
新規事業の旅181 グーループ再編の現場のリアルと理想
2025年5月14日
早嶋です。
現在、日本の産業界では「グループ再編」が国家政策の後押しを受け加速している。経済産業省は、産業競争力強化法の枠組みを通じ、中堅・中小企業を中心に再編を促進しようとしている。背景には、いくつかの構造的な問題がある。
日本の中小企業は、その数が多い反面、1社あたりの規模は極めて小さく、生産性も国際比較で見劣りする。特に、同じ地域や業界内で似たような会社が乱立し、過当競争を招いているケースは多い。経産省は、これを「過少な規模」「過剰な数」「過当な競争」という三重苦と捉え、再編による統合と規模の最適化を通じ、生産性の向上と競争力の確保を狙っている。
再編による効果は多岐に渡る。経営資源の集中、重複業務の削減、財務基盤の強化、人材確保の容易化、そして次世代への事業承継の効率化などが挙げられる。とくに後継者不在が深刻な中小企業にとっては、グループ内再編が企業存続の鍵にもなりうる。
このような政策的な支援のもとで、多くの企業が再編に踏み出している。しかし、現場では、その実行には大きな温度差と課題が存在する。再編のスキームは、親会社が100%出資している完全子会社か、外部に少数株主がいるマジョリティ出資の子会社かで大きく異なる。
完全子会社であれば、親会社の意思でスピーディに再編が進む。社内でプロジェクトチームを立ち上げ、出向者や兼務役員を通じて対象会社に施策を落とし込み、合併や吸収、会社分割などのスキームを設計しながら、比較的円滑に進行することが多い。
しかし、少数株主がいる場合は話が違う。再編にあたっては特別決議や同意が必要であり、経済合理性だけでなく、株主間の利害調整、価格の妥当性、説明責任が生じる。そのため、制度設計よりも関係者調整が主戦場となる。
だが、もっと大きな課題は、実は再編の「中」ではなく「後」にある。たとえば、再編の対象となったグループ会社に、赤字を出している事業があるとしよう。その事業を吸収するか統合するかを決める際、本社の類似部門に統合する判断がされるケースが多い。このとき、本社でその事業を担当する責任者、もしくは再編後の統合会社でその事業を任される人材が必要になる。仮にその人物をA氏とする。
A氏は、本社で同事業を担当していた場合、吸収される側のグループ会社の社長である場合、もしくは外部から新たに登用される場合など、ケースは様々だが、多くの場合、A氏は再編の「後」にアサインされる。再編はすでに決まっており、事業の整理が一段落ついた段階で呼ばれるのだ。
問題はここからだ。再編を決めた段階では、「この事業は今後成長が期待できる」「本社主導で立て直す」という漠然とした意欲はある。だが、その意欲が「事業としての具体的な戦略」や「2〜3年の計画」として明文化されているケースは少ない。本来であれば、M&Aと同じくPMI(Post Merger Integration)フェーズにおいて、A氏を中心に経営企画部門と連携し、組織、業務、人事、財務などの統合計画を詰めるべきだ。しかし、多くの企業では、再編そのものを目的とし、その後の体制整備や戦略策定は「後から考える」ものとして後回しにされる。
その結果、A氏は、統合したが損益はマイナス。組織の風土も異なる。人員整理や設備再配置も済んでいない。という火中の栗を拾わされるような立場になる。しかも、本社の社長がその経緯を理解しているうちはまだ良い。だが、多くの大企業では、社長は2年から3年で交代する。新任の社長にとって、A氏が担っている事業は、「再編したが赤字の部門」でしかないのだ。
たとえA氏が地道に黒字化に向けて努力し、ある程度の成果を上げていたとしても、新体制下では「非中核」「収益性が低い」とされ、最悪の場合は更なる事業売却や縮小、そして人事責任の対象になる。A氏にしてみれば、「自分は会社の命令でやったのに、なぜ責任だけ押し付けられるのか」となる。こうした構造を目の当たりにしてきた事業部長や幹部たちは、再編という言葉に「希望」ではなく「恐怖」を感じ始めていると思う。
では、あるべき再編とPMIの姿とは何か。まず第一に、再編を決定する段階から、A氏のような現場の責任者をPMIチームに参画させることが重要だ。紙の上で戦略を描くのではなく、実行者が事前に全体像を共有し、合意を得ながら進めることで、後の責任の分断を防ぐ。
第二に、再編後のPMIには成果基準と耐性期間を明確に定めることだ。たとえば、「2年は損益を問わず、組織統合と業務の最適化に集中する」「評価指標は、KPIではなく組織融合度や制度整備の完了度」といった具合である。
第三に、トップマネジメントの交代リスクに備え、PMI方針の継続性を制度化しておくことが欠かせない。社長が変わってもPMIの基本方針は役員会で保持され、途中でぶれることがないという構造的な裏打ちが必要だ。
そして最後に、リスクを引き受ける人材への敬意と保障を明文化することだ。うまくいかなかったときに、個人の責任ではなく、組織として再編に取り組んだ結果だと認識し、次の挑戦を許容する文化がなければ、再編に本気で取り組む人材は出てこない。
再編とは、スキームや法務の話ではなく、「人の信頼」の話なのだ。そこに希望を描けるかどうか。いま、多くの企業がその本質を見つめ直すときに来ているのではないか。
TSMCがもたらした変化
2025年5月12日
早嶋です。約1600文字。
本日、「一般社団法人九州・台湾未来研究所の創設記念イベントに参加。基調講演のtsmc著者林宏文氏の講演を聞きながら整理した内容だ。設計と製造が分業する前の日本に戻る可能性は十分にあり、その勝ち筋を九州を中心に目指す方法があると感じた。
TSMCが熊本に拠点を構え、日本政府が1兆円を超える補助を決定したとき、多くのメディアは「製造回帰」や「経済安全保障」といったキーワードで報じた。だが、本日の講演を聴いて、この流れをもっと深く、戦略的に捉えるべきだと思った。TSMCの事例は、単なる工場誘致ではなく、台湾から日本への主導権の一部移転という構造的な変化と捉えることが出来るからだ。
TSMCはなぜ日本を選んだのか。その理由は単純ではない。米国アリゾナ、欧州ドイツ、そして日本熊本という三拠点への展開は、台湾という国家が生き残るための地政学的分散戦略に他ならない。台湾はTSMCという経済的中枢を国外に少しずつ共有することで、各国が台湾の存在に利害を持つ構造を築いている。まさに経済版NATOのようなものだ。熊本はその中で、日本の自動車産業や産業機器産業を支えるアジア側の安全装置として位置付けられているのだ。
TSMCが巨額を投じたアリゾナ工場は、建設遅延・コスト高騰・技術者不足といった問題に直面している。米国では責任ある精密作業に対する文化的乖離が大きく、TSMCが求める基準を再現することは容易ではなかった。工場の建設に対しても2年程度の期間が4年程度かかるなど、政治的な理由での投資の側面が大きい。一方で熊本は、政府・企業・地域が一定の調和のもとでTSMCの製造文化を受け入れている。日本は最先端製造の静かな受け皿として、アジアで最も安定した選択肢になりつつあるのだ。
ただ、日本の半導体戦略には決定的な空白がある。それがIC設計、つまり、何を作るかを定義する力が不足している点だ。製造・装置・材料・歩留まり、これらに強みを持ちながら、設計の分野ではAppleやNVIDIA、Armといった海外勢に完全に依存しているのが日本の現実だ。思想を持った回路設計、つまりIP(知的財産)を日本が生み出せなければ、製造を国内に持っていても最終的にはTSMCの黒子、もしくは下請けにとどまってしまう。
実際、日本国内には活かされていないIPの種が豊富に眠っている。センサー制御、車載電源、ミリ波レーダー、医療画像処理、MEMS、環境センシング。これらの技術は、大手企業や研究機関に蓄積されてきたものだ。しかし、それを再利用可能な部品、つまりはIPとして構成し直し、世界のEDA(Electronic Data Interchange/電子データ交換)環境で流通させる取り組みはほとんど行われてこなかった。これを変えるには、大学・研究機関とスタートアップを結ぶ、いわば翻訳装置が必要なのだ。
研究成果を社会実装へと変えるスピード感と視野を持つのがスタートアップだ。日本のアカデミアには世界レベルの成果があるが、それを事業化し、製品に昇華させる役割がこれまで決定的に不足していた。いま、熊本にTSMCという実体化のための手段がある。そこに、日本の研究者の構想力とと、スタートアップの翻訳する役割としての足を結びつければ、日本は「設計と製造の自立した国」として再生できる可能性が十分に生まれる。
ここで、今回の講演のスライドのまとめが思い出される。そこにはこう書かれていた。
「日本は基礎研究と長期視点、職人気質が強く、台湾はスピードと資本活用に優れる。この違いがあってこそ、電子産業は競争力を持つ」と。
これは単なる美辞麗句ではない。実際に、TSMCを日本に持ってきた構造そのものが、こうした補完関係によって成り立っているのだと思う。日本の研究と、台湾の実装力。日本の重厚な知見と、台湾の敏捷な組織力。これらが交差する地点に、世界と戦える設計思想が生まれるのだ。そしてその思想を回路に変えるのは、我々の意志と、起業家たちの挑戦なのかもしれない。
新規事業の旅180 昭和100年
2025年5月12日
早嶋です。約2800文字。
2026年、昭和が始まって100年の節目を迎える。昭和100年は単なる懐古的な記念ではないと思う。いま我々が生きる令和は、世界規模での分断と再構築が進むな、改めて昭和の思想・文化・経済構造を照らし返す必要に迫られているからだ。同時に、いま日本という国家がどこに立ち、どこへ向かうべきかも、重要な問いとして考える必要があるのだ。
若者のファッション界隈で流行しているY2K(2000年代前後)トレンドには、80年代から90年代の昭和的なモチーフが頻繁に引用されている。ダボっとしたデニム、ナイロン素材、レトロなロゴなど、一度は古くなったはずの要素が「逆に新しい」と再評価されている。また、テレビドラマや配信コンテンツも、昭和的な価値観を現代に持ち込む構造が目立つ。『不適切にもほどがある』のように昭和と令和をタイムスリップ的に対比させたり、『続・続・最後から二番目の恋』のように50代、60代以降の登場人物を中心に据えたものが視聴者の共感を呼んでいる。
昭和という時代は、社会としてのエネルギーに満ちていた。教師が絶対的存在だった部活動、会社での猛烈な労働と遊び、喫煙が許されていた新幹線、未来への希望、そして子どもたちが「夢」を語っていた風景。経済も拡大を続け、人々の努力には報酬が伴っていた。だが現在、多くの若者が「夢を語れない」。年上の我々も「夢を語らない」。未来は明るくなく、努力が報われる実感も乏しいのだ、少なくともそう勘違いしている。登校拒否、出社拒否、社会からのドロップアウトも、もはや特別な選択ではなくなっているのだ。我々の世代は週休2日でも休み過ぎなのに、週休3日を提唱して、働かない改革を推し進める謎の声も市民権を得つつあるのだ。
1980年代、日本はアジアの絶対的リーダーだった。中国は改革開放の入り口、韓国は日本の後追い、ASEAN諸国もまだ新興国で、日本は常に一歩先を走った。しかし現在、構図は大きく変わった。中国は法の緩やかさと巨大な国土、独裁政権という構造を最大に活かして、失敗を繰り返しながら社会実験を繰り返してきた。ITインフラと共に、現場の判断と即応性が進化を加速させた。結果、ITやAIなどの世界に対しては、誰も疑わずに世界のトップランナーである。
韓国は、国のスケールが小さいことを逆手に取り、1997年のアジア通貨危機を契機に外需依存型の経済にシフトした。K-POP、ドラマ、eスポーツ、ファッションなど、文化コンテンツを国家戦略として輸出し、補助金を通じてグローバルブランドを形成した。韓国の認知を高め、質を高める取組として、一部の選ばれた企業には徹底して資本と制度を集中させる設計が国家的になされたのだ。
対して日本はどうか。国内では大企業同士が市場を奪い合い、海外では同じ日本のメーカー同士がカニバリゼーションを起こして共倒れになる。そして他の国々に負けてしまうのだ。国家が方針を示して民間を引っ張る形は皆無で、「内向きな自立」が競争力をむしろ削いでしまっているのだ。
かつての情報収集は書籍や新聞、現地での対話が中心だった。しかし現在、若者を中心に情報取得は動画と音声、タイムラインでの受動的な摂取に変化した。自ら疑問を立てて調べ、答えを考える機会が減り、思考の浅さが社会全体を覆っている。全ては2次情報で済ませ、現地現物現実を感情を伴って感じながら判断する1次情報の重要性を体験として理解することも薄くなっている。
しかし、教育制度は一方で昭和のままだ。答えがある勉強、中央集権型の制度、間違いを避ける訓練、絶対的な権威が生徒や組織を抑圧する制度。いくら情報としてイノベーションを言葉で語ることはできても、リスクを取り挑戦する行動に変える土壌は絶対に育たない、或いは育ちにくいのだ。
一方で、希望はある。それは制度の中ではなく、制度の外に現れているのだ。スケボー、BMX、サーフィン、料理、ファッション、デザイン、YouTubeでの映像制作。このような分野では、子どもたちが自らの意思で世界と接続し、努力を積み重ねて成果を出している。誰かに指示されたわけではない。学校のカリキュラムの成果でもない。「好き」や「好奇心」が原動力になって、ネットに通じる世界をベースに始めから世界の頂点を目指して戦っているのだ。そして、その結果をSNS等を通じて表現できる世界が後押しして、結果的に注目を集める結果を構築している。
現在の日本は、超円安を背景に多くの外国人が訪れている。彼らが魅力を感じているのは、日本の正確さ、親切さ、自然、清潔さ、そして秩序だった社会の佇まいである。これは短期的な観光ブームではなく、むしろ日本が持つ「文化資本」が世界に発見されつつある兆しなのでないか。
それにもかかわらず、日本人自身はその価値を軽視している。古来の木造建築や地域景観を破壊し、東京都に象徴されるように、コンクリートと太陽光パネルによる環境対応プロパガンダに従い、都市の顔を無機質化している。そして、そのコピペを全国に拡張しようとしているのだ。
このような現状を受け、日本にはおおよそ次の二つの選択肢があると思う。それぞれAとBだ。
A:全国を一律にデジタル化・都市化し、均衡ある発展を追求する道。
B:成長可能性の高い都市に集中的に資源を投下し、それ以外のエリアは自然共生型として再設計する道。
A案は理想的である一方で、少子高齢化と財源制約のなかで実現困難である可能性が高い。私は、B案に軸足を置き、構想を展開することが合理だと考える。
これからの時代、日本は「すべての地域を平均的に成長させる」という幻想を捨てるべきだ。その代わりに、成長する都市と、自然と共生するエリアを明確に分け、国家としての構造設計を行うべきだと考える。
例えば、東京、大阪、名古屋、札幌、福岡などの都市部では、デジタル・AI・バイオなどの先端技術と国際人材を集約し、超高密度型都市として強化するのだ。駅直結のビル、タワーマンション、地下・高架の交通インフラ整備。競争と効率性のための都市化を徹底する。
そして、山間部や海岸部、温泉地などを有するそれ以外の過疎が進む偉いも独自の路線を打ち出すのだ。そう、最も人間にとって価値がある自然エリアだ。ここでは、江戸時代的な自然共生型の景観に回帰するのだ。アスファルトや護岸整備ではなく、地形を活かした暮らしを推進し、湯治、農泊、長期滞在の促進を図る。ダムの解体や護岸の自然化を進めることも視野に入れ、自然に戻す活動に注力するのだ。
昭和100年とは、過去を懐かしむだけの節目ではないと思う。むしろ、明治維新や戦後の復興と同じくらいの強度で、国家ビジョンを更新する好機だ。強く成長する都市、慎ましく美しい自然、そしてその両方を支える調和の設計。これを実現できたとき、日本は再び世界の希望たりうる国になるのではないだろうか。
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宗教改革から500年
2025年5月9日
早嶋です。
ロバート・プレヴォスト。教皇レオ14世が選ばれた。アメリカ出身。南米ペルーで長く活動したイエズス会の聖職者であり、史上初のアメリカ人教皇として、カトリックの歴史にその名を刻んだ。そして、同時に、これは教皇フランシスコの意志を引き継ぐ人物として選ばれたことを意味していると思う。
現在のカトリックは、世界で13億人以上の信者を抱える最大の宗教のひとつである。そしてその信者の多くは、欧州ではなく、南米、アフリカ、東南アジアの新興・発展途上国に広がっている。この教会が今、再び変わらなければならない。その予感を、レオ14世の登場は明らかに内包している。
教皇フランシスコは、2013年にアルゼンチンから選出された。南米出身者としては史上初。イエズス会からの教皇も初だった。選出の瞬間、「カトリックが歴史的な転換を試みる」というメッセージが込められていた。彼の10年以上の在任期間には、象徴的な言動と実務的な改革の両方が存在した。以下はその代表的な取り組みだ。
●清貧の実践
バチカンの伝統的な豪華な服装や生活を避け、質素な白衣と十字架、そして小型車での移動。教皇の姿そのものが「清貧」の象徴となった。
●バチカン銀行の透明化
過去に資金洗浄の温床とされていたバチカン銀行(宗教事業協会)の口座を精査。不要な数千の口座を閉鎖し、外部監査を導入するなど、金融機関としての信頼回復に動いた。
●性的虐待問題への正面からの対応
世界中で報道された聖職者による性虐待。これまで隠蔽と沈黙を続けてきた教会において、フランシスコは初めて被害者に謝罪し、ローマに各国の司教を集めて対策サミットを開催。制度改革の足掛かりを作った。
●LGBTや離婚者への包摂
「神はすべての人を愛している」と明言し、LGBTの人々や離婚・再婚者にも教会が開かれるべきだと説いた。伝統的な教義の解釈を再検討する柔軟な姿勢を示した。
●社会正義と環境への取組
回勅『ラウダート・シ』で、気候変動、経済格差、移民、難民問題に触れ、宗教指導者として国際社会に強い倫理的メッセージを放った。
これらの取り組みは偉業だったと思う。一方で、フランシスコの改革は、象徴的だったが、「制度そのものを根本から変える」には至っていない。むしろ、保守派との対立を避けるために、一定の妥協も必要だったのだろう。今なお、カトリックの制度は矛盾を内包していると感じる。
●ヒエラルキー構造の継続
教会の階層構造は変わっていない。信者は寄付をし、聖職者や司教団がピウラミッドの上に立つ。この構造の頂点に登った者が、自らの地位や制度を否定できるかが、構造的にあると思う。
●バチカン銀行
改革は進んだが、資産の内訳や運用先は依然として非公開が多い。宗教法人という特殊な免税構造が、巨大な資金の温床となっている可能性はまだ否めない。
●聖職者と性制度的な問題
独身制を維持したまま、性の抑圧と逸脱行為が構造的に続いている可能性がある。未成年者への虐待問題は、「個人の問題」ではなく、「制度が生んだ歪み」でもあると思う。
●協会と貧困のパラドックス
豊かな国よりも、むしろ途上国の方が信仰心が強く、寄付も多い。だが、その多くの人は、システィーナ礼拝堂を見ることもないし、バチカンに足を踏み入れることもないだろう。神に近づく手段が、経済的に遠いという矛盾を抱えているからだ。
こうした未解決の課題の中、選ばれたのが教皇レオ14世だ。彼は南米ペルーのチクラヨ教区で貧困層とともに暮らした経験を持つ。そしてアメリカ出身という点では、ヨーロッパ中心の教皇史に対する明確な変化でもある。「14世」という名を選んだ背景には、歴代の教皇レオが持ってきた象徴性がある。レオ1世(大教皇)は、カトリック教義の整備とローマの防衛で名高い。レオ13世は、近代社会と教会を結び直そうとし、労働者の権利や社会正義に言及した『レールム・ノヴァールム』を出した。この「レオ」の名には、信仰と社会、秩序と改革を両立しようとする強い意志が宿るのだろう。
レオ14世が、宗教改革2.0を進める人物か、あるいは中庸を守って終わる人物か、皆が注目をしていることだろう。バチカン銀行の全面開示と外部運営の導入、性的虐待への「法的責任」明記と聖職者の処分制度の明文化、女性・LGBTに関する教義の再定義、教会の寄付構造と貧困層への接続の再設計、教義を越えて、宗教と人間社会との「倫理的接点」を再び問う力等山積だ。
歴史を振り返ると、カトリックは、500年前と同じような問いの前に立たされているとも考えられる。「制度は誰のためにあるのか?」「神を信じるとはどういうことか?」「祈る人を、制度が苦しめていないか?」等々の問いだ。16世紀のルターやカルバンが声を上げたのは、教会が「神の言葉」よりも「お金や権威」に傾いていたからだ。当時の教会は、免罪符を売り、「これを買えば天国に行ける」と説いていた。それに対して、ルターはこう言った。「天国は金で買うものではない」これは宗教というより、制度や構造そのものに対する強い批判だった。
カトリックは、ただの内部改革に加えて、制度の外側にある世界へと、もう一度真剣に向き合うべき時かもしれない。トランプの再登場により、アメリカは再び混乱の渦にある。ロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、和平の兆しすら見えない。中国は経済減速の中で世界との距離を測りかねている。国際秩序は緩み、不信が蔓延し、正義が見えづらくなっている。こうした世界の「制度疲労」のなかで、レオ14世が示す第一歩には、大きな意味があるのだと思う。
新規事業の旅179 生成AIが変える都市の機能とかたち
2025年5月8日
早嶋です。約1700文字。
アメリカのテック企業が、再び出勤を義務づけ始めた。Google、Apple、Amazon、Metaといった巨大企業が、コロナ禍で推進したリモートワークを後退させ、「週3日以上出社」を原則にし始めている。Amazonに至っては、2025年から週5日出社という方針だという。一見すれば、これはオフィスでの協働を重視し、企業文化や生産性を高めようとするまっとうな戦略に見える。が、本音はどうか。
生成AIが台頭する今、ホワイトカラーの仕事の多くは、そもそも「出社しなくてもできる」どころか、「AIがやった方が速くて正確」という時代だ。Metaのザッカーバーグは「プログラミングはもうAIでできる」と明言し、GoogleではAIチームに60時間出社せよという強いメッセージが投げかけられている。
だが、そうまでして出社を促すのは、もしかすると「出社の必要がある」と言い張らないと、保有している巨大オフィスビルが無価値になってしまうからではないだろうか。Apple ParkやAmazon HQ2のような、数千億円規模のモニュメント的オフィスは、その存在を正当化する理由が必要になるのだ。
真実はこうかもしれない。生成AIは、オフィスワークのほとんどを代替する。だから、出社しないといけない仕事そのものがなくなる。オフィスという建物自体が意味を失うのだ。だとすれば、「出勤が大切」という主張は、時間稼ぎで最後の抵抗に見えるのだ。
丸の内、六本木、シリコンバレー、そして世界の主要都市。これらの街に立ち並ぶ巨大ビル群には、人が集まり、顔を合わせ、仕事をしていた。今、その機能はクラウドとAIに取って代わられようとしている。オフィスは、そもそも「集まること」が価値だった。が、もし本当に顔を合わせることが重要なら、週に一度の社内飲み会の方が効果的かもしれない。そうなればオフィスは、社内バーやスタバと合体した「コミュニティ空間」に変わっていく。出社は労働ではなく交流になり、オフィスは職場ではなく共創空間になるのだ。
都市の価値は、これまで「オフィスに人が集まること」だった。しかし、生成AIが主役になる現在から未来は、都市の中心はデータセンターや発電所になるだろう。AIが働くには、膨大な電力とデータが必要になるからだ。つまり、人が集まる場所ではなく、電力とデータが集中する場所こそが、新たな都市の中核になるのだ。
日本でいえば、もはや丸の内が止まっても国は動くが、印西(データセンター群)が止まれば日本全体が麻痺してしまう。それほどに、都市のインフラは変質しているのだ。都市とは、人が集まり、情報が交錯する場だった。だけど、これからは、人の代わりにAIが集まり、情報が処理され、結果が分配される場所になる。
では、このような変化において、東京と福岡はどのように変化するだろう。結論から言えば、東京は儀式としての出勤が残る街になり、福岡は都市機能のサイズがちょうど良いまちになると思う。
東京のオフィスワーカーの多くは、「調整」「報告」「儀礼」といった、非効率でも人間関係を前提とした業務に従事している。生成AIがそれらを代替可能にしても、日本のビジネス文化はすぐには変わらないだろう。なぜなら、日本において会うことは、実務よりも信用や信頼を意味するからだ。そのため、東京では「出社=業務」ではなく、「出社=信頼構築」という象徴として、しばらくは出勤が残り続けるのだ。しかし、少子高齢化と労働人口の減少により、「無駄を減らす圧力」は確実に強まると思う。従い、徐々に東京もまた、物理的な出勤から解放される構造に移行せざるを得なくなるだろう。
一方で福岡は、東京のような巨大なオフィス集積地ではなく、生活と仕事と遊びがバランスよく混ざった都市構造を持つ。スタートアップや個人事業主、地場企業も多く、そもそも「巨大なオフィスに通勤する文化」自体が薄かった。だから福岡で起こるのは、「出勤の消失」ではなく「オフィスの再定義」だ。共創の場としてのオフィス。人と人がつながる空間。カフェや居酒屋やホテルラウンジと混ざり合う、新しい職場の形だ。福岡には、そんな未来を試す柔らかさがあると思う。
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新規事業の旅178 企業が思考停止に陥る理由と、ジョブローテという制度疲労
2025年5月7日
早嶋です。約1900文字です。
民主主義は、自然に維持されない。いつも不断の努力が必要だ。国家でも企業でも同じなのだ。皆が自分の頭で考え、話し合い、時には対立を経て合意形成する。面倒で手間もかかるが、これをやめてしまうと、あっという間に「誰かに任せる」「他人事」の構造が出来上がる。そして最終的には、全体主義的な組織になるのだ。一見すると、全体主義と企業は関係ないように見えるが、現実は違う。特に中堅規模の企業では、トップダウン型の経営が強まりすぎて、気がつけば経営陣だけが意思決定をし、現場はただの実行部隊になるケースが多い。その結果、組織は静かに傾くのだ。
本来、組織は議論を重ねて意思決定をするものだ。だがそのためには時間もエネルギーも必要になる。そこで、「任せよう」「上が決めたことに従おう」となりがちなのだ。一見、効率的に見えるが、この構造を長く続けると、意見を言わない文化が出来上がり、悪い報告ほど消される組織体になってしまう。現場で何が起きても、トップの耳には都合の良いことしか届かなくなる。上に行けば行くほど、現場の実情を知れなくなるのだ。全体主義が醸成される温床があるのだ。
組織が拡大するにつれて、仕事は細分化される。営業、開発、調達、広報、経理、法務…それぞれの専門分野ごとにマネジメント(管理職)がつき、従業員はその「機能の一部」だけを担うようになる。これはバリューチェーンの最適化という意味では理にかなっている。だが、長年この構造を続けていれば、当然ながら社員は「自分の仕事の全体像」や「事業全体の構造」などを把握しなくなる。そして、「自分が関わる範囲以外は知らなくていい」「全体のことはマネジメントが考えるものだ」という思考が無意識に定着する。つまり、思考停止も構造的な問題なのだ。
では、経営陣は全体を見ているだろうか。実は。これも疑わしいのだ。トップはよく「全体を見る視野を持て」と言うが、実際には、自分たちが見ている情報こそが、既に下から選別された断片であるという事実に気づくべきなのだ。現場の実情はミドルで加工され、役員会でさらに化粧されている。最終的にトップに届くのは、「報告しやすい情報」や「答えが決まっている資料」ばかりになるのだ。これでは全体最適など見えるはずがない。この状況では、トップは「自分たちは全体を見ている」と思い込んでも不思議ではないのだ。そして、徐々に静かな独裁が生まれるのだ。
このような全体主義的傾向に対抗する手段として、昔からジョブローテーションが正義とされている。複数の部門を経験させ、多面的な視野を持たせることで、経営人材を育てようという考え方だ。だが、現代のようにゼロイチが求められる環境では、この仕組みがむしろ害になるケースも観察できる。新規事業や変革プロジェクトなど、試行錯誤の積み重ねが必要な分野では、一貫性と蓄積が成果に直結するのだ。それにもかかわらず、2年から3年ごとに人が入れ替わり、前任者のやってきたことをゼロから見直すことを繰り返す。そして、この繰り返しが、どれほどの無駄と疲弊を生んでいるか人事のトップや経営陣には認識が薄い。さらに、異動前提でキャリアを設計された社員は、「どうせ自分は数年でいなくなる」と考え、深く根を張って考えたり、責任を持ってやり切る意識を持たなくなる。結果として、組織全体が、助走程度の力で回るようになるのだ。
このような制度疲労に対しては、もう「全員を回す」のではなく、「誰を、いつ、どこで活用するか」という戦略的人事への転換が求められている。世の中はジョブ型に移行、とその兆しはあるが、戦略的にがポイントだ。たとえば、
●ゼロイチに関わる人材には5年程度の任期保証を与える
●成熟部門では機能間での柔軟な越境経験を奨励する
●評価制度は、成果だけでなく、プロセスの質や組織への貢献度も重視する
●経営陣自らが現場に入り、情報の源泉に触れる文化の定着
などだ。
概念的に整理すると、「やっている」となると思うが、実に構造的に深い問題なのだ。組織が健全な状態を保つには、「耳をふさがない構造」と「現場が手を抜かずに済む仕組み」が不可欠なのだ。
企業が傾くとき、外から見えるのは「業績の悪化」や「離職率の上昇」だ。だが、その前には必ず、「話し合いをしなくなる」「情報が上がらなくなる」「制度が疲れていても気づかない」という、静かな全体主義の浸透があるのでは無いだろうか。この空気を見逃してはいけない。それは会社の終わりの始まりかもしれないからだ。
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旧暦コラム よもぎ餅
2025年5月6日
早嶋です。
黒烏龍茶の湯気がまだ立つ。口の中には、もっちり少し固めの蓬餅と、ほんのり草の香りが残っている。昨日、旧暦でいえば三月九日。子供の日で、ソフトボールの練習後、チームの子供達と近くの動物園まで出かけた。途中、春の終わりを告げる雑木林を抜けて行く。
福岡市が管理する小さな雑木林は、自然が残っている。最近作り方を教えてもらったよもぎ餅。息子と蓬を採りに行く。作るのは妻だ。柔らかな日差しの下、山裾には蕗(ふき)の葉がうねり、その陰には、控えめながらも凛とした葉を広げた雪ノ下が群れていた。葉の裏にふわりと毛を抱えている。これは食べられるだろうか。そんな問いが頭をよぎったが、どうやら昔は天ぷらにしたり、薬草として火傷に使ったりしていたらしい。華やかさこそないが、生きる力のある草なのだ。
帰宅後、蓬は妻の手に託され、やがて餅へと姿を変えた。私はただ、湯を沸かし、お茶を淹れるだけ。その時、番茶は避けようと思った。私には京番茶の記憶がある。かつて焼鳥屋で出されたあの一杯。まるで煙草のような匂いが鼻腔を突いた。それからというもの、番茶という文字を目にすると味の記憶が蘇り好んで飲まなくなったのだ。
フィリピンには、「五月の初めの雨は幸運をもたらす」という言い伝えがあるそうだ。日本でも、「八十八夜の雨は豊作を呼ぶ」「五月雨は田に恵みを」など、水を祝う旧暦の感覚がいくつもある。草が芽吹き、土が潤い、人が畑に向かう。そんな季節のリズムを私たちはかつて身体で覚えていた。今日は雨だ。晴れていたら、再び雑木林に行き、季節の草を摘みに行こうと思っていた。
頭の中では、雪ノ下の葉に触れ、蕗の茎をかじり、よもぎを摘む。そして、春の終わりを楽しむ。また季節が進めば、野イチゴが赤く染まり、ドクダミが白く咲く。その時、私はまた雑木林まで散歩する。昨日の蓬餅のように、次の物語をひとつ、自然の中から拾いに行くのだ。
最近の考古学研究の成果
2025年5月5日
早嶋です(約1万文字)。
大和王権は奈良纏向遺跡がスタートとされているが、実際は複数の地域国家が緩やかに形成され、結果的に権力を勝ち得たと見たほうが正しいと思う。当時、全国には地方の豪族がいて、それぞれに前方後円墳なり文化を形成している。炭素の減衰期間を使った測定だと纏向より古い古墳が多数ある。大和に権力が集中する過程で、今のストーリーが作られたのだろう。
(纏向遺跡と大和王権)
現在の通説だ。奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむく)は、3世紀前半から中頃にかけて急速に発展した大型の集落遺跡で、「卑弥呼の宮殿跡ではないか」とも言われる。近くには箸墓古墳(全長約280mの前方後円墳)があり、これが最古の大型前方後円墳とされ、大和王権=ヤマト政権の始まりと結びつけられている。だが、反論も多い。九州の吉野ヶ里や筑紫平野の遺跡は、纏向より古い層を持つ複合遺構を持っており、倭国の中心はむしろ西にあったと見る説もある。放射性炭素年代測定(炭素14)によると、東日本や北部九州などにも纏向と同時期あるいはそれ以前の前方後円墳や類似した権力構造の痕跡があるのだ。
前方後円墳は畿内を中心に、4世紀以降は全国に波及しているが、これは「中央政権に従属した印」だという見方(=ヤマト王権の覇権)と、「地方豪族が独自に王権と関係なく築いた」という説がある。たとえば、東海地方(愛知など)や北陸、東北南部にも、4世紀以前の古墳が見つかっており、畿内中心史観に疑義を投げかけている。これらを踏まえると、大和に「一元的に」権力が集中していたのではなく、ゆるやかなネットワーク型の「王権的連合体」と考える方が自然かもしれない。
私は、「今のストーリーが作られた可能性」という点を支持している。理由は、『古事記』『日本書紀』は、8世紀にヤマト王権が自らの正当性を記すために編纂した歴史書であり、政治的意図が色濃く反映されているからだ。後世において「ヤマトがすべての始まりであり、そこに正統性がある」と描かれた可能性が高いのだ。
(各エリアの特徴)
福岡、宮崎、熊本、岡山、出雲、淡路島、徳島、奈良、東北。これらのエリアでそれぞれの特徴をみてみよう。各地域の古墳や古代権力構造の視点から、それぞれの特色をみると、纏向中心の単一王権起源説では説明しきれない、多元的な「王」や「クニ」の痕跡が浮かび上がってくる。
まずは、福岡筑紫エリアだ。吉武高木遺跡、板付遺跡、須玖岡本遺跡など、弥生後期からの高度な集落遺構が集中している。いわゆる奴国(なこく)があった地域だ。後漢書にも記録され、金印(志賀島出土)がその証左だ。古墳も早期から存在し、大和に先行する都市的権力があった可能性が高い。
次に、宮崎西都原エリアだ。西都原古墳群は、300基超の古墳があり、5世紀前半には前方後円墳が集中している。古墳の規模・構造から中央との密接な交流も指摘されている。しかし、独自の豪族連合が存在していた可能性も高く、「日向神話」の地でもあり、記紀神話の「建国神話」とリンクして後付けされた可能性が高い。
熊本菊池阿蘇エリアだ。江田船山古墳(玉名市)は有名な鉄剣が出土している。「獲加多支鹵大王」の銘がある鉄剣だ。大和王権と結びつくが、九州における独立した有力豪族の存在も裏付けられる。火山地帯ゆえの閉鎖性と、九州北部との交流性の両面を持つと思う。
岡山吉備エリアだ。造山古墳(全長350m超)は全国第4位の巨大前方後円墳だ。畿内以外では最大だ。吉備の勢力はヤマトに匹敵する「もう一つの王権」として知られている。記紀では「温羅伝説(鬼退治)」として描かれ、吉備を征服した話があり、後から大和によって「敵視・統合された」痕跡が見える。
島根出雲エリアだ。古墳時代以前からの出雲大社(杵築大社)の存在は、宗教的中心としての重要性を示す。出雲地方の古墳は前方後円墳もあるが、独自形状も多い。ヤマトに対して「異質な王権」があったと推測される。そして『出雲国風土記』は記紀とは違うローカルな神話構造を持っている。
淡路徳島エリア。淡路島には王墓と推定される古墳があり、ヤマト王権との地政学的な中継地点としての役割が指摘される。記紀でも「国生み神話」の重要な舞台とされるが、実際には中継地=交易・外交の拠点だった可能性が高い。徳島(阿波)には弥生後期から古墳前期の遺跡が点在し、「阿波忌部」など古代氏族との関連も濃い。
奈良大和エリア。纏向遺跡・箸墓古墳を中心とする巨大古墳群が多数存在する。記紀と考古学のストーリーが最も整合している地域だ。だが、最初から中央だったとは限らず、他の勢力との統合・連合・征服を経て中核化した可能性がある。「記紀の正統史観」はここから発信されているのだろう。
そして、東北エリアだ。実は、ここだけまだ行ったことがなく、読み物や他者の話での記述になるが、同様に地域の別文化の豪族が既に居たと考えて良いと思っている。前方後円墳も4世紀末以降に出現しているし、特に南東北(福島)には中央との交流の痕跡が見られるそうだ。一方、「蝦夷(えみし)」という独自文化圏が長く続き、古墳の形状も独特だ。ヤマト王権の影響が及ぶのは限定的だと言われている。縄文からの連続性を重視する説では、「別系統の文明圏」という評価もある。
この分布を見るだけでも、大和一元説は明らかに物足りないと感じるだろう。「連合王権・複合権力モデル」の方が整合性があるのだ。現代に至る中央集権体制の原型を作るにあたって、「歴史を編集した」可能性は極めて高いと思う。
(記紀の神話と各エリアにおける考古学的な矛盾や相違)
記紀(『古事記』『日本書紀』)に記される神話や歴史的記述と、福岡・宮崎・熊本・岡山・出雲・淡路島・徳島・奈良・東北の各地域における考古学的な発掘成果を照合し、矛盾点や相違点を洗い出してみる。地域ごとに、記紀に登場する内容と考古学的証拠(古墳・集落跡・遺物・年代など)を対比し、考古学的に裏付けられない記述や、大和中心史観との齟齬を詳しく検証する。
(福岡地域の矛盾点)
福岡は、記紀神話では神功皇后の三韓征伐や磐井の乱など、ヤマト王権と九州勢力の関係が語られる土地だ。『日本書紀』は6世紀初頭、筑紫君磐井がヤマト王権に反旗を翻し、最終的に鎮圧された「磐井の乱」を大反乱として描写している。一方、『古事記』では磐井の乱は小事件として簡略に触れられるに留まる。また、福岡は神話時代において天孫降臨の出発地・日向の近隣として重視され、『日本書紀』では神武東征の起点は「筑紫の日向」とされている。
考古学的な証拠を洗い出して見る。磐井の乱に関する物証として、筑紫君磐井の本拠地とされる福岡南部では、6世紀前半に有力な地方豪族の存在を示す古墳(代表例:岩戸山古墳)や集落遺跡が発見されている。しかし、その規模やヤマト王権との関係を見ると、磐井勢力は既に一地域政権として確立し、ヤマト朝廷と対等の独立性を持っていた可能性がある。つまり、記紀がいう「反乱」ではなく、地域国家間の戦争と解釈できるのだ。金印の存在も重要だ。福岡の志賀島で見つかった「漢委奴国王印(金印)」は、西暦57年に漢の光武帝から授与されたものとされ、日本列島の早期の国家形成を示す重要史料だ。しかし、記紀にはこの史実が一切言及されていない。後漢書に登場する倭国王の朝貢記事と記紀の沈黙は、記紀の記述年代(1~3世紀)のズレを示している。福岡平野は板付・板付遺跡などに代表される縄文晩期から弥生初期の水稲農耕発祥地であり、日本列島最古級の環濠集落・水田跡が集中する。しかし記紀神話では、この地の繁栄や文化的先進性には触れず、あくまでヤマト中心の歴史観で描かれている。この点で考古学が示す北部九州文明の独自性と記紀の従属的描写との間にギャップが存在するのだ。
(宮崎地域の矛盾点)
宮崎(特に日向)は、神武天皇の東征における出発地として記紀に登場する。高千穂峰は『日本書紀』で天孫降臨の地とされ、ニニギノミコトやホデリ・ホオリ兄弟の神話が展開する舞台だ。また、神武東征では「日向三代」の後、神武が日向を出発し大和建国へ旅立ったとされる。
考古学的証拠だ。西都原古墳群の時代。宮崎県西都原には全長200メートル級の前方後円墳を含む日本有数の古墳群(311基)が存在し、その造営は4世紀後半から6世紀にわたる 。規模や数から見て、この地にはヤマトと並ぶ有力勢力があったことがわかる。しかし記紀は宮崎の古墳文化について言及せず、あくまで神武以前は「日向三代」(山之頂上の神話的統治)という断片的記述しかないのだ。神話と遺跡の食い違いもある。 ニニギノミコトとコノハナサクヤ姫の結婚伝承は宮崎各地に伝承地がある一方で、縄文から弥生移行期の遺跡や出土品(酒器や石製品)からは外来文化の波及が示唆されている。記紀神話に描かれた天津神系譜と、遺物が示す文化交流の実態に乖離があるのだ。宮崎には「記紀の道(ききのみち)」という西都原古墳群周辺の伝承地を結ぶ散策路が整備され、記紀神話と古墳文化の関連を示す試みがなされている。しかしこれは近年の観光整備で、実際には古墳時代の宮崎勢力と記紀神話のつながりは明確にされていない。むしろ、伝承と考古学成果を強引に結びつけている面があり、史実との矛盾が潜んでいる。
(熊本地域の矛盾点)
熊本(肥後・火国)は、記紀ではあまり詳細に語られていないが、神武東征の途上で熊野(現在の和歌山)に至るまでに九州から離脱する地域の一部として触れられている。また、熊本を含む九州南部には古代豪族「熊襲(くまそ)」や「隼人(はやと)」が居住し、ヤマトに従わない勢力として描かれている。『古事記』では景行天皇が熊襲征伐を行い、熊襲建(くまそたける)の討伐譚が有名だ。
熊襲・隼人の実像。南九州から熊本にかけての考古学調査では、大和とは異なる文化を持つ人々の痕跡が見つかっている。隼人の本拠である鹿児島や熊本南部では、独特の土器様式や墳墓(地下式横穴墓)が発掘され、これらはヤマト系文化とは連続性が薄いことが判明している。つまり、熊襲・隼人は単なる伝説上の「賊」ではなく、別系統の文化集団だったと考えられる。記紀では彼らを「土着の反逆者」と描くが、考古学的には在地勢力としての独立性が浮かぶ。熊本の江田船山古墳を中心に装飾古墳文化を観察出来る。鉄刀や装飾品(銀象嵌銘文の大刀など)が多数出土しており、5世紀頃にヤマトと深く関わる豪族の存在が確認されている。一方、記紀で熊本の豪族がヤマト政権中枢に影響を及ぼした記述は希薄だ。この点は、考古資料が示す連合政権の広がりと、記紀の中心地偏重の記述との矛盾だ。
8世紀に大隅隼人が起こした反乱(720~721年)は『続日本紀』などに記録され、最終的に隼人は平定されたが、その背景には隼人独自の文化とヤマト朝廷の緊張関係があった。記紀編纂時(8世紀)には既に隼人征討が完了していたため、神話・伝承内で熊襲や隼人が「征服されるべき敵」と描写されているのだ。しかし、考古学的には隼人社会の高度な武力と自治性が窺え、記紀の従属的描写とのギャップが明らかだ。
(岡山吉備地域の矛盾点)
岡山周辺の吉備国は、記紀ではヤマト王権と対等する有力地として間接的に登場する。例えば崇神天皇紀における四道将軍の派遣では、吉備を平定し服属させたと記され、雄略天皇期には「吉備田狭の乱」(463年)や吉備上道弟君の乱(479年)が記録されている。さらに吉備出身の吉備武彦や吉備氏族の娘が皇妃になる伝承など、ヤマトに統合される様子が描写されている。
吉備地方には、造山古墳(全長約350m)や作山古墳(同282m)など、国内でも最大級の前方後円墳が存在する 。これらはヤマト(奈良盆地)の最大古墳に匹敵し、4世紀後半~5世紀の築造と推定される。記紀の中では吉備の勢力が大和に服属するかのように書かれる一方、考古学的にはヤマト王権と肩を並べる勢力が吉備にあったことが明確だ。吉備は古代、日本有数の鉄生産地で、弥生後期から製鉄や製塩で繁栄したことが遺跡から判明している。特に製鉄技術はヤマト王権の軍事力に直結するため重要だが、記紀では吉備が鉄資源を握る強国であった事実に触れず、単に服属させられた地方としている。記紀のナラティブではヤマト中心だが、物証は吉備の経済的独立性を示唆している。
吉備氏族には大和朝廷に重用された者も多く(例:吉備臣、吉備真備)、中央政界で活躍している。しかし、記紀における天皇系譜には吉備の王は現れず、あくまでヤマト天皇の遠征や妃取りの対象として描かれた。考古学的には吉備各地のクニ(国造制以前の首長国)の存在が認められ、吉備内に複数政権の並立があった。記紀は統一的視点で吉備を扱うが、実際には内部多元的な政治構造があった点が矛盾している。
(出雲地域の矛盾点)
出雲は、神話における中心舞台の一つだ。『古事記』上巻の約1/3は出雲神話で占められ、須佐之男命の退避と大国主命の国造り、そして国譲りの物語が有名だ 。記紀では出雲の大国主神が天照大神の使者に国を譲り、以後出雲国造は天皇家に従属する立場になったと描かれている。また、大国主神を祀る出雲大社の創建も、国譲りの代償として述べられている。
四隅突出型墳丘墓と文化圏としての出雲。出雲地方には古墳時代以前(弥生後期)に特徴的な四隅突出型墳丘墓が分布し、これは北陸地方まで広がる独自の埋葬文化だ。ヤマト圏とは異なるこの墓制は、かつて出雲が日本海側一帯に強い影響力を持つ文化圏を形成していたことを示す。記紀神話の「国引き神話」は、この広域文化圏の記憶を投影したものと考える説もある。しかし記紀本文では具体的な出雲勢力の広がりは語られず、考古学的証拠との間に解釈の差がある。
荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡からは、大量の銅剣・銅鐸・銅矛が出土し、弥生時代の出雲が青銅器祭祀の一大中心地だったことが判明した。これらは1980年代以降の発見で、記紀は青銅器祭祀に関する直接の言及をしていない。大国主命や少彦名命の神話はあるものの、出土遺物が示す実際の宗教的繁栄ぶりとの間に大きな隔たりがあるのだ。考古学的・文献的研究から、古代出雲は東部(鉄器生産中心)と西部(青銅器中心)の二大勢力が併存し、その後統一政権化したとの見解がある。出雲大社の祭祀を代々担う出雲国造家は天穂日命(天照大神の子)の後裔と伝えられ、皇室と同格の古い系譜を誇る。これは、ヤマト王権に先行する在地豪族の長寿な統治を示唆するが、記紀では国譲りによりヤマトに従属したとされる。この在地の独立性の長さと記紀の従属化物語に齟齬が見られるのだ。
(淡路島の矛盾点)
淡路島は、『古事記』冒頭の国生み神話で日本で最初に生成された島とされる。イザナギ・イザナミの二神が天沼矛で海をかき混ぜ、生み落とした最初の島が淡路島(淡路穂狭別島)だ。その後も神武天皇の東征において、速吸門(明石海峡)や紀伊半島渡航の過程で地理的に重要な位置に言及されるが、淡路島自体の具体的な歴史事件は記紀にほとんど登場しない。
淡路島には5世紀代の前方後円墳(例えば石神古墳など)が複数あり、ヤマト王権と連携した豪族の存在が示唆される。また、弥生時代の大規模集落跡(五斗長垣内遺跡など)や銅鐸出土(松帆銅鐸など)の成果から、淡路島は古代に瀬戸内海交易や祭祀の拠点であったことが明らかだ。しかし、記紀にはこれら考古学的に重要な遺構の存在が一切記載されていない。
考古学者は、淡路島が「海人族」の活動拠点であり、古代国家の水軍・航路維持に重要だったと指摘している 。例えば製塩土器や漁具の出土から、海上技術者集団の足跡が確認できる。しかし記紀神話では、淡路島は神々の創生の象徴としてのみ登場し、古代国家を支えた海人の実態が描かれていない。これにより、神話上の淡路島と遺跡が語る現実の淡路島に乖離が生じている。
記紀において淡路島は、国生みで最初に生まれた特別な島でありながら、その後の時代区分では大和政権の一部として平板に扱われる。しかし、考古発掘では淡路島がヤマトと瀬戸内海沿岸をつなぐ海路の要衝であった形跡が多く見つかっている。ヤマト政権は淡路の海人勢力を取り込んで覇権を拡大したと推測されるが、記紀にはそのプロセスは描かれず、神話から唐突に律令期の行政区画に組み込まれているのだ。
(徳島地域の矛盾点)
徳島(阿波国)は、記紀には直接的な神話こそ少ないものの、古事記に登場するオオナムヂ(大国主)の御子神の一柱に阿波に関係する神(八多八代神)が見えたり、『日本書紀』景行天皇紀に日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途に阿波津(現在の徳島付近)に立ち寄る記述がある。しかし全体として、阿波や四国の活躍は記紀ではあまり強調されていない。
徳島平野や吉野川流域では、縄文後期から弥生前期に北部九州系統の土器が出土する遺跡が多く、早い段階から稲作文化が伝わっていたことが判明している。また古墳時代には前方後円墳(八倉比売山古墳など)が築造され、畿内ヤマト政権と交流・同盟関係にあった在地首長の存在が示唆される。しかし、記紀は四国の古代勢力に関する言及がほぼなく、これら考古学的証拠との間に大きな情報量の差があるのだ。
阿波には独自の豪族連合があった可能性が指摘されている。『風土記』の逸文などからも阿波の国造や地方伝承が存在したことが窺えるが、記紀では大和朝廷の視点から四国全体が語られ、阿波の政治的主体性は描かれていない。考古学では、吉野川流域の集落規模や副葬品から、ヤマトと緊張関係にあった勢力もあり得ると推測される中、記紀にはそうした衝突や対等交渉の痕跡が見当たらないのが矛盾する点なのだ。
瀬戸内海沿岸として、阿波もまた海上交通の要衝だった。遺跡からは九州・近畿双方の土器や鉄器が見られ、交流のハブとして機能していたことが伺える。しかし、これほどの交流拠点であったにも関わらず、記紀では阿波に関するエピソードが極端に少ない。国家形成期における海路の重要性を考えれば、明らかに史書の記述が不足している。記紀編纂者が四国方面の伝承を軽視・取捨選択した結果と考えられ、考古学が明らかにした広域ネットワーク像と合致しないのだ。
(奈良大和地域の矛盾点)
奈良(大和)は記紀の舞台そのものだ。神武天皇の大和建国から始まり、以降の天皇系譜や政治事件の中心地だ。記紀は基本的にヤマト朝廷の正統性を語る史書で、大和については詳細で都合の良い記述がなされている。たとえば、神武東征では長髄彦ら土着勢力を破り畝傍山東南に橿原宮を開く話、崇神天皇期以降の条では大和を起点に各地へ将軍を派遣し平定する物語などだ。
奈良盆地には最古級の大型前方後円墳である箸墓古墳(3世紀中頃か)がある。考古学者の多くは箸墓古墳を邪馬台国女王・卑弥呼の墓と関連付けているが、記紀には卑弥呼に該当する人物の記述がないという重大な矛盾があある。中国の史書『魏志倭人伝』に詳しい3世紀の女王卑弥呼の統治と、大和朝廷の初期天皇(神武~開化天皇あたり)の年代は合っていない。記紀編纂者は卑弥呼を無視または別名に置き換えた可能性が指摘されているが、考古学・文献学からは3世紀の大和に女性支配者がいた可能性が高いのだ。この点は記紀と真実の歴史の最大の食い違いの一つだ。
大和の古墳年代測定によれば、初期ヤマト政権の成立は3世紀後半から4世紀初頭と考えられる。しかし、記紀の年代では初代神武天皇即位を紀元前660年とし、初期天皇が数百年にわたり存在したとされる。これは明らかに考古学的編年と合致せず、神話的潤色だ。前方後円墳が各地に普及する時期(4世紀)と記紀の崇神・垂仁朝あたりを対比すると、その齟齬が顕著となる。
奈良盆地でも、ヤマト政権成立前に独自の勢力や集落があった。纒向遺跡(まきむく、現桜井市)は邪馬台国との関連が論じられる3世紀の巨大集落跡で、各地の土器や交易品が見つかる連合的祭祀センターだった。記紀はこの纒向文化について何も触れず、神武の建国物語から一気に大和朝廷の話へ進む。つまり考古学で極めて重要な纒向遺跡の存在(邪馬台国中枢の可能性)を、記紀は全く伝えていないのだ。何か不都合があったのだろう。
ヤマト政権内でも有力豪族(葛城氏・平群氏・物部氏など)が権勢を誇り、古墳を築いた。しかし記紀はそれら豪族の繁栄や対立について制限的にしか記さず、天皇中心史観に沿って整理している。考古学では、巨大古墳の被葬者が必ずしも天皇ではなく地方豪族・宗族である例が多く、ヤマト内部の権力多元性を示している。この点、記紀の単線的皇統譜と合致しない。
(東北蝦夷地方の矛盾点)
東北地方は、記紀の時代には「蝦夷(えみし)」の地として知られる。『日本書紀』や続日本紀では、朝廷が東北へ兵を送り「蝦夷征討」したことが記され、桓武天皇の時代(8世紀末)に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり蝦夷平定を進めた話が有名だ。しかし、記紀自体(8世紀初頭成立)は蝦夷について断片的な言及しかせず、古代の東北は「化外の地」と位置づけられている。また、アラハバキ神など東北独自の伝承は記紀には現れない。
東北北部から北海道にかけては、弥生時代に稲作農耕文化が限定的で、土着の続縄文文化や独特の土器(擦文文化への移行期)が継続していた。考古学的に見ると、古代東北の住民(蝦夷)は文化的には和人とは異なるが、アイヌの祖先とも断定できない混在集団だった。記紀は東北を一括して「エミシ」と呼ぶが、考古学は地域ごとの多様性を明らかにしており、記紀の単純化とは合致していない。
7から9世紀にかけ、朝廷は多賀城(宮城)や秋田城などの城柵(じょうさく)を東北に築き、軍事・行政拠点とした。これらの遺跡からは役所跡や大量の木簡が出土し、ヤマト政権の統治が及んでいった実態が判明する。しかし、その過程は主に『続日本紀』『日本後紀』などで記録され、記紀の範囲外だ。記紀では垂仁天皇や景行天皇の時代に東北遠征神話(四道将軍の派遣)を仄めかす程度で、考古学が証明する律令国家の拡大過程とは時代も内容も整合していない。
注目すべきは、東北南部(宮城・福島)には5世紀以降、前方後円墳がいくつも築かれていることだ。ヤマト勢力が東北南端まで影響力を及ぼしたか、あるいは在地豪族がヤマト風儀礼を取り入れた証拠とされる。しかし7世紀以降、東北の古墳は衰退し、代わって平地や山間に横穴墓や無墳丘墓が現れる。これは東北がヤマトの直接統治下に入らず、独自の埋葬文化を保ったことを示している。記紀はこの変化を伝えず、終始「征服すべき蛮族の地」として概念的に扱っており、地域史の実態と記述にギャップがあるのだ。
(まとめ)
各地域の分析から浮かび上がるのは、『記紀』が8世紀初頭の中央集権国家(ヤマト朝廷)を正当化する史観に基づき、実際の各地の古代史を単純化・改変して記録しているということだ。その結果、考古学的発掘成果と以下の点で矛盾が生じている。まずは、年代のズレだ。記紀に記載の年代(神武紀元や天皇在位年)は考古学の編年と大きく食い違う。次に、記紀未記載の重要遺構についてだ。各地に存在する大規模遺跡・古墳・祭祀遺物(纒向遺跡、荒神谷遺跡、志賀島金印、淡路・阿波の銅鐸など)は記紀で全く触れられないか軽微な扱いになっている。そして、地方勢力の独立性と 記紀での従属描写が少ないあるいはないのだ。出雲・吉備・筑紫など、ヤマトと拮抗し得た地方政権の証拠があるにもかかわらず、記紀ではそれらを従属的立場や反逆者として描き、中央への服従を強調しているのだ。
以上の矛盾点は、最新の考古学研究によって次々に明らかにされている。一次資料としての発掘報告や年代測定結果、そしてそれらを踏まえた研究論文を参照することで、神話や伝承の陰に隠れた真実の古代史が浮かび上がりつつある。考古学と歴史学の学際的アプローチが、記紀の記述を相対化し再検討する契機となっていり。このような照合により、日本古代史の理解はより立体的で実証的なものへと発展している。実に興味深い。
新規事業の旅177 ポッドキャストの未来
2025年5月4日
早嶋です。(約1900文字)
(情報収集の変遷とポッドキャストの再来)
日常的な情報収集の方法は、この数十年で劇的に変化してきた。かつては、読書、つまりは活字による収集、が主流で、リアルな対話や現場での体験も重要な情報源だった。しかし、2000年頃からWebが市民権を得て、インターネットで調べるという行動が急速に一般化した。
さらに、2007年に登場したiPhoneによるスマート革命は、情報の扱い方を一変させる。スマートフォンの普及により、誰もがネットに常時接続し、即時に情報へアクセスできるようになったからだ。その後、SNSが登場し、文字だけでなく、写真、動画、音声といった多様な表現手段がネットの主役になった。
文章を読んで情報を得るスタイルから、動画や音声で理解するスタイルへと、情報消費の重心が移動していったのだ。文字による情報は、実のところスピードと密度という意味では非常に効率的であると私は思う。しかし、若者を中心に「文字を読まない」「読めない」傾向が強まり、結果的に動画が主流の情報媒体として台頭したのだ。
文章を求める場合は、若者の間ではX(旧Twitter)が主要な選択肢となっている。そして、スマートフォンとイヤフォンという組み合わせが日常化するにつれ、一時は過去のテクノロジーと見なされていたポッドキャストが、再び注目を集めるようになった。
(ポッドキャストの起源と復権)
ポッドキャストという言葉は、2004年頃に登場した。私はアップルが始めたと思っていたが、正確にはアップルが始めたサービスではない。しかし「Podcast」という名称は、「iPod」+「broadcast」を掛け合わせた造語で、iPodの普及とともに広まった経緯だ。その意味では、アップルの影響は大きかった。
当時、音楽を“所有”する文化から、インターネット経由で“持ち歩く”時代へと移行しつつあった。ソニーのウォークマンはカセットテープという物理的媒体に依存していたが、iPodは初期には内蔵ストレージ(HDD)に音楽を保存し、やがてネット接続によるストリーミングへと進化する。
この流れの中で、音楽の売り方も変わった。1曲100円〜150円で販売されていた音楽は、月額1000円程度の“聴き放題”というサブスクリプションモデルに収束していくのだ。これがSpotifyなどの登場と成功を支える土壌になったのだ。
(誰もがメディアになる時代)
現在では、SNS、YouTube、ポッドキャストといった多様な媒体が乱立し、プロ・アマ問わず誰もがメディアとして発信できる時代になった。スマートフォンひとつあれば、動画も音声も、簡単に世界中に届けることができる。つまり、私たちは「一億総ジャーナリスト」の時代に突入したのだ。世界に発信できるという観点からすると「80億総ジャーナリスト」の時代とも言える。
Spotify(こちらはスウェーデン発の音楽ストリーミングサービスで、2008年に正式サービス開始)が、ポッドキャストの配信機能を拡充し始めたのは2019年頃からだ。当初、自社アプリ内だけで完結する形だったが、やがてRSSを通じてApple PodcastsやAmazon Musicと連携できる仕組みを整えていく。
一方、YouTubeはもともと動画での情報発信に特化したプラットフォームであるため、音声のみのファイル(MP3など)を直接アップすることはできない。そのため、YouTubeでポッドキャストを配信する場合には、音声を動画形式(MP4など)に変換し、静止画と組み合わせて投稿するのが一般的な方法となる。
とはいえ、YouTubeもポッドキャスト市場に本格参入しており、2023年には「YouTube Podcasts」という機能を強化し始めている。ただし、SpotifyのようなRSS配信との連携は現時点では限定的だ。
(ポッドキャストの未来)
今後、ポッドキャストがさらに普及するにつれ、配信者側の「利便性」が競争力の鍵になる。RSSによって複数のプラットフォームに一括で配信できるSpotify陣営の方が、現時点では有利だ。
YouTubeがもし、音声コンテンツに対してRSS連携を許可するような仕様変更を行えば、状況は変わるだろう。しかし、それはYouTubeが今の“動画王者”というポジションを捨て、オープンな音声配信に踏み込む覚悟を示すことになる。
そう考えると、現時点ではSpotify陣営が「ポッドキャスト配信のプラットフォーム」としての覇権を握っていると見るのが妥当だ。
(ポッドキャスト配信)
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アマゾンのポッドキャストはこちら。
スポティファイのポッドキャストはこちら。
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旧暦コラム 暮春の記憶
2025年5月1日
早嶋です。
旧暦三月十三日。春も終わりに向かう頃だ。昔の人は、この時期を「春惜しむ」と呼んだという。今日は、まさにそんな一日だったと思う。
妻と唐津へ出かけた。偶に通う料理教室に参加するためだ。教室は、地元の窯元とその旦那さんが営んでいて、庭や畑で採れた野菜と唐津の海の食材を使った季節の献立を習う。器も料理も、そしてそこに流れる時間も、すべてが手づくりだ。
今日は、蕗をご飯に混ぜた。炭と一緒に茹でてアクを抜き、丁寧に筋を取り、刻んで筍と一緒に炊いたご飯に混ぜる。ほろ苦くて、鼻に抜ける香りがよくて、春を名残惜しむのにぴったりの味だった。山椒の葉も、ちょうど柔らかい時期だ。摺鉢で丁寧に摺り、千鳥酢と和えて、備長炭で焼いたスズキに添えた。香ばしさと清涼感が交わり、スズキの旨味を引き立てた。外では鶯が鳴いていて、縁側から吹き抜ける風が心地よい。山の斜面には、大好きなあざみの花が咲いていた。
教室の帰り道、水が張られた田んぼが目に留る。山のかたちが水面に映っている。風が吹くたびに揺らめいている。田植えの準備が始まっているのだろう。自然の営みは静かだけれど、確実に次の季節へと歩みを進めている。春は終わる。でも、こうして春を惜しむ時間を重ねることで、心の奥に季節が残っていくような気がする。
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