早嶋です。
2025年8月も、終わろうとしている。
昼間はまだ暑い。太陽はギラギラと容赦なく照りつけ、湿度は高く、空気は肌にまとわりつく。これではとても「秋の気配」とは言えない。たぶん、誰もがそう思っている。しかし、昨日の夜、息子と近所の通りを歩いていると、風が少しだけ違ったように感じた。なんというか、真夏の重たい熱風ではない。肌を撫でるような、少し乾いた風。少し冷たい風。目には見えないが、風の質が変わってきたような気がした。
ふと、旧暦では今日は何の日なのか、気になった。
グレゴリオ暦の2025年8月28日は、旧暦でいうところの令和七年八月五日だ。旧暦の八月は「葉月(はづき)」と呼ばれる。「木々の葉が落ち始める月」が語源だ。もちろん、現代の暦ではまだ青々とした木々に囲まれていて、葉が落ちる気配はない。それでも、虫の音や夜の風は、確実に「秋が近い」と教えてくれるのだ。
旧暦では「立秋」はすでに過ぎていて、今は「処暑(しょしょ)」という時期だ。処暑は「暑さが止む」と書く。昼間はまだまだ暑くても、朝晩の空気には涼しさが混じる。まさに、昨夜感じた風だ。旧暦の世界では、この頃から月見の準備が始まる。中秋の名月(旧暦八月十五日)は、今年でいえば9月6日。夜空を見上げて、月を待つ感性。それもまた、風の変化に気づく人の特権かもしれない。
季節の境目というのは、カレンダーで確認するものではなく、自分の肌で感じるものだ。誰かにとってはただの夜風が、誰かにとっては、季節のスイッチを押す合図になる。旧暦の暦や歳時記は、そんな人々の感性を千年単位で記録してきたのだ。そう考えると重みがあり、とても有り難いと思う。
ふと吹いたその風が、何の前触れもなく「秋です」と教えてくれる。それにたまたま気がついた。昨晩は自分の心に少しだけ余白があったのだろう。