早嶋です。約3000字です。
2025年、日本円は再び150円台前後で推移している。多くの人々は声にしないが、どことなく不安を持っていると思う。賃金は長く上がらなかった。物価はじわじわと上がり続けている。実質的な生活水準は目に見えて落ちているように感じる。外の国を見渡せば、買い物天国日本にこぞって押しかけてくる。なんだろう、どうなっているのだろう・・・。
当然、その矛先は政権に向かう。「石破政権は大丈夫か?」と。しかし、上述の問題の原因は石破氏の登場前の政策の結果だと思う。過去の政策の検証と誤りを指摘せずに政権を運営している点が僕は行けていないと思うのだ。今の経済状況は、過去の選択の集積として、今を形作っているだけなのだ。
(金融緩和依存と冷えた消費マインド)
2010年代のアベノミクスは、大胆な金融緩和を掲げ、市場に大量の日本円を供給し、金利を限りなくゼロに近づけた。政府・日銀の狙いは明確だった。金利を下げれば住宅ローンやカーローンが活発になり、企業は借り入れを増やし、設備投資も雇用も拡大する。そうすれば経済は回るはずだと。しかし実現しなかった。
理由は、社会構造と価値観に変化が起きなかったことだと私は思う。IT化の進展により、豊かさを感じるために必ずしも「大きな消費」が必要ではなくなっていた。スマホ1台あれば音楽も映画も会話も仕事もできる。昔のように「車を買って、家を建てて、家電をそろえる」というライフスタイルが当たり前ではなくなっていたのだ。
さらに、住宅ローンなどの長期借入に対して、人々の心理は極めて慎重だった。少子高齢化、年金制度への不信、将来の税負担増。先が読めない時代において、30年ローンを組むことは、大多数の生活者にとってリスクに映った。結果として、金利をいくら下げても、消費も投資も思うように伸びなかった。
そこへ追い打ちをかけたのが、いわゆる「2000万円問題」だ。2019年、金融庁が出した報告書には、老後30年間で年金以外に約2,000万円の生活資金が必要というシミュレーションが掲載された。これはあくまで一例にすぎず、すべての世帯に当てはまる話ではなかった。公的年金を夫婦で受給している生活で追加で2000万円あれば、一定のゆとりある生活を送ることができるという目安が示された。あくまでも補足的な金額を示していただけなのだ。
だが、メディアが「2,000万円」の数字だけを切り取り、不安を煽る形で報じた結果、多くの国民が「老後破綻」「年金崩壊」と受け取った。誤解と恐怖が一気に拡散され、消費はますます冷え込み、貯蓄志向は一段と強まったのだ。金融緩和で供給されたマネーは、経済を回すどころか、「不安」というブラックホールに吸い込まれて貯蓄にとどまり経済を回すガソリンにはならなかったのだ。
(3本の矢の内の2本)
アベノミクス本来の姿を思い出してほしい。「3本の矢」と呼ばれたその戦略は、上述した金融緩和だけではなく、機動的な財政出動と成長戦略を含んでいた。ところが、実際に矢を放たれたのは、第一の矢だけ、つまり大胆な金融緩和ばかりだった。
第二の矢である財政出動は、当初こそ公共事業などで一定の景気刺激を行ったが、やがて「財政健全化」の名のもとにブレーキがかかった。プライマリーバランスの黒字化目標が掲げられ、むしろ緊縮に近い状態へと転じていったのだ。
さらに致命的だったのは、第三の矢だ。成長戦略と構造改革が、十分に実行されなかったことだ。労働市場改革や規制緩和、地方創生、教育・子育て支援など、多くの項目が掲げられたが、いずれも断続的かつ中途半端な改革にとどまり、社会の構造を変えるには至らなかった。
単なる景気対策ではなく、「構造転換」により中長期的な成長力を取り戻すという思想。まさに思想で終わって行動に移されなかった。理由は、「利害関係者が多すぎた」ことだろう。とくに既存の経済団体(経団連、業界団体、大企業、農協、医師会など)にとって、構造改革は自分たちの特権や既得権益を手放すことに直結すると捉えられた。しかも自民党にとってはその経済団体は票田でもある。アベノミクスを掲げた時点で強い抵抗があることは分かっていたただろうが、そこに舵を切りきれなかったのが現実だった。そのため金融緩和で株価を上げ、見かけの景気回復は演出されたが、実体経済の構造は何も変わらなかった。中小企業の生産性格差、労働市場の硬直性、IT化・DXの遅れ、地方の衰退は放置されたままだったのだ。
(政治不信という構造的問題)
政治不信は経済政策に加えて、身から出たサビでもある。安倍政権期に起きた一連の不祥事。学校法人への優遇、宗教団体との関係、そして政治資金の不透明さ。これらが積み重なった結果、自民党は信頼できない政党という印象が、じわじわと国民の記憶に定着した。特に、若い世代に対しての説明が有耶無耶にされた印象だ。
そして問題は、これが払拭されないまま次の政権にバトンが渡ったことだ。そのため石破氏が首相に就いても、高市氏が仮になっていたとしても、おそらく同じように政治不信は尾を引いただろう。むしろ「政党そのもの」への信頼が揺らいでいて、過去の政策と政治家の一連のゴタゴタに対して実際の検証やファクト整理を怠ったまま、政治を続けた結果が今なのだ。
だからこそ、2025年までに起き続けている円安、消費停滞、実質賃金の減少、つまり経済停滞を、石破政権だけの責任とするのはフェアではない。もはやこれは「一つの政権」の問題ではなく、「過去十数年の選択」のツケなのだ。
今、みんなで一斉に犯人探しをしているが、根本的な認識の違いがある。皆、「誰かのせいにしてしまう」構造だ。円安になったのは日銀のせい。給料が上がらないのは政府のせい。将来が不安なのは制度のせい。たしかに、制度設計の失敗や政治の未熟さは上述して指摘した。だが同時に、私たち一人ひとりが、変化を拒み、リスクを避け、安心に逃げてきたという側面も否定できない。リスクをとって挑戦し、未来を描くことを「自分には関係ない」として行動していない結果が今にある。構造的問題とは、「誰かの責任」ではなく「社会全体が選んできた結果」だ。
(でも、正論は通じない・・・)
だが、ここでいくら正論を掲げたところで、ムーブメントは止まらない。一度「すべては外のせいだ」と思い込んだ国民は、世界との接点を断ち切るように、「やはり我々は自国中心に生きるべきだ」という物語にすがりたくなる。
この動きは、イタリア(メローニ政権)、フランス(極右の台頭)、ドイツ(AfDの伸長)、アメリカ(トランプ現象)でも観察される。どの国でも、グローバル化の恩恵を受けられなかった層が、国家という「分かりやすい単位」に安心を求める。グローバリストは敵であり、リベラルは信用できない。信じられるのは、声の大きなナショナリストだけ。そんな構図が民主主義国家の中で定着しつつある。
そして最も効果的なのは、「複雑さを語らずに、わかりやすさを叫ぶこと」だ。印象、感情、空気。そうしたものに従って判断する層に対して、敵と味方を単純に分け、繰り返し、繰り返し、同じフレーズを浴びせる。それが受け入れられた瞬間、メディアの空間は染まり、そのリーダーが政治を動かし始めるのだ。
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