
新規事業の旅211 AI導入の本質
2025年9月3日
早嶋です。2000文字。
2025年にMITが発表したある調査報告が話題を呼んでいる。企業におけるジェネレーティブAIの導入プロジェクトのうち、実に95%が収益や業務改善といった明確な成果を出せていないというのだ。一方で、残りの5%は、AIの力を最大限に引き出し、急速に価値を高めている。この「AI格差」は、単に技術力や資金の多寡ではなく、導入の方法や現場との接続の仕方に起因していると、同レポートは指摘している。
特に象徴的だったのが、「学習ギャップ」という言葉だ。多くのAIツールはユーザーのフィードバックを取り込むことができず、状況に応じた学習も行えず、結局のところ「賢い風の箱」に過ぎない。そのため、現場の誰もが期待したが、役に立たなかったという印象を抱いて終わる。たとえば、カスタマーサポート部門にAIチャットボットを導入したものの、質問内容を適切に分類できず、結果的に人手が倍増したというケースもある。
また、同時に注目されたのが「シャドウAI」という概念だ。これは、企業が公式に導入したツールではなく、従業員が勝手に使い始めたChatGPTやClaudeなどを指す。多くの場合、現場の人間はこちらのほうを好んで使い、実際に成果を出している。しかしながら、その活用状況が可視化されておらず、セキュリティやコンプライアンス上のリスクにもなっている。この二重構造は、まさに「上が考えるAI」と「下が使うAI」の乖離を表しているようにも見える。
このような現状を見て思い出すのは、2000年代初頭のIT導入ブームや、2010年前後のアプリの乱立だ。あの頃も「ITを入れれば改革できる」「アプリで全てが変わる」といった幻想が世の中を覆っていた。しかし、現場の仕事の流れや文化にフィットしなければ、どれだけ便利な技術も意味を持たなかった。たとえば、ERPを全社導入したが、実際にはExcelとホワイトボードの併用が続き、結局は現場が疲弊するだけだったという話は数え切れないほどある。
AIもまた、同じ道を辿りかけている。つまり、現場や企業特有のワークフロー、判断の癖、人間関係、そういったものに対する理解と配慮がないまま、「AIを入れれば解決する」という前提でプロジェクトが走り出す。しかし現実には、AIは魔法の杖ではなく、あくまで道具に過ぎない。しかも非常に繊細で、文脈に依存する道具だ。
そこで重要になってくるのが、「課題の見える化」だ。多くの企業が失敗するのは、そもそも何が課題なのかを定義できていない点にある。目的と現状が曖昧で、そのギャップがどこにあり、なぜ発生しているのかという構造的理解がない。だから、どの程度の取り組みをすればいいのかも分からず、やみくもに「AIを使おう」となる。問題のメカニズムが見えていないので、どこにメスを入れるべきかという意思決定もできない。
この点において、非常に納得感のある視点がある。それが「統合ではなく接続」という考え方だ。かつては、あらゆる業務を一元管理する巨大な統合システムを作ろうとした。だが今は違う。既存のツールやデータベース、業務プロセスを緩やかに接続し、柔軟に組み合わせていくことで、現場の変化に即応できる体制を築く方が効果的なのだ。
たとえば、ある中堅のサービス業では、月300件ほどの定型的な問い合わせを生成AIに代行させる取り組みを始めた。SlackとZendesk、そしてNotionをAPIで接続し、現場の人間が「この言い回しだとAIが分からない」と週次でレビューを重ねていった。その結果、初動の応答時間が大幅に短縮され、オペレーターの手間も減った。「このAIなら手放せない」という声が自然に生まれ、他部署への展開もスムーズだった。
一方で、ある大手製造業は、ERPとAI、IoTセンサーを全社で統合しようとしたが、設計に8ヶ月、構築に2年をかけても、業務改善には結びつかなかった。理由は明白で、AIに学ばせるための文脈データが整っておらず、学習ギャップが解消されなかったからだ。各部門もバラバラに運用し、統一された運用ルールもなく、結果として誰にも使われなくなってしまった。
AIを使う前に、本当に必要なのは「見立て」なのだ。どこが本当に苦しいのか。なぜそこに負荷が集中しているのか。それを構造的に理解し、まず一つのペインポイントを改善する。そこで成果が出たら、周辺に接続を広げていく。この順番が守られない限り、AI導入は失敗する。
そして最後に強調したいのは、AIは主役ではないということだ。あくまで、現場の知恵と工夫を支える道具であり、文脈を読み取るパートナーに過ぎない。魔法ではなく、鍬や包丁のような道具として、適切な場所で、適切に研がれて初めて力を発揮する。だからこそ、現場の人間こそが「何に効いて、何に効かないのか」を実感し、語れる環境づくりが、AI導入の鍵なのだと思う。
新規事業の旅210 人間の進化と悩み
2025年8月29日
早嶋です。2300文字。
人間は、知能を持った生き物の代表になった、たぶん。ホモ・サピエンスという今の人類が、他の生き物よりも優位に立ち、道具を使い、集団で協力し、言葉を操るようになったのは、だいたい5万年前あたりからだと言われている。当時の世界の人口はごくわずかだった。1万年前でも、世界全体でたった400万人ほどで、今の東京よりも少ない規模だ。
それが長い時間をかけて、少しずつ増えていった。1900年には16億人。2000年には61億人。そして2025年には82億人にまで増えている。ここまでくると、直線的な増加というより、爆発的に跳ね上がっていると見た方が正しい。
人口増加は胃袋の増加だ。それだけ食べ物も必要になる。だから人間は、自然の流れに任せるのでは足りなくなって、食料を人工的に作るようになった。森を切り開き、畑をつくり、牛や羊を育て、水を引いて田んぼを耕す。農業の始まりだ。この頃から人類は、自然のエネルギーだけでなく、自分たちで集めて変換した新たなエネルギーを使いはじめたのだと思う。
最初は人力や動物の力で作業をしていたが、やがて蒸気や機械が登場し、効率よく大量生産ができるようになっていく。でも、それでもなお、当時使われていたエネルギーは、今のAI時代と比べれば、本当にかわいらしい規模だっただろう。
2022年ごろから、AIが一気に私たちの生活に入り込んできた。月20ドルくらいのサブスクを払えば、誰でも高性能なAIを使えるようになってきた。文章を書いたり、絵を描いたり、データを分析したり。ChatGPTのようなAIが登場してから、何かが一気に変わった気がする。
でも、新たな問題も出てきた。それが電気だ。
AIは、たった1つの質問に答えるだけで、0.3Wh前後の電力を消費する。これは、Googleで検索するよりも30倍も多いという。しかも、AIを動かしているのはGPUという超強力なコンピュータで、それを何百台も同時に動かしている。さらに、その熱を冷やすために、巨大な冷却システムも24時間動いている。昨日のブログにも書いたが、AIが1つの答えを出すだけで、人間が1日かけて脳で考えているのと同じくらいのエネルギーを使っていることになるのだ。
興味が出たので調べてみた。電気の使い道の変遷だ。時代とともに大きく変わってきているのだ。
たとえば1900年ごろの電力は、主に工場の機械を動かしたり、列車を走らせたり、都市の照明を灯すために使われていた。とはいいっても前半は列車は石炭、都市の証明はガスを燃やしていた。当時は家庭に電気が通っていない場所も多く、電力のほとんどは産業や一部の交通インフラのための動力源だっただろう。
それが2000年ごろになると、冷蔵庫や洗濯機、エアコン、テレビ、パソコンといった家電が当たり前になり、工場やオフィスなどの空調や照明など、電力の使用が広範囲に、そして前提になった。食料自給問題の議論も方方で議論されるが電力の確保をあわせて議論しないと意味がないくらい電気が生命のベースになっているのだ。
2025年の今。家庭やオフィスの電力消費は依然として大きいが、近年急激に伸びているのが、AIやデータセンターのための電力消費だ。たとえばアメリカでは、AI関連(主に大規模言語モデルや生成AI)だけで、電力全体の約4%を使っているという推定もある。しかも、これはたった数年で伸びた数字だ。このまま進めば、2030年には8%を超えるとも言われている。
データセンターでは、計算に使われるコンピュータ(GPUなど)そのものの電力だけでなく、それを冷やすための空調設備にも大量の電力が使われている。特にAIモデルは発熱が大きく、冷却コストが電力全体の半分近くになることもあるとされている。つまり、「AIを動かす」には、計算機だけではなく、建物全体、空調システム、配電盤までもが密接に関わっているということだ。
さらに、ビルの立地や電力網の強さによってもAI活用の限界が変わってくると考えると、今後の技術競争は、演算能力ではなく、電気の確保と配分の戦いになるのではないか、と思ってしまう。そして将来的には、電力全体の中でAI関連が20%から50%を占めるような時代が来るかもしれない。そうなれば、誰がどれだけ安定的に電力を確保できるかが、国や企業の存続すら左右する。そんな時代が、もう目前に迫っているのではないだろうか。
人間はいつの時代も、生きるためにエネルギーを使ってきたと思う。人口が増えたから、食べ物をつくるために森を切り開いた。作るだけでは間に合わなくなったから、機械を導入して効率化した。そして今は、複雑化した問題を解くために、AIを使おうとしている。でも、そのAIを動かすために、今度は莫大なエネルギーを用意しようとしている。なんだか少し皮肉な話だな、と思う。
そう考えると、ふと思うのだ。
狩りをして、魚をとって、自然とともに静かに暮らしていた縄文時代の人たちが、実は最も贅沢な人生を送っていたのではないか?と。もちろん戻ることはできないし、あの生活には不便も多かったのだろうけど、それでも、人間として自然と共に呼吸していた時代だったのではないか、と思ってしまう。その時代は1万年近く継続した。
「進歩」とは何だろうか。便利になることは本当に良いことなのか?そして、人間の脳ではなく、AIに問題を考えさせる時代のその先に、本当に幸せがあるのか?
コンピュータとロボットとAIが全てを動かす時代になって、人間は暇になる。そして、その意味を考えることに没頭するようになる。なんだか星新一の短編小説の世界を生きているような感じがする。
新規事業の旅209 20Wで世界を制御する人間
2025年8月29日
早嶋です。1700文字。
人間は1日わずか20W程度のエネルギーで、すべての思考と、生命を維持する活動を行っている。脳の重さは約1.4kg。たったそれだけの質量の中に、知性、感情、直感、記憶、判断、行動のすべてが詰まっている。そして、冷却装置もなく、ほぼ無音で稼働しつづけている。
この「20W」という数字は、生理学と神経科学の研究に基づいている。人間の脳は体重のわずか約2%しかないが、基礎代謝全体の約20%から25%ものエネルギーを消費している。一般成人の基礎代謝はおよそ1,300kcal/日から1,500kcal/日であり、そのうち約260kcalから350kcalが脳の活動に使われていることになる。これは電力量に換算すると約0.3kWh/日から0.4kWh/日(=1,200〜1,500キロジュール)に相当し、平均出力でいえば15Wから20W前後になるのだ。
つまり私たちは、朝起きて、考え、食べ、動き、悩み、笑い、眠るまでのあらゆる営みを、20Wの省エネ脳で処理していることになる。すごいのだ!
一方、現在のAIはというと、たった1つの推論を出すのに数百Wから数kWの電力を消費している。たとえばGPT-4では、1回の応答でおよそ500Wh(=0.5kWh)前後のエネルギーが使われると試算されている。これは、人間が1日かけて生きる全消費エネルギーと同じである。
つまり、AIは人間の1日分の生きるエネルギーを、たった1回の発言で使っているということだ。
この差はどこからくるのか興味があると思う。それは、AIが「超正確に」あらゆる可能性をロジックで組み上げて解を出そうとするのに対して、人間は「曖昧に」考えることで、より早く、安く、省エネで答えを出しているのがメカニズム的な理由だ。
この曖昧さは、怠惰や雑ではなく、むしろ直感や経験則に基づく近似アルゴリズムであり、ヒューリスティック(heuristic)と呼ばれる。「なんとなくこっち」「たぶんこうだろう」というものだ。そうした判断の背景には、実は数えきれない過去のパターンの蓄積がある。
AIの世界でも、チェスや将棋などの特定領域においてヒューリスティックなアルゴリズムは成功している。特定の局面では「最善手」を選ぶための効率的な近道が開発されているのだ。しかし、それはあくまで閉じたルール内での最適化であり、人間のようにその思考様式を他領域に応用すること(汎用化)はまだできていない。人間は、将棋で学んだ戦略性を、ビジネスや人間関係に転用できる。AIは、まだそれができないのだ。
近年では、エッジAIやTinyMLなど、マイコンレベルでの省エネAIの実装も進んでいる。さらに、スパイキング・ニューラルネットワーク(SNN)という、人間の神経細胞の「発火」モデルを応用した仕組みも登場しており、電力効率の面では非常に期待されている。
だが、現時点ではこれらはおもちゃレベルの域を出ておらず、現実の複雑さを処理できる次元には至っていない。
また、現在主流のLLM(大規模言語モデル)は、Transformerという非常に重い構造で全ての入力パターンを計算しており、「直感で飛ばす」「経験で割り切る」といった省エネ的な思考は一切行っていない。
将来的には、「思考ルーチンそのものを選ぶ」メタ・ヒューリスティック構造、つまり「このタイプの問題にはこう答えればいい」という知識の再利用ができるAIが登場するかもしれない。だがそれも、20Wで世界を制御する人間の脳には、まだ到底及ばない。
「よくわからないけど、こっちの気がする」
「経験上、この道はまずいかもしれない」
「いや、こっちの方がうまくいくはずだ」
そうした曖昧で確信的な判断は、実は何百万回もの試行錯誤と体験によって磨かれた、圧縮された知性なのだ。私たちはその機能を、わずか1.4kgの脳に実装しており、それをたったの20Wで動かしている。冷却装置も、ファンも、水冷タンクも不要。沈黙の中で、何十年も絶え間なく、迷い、学び、判断を続けている。
AIがこの境地にたどり着くには、まだ長い旅が必要なのだ。
旧暦コラム 夏の終わりに吹く風
2025年8月28日
早嶋です。
2025年8月も、終わろうとしている。
昼間はまだ暑い。太陽はギラギラと容赦なく照りつけ、湿度は高く、空気は肌にまとわりつく。これではとても「秋の気配」とは言えない。たぶん、誰もがそう思っている。しかし、昨日の夜、息子と近所の通りを歩いていると、風が少しだけ違ったように感じた。なんというか、真夏の重たい熱風ではない。肌を撫でるような、少し乾いた風。少し冷たい風。目には見えないが、風の質が変わってきたような気がした。
ふと、旧暦では今日は何の日なのか、気になった。
グレゴリオ暦の2025年8月28日は、旧暦でいうところの令和七年八月五日だ。旧暦の八月は「葉月(はづき)」と呼ばれる。「木々の葉が落ち始める月」が語源だ。もちろん、現代の暦ではまだ青々とした木々に囲まれていて、葉が落ちる気配はない。それでも、虫の音や夜の風は、確実に「秋が近い」と教えてくれるのだ。
旧暦では「立秋」はすでに過ぎていて、今は「処暑(しょしょ)」という時期だ。処暑は「暑さが止む」と書く。昼間はまだまだ暑くても、朝晩の空気には涼しさが混じる。まさに、昨夜感じた風だ。旧暦の世界では、この頃から月見の準備が始まる。中秋の名月(旧暦八月十五日)は、今年でいえば9月6日。夜空を見上げて、月を待つ感性。それもまた、風の変化に気づく人の特権かもしれない。
季節の境目というのは、カレンダーで確認するものではなく、自分の肌で感じるものだ。誰かにとってはただの夜風が、誰かにとっては、季節のスイッチを押す合図になる。旧暦の暦や歳時記は、そんな人々の感性を千年単位で記録してきたのだ。そう考えると重みがあり、とても有り難いと思う。
ふと吹いたその風が、何の前触れもなく「秋です」と教えてくれる。それにたまたま気がついた。昨晩は自分の心に少しだけ余白があったのだろう。
公務員のマネジメントに思う
2025年8月27日
早嶋です。
5年ぶりに、運転免許の更新に行った。場所は昔からあった、ゴールド免許センターが移転になっており、少し探した。しかし、会場の雰囲気は相変わらずだ。どことなく病院のような、役所のような、そういう空気をまとった空間。朝から多くの人が並び、流れ作業のように各ブースを回る。だが、ふと感じた。
「これ、20年前と何も変わっていないのではないか?」
案内の通知はハガキで届く。ハガキには、自分の講習区分や持ち物、手続き場所などがびっしり書かれている。ところが、このハガキには優良運転者も違反者も同じような説明が書かれていて、正直読みづらい。そして、予約は別途QRコードを用いてWebで取るのだが、その際にまた免許番号や生年月日などを手入力する必要がある。すでに本人宛てに通知を送っているのに、なぜここでまた本人確認のような手続きが必要なのか。
そう感じて、改めて一連のプロセスを観察してみた。
受付で紙のアンケートを記入し、窓口で手数料を支払い、視力検査を受け、30分の講習を聞く。最後に免許証が交付される。もちろん、ところどころに機械で読み取って、印字するなどの流れは改善されているが、トランスフォーメーションが起きていない。むしろ、マイナカードやQRコードといった要素が中途半端に入り込んだことで、むしろ余計に煩雑になっているようにも見える。
そもそも、なぜ免許更新の制度は、3年や5年という定期更新が原則なのだろう。安全運転をしているかどうかを定期的に確認するという意味では合理的かもしれない。だが、今は違う。すでに、過去の違反履歴や事故履歴、さらには運転スタイルに関するデータまで蓄積できる時代だ。であれば、更新の間隔は一律でなくてもよいはずだ。
たとえば過去10年間一度も違反や事故を起こしておらず、安全運転を続けている人には、10年更新でもよいだろう。一方で、違反が多かったり、事故歴があるドライバーには、1年から2年おきの講習とチェックを義務づける方が合理的だ。実際、そうしたデータドリブンな設計は保険の世界では当たり前になってきている。
また、高齢者についても同様だ。日本では70歳以上になると免許更新は3年おきに固定され、75歳以上になると認知機能検査が追加される。だが、年齢だけで一律に判断するのは、フェアではないと思う。80歳でも日常的に運転をしていて、認知能力も身体機能も保たれている人もいる。逆に、70代でもリスクが高い運転者もいる。重要なのは「年齢」ではなく、「能力」だ。
さらに言えば、「更新」という概念自体をパッケージで考えるのではなく、分解してもいいと思う。たとえば、運転に支障がないかの健康チェックは年1回、講習はオンラインで2年に1回、免許証そのものの物理更新は10年に1度。そんなふうに、要素ごとに柔軟に設計することだってできる。
こうした仕組みを支えるのは、もちろんデータだ。だが、そのデータはすでに持っている。警察も、行政も、保険会社も。あとは、それを使っていい制度設計に変えるかどうか。つまり、マネジメントの問題だ。しかし、公務員にはマネジメントの概念が損沿いしない。現場が悪いのではない。構造が、変えるインセンティブを持っていないからだ。
前例通りに粛々と手続きを回す方が、評価され、責任を問われずに済む。そこに改善やUXといった概念が入り込む余地は、あまりない。でも、それではもう通用しないと思う。マイナンバー制度を導入し、デジタル庁まで立ち上げた今こそ、行政の体験設計を抜本的に見直すチャンスだと思う。免許更新という、日常の些細な体験だが、社会全体の制度設計が滲み出ている。変えようと思えば、変えられる。誰でも同じような思いがあり、おおくの場合、解決策も見えている。テクノロジーは十分にあるのだ。
新規事業の旅208 SHEIN制裁が映し出す規制機関の存在論
2025年8月22日
早嶋です。約3700文字です。
(SHEINとACGMによるGreenwashingの概要)
中国発のファストファッションプラットフォーマーSHEINは2024年9月、イタリアの競争・市場保障局AGCMにより「環境に優しい」とする表現が、正確でなく、気を起こさせるものであるとして調査対象となった。
問題は「evoluSHEIN」コレクションなどで用いられた「リサイクルコットンの原料を使用した」「環境に優しい素材」などの文言だ。更に、実態や範囲を明示せず「素材の5%だけがリサイクル」といった例もあるのに、商品全体が環境配慮型であるかのような表現がされていたことだ。また、SHEINは2030年までに温度加減排出量を25%減らす、そして2050年までにネットゼロを達成すると宣言している一方で、実際には2022年から2023年間に排出量が増加していたこともAGCMの評価の一因となった。
結果として2025年8月4日、SHEINに対して100万ユーロの制裁金が科された。AGCMはその重要性を語り、「ファストファッションという高い環境負荷を持つ産業に属するなら、より高い責任が必要である」としたのだ。
(SHEINは欧州ファストファッションからの制裁の対象か?)
素直にニュースを受け止めないのが私の悪い癖だ。この制裁は、「エスタブリッシュメントからの排除メッセージの可能性が無いかな?」と思ったのだ。実際にSHEINはプライスでライバル会社の1/3程度で販売し、若者を中心にシェアを拡大している。確実に欧州ブランドにとって強い脅威なのだ。
しかし、諸々調べると中立な期間だった。委員は内閣からではなく議会によって選任される仕組みを持つ。そのため、政治的な意図や企業からの圧力に左右されにくい構造で、制度的に中立性・公正性が強く担保されている。また、調査・制裁の実施過程では公開された年次報告や第三者監査を通じて透明性が確保されており、制度的ガバナンスの水準は高い。
実際に、AGCMは国内外の主要ファストファッション企業に対して同様の基準で調査を行っている。その一例として、H&Mに対する「Conscious」コレクションの問題を見るとわかりやすい。このコレクションでは、商品タグに「持続可能な素材を使用」「高級なオーガニックコットン使用」などと記載されていたが、AGCMはその根拠となる具体的な割合・認証基準の不明瞭さや、検証可能性の欠如を問題視したのだ。また、同シリーズの一部商品が、従来品とほぼ同じ素材構成であるにもかかわらず価格が上乗せされていたことから、消費者を誤認させる不当表示に該当する可能性があると警告を発した。これによりH&Mには自発的な修正と情報開示の強化が求められた。
このような事例は、AGCMが特定のブランドを標的とするのではなく、市場全体に対して一貫したルールの適用を目指していることの証左といえる。
(ラグジュアリーブランド寄りの可能性は無いか?)
今度は、逆にファション全体に対して視野を広げて疑ってみた。SHEIN以外のファッションブランドに対するAGCMやEU、そして各国の規制当局による調査事例を見ることで、公平性を評価することができると考えたのだ。
たとえば、イギリスの競争・市場庁(CMA)は2022年、ASOSおよびBOOHOOに対して「サステナブル・コレクション」と題した一連のプロモーションが、消費者に誤解を与える可能性があるとして調査を開始した。具体的には、両社が展開する「Responsible Edit」「Ready for the Future」といったコレクションにおいて、素材の実態や選定基準が曖昧で、特に「リサイクル含有率が20%から25%にすぎない商品」に対しても「サステナブル」と称する表現が使われていた。さらに、独立した第三者認証が明示されていないにもかかわらず、環境に優しいという印象だけが強調されていたことも問題とされた。
このような手法は、あたかも企業が環境負荷の軽減に真摯に取り組んでいるかのような「グリーンイメージ」を演出し、いわば「意識の高い消費行動を装う」ためのマーケティングであったのだ。これに対し、CMAやAGCMは「消費者に誤った選択をさせるおそれがある」として、情報開示の明確化と根拠ある表示の徹底を求めた。
さらに、イタリア国内の例としては、Giorgio Armaniグループに対する措置が挙げられる。同社は「倫理と社会的責任を重視している」と繰り返し発信していたが、AGCMはその主張とサプライチェーンにおける実態との乖離に注目した。具体的には、南アジア地域の縫製工場における長時間労働、低賃金労働が報告されており、これが「エシカル・ファッション」を掲げる同社の広報姿勢と矛盾していると指摘された。この件に対しては、是正勧告とともに数十万ユーロ規模の制裁金が科されている。
これらの事例は、AGCMや他の欧州規制機関がファストファッション企業だけでなく、ラグジュアリーブランドに対しても同様の基準で監視を行っていること、そして市場全体に対して公平な規制を意図していることを示している。
(規制機関や組織の存在意義と役割についての考察)
規制機関や組織は、自らの存在意義を、一定の「成果」で示そうとする傾向がある。その成果は、調査件数や制裁金の総額といった数値で測られ、結果として次年度の交付金や予算規模の判断材料となる。
経済学者ウィリアム・ニスカネンは、官僚組織が自らの予算と存続を正当化するために、意図的に活動を拡大する傾向があると指摘した。これは「自己目的化する制度」の典型で、規制当局もまた、その例外ではないと思う。継続する制度は、むしろ問題が継続して存在することを必要とするという、逆説的な構造を内包する。
つまり、問題が過度に解決され、平穏な状態が長期化すると、これらの組織は自らの存在理由を見失いかねない。制度の維持と正義の実現が乖離するリスクがそこにあるのだ。
この構造に対して、フランスの思想家ミシェル・フーコーは、「視る者の権力」という概念を通じて、近代社会が制度と監視によって人間の行動や思考を形成していく様を描き出した。病院、学校、監獄、軍隊などの制度は、単なる管理装置ではなく、「規律と訓練」によって人間を構築する働きを持つ。その視点に立てば、正義の名を掲げる制度が、実のところ制度が制度であり続けるための装置として作用していることも理解できる。
また、歴史的に見ても、正義を名目とした制度が「義を対象化」し、最終的に「制度のための正義」へと変質する構図は繰り返されてきた。たとえば、フランス革命後に設けられた革命裁判所は、「人民の敵を裁く」という大義を掲げて設置されたが、次第に裁くこと自体が制度の存在理由となり、ロベスピエールの恐怖政治を正当化する装置へと変質していった。
また、20世紀においては、マッカーシズム期のアメリカで行われた共産主義者追放も同様である。共産主義という「脅威」への対抗という正義の名のもとに、多くの文化人や研究者が「告発されること」自体を目的とした制度的運用の犠牲となった。
このように、制度が一度「正義を執行する主体」として制度化されると、それは次第に対象を管理し続けること自体に意味を見出すようになる。そして、もともとの目的とは異なる軸で正当性を再生産しはじめる。
このことは、規制当局を「必要悪」として捉える観点を導く。不公正な存在であるとは限らないが、その評価には常に「誰が誰を継続的にチェックするのか」という視点が伴わなければならない。ゆえに、規制当局に対する態度は「不要」ではなく、「要監視」である。それこそが、正義を「独占するもの」から「共有され、問い直されるもの」へと転換させる契機となるのだ。
(感想)
今回のSHEINに対するAGCMの制裁から、AGCMなどの機関のリサーチで感じたのは、「正しさ」とは本当に一枚岩なのだろうか、という素朴な疑問だった。
SHEINのマーケティングが不透明であったことは否定できない。しかし、その一方で、消費者意識の高まりや、環境問題の可視化という求められる姿に、彼らなりに応えようとした側面も見える。問題は、その「応え方」が形式や言葉にとどまり、実態とのズレを生んでしまったことにある。
一方、規制当局もまた、正義を行う主体としては「非人格的な制度」である。制度が制度である限り、そこに完璧さはなく、常にどこかに摩擦やズレが生まれる。
SHEINは、急成長するプラットフォーマーとして、時代の要求に応じながらも制度の鋭さに照らされた存在かもしれない。そこに意図的な悪意を読み取るよりも、むしろ「制度と現実の間に立つ企業」がどう在るべきかという問いが残る。
この出来事は、SHEINだけでなく、規制当局や私たち消費者自身にも「持続可能であること」の意味を静かに問いかけているように思う。
【動画】25年度武者修行研修リーダー版
2025年8月21日
※本ページは25年度開催の武者修行研修リーダー版参加者向けのページです。
(Day1)
リーダー版武者修行研修の参加者は以下の事前課題をご準備の上、Day1の研修に参加下さい。
1)「自己紹介シート」の作成
2)「今、自社が注目する 世の中の社会課題、それに関連する事業チャンスの整理」
※上記、1)2)の詳細は事務局に従って下さい。
3)事前動画視聴(PWは別途事務局に従って下さい)
新規事業の基礎 新規ビジネス創造の前に考えること(約35分)
企業の多くは既存事業が成熟、もしくは衰退期です。そのような中、新規事業の開発の意味とは。その中でリーダーはどのような覚悟が必要か。今回、社会課題を解決するワークを行う際の心構えを確認する目的で視聴下さい。
新規事業の基礎 新規ビジネスの基礎(約40分)
新規事業を生み出すための流れを3つのステップで解説しています。アイデアの創造、ビジネスモデル、そして事業計画です。今回、ビジネスの手法を通じて社会課題の解決について、初めて議論する方もいると思います。動画を視聴して、その考え方や取組みイメージを掴んで下さい。
新規事業の基礎 事業チャンス(社会課題)の発見(約21分)
マクロ環境を見渡すことで事業チャンスを見出す場合があります。本動画は、いかに社会課題を見出すかについて理解します。
(Day2&Day3)
リーダー版武者修行研修の参加者は以下の事前課題をご準備の上、Day2の研修に参加ください。
1)セッション1で議論した課題を各グループでワークする。
・事業チャンス ✕ 強み = ビジネスアイデア
※「誰が?」「何に困っているか?」等を工夫して調べ、関係ある方にヒアリング等を行う
・上記のビジネスアイデアの整理目的でピクト図を整理する
2)事前動画視聴
10億ビジネスの創造
こちらの動画の「10億」はあまり意識する必要はありません。ビジネスモデルキャンパスを作る際の流れや考え方を理解する目的で視聴ください。
デザイン思考 試作
デザイン思考の試作(テストマーケティング)についての解説動画です。セッション2では、みなさんが議論したビジネスモデルを検証し、ブラッシュアップするために、試作について議論を行います。その際の参考知識として視聴ください。
DX戦略 DXの創造
こちらはDX戦略の4本目の動画です。今回のリーダー版の参加者は、
1)ビジネスモデルをどのように構築するか?のヒントとして視聴ください。
2)アイデアの出し方で強み✕チャンスについて議論を深めると、Howにとらわれて、「誰の」「どんな困ったことを」について意識が薄れます。ビジネスモデルは、この2つ「誰の」「どんな困ったことを」が極めて重要ですので再度復習ください。
3)その他、ビジネスモデルの課金やアイデアの考え方について説明していますが、流れをイメージする目的で深く理解する必要はありません。参考までに視聴ください。
(Day4)
受講の事前課題
事後課題として、セッション2で議論した(社会課題)のアイデアをブラッシュアップして下さい。
その際、1)ビジネス・モデル・キャンパスの視点を再び議論して深堀りしてください。また、その際に、2)MVPを作成して、実際の消費者や対象層にヒアリングを行ってください。サンプル数はできる範囲で結構です。セッション3では、各チーム25分の持ち時間の中で10分から15分程度、プレゼンして頂きます。3)各チームでプレゼン資料を整理してください。
1)ビジネスモデルキャンパスのブラッシュアップ
2)MVPの作成とMVPを活用した調査
3)セッション3のプレゼン発表資料の準備
上記をすすめる当たり、プレゼンテーションの基礎の動画を参照ください。
プレゼンテーションの基礎 概要編
プレゼンテーションの基礎 プレゼンテーションの流れ編
プレゼンテーションの基礎 準備編
プレゼンテーションの基礎 コンテンツ編
プレゼンテーションの基礎 デリバリー編
また、セッション2のリーダーシップの学びを深める目的で、以下のリーダーシップの基礎の動画を見て振り返りに活用ください。こちらの視聴は任意です。
新規事業の旅207 ソフトバンクがインテルに出資する理由
2025年8月21日
早嶋です。約3000文字です。
ソフトバンクがインテルに対して約20億ドル(約2,000億円)を投資することを決めた。
インテルは、かつてCPUの王者として世界中のコンピューターを席巻した企業だ。しかし、近年はNVIDIAやAMDに押され、AI時代の覇権争いから取り残された存在になっている。そのインテルに、いまソフトバンクが手を差し伸べた。それは単なる資金援助ではない。製造業の復権、トランプとの関係、そして西側同盟の再構築という、背景があると考えた。
(アメリカ製造への貢献・トランプへの布石)
孫正義さんは「半導体はすべての産業の土台であり、インテルは50年以上にわたり革新の信頼できるリーダーだ」と語っている。これは、単なるリップサービスではない。米国政府は現在、CHIPS法を通じて国内製造拠点の強化に躍起になっており、インテルはその象徴的存在だ。そこに、海外から信頼ある資本を注入するという今回のソフトバンクの動きは、米国の政策と足並みを揃えている。
さらに注目すべきは、トランプとの関係だ。過去にも孫さんは、トランプ政権に対して巨額の米国内投資を表明し、政権との関係を築いてきた。2024年以降、トランプが再び政権中枢に戻る可能性を見出した。今回のインテル出資は「次のアメリカ」に対する意思表明のようにも感じられる。
(出資概要と市場の反応)
今回の出資内容は明快だ。出資額は20億ドル、取得株価は1株あたり23ドル。これは当時の市場株価である約23.66ドルとほぼ同水準で、プレミアムはない。これによりソフトバンクはインテル株のおよそ2%を取得し、同社の上位10株主のひとりとなる。
今回の出資には一切の見返りがついていない。取締役会の席もなければ、製品の供給契約や販路への義務もない。あくまで「株主」として、資本注入を行っただけだ。
恐らく、市場はこの動きに敏感に反応したと考える。インテルの株価は7%上昇。一方でソフトバンクの株価は4%下落した。短期的には「儲かる投資」に見えなかったのだろう。しかしこの投資は、単なる株価上昇では測れない、むしろ、AIインフラの未来におけるポジショニング戦略の一部として見ることができると思う。
(インテルの低迷の理由)
AIの台頭とともにGPUへの需要が爆発的に伸びた。その中で、CPU中心のインテルは時代遅れになった、と説明されることがある。だが、実際にはもっと深い理由があると考える。
第一に、インテルはプロセス微細化の競争において著しく後れを取った。10nmプロセスの量産は何度も延期され、結果として5年以上14nm世代に留まるという遅滞が生まれた。その間にTSMCは5nm、4nm、3nmと世代を進め、設計企業は続々とファウンドリへと移行した。
第二に、インテルは自社での製造に固執しすぎた。垂直統合型モデルを守るあまり、外部ファウンドリの柔軟性や最新技術を活用できず、サプライチェーン全体が硬直化した。結果として新製品の市場投入のスピードも著しく劣り、スマートフォン、AI、エッジといった新興市場での存在感を失った。
しかし、この状況を単に「時代の流れ」として片付けるのは不十分だ。同じx86系CPUメーカーであるAMDは、設計に特化してTSMCと提携し、チップレット構造を導入するなど積極的な技術革新を推し進めてきた。チップレット構造(chiplet architecture)」とは、従来の「モノリシック構造、つまり1枚の大きなチップにすべての回路を詰め込む設計とは異なり、機能ごとに小さなチップ(チップレット)に分割して組み合わせる半導体の設計手法だ。ざっくり言うと、1枚岩の巨大チップからレゴのように複数の小さな部品を組み合わせる構造へと変化させることだ。そのチップレット構造を導入した結果、サーバー向けCPU市場でも着実にシェアを伸ばし、今やインテルと互角以上の評価を受けている。つまり、外部環境のせいではなく、経営の意思決定と構造の問題が、インテルの競争力を削いだのだ。
(イノベーションのジレンマだがCPUの重要案役割も)
AIとGPUが市場の主役になっているのは確かだ。しかしその一方で、AIの学習や推論が行われるインフラには、依然として大量のCPUが使われている。汎用性、安定性、価格性能比などを考えると、CPUはまだまだ必要とされる部品インフラだ。
それにもかかわらず、インテルはこの需要に応えることができなかった。その理由は、単に戦略ミスだったわけではない。むしろ、かつてのインテルの成功体験そのものが、変化への対応を鈍らせる原因になった。これは「イノベーションのジレンマ」と呼ばれる現象で、企業が既存のビジネスモデルや技術で大きな成功を収めると、将来的に主流となるかもしれない新しい技術や市場を軽視し、結果として革新に乗り遅れてしまうというものだ。
インテルにとっての成功体験とは、x86アーキテクチャによるCPU支配、そして自社工場でチップ製造まで完結させる「垂直統合モデル」によって築き上げた高収益なビジネス構造だ。この枠組みを崩せば、自社の強みそのものを否定することになる。そのため、AMDが行ったような外部ファウンドリ(TSMCなど)への依存や、x86以外の新しいアーキテクチャ(Armなど)への本格移行は、経営判断として採りにくかったのだ。
だがその間に、スマートフォンの爆発的普及や、GPU中心のAIコンピューティングの到来など、半導体を取り巻く構造は急速に変化した。そしてNVIDIAやAMD、さらにはAppleのような「後発組」が、柔軟に新技術を取り込み、時代に適応していった。気がつけば、かつての王者インテルは「次の波」に乗り損ねた側に回っていたのである。
成功が変化への抵抗を生み、その抵抗が競争力を奪う。まさにクリステンセンが指摘した通りの構造が、インテルの内部で繰り返されていたと推察できる。
(ASIのNo.1プラットフォーマー)
かつてソフトバンクは、アリババへの投資で中国市場に深く食い込み、大成功を収めた。だが今、孫正義さんはそのアリババ株を大部分売却し、方針転換している。その背景には、以下のような構造変化があった。
中国政府は民間テック企業への統制を強め、ジャック・マーの失脚やAnt Groupの上場中止など、国家主導の経済運営が強まっている。また米中間の技術冷戦により、中国企業への出資は地政学的リスクを伴うようになった。こうした中、ソフトバンクは「西側の半導体同盟」へとシフトしている。
アーキテクチャでは自社傘下のArm(英)、GPUではNVIDIA(米)と関係を維持し、CPUでは今回のインテル(米)への出資。そして、場合によってはAMD(米)との距離感も調整すると思う。これらに加え、台湾TSMCや韓国Samsungといったファウンドリ勢を組み込むことで、西側諸国のAIインフラを構成する中核連合を形作るのだ。その全体像の中心に、自らを位置付けようとしている。
このような構造転換の先に、孫正義さんが描くのが「ASI(人工超知能)のNo.1プラットフォーマー」になるという構想だ。2025年の株主総会で明言されたこのビジョンは、AIのその先、つまり人間を超える知性を前提とした世界で、ソフトバンクが最も重要な基盤となることを目指すものだ。そのために、Armを中核に据え、OpenAIとの連携やStargateプロジェクト、そして今回のインテル支援などを組み合わせて、次のAI時代における「知性のOS」そのものを支配しにいっている。
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新規事業の旅206 日本企業の構造的な惰性
2025年8月20日
早嶋です。3000文字です。
(構造的惰性)
複数の事業を持ち、本部機能と現場機能を内包する比較的大きな組織では、「壁」の存在が問題視される。本部と現場の壁。事業部間の壁。部門間の壁。こうした壁があることで、コミュニケーションは滞り、情報は共有されず、「言いたいことが言えない」空気が蔓延する。結果として、対処が遅れ、問題の発見も遅れ、課題が組織の中で停滞したままとなる。そして、その状態が当たり前になり、誰も本気で対処しなくなる。
その一方で、現場の多くの社員は「忙しい」と口にする。しかし、何に忙殺されているのかを問い直しても、その実態は可視化されておらず、行動と時間消費に対する妥当性の検証もされていない。「忙しい」が日常語となり、問い直されることのない前提として放置されているのだ。
さらに、恒常的に耳にするのは「人手不足」だ。しかし実際に人員が足りていないのかと言えば、話はそう単純ではない。問題は「人材の量」ではなく「質」、つまり「優秀な人材がいない」という論調にすり替わるのだ。だが、その優秀の定義を問うと、明確な答えは返ってこない。
このように、「壁」「忙しい」「人手不足」という言葉は、どれも現象としては認識されているが、具体的な中身に踏み込んで構造的に整理されていない。課題が言語化されず、過去の繰り返しを惰性的に回し続けているだけであり、それが組織の慢性的な停滞を生んでいるのだ。「惰性の安定」の先には、「ゆるやかな死」が待っている。悲しいかな、急激に崩壊することはないが、じわじわと競争力を失い、誰もその兆候に気づかないまま沈んでいく。そんな未来が見えてしまう。
(なんとなくの正体)
多くの企業では、人の採用を「学歴」で判断してきた。学歴はラベルである。本来見るべきは、その人のキャラクターや経験、ポテンシャルであるべきだが、採用は配置要員の確保という組織都合で行われた。採用後は、画一的な新人教育を経て、任意の事業部に割り振られる。この時点で、個人の能力や適性よりも、「組織の空きポスト」が優先されている。今の若手世代が「ガチャ」と表現する。言い得て妙だ。
教育についても、全社的には新人研修と階層別研修がある程度で、実践的な専門教育は事業部に丸投げされている。しかし、事業部側においても、教育が仕組み化されているケースは稀であり、ほとんどは「見て学べ」「先輩の背中を見ろ」という属人的な育成に依存している。上司にノウハウがあれば育つが、なければ放置。ここに、育成の再現性はないのだ。
その結果、「なんとなく人がいない」「なんとなく教育ができていない」「なんとなく通じ合えない」といった「なんとなくの不全」が蔓延する。これもまた、可視化されず、誰も問い直さない。
私の仮説だ。原因の一つは、日本社会が長年維持してきたメンバーシップ型雇用だと思うのだ。職務の定義がなく、人ではなく空席に人を入れる。そして、育成もキャリアも評価もすべて曖昧なまま回していく。キャリアプランなどはなく、定期的に配置を変えて突然の異動のあらし。逆らえば分が悪くなると思った社員は徐々に無気力になっていく。
(鍵はジョブ型だが進まない)
この構造を打破する鍵は、間違いなく「ジョブ型雇用」への移行である。しかし、日本におけるジョブ型移行は、掛け声だけが先行し、実態が伴っていない。
なぜか。最大の理由は、「制度・構造・文化のすべてが、ジョブ型と相容れない」からだ。考えられるポイントは6つある。
まず、日本の企業は 解雇規制が強すぎるのだ。ジョブ型は「仕事に人をつける」発想である。つまり、仕事が消えれば雇用も終了するのが本来の姿だ。しかし日本では、職務が消滅しても、人を解雇するのは非常に困難である。そのため、これまで解雇をせずに、職種を変えてでも雇用を守ってきたのだ。ただ、この運用は本来のジョブ型と相反するのだ。
次に、年功的な賃金カーブが足かせになっている。本来、ジョブ型では職務の価値に応じて報酬が決まる。しかし、伝統的な日本企業は、年齢や勤続年数による賃金カーブが残り続け、それがジョブ型設計の足かせとなっている。若手で適切な能力を持つ人員対して、適正な報酬を与えられず、ベテランの処遇を下げることもできないのだ。
3つ目は、労働組合との調整が不可避であることだ。労働組合は「雇用の安定」と「年功処遇」を前提に機能している。しかし、ジョブ型はこの思想と根本的に衝突する。そのため制度変更には慎重な交渉が必要となり、スピード感が削がれているのげ現実だ。
4つ目は、管理職に職務定義力が欠如していることだ。どのような職務に、どのような経験・スキルを持った人材が必要かを定義できる管理職が非常に少ない。なぜならば、これまで人事の采配で異動してきた人材に、今の仕事を行って貰えばよかったので、必要な能力やスキルを定義する習慣がなかったのだ。そのため人材要件の設計という発送が育まれなかった。
そして、人事部門も十分に機能していない。人事部門は制度運用に長けていても、業務設計や組織戦略に基づいた職務再編の能力を持っていないケースが多いからだ。現場理解も乏しく、形式的なジョブディスクリプションが形骸化している。
最後は、組織文化の壁だ。冒頭で議論した通り、日本企業は長年「あいまいな役割」と「気配り・助け合いの文化」で成り立ってきた。これ自体は素晴らしいことだが、ジョブ型の場合は役割が明確になる。しかし、従来の土壌では役割に忠実であることが必ずしも評価に繋がらない。むしろ自分の職務だけを果たす人は冷遇される土壌すらあったからだ。
(では、どうする?)
結論から言えば、ジョブ型への移行には、制度や運用を表面的に取り替えるだけでは不十分だ。組織の構造そのものを見直し、段階的にリデザインしていく覚悟が必要だからだ。
まず最初に取り組むべきは、組織全体の「仕事の棚卸し」をすることだ。自分たちの会社には、どんな仕事があり、どの仕事が本当に価値を生み出しているのか。そうした整理を行う過程で、一つひとつの業務や役割を洗い出し、それを再定義していくのだ。これがなければ、どんな人材が必要かを語る土台すら持てない。
次に重要なのは、管理職自身が「人材を定義する力」を持つことだ。誰かが来てくれたら育てよう、という受け身の姿勢ではなく、「この成果を出すには、こういう能力と経験が必要だ」と、逆算して考える力が求められる。職務記述書を作ることが目的ではない。成果から人材を設計する力こそが、これからのマネージャーに必要なスキルになる。
そして、変革はいきなり全社的に行わないことだ。まずは一つの部門、あるいは一つの職種で構わない。小さな範囲でジョブ型の仕組みを導入し、うまくいった例を丁寧に積み上げていく。その成功体験が、やがて他部門にも広がり、組織全体の変革へとつながっていくのだ。
(まとめ)
ジョブ型は「制度」ではなく「思想の転換」だ。人を組織の歯車として配置するのではなく、「価値創出の主体」として再定義することだ。役割を明確にし、責任と成果で評価する文化を、少しずつ育てていくしかない。
そのために、「なぜ壁があるのか?」「本当に忙しいのか?」「その人手不足は構造の問題ではないか?」などにもスルーしないで、整理していく。この問いと整理の連続の過程に、組織の変化が現れるのだと思う。
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新規事業の旅205 ポッキーの立体商標
2025年8月19日
早嶋です。約2300文字。
ポッキーが立体商標を取得した。そのニュースをみて立体商標に関して整理したので忘備録としてブログにまとめておく。
今回、ポッキーが立体商標を取得した目的は、「形そのものがブランドだ」と公に認めさせることだ。実際、立体商標を取得するのは時間も根気も要る。
ポッキーは、1966年から続くあの形が、文字やロゴ抜きで出所表示として機能する、と特許庁に認められた。登録番号は第6951539号。食品で中身の形状だけが保護された事例は少なく、今回も長年の販売や広告に裏打ちされた識別力(周知著名性)の立証がカギを握った。ここが難所で、単に奇抜な形というだけでは足りず、「形だけでそれと分かる」ことを客観的な証拠で積み上げる必要があった。
制度の話を少し整理する。日本で立体商標が制度化されたのは1997年。機能を確保するための形や、一般的・装飾的な形は原則NG(商標法3条1項3号・6号)。そのうえで、長年の使用により形だけで自他商品識別力を獲得した場合には、例外的に登録が開く(3条2項)。この例外ルートでどれだけ説得できるかが勝負になる。審査基準や運用文書にも、3D形状の同一性判断や取得識別力の考え方が細かく落ちている。
食品分野でも前例はある。明治は「きのこの山」(2018年、登録6031305号)と「たけのこの里」(2021年、登録6419263号)で中身の形状のみの立体商標を通している。自社の発表でも、食品で形状のみの登録は日本に少なく、両者はその稀少な例だと位置づけられている。つまり、ポッキーはこの系譜に連なるのだ。
容器の世界的古典はコカ・コーラのコンツアーボトルだ。日本でも裁判所判断を経て「形だけで識別し得る」とされ、3Dマークが認められる流れを切りひらいた。ヤクルトのプラ容器も同様で、知財高裁が2010年に形そのもので識別できると認め、登録に道がついた。両者は日本の3D商標実務を語るうえで外せない節目だ。
プロダクト本体が登録されるケースも着実に増えている。G-SHOCKは2023年、ロゴ無しの時計の形そのものが3D商標として登録(6711392号)。「四半世紀以上の継続使用により識別力を獲得」との評価だ。ホンダのスーパーカブは2014年、国内で乗り物として初の3D商標という快挙で、車体のシルエットがそのままブランドとして法的に認められた。
容器と言えば、キッコーマンの卓上びん(赤キャップのあの形)。2018年、日本でロゴなしの容器自体が3D商標に登録。まさに形だけでも認識できることの公的なお墨付きで、同社は公式にそう説明している。
こうした流れは店舗外観にも波及している。出光のガソリンスタンドやファミリーマートの店舗外装など、建築・店舗の場の形が立体商標として登録された例もある(店舗外観はロゴや文字を併せた態様が多い)。「見た瞬間にどこの店か分かるか」を、商標の言葉に落として守るアプローチだ。
では、なぜ企業はそこまでして形を守るのかだ。理由はシンプルだ。第一に、PB(プライベートブランド)や模倣品への抑止力が段違いになる。名称を変えられても形の無断使用で差止めの土俵に乗れる。第二に、越境ECや並行輸入を含む国際流通での通関差止の根拠が増える。明治は実際に税関への輸入差止申立てを運用しており、商標権の威力を実務で示している。第三に、商標は更新により半永久に守れる(10年更新)。意匠の存続期間を超えて、ブランドの顔つきを守り続けることができる。
もちろん、何でもかんでも登録できるわけではない。機能確保のための形(例えば噛み合わせ、握りやすさ等が主目的の形状)や、単なる美観のための造作は本来機能・審美の範囲として排除されやすい。玩具分野では、LEGOの人形などをめぐる日本の審決・審判でも、形が商品自体を普通に表示するにとどまるとして厳しく見られている。だからこそ、使用実績と認知データの積み上げがものを言う。
食品の中身そのものが通るケースは今もレアだ。明治は自社の資料で、「食品分野の形状のみの立体商標は日本で7例に限られる」と明言している。ポッキーは、この狭い門をまた一つ押し広げた格好になる。
歴史で振り返ると、コカ・コーラ瓶やヤクルト容器の裁判例が、3条2項(使用による識別力)を実務に根づかせ、そこにキッコーマンの卓上びんや明治の中身形状、G-SHOCKやスーパーカブといったハードプロダクトが続いた。いずれも「形だけで分かるか」を正面から問われ、広告・売上・市場シェア・露出、そして大規模な認知調査まで、地道な証拠が鍵を握っている。
そして今回のポッキー。スティックの比率や見た目を一貫して守り抜いたからこそ、形が記号になった。PB対策、輸入模倣対策という守りの意味合いはもちろん、ブランド資産の明文化という攻めの意味も大きい。形そのものを公式にPockyらしさとして宣言し、将来のコラボや海外展開、派生商品の設計自由度まで含めて、交渉力と抑止力を手に入れたことになる。
最後に、これから立体商標を狙うなら、教訓は三つある。1)発売当初から形を戦略変数に置き、一貫して磨き続ける。2)広告と露出で形の刷り込みを図り、必要なら第三者機関の認知調査で裏づける。3)機能・審美目的の説明は慎重に。形の意義を「出所表示」に寄せて語る。実務の基準は厳密で、3Dは例外で取得の可能性があることを前提に考えておくことだ。
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