早嶋です。
民主主義は、誰もが当たり前のように口にするが、考えてみると、ものすごく繊細な仕組みだと思う。仮に、社会の構成員が100人いるとする。その100人が等しく、ある一定レベルの教育を受けていなければ、本当の意味で民主主義は成り立たないのだ。いや、むしろ成り立たせてはいけないと思う。
それは、教育を受けていなければ、選挙は単なる人気投票になるからだ。耳障りの良い言葉に流され、都合の良い敵を見つけ、思考停止のまま「投票」という行為が行われる。これでは制度だけがあり、中身のない、形骸化した民主主義になってしまう。
民主主義は「誰でも投票できる制度」だが、制度があるからとて、それだけでうまく機能しない。教育を通じて、自分の頭で考える力。情報を比較して、取捨選択する力。未来への想像力。そういうものを持っていないと、「賢く選ぶ」ことはできない。
もっと言えば、教育とは「自分が信じていることを、いったん疑ってみる力」を育てることだ。これがないと、誰かに操作される。自分が操作されていることにも気づかずに、善意で間違った判断をしてしまう。だからこそ、教育は制度を支えるのだ。
言論の自由が大切なのは間違いない。ただし、何を言ってもいいわけじゃない。「私はそう思う」という考えを述べるのは自由だ。でも、まったく事実に基づかない内容を「真実であるかのように」広めるのは、もうそれは自由ではなく、暴力だ。
たとえば、何も悪いことをしていないA氏に対して、「あいつが犯人だ」と断定する発言。これがテレビやSNSで繰り返されると、事実でなくても空気ができあがる。そうすると、本人にとっては社会的な死刑宣告と同じだ。言論の自由は、責任と自覚がセットになって初めて成り立つ。
選挙を成り立たせるには、正しい情報が行き届くことが前提だ。その意味で、メディアは選挙を支える装置みたいなものだ。でも、実際にはどうだろうか。
特にテレビ。放送免許制のもとで守られ、限られたプレイヤーだけが公共の電波を独占している。そして、そこから発信される言葉は、ナレーション、映像、見出し、すべてが巧妙に編集されている。視聴者の多くはその「編集された現実」を事実として受け取る。ここに操作が入れば、世論そのものが動かされる。
事実、戦前のマスメディアは戦争を煽り、戦後は被害者を装って今の体制に移行した。構造は変わっていない。民主主義が機能するには、本来、メディアはもっと自律的でなければならない。でも現実には、メディアこそが第四の権力として、チェックされることなく影響力を持ちすぎている。
このように議論すると、こう思えてくる。もしかして、民主主義が「本当に成り立っている国」なんて、世界にひとつもないんじゃないかと。教育、メディア、選挙制度、表現の自由、格差、少数派の尊重、三権分立、どれか一つでも崩れれば、民主主義は歪む。
じゃあそれでも、なぜ民主主義を掲げ続けるのかだ。それは、「民主主義しかマシな方法がないから」ではない。そうじゃないと思う。むしろ、民主主義とは信仰のような存在なのかも知れない。
暴力ではなく、対話によって社会をつくる。声の大きさではなく、論の力で決めていく。そうありたいと願う人たちの集合的な信念だ。それがある限り、民主主義は完成された制度としてではなく、絶えず問い直される姿勢として存在し続ける。
選挙がある。憲法がある。制度は整っている。でも、本当に必要なのは、その制度を支える土台が今も健全かを常に問い直すことだと思う。それは教育であり、言論空間であり、公共性への信頼であり、考えようとする市民の姿勢だ。
民主主義が壊れるとき、それは制度の形ではなく、前提の崩壊だ。我々が当事者となり議論し続けることが大切だ。
民主主義は、誰もが当たり前のように口にするが、考えてみると、ものすごく繊細な仕組みだと思う。仮に、社会の構成員が100人いるとする。その100人が等しく、ある一定レベルの教育を受けていなければ、本当の意味で民主主義は成り立たないのだ。いや、むしろ成り立たせてはいけないと思う。
それは、教育を受けていなければ、選挙は単なる人気投票になるからだ。耳障りの良い言葉に流され、都合の良い敵を見つけ、思考停止のまま「投票」という行為が行われる。これでは制度だけがあり、中身のない、形骸化した民主主義になってしまう。
民主主義は「誰でも投票できる制度」だが、制度があるからとて、それだけでうまく機能しない。教育を通じて、自分の頭で考える力。情報を比較して、取捨選択する力。未来への想像力。そういうものを持っていないと、「賢く選ぶ」ことはできない。
もっと言えば、教育とは「自分が信じていることを、いったん疑ってみる力」を育てることだ。これがないと、誰かに操作される。自分が操作されていることにも気づかずに、善意で間違った判断をしてしまう。だからこそ、教育は制度を支えるのだ。
言論の自由が大切なのは間違いない。ただし、何を言ってもいいわけじゃない。「私はそう思う」という考えを述べるのは自由だ。でも、まったく事実に基づかない内容を「真実であるかのように」広めるのは、もうそれは自由ではなく、暴力だ。
たとえば、何も悪いことをしていないA氏に対して、「あいつが犯人だ」と断定する発言。これがテレビやSNSで繰り返されると、事実でなくても空気ができあがる。そうすると、本人にとっては社会的な死刑宣告と同じだ。言論の自由は、責任と自覚がセットになって初めて成り立つ。
選挙を成り立たせるには、正しい情報が行き届くことが前提だ。その意味で、メディアは選挙を支える装置みたいなものだ。でも、実際にはどうだろうか。
特にテレビ。放送免許制のもとで守られ、限られたプレイヤーだけが公共の電波を独占している。そして、そこから発信される言葉は、ナレーション、映像、見出し、すべてが巧妙に編集されている。視聴者の多くはその「編集された現実」を事実として受け取る。ここに操作が入れば、世論そのものが動かされる。
事実、戦前のマスメディアは戦争を煽り、戦後は被害者を装って今の体制に移行した。構造は変わっていない。民主主義が機能するには、本来、メディアはもっと自律的でなければならない。でも現実には、メディアこそが第四の権力として、チェックされることなく影響力を持ちすぎている。
このように議論すると、こう思えてくる。もしかして、民主主義が「本当に成り立っている国」なんて、世界にひとつもないんじゃないかと。教育、メディア、選挙制度、表現の自由、格差、少数派の尊重、三権分立、どれか一つでも崩れれば、民主主義は歪む。
じゃあそれでも、なぜ民主主義を掲げ続けるのかだ。それは、「民主主義しかマシな方法がないから」ではない。そうじゃないと思う。むしろ、民主主義とは信仰のような存在なのかも知れない。
暴力ではなく、対話によって社会をつくる。声の大きさではなく、論の力で決めていく。そうありたいと願う人たちの集合的な信念だ。それがある限り、民主主義は完成された制度としてではなく、絶えず問い直される姿勢として存在し続ける。
選挙がある。憲法がある。制度は整っている。でも、本当に必要なのは、その制度を支える土台が今も健全かを常に問い直すことだと思う。それは教育であり、言論空間であり、公共性への信頼であり、考えようとする市民の姿勢だ。
民主主義が壊れるとき、それは制度の形ではなく、前提の崩壊だ。我々が当事者となり議論し続けることが大切だ。