようとした。これに対して磐井は、自分が構築してきた朝鮮半島との関係と交易の主導権が奪われることを拒んだと考えられる。
つまり磐井の「反抗」は、畿内への反逆というより、筑紫が長年担ってきた東アジアとの窓口を手放さないという意思表示だった。畿内と筑紫は、それまで協調して朝鮮半島と向き合ってきたからこそ、この利権と主導権の衝突は、妥協ではなく武力で決着するしかなくなったのだ。
本来なら、筑紫がそのまま列島の中心、いわば「大和のポジション」を取っていても不思議ではなかった。しかし、この敗北によって、日本列島の外側につながる窓口は、九州の自立ではなく、畿内の統制に組み込まれる方向へと大きく舵を切った。ここから、日本の国家形成の重心は、決定的に畿内へと寄っていく。
ただ、磐井の乱で直ちに畿内が列島を一元支配したわけではない。列島は依然として多極的で、畿内も豪族連合の微妙なバランスの上に成り立っていた。ただし一つだけ決定的に変わったのは、東アジアとつながる外のネットワークが、九州から畿内へと引き寄せられたことだ。
(蘇我氏の台頭)
この新しい状況の中で力を伸ばしたのが蘇我氏だった。蘇我はもともと畿内の在地豪族だが、磐井の乱以降、百済と結びついた渡来人ネットワーク、仏教僧、工人、外交使節を積極的に受け入れ、畿内に集積させていった。鉄器の製造、仏教寺院の建設、文書行政、対外外交。これらはもはや個々の豪族が担えるものではなく、外の世界と直結した専門集団の協力が不可欠だった。蘇我氏は、その「朝鮮半島とつながる実務ネットワーク」を畿内の中枢で取りまとめる役割を担ったのである。
つまり、磐井の乱で九州が担っていた独立した対外窓口が政治的に封じられたあと、その「東アジアにつながる機能」を別の形で引き受けたのが、畿内の中の蘇我氏だった。ただしそれは、筑紫の港や人脈をそのまま引き継ぐという意味ではない。蘇我氏は、百済を中心とする半島諸国との人的・宗教的・技術的なネットワークを畿内に直接組み込み、外交・軍事・仏教・工人集団を一体として動かす新しいネットワークを作り上げた。
こうして、列島の外交、技術、宗教、軍事は、もはや九州の豪族を経由するのではなく、百済を窓口として畿内に集約されるようになる。その実務を現実に運用したのが蘇我政権だった。ここで列島は、在地豪族がゆるく連合する世界から、朝鮮半島の国際秩序と深く結びついた「国際政権」へと質的に転換していく。
しかしこの転換は、王権内部に緊張を生んだ。643年、蘇我入鹿は、聖徳太子の系譜を引く皇族である山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族を攻め滅ぼす。これは単なる権力闘争ではない。百済との結びつきを基盤に国を動かしてきた蘇我氏にとって、太子系皇族が掲げる「天皇中心の秩序」への志向は、自分たちの政治モデルそのものを脅かすものに映っていた。
蘇我氏なりに考えれば、この行動は「国際政権」を守るための先制防衛だった。半島情勢が急速に不安定化する中で、内部から制度転換が起これば、外交と軍事の実務が分裂しかねない。そうした危機感が、皇族への直接的な武力行使という、取り返しのつかない一線を越えさせたと考えられる。
しかし、この山背大兄王一族の殺害こそが、決定的な引き金となった。実務を担う一豪族が、王統そのものに手をかけたことで、調整や妥協の余地は消える。ここで初めて、王権内部に「蘇我を切らなければ国家は持たない」という共通認識が生まれ、やがて645年の乙巳の変へと雪崩れ込んでいく。
(乙巳の変)
この蘇我体制を切ったのが、645年の乙巳の変だ。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺し、宗家を倒すに至った背景には、単なる権力争い以上の切迫した状況があった。そして、この切迫は、国際情勢だけが理由ではない。その2年前、643年に起きた出来事が、中大兄皇子にとって決定的だった。
蘇我入鹿は、聖徳太子の子である山背大兄王とその一族を滅ぼした。太子系王統は、理念と象徴として王権を支える存在だったが、蘇我にとっては、自らの政治構想と相容れない存在でもあった。この事件は、皇族内部に明確なメッセージを突きつけた。蘇我政権の構想に合わない王族は、血筋であろうと排除されると。
中大兄皇子にとって、これは他人事ではなかった。調整や共存の余地は消え、自分もまた、いつ排除されてもおかしくない立場に置かれたことを悟る。乙巳の変は、計画された改革であると同時に、時間切れの選択でもあった。
この時点で、東アジアの国際秩序はすでに大きく傾き始めていた。唐と新羅が半島の主導権を握りつつある中で、百済との私的な結びつきに依存する蘇我体制は、列島全体を外圧の最前線に晒しかねない構造になっていた。それは、国家としての判断ではなく、一氏族の関係が列島全体の運命を左右する構造だった。
中大兄皇子と中臣鎌足が直面していたのは、「誰が列島の対外関係を代表するのか」という問題だった。蘇我氏は百済を通じて半島と直結する私的な外交・技術・宗教のネットワークを持ち、それを基盤に王権の実務を動かしていた。しかし、それは同時に、畿内の王権が自分自身の意思で外交や軍事を統御できないことを意味していた。唐と新羅という巨大な外圧に直面するなかで、この状態は、国家として致命的な不安定さを孕んでいた。
乙巳の変は、「どの家の血が正しいか」を争った事件ではなかった。問題になっていたのは、列島がこれから誰の手で、どんなやり方で、外国と向き合い、国を動かしていくのか、ということだった。
それまでの蘇我政権は、百済との強い結びつきを通じて、外交や技術や宗教を取り込み、実際の政治を回していた。しかしそれは同時に、日本の国の進む方向が、特定の一族と半島の関係に大きく左右される状態でもあった。唐と新羅という強大な国が半島を支配し始める中で、このままでは国の命運を自分たちで決められないという不安が強まっていた。
中大兄皇子と中臣鎌足が目指したのは、そうした不安定な仕組みを壊し、天皇を中心に、外交も軍事も制度として管理する国へと作り替えることだった。乙巳の変は、そのための強引だが決定的な一歩だったのである。そしてこの出来事を起点に、日本は「大化改新」と呼ばれる国家づくりへと踏み出していく。
(白村江の戦い)
この政治改革に、決定的な緊張を与えたのが白村江の戦いだった。663年、倭国は百済を助けるために朝鮮半島へ軍を送り、唐と新羅の連合軍と戦って大敗する。
なぜ倭国が、そこまでして百済を守ろうとしたのか。それは単なる同盟国だからではない。百済は、何世代にもわたって、日本列島に仏教、文字、建築技術、医療、暦、外交儀礼を送り込んできた、いわば「文明の窓口」だった。畿内の王権や蘇我政権の政治と文化は、百済の人材と知識によって支えられていた。百済が滅びるということは、日本が東アジアの最先端とつながるパイプを失うことを意味した。
さらに重要なのは、百済が消えれば、その領土を唐と新羅が支配するという現実だった。そうなれば、日本のすぐ目の前に、中国の巨大帝国と半島の統一国家が現れる。倭国は、もはや半島を緩衝地帯として使えなくなり、いきなり東アジアの覇権国家と向き合う立場に置かれる。
だから倭国は、百済の再興に賭けて出兵した。百済を取り戻せば、半島に自分たちの友好勢力を残し、外交と文化の窓口を守れると考えたのである。しかし白村江での敗北によって、その構想は完全に崩れた。日本は海戦で負け、半島での足場を失い、百済も失った。
この瞬間、日本列島は初めて、「外へ打って出て半島を動かす側」から、「外の巨大国家にどう備えるかを考える側」へと立場を変えた。唐と新羅が半島の覇権を握った以上、次に何が起きてもおかしくない。白村江の敗北は、日本にとって軍事的な敗戦であると同時に、国の生き方を根本から変える体験だった。
白村江の敗北が突きつけたのは、単なる軍事的な敗北ではなかった。それは、「この日本列島の政治のあり方では、唐と新羅という巨大な国家と向き合えない」という現実だった。筑紫、畿内、出雲、吉備といった複数の勢力が並び立つ構造のままでは、誰が兵を出し、誰が税を集め、誰が外交を決めるのかが曖昧なままになる。これでは、国家として一つの意思を持つことができない。
唐は、戸籍を整え、人民を把握し、徴兵と課税によって巨大な軍と財政を維持していた。新羅もまた、その制度を受け入れ、唐と協調しながら半島の統一を進め、やがては同じ制度国家として唐と対峙する力を持つに至った。白村江の敗北は、倭国に「相手はもはや部族連合ではなく、制度化された国家だ」という事実を突きつけた。
これが、後世に「大化の改新」と呼ばれることになる改革の実体である。それは、645年の一つの出来事ではなく、乙巳の変から白村江の衝撃を経て、列島が生き残るために選び取った「国家への転換」そのものだった。具体的に何が変わったのかと言えば、豪族が土地と民を私的に支配する世界から、土地と人民を国家が把握し、戸籍と制度によって動員する世界への転換だ。誰がどこに住み、誰が兵になり、誰が税を負担するのかを、中央が直接把握する。そのための仕組みが、ここで初めて導入されていく。
唐と新羅という制度国家を前にして、「そうでなければ生き残れない」という現実が、日本にその選択を迫った結果だった。こうした発想を持ち込んだのは、百済や唐から来た渡来人官僚や僧侶、そしてそれを理解し使いこなせる畿内の知識層だった。彼らは、東アジアの「国家の作り方」を実地で知っていた。その知が、天武の時代に一気に実装されていく。
(壬申の乱)
この流れの中で起きたのが壬申の乱だ。白村江の敗北と、それに続く国家改造の必要性を背負ったまま、668年に天智天皇は近江大津宮で即位する。天智は、中大兄皇子として乙巳の変を主導し、大化改新の名のもとに改革を進めた人物だが、晩年の彼は1つの深刻な問題を抱えていた。それは、「この新しい国家を、誰が継ぐのか」という問題だった。
天智には有力な息子、大友皇子がいた。しかし、列島が直面していたのは、唐と新羅という巨大国家に囲まれた国際危機の時代である。単なる血統だけではなく、軍事と官僚と外交を束ねられる統治能力が後継者に求められていた。その点で、天智の弟である大海人皇子(のちの天武)は、軍事力と人脈の両方を持ち、渡来系官僚や仏教勢力とも深く結びついていた。
天智の死後、皇位は形式的には大友皇子に引き継がれた。しかし、大海人はそれを認めず、吉野に下って挙兵する。これが672年の壬申の乱である。この戦争は、単なる「兄の子と弟の争い」ではなかった。白村江の敗北後の日本が、「誰の手で、どの構想で国家を作り直すのか」を決める内戦だった。
天武側には、唐や百済の制度を知る渡来系官僚、仏教勢力、そして畿内・東国の武装勢力が結集した。天智の政権が築いた改革を引き継ぎつつ、それをより徹底した「唐型国家」へと進める構想が、天武の側に集まっていったのである。結果として天武が勝利し、日本の国家づくりの主導権は、ここで決定的に彼の側へと移る。
こうして成立した天武政権のもとで、戸籍、軍制、官僚制、律令、そして神話の再編が同時に進む。天皇とは、単に昔からいた王の名前ではなく、この国家という新たな仕組みの中心に据えられた、新しいタイプの権威だった。言い換えれば、天武は戦争に勝っただけでなく、その勝利を千年続く支配に変える「物語と制度」を発明したのだ。
(天皇制度の発明)
天武が行った国家づくりは、戸籍や軍制のような制度だけでは終わらない。制度は人を動かすが、制度だけでは人の心は揃わない。特に古代は、「なぜこの王に従うのか」という問いに対して、武力や税だけでは答えになりにくい。そこで必要になるのが、王権の正当性を支える物語だ。
ここで言う物語とは、単なる伝説ではない。国家の中心にいる者が、どこから来たのか。なぜその血筋が特別なのか。なぜ列島の諸勢力は、その中心にまとまるべきなのか。こうした問いに対して、社会全体が共有できる説明を与える。これが古代国家にとっての「神話の役割」だった。
天武の時代まで、列島にはいくつもの豪族の系譜と伝承があり、地域ごとに自分たちの始まりがあった。出雲には出雲の物語がある。吉備にも、筑紫にも、東国にも、それぞれの由来がある。つまり、列島には「最初から全国を貫く一本の歴史」が存在していなかった。だからこそ、制度を整えた天武政権は次に、「歴史の一本化」に取りかかる必要があった。
その仕上げが、古事記(712年)と日本書紀(720年)だ。ここで初めて、「神代から連なる唯一の王統」が、文章として固定される。これは単に古い話を書き留めたのではない。列島中に散らばっていた伝承や系譜を集め直し、取捨選択し、整合性が取れるように編集し、「この王統が列島の中心である」という筋書きを作る作業だった。
ここで決定的なのは、神話の頂点に天照大神を置き、その子孫として天皇を位置づけたことだ。天照大神から天孫降臨、そして地上の王統へという一本の流れを作ることで、天皇の権威は単なる現世の勝者ではなく、「天から正統に降りてきた血統」として語られるようになる。これによって、2から3世紀に実際に天皇がいたかどうかとは別に、8世紀初頭の時点で「最初から天皇がいたことにする」ことが可能になる。現実の後から物語を組み立て、その物語を国家の土台として固定する。これが、天武の国家づくりの本質だった。
では、なぜ古事記と日本書紀は2つ作られたのか。内容は似ているが、用途が違うからである。古事記は、神話から始まり、天皇の系譜を一つの流れとして語り、王統の内側に向けて「私たちはこういう国で、こういう家が中心だ」という物語を固める役割を持つ。いわば国内向けの、思想と系譜の核だ。
一方で日本書紀は、より「歴史書らしい」体裁を持ち、年ごとの出来事を整え、外交や戦いの記録も含めながら、国家としての公式の年代記を作る性格が強い。つまり、国内の統合だけでなく、唐や新羅など外の世界に対して「我々はこういう国家で、こういう正統性を持つ」という姿を示すための、公的な看板でもある。2つを並べることで、内向きの統合と、外向きの正当化を同時に達成する。これが二本立てにした理由だと考えると分かりやすい。
ここで一つ、重要な点に触れておく必要がある。日本書紀には、聖徳太子が遣隋使に際して「東の天皇から西の皇帝へ」といった趣旨の書簡を送ったと記されている。これをそのまま事実と受け取れば、7世紀初頭の段階で、倭国はすでに「天皇」という称号と対等外交の意識を持っていたことになる。
しかし、この記述が史実そのものかどうかについては、慎重であるべきだと考える。隋側の史料には同様の文言が確認できず、また制度としての天皇制が整うのは、明らかに天武朝以降だ。そう考えると、日本書紀のこの記述は、当時の事実をそのまま記録したというよりも、8世紀初頭に成立した天皇制国家を、過去へと遡って正当化するための編集であった可能性が高い。
これは日本書紀の信頼性を否定する話ではない。むしろ、日本書紀が「過去を記録する歴史書」であると同時に、「国家の成立を内外に説明するための文書」であったことを示している。天皇という制度は、天武の時代に完成した。しかし日本書紀は、それを突然現れた新制度として描くのではなく、列島の長い歴史の中で育まれてきたものとして語り直すことで、国家の成り立ちに連続性を与えた。
ここで重要なのは、物語が現実の後に編まれているという点だ。それは事実を歪めるという意味ではない。国家が生き残るために必要な、共通の理解の枠組みを社会に与えるという役割を、物語が担っているということだ。そして制度は、その物語を長期にわたって支え、維持するための器になる。天武が作ったのは、軍事的な勝利だけではない。制度と物語を噛み合わせることで、「天皇」という中心を、列島の時間の奥行きの中に定着させる仕組みだった。
この新しい国家の構造を、実際に運用したのが藤原氏だった。ただし藤原という名前は、最初からあったわけではない。彼らの元の名前は中臣氏で、古くから宮廷で祭祀と儀礼を司る一族だった。神にどう祈り、どう言葉を捧げ、どう天と王権をつなぐか。その「作法と言語」を専門に扱うのが中臣の役割だった。
乙巳の変で蘇我氏が倒されると、中臣鎌足は天智・天武の王権と結びつき、この祭祀と正統性の専門家としての地位を一気に高める。やがて鎌足は「藤原」という新しい姓を与えられ、中臣氏は藤原氏として再編される。これは単なる改名ではない。天皇を中心とする新しい国家において、「神話と儀礼を管理する一族」として公式に位置づけられたことを意味する。
蘇我氏が握っていたのは、百済を通じて半島と直結する人と技術のネットワークだった。それに対して藤原氏が握ったのは、天皇の血統と神話をどう語り、どう正当化するかであった。天武のもとで天皇制国家が整備されると、藤原は王になるのではなく、王の正統性を外側から支え、管理する立場を選ぶ。これが、天皇と藤原が分業する二重構造の始まりになる。
その後、藤原氏は天皇の后を出すことで外戚となり、政治の実権を徐々に握る。平安時代の摂関政治とは、この構造が制度として完成した姿だ。かつて西日本や朝鮮半島へと開いていた回路は、白村江の敗北とその後の危機の中で閉じられ、国家の重心は畿内に集まった。その畿内の中心で、「天皇という象徴」を言葉と儀礼で支配したのが藤原氏だった。
ここに、筑紫や百済を起点とする外向きの世界が、なぜ最終的に近畿と藤原へと収斂していったのかの答えがある。外のネットワークが危険になったとき、国家は内に閉じ、その中心を強化する。そして、その中心を意味の上で支配できた者が、長期的な勝者になる。藤原は、まさにその場所にいた一族だった。
藤原と天皇が分業するこの二重構造は、その後の日本を長く安定させた。天皇は神話と血統の象徴として君臨し、藤原をはじめとする公家が政治と制度を運用する。武士が台頭した後も、この枠組みは壊れなかった。鎌倉幕府も室町幕府も、天皇の権威を形式的に認め、その下で実務を担うという形をとった。つまり、武士が政権を握っても、「天皇という中心」と「それを支える京都」という構造そのものは維持され続けたのである。
(地方分権と中央集権の反復)
しかし、この仕組みは時間とともに内側から歪んでいく。公家も武士も、京都の権威を奪い合うようになり、天皇と幕府、将軍と守護大名の関係は複雑に絡み合う。やがて、中心を守るための仕組みが、中心そのものを不安定にしていった。
その歪みが一気に噴き出したのが、応仁の乱だった。1467年からの内戦で京都は戦場となり、室町幕府の権威は崩れ、日本は戦国時代へと入っていく。これは、天武と藤原が作った「象徴と実務の分離構造」が、もはや内部の競合を抑えきれなくなった瞬間でもあった。
ここで起きたのは、「天皇・公家・京都という中心の政治的な弱体化」だ。つまり国家の実務は地方へ分散していく。しかし面白いのは、中心が燃えても中心という概念は消えないことだ。戦国大名が上洛を志向し、権威を欲しがり、最終的に天下統一が「京都と天皇をどう扱うか」に回収されていくのは、天武と藤原が作った二層構造が、まだ生きているからだ。中心が壊れても、中心を欲しがる。権威が弱っても、権威を借りる。これが日本の構造のしぶとさだ。
磐井の乱は、列島の西の窓口を畿内が押さえる分岐点だった。乙巳の変は、半島と結びついた私的ネットワークを切って、制度国家へ付け替える革命だった。白村江は、その改革を必要不可欠にした外圧の衝撃だった。そして天武から記紀へ、天皇は制度と物語として固定された。最後に、藤原はその固定された象徴を外側から運用する仕組みを完成させ、以後の日本史は、その枠組みの上で地方分権と中央集権を振り子のように繰り返す。応仁の乱は振り子が大きく地方へ振れた瞬間だが、それでも中心の物語は壊れなかった。
(日本の深い骨格)
日本史をこの流れで眺めると、天皇とは「最初からあった永遠の存在」ではなく、列島が東アジアの激動の中で生き残るために選び取った、1つの答えだったことが見えてくる。筑紫や出雲や吉備が並び立つ多極の世界は、白村江という外圧の前で持ちこたえられなかった。だから列島は、外のパイプを閉じ、内に中心を作り、その中心に物語と制度を重ねた。その中心に置かれたのが「天皇」だった。
磐井の乱は、外の窓口を畿内に集めるための分岐点だった。乙巳の変は、私的な国際ネットワークを切り、国家のネットワークへ付け替える革命だった。白村江は、その改革を避けられなくした起爆剤だった。そして天武と記紀は、その選択を「永遠の物語」に固定した。藤原は、その物語を現実の政治として運用する役割を引き受けた。
こうして生まれた「象徴としての天皇」と「それを支える実務の中枢」という二重構造は、応仁の乱で一度は崩れながらも、その後も日本の奥底に残り続ける。中心が燃えても、人々はまた中心を求める。その中心をめぐる物語と制度こそが、日本という国の、もっとも深い骨格なのだ。
最新記事の投稿
カレンダー
| 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | ||||||
| 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
| 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
| 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
| 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | |
カテゴリー
リンク
RSS
アーカイブ
- 2026年2月
- 2026年1月
- 2025年12月
- 2025年11月
- 2025年10月
- 2025年9月
- 2025年8月
- 2025年7月
- 2025年6月
- 2025年5月
- 2025年4月
- 2025年3月
- 2025年2月
- 2025年1月
- 2024年12月
- 2024年11月
- 2024年10月
- 2024年9月
- 2024年8月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年4月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2024年1月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年2月
- 2023年1月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年9月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年6月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年9月
- 2021年8月
- 2021年7月
- 2021年6月
- 2021年5月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2021年1月
- 2020年12月
- 2020年11月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年6月
- 2020年5月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2020年1月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年5月
- 2019年4月
- 2019年3月
- 2019年2月
- 2019年1月
- 2018年12月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年9月
- 2018年8月
- 2018年7月
- 2018年6月
- 2018年5月
- 2018年4月
- 2018年3月
- 2018年2月
- 2018年1月
- 2017年12月
- 2017年11月
- 2017年10月
- 2017年9月
- 2017年8月
- 2017年7月
- 2017年6月
- 2017年5月
- 2017年4月
- 2017年3月
- 2017年2月
- 2017年1月
- 2016年12月
- 2016年11月
- 2016年10月
- 2016年9月
- 2016年8月
- 2016年7月
- 2016年6月
- 2016年5月
- 2016年4月
- 2016年3月
- 2016年2月
- 2016年1月
- 2015年12月
- 2015年11月
- 2015年10月
- 2015年9月
- 2015年8月
- 2015年7月
- 2015年6月
- 2015年5月
- 2015年4月
- 2015年3月
- 2015年2月
- 2015年1月
- 2014年12月
- 2014年11月
- 2014年10月
- 2014年9月
- 2014年8月
- 2014年7月
- 2014年6月
- 2014年5月
- 2014年4月
- 2014年3月
- 2014年2月
- 2014年1月
- 2013年12月
- 2013年11月
- 2013年10月
- 2013年9月
- 2013年8月
- 2013年7月
- 2013年6月
- 2013年5月
- 2013年4月
- 2013年3月
- 2013年2月
- 2013年1月
- 2012年12月
- 2012年11月
- 2012年10月
- 2012年9月
- 2012年8月
- 2012年7月
- 2012年6月
- 2012年5月
- 2012年4月
- 2012年3月
- 2012年2月
- 2012年1月
- 2011年12月
- 2011年11月
- 2011年10月
- 2011年9月
- 2011年8月
- 2011年7月
- 2011年6月
- 2011年5月
- 2011年4月
- 2011年3月
- 2011年2月
- 2011年1月
- 2010年12月
- 2010年11月
- 2010年10月
- 2010年9月
- 2010年8月
- 2010年7月
- 2010年6月
- 2010年5月
- 2010年4月
- 2010年3月
- 2010年2月
- 2010年1月
- 2009年12月
- 2009年11月
- 2009年10月
- 2009年9月
- 2009年8月
- 2009年7月
- 2009年6月
- 2009年5月
- 2009年4月
- 2009年3月
- 2009年2月
- 2009年1月
- 2008年12月
- 2008年11月
- 2008年10月
- 2008年9月
- 2008年8月
- 2008年7月
- 2008年6月
- 2008年5月
- 2008年4月
- 2008年3月
- 2008年2月
- 2008年1月
- 2007年12月
- 2007年11月
- 2007年10月
- 2007年9月
- 2007年8月
- 2007年7月
- 2007年6月
- 2007年5月
- 2007年4月
- 2007年3月
- 2007年2月
- 2007年1月
- 2006年12月
- 2006年11月
- 2006年10月
- 2006年9月
- 2006年8月
- 2006年7月
- 2006年6月
- 2006年5月
- 2006年4月
- 2006年3月
- 2006年2月
- 2006年1月
- 2005年12月
- 2005年11月
- 2005年10月
- 2005年9月
- 2005年8月
- 2005年7月
- 2005年6月
- 2005年5月
- 2005年4月










