
虚構の政治
2025年7月25日
早嶋です。約3000字です。
2025年、日本円は再び150円台前後で推移している。多くの人々は声にしないが、どことなく不安を持っていると思う。賃金は長く上がらなかった。物価はじわじわと上がり続けている。実質的な生活水準は目に見えて落ちているように感じる。外の国を見渡せば、買い物天国日本にこぞって押しかけてくる。なんだろう、どうなっているのだろう・・・。
当然、その矛先は政権に向かう。「石破政権は大丈夫か?」と。しかし、上述の問題の原因は石破氏の登場前の政策の結果だと思う。過去の政策の検証と誤りを指摘せずに政権を運営している点が僕は行けていないと思うのだ。今の経済状況は、過去の選択の集積として、今を形作っているだけなのだ。
(金融緩和依存と冷えた消費マインド)
2010年代のアベノミクスは、大胆な金融緩和を掲げ、市場に大量の日本円を供給し、金利を限りなくゼロに近づけた。政府・日銀の狙いは明確だった。金利を下げれば住宅ローンやカーローンが活発になり、企業は借り入れを増やし、設備投資も雇用も拡大する。そうすれば経済は回るはずだと。しかし実現しなかった。
理由は、社会構造と価値観に変化が起きなかったことだと私は思う。IT化の進展により、豊かさを感じるために必ずしも「大きな消費」が必要ではなくなっていた。スマホ1台あれば音楽も映画も会話も仕事もできる。昔のように「車を買って、家を建てて、家電をそろえる」というライフスタイルが当たり前ではなくなっていたのだ。
さらに、住宅ローンなどの長期借入に対して、人々の心理は極めて慎重だった。少子高齢化、年金制度への不信、将来の税負担増。先が読めない時代において、30年ローンを組むことは、大多数の生活者にとってリスクに映った。結果として、金利をいくら下げても、消費も投資も思うように伸びなかった。
そこへ追い打ちをかけたのが、いわゆる「2000万円問題」だ。2019年、金融庁が出した報告書には、老後30年間で年金以外に約2,000万円の生活資金が必要というシミュレーションが掲載された。これはあくまで一例にすぎず、すべての世帯に当てはまる話ではなかった。公的年金を夫婦で受給している生活で追加で2000万円あれば、一定のゆとりある生活を送ることができるという目安が示された。あくまでも補足的な金額を示していただけなのだ。
だが、メディアが「2,000万円」の数字だけを切り取り、不安を煽る形で報じた結果、多くの国民が「老後破綻」「年金崩壊」と受け取った。誤解と恐怖が一気に拡散され、消費はますます冷え込み、貯蓄志向は一段と強まったのだ。金融緩和で供給されたマネーは、経済を回すどころか、「不安」というブラックホールに吸い込まれて貯蓄にとどまり経済を回すガソリンにはならなかったのだ。
(3本の矢の内の2本)
アベノミクス本来の姿を思い出してほしい。「3本の矢」と呼ばれたその戦略は、上述した金融緩和だけではなく、機動的な財政出動と成長戦略を含んでいた。ところが、実際に矢を放たれたのは、第一の矢だけ、つまり大胆な金融緩和ばかりだった。
第二の矢である財政出動は、当初こそ公共事業などで一定の景気刺激を行ったが、やがて「財政健全化」の名のもとにブレーキがかかった。プライマリーバランスの黒字化目標が掲げられ、むしろ緊縮に近い状態へと転じていったのだ。
さらに致命的だったのは、第三の矢だ。成長戦略と構造改革が、十分に実行されなかったことだ。労働市場改革や規制緩和、地方創生、教育・子育て支援など、多くの項目が掲げられたが、いずれも断続的かつ中途半端な改革にとどまり、社会の構造を変えるには至らなかった。
単なる景気対策ではなく、「構造転換」により中長期的な成長力を取り戻すという思想。まさに思想で終わって行動に移されなかった。理由は、「利害関係者が多すぎた」ことだろう。とくに既存の経済団体(経団連、業界団体、大企業、農協、医師会など)にとって、構造改革は自分たちの特権や既得権益を手放すことに直結すると捉えられた。しかも自民党にとってはその経済団体は票田でもある。アベノミクスを掲げた時点で強い抵抗があることは分かっていたただろうが、そこに舵を切りきれなかったのが現実だった。そのため金融緩和で株価を上げ、見かけの景気回復は演出されたが、実体経済の構造は何も変わらなかった。中小企業の生産性格差、労働市場の硬直性、IT化・DXの遅れ、地方の衰退は放置されたままだったのだ。
(政治不信という構造的問題)
政治不信は経済政策に加えて、身から出たサビでもある。安倍政権期に起きた一連の不祥事。学校法人への優遇、宗教団体との関係、そして政治資金の不透明さ。これらが積み重なった結果、自民党は信頼できない政党という印象が、じわじわと国民の記憶に定着した。特に、若い世代に対しての説明が有耶無耶にされた印象だ。
そして問題は、これが払拭されないまま次の政権にバトンが渡ったことだ。そのため石破氏が首相に就いても、高市氏が仮になっていたとしても、おそらく同じように政治不信は尾を引いただろう。むしろ「政党そのもの」への信頼が揺らいでいて、過去の政策と政治家の一連のゴタゴタに対して実際の検証やファクト整理を怠ったまま、政治を続けた結果が今なのだ。
だからこそ、2025年までに起き続けている円安、消費停滞、実質賃金の減少、つまり経済停滞を、石破政権だけの責任とするのはフェアではない。もはやこれは「一つの政権」の問題ではなく、「過去十数年の選択」のツケなのだ。
今、みんなで一斉に犯人探しをしているが、根本的な認識の違いがある。皆、「誰かのせいにしてしまう」構造だ。円安になったのは日銀のせい。給料が上がらないのは政府のせい。将来が不安なのは制度のせい。たしかに、制度設計の失敗や政治の未熟さは上述して指摘した。だが同時に、私たち一人ひとりが、変化を拒み、リスクを避け、安心に逃げてきたという側面も否定できない。リスクをとって挑戦し、未来を描くことを「自分には関係ない」として行動していない結果が今にある。構造的問題とは、「誰かの責任」ではなく「社会全体が選んできた結果」だ。
(でも、正論は通じない・・・)
だが、ここでいくら正論を掲げたところで、ムーブメントは止まらない。一度「すべては外のせいだ」と思い込んだ国民は、世界との接点を断ち切るように、「やはり我々は自国中心に生きるべきだ」という物語にすがりたくなる。
この動きは、イタリア(メローニ政権)、フランス(極右の台頭)、ドイツ(AfDの伸長)、アメリカ(トランプ現象)でも観察される。どの国でも、グローバル化の恩恵を受けられなかった層が、国家という「分かりやすい単位」に安心を求める。グローバリストは敵であり、リベラルは信用できない。信じられるのは、声の大きなナショナリストだけ。そんな構図が民主主義国家の中で定着しつつある。
そして最も効果的なのは、「複雑さを語らずに、わかりやすさを叫ぶこと」だ。印象、感情、空気。そうしたものに従って判断する層に対して、敵と味方を単純に分け、繰り返し、繰り返し、同じフレーズを浴びせる。それが受け入れられた瞬間、メディアの空間は染まり、そのリーダーが政治を動かし始めるのだ。
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新規事業の旅200 MBOとOKR
2025年7月22日
早嶋です。
日本企業の多くが取り入れてきたMBO(目標による管理)は、本来、自ら目標を設定し、その達成に向けて動機づけられた社員が、自律的に動きながら成果を上げることを目的としている。組織全体の目標を分解し、それぞれの部署、個人に落とし込んでいくのだ。全体最適からの逆算が基本構造だ。マネージャーは、社員の目標達成に向けた日常行動を観察し、期中や期末のタイミングで差分を確認しながら評価を行う。
ただし現実には、期末評価が近づくと、社員がアピールを始める。もしくは、評価されることを前提に、目標を「書く」だけになる。つまり、制度が意図された通りには機能していない。とくに管理職が、部下の行動や成長を正しく観察し、フィードバックする力を持っていなければ、その構造は形骸化する。
一方、新規事業やスタートアップの文脈において、このMBOは明らかに馴染まない。なぜなら、新しい挑戦には「予測不能」が付きまとうからだ。年初に設定した目標が、半年後には無意味になっていることすらある。その中で注目されるのがOKR(Objectives and Key Results)だ。
OKRは、O(Objective)という「野心的な目標」と、それに伴うKR(Key Results)という「測定可能な成果指標」のセットで構成される。ポイントは、KRがOに対する通過点であるということ。KRは定量的でありながらも、変動に柔軟だ。プロダクトのローンチ、トライアルユーザー数、PMF到達など、フェーズに応じた具体的アウトカムが設定される。そして、それが常にフィードバックされ、場合によってはO自体も見直される。
つまり、OKRの時間軸は短く、柔軟だ。四半期単位での見直しが基本であり、行動と成果が噛み合っていない場合、すぐにチューニングが行われる。これは、スタートアップが「行動しながら学ぶ」構造と親和性が高い。
たとえば、あなたが言及していた、ある新規事業の現場では、初期段階では「ユーザー10人に課題インタビューを実施する」といったKRが設定され、それを通じて本当に目指すべきO(たとえば市場の解像度を上げる)が見えてくる。KRは単なるto doリストではなく、チームが学習するためのルートマップだ。
既存事業部と新規事業部が共存する組織では、このように評価制度をハイブリッドで運用するしかない。MBOは、繰り返しのオペレーションや、行動指針がある程度確立された職場で力を発揮する。一方、OKRは、「意味の確定すらこれから」という段階での指針になる。組織が両利き経営を掲げるならば、評価制度もまた両利きであるべきなのだ。
しかし、評価は制度だけでは完結しない。報酬の原資は、結局のところ利益である。既存事業が稼ぎ、新規事業は投資段階にある。この非対称性の中で、どう原資を配分するか。そのためには、経営計画の中で、あらかじめ「評価のための原資」を分けて確保しておく必要がある。そして、その使途においても、OKRで設定したチャレンジの質や学習の深さを、定性的にも捉えられる運用が求められる。
さらに近年では、「RSU(譲渡制限付き株式)」や「成功報酬型ボーナス」など、より柔軟なインセンティブ設計が導入されつつある。とくに、長期的な成果を求める新規事業部隊においては、このような未来の配当がモチベーションの支えになる。
いずれにせよ、MBOかOKRか、という単純な二項対立ではない。目的とフェーズ、そして組織の構造に応じて、制度は設計し直されるべきだ。そして制度は、運用されてこそ価値を持つ。結局のところ、最も重要なのは日々のフィードバックの質であり、それは管理職一人ひとりの問いかける力にかかっている。
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新規事業の旅199 「横の関係」が通じないときのリーダーの振る舞い
2025年7月16日
早嶋です。1700文字。
横の関係が理想だ、強くそう思う。人と人とが、役職や地位を超えて、相互の尊厳を土台にしながら、感謝と信頼をもとに関わる。それがうまく機能すれば、組織は自律性と創造性にあふれ、誰かが誰かを支配せずとも、健やかに前へ進んでいける。
が、現実は世知辛い。そうならない場面の方が多いかもしれないのだ。
たとえば、部下が学習しようとしない。言ったことが理解されない。組織が目指す理念に共感しないどころか、価値観が真逆でさえある。また、本人がそもそも短期的な報酬しか求めておらず、長期的な成長には関心を示さない。
こうした状況の中で、「対等に信じ合おう」「感謝を大切にしよう」と言ったところで、手応えがない。むしろ空回りするだけだ。このような時、リーダーはどう向き合えばいいのだろうか。
まず大切なのは、「横の関係は、相手との合意によって初めて成立する」という厳しい事実を認識することだ。いくらこちらが誠意をもって接しても、相手がその関係性を理解しない、あるいは受け取らないのであれば、それは単なる独りよがりになるからだ。だからこそ、関係の土台ができていない状態では、いきなり横を求めないという現実的な態度が必要になる。
では、代わりに「縦の関係」に戻るべきなのかだが、答えはノーだ。縦に戻るのではなく、段階を設けて関係性を育てていくことが答えになる。
まず、こちらがやるべきことは、相手の関心とレベルを正確に把握することだ。相手がどこまで理解できていて、どこからが不明瞭なのか。何を大切にしていて、何に共感できないのか。つまり、教えるのではなく、相手を深く読み解くことが最初の一歩になる。
そして、その上で、相手の現在地に合わせた最小限の期待値とルールを共有するのだ。ここで大事なのは、期待はするが、理想は押しつけないということだ。相手の成長に過度な幻想を抱かず、今の状態でも守るべき基準と、果たすべき責任を明示する。それが、「尊重しながら管理する」という、現実的なリーダーの姿勢だ。
この段階では、「評価」も必要になる。ただし、それは「優劣のラベリング」ではなく、「行動のフィードバック」であるべきで、「君はダメだ」「期待外れだ」ではなく、「こういう行動は、今の組織の方向とずれている」「ここは助かった、ありがとう」と、行動ベースで事実を返すのだ。この繰り返しが、「縦ではないが、まだ横でもない」中間地帯の信頼をつくるのだ。
こうして、行動→フィードバック→納得→変化というサイクルが少しずつ生まれたとき、初めて相手の中に、「自分で考え、選び、成長していく」準備ができる。その時が来てはじめて、横の関係は姿を現す。
つまり、「横の関係」は信じるべき理想ではあるが、「今、ここで相手が受け入れられるとは限らない」という現実を、リーダーは冷静に引き受けなければならない。その上で、関係性の成熟に応じてリーダーシップを変化させていくという柔軟性こそが、本当の意味での強さだと思うのだ。
そしてもうひとつ忘れてはならないのは、「諦めるという選択」もあるということだ。どれだけ丁寧に関係を育てようとしても、それを拒絶する人もいる。その場合、「信じ続けること」よりも、「線を引くこと」の方が、双方にとって優しい判断になることもある。
リーダーの役割とは、理想を語ることではなく、現実の中で「どこに関係を育てられる余地があるか」を見極め、
そこに静かに火を灯していくことだと思う。その火が大きく育つかどうかは、時と状況と相手次第だ。相手のコントロールは出来ないが、「関係を育てるという意思をもった関わり方」を、自ら選び取ることはできるのだ。
信じる。でも押しつけない。期待する。でも理想は強要しない。フィードバックする。でも人格は否定しない。そして、育てられる関係には根気よく向き合い、育たない関係には静かに距離をとる。
そうした関係との向き合い方自体が、ある種の「徳」なのかもしれない。リーダーシップとは、管理技術の話ではなく、「どう関わるか」の美学の問題なのだと、最近、私は思うようになった。
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新規事業の旅198 「貢献」と「利他」のあいだ
2025年7月15日
早嶋です。約4900文字。
私たちが、誰かのために何かをしたとき、それは本当に誰かのためなのだろうか。それとも、自分のためにしているのだろうか。そして、その違いは何を意味するのだろうか。何を?と思うかも知れない。20年、一緒に伴奏しながら医療チームの組織運営を行っているドクターとの話で感じたことを整理する。今、リーダーシップや関係構築で議論されている論点の多くは、ギリシャ哲学のストア派に由来する概念が多いという話だ。
最初に、アドラー心理学では「貢献感」が、人の自尊心の源になると説かれている。アドラー心理学における「貢献感」とは、「自分が誰かの役に立っている」「この世界に必要とされている」と感じることで得られる、内面的な満足感だ。アドラーにとって、人間の根源的な欲求は「所属」と「貢献」だとされている。つまり、「私はこの共同体の一員である」「私はここにいていい存在だ」と感じられることこそが、人間の自尊心(=自己価値感)を支える柱になるという概念だ。
重要なのは、「他者から褒められる」「認められる」ことではなく、「自分の行動が、自分にとって意味ある形で、他者や社会に役立っている」と自分が感じられること。これが「貢献感」だ。
たとえば、掃除をした子どもに対して、「偉いね!」「よくできたね!」と褒めるのは外からの承認で、それが続くと、「褒められないとやらない」人間になってしまう。人参がぶら下げられないと動かなくなるのだ。一方で、「この部屋がきれいになって、みんなが気持ちよく過ごせるね」と伝え、子ども自身が「自分の行動がみんなのためになっている」と感じられるようにすれば、貢献感を通じて、自己肯定感や自尊心が内側から育つという考えだ。
だからアドラーはこう考える。「人は、他者への貢献を通じて、自分自身の価値を実感できる」そしてこの実感が、「私はここにいてよい存在だ」という深い自尊心を生む、と。つまり、「貢献感が自尊心の源になる」とは、自分の存在が、他者とのつながりの中で意味を持っていると感じられることが、人としての安定感や幸福の土台になる。という、非常に社会的で人間らしい洞察なんだ。
しかし、この「貢献」という言葉は、日常の中で驚くほど曖昧だ。誰かに尽くす、チームのために働く、社会に役立つ。こうした行動は一見、美しいものに見えるが、その裏に「認められたい」「褒められたい」という気持ちが入り込むこともある。すると貢献は、実のところ「承認欲求の変形」になってしまう。
アドラーが言う「貢献」は、他者のために無条件で尽くすという「自己犠牲」ではないし、ましてや「承認を得るための手段」でもない。むしろ、「自分がそうしたいからそうする」「自分が意味ある存在でありたいと願うから関わる」。そうした主体的な選択が、結果として他者の役に立っている状態を「貢献」と呼ぶのだ。
この貢献は、ある意味で自立した利他とも言える。他者に尽くすが、それは見返りを求めない。他者を支えるが、決して支配しない。ただ、「私はここにいてよい」「私は意味のある存在だ」という実感を、自分の意志で育てていく。その姿勢にこそ、アドラーの貢献感は宿るのだ。
この「自立した利他」という考え方は、仏教や西洋哲学の中にある利他とも通じる部分がある。仏教では、他者を苦から救う「慈悲」が中心にある。そこでは「無我」、つまり自己を捨てることが前提だ。西洋哲学では、キリスト教的な「無償の愛」や、功利主義的な「最大多数の最大幸福」が利他的行為の根拠になる。これらもまた、自己を超えて他者を思うという点で尊い。しかしアドラーは、それよりもっと身近で、等身大の利他を語っている。つまり、私という誰かが、この場所で、自分の意志で他者に関わるということ。そこには、宗教的な救済でも道徳的な善行でもない、温度のある関係性がある。
仏教やキリスト教における利他は、超越的な目的と結びついていると思う。たとえば、仏教では「すべての衆生を苦から救いたい」という菩薩の誓願や、キリスト教では「神の愛に倣って隣人を無条件に愛する」といった思想がある。これらは、非常に高尚で、どこか人間を超えた崇高さを求めるように思う。つまり、救済的な利他というのは、人間の「現実の感情」や「不完全さ」から距離のあるものになりがちなのだ。
一方、功利主義や儒教的な道徳は、「人として正しい行いをせよ」「他者のためになる行為は善だ」といった規範の枠が強調されている。この文脈では、善行=あるべき姿であり、行動の正しさを前提にしている。しかしそれは、「そうすべきだからやる」という義務感や正義感に根ざした関係性に転じてしまうかも知れない。そこでは、相手の気持ちや自分の内発的な動機は、後回しになることもあるのだ。
それは、「自分の選択で関わる」「他者と対等でいたい」「ここにいていいと感じたい」という、非常に人間らしい、感情的で、あたたかい動機から始まる関係性だ。「あなたのために」ではなく、「私はあなたと関わりたい」、「正しいからやる」ではなく、「それが意味あることだからやる」、「神のために」でも「社会のために」でもなく、「人として自然にそうしたい」と思えるという考えに基づく。
この関係性には、命令もない。義務もない。超越的な威圧感もない。あるのは、自分で選んだ関係性と、相手に向けた共感や信頼だけだ。だから温度があると表現した。それは、正義や善意ではなく、人と人のあいだに生まれる、確かな熱のことだ。
こうした関係を横の関係と表現する。この縦の関係ではない、横の関係はアドラーだけが初めて提示したものではない。古代ストア派の哲学にも、同じ構造を見ることができた。
ストア派の思想では、幸福は「外にあるもの」ではなく、「自分の内にあるもの」だとされる。富や地位や賞賛といったものは、たしかに好ましいかもしれないが、決して善でも悪でもない。唯一の善は、「徳(アレテー)」、つまり、自分の理性によって、正しく、誠実に生きようとする態度そのものだ。
この価値観は、縦の構造とは相容れない。他人から評価されることによって価値が決まるのではなく、自分がどう考え、どう判断し、どう生きるかに価値がある。だから、他者と比べる必要も、支配する必要もない。人は、本来的に横の関係の中で生きる理性的存在なのだ。
たとえば、ストア派の哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、こう記している。「過去も未来も私の手にはない。だが今この瞬間、私は理性をもって判断できる」。これは言い換えれば、「他人がどう思おうと、今の私の選択には意味がある」という立場表明に相当する。他者の視線ではなく、自らの意志と判断にこそ意味がある。ここには、優劣や上下の構造は存在しない。あくまで、自由な意志をもつ者同士としての、フラットな関係性が前提となっているのだ。
アドラーもまた、人間を「理性をもつ自由な存在」として信じていた。だからこそ、「褒めることは支配であり、感謝することは対等である」と言い切ることができたと私は解釈している。「よくやったね」と評価するのではなく、「私は嬉しい」と感情を伝えること。人として向き合うということは、結果を裁くことではなく、意志に寄り添うことなのだ。つまり、縦の評価ではなく、横の共感こそが、人間を真に成長させるのだという点において、ストア派とアドラーは深く共鳴していると思う。
では、こうした「自立した利他」や「横の関係」を、組織の中にどう取り入れることができるのか。
現実の企業やチームでは、利他や貢献がしばしば義務ややりがい搾取にすり替えられる。上司が「感謝しているよ」と言いながら、それが実質的には評価や支配のためのツールになっている。会社が「お客様のために」と掲げながら、それが社員への過剰な負荷になっている。こうした縦の論理が横のふりをしてしまうと、関係性はますます不健康になっていく。
だからこそ、組織に必要なのは、「意味のある横の関係」をどう育てるかという問いだ。そこでは、成果よりも選択が、命令よりも問いかけが、評価よりも感謝が重視されるべきだ。役割としてではなく、人としての判断に敬意を示すこと。報酬の有無ではなく、意志を信じて行動すること。そうした「人としての関わり方」こそが、横の関係を支える本質になる。つまり、人を管理するのではなく、人として関わる組織をつくるのだ。
組織に必要なのは、意味のある横の関係をどう育てるかという問いとは、単に「フラットな関係」や「上下のない組織」が良いのではない。重要なのは、関係が形式的に横並びなのではなく、内面的に意味あるつながりになっているかだ。つまり、「心理的な対等性」や「相互の信頼」によって、意志と感情が通い合っている関係性をどう育てるか、これが核心の問いになっているのだ。
成果よりも選択が、命令よりも問いかけが、評価よりも感謝が重視されるべき、というのは、行動の結果や指示の従順さではなく、その人が何を考え、どう選び、どう関わったかというプロセスの質を重視すべきだという提言になる。「成果」よりも、その行動を「どう選んだか」に注目するし、「命令」よりも、「どう思うか?」と問いかける。そして、「評価」よりも、「ありがとう」と感謝するのだ。このような関わり方が、人を管理対象ではなく、信じるに足る存在として見る姿勢をつくるのだ。
役割としてではなく、人としての判断に敬意を示すことは、「そのポジションにいたからやった」と片付けるのではない。「その人が、その人として考え、選び、引き受けた判断」に対して敬意を向けるということだ。たとえ役割上当然の仕事でも、「その責任をあなたが真摯に選んだこと」に対して感謝し、敬意を持つのだ。これが人として関わるということになる。
報酬の有無ではなく、意志を信じて行動すること。報酬を条件にした行動ではなく、自分が信じることを、自分の責任で選び取って動く。そこには、「誰が見ているか」「得になるか」といった外的動機ではなく、「どうありたいか」という内的な姿勢がある。組織はその姿勢を信じ、支える環境をつくるべきだ、という提言にもなる。
そうした人としての関わり方こそが、横の関係を支える本質になるのだ。繰り返しになりくどいと思うが、横の関係とは、「同じ階層の人間関係」ではない。「お互いを尊重し、信じ、対等な人として関わる姿勢」と定義している。つまり、制度設計や組織構造の話ではなく、一人ひとりの関わり方の美学のあり方なのだ。
横の関係は、肩書きや制度でつくられるものではない。それは、私たち一人ひとりが相手の内面に向き合い、「あなたがそう選んだこと」に敬意を示し、「あなたがそう在ろうとすること」に信頼を寄せる、そんな関わり方の積み重ねからしか、生まれないのだ。この姿勢こそが、理想を現実に引き寄せるための、最も地に足のついた横の関係と言えると思う。
この点、サーバント・リーダーシップは、アドラーやストア派と非常に深い接点をもつ。リーダーが「支配する者」ではなく、「支える者」であるという前提。部下の成長や幸福を第一に考え、その人の内にある意思と能力を信じ、問い、支援する。そして、相手が自分の意志で選んだ判断に対して、「私は嬉しい」「ありがとう」と伝える。ここで重要なのは、結果よりもその人の意志のあり方を大切にするという姿勢だ。評価ではなく共感、管理ではなく信頼。それこそが、本質的な横の関係であり、リーダーとしての「徳」の表れになる。
貢献とは、誰かのためにする行動でありながら、実のところ自分が、自分であるための行為でもある。利他とは、自己を消すことではなく、自己を持ったまま、他者と向き合うことだ。その繊細で強靭な姿勢の中に、アドラーが見た人間の尊厳があり、ストア派が説いた理性の価値があり、サーバントが志向した静かなリーダーシップがあるのだ。
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日本からディープテック・ユニコーンが生まれにくい理由
2025年7月11日
早嶋です。約4200文字。
日本でも、ようやくスタートアップへの注目が集まりつつある。経済産業省が主導する「スタートアップ育成5か年計画」では、1000億円を超える規模のファンドが複数立ち上がった。だが一方で、本当に必要な「制度整備」や「インセンティブ設計」は、まだ追いついていない。特に、「ディープテック」や「バイオテック」などの長期戦型のスタートアップにとって、それは致命的な差を生んでいる。これらを、ストックオプション(SO)制度を軸に、日米の制度設計の違いを丁寧に整理することで、日本での成長の限界を示したい。
(ストックオプション)
ストックオプション(SO)は、将来、あらかじめ決められた価格で自社の株を買うことができる権利だ。たとえば、今、会社の株価が1株100円だとする。あなたが「100円で買える権利(SO)」を持っていて、会社が成長して株価が1株1000円になったとき、差額の900円が利益となる。
これを活用することで、会社が上場やM&Aで成功した際に、社員や経営陣にもリターンがもたらされる。つまり、会社の成長が自分の報酬と連動する仕組みとして、スタートアップのモチベーション設計の柱となっている。
(アメリカの先進性と制度)
少し結論的な話になるが、SOの「行使価格」は、公正な市場価格(FMV)である必要がある。これは税制上のルールだ。もし、実際の株の価値よりも極端に安い価格でSOを発行すると、税務当局から「不当な報酬だ」と見なされ、多額のペナルティ課税を受けるからだ。そして、その公正価格を評価仕組みがあり、それが409A評価だ。これは、外部の独立機関がその会社の株価(FMV)を客観的に算定する仕組みだ。外部の機関が、DCF法(将来キャッシュフローを現在価値に割引)などを用い、公正な価値を提示してくれるのだ。
この制度があることで、会社も、従業員も、税務当局も、「この行使価格は正当だ」と合意でき、安心してSOを付与・行使・保有できるのだ。つまり、透明性と予測可能性があるからこそ、SOという制度が広く活用されているのだ。
アメリカのスタートアップでは、資金調達のたびに経営陣や従業員用にSOプール(例:全体の20%)を確保しておくのが常識になっている。このSOプールは、会社として将来株式を発行する予約枠のようなもので、実際には株式が発行されていない段階で準備される。
たとえば、1000億円を調達する際に、「将来の従業員報酬として20%の株式を確保しておきましょう」と決める。この20%は誰かが持っているわけではなく、会社が予約しておく報酬の原資のようなものだ。このように先に設計しておけば、あとからSOを発行しても、創業者や経営陣の持ち分がさらに削られることはない。むしろ、持ち分を守りながらチームにリターンを配れるという意味で、SOプールはとても合理的な設計なのだ。
よく誤解されがちだが、SOプールを用意することは、あらかじめ将来の報酬原資を準備しておくことであり、現時点では実際に株式を発行したわけではない。ストックオプションは、将来的に条件を満たした社員が「株を買える権利」であって、現時点で株主ではない。だから、SOプールの段階では創業者の持ち分は直接には減らない。そして資金調達時には、投資家と一緒に「SO分の希薄化をあらかじめ考慮した株主構成」を設計しておくため、後になってから創業者の株がさらに削られるということが起きない設計が可能なのだ。
(日本のインフラの脆弱性)
日本にもSO制度はあるが、409A評価のような第三者による株価算定の仕組みがない。税制も非常に複雑で、「行使時に課税されるのか?」「売却時に課税されるのか?」がわかりにくい。結果として、創業者やVCは「SOを発行したくない」と考えがちになるのだ。特に、バイオやディープテックのような「時間がかかるが社会的意義の高い分野」では、途中で優秀な人材が報酬面で報われないという深刻な問題が起きるのだ。
たとえば、大学発スタートアップや研究機関発のディープテックベンチャーでよく見られる課題がある。経営側が、「優秀な研究者にも株式インセンティブを渡したい」と考え、SOを配分しようとする。しかし、いざストックオプションを発行しようとしても、「どの価格で、いつ、どれだけ渡すか」に明確なルールがない。株価の評価を会社が独自に決めざるを得ず、税務署に「時価を不当に安くした」と判断されるリスクが残る。実際にSOを行使した時点で、「売却もしていないのに課税が発生」する可能性がある。結果として、「研究に集中していたら税金の支払いが生じた」「給与より税額が多くて困った」といったことすら現実に起こっているのだ。
また、アメリカのようにSOプールをあらかじめ準備しておくという慣習もないため、「この研究者に報いるには、誰かが自分の株を差し出すしかない」という歪んだ構造になってしまう。これでは、経営陣の側も誰にも報いられない設計に追い込まれやすいのだ。
これはVCがスタートアップに投資する際にもハードルになる。日本のVCは創業者が一定比率の株を持っていないと投資しなくなるのだ。これは日本のVCが厳しい、という話ではない。むしろ、SOなどでチーム全体に報酬を配る制度が整っていないからこそ、創業者が多くの株を持っていないと誰もモチベートできないという現実があるのだ。つまり、SOが機能していないために、創業者の持ち分にインセンティブ設計のすべてを担わせざるを得ないのだ。
(アメリカの制度や文化)
アメリカの従業員の中には、IPO前にSOを行使し、あえて株を売らずに保有し続けるという選択を取る人がいる。なぜかだ。米国では、SO行使から1年以上保有すれば、売却益が長期キャピタルゲイン税(税率20%)の対象になるというのが答えだ。一方、IPO後に行使&即売却すると、所得税(40%超)がかかってしまう。これを避けるため、IPO前に安い価格(409A評価)でSOを行使し、一定期間保有することで、税率を抑える戦略が存在するのだ。
だが問題は、「そのためには大金が必要になる」ということだ。たとえば、行使価格が1株2ドルで10万株なら、2000万円。株価が上がっていれば、その差額に対して数百万円から数千万円の税金も先に発生してしまう。合計で数千万円という現金が、IPO前に必要になってしまう。多くの従業員には、そんなお金はないだろう。そこで登場するのが、Secfi、EquityBee、Liquid Stockのような専門のSOファイナンス企業だ。
これらの企業は、上場予定のスタートアップ従業員に対し、SO行使のための資金+税金分を立て替える。そしてその資金は返済義務はなく、売却できた時点で利益から回収する(ノンリコース)が主流だ。そのかわり、フィアンす企業は成功したときに報酬(成功報酬)をしっかりと受け取るのだ。つまり彼らは、 株が上場して儲かればシェアをもらうし、上場しなければ損を飲み込むという、極めてスタートアップ的なリスク・リターンの設計をしている。
このモデルが成り立つのは、アメリカ社会が「リスクは共有し、成功で回収する」ことに寛容だからだと思う。株式価値が市場で透明に評価されている。409A評価があることでリスクの下限を読みやすい。法律上、ノンリコースでも契約が成立しやすい。従業員と投資家が共にリスクを取るという発想が根付いている。このような文化や制度の考え方がアメリカのユニコーンを連発する背景にあるのだ。だからこそ、SOを行使して保有しようとする従業員を、社会全体で支援できる構造になっているのだ。
(日本に欠けている制度的なインフラ)
一方日本だが、このようなSOファイナンス企業は、存在しない。制度上も文化上も、それを支える土壌がないからだ。日本では、未上場企業の株価評価が顧問税理士や社内の恣意的な判断に委ねられている。外部に公正な評価機関がないため、時価を不当に安く見積もったと判断されれば、会社も従業員も追徴課税や罰金のリスクを負う。例えば、大学発スタートアップのCFOが研究員にSOを1株100円で付与したとする。だが後に投資家が1株500円で株式を購入していた事実が発覚したら、税務署が「SOの価格設定は不当」として、研究員に所得税+加算税を課し、会社にも責任が及ぶという事案が起こるのだ。
SOの課税タイミングが極めて不明瞭で、行使時なのか売却時なのかの判断が難しい。というか、そのような税を想定した制度が整備されていないのが現状だ。特に売却していない段階で課税される「ペーパーゲイン課税」が混乱の元となっている。たとえば、ITベンチャーの社員がSOを行使(価格100円/FMV1000円)したが、売却できていないのに900円の課税対象となったなどの例だ。そして、その後、株価が下落し、税金だけ支払って何も残らずに退職するという恐怖がある。
アメリカでは、SecfiやEquityBeeといったファイナンス企業が、SO行使+税金の支払いのために資金をノンリコース型・成功報酬型で提供する。失敗すれば返済不要、成功すれば一部リターンを分け合うという仕組みだ。先にも説明したが、アメリカのSaaS企業の従業員は、年収800万円、貯金100万円でも、Secfiから1000万円の行使資金を借りてIPO後に3000万円の手残りを得るということが可能なのた。日本の同様のスタートアップでは、行使資金がなくSOを失効する事例もある。
そして、日本では、SOによる大きなリターンが「ズルい」「投機的」と見なされがちで、制度自体が萎縮しやすいのだ。ある東証マザーズ上場企業で、エンジニアがSOで1億円のリターンを得たことが社内外で問題視され、社内制度としてのSO配分が見直されたなどの事実もあるのだ。
「成功したら回収、失敗したら失う」。ハイリスク・ハイリターン、それがスタートアップの本質だ。そして、そのリスクを一緒に背負ってくれる存在(投資家、社員、ファイナンス企業)がいることが、アメリカのスタートアップを強くしている。日本が本気でスタートアップ社会を築くのであれば、資金だけでなく、報酬設計、税制、制度、そしてリスクと報酬を分け合う文化を育てていく必要がある。単に「お金を集めること」ではない。人を動かし、報いる制度があるかどうか。 そこが、ユニコーンの生まれるか否かを分ける本質だと思うのだ。
民主主義の前提
2025年7月8日
早嶋です。
民主主義は、誰もが当たり前のように口にするが、考えてみると、ものすごく繊細な仕組みだと思う。仮に、社会の構成員が100人いるとする。その100人が等しく、ある一定レベルの教育を受けていなければ、本当の意味で民主主義は成り立たないのだ。いや、むしろ成り立たせてはいけないと思う。
それは、教育を受けていなければ、選挙は単なる人気投票になるからだ。耳障りの良い言葉に流され、都合の良い敵を見つけ、思考停止のまま「投票」という行為が行われる。これでは制度だけがあり、中身のない、形骸化した民主主義になってしまう。
民主主義は「誰でも投票できる制度」だが、制度があるからとて、それだけでうまく機能しない。教育を通じて、自分の頭で考える力。情報を比較して、取捨選択する力。未来への想像力。そういうものを持っていないと、「賢く選ぶ」ことはできない。
もっと言えば、教育とは「自分が信じていることを、いったん疑ってみる力」を育てることだ。これがないと、誰かに操作される。自分が操作されていることにも気づかずに、善意で間違った判断をしてしまう。だからこそ、教育は制度を支えるのだ。
言論の自由が大切なのは間違いない。ただし、何を言ってもいいわけじゃない。「私はそう思う」という考えを述べるのは自由だ。でも、まったく事実に基づかない内容を「真実であるかのように」広めるのは、もうそれは自由ではなく、暴力だ。
たとえば、何も悪いことをしていないA氏に対して、「あいつが犯人だ」と断定する発言。これがテレビやSNSで繰り返されると、事実でなくても空気ができあがる。そうすると、本人にとっては社会的な死刑宣告と同じだ。言論の自由は、責任と自覚がセットになって初めて成り立つ。
選挙を成り立たせるには、正しい情報が行き届くことが前提だ。その意味で、メディアは選挙を支える装置みたいなものだ。でも、実際にはどうだろうか。
特にテレビ。放送免許制のもとで守られ、限られたプレイヤーだけが公共の電波を独占している。そして、そこから発信される言葉は、ナレーション、映像、見出し、すべてが巧妙に編集されている。視聴者の多くはその「編集された現実」を事実として受け取る。ここに操作が入れば、世論そのものが動かされる。
事実、戦前のマスメディアは戦争を煽り、戦後は被害者を装って今の体制に移行した。構造は変わっていない。民主主義が機能するには、本来、メディアはもっと自律的でなければならない。でも現実には、メディアこそが第四の権力として、チェックされることなく影響力を持ちすぎている。
このように議論すると、こう思えてくる。もしかして、民主主義が「本当に成り立っている国」なんて、世界にひとつもないんじゃないかと。教育、メディア、選挙制度、表現の自由、格差、少数派の尊重、三権分立、どれか一つでも崩れれば、民主主義は歪む。
じゃあそれでも、なぜ民主主義を掲げ続けるのかだ。それは、「民主主義しかマシな方法がないから」ではない。そうじゃないと思う。むしろ、民主主義とは信仰のような存在なのかも知れない。
暴力ではなく、対話によって社会をつくる。声の大きさではなく、論の力で決めていく。そうありたいと願う人たちの集合的な信念だ。それがある限り、民主主義は完成された制度としてではなく、絶えず問い直される姿勢として存在し続ける。
選挙がある。憲法がある。制度は整っている。でも、本当に必要なのは、その制度を支える土台が今も健全かを常に問い直すことだと思う。それは教育であり、言論空間であり、公共性への信頼であり、考えようとする市民の姿勢だ。
民主主義が壊れるとき、それは制度の形ではなく、前提の崩壊だ。我々が当事者となり議論し続けることが大切だ。
民主主義は、誰もが当たり前のように口にするが、考えてみると、ものすごく繊細な仕組みだと思う。仮に、社会の構成員が100人いるとする。その100人が等しく、ある一定レベルの教育を受けていなければ、本当の意味で民主主義は成り立たないのだ。いや、むしろ成り立たせてはいけないと思う。
それは、教育を受けていなければ、選挙は単なる人気投票になるからだ。耳障りの良い言葉に流され、都合の良い敵を見つけ、思考停止のまま「投票」という行為が行われる。これでは制度だけがあり、中身のない、形骸化した民主主義になってしまう。
民主主義は「誰でも投票できる制度」だが、制度があるからとて、それだけでうまく機能しない。教育を通じて、自分の頭で考える力。情報を比較して、取捨選択する力。未来への想像力。そういうものを持っていないと、「賢く選ぶ」ことはできない。
もっと言えば、教育とは「自分が信じていることを、いったん疑ってみる力」を育てることだ。これがないと、誰かに操作される。自分が操作されていることにも気づかずに、善意で間違った判断をしてしまう。だからこそ、教育は制度を支えるのだ。
言論の自由が大切なのは間違いない。ただし、何を言ってもいいわけじゃない。「私はそう思う」という考えを述べるのは自由だ。でも、まったく事実に基づかない内容を「真実であるかのように」広めるのは、もうそれは自由ではなく、暴力だ。
たとえば、何も悪いことをしていないA氏に対して、「あいつが犯人だ」と断定する発言。これがテレビやSNSで繰り返されると、事実でなくても空気ができあがる。そうすると、本人にとっては社会的な死刑宣告と同じだ。言論の自由は、責任と自覚がセットになって初めて成り立つ。
選挙を成り立たせるには、正しい情報が行き届くことが前提だ。その意味で、メディアは選挙を支える装置みたいなものだ。でも、実際にはどうだろうか。
特にテレビ。放送免許制のもとで守られ、限られたプレイヤーだけが公共の電波を独占している。そして、そこから発信される言葉は、ナレーション、映像、見出し、すべてが巧妙に編集されている。視聴者の多くはその「編集された現実」を事実として受け取る。ここに操作が入れば、世論そのものが動かされる。
事実、戦前のマスメディアは戦争を煽り、戦後は被害者を装って今の体制に移行した。構造は変わっていない。民主主義が機能するには、本来、メディアはもっと自律的でなければならない。でも現実には、メディアこそが第四の権力として、チェックされることなく影響力を持ちすぎている。
このように議論すると、こう思えてくる。もしかして、民主主義が「本当に成り立っている国」なんて、世界にひとつもないんじゃないかと。教育、メディア、選挙制度、表現の自由、格差、少数派の尊重、三権分立、どれか一つでも崩れれば、民主主義は歪む。
じゃあそれでも、なぜ民主主義を掲げ続けるのかだ。それは、「民主主義しかマシな方法がないから」ではない。そうじゃないと思う。むしろ、民主主義とは信仰のような存在なのかも知れない。
暴力ではなく、対話によって社会をつくる。声の大きさではなく、論の力で決めていく。そうありたいと願う人たちの集合的な信念だ。それがある限り、民主主義は完成された制度としてではなく、絶えず問い直される姿勢として存在し続ける。
選挙がある。憲法がある。制度は整っている。でも、本当に必要なのは、その制度を支える土台が今も健全かを常に問い直すことだと思う。それは教育であり、言論空間であり、公共性への信頼であり、考えようとする市民の姿勢だ。
民主主義が壊れるとき、それは制度の形ではなく、前提の崩壊だ。我々が当事者となり議論し続けることが大切だ。
値引きせずに契約を勝ち取る提案術
2025年7月3日
高橋です。
私がコンサルティングをしている『営業プロセス研修』のエッセンスを、毎回お伝えしています。
今月のテーマは「値引きせずに契約を勝ち取る提案術」です。
先月は「価格の裏にある“本当の質問”とは?」というテーマでした。お客様が価格に関する質問をされた時は、価格ではなくその価値を納得させてほしいということでした。
今月も価格に関することですが、「値引き」について書いてみました。
「他のお店はもっと安かったんですけど…」
「この金額では決裁が下りません」
そんな言葉を聞いたら、多くの営業マンが値引きのプレッシャーを感じることでしょう。
しかし、安易に値引きをしたのでは利益を削るだけでなく、「この商品はその程度の価値なのか」とお客様の期待値まで下げてしまうことになります。
では、どうすれば“値引きせずに”納得して契約してもらえるのでしょうか?
まず大切なのは、やはり「価格を伝える前に、価値を伝える」ことです。
たとえば、同じ50万円の商品でも、
「これは50万円です」と言われるだけでは高く感じますが、
「この商品はお客様の〇〇な課題を解決し、△△の成果をもたらします。10年間フリーメンテナンスも含まれています」と説明されたうえで「価格は50万円です」と言われれば、納得感がまったく違います。
価格の話をする前に、「お客様にとっての好いこと(価値)」を明確に伝えることが肝心です。
値引き交渉に発展しやすいのは、お客様が「どこでも同じ」と感じている場合です。
つまり、「どこから買っても変わらない」と思われていると、価格競争に引きずり込まれてしまいます。
だからこそ、「自分から買う理由=価値」を明確にする必要があります。
たとえば、
導入後のフォロー体制
顧客の業種に合わせたカスタマイズ提案
担当者としての対応力やスピード感
こうした“見えにくい価値”を言語化することが、価格以外の差別化につながります。
お客様が本当に望んでいるのは、「一番安い商品」ではなく、「一番私に合っている商品」であることが多いものです。
「御社にとって、何を一番大切にされていますか?」
「価格以外で、重視されているポイントはありますか?」
こうした質問で、相手の“本音の判断基準”を引き出すことで、価格ではなく価値・信頼・安心といった要素で勝負することができます。
価格は交渉材料ではなく、“納得のゴール”です。
価格を下げる前に、価値を高める提案をしてみましょう。
営業プロセス、営業研修、人材育成、セールスコーチなどをご検討の経営者・経営幹部・リーダー・士業の方はお気軽に弊社にご相談ください。
新規事業の旅197 知識労働にもスマイルカーブ
2025年7月3日
早嶋です(1600文字)。
かつて、製造業の世界では「スマイルカーブ」という概念が注目された。
1990年代、台湾Acerの創業者スタン・シーが提唱したこの考え方は、製品づくりにおける価値の偏りを一目で理解できる視覚モデルだった。製品のライフサイクルを工程ごとに並べてみると、研究開発や企画といった上流工程、そして販売・マーケティングなどの下流工程に高い付加価値が集中し、製造や組み立てといった中流工程は極端に価値が低くなる。その理由は明確で、中流工程は機械化・標準化・外注化が進み、一定の資本と技術があれば、どの企業でも同じようにこなせるようになったからだ。大量生産・効率化の波にのまれ、そこで働く人々の付加価値は下がりつづける。
この「スマイルカーブ」という視点、現在、知的労働の世界にも静かに広がってきている。
2000年以降、インターネットの普及はあらゆる情報へのアクセスを容易にした。かつては専門のリサーチャーやアシスタントが担っていた「調査」「統計分析」「資料の要約」は、検索エンジンとネット上のデータベースによって誰でも簡単にできるようになった。資料作成の外注も、クラウドソーシングやリモートワークの拡大によって加速する。リサーチャーやライターといった知的な中流工程が、国内の副業層や、さらには海外のフリーランスに安価で委託されるようになった。知的労働にも、コモディティ化の波が押し寄せたのだ。
さらにSNSの登場により、コンテンツの流通構造も激変した。何を言うかではなく、誰が言ったかがすべてになったのだ。フォロワー数や影響力をもつ「個」としてのブランドが、発信の価値を左右するようになった。編集者や分析者のような黒子的な役割よりも、顔のある発信者のほうが評価される時代に突入する。つまり、情報の中身をつくる作業そのものは、下請け化され、価値が薄まっていったのだ。
2020年以降、AIの民主化はこの構造にさらに大きな衝撃を与える。ChatGPTをはじめとする生成AIは、リサーチ・文章作成・要約・構成・仮説整理など、かつて知識労働者が時間とスキルをかけて担っていた仕事を、一瞬で、しかも安価にこなすようになった。しかもその品質は、いまや専門家レベルの壁打ちとして十分に成立する。中流工程、すなわち「調べる」「まとめる」「整える」といった仕事の多くが、機械化されてしまったのだ。これは、製造業において「組み立て工」が機械に置き換えられていった構図と、まったく同じだ。
ここで、あらためてスマイルカーブを知識労働に当てはめてみる。
上流工程は、インスピレーション、問いの発見、構想、方向性の設計。中流工程は、リサーチ、文章作成、分析、統合(→AIによって自動化)等。そして、下流工程は発信力、認知、ブランド、ファンコミュニティの形成等だ。
すでに明らかなように、「考えを整理する力」や「情報をまとめる力」は、もはや価値の中心ではない。必要なのは、「何を問うか」「なぜ問うか」という構想力と、「誰が問うか」という信頼と影響力だ。ここから見える21世紀の価値はシンプルだ。
それは3つあり、問い、構成、そして個人の認知だ。問いを立てる力(構想力)だが、AIは大量の答えを持つが、「何を問うか」は人間の仕事だ。編集、つまり統合して仕上げる力(編集・構成力)だが、バラバラのアイデアや断片を、一つの意味ある作品に仕立てることだ。この指示をしなければAIは勝手に組み立てない。そして、個として認知される力(パーソナルブランド)だ。誰がそれを言ったのか? 信頼される「名前」が、ポイントになる。
今後の仕事をイメージして、スマイルカーブの谷間に、自分の仕事を置かないほうが良い。その仕事は、AIやネット検索、外注で代替可能なので、その価値は今後薄まっていく。しかし逆に、インスピレーションや編集、そして信頼される「語り手」としての立場を築けるのであれば、その価値はどこまでも高まる。皮肉にも製造業が通ってきた道を、いま知識労働がなぞっているのだ。そして、そのカーブの先には、新しいプロフェッショナルの姿が待っている。
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新規事業の旅196 ホワイトカラーの再変遷とAI時代の組織デザイン
2025年6月30日
早嶋です。3300文字。
2025年、アメリカで静かに進行している異変がある。
それは、「学歴のある若者が、仕事に就けない」という現象。大学を卒業しても就職できない。あっても自分の学位や期待する水準とはかけ離れた職場。しかもそれが一部の地域や業種の話ではなく、広範囲にわたって起きている。つまり、これは一過性の景気の波ではなく、構造が変化する兆し、或いはその現象が一気に表層化した証かもしれない。
米国のデータを見ると、22歳から27歳の新卒大学卒業者の失業率は2025年初頭の時点で5.8%に達している。これは、全体の失業率である約4.2%を大きく上回る数字だ。さらに深刻なのは、いわゆるアンダーエンプロイメント、つまり一応働いてはいるが、学位に見合った職についていない状態、の比率が41.2%に達しているという事実である。これらの数字は、過去10年以上で最悪水準で、「大学に行っても報われない」という漠然とした感覚が、いまや明確な現実として突きつけられているのだ。
特に就職が難しい分野は明確だ。会計、コーディング系IT、法務(パラリーガル含む)、コールセンター、バックオフィスなどのいわば「中間的知的労働」である。AIの進化と業務の自動化により、これらの領域は急速に代替可能なものとなってきた。一方で、レストランスタッフや水道・電気といったインフラを支える現場仕事、すなわち「オフショア化できない仕事」については、むしろ人手不足が続いている。皮肉なことに、ホワイトカラーの象徴だった知的労働が余剰となり、現場で汗を流す仕事が希少価値を持ち始めている。
この流れは、間違いなく日本にも、時間差を伴って波及する。いやすでに起きていると思う。
日本企業は1990年代までは、現場の猛烈な努力と、精緻な品質管理を武器に世界と戦っていた。特に製造業では、現場での工夫や改善が競争力の源泉となっており、ミドルマネジメントは現場の声を吸い上げ、経営に伝える潤滑油のような存在だった。AIやシステム化はあくまで現場を補助するものであり、機械はあくまで人間の努力の延長線にあった。
しかし2000年以降、IT革命とスマート革命が連続的に起こり、世界の構造が根底から変わった。知識やノウハウはネットワークを通じて瞬時に共有され、構想力と創造力が企業の競争優位の中心に躍り出た。にもかかわらず、日本の多くの企業では、ミドルマネジメント層がこの変化に追いつかず、現場任せの運営を惰性で続けてきた。日本は現場がとにかく優秀で我慢強く最強だったのだ。
本来であれば、ミドルマネジメントはオフショア化できる仕事と、そうでない仕事の見極めを行い、不要な業務を外に出す一方で、新たな付加価値を内部で創造するべきだった。だが実際には、多くの企業でそのような吐き出しは行われず、現場だけが疲弊していった。そのしょうこに、現場を抱える仕事であっても、昔と今で管理職の仕事の内容や評価基準が劇的に変わっている企業のほうが圧倒的に少ないのだ。現場だけが必死でスタッフ部門がゆるいのだ。経営や中間層が「考えること」「意味をつくること」から逃げ将来を構想したやり方をインストールすることなどを放棄し、1990年代と同じやり方で回すことを選んでしまったのだ。
この構造の限界を炙り出したのが、コロナだった。2020年からのパンデミックのなかで、企業は最低限の人数で業務を回さざるを得なくなった。そして気づいたのだ。「あれ?会議にいなくても、報告を受けなくても、意外と仕事は進む」と。Webで繋がれる少人数だけで、組織は機能してしまったのである。
この経験が浮き彫りにしたのは、「実は、何もしていなかった人」の存在だった。会議に参加しているだけ、報告を受けているだけ、KPIをチェックしているだけ。そういう人々が、組織には大量にいたのだ。しかし日本では解雇が難しい。そのため、コロナ後の現在においても、不要な人材が組織に居残り、風通しを悪くし続けている。
そして今、AIの登場によって、その状況はさらに加速する。ChatGPTをはじめとする生成AIは、既に多言語での指示理解、文書作成、KPI管理、情報の要約などを高精度かつ低コストでこなす。中間管理職が担っていた「指示伝達」「進捗確認」「定例報告」のような業務は、ほぼすべてAIで代替可能になった。しかも、速く、安く、間違わずに。つまり、構想力も共感力もない中間管理職は、いよいよ「ただの回路」として不要になりつつあるのだ。
では、これから残るホワイトカラーとは誰なのか。
トップ層には、未来を構想し、方向性を描き、そこへ向かって言葉と仕組みで組織を導く力が求められる。抽象的なビジョンを描き、それを実行可能な計画へと翻訳する能力こそが、AI時代のトップに求められる資質である。
一方、ミドル層には、大きく役割の転換が求められる。彼らに必要なのは、現場の心理的安全性を保ち、1on1などを通じて人の話を聞き、悩みを整理し、チームの空気を整える力だ。つまり、管理者から「ファシリテーター」や「コーチ」へと役割を進化させる必要があるのだ。
そして現場層は、単なる作業者から「意思を持った実行者」へと進化していく。AIをツールとして使いこなし、状況に応じて判断し、顧客に柔軟に対応できるインテリジェント現場が出てくる可能性があるのだ。
このような中で、組織のあり方も変わらざるを得ない。未来の組織再編のシナリオは、次の3つに大きく分かれるだろう。
第一は、「ハイブリッド型」だ。人とAIが役割を分担しながら共存するモデルだ。定型業務や報告系はAIが担い、人間は創造・共感・判断といった部分に集中する。中間層は心理的支援やコーチングに特化し、トップは構想力を研ぎ澄ませる。これは、日本企業にとって最も現実的な進化の道だと思う。
第二は、「トップダウンAI管理型」。AIがダッシュボードとアルゴリズムで意思決定を補助し、あるいは自ら意思決定を行うようなモデルだ。人間は異常事態の対応や倫理的判断に限られ、ほとんどの業務がAIに置き換わる。すでに中華系の一部テック企業や米国のスタートアップでは、この形が現実化し始めている。SFの世界では無いのだ。
第三は、「分散型・自律チーム型」。組織が極小のユニットに分かれ、それぞれが目標を持って独自に判断・運営していくモデルだ。DAO(Decentralized Autonomous Organization(分散型自律組織)の略で、簡単に言えば中央管理者がいないインターネット上の組織だ)やリモート企業など、クリエイティブ産業に近い構造で、ミドル層は「場をつくる役割」として再定義される。私はすでにこの組織形態を取り、上記の第一に近い組織と一緒に仕事をしているケースが多い。
いずれにしても、これまでの「会議室にいるだけで意味があった人」や「KPIを管理していた人」は、もう生き残れない。意味を生み出す人、感情に寄り添える人だけが、AI時代のホワイトカラーとして必要とされていくのだ。
では、そうでない人々は、どこへ向かうのか。選択肢は三つに絞られる。ひとつは、現場にシフトすること。もうひとつは、組織を離れること。そして最後が、自ら事業を創り出すことだ。
だが、日本では解雇という道が閉ざされている以上、多くの人は現場に戻るという形で組織に残ることになる。しかも、皮肉なことに、今の現場はかつてより価値を持っている。人が足りず、時給は高く、判断と実行が直結する。だから、現場の報酬は中間層を超えるかもしれない。
しかし、そこで問題になるのは金額ではない。かつて、自分が声を荒らげ、見下し、命令していた相手が、今や自分の先輩になるという構造に、人は耐えられるだろうか。20年、30年をかけて積み上げた自意識とプライドは、果たして現場の泥に触れることを許すのか。
それでも、構造は変わる。AIは止まらない。変化を受け入れるか、取り残されるか。問いは、ますます個人的なものになっていくのだ。
そしてこれは、もう始まっている。
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新規事業の旅195 モビリティ支配権をめぐる争奪戦
2025年6月26日
早嶋です。約6300文字です。
(自動運転)
多くの人は、自動運転と聞くと「ハンドルを握らなくてもいい車」のことを想像する。確かにそれも間違っていない。しかし、いま本当に進行しているのは、それをはるかに超えた世界だ。これは、車の進化ではない。都市の再構築であり、OSとしてのモビリティの支配権をめぐる争奪戦だ。
移動という行為は、すべての社会活動の前提にある。それを誰が、どのロジックで、どのインフラで制御するか。それが決まるということは、ある意味で都市の振る舞いや人々の行動パターンすら、ソフトウェアによって「書き換えられる」ことを意味する。
しかも、これは米中という二つの超大国の間で、静かに、しかし確実に進行している。表向きには、車が自動で走るという技術競争に見える。だがその裏には、インフラ、AI、地図、OS、クラウド、そして統治のアルゴリズムが折り重なった、国家と企業の複雑な設計がある。
そして今、私たちの目の前には、アメリカと中国という二つの全く異なるモデルが並んで立っている。片や技術で突き進み、片や都市ごと支配する。そこに、欧州、中東、日本といった他地域が、どう絡むか、あるいは絡めずに終わるのか。これは単なるイノベーションの話ではない。地政学の話であり、世界のOSをめぐる物語だ。
(米国の主導権)
自動運転の世界において、米国は先行者だ。なかでも目立つのは、Waymo、Tesla、Zooxの3社だ。彼らの思想やアプローチはまるで違うが、同じゴールに向かって進んでいるように見える。つまり、「人間の移動を再定義する」という取組だ。
Waymoは、Google=Alphabetの内部から始まった。地図、AI、クラウド、そしてスマートフォンを握るGoogleにとって、自動運転は自然な延長線上だ。Waymoは地道に都市と交渉し、センチ単位の精度でマップを整備し、完全自律型のロボタクシーを走らせている。これは、AIと都市インフラが融合するGoogleの未来像そのものだ。
Zooxは少し異なる。Amazon傘下としての戦略が透けて見える。彼らは「人が運転する」という前提を捨て、EVをゼロベースで設計した。ハンドルもアクセルもない。物流と都市交通を一気通貫で制御するために、Amazonはこの企業をグループ傘下に加えた。言い換えれば、「人の運転を経由せずに、人と荷物を動かす」という夢を、物理的に具現化した存在がZooxなのだろう。
Teslaは異端にして本命かもしれない。FSD(Full Self-Driving)という看板を掲げながら、実際にはレベル2からレベル3の支援システムに過ぎない。しかし、彼らの強みは「実装と分布」にある。ソフトウェアをオンラインで更新し、走行中の車からリアルタイムにデータを集め、学習させる。つまり、インフラや規制を先に整えるのではなく、「ユーザーを走らせてから整える」という逆転の発想だ。都市を制御するというより、ユーザーを都市より先にアップデートしてしまうのだ。
ここにGAFAMの全体像が浮かび上がる。GoogleはWaymoで都市と融合し、AmazonはZooxで物流と接続し、Teslaはクラウド化された車そのもので戦っている。AppleはProject Titanとして一度は参入しようとしたが、現在は実質撤退。Meta(旧Facebook)も自動運転には消極的で、ARやVR空間の中に「移動」を再構成しようとしている。MicrosoftはCruiseやAuroraのクラウド基盤を支え、裏側からこのゲームに参加している。
つまり、GAFAMの中で、「自動運転を戦略の中核に据えているプレイヤー」は限られている。今のところ、Google、Amazon、Teslaの三つ巴。その構図の中で、勝ち筋がもっとも明確なのはWaymoだ。すでに完全無人のロボタクシーを実装している都市を複数持ち、AIとマップの精度も随一。だが、圧倒的ユーザー数を背景にTeslaがいつ逆転してもおかしくはない。その意味で、米国は「技術完成度とデータ規模」の二軸で覇者を争っている構造だと言える。
(中国の本気)
中国の自動運転は、もはや「本気」どころではない。これはもはや国家戦略の一部であり、都市そのものを支配することを前提に組み立てられている。
筆頭はBaiduだ。Apollo Goというロボタクシーのブランドを掲げ、北京、武漢、深センなど15都市以上で展開している。すでに1,000台以上の車両が日常的に街を走り、完全無人の運転も始まっている。Baiduはもともと検索エンジンの企業だが、Googleと同様にAIと地図の文脈で自動運転に突き進んできた。今では専用EV「RT6」を自社で設計し、まさに都市の「足」として根付かせようとしている。
次にPony.ai。この企業は米中両方に拠点を持ち、トヨタなどのグローバルOEMとも連携している。冗長なセンサー設計と独自の地図生成エンジンを武器に、都市単位での運行モデルを磨いている。北京や深センでは、完全無人の運行も実施済み。技術主導の民間企業ながら、公共交通の一部として組み込まれつつあるのだ。
そしてWeRide。ロボタクシー、ロボバス、ロボ物流の三位一体を掲げ、すでにアブダビやシンガポールなど国外展開も進めている。中国国内では広州、武漢、上海などで実装されており、むしろ「乗り物」ではなく「都市機能」の一部として扱われている節すらある。
ここで注目すべきは、中国の「GAFAM的存在」だ。つまり、Baidu、Tencent、Alibabaのような巨大IT企業が、この覇権ゲームにどう関与しているかだ。
Baiduは説明した通り、完全に自動運転の中核を担うプレイヤーだ。一方、Tencentはモビリティそのものには直接手を出していないが、インフラ、地図、そしてゲーム空間などの「メタ空間」との連動で布石を打っている。Alibabaも直接の自動運転ではなく、Cainiao(菜鳥)による物流ネットワークや、AliOSによる車載OSなど、裏方として関わっている。
加えて、中国にはBYDという圧倒的なハードプレイヤーが存在する。テスラのライバルとされがちだが、実際にはすでにハードの規模ではテスラを凌駕しており、独自のADAS「God’s Eye」をほぼ全車に標準搭載するなど、自動運転の手前で「既成事実」を積み上げている。
中国の自動運転は、企業が単独で勝つのではない。企業と国家と都市が連動して勝ちに行くのだ。この構造は、自由市場でバラバラに勝負を挑む米国とはまったく異なる。ここには、「どの都市で、どの車を、どれだけ、どのルートで走らせるか」という政治性すら入り込む。もはや「技術」ではなく「統治の一部」なのだ。
(欧州の時間稼ぎ)
欧州は、強い。少なくとも、法とルールをつくるという点においては、誰よりも洗練されている。だが、こと自動運転というゲームにおいては、その「強さ」は逆に重たくなっているようにも見える。
Volkswagen、BMW、Mercedes、Stellantis。欧州を代表する名だたる自動車メーカーたちは、確かに一定の開発を進めてはいる。VW傘下のCariad、英国発のWayveなど、技術ベンチャーの台頭もあるにはある。
だが、最大の問題は、「走らせて学ぶ」という米中の手法に、都市側の許容が追いついていないことだ。GDPRを代表とするプライバシー保護、AI法案によるリスク等級制、道路交通法の厳格な規制。すべてが、自動運転の実証を「慎重に」「ゆっくりと」進めざるを得ない構造になっている。
欧州は、自動運転のOSそのものではなく、「その動きを制限する憲法」を作ってきた。これは、一定の戦略性を持つ。ルールを握れば、プレイヤーを支配できるという思想だ。しかし現実には、WaymoもBaiduも、そしてTeslaすらも、欧州の市場に対しては「慎重に見守る」姿勢を取っている。つまり、欧州は自らの規制によって、覇権の舞台から外れていっているのだ。
その時間を使って、自前のプレイヤーを育てることができるか。技術開発において2年から3年のギャップは致命的だ。世界が動く速度に比して、欧州の動きは確実に遅れている。法と規制のバリアで時間は稼げても、それは一時しのぎのシェルターに過ぎないのかもしれない。
(実験都市としての中東)
世界で最も自動運転の社会実装が早いのは、アメリカでも中国でもない。それは、「受け入れる意思のある都市」だ。この意味で、中東、とりわけUAEやサウジアラビアは、今や世界最大の実験場になっている。
アブダビでは、WeRideがミニバスとロボタクシーを同時に走らせている。Pony.aiもテストエリアを広げ、すでに一般利用者の乗車も始まっている。規制は緩く、地元政府の後押しも強い。なぜなら、彼らにとってこれは、「石油の次に来る国家像」を見せるためのデモンストレーションだからだ。
サウジアラビアのNEOMは、その極致だ。都市そのものを再定義し、ゼロから構築するなかで、自動運転は「初期装備」として組み込まれている。そこには、「道路をどう作るか」という次元ではなく、「人をどう動かすか」という哲学がある。
中東は、覇権を争う舞台ではない。だが、そのど真ん中に位置している。米国の技術も、中国の都市設計思想も、ここでは等しく歓迎される。それは、両者を比較し、採用する側の視点を持てるという優位にほかならない。
中東は、自動運転を「未来の自分たちの生活を飾る技術」として受け入れようとしている。その姿勢こそが、もしかすると最も柔軟で、最もしたたかなのかもしれない。
(その他周辺国や地域)
日本はトヨタがいる。ホンダも日産も、技術的には一定の水準にある。だが、それが「都市OSの構築」という文脈で評価されることはほとんどない。
トヨタはWoven Cityという実証都市を作った。そこでは、ヒューマンセントリックな未来を描こうとしている。だが、あまりに慎重で、あまりに内向きだ。海外展開もない。データも閉じている。その結果、日本の自動運転は「自国向けADASの延長」で止まっている。
ASEANはどうか。GrabのようなMaaS企業が急成長しているが、そのプラットフォームの背後には、WeRideやBaiduといった中国系テクノロジーの影がある。南米やアフリカでは、BYDのEVが続々と導入され、中国製のモビリティが「デフォルト」になりつつある。
つまり、米中のどちらのネットワークに接続されるかが、今後の分断を決める。それは、車のメーカーを選ぶというよりも、「どのOSを採用するか」という決断に近い。
覇権を握るのは、国家ではない。技術でもない。都市の振る舞いを支配するOSそのものなのだ。
(OS戦争の行方)
自動運転は、もはや車だけの話ではない。それは、都市の振る舞いを誰が設計し、誰が制御し、誰が所有するのかという争いだ。アクセルを踏むのが人間である必要がなくなった瞬間、移動はインフラの一部に変わる。そうなったとき、問題となるのは「どのOSで動かすのか」という構造の話になる。自動運転とは、車を進化させる技術ではなく、都市そのものを再構成する力学だ。
この覇権をめぐる戦いは、すでに米国と中国という二大勢力の構図へと収束しつつある。技術とデータ、インフラと規制、国家と企業が複雑に絡み合いながら、まったく異なる2つのモデルが進行している。
アメリカでは、Waymo、Tesla、Zooxの三者が覇を競う。WaymoはGoogleの叡智を背景に、地図とAIを駆使しながら都市と接続していく。その技術は静かだが、確実に人間の移動を置き換え始めている。ZooxはAmazon傘下として、物流と交通を一体に制御するための「人間不要の移動体」をゼロから設計した。ここには、ラストワンマイルを誰が握るかというAmazonの本質が現れている。そしてTesla。未だ完全な自動運転ではないものの、すでに100万台を超えるFSD搭載車を走らせ、ユーザーの行動そのものをデータ化し、ソフトウェアで世界を更新しようとしている。つまり、都市を制御する前に、人間の行動をアルゴリズムに吸収しようとしているのだ。
ここに、GAFAMの動きが重なる。Appleは撤退。Metaはバーチャルへ。Microsoftは裏方でクラウドを握る。今や、自動運転を戦略の中心に据えるテックジャイアントは、Google(Waymo)、Amazon(Zoox)、そしてTeslaだけだ。つまり、米国のモデルは「技術で勝つ」ことと、「市場でスケーリングする」ことの両輪で動いている。
対する中国は、まったく異なる風景を描いている。ここでは都市そのものが、国家主導で自動運転に最適化されていく。BaiduのApollo Goは、北京や武漢など15都市以上で1,000台超のロボタクシーを運行中。すでに完全無人運転が日常風景になりつつある。Pony.aiはトヨタや複数のOEMと連携し、民間技術としての完成度を追求しつつも、都市と直結する運行モデルを構築している。WeRideはさらに広く、ロボタクシーだけでなく、ロボバスや物流も統合したインフラとしての自動運転を押し出している。
中国の強さは、企業と国家と都市が一体化している点にある。そこにBaidu、Tencent、Alibabaといった中国版GAFAMが関与し、Baiduは中核プレイヤーとして技術と運用を推進。Tencentはマップやゲーム空間と結びつけ、Alibabaは物流網やOSレイヤーで接続してくる。そしてBYDが、膨大な車両とADAS技術で「既成事実」を物理的に構築していく。これは、自由競争の皮をかぶった中央集権型モビリティ支配の完成形だ。都市を誰が制御するのか、その問いに、中国は国家全体で答えようとしている。
欧州は、これにどう向き合っているか。答えは「ルールを作ることで時間を稼ぐ」だ。GDPRに象徴されるような情報保護、AI法、道路交通の厳格な法体系。外資系プレイヤーの侵入を抑えながら、自国のスタートアップやOEMに呼吸を与えている。しかしその間にも、Waymoは都市を増やし、Baiduは車両を増やしていく。法による時間稼ぎが、技術による既成事実に追いつけるのか。欧州の選択は、ある意味で防戦に見える。
中東はどうか。アブダビやサウジではすでにPony.aiやWeRideが実装されており、NEOMのような未来都市構想では、自動運転は「前提条件」として組み込まれている。石油以後の経済と国家像を描く中東にとって、自動運転は象徴的なイメージ装置なのだ。つまり中東は、覇権を争う戦場ではなく、その優劣を証明する展示会場として機能している。
こうしてみると、世界はすでに分岐している。米国モデルは、技術とスケール。中国モデルは、統治と制御。欧州はルールで抵抗し、中東は開かれた実験場として使われる。
自動運転とは、単なる機械の話ではない。これは、どのOSが人間の移動を支配するかという問いだ。都市を走る車を、誰が設計し、誰がアップデートし、誰のデータで学習させるのか。それは、その都市が誰の思想で動いているのかを意味する。
もはや、覇権を握るのはエンジンでもなければ、デザインでもない。人の流れと都市の振る舞いを、どのアルゴリズムで制御するか──その争いこそが、自動運転の本質なのだ。
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