新規事業の旅176 民主主義が絶対主義になる時

2025年5月1日 木曜日

早嶋です。3300字です。

民主主義という制度にこれまで疑問を呈したことはなかった。良いものだと思っている。しかし、それは複数の前提が満たされなければ機能しない仕組みだ。

例えば、昔のように100人とか300人くらいの組織であれば、同じような経験を積んだ人たちの間で、議論が成立していた。議論する内容に対して参加者の全員に共通認識があり、言葉も噛み合う。だからこそ、合議制は理想的で現実的だった。徐々に、組織の規模が1,000人を超え、あるいは国全体が数千万人規模になると、全員が同じ土俵で議論するのは難しくなる。そこで、代表者を選び、その代表が議論して物事を決める、いわば代議制民主主義という制度が整いはじめた。

ただ、ここでも問題が起こった。代表として選ばれた人たちが、「自分たちこそが物事を決める存在だ」と錯覚し始めるのだ。ただこれは選んだ側も悪い。どこかで、「あいつに任せておけば大丈夫だろう」と思考停止するからだ。代表制はいつしか形骸化し、議論のない合意だけが進んでいく。

そして気がつけば、「選ばれた少数者の発言は素晴らしい」「彼らの言うことに従っておけばいい」という空気が支配するし、異を唱えるものも、不平はいうが自ら手を上げて政治の世界に参加する動機にまでは至らない。そして全体主義の入り口に突入する可能性が高くなる。

この構造、今の日本にも見える気がする。

かつての自民党は、一強ではあっても、党内で複数の派閥があり活発な議論が行われ、さまざまな立場からの政策提案があったように思う。当時は、保守の中にすら多様性があり、利害を調整する機能が働いていた。ところが今は、自民党の中で議論が表に出ることが少なくなった。多くの議員は、自分が次の選挙に当選することが主眼になっており、国策を議論する国士はほんのわずかしか見えないと思う。

一方で野党はといえば、与党の失策を指摘するばかりで、現実的な対案を示すことが少ない、或いは無い。国民の多くも「どうせ変わらない」という前提になり、投票に行かない。行く人ですら、直前の雰囲気やなんとなくのイメージで候補者を選んでしまっている。

米国では、民主党と共和党の二大政党が激しく対立し、政策も定期的に揺り戻される。けれど、今やその争いもエンタメ化し、「どっちが正しいか」ではなく「どっちが共感できるか」「どっちが好きか」といった次元の争いになってきているように見える。金持ち側と一般・貧困層との戦いにすら見えてしまう。

韓国もまた、民主主義が一見機能しているようでいて、実は極端な揺れを繰り返している国だと思う。政権が保守と革新で交互に入れ替わるが、そのたびに前政権のスキャンダルや腐敗を徹底的に断罪し、逮捕や弾劾にまで至るケースが目立つ。朴槿恵(パク・クネ)政権しかり、李明博(イ・ミョンバク)政権しかり、過去の大統領の多くが退任後に何らかの責任を問われている。

一見すれば「政治の透明性が高い」と見ることもできるが、その一方で、政治の対立が司法にまで及び、感情的な報復合戦のような構造ができてしまっている。政策よりもスキャンダルの応酬が目立ち、結果として国民の分断が深まっている。韓国の民主主義は、「参加意識が高く、熱量もある」のに、そのエネルギーが健全な議論よりも対立の拡大再生産に向かいやすい土壌を持っているように思える。SNSでの政治的発言も非常に活発で、選挙も接戦になりやすいが、その一方で「勝った側が徹底的に負けた側を否定する」構図が常態化しているのだ。

これらもまた、民主主義のもう一つの落とし穴かもしれない。制度としての民主主義が整っていても、議論と対話が不在なまま感情で政治が動きすぎると、結果的に民主主義が破壊的に使われるのだ。

そんな中でも、僕が注目しているのはスイスの政治制度だ。スイスでは、年に何度も国民投票が行われ、地方単位での自治や議論の文化が根付いている。少数民族国家で、言語も宗教も違う人々が共存するこの国では、最初から「違いを前提とした議論」が不可欠だったのだと思う。山に囲まれた地形や、中央集権が育たなかった歴史背景もあるだろう。小さな共同体ごとに意見を出し合い、合意を探るしかなかったのだ。それが熟議民主主義として定着したのだろう。つまりスイスは、「違いを超えるために議論せざるを得なかった国」なのだ。

一方で日本は、島国で周囲を海に囲まれた地理的特性のお陰で、比較的同質的な文化と価値観を背景にしてきた。明治維新以降は中央集権型に突き進み、「上が決め、下が従う」仕組みが当たり前になったと思う。空気を読む文化、忖度、周囲と同じ意見を表明することの安心感。これらは民主主義にとって決してマイナスばかりではないが、議論を必要としない社会を温存する構造にもなっている。

結局のところ、民主主義の制度それ自体が悪いのではなく、そこに関わる人間の態度が問われているのだ。特に、過去の過ちを正面から見つめて、修正しようとする姿勢が失われたとき、民主主義は一気に堕落する。「間違いがあった」と言えなくなる。「修正すべき」と言う人を排除するようになる。歴史や失敗をなかったことにして、都合のいい物語だけが語られるようになるからだ。全体主義が生まれる最も大きな条件はここにあるのでは無いだろうか。

もちろん、他にもある。たとえば、「数が正義だ」という誤解が広がったときだ。民主主義は多数決のルールで動くが、それはあくまで最後の手段に過ぎない。少数意見を丁寧に扱い、納得解を探していくプロセスこそが本来の民主主義だ。でもそれが軽視され、数だけで押し切るようになると、暴民政治になりかねない。

また、国民が思考を手放して「誰かに任せればいい」と思い始めると、独裁の土壌ができあがる。カリスマ性のある人物が現れて、「この人が言うなら間違いない」と信じてしまう。そこに異論を唱えると、「反日だ」「反国家的だ」とレッテルを貼られるようになる。これはすでに、民主主義とは呼べない。

さらに最近では、SNSやAIを使った情報操作、偽情報の蔓延も問題になっている。リテラシーがない人はすぐに騙されてしまうし、信じたい情報しか信じない人が増えてしまうと、社会全体の分断が加速する。ファクトチェックも重要だが、それを「誰がやるのか」が難しい。アメリカでは裁判官を大統領が任命する。その裁判官が判断する「真実」に偏りはないのか、という疑問もある。つまり、「正しさ」を決める権力自体が、いつしか危ういものになるのだ。

結局のところ、完璧な制度は存在しない。だからこそ、その都度、状況に応じて柔軟に運用し直すことが大切なのだと思う。でもそれを忘れて、「これが絶対に正しい」と思い込んだ瞬間に、人は制度ではなく「正義」を信じるようになり、そこから絶対主義が始まるのではないだろうか。

ところで、こうした民主主義の劣化や絶対主義への滑落の構造は、国家レベルの話だけではないと思う。むしろ、そのミニチュア版は日本企業の組織の中にも、あちこちに潜んでいるのと。

たとえば現場で若手が議論を重ね、新しい提案を出しても、上層部は「はいはい」と聞き流すだけで、実際には何も動かない。声を出す人が損をする。形式だけの会議、聞くふりをする上司、そして疲弊して沈黙していく若手。極端に書きすぎている面もあるが、そんな構図を想像することが容易に出来た読者は、一定数いると思う。

最初は議論があったかもしれない。けれど、それが無視され続けると、次第に誰も意見を言わなくなる。やがて上の意向だけが通るようになり、それに従わない者は排除される。こうした流れは、組織の中でも立派な「小さな全体主義」だと思う。何より怖いのは、若い人のエネルギーが音を立てて失われていくことだ。「言っても無駄」「どうせ変わらない」――そう思わせた時点で、その組織はゆっくりと、けれど確実に衰退の道を歩み始める。

民主主義とは、大声を出すことではない。正解を知っているふりをすることでもない。違う意見を受け止め、過去を修正し、議論を通じて何度も立ち返る力のことだ。それは国家でも、会社でも、同じことだと思う。



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