
新規事業の旅203 役員の覚悟と姿勢
2025年8月5日
早嶋です。
企業の新任役員に対して、どんな期待を託すか。10年以上のスパンで複数の役員やリーダー候補の育成に携わっている。その中で、トップのスピーチや想いから共通の考えがある。それは、単なる「役職」ではなく、「未来を形づくる当事者」としてのあり方そのものだ。
経営は、過去の延長ではない。特にこの10年は経営環境を読みにくい不安定な時代が続く。そのため毎日の意思決定を通じて、「未来」を定義する行為がとても大切になる。この文脈で、役員に求められるのは、単に業務を管理する能力ではない。未来に対して責任を持ち、組織全体を巻き込み、次の時代をつくる「姿勢」と「覚悟」だ。
(未来をつくる当事者)
全役員に必要なのは、「変化を待つ人」ではない。「変化を起こす人」だ。そして、最初に変えなければならないのは、自分自身だ。
AIによって、情報の収集や整理、分析にかかる工数は格段に減った。大概の質問や検索も、社員の誰かに聞くよりも自分で調べた方が早い。この数年で役員の対話相手はAIになり、基礎的な知識や概念を常にアップデートしながら情報の理解や収集から、意思決定は判断を行う役割に重きを置くようになる。
そのため判断軸を常に持つことが大切だ。そして、大いに迷うことがあると思う。多くの場合、考えあぐねいても成果はでないので、迷った場合は「感覚」で決める。そして実際に行動をする中で確かめるのだ。もちろん間違うこともある。そのため小さく初めて感触やあたりを確かめる。ある程度見えたら、一気に着火して燃やすくらいの覚悟で臨む。感触を探りながら進め、結果的に間違う場合もある。その際は、潔く誤り、自分の判断軸をアップデートするのだ。それが、誠実に、正直、そしてブレないことだと思う。
(高い視座と広い視野)
視点は「どこを見るか」、視座は「どこから見るか」だ。役員に求められるのは、より高いところから全体を見る力。つまり、部門最適ではなく、全社最適を考え抜くことだ。自部門の成功体験が、全社の進化を妨げることもある。過去の成功は、しばしば最大の障壁になるのだ。
だから、社外の人と積極的に付き合い、自業界の「常識」を疑うことも重要だ。次元をひとつ上げ、「社会」「顧客」「仲間・会社」「家族」「自分」という5つのステージで、自分の判断がどこに響くのかを意識する。役員の語る言葉は、その「次元」によって重みが変わるのだ。高い次元で語れば、周囲も自然とその気になると思う。
(人と組織の育成に尽くす)
企業とは、「法人格」だ。つまりは人間の集合体だ。そしてその人格を形づくるのは、「思いやり」の集積だ。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、AIが進化して民主化したら、差別化は人でしかできない。そうすると人の育成は極めて重要になる。
社員は、納得して腹落ちすれば動く。トップの語る理念は、行動に落ちるまで何度でも繰り返し伝えなければならない。その意味では、企業理念や行動指針は、あらゆる判断の原点だ。たとえば「忠恕(ちゅうじょ)」を掲げる会社がある。他者への誠意と理解だ。その理念を掲げたら、言葉が空回りしないよう、日々の言動で示し続けるしかないのだ。
また、個人的な相談に乗るときは、判断を急がず「聞くに徹する」。役員の発言は個人にとって果てしなく重い。そのため安易に個人を評価・判断せず、まずは相手を理解することに努めるのだ。一方、組織としての決断が必要なときは、その理由と基準を明示し、一定以上のスピードが必要になる。この組織と個人に対しての傾聴のバランスと判断のスピードの変化は頭では中々理解できにくい分野だ。しかし、このバランスが、組織に信頼と納得を育てる。
(絶え間ない自身の成長)
役員は、企業の「成長」を引き出す立場だ。だが、その前提はいつも「個人の成長」にある。役員が学びを止めた瞬間、組織の未来も止まる。
驚くかもしれないが、一定数の役員が数字に苦手意識を持っているのも事実だ。当然だが数字を読めなければ経営はできない。未来を語るには、根拠と仮説が必要だからだ。定性と定量の両方でかたるのだ。想いも大切だがそこにはロジックもあってほしい。
「なんとなく」での判断は、誤解と混乱を生む。ここにも相手が一定の理解を示すロジックが必要になる。そのために、日々インプットを重ね、判断基準を言語化していくのだ。当然、そのような態度が、周囲を安心させ、動きやすい環境を構築する要因になるのだ。
経営には「正解」はない。しかし、「軸」は必要だ。それは知識やデータではなく、経験と思考の蓄積からしか生まれない。そしてそれが信用と信頼に変わるのだ。
(覚悟と行動)
役員は、「見られる存在」だ。言動、態度、表情、沈黙さえも、すべてがメッセージになる。従い、役員は企業理念を「語る人」であるだけでなく、「体現する人」でなければならない。社員は、役員の言葉ではなく、「背中」を見ている。
役職に就いた瞬間から求められるのは、「覚悟」と「行動」だ。未来を背負う当事者として、組織の前進に、誠実に向き合うことだ。それが、役員の使命であり、企業の未来を形づくる鍵となるのだ。
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新規事業の旅202 権威の終焉とオーセンティック・リーダーシップ
2025年8月2日
早嶋です。
かつて、情報は限られた人々のものであり、組織の中心に集められ、都合の良いように操作されていた部分もあったと思う。従い、何か不都合が起きたとしても、それは握りつぶされ、なかったことにされるのだ。情報の非対称性は、中央集権的な構造と相性がよく、権威による統制の温床でもあった。
しかし、今は時代が変わり、情報そのものが民主化された。誰もが自由に発信でき、簡単に記録でき、ネットにアクセスできる。SNSによる瞬時の拡散は、事実を押し込めることを不可能にした。そして皮肉なことに、昨今のニュースソースは内部からのリークが最も信頼される情報源となっている。
そうであれば、組織が進むべき道は明白だ。隠すことではなく、開くこと。否定することではなく、認めること。黙ることではなく、語ること。だ。
予定調和のシナリオで全てを進めることは、もはや幻想に近い。さらに、これまでと違い、誰もが対処したことが無い社会課題に取り組まなければならない。計画は大まかに立てても、そのとおりにはいかない。予測不能で、変化も激しく、方向性すら示すのが難しい。つまり、試行錯誤が必然であり、失敗はセットである。むしろ失敗をしていないといことは、その取組にチャレンジしていないことすら意味するのだ。
そのような背景を積み重ねれば、失敗そのものよりも、もっと大きな問題がある。それは「失敗を隠す行為」だ。嘘をつき、誤魔化し、逃げる。そこに芽生えるのは、否定的な感情と信頼の喪失。たとえ小さなミスでも、隠されることでその何倍もの悪影響を及ぼす。信頼は一度壊れると、簡単には戻らない。
一方、世の中は、まだ誤った権威主義的な発想で隠し通すリーダーがいる。未だに「記憶にありません」「確認中です」と言い張り続けるのだ。明らかに黒なのに、それを認めようとしない。むしろ、その嘘を抱えたまま、元のポジションにしがみつき続ける。透明性という時代の空気を1ミリも読もうとしない。そもそもその概念が無いのかもしれない。
ある意味、すごい。鋼鉄のメンタルだ。しかし、確実に時代遅れだ。今のような社会環境、時代背景で求められるリーダーシップは、オーセンティック・リーダーシップだ。
これから求められるのは、オーセンティック・リーダーシップだ。自分に正直で、誠実に人と向き合うリーダーシップ。失敗したら、すぐに認めて謝る。過ちがあれば、隠さずに明かす。未熟であることを、正直にさらけ出せる勇気。そして、周囲の信頼を土台にして進んでいく力。未来を切り拓くのは、「完璧なふりをする人」ではなく、「不完全さを引き受けられる人」だ。
対局は、権威型リーダー。完璧を装い、強さを見せる。立場、利益、上の顔色を伺い、悪いことは隠す、操作できると考える。信頼の源を肩書や実績においてしまっている。
繰り返すが、今、正解が見えない。正論や上からの命令だけでは、人はついてこない。そんなときは、「正しいかどうか」よりも、「この人の判断なら信じられる」という感覚が、人を動かす。その信頼の源は、本物(オーセンティック)かどうかだ。つまり、どれだけその人が「自分に正直に」「ごまかさずに」生きているか、の蓄積によるのだ。
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新規事業の旅201 未来と現実のギャップに苦しむテスラ
2025年7月31日
早嶋です。約3000文字です。
テスラ、ウェイモ、バイドゥ。3社が今後の自動運転の覇者になると思っている。どの企業も都市のOSとして設計と実装と実験を繰り返している。ただし、以前のブログで書いたように、彼らの戦略はそれぞれまったく異なる。いずれも移動手段ではなく、都市そのものの構造に関わる本質的なインフラとして扱う点は類似している。
Tesla(テスラ)だ。強みは、すでに世界中に100万台以上のFSD(自動運転支援)車両を展開する「実装スケールの圧倒的さ」にある。FSDは技術的にはレベル2からレベル3に留まるが、その代わり、走行中のユーザーから膨大なデータを回収し、リアルタイムでAIモデルに反映するというクラウド学習型の戦略を取っている。都市の整備や法制度を待つのではなく、「まず走らせる」。その中で学習と進化を続け、最終的には制度のほうが追いつく構図を作ろうとしている。つまり、テスラは「人間の行動とハードウェアそのものをOSに変えてしまう」という発想で世界を動かそうとしているのだ。
対して、Waymo(ウェイモ)だ。Google=Alphabet傘下の企業として、より公共的で慎重なアプローチをとっている。Waymoの自動運転は、精緻に作られた高解像度マップ、LiDARを含む複数のセンサー、そして都市ごとのインフラとの協調を前提に構成されている。すでにフェニックスやサンフランシスコ、ロサンゼルスなど複数都市で完全無人のロボタクシーが商業運行中であり、技術完成度としては世界トップレベルだろう。Waymoは、単に車を動かすのではなく、「都市に信頼される公共インフラとしての自動運転」を作ろうとしている。そこには、「人間を代替する」のではなく、「都市の信頼構造の中に自動運転を組み込む」という思想が貫かれている。
そして、中国のBaidu(バイドゥ)。ここが展開するApollo Goは、まったく異なるモデルを提示している。ここでは企業、国家、都市が一体となって、自動運転を戦略的に「都市の支配装置」として構築している。すでに北京、武漢、深圳など15都市以上で1,000台を超えるロボタクシーが稼働しており、完全無人での運行も一部都市ではすでに当たり前になっている。Baiduは専用設計のEV「RT6」を開発し、センサーやアルゴリズムも自社で統合している。だが、それ以上に重要なのは、この展開が「国家主導の都市設計」と連動して進められていることである。道路設計、通信インフラ、交通制度までもが、自動運転を前提に再設計されているのだ。中国の凄さは、中国版のGAFAMとも言える企業群、Baidu、Tencent、Alibaba、そしてBYDが重層的に関与する点だ。Tencentは地図やクラウドサービスを提供し、Alibabaは物流網を支え、BYDは車両を物理的に量産し、普及させる。これは単なるエコシステムではなく、自動運転を通じて「都市の統治構造」そのものを再構成するプロジェクトであり、それを支えるのが国家という構図になっている点だ。
まとめると、
– テスラは「スケールと分散学習」
– ウェイモは「都市との調和と制度的信頼」
– バイドゥは「統治と支配のシステム」
というように、それぞれが全く異なる思想で「未来の移動」を構築しようとしている。そしてどれも、単なる技術競争の話ではなく、「どのOSが都市を動かすか」という根源的な問いに対する、異なる答えなのだ。
さて、2025年7月現在、テスラが苦境に立っている。数字を見れば一目瞭然だ。2024年の第2四半期と比べて、2025年同四半期の売上は13%ダウン。営業利益は47%減少、そしてテスラの株価は年初から約30%下落している。さらに厳しいのが地域別の売上動向だ。米国市場では約13%の売上減、欧州では一部の国で45%以上の落ち込みが記録されているのだ。一見すると、この急落はイーロン・マスクの政治的スタンスが原因に思える。彼がトランプ寄りの発言を繰り返すことで、西海岸や東海岸に多いリベラルな優良顧客が距離を取り始めたのだ。実際、X(旧Twitter)では「#BoycottTesla」のタグもトレンド入りした。
しかし、本質はもっと深いところにあると予測する。テスラの停滞は、供給・技術・期待の時差によって起きていると思うのだ。
まず、新型車が出ていない現実がある。現時点でテスラは、モデルYとモデル3という「2枚看板」に依存している。モデルSやXは高価格帯のニッチ、サイバートラックはまだフル生産には至っていない。廉価版テスラの計画(いわゆるModel 2)は確かに発表されたが、発売は2025年末から2026年以降とされており、実際の販売数に貢献するにはまだ時間がかかる。つまり、「次に何を買うか」で迷っているユーザーに対して、今のテスラは新しい魅力を出せていないのだ。
もうひとつ、テスラの低迷を説明する大きな要因が、ロボタクシー構想の遅れだ。イーロン・マスクは以前から「完全自動運転によるタクシー(ロボタクシー)」の2024年投入を示唆していた。だが、2025年7月現在、そのプロジェクトはまだ本格的な展開には至っていない。テキサス州オースティンなどでFSD(Full Self Driving)v12による実験は行われているが、商業運用は未定だ。つまり、「イノベーションの先を見て買っている層」にとって、テスラは予告が先行し、実装が遅れているというフラストレーションを与えている。
さらに、2022年から話題になっている人間型ロボット(Tesla Bot / Optimus)もある。イーロンは「月に10万台規模の生産を目指す」と語っているが、2025年現在、Optimusはまだ社内での軽作業補助レベルにとどまっている。商業出荷のスケジュールも明言されておらず、「革命的な発表」から2年以上が経過したにも関わらず、目に見える成果がない。もちろん、これらは単なる遅れであって、テスラの技術力が落ちたわけではない。しかし、市場の期待値は高すぎた。未来のテスラを信じて株を買った投資家たちが、いま一斉に「期待を外された」と感じているのではないだろうか。
今回の株価や売上の落ち込みに、イーロン・マスクの政治的発言やXの保守化が影響していることは否定できない。だが、それは最後の一押しにすぎない。実際、EV市場全体がアーリーアダプターからレイトマジョリティへの壁に差し掛かっている。インフラ不足、リセールバリュー、バッテリーの寿命といった課題が顕在化し、次にEVを買う理由が曖昧になっている。その中で、テスラはモデルの陳腐化と技術ロードマップの実装遅延という二重の圧力を受けている。特にEUでは、補助金政策の転換も重なり、アーリー層の「買い尽くし」による成長の踊り場に直面している。それはテスラだけでなく、EV全体の構造的な課題でもあるのだ。
そのように整理すると、この状況こそ、未来の成長に対する割安な評価を生む好機なのだ。
– 廉価版モデルの投入(2026年目標)
– ロボタクシーの本格展開(2025年8月発表イベント予定)
– OptimusによるB2Bロボティクス市場の開拓
– そして、イーロン・マスク自身のブランド再構築(政治リスクのマネジメント)
これらが時差で積み上がれば、テスラは再び成長軌道に戻ると思う。とすると、今の株価は割安だ。期待と現実が一時的に乖離している今、冷静な投資家にとっては、もっとも美味しいタイミングなのだと思う。
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虚構の政治
2025年7月25日
早嶋です。約3000字です。
2025年、日本円は再び150円台前後で推移している。多くの人々は声にしないが、どことなく不安を持っていると思う。賃金は長く上がらなかった。物価はじわじわと上がり続けている。実質的な生活水準は目に見えて落ちているように感じる。外の国を見渡せば、買い物天国日本にこぞって押しかけてくる。なんだろう、どうなっているのだろう・・・。
当然、その矛先は政権に向かう。「石破政権は大丈夫か?」と。しかし、上述の問題の原因は石破氏の登場前の政策の結果だと思う。過去の政策の検証と誤りを指摘せずに政権を運営している点が僕は行けていないと思うのだ。今の経済状況は、過去の選択の集積として、今を形作っているだけなのだ。
(金融緩和依存と冷えた消費マインド)
2010年代のアベノミクスは、大胆な金融緩和を掲げ、市場に大量の日本円を供給し、金利を限りなくゼロに近づけた。政府・日銀の狙いは明確だった。金利を下げれば住宅ローンやカーローンが活発になり、企業は借り入れを増やし、設備投資も雇用も拡大する。そうすれば経済は回るはずだと。しかし実現しなかった。
理由は、社会構造と価値観に変化が起きなかったことだと私は思う。IT化の進展により、豊かさを感じるために必ずしも「大きな消費」が必要ではなくなっていた。スマホ1台あれば音楽も映画も会話も仕事もできる。昔のように「車を買って、家を建てて、家電をそろえる」というライフスタイルが当たり前ではなくなっていたのだ。
さらに、住宅ローンなどの長期借入に対して、人々の心理は極めて慎重だった。少子高齢化、年金制度への不信、将来の税負担増。先が読めない時代において、30年ローンを組むことは、大多数の生活者にとってリスクに映った。結果として、金利をいくら下げても、消費も投資も思うように伸びなかった。
そこへ追い打ちをかけたのが、いわゆる「2000万円問題」だ。2019年、金融庁が出した報告書には、老後30年間で年金以外に約2,000万円の生活資金が必要というシミュレーションが掲載された。これはあくまで一例にすぎず、すべての世帯に当てはまる話ではなかった。公的年金を夫婦で受給している生活で追加で2000万円あれば、一定のゆとりある生活を送ることができるという目安が示された。あくまでも補足的な金額を示していただけなのだ。
だが、メディアが「2,000万円」の数字だけを切り取り、不安を煽る形で報じた結果、多くの国民が「老後破綻」「年金崩壊」と受け取った。誤解と恐怖が一気に拡散され、消費はますます冷え込み、貯蓄志向は一段と強まったのだ。金融緩和で供給されたマネーは、経済を回すどころか、「不安」というブラックホールに吸い込まれて貯蓄にとどまり経済を回すガソリンにはならなかったのだ。
(3本の矢の内の2本)
アベノミクス本来の姿を思い出してほしい。「3本の矢」と呼ばれたその戦略は、上述した金融緩和だけではなく、機動的な財政出動と成長戦略を含んでいた。ところが、実際に矢を放たれたのは、第一の矢だけ、つまり大胆な金融緩和ばかりだった。
第二の矢である財政出動は、当初こそ公共事業などで一定の景気刺激を行ったが、やがて「財政健全化」の名のもとにブレーキがかかった。プライマリーバランスの黒字化目標が掲げられ、むしろ緊縮に近い状態へと転じていったのだ。
さらに致命的だったのは、第三の矢だ。成長戦略と構造改革が、十分に実行されなかったことだ。労働市場改革や規制緩和、地方創生、教育・子育て支援など、多くの項目が掲げられたが、いずれも断続的かつ中途半端な改革にとどまり、社会の構造を変えるには至らなかった。
単なる景気対策ではなく、「構造転換」により中長期的な成長力を取り戻すという思想。まさに思想で終わって行動に移されなかった。理由は、「利害関係者が多すぎた」ことだろう。とくに既存の経済団体(経団連、業界団体、大企業、農協、医師会など)にとって、構造改革は自分たちの特権や既得権益を手放すことに直結すると捉えられた。しかも自民党にとってはその経済団体は票田でもある。アベノミクスを掲げた時点で強い抵抗があることは分かっていたただろうが、そこに舵を切りきれなかったのが現実だった。そのため金融緩和で株価を上げ、見かけの景気回復は演出されたが、実体経済の構造は何も変わらなかった。中小企業の生産性格差、労働市場の硬直性、IT化・DXの遅れ、地方の衰退は放置されたままだったのだ。
(政治不信という構造的問題)
政治不信は経済政策に加えて、身から出たサビでもある。安倍政権期に起きた一連の不祥事。学校法人への優遇、宗教団体との関係、そして政治資金の不透明さ。これらが積み重なった結果、自民党は信頼できない政党という印象が、じわじわと国民の記憶に定着した。特に、若い世代に対しての説明が有耶無耶にされた印象だ。
そして問題は、これが払拭されないまま次の政権にバトンが渡ったことだ。そのため石破氏が首相に就いても、高市氏が仮になっていたとしても、おそらく同じように政治不信は尾を引いただろう。むしろ「政党そのもの」への信頼が揺らいでいて、過去の政策と政治家の一連のゴタゴタに対して実際の検証やファクト整理を怠ったまま、政治を続けた結果が今なのだ。
だからこそ、2025年までに起き続けている円安、消費停滞、実質賃金の減少、つまり経済停滞を、石破政権だけの責任とするのはフェアではない。もはやこれは「一つの政権」の問題ではなく、「過去十数年の選択」のツケなのだ。
今、みんなで一斉に犯人探しをしているが、根本的な認識の違いがある。皆、「誰かのせいにしてしまう」構造だ。円安になったのは日銀のせい。給料が上がらないのは政府のせい。将来が不安なのは制度のせい。たしかに、制度設計の失敗や政治の未熟さは上述して指摘した。だが同時に、私たち一人ひとりが、変化を拒み、リスクを避け、安心に逃げてきたという側面も否定できない。リスクをとって挑戦し、未来を描くことを「自分には関係ない」として行動していない結果が今にある。構造的問題とは、「誰かの責任」ではなく「社会全体が選んできた結果」だ。
(でも、正論は通じない・・・)
だが、ここでいくら正論を掲げたところで、ムーブメントは止まらない。一度「すべては外のせいだ」と思い込んだ国民は、世界との接点を断ち切るように、「やはり我々は自国中心に生きるべきだ」という物語にすがりたくなる。
この動きは、イタリア(メローニ政権)、フランス(極右の台頭)、ドイツ(AfDの伸長)、アメリカ(トランプ現象)でも観察される。どの国でも、グローバル化の恩恵を受けられなかった層が、国家という「分かりやすい単位」に安心を求める。グローバリストは敵であり、リベラルは信用できない。信じられるのは、声の大きなナショナリストだけ。そんな構図が民主主義国家の中で定着しつつある。
そして最も効果的なのは、「複雑さを語らずに、わかりやすさを叫ぶこと」だ。印象、感情、空気。そうしたものに従って判断する層に対して、敵と味方を単純に分け、繰り返し、繰り返し、同じフレーズを浴びせる。それが受け入れられた瞬間、メディアの空間は染まり、そのリーダーが政治を動かし始めるのだ。
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新規事業の旅200 MBOとOKR
2025年7月22日
早嶋です。
日本企業の多くが取り入れてきたMBO(目標による管理)は、本来、自ら目標を設定し、その達成に向けて動機づけられた社員が、自律的に動きながら成果を上げることを目的としている。組織全体の目標を分解し、それぞれの部署、個人に落とし込んでいくのだ。全体最適からの逆算が基本構造だ。マネージャーは、社員の目標達成に向けた日常行動を観察し、期中や期末のタイミングで差分を確認しながら評価を行う。
ただし現実には、期末評価が近づくと、社員がアピールを始める。もしくは、評価されることを前提に、目標を「書く」だけになる。つまり、制度が意図された通りには機能していない。とくに管理職が、部下の行動や成長を正しく観察し、フィードバックする力を持っていなければ、その構造は形骸化する。
一方、新規事業やスタートアップの文脈において、このMBOは明らかに馴染まない。なぜなら、新しい挑戦には「予測不能」が付きまとうからだ。年初に設定した目標が、半年後には無意味になっていることすらある。その中で注目されるのがOKR(Objectives and Key Results)だ。
OKRは、O(Objective)という「野心的な目標」と、それに伴うKR(Key Results)という「測定可能な成果指標」のセットで構成される。ポイントは、KRがOに対する通過点であるということ。KRは定量的でありながらも、変動に柔軟だ。プロダクトのローンチ、トライアルユーザー数、PMF到達など、フェーズに応じた具体的アウトカムが設定される。そして、それが常にフィードバックされ、場合によってはO自体も見直される。
つまり、OKRの時間軸は短く、柔軟だ。四半期単位での見直しが基本であり、行動と成果が噛み合っていない場合、すぐにチューニングが行われる。これは、スタートアップが「行動しながら学ぶ」構造と親和性が高い。
たとえば、あなたが言及していた、ある新規事業の現場では、初期段階では「ユーザー10人に課題インタビューを実施する」といったKRが設定され、それを通じて本当に目指すべきO(たとえば市場の解像度を上げる)が見えてくる。KRは単なるto doリストではなく、チームが学習するためのルートマップだ。
既存事業部と新規事業部が共存する組織では、このように評価制度をハイブリッドで運用するしかない。MBOは、繰り返しのオペレーションや、行動指針がある程度確立された職場で力を発揮する。一方、OKRは、「意味の確定すらこれから」という段階での指針になる。組織が両利き経営を掲げるならば、評価制度もまた両利きであるべきなのだ。
しかし、評価は制度だけでは完結しない。報酬の原資は、結局のところ利益である。既存事業が稼ぎ、新規事業は投資段階にある。この非対称性の中で、どう原資を配分するか。そのためには、経営計画の中で、あらかじめ「評価のための原資」を分けて確保しておく必要がある。そして、その使途においても、OKRで設定したチャレンジの質や学習の深さを、定性的にも捉えられる運用が求められる。
さらに近年では、「RSU(譲渡制限付き株式)」や「成功報酬型ボーナス」など、より柔軟なインセンティブ設計が導入されつつある。とくに、長期的な成果を求める新規事業部隊においては、このような未来の配当がモチベーションの支えになる。
いずれにせよ、MBOかOKRか、という単純な二項対立ではない。目的とフェーズ、そして組織の構造に応じて、制度は設計し直されるべきだ。そして制度は、運用されてこそ価値を持つ。結局のところ、最も重要なのは日々のフィードバックの質であり、それは管理職一人ひとりの問いかける力にかかっている。
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新規事業の旅199 「横の関係」が通じないときのリーダーの振る舞い
2025年7月16日
早嶋です。1700文字。
横の関係が理想だ、強くそう思う。人と人とが、役職や地位を超えて、相互の尊厳を土台にしながら、感謝と信頼をもとに関わる。それがうまく機能すれば、組織は自律性と創造性にあふれ、誰かが誰かを支配せずとも、健やかに前へ進んでいける。
が、現実は世知辛い。そうならない場面の方が多いかもしれないのだ。
たとえば、部下が学習しようとしない。言ったことが理解されない。組織が目指す理念に共感しないどころか、価値観が真逆でさえある。また、本人がそもそも短期的な報酬しか求めておらず、長期的な成長には関心を示さない。
こうした状況の中で、「対等に信じ合おう」「感謝を大切にしよう」と言ったところで、手応えがない。むしろ空回りするだけだ。このような時、リーダーはどう向き合えばいいのだろうか。
まず大切なのは、「横の関係は、相手との合意によって初めて成立する」という厳しい事実を認識することだ。いくらこちらが誠意をもって接しても、相手がその関係性を理解しない、あるいは受け取らないのであれば、それは単なる独りよがりになるからだ。だからこそ、関係の土台ができていない状態では、いきなり横を求めないという現実的な態度が必要になる。
では、代わりに「縦の関係」に戻るべきなのかだが、答えはノーだ。縦に戻るのではなく、段階を設けて関係性を育てていくことが答えになる。
まず、こちらがやるべきことは、相手の関心とレベルを正確に把握することだ。相手がどこまで理解できていて、どこからが不明瞭なのか。何を大切にしていて、何に共感できないのか。つまり、教えるのではなく、相手を深く読み解くことが最初の一歩になる。
そして、その上で、相手の現在地に合わせた最小限の期待値とルールを共有するのだ。ここで大事なのは、期待はするが、理想は押しつけないということだ。相手の成長に過度な幻想を抱かず、今の状態でも守るべき基準と、果たすべき責任を明示する。それが、「尊重しながら管理する」という、現実的なリーダーの姿勢だ。
この段階では、「評価」も必要になる。ただし、それは「優劣のラベリング」ではなく、「行動のフィードバック」であるべきで、「君はダメだ」「期待外れだ」ではなく、「こういう行動は、今の組織の方向とずれている」「ここは助かった、ありがとう」と、行動ベースで事実を返すのだ。この繰り返しが、「縦ではないが、まだ横でもない」中間地帯の信頼をつくるのだ。
こうして、行動→フィードバック→納得→変化というサイクルが少しずつ生まれたとき、初めて相手の中に、「自分で考え、選び、成長していく」準備ができる。その時が来てはじめて、横の関係は姿を現す。
つまり、「横の関係」は信じるべき理想ではあるが、「今、ここで相手が受け入れられるとは限らない」という現実を、リーダーは冷静に引き受けなければならない。その上で、関係性の成熟に応じてリーダーシップを変化させていくという柔軟性こそが、本当の意味での強さだと思うのだ。
そしてもうひとつ忘れてはならないのは、「諦めるという選択」もあるということだ。どれだけ丁寧に関係を育てようとしても、それを拒絶する人もいる。その場合、「信じ続けること」よりも、「線を引くこと」の方が、双方にとって優しい判断になることもある。
リーダーの役割とは、理想を語ることではなく、現実の中で「どこに関係を育てられる余地があるか」を見極め、
そこに静かに火を灯していくことだと思う。その火が大きく育つかどうかは、時と状況と相手次第だ。相手のコントロールは出来ないが、「関係を育てるという意思をもった関わり方」を、自ら選び取ることはできるのだ。
信じる。でも押しつけない。期待する。でも理想は強要しない。フィードバックする。でも人格は否定しない。そして、育てられる関係には根気よく向き合い、育たない関係には静かに距離をとる。
そうした関係との向き合い方自体が、ある種の「徳」なのかもしれない。リーダーシップとは、管理技術の話ではなく、「どう関わるか」の美学の問題なのだと、最近、私は思うようになった。
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新規事業の旅198 「貢献」と「利他」のあいだ
2025年7月15日
早嶋です。約4900文字。
私たちが、誰かのために何かをしたとき、それは本当に誰かのためなのだろうか。それとも、自分のためにしているのだろうか。そして、その違いは何を意味するのだろうか。何を?と思うかも知れない。20年、一緒に伴奏しながら医療チームの組織運営を行っているドクターとの話で感じたことを整理する。今、リーダーシップや関係構築で議論されている論点の多くは、ギリシャ哲学のストア派に由来する概念が多いという話だ。
最初に、アドラー心理学では「貢献感」が、人の自尊心の源になると説かれている。アドラー心理学における「貢献感」とは、「自分が誰かの役に立っている」「この世界に必要とされている」と感じることで得られる、内面的な満足感だ。アドラーにとって、人間の根源的な欲求は「所属」と「貢献」だとされている。つまり、「私はこの共同体の一員である」「私はここにいていい存在だ」と感じられることこそが、人間の自尊心(=自己価値感)を支える柱になるという概念だ。
重要なのは、「他者から褒められる」「認められる」ことではなく、「自分の行動が、自分にとって意味ある形で、他者や社会に役立っている」と自分が感じられること。これが「貢献感」だ。
たとえば、掃除をした子どもに対して、「偉いね!」「よくできたね!」と褒めるのは外からの承認で、それが続くと、「褒められないとやらない」人間になってしまう。人参がぶら下げられないと動かなくなるのだ。一方で、「この部屋がきれいになって、みんなが気持ちよく過ごせるね」と伝え、子ども自身が「自分の行動がみんなのためになっている」と感じられるようにすれば、貢献感を通じて、自己肯定感や自尊心が内側から育つという考えだ。
だからアドラーはこう考える。「人は、他者への貢献を通じて、自分自身の価値を実感できる」そしてこの実感が、「私はここにいてよい存在だ」という深い自尊心を生む、と。つまり、「貢献感が自尊心の源になる」とは、自分の存在が、他者とのつながりの中で意味を持っていると感じられることが、人としての安定感や幸福の土台になる。という、非常に社会的で人間らしい洞察なんだ。
しかし、この「貢献」という言葉は、日常の中で驚くほど曖昧だ。誰かに尽くす、チームのために働く、社会に役立つ。こうした行動は一見、美しいものに見えるが、その裏に「認められたい」「褒められたい」という気持ちが入り込むこともある。すると貢献は、実のところ「承認欲求の変形」になってしまう。
アドラーが言う「貢献」は、他者のために無条件で尽くすという「自己犠牲」ではないし、ましてや「承認を得るための手段」でもない。むしろ、「自分がそうしたいからそうする」「自分が意味ある存在でありたいと願うから関わる」。そうした主体的な選択が、結果として他者の役に立っている状態を「貢献」と呼ぶのだ。
この貢献は、ある意味で自立した利他とも言える。他者に尽くすが、それは見返りを求めない。他者を支えるが、決して支配しない。ただ、「私はここにいてよい」「私は意味のある存在だ」という実感を、自分の意志で育てていく。その姿勢にこそ、アドラーの貢献感は宿るのだ。
この「自立した利他」という考え方は、仏教や西洋哲学の中にある利他とも通じる部分がある。仏教では、他者を苦から救う「慈悲」が中心にある。そこでは「無我」、つまり自己を捨てることが前提だ。西洋哲学では、キリスト教的な「無償の愛」や、功利主義的な「最大多数の最大幸福」が利他的行為の根拠になる。これらもまた、自己を超えて他者を思うという点で尊い。しかしアドラーは、それよりもっと身近で、等身大の利他を語っている。つまり、私という誰かが、この場所で、自分の意志で他者に関わるということ。そこには、宗教的な救済でも道徳的な善行でもない、温度のある関係性がある。
仏教やキリスト教における利他は、超越的な目的と結びついていると思う。たとえば、仏教では「すべての衆生を苦から救いたい」という菩薩の誓願や、キリスト教では「神の愛に倣って隣人を無条件に愛する」といった思想がある。これらは、非常に高尚で、どこか人間を超えた崇高さを求めるように思う。つまり、救済的な利他というのは、人間の「現実の感情」や「不完全さ」から距離のあるものになりがちなのだ。
一方、功利主義や儒教的な道徳は、「人として正しい行いをせよ」「他者のためになる行為は善だ」といった規範の枠が強調されている。この文脈では、善行=あるべき姿であり、行動の正しさを前提にしている。しかしそれは、「そうすべきだからやる」という義務感や正義感に根ざした関係性に転じてしまうかも知れない。そこでは、相手の気持ちや自分の内発的な動機は、後回しになることもあるのだ。
それは、「自分の選択で関わる」「他者と対等でいたい」「ここにいていいと感じたい」という、非常に人間らしい、感情的で、あたたかい動機から始まる関係性だ。「あなたのために」ではなく、「私はあなたと関わりたい」、「正しいからやる」ではなく、「それが意味あることだからやる」、「神のために」でも「社会のために」でもなく、「人として自然にそうしたい」と思えるという考えに基づく。
この関係性には、命令もない。義務もない。超越的な威圧感もない。あるのは、自分で選んだ関係性と、相手に向けた共感や信頼だけだ。だから温度があると表現した。それは、正義や善意ではなく、人と人のあいだに生まれる、確かな熱のことだ。
こうした関係を横の関係と表現する。この縦の関係ではない、横の関係はアドラーだけが初めて提示したものではない。古代ストア派の哲学にも、同じ構造を見ることができた。
ストア派の思想では、幸福は「外にあるもの」ではなく、「自分の内にあるもの」だとされる。富や地位や賞賛といったものは、たしかに好ましいかもしれないが、決して善でも悪でもない。唯一の善は、「徳(アレテー)」、つまり、自分の理性によって、正しく、誠実に生きようとする態度そのものだ。
この価値観は、縦の構造とは相容れない。他人から評価されることによって価値が決まるのではなく、自分がどう考え、どう判断し、どう生きるかに価値がある。だから、他者と比べる必要も、支配する必要もない。人は、本来的に横の関係の中で生きる理性的存在なのだ。
たとえば、ストア派の哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、こう記している。「過去も未来も私の手にはない。だが今この瞬間、私は理性をもって判断できる」。これは言い換えれば、「他人がどう思おうと、今の私の選択には意味がある」という立場表明に相当する。他者の視線ではなく、自らの意志と判断にこそ意味がある。ここには、優劣や上下の構造は存在しない。あくまで、自由な意志をもつ者同士としての、フラットな関係性が前提となっているのだ。
アドラーもまた、人間を「理性をもつ自由な存在」として信じていた。だからこそ、「褒めることは支配であり、感謝することは対等である」と言い切ることができたと私は解釈している。「よくやったね」と評価するのではなく、「私は嬉しい」と感情を伝えること。人として向き合うということは、結果を裁くことではなく、意志に寄り添うことなのだ。つまり、縦の評価ではなく、横の共感こそが、人間を真に成長させるのだという点において、ストア派とアドラーは深く共鳴していると思う。
では、こうした「自立した利他」や「横の関係」を、組織の中にどう取り入れることができるのか。
現実の企業やチームでは、利他や貢献がしばしば義務ややりがい搾取にすり替えられる。上司が「感謝しているよ」と言いながら、それが実質的には評価や支配のためのツールになっている。会社が「お客様のために」と掲げながら、それが社員への過剰な負荷になっている。こうした縦の論理が横のふりをしてしまうと、関係性はますます不健康になっていく。
だからこそ、組織に必要なのは、「意味のある横の関係」をどう育てるかという問いだ。そこでは、成果よりも選択が、命令よりも問いかけが、評価よりも感謝が重視されるべきだ。役割としてではなく、人としての判断に敬意を示すこと。報酬の有無ではなく、意志を信じて行動すること。そうした「人としての関わり方」こそが、横の関係を支える本質になる。つまり、人を管理するのではなく、人として関わる組織をつくるのだ。
組織に必要なのは、意味のある横の関係をどう育てるかという問いとは、単に「フラットな関係」や「上下のない組織」が良いのではない。重要なのは、関係が形式的に横並びなのではなく、内面的に意味あるつながりになっているかだ。つまり、「心理的な対等性」や「相互の信頼」によって、意志と感情が通い合っている関係性をどう育てるか、これが核心の問いになっているのだ。
成果よりも選択が、命令よりも問いかけが、評価よりも感謝が重視されるべき、というのは、行動の結果や指示の従順さではなく、その人が何を考え、どう選び、どう関わったかというプロセスの質を重視すべきだという提言になる。「成果」よりも、その行動を「どう選んだか」に注目するし、「命令」よりも、「どう思うか?」と問いかける。そして、「評価」よりも、「ありがとう」と感謝するのだ。このような関わり方が、人を管理対象ではなく、信じるに足る存在として見る姿勢をつくるのだ。
役割としてではなく、人としての判断に敬意を示すことは、「そのポジションにいたからやった」と片付けるのではない。「その人が、その人として考え、選び、引き受けた判断」に対して敬意を向けるということだ。たとえ役割上当然の仕事でも、「その責任をあなたが真摯に選んだこと」に対して感謝し、敬意を持つのだ。これが人として関わるということになる。
報酬の有無ではなく、意志を信じて行動すること。報酬を条件にした行動ではなく、自分が信じることを、自分の責任で選び取って動く。そこには、「誰が見ているか」「得になるか」といった外的動機ではなく、「どうありたいか」という内的な姿勢がある。組織はその姿勢を信じ、支える環境をつくるべきだ、という提言にもなる。
そうした人としての関わり方こそが、横の関係を支える本質になるのだ。繰り返しになりくどいと思うが、横の関係とは、「同じ階層の人間関係」ではない。「お互いを尊重し、信じ、対等な人として関わる姿勢」と定義している。つまり、制度設計や組織構造の話ではなく、一人ひとりの関わり方の美学のあり方なのだ。
横の関係は、肩書きや制度でつくられるものではない。それは、私たち一人ひとりが相手の内面に向き合い、「あなたがそう選んだこと」に敬意を示し、「あなたがそう在ろうとすること」に信頼を寄せる、そんな関わり方の積み重ねからしか、生まれないのだ。この姿勢こそが、理想を現実に引き寄せるための、最も地に足のついた横の関係と言えると思う。
この点、サーバント・リーダーシップは、アドラーやストア派と非常に深い接点をもつ。リーダーが「支配する者」ではなく、「支える者」であるという前提。部下の成長や幸福を第一に考え、その人の内にある意思と能力を信じ、問い、支援する。そして、相手が自分の意志で選んだ判断に対して、「私は嬉しい」「ありがとう」と伝える。ここで重要なのは、結果よりもその人の意志のあり方を大切にするという姿勢だ。評価ではなく共感、管理ではなく信頼。それこそが、本質的な横の関係であり、リーダーとしての「徳」の表れになる。
貢献とは、誰かのためにする行動でありながら、実のところ自分が、自分であるための行為でもある。利他とは、自己を消すことではなく、自己を持ったまま、他者と向き合うことだ。その繊細で強靭な姿勢の中に、アドラーが見た人間の尊厳があり、ストア派が説いた理性の価値があり、サーバントが志向した静かなリーダーシップがあるのだ。
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日本からディープテック・ユニコーンが生まれにくい理由
2025年7月11日
早嶋です。約4200文字。
日本でも、ようやくスタートアップへの注目が集まりつつある。経済産業省が主導する「スタートアップ育成5か年計画」では、1000億円を超える規模のファンドが複数立ち上がった。だが一方で、本当に必要な「制度整備」や「インセンティブ設計」は、まだ追いついていない。特に、「ディープテック」や「バイオテック」などの長期戦型のスタートアップにとって、それは致命的な差を生んでいる。これらを、ストックオプション(SO)制度を軸に、日米の制度設計の違いを丁寧に整理することで、日本での成長の限界を示したい。
(ストックオプション)
ストックオプション(SO)は、将来、あらかじめ決められた価格で自社の株を買うことができる権利だ。たとえば、今、会社の株価が1株100円だとする。あなたが「100円で買える権利(SO)」を持っていて、会社が成長して株価が1株1000円になったとき、差額の900円が利益となる。
これを活用することで、会社が上場やM&Aで成功した際に、社員や経営陣にもリターンがもたらされる。つまり、会社の成長が自分の報酬と連動する仕組みとして、スタートアップのモチベーション設計の柱となっている。
(アメリカの先進性と制度)
少し結論的な話になるが、SOの「行使価格」は、公正な市場価格(FMV)である必要がある。これは税制上のルールだ。もし、実際の株の価値よりも極端に安い価格でSOを発行すると、税務当局から「不当な報酬だ」と見なされ、多額のペナルティ課税を受けるからだ。そして、その公正価格を評価仕組みがあり、それが409A評価だ。これは、外部の独立機関がその会社の株価(FMV)を客観的に算定する仕組みだ。外部の機関が、DCF法(将来キャッシュフローを現在価値に割引)などを用い、公正な価値を提示してくれるのだ。
この制度があることで、会社も、従業員も、税務当局も、「この行使価格は正当だ」と合意でき、安心してSOを付与・行使・保有できるのだ。つまり、透明性と予測可能性があるからこそ、SOという制度が広く活用されているのだ。
アメリカのスタートアップでは、資金調達のたびに経営陣や従業員用にSOプール(例:全体の20%)を確保しておくのが常識になっている。このSOプールは、会社として将来株式を発行する予約枠のようなもので、実際には株式が発行されていない段階で準備される。
たとえば、1000億円を調達する際に、「将来の従業員報酬として20%の株式を確保しておきましょう」と決める。この20%は誰かが持っているわけではなく、会社が予約しておく報酬の原資のようなものだ。このように先に設計しておけば、あとからSOを発行しても、創業者や経営陣の持ち分がさらに削られることはない。むしろ、持ち分を守りながらチームにリターンを配れるという意味で、SOプールはとても合理的な設計なのだ。
よく誤解されがちだが、SOプールを用意することは、あらかじめ将来の報酬原資を準備しておくことであり、現時点では実際に株式を発行したわけではない。ストックオプションは、将来的に条件を満たした社員が「株を買える権利」であって、現時点で株主ではない。だから、SOプールの段階では創業者の持ち分は直接には減らない。そして資金調達時には、投資家と一緒に「SO分の希薄化をあらかじめ考慮した株主構成」を設計しておくため、後になってから創業者の株がさらに削られるということが起きない設計が可能なのだ。
(日本のインフラの脆弱性)
日本にもSO制度はあるが、409A評価のような第三者による株価算定の仕組みがない。税制も非常に複雑で、「行使時に課税されるのか?」「売却時に課税されるのか?」がわかりにくい。結果として、創業者やVCは「SOを発行したくない」と考えがちになるのだ。特に、バイオやディープテックのような「時間がかかるが社会的意義の高い分野」では、途中で優秀な人材が報酬面で報われないという深刻な問題が起きるのだ。
たとえば、大学発スタートアップや研究機関発のディープテックベンチャーでよく見られる課題がある。経営側が、「優秀な研究者にも株式インセンティブを渡したい」と考え、SOを配分しようとする。しかし、いざストックオプションを発行しようとしても、「どの価格で、いつ、どれだけ渡すか」に明確なルールがない。株価の評価を会社が独自に決めざるを得ず、税務署に「時価を不当に安くした」と判断されるリスクが残る。実際にSOを行使した時点で、「売却もしていないのに課税が発生」する可能性がある。結果として、「研究に集中していたら税金の支払いが生じた」「給与より税額が多くて困った」といったことすら現実に起こっているのだ。
また、アメリカのようにSOプールをあらかじめ準備しておくという慣習もないため、「この研究者に報いるには、誰かが自分の株を差し出すしかない」という歪んだ構造になってしまう。これでは、経営陣の側も誰にも報いられない設計に追い込まれやすいのだ。
これはVCがスタートアップに投資する際にもハードルになる。日本のVCは創業者が一定比率の株を持っていないと投資しなくなるのだ。これは日本のVCが厳しい、という話ではない。むしろ、SOなどでチーム全体に報酬を配る制度が整っていないからこそ、創業者が多くの株を持っていないと誰もモチベートできないという現実があるのだ。つまり、SOが機能していないために、創業者の持ち分にインセンティブ設計のすべてを担わせざるを得ないのだ。
(アメリカの制度や文化)
アメリカの従業員の中には、IPO前にSOを行使し、あえて株を売らずに保有し続けるという選択を取る人がいる。なぜかだ。米国では、SO行使から1年以上保有すれば、売却益が長期キャピタルゲイン税(税率20%)の対象になるというのが答えだ。一方、IPO後に行使&即売却すると、所得税(40%超)がかかってしまう。これを避けるため、IPO前に安い価格(409A評価)でSOを行使し、一定期間保有することで、税率を抑える戦略が存在するのだ。
だが問題は、「そのためには大金が必要になる」ということだ。たとえば、行使価格が1株2ドルで10万株なら、2000万円。株価が上がっていれば、その差額に対して数百万円から数千万円の税金も先に発生してしまう。合計で数千万円という現金が、IPO前に必要になってしまう。多くの従業員には、そんなお金はないだろう。そこで登場するのが、Secfi、EquityBee、Liquid Stockのような専門のSOファイナンス企業だ。
これらの企業は、上場予定のスタートアップ従業員に対し、SO行使のための資金+税金分を立て替える。そしてその資金は返済義務はなく、売却できた時点で利益から回収する(ノンリコース)が主流だ。そのかわり、フィアンす企業は成功したときに報酬(成功報酬)をしっかりと受け取るのだ。つまり彼らは、 株が上場して儲かればシェアをもらうし、上場しなければ損を飲み込むという、極めてスタートアップ的なリスク・リターンの設計をしている。
このモデルが成り立つのは、アメリカ社会が「リスクは共有し、成功で回収する」ことに寛容だからだと思う。株式価値が市場で透明に評価されている。409A評価があることでリスクの下限を読みやすい。法律上、ノンリコースでも契約が成立しやすい。従業員と投資家が共にリスクを取るという発想が根付いている。このような文化や制度の考え方がアメリカのユニコーンを連発する背景にあるのだ。だからこそ、SOを行使して保有しようとする従業員を、社会全体で支援できる構造になっているのだ。
(日本に欠けている制度的なインフラ)
一方日本だが、このようなSOファイナンス企業は、存在しない。制度上も文化上も、それを支える土壌がないからだ。日本では、未上場企業の株価評価が顧問税理士や社内の恣意的な判断に委ねられている。外部に公正な評価機関がないため、時価を不当に安く見積もったと判断されれば、会社も従業員も追徴課税や罰金のリスクを負う。例えば、大学発スタートアップのCFOが研究員にSOを1株100円で付与したとする。だが後に投資家が1株500円で株式を購入していた事実が発覚したら、税務署が「SOの価格設定は不当」として、研究員に所得税+加算税を課し、会社にも責任が及ぶという事案が起こるのだ。
SOの課税タイミングが極めて不明瞭で、行使時なのか売却時なのかの判断が難しい。というか、そのような税を想定した制度が整備されていないのが現状だ。特に売却していない段階で課税される「ペーパーゲイン課税」が混乱の元となっている。たとえば、ITベンチャーの社員がSOを行使(価格100円/FMV1000円)したが、売却できていないのに900円の課税対象となったなどの例だ。そして、その後、株価が下落し、税金だけ支払って何も残らずに退職するという恐怖がある。
アメリカでは、SecfiやEquityBeeといったファイナンス企業が、SO行使+税金の支払いのために資金をノンリコース型・成功報酬型で提供する。失敗すれば返済不要、成功すれば一部リターンを分け合うという仕組みだ。先にも説明したが、アメリカのSaaS企業の従業員は、年収800万円、貯金100万円でも、Secfiから1000万円の行使資金を借りてIPO後に3000万円の手残りを得るということが可能なのた。日本の同様のスタートアップでは、行使資金がなくSOを失効する事例もある。
そして、日本では、SOによる大きなリターンが「ズルい」「投機的」と見なされがちで、制度自体が萎縮しやすいのだ。ある東証マザーズ上場企業で、エンジニアがSOで1億円のリターンを得たことが社内外で問題視され、社内制度としてのSO配分が見直されたなどの事実もあるのだ。
「成功したら回収、失敗したら失う」。ハイリスク・ハイリターン、それがスタートアップの本質だ。そして、そのリスクを一緒に背負ってくれる存在(投資家、社員、ファイナンス企業)がいることが、アメリカのスタートアップを強くしている。日本が本気でスタートアップ社会を築くのであれば、資金だけでなく、報酬設計、税制、制度、そしてリスクと報酬を分け合う文化を育てていく必要がある。単に「お金を集めること」ではない。人を動かし、報いる制度があるかどうか。 そこが、ユニコーンの生まれるか否かを分ける本質だと思うのだ。
民主主義の前提
2025年7月8日
早嶋です。
民主主義は、誰もが当たり前のように口にするが、考えてみると、ものすごく繊細な仕組みだと思う。仮に、社会の構成員が100人いるとする。その100人が等しく、ある一定レベルの教育を受けていなければ、本当の意味で民主主義は成り立たないのだ。いや、むしろ成り立たせてはいけないと思う。
それは、教育を受けていなければ、選挙は単なる人気投票になるからだ。耳障りの良い言葉に流され、都合の良い敵を見つけ、思考停止のまま「投票」という行為が行われる。これでは制度だけがあり、中身のない、形骸化した民主主義になってしまう。
民主主義は「誰でも投票できる制度」だが、制度があるからとて、それだけでうまく機能しない。教育を通じて、自分の頭で考える力。情報を比較して、取捨選択する力。未来への想像力。そういうものを持っていないと、「賢く選ぶ」ことはできない。
もっと言えば、教育とは「自分が信じていることを、いったん疑ってみる力」を育てることだ。これがないと、誰かに操作される。自分が操作されていることにも気づかずに、善意で間違った判断をしてしまう。だからこそ、教育は制度を支えるのだ。
言論の自由が大切なのは間違いない。ただし、何を言ってもいいわけじゃない。「私はそう思う」という考えを述べるのは自由だ。でも、まったく事実に基づかない内容を「真実であるかのように」広めるのは、もうそれは自由ではなく、暴力だ。
たとえば、何も悪いことをしていないA氏に対して、「あいつが犯人だ」と断定する発言。これがテレビやSNSで繰り返されると、事実でなくても空気ができあがる。そうすると、本人にとっては社会的な死刑宣告と同じだ。言論の自由は、責任と自覚がセットになって初めて成り立つ。
選挙を成り立たせるには、正しい情報が行き届くことが前提だ。その意味で、メディアは選挙を支える装置みたいなものだ。でも、実際にはどうだろうか。
特にテレビ。放送免許制のもとで守られ、限られたプレイヤーだけが公共の電波を独占している。そして、そこから発信される言葉は、ナレーション、映像、見出し、すべてが巧妙に編集されている。視聴者の多くはその「編集された現実」を事実として受け取る。ここに操作が入れば、世論そのものが動かされる。
事実、戦前のマスメディアは戦争を煽り、戦後は被害者を装って今の体制に移行した。構造は変わっていない。民主主義が機能するには、本来、メディアはもっと自律的でなければならない。でも現実には、メディアこそが第四の権力として、チェックされることなく影響力を持ちすぎている。
このように議論すると、こう思えてくる。もしかして、民主主義が「本当に成り立っている国」なんて、世界にひとつもないんじゃないかと。教育、メディア、選挙制度、表現の自由、格差、少数派の尊重、三権分立、どれか一つでも崩れれば、民主主義は歪む。
じゃあそれでも、なぜ民主主義を掲げ続けるのかだ。それは、「民主主義しかマシな方法がないから」ではない。そうじゃないと思う。むしろ、民主主義とは信仰のような存在なのかも知れない。
暴力ではなく、対話によって社会をつくる。声の大きさではなく、論の力で決めていく。そうありたいと願う人たちの集合的な信念だ。それがある限り、民主主義は完成された制度としてではなく、絶えず問い直される姿勢として存在し続ける。
選挙がある。憲法がある。制度は整っている。でも、本当に必要なのは、その制度を支える土台が今も健全かを常に問い直すことだと思う。それは教育であり、言論空間であり、公共性への信頼であり、考えようとする市民の姿勢だ。
民主主義が壊れるとき、それは制度の形ではなく、前提の崩壊だ。我々が当事者となり議論し続けることが大切だ。
民主主義は、誰もが当たり前のように口にするが、考えてみると、ものすごく繊細な仕組みだと思う。仮に、社会の構成員が100人いるとする。その100人が等しく、ある一定レベルの教育を受けていなければ、本当の意味で民主主義は成り立たないのだ。いや、むしろ成り立たせてはいけないと思う。
それは、教育を受けていなければ、選挙は単なる人気投票になるからだ。耳障りの良い言葉に流され、都合の良い敵を見つけ、思考停止のまま「投票」という行為が行われる。これでは制度だけがあり、中身のない、形骸化した民主主義になってしまう。
民主主義は「誰でも投票できる制度」だが、制度があるからとて、それだけでうまく機能しない。教育を通じて、自分の頭で考える力。情報を比較して、取捨選択する力。未来への想像力。そういうものを持っていないと、「賢く選ぶ」ことはできない。
もっと言えば、教育とは「自分が信じていることを、いったん疑ってみる力」を育てることだ。これがないと、誰かに操作される。自分が操作されていることにも気づかずに、善意で間違った判断をしてしまう。だからこそ、教育は制度を支えるのだ。
言論の自由が大切なのは間違いない。ただし、何を言ってもいいわけじゃない。「私はそう思う」という考えを述べるのは自由だ。でも、まったく事実に基づかない内容を「真実であるかのように」広めるのは、もうそれは自由ではなく、暴力だ。
たとえば、何も悪いことをしていないA氏に対して、「あいつが犯人だ」と断定する発言。これがテレビやSNSで繰り返されると、事実でなくても空気ができあがる。そうすると、本人にとっては社会的な死刑宣告と同じだ。言論の自由は、責任と自覚がセットになって初めて成り立つ。
選挙を成り立たせるには、正しい情報が行き届くことが前提だ。その意味で、メディアは選挙を支える装置みたいなものだ。でも、実際にはどうだろうか。
特にテレビ。放送免許制のもとで守られ、限られたプレイヤーだけが公共の電波を独占している。そして、そこから発信される言葉は、ナレーション、映像、見出し、すべてが巧妙に編集されている。視聴者の多くはその「編集された現実」を事実として受け取る。ここに操作が入れば、世論そのものが動かされる。
事実、戦前のマスメディアは戦争を煽り、戦後は被害者を装って今の体制に移行した。構造は変わっていない。民主主義が機能するには、本来、メディアはもっと自律的でなければならない。でも現実には、メディアこそが第四の権力として、チェックされることなく影響力を持ちすぎている。
このように議論すると、こう思えてくる。もしかして、民主主義が「本当に成り立っている国」なんて、世界にひとつもないんじゃないかと。教育、メディア、選挙制度、表現の自由、格差、少数派の尊重、三権分立、どれか一つでも崩れれば、民主主義は歪む。
じゃあそれでも、なぜ民主主義を掲げ続けるのかだ。それは、「民主主義しかマシな方法がないから」ではない。そうじゃないと思う。むしろ、民主主義とは信仰のような存在なのかも知れない。
暴力ではなく、対話によって社会をつくる。声の大きさではなく、論の力で決めていく。そうありたいと願う人たちの集合的な信念だ。それがある限り、民主主義は完成された制度としてではなく、絶えず問い直される姿勢として存在し続ける。
選挙がある。憲法がある。制度は整っている。でも、本当に必要なのは、その制度を支える土台が今も健全かを常に問い直すことだと思う。それは教育であり、言論空間であり、公共性への信頼であり、考えようとする市民の姿勢だ。
民主主義が壊れるとき、それは制度の形ではなく、前提の崩壊だ。我々が当事者となり議論し続けることが大切だ。
値引きせずに契約を勝ち取る提案術
2025年7月3日
高橋です。
私がコンサルティングをしている『営業プロセス研修』のエッセンスを、毎回お伝えしています。
今月のテーマは「値引きせずに契約を勝ち取る提案術」です。
先月は「価格の裏にある“本当の質問”とは?」というテーマでした。お客様が価格に関する質問をされた時は、価格ではなくその価値を納得させてほしいということでした。
今月も価格に関することですが、「値引き」について書いてみました。
「他のお店はもっと安かったんですけど…」
「この金額では決裁が下りません」
そんな言葉を聞いたら、多くの営業マンが値引きのプレッシャーを感じることでしょう。
しかし、安易に値引きをしたのでは利益を削るだけでなく、「この商品はその程度の価値なのか」とお客様の期待値まで下げてしまうことになります。
では、どうすれば“値引きせずに”納得して契約してもらえるのでしょうか?
まず大切なのは、やはり「価格を伝える前に、価値を伝える」ことです。
たとえば、同じ50万円の商品でも、
「これは50万円です」と言われるだけでは高く感じますが、
「この商品はお客様の〇〇な課題を解決し、△△の成果をもたらします。10年間フリーメンテナンスも含まれています」と説明されたうえで「価格は50万円です」と言われれば、納得感がまったく違います。
価格の話をする前に、「お客様にとっての好いこと(価値)」を明確に伝えることが肝心です。
値引き交渉に発展しやすいのは、お客様が「どこでも同じ」と感じている場合です。
つまり、「どこから買っても変わらない」と思われていると、価格競争に引きずり込まれてしまいます。
だからこそ、「自分から買う理由=価値」を明確にする必要があります。
たとえば、
導入後のフォロー体制
顧客の業種に合わせたカスタマイズ提案
担当者としての対応力やスピード感
こうした“見えにくい価値”を言語化することが、価格以外の差別化につながります。
お客様が本当に望んでいるのは、「一番安い商品」ではなく、「一番私に合っている商品」であることが多いものです。
「御社にとって、何を一番大切にされていますか?」
「価格以外で、重視されているポイントはありますか?」
こうした質問で、相手の“本音の判断基準”を引き出すことで、価格ではなく価値・信頼・安心といった要素で勝負することができます。
価格は交渉材料ではなく、“納得のゴール”です。
価格を下げる前に、価値を高める提案をしてみましょう。
営業プロセス、営業研修、人材育成、セールスコーチなどをご検討の経営者・経営幹部・リーダー・士業の方はお気軽に弊社にご相談ください。
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