
フグレンコーヒーと日本と東京
2026年2月13日
早嶋です。約2300文字。
フグレンコーヒーをご存知だろうか。
ノルウェー・オスロ発のカフェブランドだ。1963年創業。もとは小さなコーヒーショップとして始まった。ノルウェー語で「鳥」を意味する「フグレン」。その名の通り、ロゴには渡り鳥が赤く描かれている。やがてブランドは再構築され、北欧ヴィンテージ家具とスペシャルティコーヒー、そして夜にはカクテルバーへと姿を変える二面性を持つ空間へと進化した。
コーヒーショップから始まり、空間を商品として、時間の過ごし方を提案するノルウェーブランドだ。
現在はノルウェー本国に加え、日本、韓国、インドネシアなどに展開している。店舗数は世界で十数店舗規模で小さい。ただし、その展開がユニークだ。急拡大するチェーンではなく、直営を基本とし、世界観を崩さないことを最優先にしている。広告で拡散するのではなく、じわじわと確実に浸透させる。空間を商品としている理由は、家具の販売だ。勿論、豆の販売も、空間にフォーカスしたグッズ販売もある。しかし、フグレンコーヒーが提供しているのは、「北欧の時間」をその土地に提供しているのだと思う。
経営は非公開であるため、売上や利益の詳細は開示されていない。そこで業界水準から推測する。都市型スペシャルティカフェの客単価は900円から1,400円程度だ。顧客の幅は、1日200人から800人程度で、年間約360日営業とすれば、1店舗あたりの年商は概ね6,000万円から2億5,000万円程度のレンジだ。立地が強ければ3億円台も可能だ。
日本には東京を中心に複数店舗があり、神奈川、京都、福岡に展開している。仮に直営6店舗が平均1.5億円の年商と仮定すれば、直営合計で約9億円。さらに焙煎・卸・EC・物販を加味すれば、日本事業全体で12億円から18億円規模という推測は現実的だろう。巨大企業ではないが、文化ブランドとしては十分なスケールだ。
ところで、フグレンコーヒーは、なぜ日本を選んだのだろうか?
理由は単純だが深いと思う。北欧の世界観が、世界で最も正しく評価される市場が実は日本なのだ。日本は「デザインを消費できる国」だ。単に機能や価格ではなく、背景や思想に価値を見出す傾向がある。静けさ、余白、ミニマリズム、経年変化といった概念を理解する文化的素地が既にあるからだ。北欧ブランドにとって、日本は売上市場であると同時に、審査市場でもある。日本で受け入れられれば、世界で通用するという一種の認証が得られるのだ。
さらに、日本は小規模ブランドが戦える数少ない先進国市場でもある。アメリカは巨大であるが競争が過密すぎる。欧州は文化的親和性はあるが市場規模が小さい。新興国は単価が合わない。その中で日本は、単価が成立し、文化消費が成熟し、かつ多様なブランドが共存できる稀有な市場なのだ。
そして何より、日本は丁寧な直営展開が可能な国だ。スタッフ教育の水準(国民のベース素養)が高く、空間の設計思想を確実に守ることが可能だ。急拡大よりも世界観維持を優先するフグレンの経営哲学と相性が良いのだ。
その結果、日本は単なる海外拠点ではなく、アジア展開のハブとなる。ノルウェーから直接アジア各国へ飛ぶよりも、日本でブランドを確立し、その信用を持って広げる方が合理的なのだ。日本で成立した北欧ブランドは、アジアでも通用する。そうした戦略的意味を持っていると思う。
ここで比較対象として、スターバックスを挙げてみよう。
スターバックスは飲料(砂糖と牛乳と少しのコーヒー)企業であり、オペレーションの標準化とスケール拡大を武器に展開する。サードプレイスを提供する戦略がはまり世界中に展開しているが、実際は沢山のメニューから、何を飲ませるかが中心にある。一方、フグレンはどんな時間を過ごすかを販売しようとしている。回転率ではなく滞在価値。標準化ではなく個性。拡大しないことが強さになるモデルだ。つまり大企業は模倣出来ない対局だ。
スタバは既に生活インフラになっていて、特別と言いながらも大衆より少しアッパーの日常になっている。一方で、フグレンは文化インフラとしての挑戦を始めたばかりだ。規模は全く比較にはならないが、思想は対照的でとても興味深い。
そんなフグレンが、なぜ福岡に2店舗目を出すのだろうか?地方都市は他にもある。札幌、仙台、金沢、広島、岡山、熊本、鹿児島等々。しかし福岡は別格と見たのだろう。
福岡は若い。人口が増え、転入超過で、感度層の密度が高い。都市がコンパクトで、カルチャーが歩いて繋がる立地だ。そしてアジアに最も近い大都市であり、国際都市としてのポテンシャルは古代からミャクミャクと続く。海外から見れば、福岡は「第二の東京候補」に映る可能性があるのだ。
博多駅周辺は交通の結節点であり空港も近く、ブランドの入口となる。観光客やビジネス客に触れる場所だ。一方、赤坂・けやき通りエリアは生活圏であり、文化圏だ。大濠公園や美術館に近く、静けさがあり、都市の中に垣間見られる生活の空間が隣接する。繁華街から少し離れた余白のある立地。フグレンの思想と重なったのだ。
1店舗目が認知を作り、2店舗目が根付かせる。東京の展開を見ていると、おそらく3店舗目と複数展開を福岡でも視野に入れている可能性があると思う。店舗数をKPIに置いた展開ではなく、自社のブランドを確立しながら戦略的な配置行為を行うような感覚が見て取れる。
日本という市場でブランドを磨き、福岡という都市で文化を定着させる。おそらく、その次のステージで、アジアへと視線を伸ばすのではないだろうか。海外の目線から見たとき、福岡は単なる地方都市ではなく、既に東京に次ぐ拠点候補として映っているのだ。
オーバーツーリズムの課題は都市設計の不足
2026年2月9日
早嶋です。約3,000文字です。
日本は、海外からの観光客を増やそう!とか、インバウンドの需要で経済を回そう!と連呼している。実際、日本を訪れる外国人は年間約4,000万人規模に達し、旅行消費額は8兆円を超えている。自動車や半導体に並ぶ外貨獲得源と言ってもよい規模だ。ただその数字の裏にはどこの国も辿ってきた、そして似たような問題があるのだ。
まずは、先進国の問題と解決状況をみてみよう。ヨーロッパの観光都市は、日本よりも先にこの局面を経験し現在進行系で対応している。
バルセロナでは、観光客向け短期賃貸が増え、住宅が投資対象になった。家賃は上昇し、元から住んでいた人が住み続けられなくなっている。観光が地域経済を潤す一方で、生活者が退出していく構図が生まれる。結果として市は、2028年までに観光用アパートメントを実質禁止する方向へ舵を切っている。ここに至るまで実に10年以上も抗議や裁判、政治的議論が続いた。
ベネチアでは別の形で限界が露呈した。日帰り観光客が集中し、公共空間が生活空間を飲み込んでしまった。そこで市は2024年から日帰り客に入域料を課す実験を始めた。クルーズ船も歴史地区近くへの入港を制限した。これも一気には決まらず、長い時間をかけて段階的に動いていて、解決の糸口は現在新進行形だ。
アムステルダムでは観光客増による迷惑行為や混雑が問題化し、新規ホテルの増設をほぼ止める政策を導入した。観光は増やす対象ではなく、「都市の住みやすさの範囲内で管理する対象」へと位置づけが変わっている。2035年を一つの節目とした長期の見直しがまさに進み始めている。
どの都市も、観光を否定したわけではないが、ある地点を越えたとき、観光は経済の話ではなく、都市設計の話になることを認識したのだ。
日本でも同じ兆候が出始めている。元々そこに住んでいた人が住み続けにくくなってきた。通勤や通学の足が混雑で使いにくくなる。ゴミが増え、街の管理コストが跳ね上がる。路上飲食や騒音など、日常のルールがゆるみ、自然景観が摩耗していくのだ。
ただ、これは観光客のマナーの問題にすり替えてはいけない。観光客が「悪い人」というのは議論が浅い。真因は、観光客を呼ぶだけよんで、都市の容量を増やす調整や発想がそもそもないことだ。道路の幅は変わらない。ゴミ処理能力も急には増えない。住宅の供給もすぐには追いつかない。それでも観光客は流動的なので、急に増える。企業で言えば、設備も人員も増やさずに売上だけが倍増したようなものだ。どこかが破綻するのは当然の結末なのだ。
シンガポールやスイスが興味深いのは、この順番が逆な点だ。観光客を呼ぶ前に、生活のルールと空間の設計を先に想定している。
シンガポールでは、住宅の短期賃貸は原則として厳しく制限されている。一般的な住宅は3か月未満の短期滞在用途で貸すことができない。観光需要がそのまま住宅市場に流れ込まない構造を先に作っているのだ。観光は歓迎するが、「住む場所」と「泊まる場所」は制度で分けられている。これは観光政策ではなく、都市計画と住宅政策の領域で決められている点が象徴的だ。さらに、街の設計思想もはっきりしている。観光拠点は商業・MICE・エンターテインメントエリアに集中させ、住宅地区は静穏性を優先する。観光客が多いエリアと生活エリアを自然に分ける都市構造になっている。
スイスも似ているが、焦点は住宅より自然環境だ。アルプスの観光地では、交通流入を管理する仕組みが普通に議論される。ラウターブルンネンのような渓谷地域では、観光客の急増を受けて入域課金の検討が進められたことがある。ゼルマットのような観光地では、街の中心部は原則自動車の乗り入れを制限し、交通そのものを設計している。自然が観光資源である以上、「景観が摩耗する前に止める」という考え方が制度に織り込まれている。
どちらの国も共通しているのは、「観光を止める」のではなく、「ここまでは許容できる」という線を先に引いていることだ。住宅に線を引いたのがシンガポールで自然環境に線を引いたのがスイスだ。そのルールがあるから、観光を歓迎できる。観光客が来てからルールを作るのではなく、観光客が来る前に、都市がどこまで耐えられるかを考えて対策しているのだ。
この順番の違いが、後になって大きな差になっていく。日本の課題は、観光が増えたことではなく、観光を都市政策として扱っていないことなのかもしれない。観光税はあるが、市町村ごとにバラバラで、使い道が見えにくい。住民の生活環境の改善に使われている実感が薄い地域もある。民泊は制度化されたが、「住宅を守る」という視点はまだ弱い。観光客数の目標はあるが、「この都市がどこまで受け入れられるか」という上限の議論はあまり見ない。拡大の議論はあるが、容量の議論が少ないのだ。
これは観光の問題に見えて、実は都市経営の問題だと思う。市場が広がることは良いことだが、市場は、社会の上に存在している。社会が持つ容量を超えて市場だけを拡大すると、摩擦が起きる。当然だ。そして、その摩擦は、まず住民の生活に影響を与える。ヨーロッパの都市が制度を動かすまでに10年以上はかかっている。抗議も、政治的摩擦もあった。それでも動かざるを得なかったのは、生活が揺らいだからだ。日本はいま、ちょうどその手前にいるように見える。
観光を歓迎することと、人が暮らせる都市を守ることは、本来対立するものではない。ただ、設計がないと両立しない問題だと思う。観光客4,000万人という規模に入った今、さらにその目標を高めるのであれば、この設計をどう整えるかは、観光政策というより、都市の未来をどう描くかという話に近いのかもしれない。
日本政府観光局(JNTO)「訪日外客統計(訪日外客数)」 https://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/
観光庁(国土交通省)「訪日外国人消費動向調査」
https://www.mlit.go.jp/kankocho/siryou/toukei/shouhityousa.html
Comune di Venezia(ベネチア市)“Contributo di Accesso alla Città Antica”
https://cda.ve.it/en/
Ajuntament de Barcelona(バルセロナ市)観光住宅規制関連政策資料
https://ajuntament.barcelona.cat/
City of Amsterdam “Tourism in Balance Policy”
https://www.amsterdam.nl/en/policy/policy-tourism/
Urban Redevelopment Authority (URA), Singapore
https://www.ura.gov.sg/
Swissinfo / スイス自治体関連情報 スイス観光地におけるオーバーツーリズム対策報道
https://www.swissinfo.ch/
Reuters(国際報道) 欧州各都市の観光規制・住宅問題に関する報道記事
https://www.reuters.com/
財政議論がかみ合わない構造
2026年2月6日
早嶋です。約3200文字です。
日本の財政をめぐる議論は、いつも同じ場所をぐるぐる回っている。「財務省は緊縮路線で行くべきだ」と言う人もいれば、「PB(プライマリーバランス)目標が経済を止めている」と批判する声もある。一方で、「国は通貨を発行できるのだから、家計の借金とは違う」といった反論も出てくる。
どれも一理ある。ただ、それぞれが見ている前提も、時間軸も、リスクの置きどころも異なっているだけなのだ。
財政規律を重視する人は、「信認が崩れた後」の世界を見ている。PB批判をする人は、「いま、需要が不足している現実」を見ている。そして、通貨発行権を重視する人は、「制度として何が可能か」を見ている。
本来、これらは互いに補完関係にあるはずだ。ところが実際には、同じ土俵で正解を争おうとするため、話が噛み合わなくなる。そして、その矛先が財務省に向かっていく。
「財務省は緊縮しか考えていない」「頭がいいはずなのに、なぜ分からないのか」といった具合に。
だが、この理解も少しズレている。財務省の中で、「日本は自国通貨建て国債だから破綻しない」という事実を知らない人はいないだろう。それでも彼らが財政規律を重視するのは、「返せなくなること」を恐れているからではない。
彼らが本当に恐れているのは、政策のコントロールが効かなくなることだ。
つまり問題は「破綻」ではない。「制御不能」の状態である。ここで言う制御不能とは、国が借金を返せなくなるという意味ではない。金利や為替といった市場の反応が急変し、政府が「使う・使わない」を自分で決められなくなる状態を指している。
平時であれば、国は状況に応じて財政支出を増減させることができる。だが市場の信認が揺らぐと、「いま景気対策が必要かどうか」といった判断とは無関係に、金利上昇への対応を迫られる。つまり、政策の優先順位を自分で決められなくなってしまう。財務省が恐れる「制御不能」とは、このことだ。
しかし、この「制御不能」という説明が、一般向けに正面から語られることはほとんどない。理由は単純ではない。この話は確率論的で分かりにくく、しかも「どの程度のリスクを許容するか」という価値判断を避けて通れないからだ。官僚は選挙で選ばれた存在ではない以上、その判断を国民に向けて語る立場にはない。
そこで用いられるのが、「国の借金は家計と同じ」という比喩である。この比喩に強い違和感を覚える人も多いだろう。理論的には正しくないからだ。
だが、ここで問題にされているのは正確さではない。家計という比喩は、誰にでも分かる。借金は怖い。収入以上に使い続けるのは危うい。将来にツケを回すのは良くない。そうした感覚を、説明と同時に内面化させることができる。
つまりこれは、事実を厳密に説明するための言葉ではなく、財政規律を社会に浸透させるためのフレームなのだ。内部では市場と金利を見て、外部には生活感覚に近い言葉で語る。説明のためのフレームと、実際の運用フレームは意図的に分けられている。ただ、そのズレの蓄積が、財務省への不信感につながっている。
もう一つ、よく出てくる疑問がある。「財務省は税収が足りないと言うが、なぜ長年続いたデフレにはあまり触れないのか」さらに、「なぜ国家として保有している資産の話をしないのか」という問いだ。
これらについても、財務省が事実を理解していないわけではない。デフレが税収を押し下げてきたことも、国家に相応の資産があることも、彼らは十分に承知している。
それでも、これらの論点が前面に出てこないのには理由がある。デフレを正面から語れば、議論は必ず「需要が足りないのではないか」という方向に進む。需要不足が原因であれば、次に問われるのは「では国はどこまで財政出動をすべきか」という問題だ。これは、PB目標、つまり借金に頼らずに財政を回すという前提と正面から衝突してしまう。
国家資産についても同様である。帳簿上は多くの資産が存在するが、その多くは簡単に現金化できない。売却すれば社会的・政治的な反発が生じるものも多く、財政運営の機動力としては使いにくい。
そのため財務省は、国全体の資産額よりも、毎年確実に使えるお金の流れ、すなわちキャッシュフローを重視する。日々の財政運営という観点から見れば、一定の合理性はある。
ただし、その合理性には代償もある。ストックとしての国の姿が語られなくなることで、国全体の余力や構造が見えにくくなる。結果として、議論は「足りない」「削るしかない」という方向に傾きやすくなる。
こうした状況が続くと、財政の話は次第に「誰が悪いのか」という問いにすり替わっていく。制度や前提の問題であるはずの議論が、いつの間にか官僚個人の姿勢や思想の問題として語られてしまうのだ。
しかし、官僚個人の能力や善悪は、この種の議論から切り離すべきである。官僚は、与えられた法律と制度の中で合理的に動く存在だからだ。ゴールを疑わないのではない。疑うこと自体が、役割に含まれていない。
官僚が前提とする法律や制度は、すべて過去の時代背景の中で作られたいわば「公理」である。そして、日本の財政思想の根底には、戦後の国家設計が関わっている。
戦後日本は、「二度と国家が暴走しない」ことを最優先に設計された。その象徴が憲法9条であり、軍事力の行使を厳しく制限することで、国家が軍事的に拡張していく道を制度として封じた。
さらに、ブレーキは軍事だけではない。財政についても、同様の思想が組み込まれている。それが財政法4条だ。
この条文は、国債の発行を原則として公共事業などの建設的支出に限定し、赤字を補うための国債発行を例外扱いとする考え方を制度化している。要するに、「借金によって国家が肥大化しない」ための歯止めである。
この二つを並べて見ると、戦後日本の国家像が浮かび上がる。日本は、軍事においても、財政においても、国家が前に出すぎないように設計された国なのだ。
したがって、PB重視や均衡財政志向は、最新の経済理論から導かれた結論というより、国家が自らに課したブレーキの延長線上にある。
官僚は、そのブレーキが前提である国家を、ただ忠実に運用しているにすぎない。
だから、日本の財政議論は、経済学の立場の違いとして語ろうとすると、必ず行き詰まる。緊縮か、積極財政か。PBは守るべきか、見直すべきか。そうした問いは重要だが、いずれも、すでに決められた前提の上での議論にすぎない。
本当に問うべき問いは、もう一段深いところにある。
日本は、戦後に設計された「自己拘束国家」のままでよいのか。軍事だけでなく、財政においても、国家が自らを強く縛る設計を続けるのか。それとも、社会構造や国際環境が大きく変わった今、その前提そのものを更新するのか。
この問いに答えることは、官僚の役割ではない。官僚は、与えられた公理の中で合理的に動く存在だ。法律を変え、前提を問い直すことができるのは政治である。そして、その政治を支え、方向づけるのは、本来、私たち国民だ。
しかし、この段階に議論が進もうとすると、必ず別の空気が立ち上がる。「それは財務省と戦う話なのか」「誰の責任を問うのか」そうした問いが前面に出た瞬間、議論は止まる。
だが、ここで問われているのは、誰が正しいかでも、誰が悪いかでもない。問われているのは、どの前提を生き続けるのかという選択である。
日本の財政論が空回りし続けてきた理由は、誰かが間違っていたからではない。議論の焦点が、ずっと手前の次元で止められてきたからだ。
本当に問うべきは、「緊縮か、拡張か」ではない。日本は、国家を自ら縛るという戦後の選択を、いまも正解として生き続けるのか。それとも、その選択を、あらためて引き受け直すのか。だ、どうだろう。
手触りで生きる、概念で生きない。
2026年2月2日
早嶋です。
経営は、意思決定の連続だと言われる。数字、リスク、将来予測、市場環境。どれも大事だ。だが現場を長く見ていると、もう1つ別の層がある。それは「どのような在り方でその場に立っているか」だ。
多くの経営者や管理職は、未来を考えることが仕事になっている。3年後、5年後、株主、評価、失敗したらどうなるか。先を読む力は勿論確実に必要だ。ただ、それが強くなり過ぎると、今日の自分が消えていく。今この瞬間の実感がなくなり、概念の中で生き始めることになる。失敗のシミュレーションばかりが精密になり、日々の行動が萎縮する。これは合理的に見えて、実は組織を弱くする。
禅の世界では「只管打坐(しかんたざ)」という言葉がある。道元 が説いた、ただ坐るという実践だ。何かを得ようとしない。ただその場に在る。これは経営とは関係なさそうに見えるが、実は近い。打算を一度横に置き、今起きていることを引き受ける姿勢だ。未来を制御しようとする緊張を手放した時に、かえって全体が見える。経営も似ている。常に結果を掴みにいこうとすると視野が狭くなる。
人は嫌なこと、怖いこと、責任が重いことから逃げたくなる。それは自然な反応だと思う。ただ逃げた後に残るものがある。「あの時向き合わなかった」という記憶だ。この記憶は、自信を削り続ける。表面的には穏やかに見えても、内側では自分を信用できなくなる。組織のトップがこれを抱えていると、決断が細くなる。言葉に重みがなくなるのだ。
逆に、結果がどうであれ、怖さを抱えたまま進んだ経験は残る。失敗しても残る。そこには「自分はあの場に立った」という感覚がある。この感覚が経営の土台になり人を作る。部下は、論理よりもこれを感じる。覚悟の手触りのようなものだと思う。
マルティン・ハイデガー は、人間を「死に向かう存在」だと語った。極端な話に聞こえるが、意味は単純で、有限性を自覚した時に初めて人は自分の選択に責任を持つということだ。経営も同じだと思う。常に正解があると思っている間は、決断は他人事になる。どの選択にも傷があると知った時、初めて自分の決断になるのだ。
「今を楽しむ」という言葉があるが、これは軽い意味ではない。楽なことを選ぶことではない。怖さや痛みを含め、その場に参加することだ。経営の現場は楽しくない瞬間が多い。それでもそこに居続ける。その時間を引き受ける。そこにしか手触りは生まれない。
言語学でも似た考え方がある。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン は、言葉の意味は使用の中にあると言った。頭の中の定義ではなく、実際の行為の中で意味が立ち上がる。経営理念も同じだ。文章として掲げるのではなく、苦しい局面でどう振る舞ったかの積み重ねが、その会社の意味になる。
未来を考え過ぎて今を失うな。予測は必要だが、予測の中で生きるな。
怖さがある場面で逃げなかった経験や、言いにくいことを言った経験、そして責任を引き受けた経験。これらが積み重なった人の言葉には力がある。役職からではなく、生き方から出る力だ。経営戦略の前に姿勢がある。姿勢は思考からではなく、経験からつくられる。経験は逃げなかった場面からしか生まれない。乱暴に言えば、これを避け続けると、どんなに賢くても組織は弱い。逆に向き合う人が上にいる組織は、多少不器用でも太くて強い。
結局のところ、経営とは未来を当てる仕事ではなく、今この場にどんな態度で立つかを問われ続ける仕事だ。その積み重ねが、あとから振り返った時に「戦略」や「成功」に見えるのだ。
モチベーションは下げないようにする
2026年2月2日
早嶋です。2200文字。
モチベーションの大前提は次の視点をもつことだ。モチベーションは「上げる」ものではなく、「下げないようにする」という点だ。いわゆる衛生要因の発想に近い。給与、安全、労働時間、人員配置、仕事の明確さ。こうした土台が保てていない状態では、人は前向きになる前に防御モードに入る。やる気以前に、保身が前提にくということだ。これはいわば「何によって変わるか」、つまり外的条件の話になる。モチベーションのWhatの領域だと言ってもいい。環境が人の状態を左右するのは間違いない。ただ、ここだけ整えても、人が自分から動き出すとは限らない。
モチベーションには、「どう関わるか」のHowの領域もある。同じ仕事でも、上司の関わり方で部下のモチベーションが変わるのだ。上司の関与があるか無いかを、部下が感じるか否かで、モチベーションが変わる。承認欲求であるとか、期待なんかが関連する。あいつは評価されて、俺は評価されていないなどの公平理論の文脈にもつながる。また、仕事をしている中で「昨日よりもできるようになった」と感じられるかどうかも大きい。学習理論や強化理論の話になるが、要は自分の行動と結果がつながる実感があるかどうかだ。見られている、認められている、成長している。このHowの領域は、まさに上司が如何に部下と関わるかの世界だ。
そして、3つ目がある。最も根源的な問いだ。それは、なぜ人は内側から動き出すのか、というWhyの領域になる。最近の心理学的なアプローチでは、モチベーションの源泉は外側ではなく内側にあるとされる。自己肯定感、心理的安全性、自分はここにいていいという感覚が前提にあり、その上で「自分は役に立っている」「必要とされている」「任されている」と感じたとき、人は自発的に動き始めると言う。つまりモチベーションは、命令で引き出すものではなく、条件が整ったときに内側から湧いてくるものなのだ。
What(環境)、How(関わり方)、Why(内側の状態)。この3層を分けて考えると、やる気がない人を「性格」のせいにしなくて済む。多くの場合は、その人の問題ではなく、環境か関わり方か、あるいは自己効力感が育っていないだけなのだ。
マネジメントと議論を繰り返している中で、現場で良く起きている事例をいくつか見てみよう。
例えば、建設現場だ。無理な工程がやる気を奪う。これはWhatが欠けている状態の事例だ。あるプラント工事の現場、工程が詰まり納期が押している、人員も不足する、残業が続いている、作業員の一人が次のように発言する。
「言われたことはやりますけど、もう考える余裕がないです。」
これは怠慢ではない。明らかにベースが崩れている状態だ。安全リスクが高く、体が疲れ切り、段取りが見えない。この状態で「やる気出せ」は無理だ。この状況をクリアするための取組として行ったのは、気合を出すことではない。工程の組み換えと応援要因の追加だ。現場からは状況の理解とともに自分たちの作業工程の安全性を守っているという態度を見て一定の心の状態に戻ったのだ。しばらくすると、現場から自然に改善提案が出始める。やる気は「作る」より「出せる状態を作る」ほうが早いのだ。
次は、インフラ整備の現場だ。これは上司の眼差しが届いていない、放置されている感覚から来た事例だ。つまりHowによるモチベーションの低下だ。道路保全チームの若手。彼は黙々と仕事をするが、改善提案をちっとも出さなかった。会社は、一定期間に必ず提出するルールを持っていたのにだ。そして、上司は「受け身なタイプ」として部下にレッテルを張っていた。
マネジメントとモチベーションや部下との関わり方の議論をした後、上司は自分から部下に声をかける行動を始めた。「この前の誘導、事故ゼロだったな。あれ、お前の配置判断良かったぞ。」と。若手は少し驚いた顔をしたそうだ。「見てたんですか?」的な。その後、ヒヤリハットの報告が少しづつ増えたそうだ。承認は甘やかしの側面と捉える場合もあるが、状況や部下によっては、自信の存在の確認にもなるのだ。
清掃会社の事例だ。自分は価値がないという思い込み(Why)だった。大型施設の清掃リーダー。ベテランだが常に次のような発言をしていた。「自分なんて裏方ですから。」と。幾分自分たちの仕事を下にみた感情だった。やはりトレーニング中の上司から以下のような話を切り出してもらった。「この施設、クレーム少ないのはお前の段取りのおかげだと思うぞ。」的な。本人は黙った後、ぽつりと言った。「そんなふうに言われたの初めてです。」と。それ以降、若手への指導が増えたと言う。人は「自分が役に立っている」と感じた瞬間に変わる場合もあるのだ。
事象や状況は変われど、多くの現場でも起きているのは同じことだ。モチベーションが下がるのは「無力感」が強くなったときだ。モチベーションが動くのは「自分は役に立っている」と感じたときだ。上司の仕事はやる気を入れることではなく、無力感を減らすことだ。環境を整え、関わり方を変え、その人の中にある「使っていない力」を引き出してあげるのだ。観念的だが、そんなマネジメントもあると思うのだ。
顧客経済圏の覇者は、AIとロボットを融合させる、その結果、技術思考の会社は常に部品として見られ買収対象になる
2026年1月29日
早嶋です。約1.8万字と長いです。
昔は、良いものを作れば勝てた。今は違う。顧客の日常に入り込み、提供サービスは使われ続け、支払いが耐えない仕組みを持つ企業が圧倒的な勝者だ。企業は顧客の使用ログを取り続け、それらを活かして更に、顧客の利便性をあげるための価値を提案する。そのような企業は、将来キャッシュフローが増加するため企業の価値は上がり株価が上がる。その株価を武器に、関連する周辺事業を買収して更に経済圏を広げる。業界の境界は薄れ、通貨に近い領域(決済・ポイント・信用)の奪い合いが始まる。そして次は、AIがロボットとして現実世界にインストールされ、経済圏の端末にシフトする。そこで問われるのは「技術があるか」ではない。「顧客経済の主権」を持てるかだ。持てなければ、技術は称賛されながらも部品として組み込まれるのだ。
顧客接点を重視する企業が勝ち続ける
今後、大企業の勝ち方は変わっていく。正確に言えば、企業が「何を取りにいくか」が激変している。かつては、良い商品をつくり、良い機能を積み上げ、その結果として売上を伸ばすことが王道だった。もちろん、いまでも商品は重要だ。しかし近年、成長している企業の多くは、商品そのものよりも先に「顧客とのつながり」を最重要KPIに置いているように見える。
ここで言う顧客とは、単なる会員数やユーザー数のことではない。顧客の生活の中で、あるいは現場の仕事の中で、その企業が提供する仕組みが使われ続けている状態のことだ。使われ続けるということは、支払いが継続し、使用ログが蓄積され、それが改善に回され、さらに周辺の価値提供へと拡張されていくということを意味する。企業は、顧客の時間と習慣、そして最終的には財布の中に入り込むことを目指しているのだ。
では、なぜ企業はそこまでして「顧客を取りにいく」ようになったのかだ。それは、顧客との関係性を起点にしたビジネスモデルが、構造的に、従来の製品ビジネスよりもはるかに強い成長カーブを持つようになるからだ。この差を生んでいるのが、ハードとソフトの性質の違いだ。
ハードの事業は投資に対して比例して売上が伸びる。売上は(台数×単価)に縛られ、製造能力、在庫、物流、販売網がボトルネックになるかだ。一方でソフトは、一度作り上げれば、コピペ(複製)して通信で届けるコストがほぼゼロに近い。限界費用がほとんどかからないため、同じ仕組みを多くの人に配るほど利益率が上がりやすく、成長のカーブも比例ではなく自乗に近づいていく。
さらに重要なのは、ソフトは「売り切り」である必要がないことだ。むしろ使用を前提に提供し、サブスクや従量課金に寄せることで、顧客が実際に問題を解決している瞬間、つまりリトルハイアを合理的に観測できるようになるのだ。
売り切りの商品を買ってもらって終わり、ではない。使ってもらい、使われ方を観測し、改善し、さらに価値を足す。その循環が回り始めると、顧客の問題解決は深まり、関係性は強くなる。顧客にとって利便性が高く、その商品から離れる必要はなくなる。従って企業は、一定の売上が計画的に見込める。そのため企業は次の価値提供を計画的に設計できるのだ。だからこそ「商品を売る」よりも先に、「顧客を取りにいく」企業が増えているのだ。
その結果、こうした企業は将来のキャッシュフローを高い確度で見通せるようになる。顧客が離れず、使われ続け、そこから新しい価値が生まれ続ける構造を持っているからだ。だから資本市場は、その企業の将来に高い期待を置き、株価も高くなるのだ。顧客を取りにいく企業の株価は高くなりやすい。市場が見ているのは「今の売上や利益」よりも「将来のキャッシュフロー」なのだ。そして、将来のキャッシュフローを最も確度高く見積もれるのは、すでに顧客の習慣と財布を握っている企業だ。
サブスクの企業が評価されるのは、売上が毎月積み上がるからだけではない。リトルハイアの情報を持ち、その情報を使って、顧客あたりの価値提供を増やせるからだ。顧客が何に困り、どう使い、どこで離脱し、何が刺さるのか。これがわかれば、改善も、追加提案も、金融の設計もできる。改善が回ればさらに継続率が上がり、継続率が上がればLTVが伸び、LTVが伸びれば株価が上がる。株価が上がれば資金調達が容易になり、買収も仕掛けやすくなる。これが勝利の方程式になっている。
そしてここが重要だ。高い株価は「結果」ではなく「武器」になることだ。株価が高い企業は、ロールアップで周辺領域を取り込める。ここで言うロールアップとは、株式交換や買収を通じて、周辺の企業や技術を次々と自社の中に取り込んでいく成長戦略のことだ。株価が高い企業は、自社の株を通貨として使い、現金をあまり使わずに他社を買うことができる。技術やノウハウを買い、顧客接点を買い、規制対応のチームすら買う。そうすると成長の速度が上がり、さらに株価が高くなる。資本市場が成長の燃料を供給し、企業がそれを使って領域を拡張する。だから、顧客を取りにいく企業は、ますます勝ちやすくなるのだ。
(産業の境が曖昧になり独自の経済圏が誕生する)
今後、産業の境が曖昧になるのは当然だ。昔は「銀行は銀行」「通信は通信」「小売は小売」だった。しかし顧客の財布と習慣を握る企業は、顧客の問題解決に必要な周辺領域へ事業を拡大する。決済を握ればローンができる。ローンができれば保険ができる。保険ができれば投資ができる。投資ができれば、購買の入口としてのECや広告が欲しくなる。広告が欲しければ、検索やOSが欲しくなる。こうして、領域が連鎖するからだ。
つまり、企業は「隣の産業に進出している」のではない。顧客の問題解決を軸に、連続させて取り組んだ結果、産業の境界線の上を超えてしまっていたのだ。境界が消えるのではなく、昔の業界人が考えた境界の意味が変わるのだ。顧客の生活は一つであり、顧客の財布も一つだからだ。
産業の境が薄くなると、次は「通貨」に近い領域の奪い合いが勃発する。ポイント経済がその典型だ。ポイントは割引のように見えて、実態は経済圏の通貨だ。貯まる、使える、交換できる、優遇条件が変わる。ここに信用が乗ると、実質的な通貨にさらに近づく。この構造が、最も早く、かつ大規模に可視化されたのが中国だった。
中国の話になると、よく「社会信用システム」という言葉が出てくる。少し物々しく聞こえるが、実態はもっと現実的な仕組みだ。中国では、たとえば裁判で「お金を返しなさい」と命じられたのに、それを無視し続ける人がいる。そのような人たちは「失信被执行人」と呼ばれ、一定のリストに載る。すると、高額な飛行機のチケットが買えない、ぜいたくなホテルに泊まれない、といった制限がかかる。要するに、「約束を守らない人は、経済活動がやりにくくなる」仕組みが、制度として組み込まれているのだ。
ここでよくある誤解は、「中国では国民一人ひとりに点数がつけられている」というイメージだ。しかし実際には、ひとつの巨大なスコアがあるわけではない。裁判所のリスト、税務のリスト、規制当局のリストなど、いくつもの行政データが連動して、「この人は信用できるかどうか」を判断する仕組みになっている。つまり中国では、信用が道徳ではなく、経済条件として扱われ始めている。信頼できる人は自由にお金を使え、約束を破る人は不利な条件を受ける。その違いが、決済や移動や消費の場面で、実際の制約として現れるようになっている。
この事例が示しているのは、信用が単なる評判ではなく、「お金の使い方の条件」として社会に組み込まれ始めたという事実だ。約束を守る人は自由にお金を使え、守らない人は使いにくくなる。つまり、信用は通貨の潤滑油として機能し始めている。この構造を企業の視点で見ると、ひとつの結論に行き着く。人の行動を左右するのは、商品ではなく、お金の流れそのものだということだ。
だから、ポイントや信用が通貨の潤滑油として機能し始めると、企業は決済、つまり顧客の財布を取りにいく。決済を握れば、顧客の支出の全体像が見える。支出が見えれば、金融条件(分割、ローン、保険料率、与信)を変えられる。条件を変えられれば、顧客の行動そのものを誘導することもできる。ここまで来ると、競争は「良い商品」ではなく、「良い通貨」に近づく。だから、ポイントとデジタル通貨の取り合いが始まり、すでに始まっているのだ。
覇者は経済圏を構築する
ここまでの流れをみれば、ひとつの結論が見える。これからの覇者は、国を取りにいくのではなく、「経済圏」を取りにいく。国境は、法律や税金、通貨の単位としては残る。しかし人々の行動は、すでに国境を越えて動いている。旅行を予約し、商品を買い、動画を見て、仕事をし、お金を払う。その多くは、ひとつのプラットフォームの中で完結している。そこに「どこの国の会社か」という感覚は、ほとんど関係なくなりつつあるのだ。
いま人々が実際に生きているのは、「国」の中というよりも、「サービスの中」だ。Amazonの中で買い物をし、Appleの中で支払い、Googleの中で検索し、Pay PayやLineの中で会話と送金をする。私たちは知らないうちに、それぞれの経済圏の中で生活しているのだ。だから、これから企業が取りにいくのは、領土のような地理的なエリアではない。人々の生活のまとまり、つまり「生活圏」そのものだ。ある決済で動く生活圏、あるOSで動く生活圏、あるプラットフォームで完結する生活圏。企業は、その単位で世界を取りにいく。
その結果、企業は自然と総合サービスになっていく。買い物、決済、保険、ローン、コンテンツ、移動、仕事が一つの仕組みの中に集まる。そしてその中心にあるのが、通貨、つまり決済とポイントと信用だ。人の行動を束ねる力は、最終的にそこに集まってくる。
中国の事例とDX国家
理解を深めるために、中国の金融大手2社を見てみよう。一般に語られるのは、Alipay(Ant Group)と、WeChat Pay(Tencent)だ。
Alipayは、もともとはネット通販の支払いのための仕組みだったが、そこから送金、ローン、投資、保険へと広がり、中国人の「お金の出入り」のほとんどを通過させる存在になった。一方のWeChat Payは、チャットアプリであるWeChatの中に組み込まれ、人と人の会話の中で自然にお金が動くように設計されている。
両者に共通しているのは、QRコードを入口に、買い物、送金、公共料金の支払い、タクシー、飲食店、ECまでを一つのアプリの中に取り込んだ点だ。多くの中国人にとって、財布よりもスマートフォンの方が重要な存在になっている。
これは単なる利便性の話ではない。決済が日常の中に入り込むと、それは単なる支払いの仕組みではなくなる。誰が、いつ、何に、いくら使ったかという記録が、すべてそこに集まるからだ。そこに信用の情報が重なると、社会の動きそのものが、その仕組みの中で見えるようになる。
ただ「監視」という言葉だけで片付けると、議論が雑になる。実際は、不正や詐欺、踏み倒し、契約違反のコストを下げるために、信用とデータを使う局面が確かにある。裁判所の判決を無視する債務者に対して、一定の高額消費や移動に制限をかける、といった設計は、その典型だと思う。
更に視点を拡げて、国家単位の事例を見てみよう。デジタルで仕組みをアップデートした事例はいくつもある。エストニアは、電子IDとデジタル署名を軸に、行政手続きをオンライン化してきた国として有名だ。Smart-IDやMobile-IDのような仕組みは、本人確認と電子署名の土台を提供し、オンラインでの契約と行政サービスを成立させる。
デンマークも強い。行政とのやり取りをデジタルポスト(Digital Post)に寄せ、公式な通知を電子的に受け取る前提を整えている。これは「紙をなくした」ではなく、「行政と国民の通信路を再設計した」ことを意味する。
シンガポールはSingpassが象徴だ。単一のデジタルIDで政府・民間のサービスへアクセスできる設計を徹底し、本人確認の摩擦を極端に下げた。その結果、口座開設、契約、行政手続きが一つの動線でつながり、「誰であるか」と「何ができるか」がデジタル上で一体化した社会ができている。
インドはAadhaarを軸に、銀行口座(Jan Dhan)とモバイルを組み合わせたJAM構想を語り、補助金の直接給付(DBT)などで漏れや不正を減らす文脈がある。ここも賛否はあるが、「ID×口座×通信」で国家の給付配管を作り直した点が大きい。
ヨルダンではSanadが「政府サービスの入口」として統合され、数百の行政手続きや公共サービスにつながる設計が進んでいる。国民は、どの役所のサービスかを意識することなく、ひとつの入口から国家とやり取りするようになっている。
アイスランドでも、island.isを中心に公共サービスの入口が統合され、行政のデジタル基盤が組み替えられつつある。そこでは、役所の縦割りよりも、「市民が何をしたいか」を起点にした動線が優先されるようになってきている。
こうして見てくると、国家のDXと企業のDXは、実は同じ場所を目指していることがわかる。誰が人を識別し、誰が支払いを通し、誰がその行動を記録するのか。その設計を握った側が、生活の流れを握ることができるのだ。
(企業の事例)
いくつかの企業の事例を見ると、更に解像度が上がってくると思う。アントグループ、衆安保険、ウィーチャット、ペイペイ、アップルとグーグル、アマゾンをみていこう。
●Ant Group
まずアントグループ(Ant Group)だ。アリペイ(Alipay)を入口に、資産運用(Yu’e Bao)や与信(花唄・借唄など)に広がり、信用(Zhima Credit)にまで手を伸ばした流れは、生活金融の統合モデルとして象徴的だ。支払い、貯蓄、借入、そして信用が、ひとつのアプリの中でつながったとき、「銀行に行く」という行為そのものが不要になる。
もう少し丁寧に見ると、Antの強さは「金融商品が揃っていること」ではない。順番と接続の設計が巧いのだ。入口はAlipay、つまり決済だ。決済は毎日使う。毎日使うから、顧客の行動ログが溜まる。行動ログが溜まるから、特定の顧客の与信の精度が上がる。与信ができると、分割や小口ローンの審査が瞬時に判断可能になるのだ。
ここで重要なのは、ローンが特別な取り組みではなくなることだ。従来の金融は、銀行に行き、書類を書き、審査を待つ。しかし生活金融では、支払いの延長として与信が動く。花唄(Huabei)のような後払い・分割は、買い物の文脈で自然に組み込まれる。借唄(Jiebei)のような小口借入も、アプリの中で完結してしまう。
さらにYu’e Baoのような資産運用が重なると、給与や売上の残高がそのまま運用に回り、資金が効率的にキャッシュを生んでくれる。つまり、決済のお金が貯蓄や運用と自由につながるのだ。
Zhima Credit(芝麻信用)は、興味深い。日常の取引における互いの手間を減らすための仕組みなのだ。顧客の信用が高ければ、デポジットが不要になり、手続きが簡素になり、条件がよくなる。日常の決済で普通に支払い、普通にサービスを利用している人の信用高いが、何らかのペナルティや違反を続ける人は企業にとってコストだ。そのような人の信用は下げるのだ。その結果、信用は人格の評価ではなく、経済的な条件になるのだ。
こうして決済、運用、与信、信用がひとつながりになると、Antが握っているのは金融商品ではなくなる。顧客の支払いを入口に、生活の取引コストを低減し、顧客の行動ログをベースに、より快適なサービスを提供することを実現する。生活金融の統合モデルとは、結局、これらを実現したモデルなのだ。
●衆安保険
保険の文脈では、ZhongAn(衆安保険)が象徴的だ。ZhongAnは、いわゆる既存の保険会社とは少し違う位置に立っている。オンライン専業保険として設立され、対面営業や紙の契約を初めから想定していない。保険を「売る商品」ではなく、「行動に紐づくサービス」として設計してきた点がとても特徴的だ。
その成り立ちを見ると、ZhongAnが何を狙っていたのかがよくわかる。株主には Alibaba、Tencent、そして保険大手の Ping An が名を連ねる。テック企業と金融企業が、最初から一体となって設計された保険会社なのだ。
ZhongAnが提供してきた保険は、長期の生命保険や複雑な商品ではない。ECで商品を買ったときの配送保険、旅行に出たときの短期保険、スマートフォンの破損保証といった、行動の発生点に紐づく小さな保険が中心だ。ユーザーは「保険に入る」という意識すら持たないまま、気づけばリスクがカバーされている。
ここで起きているのは、保険の役割の変化だ。従来の保険は、将来の不安に備えるために、あらかじめ契約するものだった。一方、ZhongAnの保険は、行動の結果に自然に組み入れられる。買う、送る、移動する、使う。その一連の流れの中で、リスクだけが切り出され、最小単位で保険がかけられるのだ。
この設計が可能になった背景は、プラットフォームが行動ログを持つ前提だ。誰が、いつ、何をしたのかがわかっているから、リスクを細かく分解できる。その結果として、保険料は小さくなり、不正や過剰なコストも抑えることができる。保険は、特別な金融商品ではなく、生活の些細なリスクを減らす部品になるのだ。
ZhongAnの事例が示しているのは、保険単体の革新ではない。決済、EC、移動、通信といった生活の入口を握るプラットフォームの上に、保険をどう載せるかという問いへの一つの答えだ。金融とテクノロジーが接続するとき、保険は「売るもの」から「自動的に組み込まれるもの」へと姿を変える。その変化が、ここの事例では、はっきりと可視化されている。
●TencentとPayPay
Tencent側の中核にあるのが Tencent の WeChat だ。WeChatは、もともとはチャットアプリとして普及した。しかし中国では、チャットが単なる連絡手段にとどまらなかった。日常の会話が集まる場所は、そのまま生活の入口になり得るからだ。
WeChatの強さは、アプリの中にさらにサービスを内包した点だ。ミニプログラムと呼ばれる仕組みは、いわば「ダウンロード不要のアプリ」だ。飲食店の予約、配車、行政手続き、EC、ゲーム。必要な機能が、会話の中で完結してしまう。ユーザーはアプリを離れて探す必要なない。会話アプリの動線の中に、サービスが埋め込まれているからだ。
その中心を流れているのが WeChat Pay だ。支払いが会話アプリと同じ場所で完結すると、決済もストレスがなくなるし、簡単に支払いができる。勿論、誰が、どの文脈で、何にお金を使ったかが自然に蓄積される。チャットがOSになり、ミニプログラムが市場になり、決済と結びつく。これらが揃ったとき、WeChatは単なるアプリではなく、生活インフラになった。
日本でこれに最も近い位置にあるのが PayPay だろう。PayPayも、決済だけで完結することを目指していない。ポイントを軸に利用頻度を高め、ミニアプリ的な仕組みでサービスとの接点を増やし、金融や投資の文脈へと広がりつつある。
象徴的なのが、PayPayが Binance Japan に出資したという動きだ。これは単なる暗号資産への関心ではない。決済を握ったプレイヤーが、「次の通貨」「次の価値の保存手段」に橋渡しをすると考えると、非常にわかりやすい。
WeChatもPayPayも、目指しているのはスーパーアプリという言葉そのものではない。日常の入口を押さえ、支払いを通し、そこから金融やサービスを自然に拡張していくことだ。決済を中心に据えた経済圏が、確実に形を取り始めている。
●AppleとGoogle
Apple と Google は、生活金融の統合をOS側から進めている。両社に共通するのは、決済アプリを前に出すのではなく、OSそのものに金融と生活の機能を溶け込ましていく取り組みだ。
Appleの場合、その象徴がApple Walletだ。Walletは、クレジットカードを入れる場所にとどまらない。鍵、チケット、搭乗券、身分証といった「生活に必要な証明書」をまとめて収納する場所になりつつある。財布というより、生活の中で使う権利や資格を管理する箱に近い。
決済側でも同じことが起きている。Apple Payは、支払うか否かだけを扱う仕組みではなくなった。サブスクリプション、分割払い、継続課金の管理など、支払いの前後に発生する体験そのものが、OSの中に吸収されていく。ユーザーは「どのサービスで払っているか」を意識しなくなる。
Googleも同様だ。Google Walletは、単なる支払い手段から、取引履歴、各種パス、移動や利用の記録をまとめる器へと広がっている。支払いの結果として生まれるログを、検索や地図、広告と結びつけられる点で、Walletは生活のログを受け止める基盤として位置づけられている。
AppleとGoogleのアプローチは、WeChatやPayPayとは少し違う。彼らは決済から経済圏を広げるのではなく、OSという日常の前提条件の中に、決済と金融を組み込んでいる。その結果、生活の入口はアプリではなく、最初からOSになるのだ。
●Amazon
Amazon は少し毛色が違うように見えるが、構造は同じだ。Amazonは決済アプリやOSを入口にしたわけではない。入口にしたのは「購買」と「物流」だった。
Amazonが強いのは、誰が、何を、どれだけ売り、どのくらいの回転で資金が動いているかを、マーケットプレイスの中で正確に把握している点だ。販売データ、在庫回転、レビュー、返品率。事業者の実力とリスクが、ほぼリアルタイムで可視化されている。
だからこそ、Amazonは Amazon Lending のような形で、出店者向けの資金供給に踏み込める。従来の金融機関が見るのは、決算書や担保だ。一方Amazonが見ているのは、日々の売上と資金の回転そのものだ。
売上の実績と回転を観測できる主体が金融に入ると、審査と回収のコスト構造が根本から変わる。貸せるかどうかを判断するための書類は要らない。売れているか、回っているか、それだけでいい。回収も、次の売上から自動的に行えるからだ。
ここで起きているのは、金融の内製化ではない。購買と物流という生活インフラの延長線上に、金融が自然に組み込まれているだけだ。Amazonもまた、商品を売る企業から、事業者の経済活動そのものを支えるプラットフォームへ移している。
ここまでの企業を眺めると、共通点ははっきりしている。商品を売るのではない。顧客の行動と支払いが発生する場所を起点に、リトルハイアの情報を取り、それをベースに周辺の問題解決へ拡張していくのだ。だから産業の境があいまいになり、決済から通貨の主導権争いが始まり、経済圏を作りにいく争いになっているのだ。
AIと物理ロボットが融合する世界
ここまで見てきた議論は、すべて「人の行動がどこでデータ化され、どこで決済と結びつくか」という話だ。決済、ID、OS、購買、移動。人が画面の中で行う行動は、ほぼすべてログとして蓄積、金融や信用と結びつけて活用されている。
2026年のCESを俯瞰すると、その構造がいよいよ画面の外に出ていく兆しがある。AIはアプリやクラウドの中に留まらず、ロボットという形で物理的な世界で登場する。CESの公式発信でも、ヒューマノイドを含むロボティクスは周辺テーマではなく、次の主戦場として扱われている。
ここで重要なのは、「ロボットの性能がどれほど高いか」ではない。ロボットが、現実世界における経済活動の端末になるという点だ。現場の仕事、家庭内の作業、移動、物流、介護、清掃。これらはすべて、これまで人が担ってきた行動であり、同時に必ず支払いと結びつく行為だ。
ロボットがそれらを担うようになると、やはり売り切りのハードとしての提供は薄まり、使用を前提に配備され、稼働状況や成果が常時ログとして記録されるだろう。そのデータをもとに、対価が決まり、保険やリース、融資といった金融商品が重ねられていく世界が想像できる。つまりロボットは、労働を助ける機械とともに、やはり金融と経済圏を保管する仕組みになるのだ。
この世界を理解するには、ロボットメーカーの理解だけでは不足する。重要なのは、これら全体を脳、体、神経、学習機能、運用、そして支払いと、誰がどう束ねるのかになる。その役割分担を6つに分けて整理すると、今後のプレイヤーの立ち位置が見えやすくなると思う。
●脳(AI)
まずは、脳(AI)をつくる企業だ。ここで言う脳とは、単なる認識AIではない。言語を理解し、状況を判断し、物理世界での行動に結びつく意思決定の中枢を指す。
現時点での中心は、OpenAI、Google DeepMind、そして NVIDIA だろう。OpenAIは汎用モデルをロボット制御へ拡張し、DeepMindは強化学習と世界モデルの文脈で物理行動を扱ってきた。NVIDIAは少し立ち位置が違うが、AIの脳と身体を同時に設計できる点で特異だと思う。NVIDIAが Isaac GR00T N1 をヒューマノイド向け基盤モデルとして提示し、シミュレーションや合成データ生成まで含めた枠組みを出してきたのは象徴的だ。単にモデルを作るのではなく、「どう学習させ、どう現場に出すか」までを一気通貫で押さえにきている。
ただし、この領域はまだ勝者が固定されたとは言い切れない。ワンチャンが十分に残っている。たとえば Tesla。自動運転で蓄積した世界モデルと実走データを、人型ロボットに転用できるポジションにいる。Metaも無視できない。基盤モデルと強化学習、シミュレーション環境を内製し、オープン寄りの戦略で研究者を囲い込んでいる。Microsoft はOpenAIとの関係を軸に、クラウドと実装の側から脳を支配しにいく立場だ。
中国勢も厚い。Baidu は自動運転と大規模言語モデルを結びつけ、Huawei は独自チップとAI基盤をセットで押さえにいく。研究色が強いところでは、Anthropic や Mistral AI のようなプレイヤーも、汎用モデルの別解を提示し続けている。さらに視野を広げると、Boston Dynamics AI Institute のように、ロボット前提で脳を鍛える研究組織もある。大学発やスピンアウトも含めると、名前が知られていないプレイヤーが、特定用途では一気に抜ける可能性も十分ある。
この層の特徴は明確だ。単体で勝ち切るというよりも、「どの身体」「どの運用」「どの経済圏」と結びつくかで、価値が何倍にも跳ね上がる。脳だけでは完結しないからだ。従い、まだ勝敗は決まっていないのだ。
●身体(ロボット)
次に、身体(ロボット)を量産配備する企業だ。ここで問われるのは、デモの完成度ではない。大量に作れるか、壊れたときに直せるか、安全に現場へ出せるか。そのすべてを同時に満たせるかどうかだ。
名前が挙がりやすいのは、Boston Dynamics、Agility Robotics、Tesla、Figure AI といった企業だ。それぞれ強みは違うが、共通しているのは「研究室を出て、現場に出る」ことを明確に意識している点だ。ただし、この領域にはまだ確定覇者は見えにくい。理由は単純で、最後に勝敗を分けるのが、AIの賢さではなく、量産、保守、安全という現実だと思うのだ。ロボットは壊れるし、転倒する。更に現実空間では人と交わるため、事故の責任も問われる。この現実を乗り越えられる企業は、まだ限られている。だからこそ、この層はワンチャン勢が最も多い。
たとえば Agility Robotics は、倉庫という用途に絞り、人と同じ空間で動く前提を徹底している。Figure AI は、設計をシンプルに保ち、量産と外部連携を強く意識した戦略を取っている。Tesla は、車で培った量産、サプライチェーン、保守の知見を、そのまま人型に持ち込もうとしている。
中国勢も無視できない。UBTECH、Unitree、Fourier Intelligence などは、完成度よりもスピードとコストを優先し、実地配備を前提に動いている。制度や社会実装の許容度が高い環境では、こうした企業が一気に前に出る可能性がある。
さらに視野を広げれば、産業ロボット出身の企業が、人型に転用してくる可能性もある。FANUC、ABB、KUKAのように、量産と安全を知り尽くした企業が、本気で参入してくれば、風景は一変すると思う。
●製造
3つ目は、すでに工場を押さえている企業だ。ここは一気に現実寄りだ。FANUC、安川電機、ABB、KUKA、オムロン。彼らはすでに製造現場に深く入り込み、ロボット本体だけでなく、制御、保守、更新という長いサプライチェーンと歴史と経験を保持している。
この層の強みは、技術の先進性ではない。現場で現在進行系の稼働を続けていることだ。既存の生産ラインに組み込まれ、保守網を持ち、SI(システムインテグレーター)のパートナーを抱えている。つまり、長い時間軸で既に「動かし続ける責任」を引き受けているのだ。AIロボットが広がれば広がるほど、既存の自動化ラインや制御システムとの統合は避けて通れない。そのとき、この層の価値は下がるどころか、むしろ爆上がりだ。
ABB が OmniCore のような制御基盤を打ち出し、デジタル接続やソフトウェアアップデートを前提にした設計へ寄せているのも、その文脈で理解できる。ロボット単体ではなく、「工場全体をどうアップデートするか」を視野に入れているのだ。
また、協働ロボットの文脈も重要になる。Universal Robots のように、人と同じ空間で動き、現場の周辺作業へ自然に入り込むプレイヤーは、AIロボット時代のタッチポイントとして存在感を持つ。完全自動化ではなく、段階的な置き換えが進む現場では、こうしたロボットが最初の入口になる。
どれだけ賢い脳や新しい身体が生まれても、既存の工場や現場とつながらなければ、経済圏はつくれない。だから、すでに現場を押さえている企業は、AIロボット時代においても、重要な機能として拡大しつづけると思う。
●ロボット用コンピュータ(神経)
4つ目は、ロボット用コンピュータ(神経)を供給する企業だ。ここで言う神経とは、単なる演算性能ではない。センサーからの情報を受け取り、判断し、身体へ指令を返す。その一連を、どれだけ速く、安定して、安価に実現できるか。その能力が、ロボットの性能とコストを根本から左右する。
中心にいるのは、やはり NVIDIA だ。GPUに加え、Jetsonのようなエッジ向けプラットフォームを揃え、学習から推論、シミュレーションまでを一気通貫で押さえている。ロボット向けにNVIDIAが強いのは、単に速いからではない。開発者が「とりあえずこれを使えば動く」環境を用意しているからだ。
ただ、この層もNVIDIA一強で固定されているわけではない。Qualcomm は、低消費電力と通信を強みに、ロボットを動き続ける端末として捉える立場だ。Intel は、産業用途や既存システムとの親和性で巻き返しを狙っている。AMD は、GPUとCPUの統合設計でコストと性能のバランスを取りにいくだろう。孫さん一押しのArm は、自ら作らず、設計思想を世界中に配ることで、神経の標準を握ろうとしている。
さらに重要なのが、エッジAI勢だ。Hailo、Edge Impulse、Graphcore のように、「学習はクラウド、判断は現場」という前提で最適化された企業は、用途次第で一気に存在感を増す可能性がある。日本でも、ソニーのイメージセンサー系技術や、ルネサスの産業向けSoC(システム・オン・ア・チップ:コンピュータに必要な機能を1つの半導体にまとめたもの)など、部分最適では強いプレイヤーがいる。
この層が重要なのは理由がはっきりしている。ロボットはクラウドだけでは動けない。遅延が許されないからだ。通信が切れても止まってはいけない。安全が最優先されるからだ。そのため、判断の多くは現場、つまりエッジで完結する必要があると思っている。
つまり、神経系を握る企業は、ロボットが「どれだけ賢く」「どれだけ安く」「どれだけ安全に」動けるかを決めてしまうのだ。脳と身体の間に位置しながら、実は全体の制約条件を支配する。この層は地味に見えて、極めて戦略的な立ち位置の企業になる。
●シミュレーション/デジタルツイン(学習)
5つ目は、シミュレーションやデジタルツインなどの学習機能の企業だ。この層が重要になる理由は単純だ。ロボットを現場で一体ずつ人が教えていたら、絶対にスケールしない。2000年代初頭、PCと制御装置を配線で繋いでファームをアップしたことがある。最悪の経験だった。勿論26年移行は、一定人間のように何らかのミスや失敗や事後があれば、そこから学習するなどの機能は必須だろう。ただ、いちいちリアルの場で行っていたら、今度は結構な割合で事故が多発して導入を見送る状況が想像できる。
だから学習は、まず仮想空間で行われる。現実とほぼ同じ物理法則、摩擦、重さ、衝突を再現した環境で、何千回、何万回と失敗させる。そして現場では、最後の微調整だけを行うのだ。この仮想で鍛え、現実で仕上げる前提が、ロボットの普及を現実のものにするのだ。
この学習の工場を押さえる企業も強くなる。その象徴が NVIDIA だ。NVIDIAがGPUやSoCだけでなく、OmniverseやIsaac Sim(NVIDIAが提供するロボット向けの学習環境)といったシミュレーションの枠組みまで含めて語るのは、計算力だけでは勝てないことを理解しているからだ。学習環境を押さえた者が、脳と身体の進化速度を決めるのだ。
ただ、この層もNVIDIA一強ではない。Unity は、ゲームエンジン由来の強みを活かし、物理シミュレーションとインタラクションの設計で存在感を持つ。Epic Games(Unreal Engine)も、フォトリアルな再現性とデジタルツインの文脈で産業用途へ広がっている。Siemens や Dassault Systèmes のような産業系プレイヤーは、製造ラインや設備のデジタルツインを長年扱ってきた経験を持つ。
ワンチャン勢も多い。Ansys のようなCAE(コンピュータ支援エンジニアリング)系は、物理の精度で強い。Covariant のように、学習データそのものを資産として積み上げる企業も出てきている。大学発やスタートアップも含めれば、特定用途に最適化した学習環境で一気に抜ける可能性は十分ある。
ロボットの賢さは、現場ではなく、現場に出る前の学習量で決まるというのが面白いところだ。本番前に、どれだけ多くの失敗をさせるか。その失敗を、どれだけ安く、安全に、速く回すか。そこを支配する企業が、ロボット経済圏の進化速度を握るのだ。
●通信や運用
最後は、通信や運用を担う企業だ。この層は完全に技術の凄さから離れる。問われるのは、ロボットを何台作れるかではない。100台、1000台、1万台と増えたときに、止めずに回し続ける必要がある。
ロボットが普及すると、次は運用が重要になる。ログを集め、状態を監視し、ソフトウェアを更新する。異常を検知した場合、止めるべきときは止めないといけない。事故を未然に防ぎ、起きた場合は記録を残し、責任の所在を整理する。そして、それらを保険や契約、規約に落とし込む作業も必要になる。この一連が回らなければ、どれだけ優れたロボットも、現場では使い続けることはできないい。
中心にいるのは、AWS、Microsoft Azure、Google Cloud といったクラウド事業者だ。彼らは計算資源を提供しているだけではない。ログの集約、デバイス管理、セキュリティ、アップデート配信といった「止めない運用」の型をすでに持っている。
通信キャリアも重要になる。ロボットは常にクラウドにつながっている必要はないが、つながるべきときには確実につながらなければならない。低遅延、冗長性、切断時のフェイルセーフ。こうした条件を満たせる通信インフラを持つ企業は、ロボット経済圏の裏側で不可欠な役割を担う。
さらに、この層には運用ソフトウェアの企業が入ってくる。デバイス管理、遠隔監視、ログ分析、セキュリティ対応。これらは派手ではないが、現場では最も信頼される部分だ。ロボットが「いつ壊れたか」よりも、「なぜ壊れなかったか」を説明できることが、導入の条件になる。
この層の価値は、規模が大きくなるほど増していく。ロボットが数台なら、人が見張れる。数十台でも何とかなる。しかし数千台を超えた瞬間、人の目は役に立たなくなる。そこで初めて、通信と運用の設計が、経済圏の土台として効いてくる。この運用層は地味だ。だが極めて重要だ。
もちろん、ロボットは必ず壊れる。運ぶ人も、直す人も必要になる。ただし重要なのは、その作業を誰がやるかではない。誰の指示で、誰の契約のもとで、誰のデータとして行われるかだ。現場は分散するが、運用は一つに束ねられる。その設計を握った側が、経済圏を支配する。
国内で考えると、この「束ね役」はまったくの新規プレイヤーから生まれるというより、すでに現場と地域を持っている企業が担う可能性が高い。たとえば、ソフトバンクのような企業は、自ら現場に出ることはないが、通信、認証、課金、契約という基盤を持っている。ロボットが増えれば増えるほど、どのロボットが、どこで、どの条件で動いているのかを一元的に把握する必要が出てくる。そのとき、ローカルの保守会社やSIを個別に管理するのではなく、ネットワークとして束ねられる企業が前に出てくる。
一方で、地場のインフラ企業がその役割を引き受ける展開も十分にあり得る。電力、ガス、石油化学といった企業は、すでに「止められない設備」を長年運用してきた。24時間体制、安全管理、行政との調整。ロボットの運用に必要な感覚は、実はこうしたインフラ運用と近い。ロボットが社会に溶け込むほど、こうした企業が担う役割は自然に広がっていく。
さらに、メーカー系やプラント系の企業も見逃せない。彼らはすでに、設備の定期点検や部品交換、長期保守契約をビジネスとして成立させてきた。ロボットは彼らにとって未知の存在というより、「動きが増えた設備」に近い。既存の保守ビジネスの延長として、ロボットの運用を引き受ける余地は大きい。
ここで再び重要になるのは、誰が油をさすか、誰が部品を運ぶかではない。それらの行為が、どの契約に紐づき、どのログとして蓄積され、どの責任分界のもとで実行されるのかだ。現場はローカルに分散していく。しかし、その上位にある運用の設計は、一つに束ねられていく。その構造を設計できた企業だけが、ロボット時代の経済圏を現実のものにするだろう。
機能で売り続ける企業の近未来
ここで今回の議論を再度、もう一段抽象化してみよう。長く日本を支えてきた事業は、機能を磨き、性能を売ってきた企業群だ。光学、精密機械、素材、センサー、制御。世界最高水準の技術を持ち、真面目に作り、壊れにくく、正確に動く。そうした企業は確かにすごい。
しかし、その強さは、いまの潮流の中では、対極に置かれてしまう。なぜなら、機能を軸にしたビジネスは、どうしても「売った瞬間(ビックハイア)」で完結しやすいからだ。良い製品を作り、販売し、代金を受け取る。顧客がその後どう使い、どこでつまずき、何に満足したか。つまりリトルハイアの積み重ねには、構造的に関与しにくい。
市場がいま評価しているのは、そこではない。評価されているのは、顧客の財布と習慣を握り、使用を通じて関係を深め、将来のキャッシュフローを自社の中に積み上げていける企業だ。売上の大きさよりも、関係の継続性。単発の販売よりも、使われ続ける設計。その差が、企業価値の差になっている。
ところが、機能重視の企業ほど、販売や顧客接点を子会社や代理店に委ねがちだ。製品は自社のものでも、使用ログは手元に残らない。顧客が何に困り、どこで離れ、どこで感動したかが見えない。結果として、技術は自社にあるのに、顧客経済の主権を持てない状態が続いている。そして、その致命的な欠陥に気づいていないのだ。
この構造は、資本市場から見ると非常に分かりやすい。優れた技術を持つ、信頼できる企業。しかし、顧客を束ねる力は弱い。将来のキャッシュフローは読みにくい。そうなると、評価はどうしても「頃合いの良いハードメーカー」に落ち着いてしまう。買収しやすい部品供給者、あるいは機能提供者として見られるのだ。
プラットフォーム側の視点に立つと、これはさらに明確になる。彼らにとって、優れた技術は喉から手が出るほど欲しい。しかしそれは、顧客を連れてくる価値だからではない。あくまで、自分たちの経済圏を強化するための機能や部品として見ているのだ。だから、技術は称賛される。しかし、評価の中心にはならない。残酷だが、これが現実だと思うのだ。
まとめ
最後に、全体を振り返ろう。今回も何日かに分けて書いたので、自分のなかの復讐の意味も含めている。今回のブログは、技術が負けたと言う話ではない。ましてや、技術の価値が消えた話でもない。変わったのは、価値の置き場所だ。
かつて価値は、機能の中にあった。より高精度に、より速く、より安定して動くこと。それ自体が価値だった。しかし今、価値はそれだけでは完結しない。価値は、顧客の生活の中に置かれるようになった。顧客が日常の中で使い続けること。毎日の中で使われ、習慣として定着し、そして最終的には財布の流れの中に入っていく。価値は、そうした場所へと移っているのだ。
だから企業は、「良い商品を作る」だけでは足りなくなった。商品より先に、顧客を取りにいく。顧客との関係性を先に設計する。顧客を取りにいく企業は、将来のキャッシュフローを増やすことが可能だ。すると、株価が高くなり、株価が高いから、ロールアップで周辺領域を取り込むことを続ける。そうして事業は拡張し、結果として産業の境界が曖昧になっていく。
境界が曖昧になると、次に争点になるのはポイントや決済、デジタル通貨だ。つまり誰が顧客の財布を握るのかという競争だ。覇者は国境そのものを取りにいくわけではない。経済圏を取りにいく。中国や各国の国家DXは、その未来がすでに始まっていることを示している。
そしてCES 2026が示唆しているのは、その経済圏が、ついに物理世界へ伸びてくるという兆しだ。AIは画面の中から出ていき、ロボットとして現場や家庭に入り込む。ロボットは単なる機械ではなく、支払いと接続される経済圏の端末になる。労働と金融、物理とデータが、そこで重なり始める。
この流れの中で、機能を軸に強さを築いてきた企業は、どう生きるのか。誰と組むのか。プラットフォーマーが国境を簡単に越えていったように、機能を軸に戦ってきた企業も、まもなく選択を迫られる。今回書いてきた経済圏の中で、下流工程として組み込まれるのか。それとも、上流の一部として接続されるのか。
極めて戦略的な議論だと思う。そしてこれは、従業員1,000人から2,000人規模以上の企業にとって、もはや無視できない世界になってきている。
本音が出ない1on1は、失敗ではなくスタート地点だ
2026年1月28日
早嶋です。約2800文字。
1on1をやっているのに、部下が本音を話してくれない。「質問が悪いのか?」と悩む管理職は本当に多い。しかし、それは失敗でも何でもない。理由は、まだ関係構築が出来ていないのだ。部下は「この上司は安全かどうか」を見極めている最中かもしれない。沈黙はやる気のなさではなく、長年身につけた自己防衛の可能性がある。1on1は本音を引き出す場ではなく、本音が出ても大丈夫な関係をつくる場だ。焦りは禁物だ。時間をかけて「受け皿」をつくることが大切だ。
(1on1で本音が出ないのは失敗ではない)
企業で1on1を扱う際、初期に出る質問がある。「部下が本音で話してくれいない」だ。これは、1on1を導入する職場で、必ずと言っていいほど聞く悩みだ。多くの管理職が、真面目に取り組んでいるからこそ出る概念だ。
はじめ、この相談を受けたときは意外に感じた。というのも、そこには1つの前提があるからだ。それは、「1回の面談で、本音が出るはずだ」だ。或いは、互いに何でも話せる関係であるという前提だ。多くの管理職は、自分が部下だった時代から、面談=課題確認の場として経験してきた。目標進捗、問題点、対策等々。つまり「話し合い」というより「確認作業」に近いものだった。さらに、自分は考えを相手に言語化でき伝えることができる人間だ。そして、比較的どのような上司とも関係構築をすることが出来ている。従い、プロジェクション的に目の前の部下が出来ないことが理解できないのだ。だから、「聞けば出てくるはずだ」とか、「本音が出ないのは、質問のせいだ」と考えてしまうのだ。だが現実の職場は、そんな単純な構造ではないのだ。
部下の立場で見てみよう。「1 on 1 ?」「これは評価に影響するのか?」「弱みを見せて損をしないか?」「この上司は本当に話を聞く人なのか?」等々を考えるだろう。悩む管理職以上に、管理職に信用を置いていない部下が一定数いる可能性がある。そもそも、上司と部下の関係性が確立していない場合だ。初めて1 on 1を導入する組織の部下にとっては、「本音を話す場」ではなく、「この上司は安全かどうかを見極める場」になっていることが多いのだ。だから本音が出ないのは失敗ではない。むしろ、関係づくりが始まったばかりだという、自然な状態なのだ。
本音とは質問テクニックで引き出すものではない。本年は、上司と部下との関係性の結果として、出てくるものなのだ。
(沈黙が続く理由)
もう1つ多い質問がこれだ。「何を聞いても、特にないです、としか言わない部下がいます。」だ。例えば、ある建設現場での1on1のイメージだ。30代の作業員で、仕事は真面目だが、面談では毎回こうなるという。
上司:「最近、プロジェクトの様子はどう?」
部下:「・・・特にないです。」
上司:「困っていることはある?」
部下:「・・・ないです。」
このやり取りが続くそうだ。上司の内心はこうだ。「あれだけ工程が押していたのに…?」「何も感じてないのか?」「やっぱり、やる気ないのかな…?」
だが実際は違うと思うのだ。部下の立場からすると、これまでの現場で身につけてきた生き方がある。文句を言うな。自分のことは後回しにされる。現場は黙って動くもの。上司に弱みを見せるな。
つまり、「考えていない」のではないのだ。「余計なことは言わないほうが安全」だと学んできた結果かもしれないのだ。さらに背景には、意見を言う文化がなかった。上司には従うものだと教えられてきた。発言して怒られた経験が多々ある。自分の考えを言葉にする訓練をそもそも受けていない。そう、沈黙は怠慢ではなく、本人なりの誠実な自己防衛の可能性なのだ。
上司がやりがちな取り掛かりの質問だ。「どう思う?」「本音は?」「意見は?」等々。一見、正しい質問に見えるが、これは話す訓練を受けていない部下にとっては、いきなり難問になってしまう。先も述べたが、管理職になる人材の言語能力と部下の言語能力を同じと捉えない方が良い。簡単な質問なのにと思っても、部下にとって、「答えを考えて、それを相手に正しく整理して説明する必要のある質問」、いわゆるオープンクエスチョンは、超難問なのだ。信頼関係が互いにあり、かつ言語化に慣れている人には有効だが、そもそも関係が出来ていない、緊張した関係の中、話す経験や能力が高くない人材にはハードルが高すぎるのだ。
そこで、質問の仕方そのものを変えることで幾分解消する場合もある。例えばこんなイメージだ。
上司:「今日の作業、やりやすかった?やりにくかった?」
部下:「…やりにくかったです。」
上司:「そうか。それはどこがやりにくかった?」
部下:「工具、ちょっと合わなかったです。」
実際は、こんなに簡単に変わるものではないが、ポイントは、最初に選択肢があるとか、感覚レベルで答えられる問い、或いは正解がわかりやすい質問で会話やキャッチボールの勢いをつけることだ。いきなり「どう思う?」と深い海のそこを探るような質問ではなく、まずは足の着くくらいの浅瀬のレベルで試すのだ。話すことに慣れていない部下にとって、また考える経験が浅い部下にとって、1on1は面談であると同時に、「自分の考えを言葉にする練習の場」でもあるのだ。
(傾聴はスキルではなく態度)
傾聴というと、ついスキルの話になりがちだ。相槌の打ち方、オウム返し、質問の技法。もちろんとても大切な概念だ。ただ、現場でまず問われるのは技術より態度なのだ。
部下の話を評価しない。悩みに対して闇雲にすぐ解決しようとしない。相手の話を途中で取り上げない。これらはテクニックというより、上司の心構えに近い。多くの管理職は、部下が何かを言えば「どう直すか」「どう改善するか」とすぐ解決に向かう。が、1on1の場面では、それが逆効果になることがある。目的は会話を進めることでも、答えを出すことでもなく、相手が話しやすくなる状態をつくることだからだ。
上司が解決の仕組みになると、部下はだんだん話さなくなる。一方で、上司が受け皿になれると、部下は少しずつ言葉を重ね始める。最初は断片的でいい。まとまっていなくていい。その「言ってみても大丈夫だった」という経験の積み重ねが、後の本音につながっていくのだ。1on1は上司というより、部下のための時間にするのだ。
多くの管理職が誤解しているが、1on1は情報収集の場ではないということだ。部下が「この上司は味方かどうか」を見極める場だと思った方がいい。本音が出るかどうかは、上司の質問力ではなく、部下の中での評価で決まる。つまり、焦る必要はないのだ。1回で変わらないのが普通だ。3回、5回、10回と重ねていく中で、ある日ふとした瞬間にポロッと本音が出る。そのタイミングは上司がコントロールできるものではないが、準備はできるもの。それが日々の向き合い方だ。
この積み重ねが、やがて職場の雰囲気を変える。相談が早くなり、違和感が共有され、小さな異常が表に出るようになる。その結果として安全や品質にも影響していく。1on1は一見するとやわらかい活動に見えるが、実は現場マネジメントのど真ん中で、現場で起きている情報をつぶさに拾い上げる仕組みの人となのだ。
労働者を守る法律が、働く意思を縛るとき
2026年1月23日
早嶋です。約1800文字。
最近、人手不足倒産という言葉をニュースで聞くようになった。受注はある。仕事もある。しかし人がいない結果、会社の運営が出来なくなり倒産を余儀なくされるのだ。トラック運送、タクシー、建設、工場。どれも社会にとって必要な仕事ばかりだった。
実際に統計を見てみた。帝国データバンクの調査によれば、2024年に「人手不足」を直接の要因として倒産した企業は342件あった。統計を取り始めて以降、過去最多の水準だ。さらに2025年には427件に増加し、3年連続で最多を更新している。単年の一時的な現象ではなく、構造的な倒産理由として「人手不足」が定着しつつあるのだ。
内訳は、運送業、建設業、製造業、サービス業など、いずれも社会インフラを支える業種が中心だ。受注がないから潰れたのではない。仕事はある。売上の見込みもある。ただ、人が確保できず、事業が回らなくなった結果として会社を畳んでいる。
日本全体の倒産件数は年間で1万件規模だ。割合として見れば数%に過ぎない。しかし、「人手不足」が公式な倒産理由として明確に分類される件数が、すでに数百件規模に達しているという事実は重い。事業構造のボトルネックが、需要や資金ではなく、労働市場そのものに移りつつあることを示している。
世論で議論が始まっているように「残業すれば企業が助かる」という理屈が正しいと思っていない。人が集まらないという事実は、その事業モデルがすでに時代と合っていないことを示している可能性もあるからだ。原材料が手に入らなければ代替素材を考える。人が確保できなければ、機械化、標準化、多能工化、あるいは事業そのものの組み替えを考える。それが経営だ。
安い人件費を前提に、どこにでもあるモデルを続けてきた企業が、人口減少と人手不足の中で立ち行かなくなるのは、ある意味で自然な帰結だ。そう考えれば、倒産は制度の問題ではなく、経営の問題だとも言える。
ただし、一方で労働者側の意思についての疑問は残る。「働きたい人が、健康の範囲で働くことすらできない」という状況が昨今観察されるが、これは合理的なのだろうか。
労働基準法は、労働者を守るための法律だ。制定は1947年、戦後直後だ。当時、労働者が仕事を選ぶ自由はほとんどなかった。働きたい人は溢れており、条件を拒めば職を失う。個人の意思は、実質的に経営者側の力に吸収されてしまう環境だった。
だから法律は、労働者の自由をあえて制限する形を取った。1日8時間、週40時間を超える労働は原則禁止。残業は例外であり、36協定という集団的な歯止めを通してのみ認める。これは「自由を奪う制度」ではなく、「自由が機能しない現実を前提にした保護」だった。
さらに、日本の労働法は強い父権主義を持っている。労働者本人が「大丈夫だ」と言っても、それを信用しないのだ。疲労や同調圧力、評価への不安が、本人の判断を歪めると考えるからだ。特に運転や製造の現場では、事故は本人だけの問題ではなく、社会全体のリスクになる。だから「従業員本人が良くても、社会が困る」という理屈が成立している。
この思想自体は、一貫していると思うが、前提となる社会環境が、大きく変わっているのだ。今は少子高齢化で人口ボーナスから人口オーナスに転じ人が足りない。働く側の交渉力は高まり、「嫌なら辞める」「別の仕事を探す」という選択肢も現実的になった。また、副業や転職、業務委託も珍しくない。それでも制度は、「労働者は常に弱者である」という前提のままだ。
その結果、「働きたいのに働けない」「稼ぎたいのに制限される」というねじれが生まれているのも事実だ。子育てや受験、あるいは一時的な資金需要のために、借金ではなく、自分の体力と健康の範囲で働きたい人もいる。それを一律に封じることは、本当に労働者保護なのか。むしろ、自己決定の権利を奪ってはいないかと疑問が浮かぶのだ。
もちろん、無制限な長時間労働に戻るべきだとは思わない。過労死や事故の歴史を忘れてはいけないからだ。ただ、時間そのものを機械的に縛る設計が、今の社会に最適かどうかは、再考の余地があると思う。労働時間の問題は、善悪ではない。保護と自律をどう両立させるか。その設計が、戦後からほとんど更新されていないことに、違和感が表面化しているのだ。
AI助成金が野良AIを量産する不都合
2026年1月21日
早嶋です。今回は短めに2800文字程度。
AI助成金は、AIを導入するための制度ではない。この前提を押さえずに使えば、AI研修は必ず歪む。現場に善意の自動化が溢れ、やがて「野良AI」となり、Excelマクロのように誰も触れない仕組みが増えていくのだ。今回は、制度と人間の合理性という視点から、AI研修が失敗しやすい理由と、本来取るべき向き合い方を整理した。
「AI研修をやっています!」「助成金を使って全社員にAIを学ばせています!」という話を聞く。国の後押しもあり、AIやDXという言葉は、バズワードを超えて民主化している。AI助成金は、一人当たり数十万円規模の助成があり、会社の負担も小さく、提供側も営業しやすい。IT会社や研修会社にとっても合理的な選択に見える。
しかし現場で何が起きているかを冷静に見れば違和感が残る。便利そうなAIツールが社内に点在し、どれを使えばいいのかわからなくなる。部署ごとに細分化した自動化が進むも、全体として仕事が楽にならない。むしろ管理は複雑になり、最後は「勝手にAIを使うな」という空気すら生まれてきそうだ。
少し前提整理をしよう。AI研修で使われている多くは、経済産業省の産業政策ではない。厚生労働省の人材開発支援助成金だ。この制度の出発点は、AIでもDXでもなく雇用だ。技術が変わり、仕事が変わり、ついていけない人が生まれる。そこで再教育を目的にしているのだ。制度の目的は、労働者を働き続けさせることだ。仕事の構造をどのように変え、企業の意思決定をどのように再設計するかなどの視点は、入っていない。
そのため、AI助成金の制度は成果ではなく、何人受講したかと、どれだけの時間をかけたかをKPIに設定する。何人が、何時間、どんな研修を受けたか。これは行政としては極めて合理的だ。業務改革の成否など、外からは評価できない。書類で確認できる項目だけを基準にするしかないのだ。
その結果、制度が評価できるのは、人数と時間で平準化できる研修だけだ。特定の1人や少人数が、会社全体の構造や根本的な課題を発見し、AIを活用して全体最適で企業をアップデートする土台づくりや仕組みを構築する制度ではない。あくまでも「大量育成した」と言う事実にフォーカスされる。
AI研修会社にとっては、受講者数が多い方がいい。人数が増えれば、研修費用も助成額も増える。難易度の高い少人数研修より、横並びの大量研修の方が売りやすい。カリキュラムや情報の提供は、それこそ動画等を活用することで提供側のコストはそんなに掛からない。一方で企業側も同じだ。「AI人材を◯人育成」という目標は、社内外に説明しやすく、国の助成も得られてお得な感じがする。
勿論、基礎的な考えや社内の意識合わせには最適だし、集団型のAI研修にも、意味はある。テンプレートを使えばアウトプットは出しやすいし、「AIを使って、こんなこともできる」という成功体験も得やすい。AIに触れる人が増えること自体は、悪い話ではない。むしろ、企業のDXの入口としては健全だ。
問題は、その先に何が起きるかだ。企業や事業部全体の課題や仕事の流れを把握しないまま、AIを触ることが好きな人が、各現場でそれぞれ業務を効率化し始めるとする。経費精算を自動化する人。日報をAIで書く人。請求書処理を楽にする人も出てくる。どれも個別に見れば良い改善だ。
だが、それらは互いに関連しないし接続していないのだ。どの業務で、どのAIが、どの前提データを使っているのか。誰が管理するのか。全体として、何がどこまで自動化され、何が自社の社員が直接行うべきなのか。それを説明できる人がそもそもいない。
結果として、社内には便利そうだが正体のわからないAIツールが点在し溢れ出すのだ。この状況は、少し前に多くの企業が経験した「Excelマクロ乱立」とよく似ている。当時もそうだった。現場の有志が善意でマクロを組み、業務を効率化する。最初は喜ばれる。だが、作った本人しか中身がわからないし、引き継ぎもされない。ある日その人が異動するか退職すると、誰も触れなくなるのだ。気がつけば、便利なはずなのに怖くて触れない仕組みが社内に乱立して溜まっていくのだ。
AIでも、まったく同じことが起きていると思う。その近い末路は、管理部門や経営からこう言われる。「勝手にAIを使うな」だ。AIを導入するための研修が、皮肉にも、AIを禁止する流れを生む。これは珍しい話ではない。むしろ、制度と現場の論理を考えれば、自然な帰結だろう。
ここで改めて立ち返るべきなのが、DXのXの部分だ。いま多くのAI研修で行われているのは、既存のアナログ業務を、デジタルやAIに置き換えることだ。紙をデータにする。手作業を自動化する。それ自体は否定しない。ただ、それはトランスフォーメーションではない。
本来のDXは、企業のバリューチェーンやサプライチェーンそのものを見直し、仕事の分担や意思決定の構造を変えることだ。どこで判断し、どこで人が介在し、どこをAIに任せるのか。その全体像を描くことが先にある。
しかし、現場にはその権限がない。現場は与えられた仕事を前提に、少しでも楽に、少しでも早く終わらせる工夫をする。それは自然な行動だ。だが、自分たちの仕事をゼロにして、新しい仕事をつくる方向に舵を切るインセンティブは生まれにくいと思う。
経営者であれば、「この仕事自体をなくそう」「構造から変えよう」と考えるかもしれない。だが、現場にその発想を期待するのは酷だ。人は合理的だ。新しい取り組みほど、リスクが高く、評価も不確実だからだ。
では、AI研修や助成金を使う意味はどこにあるのかだ。答えは、AIを「現場に任せる」ためではない。全体を設計する人材を見極め、その人が考える時間と余地をつくるために使うことだ。集団型のAI研修は、あくまで入口だ。AIに触れ、当たり前に活用できる感覚をつくり、共通言語を揃える。その裏側で、誰が全体を設計するのかを決めることが大切だ。AIをどこに使い、どこには使わないのか。その線を引くのだ。
AI研修を使って成功している企業は、派手な成果を語らない。ただ設計の主体を定め、現場と切り分けている。現実は社員全員の力はいらない。そもそも、コンピュータの世界では、1万人分、10万人分の作業であっても、少数の人員とデジタルによって自動化できる。だからこそ、AI活用において「全員ができる」ことは、本質ではないのだ。
AI助成金は、会社を変える制度ではない。だが、会社が変わる覚悟を持っているかどうかの入口を試すにはお手頃な制度だ。だから本当に受けるべきなのは、
AIに触れたことがない社員ではないのだ。その企業の役員であり、経営者だと思う。
価値は機能から顧客経済へシフトし、覇者は財布と習慣を握る
2026年1月19日
早嶋です。約1.8万文字と最近の中でも長いので、簡単にサマリを示す。
(サマリ)
昔は、良いものを作れば勝てた。今は違う。顧客の日常に入り込み、提供サービスは使われ続け、支払いが耐えない仕組みを持つ企業が圧倒的な勝者だ。企業は顧客の使用ログを取り続け、それらを活かして更に、顧客の利便性をあげるための価値を提案する。そのような企業は、将来キャッシュフローが増加するため企業の価値は上がり株価が上がる。その株価を武器に、関連する周辺事業を買収して更に経済圏を広げる。業界の境界は薄れ、通貨に近い領域(決済・ポイント・信用)の奪い合いが始まる。そして次は、AIがロボットとして現実世界にインストールされ、経済圏の端末にシフトする。そこで問われるのは「技術があるか」ではない。「顧客経済の主権」を持てるかだ。持てなければ、技術は称賛されながらも部品として組み込まれるのだ。
(顧客接点を重視する企業が勝ち続ける)
今後、大企業の勝ち方は変わる。正確に言えば、企業が「何を取りにいくか」が激変している。かつては、良い商品をつくり、良い機能を積み上げ、その結果として売上を伸ばすことが王道だった。もちろん、いまでも商品は重要だ。しかし近年、成長している企業の多くは、商品そのものよりも先に「顧客とのつながり」を最重要KPIに置いているように見える。
ここで言う顧客とは、単なる会員数やユーザー数のことではない。顧客の生活の中で、あるいは現場の仕事の中で、その企業が提供する仕組みが使われ続けている状態のことだ。使われ続けるということは、支払いが継続し、使用ログが蓄積され、それが改善に回され、さらに周辺の価値提供へと拡張されていくということを意味する。企業は、顧客の時間と習慣、そして最終的には財布の中に入り込むことを目指しているのだ。
では、なぜ企業はそこまでして「顧客を取りにいく」ようになったのかだ。それは、顧客との関係性を起点にしたビジネスモデルが、構造的に、従来の製品ビジネスよりもはるかに強い成長カーブを持つようになるからだ。この差を生んでいるのが、ハードとソフトの性質の違いだ。ハードの事業は投資に対して比例して売上が伸びる。売上は台数×単価に縛られ、製造能力、在庫、物流、販売網がボトルネックになるからだ。一方でソフトは、一度作り上げれば、コピペ(複製)して通信で届けるコストがほぼゼロに近い。限界費用がほとんどかからないため、同じ仕組みを多くの人に配るほど利益率が上がりやすく、成長のカーブも比例ではなく自乗に近づいていく。
さらに重要なのは、ソフトは「売り切り」である必要がないことだ。むしろ使用を前提に提供し、サブスクや従量課金に寄せることで、顧客が実際に問題を解決している瞬間、つまりリトルハイアを合理的に観測できるようになるのだ。売り切りの商品を買ってもらって終わり、ではない。使ってもらい、使われ方を観測し、改善し、さらに価値を足す。その循環が回り始めると、顧客の問題解決は深まり、関係性は強くなる。顧客にとって利便性が高く、その商品から離れる必要はなくなる。従って企業は、一定の売上が計画的に見込める。そのため企業は次の価値提供を計画的に設計できるのだ。だからこそ「商品を売る」よりも先に、「顧客を取りにいく」企業が増えているのだ。
その結果、こうした企業は将来のキャッシュフローを高い確度で見通せるようになる。顧客が離れず、使われ続け、そこから新しい価値が生まれ続ける構造を持っているからだ。だから資本市場は、その企業の将来に高い期待を置き、株価も高くなるのだ。次に起きるのは、株価の差だ。顧客を取りにいく企業の株価は高くなりやすい。市場が見ているのは「今の売上や利益」よりも「将来のキャッシュフロー」なのだ。そして、将来のキャッシュフローを最も確度高く見積もれるのは、すでに顧客の習慣と財布を握っている企業だ。
サブスクの企業が評価されるのは、売上が毎月積み上がるからだけではない。リトルハイアの情報を持ち、その情報を使って、顧客あたりの価値提供を増やせるからだ。顧客が何に困り、どう使い、どこで離脱し、何が刺さるのか。これがわかれば、改善も、追加提案も、金融の設計もできる。改善が回ればさらに継続率が上がり、継続率が上がればLTVが伸び、LTVが伸びれば株価が上がる。株価が上がれば資金調達が容易になり、買収も仕掛けやすくなる。これが勝利の方程式になっている。
そしてここが重要だ。高い株価は「結果」ではなく「武器」になることだ。株価が高い企業は、ロールアップで周辺領域を取り込める。ここで言うロールアップとは、株式交換や買収を通じて、周辺の企業や技術を次々と自社の中に取り込んでいく成長戦略のことだ。株価が高い企業は、自社の株を通貨として使い、現金をあまり使わずに他社を買うことができる。技術やノウハウを買い、顧客接点を買い、規制対応のチームすら買う。そうすると成長の速度が上がり、さらに株価が高くなる。資本市場が成長の燃料を供給し、企業がそれを使って領域を拡張する。だから、顧客を取りにいく企業は、ますます勝ちやすくなるのだ。
(産業の境が曖昧になり独自の経済圏が誕生する)
今後、産業の境が曖昧になるのは当然だ。昔は「銀行は銀行」「通信は通信」「小売は小売」だった。しかし顧客の財布と習慣を握る企業は、顧客の問題解決に必要な周辺領域へ事業を拡大する。決済を握ればローンができる。ローンができれば保険ができる。保険ができれば投資ができる。投資ができれば、購買の入口としてのECや広告が欲しくなる。広告が欲しければ、検索やOSが欲しくなる。こうして、領域が連鎖するからだ。
つまり、企業は「隣の産業に進出している」のではない。顧客の問題解決を軸に、連続させて取り組んだ結果、産業の境界線の上を超えてしまっていたのだ。境界が消えるのではなく、昔の業界人が考えた境界の意味が変わるのだ。顧客の生活は一つであり、顧客の財布も一つだからだ。
産業の境が薄くなると、次は「通貨」に近い領域の奪い合いが勃発する。ポイント経済がその典型だ。ポイントは割引のように見えて、実態は経済圏の通貨だ。貯まる、使える、交換できる、優遇条件が変わる。ここに信用が乗ると、実質的な通貨にさらに近づく。この構造が、最も早く、かつ大規模に可視化されたのが中国だった。
中国の話になると、よく「社会信用システム」という言葉が出てくる。少し物々しく聞こえるが、実態はもっと現実的な仕組みだ。中国では、たとえば裁判で「お金を返しなさい」と命じられたのに、それを無視し続ける人がいる。そのような人たちは「失信被执行人」と呼ばれ、一定のリストに載る。すると、高額な飛行機のチケットが買えない、ぜいたくなホテルに泊まれない、といった制限がかかる。要するに、「約束を守らない人は、経済活動がやりにくくなる」仕組みが、制度として組み込まれているのだ。
ここでよくある誤解は、「中国では国民一人ひとりに点数がつけられている」というイメージだ。しかし実際には、ひとつの巨大なスコアがあるわけではない。裁判所のリスト、税務のリスト、規制当局のリストなど、いくつもの行政データが連動して、「この人は信用できるかどうか」を判断する仕組みになっている。つまり中国では、信用が道徳ではなく、経済条件として扱われ始めている。信頼できる人は自由にお金を使え、約束を破る人は不利な条件を受ける。その違いが、決済や移動や消費の場面で、実際の制約として現れるようになっている。
この事例が示しているのは、信用が単なる評判ではなく、「お金の使い方の条件」として社会に組み込まれ始めたという事実だ。約束を守る人は自由にお金を使え、守らない人は使いにくくなる。つまり、信用は通貨の潤滑油として機能し始めている。この構造を企業の視点で見ると、ひとつの結論に行き着く。人の行動を左右するのは、商品ではなく、お金の流れそのものだということだ。
だから、ポイントや信用が通貨の潤滑油として機能し始めると、企業は決済、つまり顧客の財布を取りにいく。決済を握れば、顧客の支出の全体像が見える。支出が見えれば、金融条件(分割、ローン、保険料率、与信)を変えられる。条件を変えられれば、顧客の行動そのものを誘導することもできる。ここまで来ると、競争は「良い商品」ではなく、「良い通貨」に近づく。だから、ポイントとデジタル通貨の取り合いが始まり、すでに始まっているのだ。
(覇者は経済圏を構築する)
ここまでの流れをみれば、ひとつの結論が見える。これからの覇者は、国を取りにいくのではなく、「経済圏」を取りにいく。国境は、法律や税金、通貨の単位としては残る。しかし人々の行動は、すでに国境を越えて動いている。旅行を予約し、商品を買い、動画を見て、仕事をし、お金を払う。その多くは、ひとつのプラットフォームの中で完結している。そこに「どこの国の会社か」という感覚は、ほとんど関係なくなりつつあるのだ。
いま人々が実際に生きているのは、「国」の中というよりも、「サービスの中」だ。Amazonの中で買い物をし、Appleの中で支払い、Googleの中で検索し、Pay PayやLineの中で会話と送金をする。私たちは知らないうちに、それぞれの経済圏の中で生活しているのだ。だから、これから企業が取りにいくのは、領土のような地理的なエリアではない。人々の生活のまとまり、つまり「生活圏」そのものだ。ある決済で動く生活圏、あるOSで動く生活圏、あるプラットフォームで完結する生活圏。企業は、その単位で世界を取りにいく。その結果、企業は自然と総合サービスになっていく。買い物、決済、保険、ローン、コンテンツ、移動、仕事が一つの仕組みの中に集まる。そしてその中心にあるのが、通貨、つまり決済とポイントと信用だ。人の行動を束ねる力は、最終的にそこに集まってくる。
(中国の事例とDX国家)
理解を深めるために、中国の金融大手2社を見てみよう。一般に語られるのは、Alipay(Ant Group)と、WeChat Pay(Tencent)だ。
Alipayは、もともとはネット通販の支払いのための仕組みだったが、そこから送金、ローン、投資、保険へと広がり、中国人の「お金の出入り」のほとんどを通過させる存在になった。一方のWeChat Payは、チャットアプリであるWeChatの中に組み込まれ、人と人の会話の中で自然にお金が動くように設計されている。両者に共通しているのは、QRコードを入口に、買い物、送金、公共料金の支払い、タクシー、飲食店、ECまでを一つのアプリの中に取り込んだ点だ。多くの中国人にとって、財布よりもスマートフォンの方が重要な存在になっている。
これは単なる利便性の話ではない。決済が日常の中に入り込むと、それは単なる支払いの仕組みではなくなる。誰が、いつ、何に、いくら使ったかという記録が、すべてそこに集まるからだ。そこに信用の情報が重なると、社会の動きそのものが、その仕組みの中で見えるようになる。ただ「監視」という言葉だけで片付けると、議論が雑になる。実際は、不正や詐欺、踏み倒し、契約違反のコストを下げるために、信用とデータを使う局面が確かにある。裁判所の判決を無視する債務者に対して、一定の高額消費や移動に制限をかける、といった設計は、その典型だと思う。
更に視点を拡げて、国家単位の事例を見てみよう。デジタルで仕組みをアップデートした事例はいくつもある。エストニアは、電子IDとデジタル署名を軸に、行政手続きをオンライン化してきた国として有名だ。Smart-IDやMobile-IDのような仕組みは、本人確認と電子署名の土台を提供し、オンラインでの契約と行政サービスを成立させる。
デンマークも強い。行政とのやり取りをデジタルポスト(Digital Post)に寄せ、公式な通知を電子的に受け取る前提を整えている。これは「紙をなくした」ではなく、「行政と国民の通信路を再設計した」ことを意味する。
シンガポールはSingpassが象徴だ。単一のデジタルIDで政府・民間のサービスへアクセスできる設計を徹底し、本人確認の摩擦を極端に下げた。その結果、口座開設、契約、行政手続きが一つの動線でつながり、「誰であるか」と「何ができるか」がデジタル上で一体化した社会ができている。
インドはAadhaarを軸に、銀行口座(Jan Dhan)とモバイルを組み合わせたJAM構想を語り、補助金の直接給付(DBT)などで漏れや不正を減らす文脈がある。ここも賛否はあるが、「ID×口座×通信」で国家の給付配管を作り直した点が大きい。
ヨルダンではSanadが「政府サービスの入口」として統合され、数百の行政手続きや公共サービスにつながる設計が進んでいる。国民は、どの役所のサービスかを意識することなく、ひとつの入口から国家とやり取りするようになっている。
アイスランドでも、island.isを中心に公共サービスの入口が統合され、行政のデジタル基盤が組み替えられつつある。そこでは、役所の縦割りよりも、「市民が何をしたいか」を起点にした動線が優先されるようになってきている。
こうして見てくると、国家のDXと企業のDXは、実は同じ場所を目指していることがわかる。誰が人を識別し、誰が支払いを通し、誰がその行動を記録するのか。その設計を握った側が、生活の流れを握ることができるのだ。
(企業の事例)
いくつかの企業の事例を見ると、更に解像度が上がってくると思う。アントグループ、衆安保険、ウィーチャット、ペイペイ、アップルとグーグル、アマゾンをみていこう。
●Ant Group
まずアントグループ(Ant Group)だ。アリペイ(Alipay)を入口に、資産運用(Yu’e Bao)や与信(花唄・借唄など)に広がり、信用(Zhima Credit)にまで手を伸ばした流れは、生活金融の統合モデルとして象徴的だ。支払い、貯蓄、借入、そして信用が、ひとつのアプリの中でつながったとき、「銀行に行く」という行為そのものが不要になる。
もう少し丁寧に見ると、Antの強さは「金融商品が揃っていること」ではない。順番と接続の設計が巧いのだ。入口はAlipay、つまり決済だ。決済は毎日使う。毎日使うから、顧客の行動ログが溜まる。行動ログが溜まるから、特定の顧客の与信の精度が上がる。与信ができると、分割や小口ローンの審査が瞬時に判断可能になるのだ。ここで重要なのは、ローンが特別な取り組みではなくなることだ。従来の金融は、銀行に行き、書類を書き、審査を待つ。しかし生活金融では、支払いの延長として与信が動く。花唄(Huabei)のような後払い・分割は、買い物の文脈で自然に組み込まれる。借唄(Jiebei)のような小口借入も、アプリの中で完結してしまう。
さらにYu’e Baoのような資産運用が重なると、給与や売上の残高がそのまま運用に回り、資金が効率的にキャッシュを生んでくれる。つまり、決済のお金が貯蓄や運用と自由につながるのだ。Zhima Credit(芝麻信用)は、興味深い。日常の取引における互いの手間を減らすための仕組みなのだ。顧客の信用が高ければ、デポジットが不要になり、手続きが簡素になり、条件がよくなる。日常の決済で普通に支払い、普通にサービスを利用している人の信用高いが、何らかのペナルティや違反を続ける人は企業にとってコストだ。そのような人の信用は下げるのだ。その結果、信用は人格の評価ではなく、経済的な条件になるのだ。
こうして決済、運用、与信、信用がひとつながりになると、Antが握っているのは金融商品ではなくなる。顧客の支払いを入口に、生活の取引コストを低減し、顧客の行動ログをベースに、より快適なサービスを提供することを実現する。生活金融の統合モデルとは、結局、これらを実現したモデルなのだ。
●衆安保険
保険の文脈では、ZhongAn(衆安保険)が象徴的だ。ZhongAnは、いわゆる既存の保険会社とは少し違う位置に立っている。オンライン専業保険として設立され、対面営業や紙の契約を初めから想定していない。保険を「売る商品」ではなく、「行動に紐づくサービス」として設計してきた点がとても特徴的だ。
その成り立ちを見ると、ZhongAnが何を狙っていたのかがよくわかる。株主には Alibaba、Tencent、そして保険大手の Ping An が名を連ねる。テック企業と金融企業が、最初から一体となって設計された保険会社なのだ。ZhongAnが提供してきた保険は、長期の生命保険や複雑な商品ではない。ECで商品を買ったときの配送保険、旅行に出たときの短期保険、スマートフォンの破損保証といった、行動の発生点に紐づく小さな保険が中心だ。ユーザーは「保険に入る」という意識すら持たないまま、気づけばリスクがカバーされている。
ここで起きているのは、保険の役割の変化だ。従来の保険は、将来の不安に備えるために、あらかじめ契約するものだった。一方、ZhongAnの保険は、行動の結果に自然に組み入れられる。買う、送る、移動する、使う。その一連の流れの中で、リスクだけが切り出され、最小単位で保険がかけられるのだ。
この設計が可能になった背景は、プラットフォームが行動ログを持つ前提だ。誰が、いつ、何をしたのかがわかっているから、リスクを細かく分解できる。その結果として、保険料は小さくなり、不正や過剰なコストも抑えることができる。保険は、特別な金融商品ではなく、生活の些細なリスクを減らす部品になるのだ。
ZhongAnの事例が示しているのは、保険単体の革新ではない。決済、EC、移動、通信といった生活の入口を握るプラットフォームの上に、保険をどう載せるかという問いへの一つの答えだ。金融とテクノロジーが接続するとき、保険は「売るもの」から「自動的に組み込まれるもの」へと姿を変える。その変化が、ここの事例では、はっきりと可視化されている。
●TencentとPayPay
Tencent側の中核にあるのが Tencent の WeChat だ。WeChatは、もともとはチャットアプリとして普及した。しかし中国では、チャットが単なる連絡手段にとどまらなかった。日常の会話が集まる場所は、そのまま生活の入口になり得るからだ。
WeChatの強さは、アプリの中にさらにサービスを内包した点だ。ミニプログラムと呼ばれる仕組みは、いわば「ダウンロード不要のアプリ」だ。飲食店の予約、配車、行政手続き、EC、ゲーム。必要な機能が、会話の中で完結してしまう。ユーザーはアプリを離れて探す必要なない。会話アプリの動線の中に、サービスが埋め込まれているからだ。
その中心を流れているのが WeChat Pay だ。支払いが会話アプリと同じ場所で完結すると、決済もストレスがなくなるし、簡単に支払いができる。勿論、誰が、どの文脈で、何にお金を使ったかが自然に蓄積される。チャットがOSになり、ミニプログラムが市場になり、決済と結びつく。これらが揃ったとき、WeChatは単なるアプリではなく、生活インフラになった。
日本でこれに最も近い位置にあるのが PayPay だろう。PayPayも、決済だけで完結することを目指していない。ポイントを軸に利用頻度を高め、ミニアプリ的な仕組みでサービスとの接点を増やし、金融や投資の文脈へと広がりつつある。
象徴的なのが、PayPayが Binance Japan に出資したという動きだ。これは単なる暗号資産への関心ではない。決済を握ったプレイヤーが、「次の通貨」「次の価値の保存手段」に橋渡しをすると考えると、非常にわかりやすい。
WeChatもPayPayも、目指しているのはスーパーアプリという言葉そのものではない。日常の入口を押さえ、支払いを通し、そこから金融やサービスを自然に拡張していくことだ。決済を中心に据えた経済圏が、確実に形を取り始めている。
●AppleとGoogle
Apple と Google は、生活金融の統合をOS側から進めている。両社に共通するのは、決済アプリを前に出すのではなく、OSそのものに金融と生活の機能を溶け込ましていく取り組みだ。
Appleの場合、その象徴がApple Walletだ。Walletは、クレジットカードを入れる場所にとどまらない。鍵、チケット、搭乗券、身分証といった「生活に必要な証明書」をまとめて収納する場所になりつつある。財布というより、生活の中で使う権利や資格を管理する箱に近い。
決済側でも同じことが起きている。Apple Payは、支払うか否かだけを扱う仕組みではなくなった。サブスクリプション、分割払い、継続課金の管理など、支払いの前後に発生する体験そのものが、OSの中に吸収されていく。ユーザーは「どのサービスで払っているか」を意識しなくなる。
Googleも同様だ。Google Walletは、単なる支払い手段から、取引履歴、各種パス、移動や利用の記録をまとめる器へと広がっている。支払いの結果として生まれるログを、検索や地図、広告と結びつけられる点で、Walletは生活のログを受け止める基盤として位置づけられている。
AppleとGoogleのアプローチは、WeChatやPayPayとは少し違う。彼らは決済から経済圏を広げるのではなく、OSという日常の前提条件の中に、決済と金融を組み込んでいる。その結果、生活の入口はアプリではなく、最初からOSになるのだ。
●Amazon
Amazon は少し毛色が違うように見えるが、構造は同じだ。Amazonは決済アプリやOSを入口にしたわけではない。入口にしたのは「購買」と「物流」だった。
Amazonが強いのは、誰が、何を、どれだけ売り、どのくらいの回転で資金が動いているかを、マーケットプレイスの中で正確に把握している点だ。販売データ、在庫回転、レビュー、返品率。事業者の実力とリスクが、ほぼリアルタイムで可視化されている。
だからこそ、Amazonは Amazon Lending のような形で、出店者向けの資金供給に踏み込める。従来の金融機関が見るのは、決算書や担保だ。一方Amazonが見ているのは、日々の売上と資金の回転そのものだ。
売上の実績と回転を観測できる主体が金融に入ると、審査と回収のコスト構造が根本から変わる。貸せるかどうかを判断するための書類は要らない。売れているか、回っているか、それだけでいい。回収も、次の売上から自動的に行えるからだ。
ここで起きているのは、金融の内製化ではない。購買と物流という生活インフラの延長線上に、金融が自然に組み込まれているだけだ。Amazonもまた、商品を売る企業から、事業者の経済活動そのものを支えるプラットフォームへ移している。
ここまでの企業を眺めると、共通点ははっきりしている。商品を売るのではない。顧客の行動と支払いが発生する場所を起点に、リトルハイアの情報を取り、それをベースに周辺の問題解決へ拡張していくのだ。だから産業の境があいまいになり、決済から通貨の主導権争いが始まり、経済圏を作りにいく争いになっているのだ。
(AIと物理ロボットが融合する世界)
ここまで見てきた議論は、すべて「人の行動がどこでデータ化され、どこで決済と結びつくか」という話だ。決済、ID、OS、購買、移動。人が画面の中で行う行動は、ほぼすべてログとして蓄積、金融や信用と結びつけて活用されている。2026年のCESを俯瞰すると、その構造がいよいよ画面の外に出ていく兆しがある。AIはアプリやクラウドの中に留まらず、ロボットという形で物理的な世界で登場する。CESの公式発信でも、ヒューマノイドを含むロボティクスは周辺テーマではなく、次の主戦場として扱われている。
ここで重要なのは、「ロボットの性能がどれほど高いか」ではない。ロボットが、現実世界における経済活動の端末になるという点だ。現場の仕事、家庭内の作業、移動、物流、介護、清掃。これらはすべて、これまで人が担ってきた行動であり、同時に必ず支払いと結びつく行為だ。
ロボットがそれらを担うようになると、やはり売り切りのハードとしての提供は薄まり、使用を前提に配備され、稼働状況や成果が常時ログとして記録されるだろう。そのデータをもとに、対価が決まり、保険やリース、融資といった金融商品が重ねられていく世界が想像できる。つまりロボットは、労働を助ける機械とともに、やはり金融と経済圏を保管する仕組みになるのだ。
この世界を理解するには、ロボットメーカーの理解だけでは不足する。重要なのは、これら全体を脳、体、神経、学習機能、運用、そして支払いと、誰がどう束ねるのかになる。その役割分担を6つに分けて整理すると、今後のプレイヤーの立ち位置が見えやすくなると思う。
●脳(AI)
まずは、脳(AI)をつくる企業だ。ここで言う脳とは、単なる認識AIではない。言語を理解し、状況を判断し、物理世界での行動に結びつく意思決定の中枢を指す。
現時点での中心は、OpenAI、Google DeepMind、そして NVIDIA だろう。OpenAIは汎用モデルをロボット制御へ拡張し、DeepMindは強化学習と世界モデルの文脈で物理行動を扱ってきた。NVIDIAは少し立ち位置が違うが、AIの脳と身体を同時に設計できる点で特異だと思う。
NVIDIAが Isaac GR00T N1 をヒューマノイド向け基盤モデルとして提示し、シミュレーションや合成データ生成まで含めた枠組みを出してきたのは象徴的だ。単にモデルを作るのではなく、「どう学習させ、どう現場に出すか」までを一気通貫で押さえにきている。ただし、この領域はまだ勝者が固定されたとは言い切れない。ワンチャンが十分に残っている。
たとえば Tesla。自動運転で蓄積した世界モデルと実走データを、人型ロボットに転用できるポジションにいる。Metaも無視できない。基盤モデルと強化学習、シミュレーション環境を内製し、オープン寄りの戦略で研究者を囲い込んでいる。Microsoft はOpenAIとの関係を軸に、クラウドと実装の側から脳を支配しにいく立場だ。
中国勢も厚い。Baidu は自動運転と大規模言語モデルを結びつけ、Huawei は独自チップとAI基盤をセットで押さえにいく。研究色が強いところでは、Anthropic や Mistral AI のようなプレイヤーも、汎用モデルの別解を提示し続けている。さらに視野を広げると、Boston Dynamics AI Institute のように、ロボット前提で脳を鍛える研究組織もある。大学発やスピンアウトも含めると、名前が知られていないプレイヤーが、特定用途では一気に抜ける可能性も十分ある。
この層の特徴は明確だ。単体で勝ち切るというよりも、「どの身体」「どの運用」「どの経済圏」と結びつくかで、価値が何倍にも跳ね上がる。脳だけでは完結しないからだ。従い、まだ勝敗は決まっていないのだ。
●身体(ロボット)
次に、身体(ロボット)を量産配備する企業だ。ここで問われるのは、デモの完成度ではない。大量に作れるか、壊れたときに直せるか、安全に現場へ出せるか。そのすべてを同時に満たせるかどうかだ。
名前が挙がりやすいのは、Boston Dynamics、Agility Robotics、Tesla、Figure AI といった企業だ。それぞれ強みは違うが、共通しているのは「研究室を出て、現場に出る」ことを明確に意識している点だ。ただし、この領域にはまだ確定覇者は見えにくい。理由は単純で、最後に勝敗を分けるのが、AIの賢さではなく、量産、保守、安全という現実だと思うのだ。ロボットは壊れるし、転倒する。更に現実空間では人と交わるため、事故の責任も問われる。この現実を乗り越えられる企業は、まだ限られている。だからこそ、この層はワンチャン勢が最も多い。
たとえば Agility Robotics は、倉庫という用途に絞り、人と同じ空間で動く前提を徹底している。Figure AI は、設計をシンプルに保ち、量産と外部連携を強く意識した戦略を取っている。Tesla は、車で培った量産、サプライチェーン、保守の知見を、そのまま人型に持ち込もうとしている。
中国勢も無視できない。UBTECH、Unitree、Fourier Intelligence などは、完成度よりもスピードとコストを優先し、実地配備を前提に動いている。制度や社会実装の許容度が高い環境では、こうした企業が一気に前に出る可能性がある。
さらに視野を広げれば、産業ロボット出身の企業が、人型に転用してくる可能性もある。FANUC、ABB、KUKAのように、量産と安全を知り尽くした企業が、本気で参入してくれば、風景は一変すると思う。
●製造
3つ目は、すでに工場を押さえている企業だ。ここは一気に現実寄りだ。FANUC、安川電機、ABB、KUKA、オムロン。彼らはすでに製造現場に深く入り込み、ロボット本体だけでなく、制御、保守、更新という長いサプライチェーンと歴史と経験を保持している。
この層の強みは、技術の先進性ではない。現場で現在進行系の稼働を続けていることだ。既存の生産ラインに組み込まれ、保守網を持ち、SI(システムインテグレーター)のパートナーを抱えている。つまり、長い時間軸で既に「動かし続ける責任」を引き受けているのだ。AIロボットが広がれば広がるほど、既存の自動化ラインや制御システムとの統合は避けて通れない。そのとき、この層の価値は下がるどころか、むしろ爆上がりだ。
ABB が OmniCore のような制御基盤を打ち出し、デジタル接続やソフトウェアアップデートを前提にした設計へ寄せているのも、その文脈で理解できる。ロボット単体ではなく、「工場全体をどうアップデートするか」を視野に入れているのだ。
また、協働ロボットの文脈も重要になる。Universal Robots のように、人と同じ空間で動き、現場の周辺作業へ自然に入り込むプレイヤーは、AIロボット時代のタッチポイントとして存在感を持つ。完全自動化ではなく、段階的な置き換えが進む現場では、こうしたロボットが最初の入口になる。
どれだけ賢い脳や新しい身体が生まれても、既存の工場や現場とつながらなければ、経済圏はつくれない。だから、すでに現場を押さえている企業は、AIロボット時代においても、重要な機能として拡大しつづけると思う。
●ロボット用コンピュータ(神経)
4つ目は、ロボット用コンピュータ(神経)を供給する企業だ。ここで言う神経とは、単なる演算性能ではない。センサーからの情報を受け取り、判断し、身体へ指令を返す。その一連を、どれだけ速く、安定して、安価に実現できるか。その能力が、ロボットの性能とコストを根本から左右する。
中心にいるのは、やはり NVIDIA だ。GPUに加え、Jetsonのようなエッジ向けプラットフォームを揃え、学習から推論、シミュレーションまでを一気通貫で押さえている。ロボット向けにNVIDIAが強いのは、単に速いからではない。開発者が「とりあえずこれを使えば動く」環境を用意しているからだ。
ただ、この層もNVIDIA一強で固定されているわけではない。Qualcomm は、低消費電力と通信を強みに、ロボットを動き続ける端末として捉える立場だ。Intel は、産業用途や既存システムとの親和性で巻き返しを狙っている。AMD は、GPUとCPUの統合設計でコストと性能のバランスを取りにいくだろう。孫さん一押しのArm は、自ら作らず、設計思想を世界中に配ることで、神経の標準を握ろうとしている。
さらに重要なのが、エッジAI勢だ。Hailo、Edge Impulse、Graphcore のように、「学習はクラウド、判断は現場」という前提で最適化された企業は、用途次第で一気に存在感を増す可能性がある。日本でも、ソニーのイメージセンサー系技術や、ルネサスの産業向けSoC(システム・オン・ア・チップ:コンピュータに必要な機能を1つの半導体にまとめたもの)など、部分最適では強いプレイヤーがいる。
この層が重要なのは理由がはっきりしている。ロボットはクラウドだけでは動けない。遅延が許されないからだ。通信が切れても止まってはいけない。安全が最優先されるからだ。そのため、判断の多くは現場、つまりエッジで完結する必要があると思っている。
つまり、神経系を握る企業は、ロボットが「どれだけ賢く」「どれだけ安く」「どれだけ安全に」動けるかを決めてしまうのだ。脳と身体の間に位置しながら、実は全体の制約条件を支配する。この層は地味に見えて、極めて戦略的な立ち位置の企業になる。
●シミュレーション/デジタルツイン(学習)
5つ目は、シミュレーションやデジタルツインなどの学習機能の企業だ。この層が重要になる理由は単純だ。ロボットを現場で一体ずつ人が教えていたら、絶対にスケールしない。2000年代初頭、PCと制御装置を配線で繋いでファームをアップしたことがある。最悪の経験だった。勿論26年移行は、一定人間のように何らかのミスや失敗や事後があれば、そこから学習するなどの機能は必須だろう。ただ、いちいちリアルの場で行っていたら、今度は結構な割合で事故が多発して導入を見送る状況が想像できる。
だから学習は、まず仮想空間で行われる。現実とほぼ同じ物理法則、摩擦、重さ、衝突を再現した環境で、何千回、何万回と失敗させる。そして現場では、最後の微調整だけを行うのだ。この仮想で鍛え、現実で仕上げる前提が、ロボットの普及を現実のものにするのだ。
この学習の工場を押さえる企業も強くなる。その象徴が NVIDIA だ。NVIDIAがGPUやSoCだけでなく、OmniverseやIsaac Sim(NVIDIAが提供するロボット向けの学習環境)といったシミュレーションの枠組みまで含めて語るのは、計算力だけでは勝てないことを理解しているからだ。学習環境を押さえた者が、脳と身体の進化速度を決めるのだ。
ただ、この層もNVIDIA一強ではない。Unity は、ゲームエンジン由来の強みを活かし、物理シミュレーションとインタラクションの設計で存在感を持つ。Epic Games(Unreal Engine)も、フォトリアルな再現性とデジタルツインの文脈で産業用途へ広がっている。Siemens や Dassault Systèmes のような産業系プレイヤーは、製造ラインや設備のデジタルツインを長年扱ってきた経験を持つ。
ワンチャン勢も多い。Ansys のようなCAE(コンピュータ支援エンジニアリング)系は、物理の精度で強い。Covariant のように、学習データそのものを資産として積み上げる企業も出てきている。大学発やスタートアップも含めれば、特定用途に最適化した学習環境で一気に抜ける可能性は十分ある。
ロボットの賢さは、現場ではなく、現場に出る前の学習量で決まるというのが面白いところだ。本番前に、どれだけ多くの失敗をさせるか。その失敗を、どれだけ安く、安全に、速く回すか。そこを支配する企業が、ロボット経済圏の進化速度を握るのだ。
●通信や運用
最後は、通信や運用を担う企業だ。この層は完全に技術の凄さから離れる。問われるのは、ロボットを何台作れるかではない。100台、1000台、1万台と増えたときに、止めずに回し続ける必要がある。
ロボットが普及すると、次は運用が重要になる。ログを集め、状態を監視し、ソフトウェアを更新する。異常を検知した場合、止めるべきときは止めないといけない。事故を未然に防ぎ、起きた場合は記録を残し、責任の所在を整理する。そして、それらを保険や契約、規約に落とし込む作業も必要になる。この一連が回らなければ、どれだけ優れたロボットも、現場では使い続けることはできないい。
中心にいるのは、AWS、Microsoft Azure、Google Cloud といったクラウド事業者だ。彼らは計算資源を提供しているだけではない。ログの集約、デバイス管理、セキュリティ、アップデート配信といった「止めない運用」の型をすでに持っている。
通信キャリアも重要になる。ロボットは常にクラウドにつながっている必要はないが、つながるべきときには確実につながらなければならない。低遅延、冗長性、切断時のフェイルセーフ。こうした条件を満たせる通信インフラを持つ企業は、ロボット経済圏の裏側で不可欠な役割を担う。
さらに、この層には運用ソフトウェアの企業が入ってくる。デバイス管理、遠隔監視、ログ分析、セキュリティ対応。これらは派手ではないが、現場では最も信頼される部分だ。ロボットが「いつ壊れたか」よりも、「なぜ壊れなかったか」を説明できることが、導入の条件になる。
この層の価値は、規模が大きくなるほど増していく。ロボットが数台なら、人が見張れる。数十台でも何とかなる。しかし数千台を超えた瞬間、人の目は役に立たなくなる。そこで初めて、通信と運用の設計が、経済圏の土台として効いてくる。この運用層は地味だ。だが極めて重要だ。
もちろん、ロボットは必ず壊れる。運ぶ人も、直す人も必要になる。ただし重要なのは、その作業を誰がやるかではない。誰の指示で、誰の契約のもとで、誰のデータとして行われるかだ。現場は分散するが、運用は一つに束ねられる。その設計を握った側が、経済圏を支配する。
国内で考えると、この「束ね役」はまったくの新規プレイヤーから生まれるというより、すでに現場と地域を持っている企業が担う可能性が高い。たとえば、ソフトバンクのような企業は、自ら現場に出ることはないが、通信、認証、課金、契約という基盤を持っている。ロボットが増えれば増えるほど、どのロボットが、どこで、どの条件で動いているのかを一元的に把握する必要が出てくる。そのとき、ローカルの保守会社やSIを個別に管理するのではなく、ネットワークとして束ねられる企業が前に出てくる。
一方で、地場のインフラ企業がその役割を引き受ける展開も十分にあり得る。電力、ガス、石油化学といった企業は、すでに「止められない設備」を長年運用してきた。24時間体制、安全管理、行政との調整。ロボットの運用に必要な感覚は、実はこうしたインフラ運用と近い。ロボットが社会に溶け込むほど、こうした企業が担う役割は自然に広がっていく。
さらに、メーカー系やプラント系の企業も見逃せない。彼らはすでに、設備の定期点検や部品交換、長期保守契約をビジネスとして成立させてきた。ロボットは彼らにとって未知の存在というより、「動きが増えた設備」に近い。既存の保守ビジネスの延長として、ロボットの運用を引き受ける余地は大きい。
ここで再び重要になるのは、誰が油をさすか、誰が部品を運ぶかではない。それらの行為が、どの契約に紐づき、どのログとして蓄積され、どの責任分界のもとで実行されるのかだ。現場はローカルに分散していく。しかし、その上位にある運用の設計は、一つに束ねられていく。その構造を設計できた企業だけが、ロボット時代の経済圏を現実のものにするだろう。
(機能で売り続ける企業の近未来)
ここで今回の議論を再度、もう一段抽象化してみよう。長く日本を支えてきた事業は、機能を磨き、性能を売ってきた企業群だ。光学、精密機械、素材、センサー、制御。世界最高水準の技術を持ち、真面目に作り、壊れにくく、正確に動く。そうした企業は確かにすごい。
しかし、その強さは、いまの潮流の中では、対極に置かれてしまう。なぜなら、機能を軸にしたビジネスは、どうしても「売った瞬間(ビックハイア)」で完結しやすいからだ。良い製品を作り、販売し、代金を受け取る。顧客がその後どう使い、どこでつまずき、何に満足したか。つまりリトルハイアの積み重ねには、構造的に関与しにくい。
市場がいま評価しているのは、そこではない。評価されているのは、顧客の財布と習慣を握り、使用を通じて関係を深め、将来のキャッシュフローを自社の中に積み上げていける企業だ。売上の大きさよりも、関係の継続性。単発の販売よりも、使われ続ける設計。その差が、企業価値の差になっている。
ところが、機能重視の企業ほど、販売や顧客接点を子会社や代理店に委ねがちだ。製品は自社のものでも、使用ログは手元に残らない。顧客が何に困り、どこで離れ、どこで感動したかが見えない。結果として、技術は自社にあるのに、顧客経済の主権を持てない状態が続いている。そして、その致命的な欠陥に気づいていないのだ。
この構造は、資本市場から見ると非常に分かりやすい。優れた技術を持つ、信頼できる企業。しかし、顧客を束ねる力は弱い。将来のキャッシュフローは読みにくい。そうなると、評価はどうしても「頃合いの良いハードメーカー」に落ち着いてしまう。買収しやすい部品供給者、あるいは機能提供者として見られるのだ。
プラットフォーム側の視点に立つと、これはさらに明確になる。彼らにとって、優れた技術は喉から手が出るほど欲しい。しかしそれは、顧客を連れてくる価値だからではない。あくまで、自分たちの経済圏を強化するための機能や部品として見ているのだ。だから、技術は称賛される。しかし、評価の中心にはならない。残酷だが、これが現実だと思うのだ。
(まとめ)
最後に、全体を振り返ろう。今回も何日かに分けて書いたので、自分のなかの復讐の意味も含めている。今回のブログは、技術が負けたと言う話ではない。ましてや、技術の価値が消えた話でもない。変わったのは、価値の置き場所だ。
かつて価値は、機能の中にあった。より高精度に、より速く、より安定して動くこと。それ自体が価値だった。しかし今、価値はそれだけでは完結しない。価値は、顧客の生活の中に置かれるようになった。顧客が日常の中で使い続けること。毎日の中で使われ、習慣として定着し、そして最終的には財布の流れの中に入っていく。価値は、そうした場所へと移っているのだ。
だから企業は、「良い商品を作る」だけでは足りなくなった。商品より先に、顧客を取りにいく。顧客との関係性を先に設計する。顧客を取りにいく企業は、将来のキャッシュフローを増やすことが可能だ。すると、株価が高くなり、株価が高いから、ロールアップで周辺領域を取り込むことを続ける。そうして事業は拡張し、結果として産業の境界が曖昧になっていく。
境界が曖昧になると、次に争点になるのはポイントや決済、デジタル通貨だ。つまり誰が顧客の財布を握るのかという競争だ。覇者は国境そのものを取りにいくわけではない。経済圏を取りにいく。中国や各国の国家DXは、その未来がすでに始まっていることを示している。
そしてCES 2026が示唆しているのは、その経済圏が、ついに物理世界へ伸びてくるという兆しだ。AIは画面の中から出ていき、ロボットとして現場や家庭に入り込む。ロボットは単なる機械ではなく、支払いと接続される経済圏の端末になる。労働と金融、物理とデータが、そこで重なり始める。
この流れの中で、機能を軸に強さを築いてきた企業は、どう生きるのか。誰と組むのか。プラットフォーマーが国境を簡単に越えていったように、機能を軸に戦ってきた企業も、まもなく選択を迫られる。今回書いてきた経済圏の中で、下流工程として組み込まれるのか。それとも、上流の一部として接続されるのか。
極めて戦略的な議論だと思う。そしてこれは、従業員1,000人から2,000人規模以上の企業にとって、もはや無視できない世界になってきている。
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