
最近の考古学研究の成果
2025年5月5日
早嶋です(約1万文字)。
大和王権は奈良纏向遺跡がスタートとされているが、実際は複数の地域国家が緩やかに形成され、結果的に権力を勝ち得たと見たほうが正しいと思う。当時、全国には地方の豪族がいて、それぞれに前方後円墳なり文化を形成している。炭素の減衰期間を使った測定だと纏向より古い古墳が多数ある。大和に権力が集中する過程で、今のストーリーが作られたのだろう。
(纏向遺跡と大和王権)
現在の通説だ。奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむく)は、3世紀前半から中頃にかけて急速に発展した大型の集落遺跡で、「卑弥呼の宮殿跡ではないか」とも言われる。近くには箸墓古墳(全長約280mの前方後円墳)があり、これが最古の大型前方後円墳とされ、大和王権=ヤマト政権の始まりと結びつけられている。だが、反論も多い。九州の吉野ヶ里や筑紫平野の遺跡は、纏向より古い層を持つ複合遺構を持っており、倭国の中心はむしろ西にあったと見る説もある。放射性炭素年代測定(炭素14)によると、東日本や北部九州などにも纏向と同時期あるいはそれ以前の前方後円墳や類似した権力構造の痕跡があるのだ。
前方後円墳は畿内を中心に、4世紀以降は全国に波及しているが、これは「中央政権に従属した印」だという見方(=ヤマト王権の覇権)と、「地方豪族が独自に王権と関係なく築いた」という説がある。たとえば、東海地方(愛知など)や北陸、東北南部にも、4世紀以前の古墳が見つかっており、畿内中心史観に疑義を投げかけている。これらを踏まえると、大和に「一元的に」権力が集中していたのではなく、ゆるやかなネットワーク型の「王権的連合体」と考える方が自然かもしれない。
私は、「今のストーリーが作られた可能性」という点を支持している。理由は、『古事記』『日本書紀』は、8世紀にヤマト王権が自らの正当性を記すために編纂した歴史書であり、政治的意図が色濃く反映されているからだ。後世において「ヤマトがすべての始まりであり、そこに正統性がある」と描かれた可能性が高いのだ。
(各エリアの特徴)
福岡、宮崎、熊本、岡山、出雲、淡路島、徳島、奈良、東北。これらのエリアでそれぞれの特徴をみてみよう。各地域の古墳や古代権力構造の視点から、それぞれの特色をみると、纏向中心の単一王権起源説では説明しきれない、多元的な「王」や「クニ」の痕跡が浮かび上がってくる。
まずは、福岡筑紫エリアだ。吉武高木遺跡、板付遺跡、須玖岡本遺跡など、弥生後期からの高度な集落遺構が集中している。いわゆる奴国(なこく)があった地域だ。後漢書にも記録され、金印(志賀島出土)がその証左だ。古墳も早期から存在し、大和に先行する都市的権力があった可能性が高い。
次に、宮崎西都原エリアだ。西都原古墳群は、300基超の古墳があり、5世紀前半には前方後円墳が集中している。古墳の規模・構造から中央との密接な交流も指摘されている。しかし、独自の豪族連合が存在していた可能性も高く、「日向神話」の地でもあり、記紀神話の「建国神話」とリンクして後付けされた可能性が高い。
熊本菊池阿蘇エリアだ。江田船山古墳(玉名市)は有名な鉄剣が出土している。「獲加多支鹵大王」の銘がある鉄剣だ。大和王権と結びつくが、九州における独立した有力豪族の存在も裏付けられる。火山地帯ゆえの閉鎖性と、九州北部との交流性の両面を持つと思う。
岡山吉備エリアだ。造山古墳(全長350m超)は全国第4位の巨大前方後円墳だ。畿内以外では最大だ。吉備の勢力はヤマトに匹敵する「もう一つの王権」として知られている。記紀では「温羅伝説(鬼退治)」として描かれ、吉備を征服した話があり、後から大和によって「敵視・統合された」痕跡が見える。
島根出雲エリアだ。古墳時代以前からの出雲大社(杵築大社)の存在は、宗教的中心としての重要性を示す。出雲地方の古墳は前方後円墳もあるが、独自形状も多い。ヤマトに対して「異質な王権」があったと推測される。そして『出雲国風土記』は記紀とは違うローカルな神話構造を持っている。
淡路徳島エリア。淡路島には王墓と推定される古墳があり、ヤマト王権との地政学的な中継地点としての役割が指摘される。記紀でも「国生み神話」の重要な舞台とされるが、実際には中継地=交易・外交の拠点だった可能性が高い。徳島(阿波)には弥生後期から古墳前期の遺跡が点在し、「阿波忌部」など古代氏族との関連も濃い。
奈良大和エリア。纏向遺跡・箸墓古墳を中心とする巨大古墳群が多数存在する。記紀と考古学のストーリーが最も整合している地域だ。だが、最初から中央だったとは限らず、他の勢力との統合・連合・征服を経て中核化した可能性がある。「記紀の正統史観」はここから発信されているのだろう。
そして、東北エリアだ。実は、ここだけまだ行ったことがなく、読み物や他者の話での記述になるが、同様に地域の別文化の豪族が既に居たと考えて良いと思っている。前方後円墳も4世紀末以降に出現しているし、特に南東北(福島)には中央との交流の痕跡が見られるそうだ。一方、「蝦夷(えみし)」という独自文化圏が長く続き、古墳の形状も独特だ。ヤマト王権の影響が及ぶのは限定的だと言われている。縄文からの連続性を重視する説では、「別系統の文明圏」という評価もある。
この分布を見るだけでも、大和一元説は明らかに物足りないと感じるだろう。「連合王権・複合権力モデル」の方が整合性があるのだ。現代に至る中央集権体制の原型を作るにあたって、「歴史を編集した」可能性は極めて高いと思う。
(記紀の神話と各エリアにおける考古学的な矛盾や相違)
記紀(『古事記』『日本書紀』)に記される神話や歴史的記述と、福岡・宮崎・熊本・岡山・出雲・淡路島・徳島・奈良・東北の各地域における考古学的な発掘成果を照合し、矛盾点や相違点を洗い出してみる。地域ごとに、記紀に登場する内容と考古学的証拠(古墳・集落跡・遺物・年代など)を対比し、考古学的に裏付けられない記述や、大和中心史観との齟齬を詳しく検証する。
(福岡地域の矛盾点)
福岡は、記紀神話では神功皇后の三韓征伐や磐井の乱など、ヤマト王権と九州勢力の関係が語られる土地だ。『日本書紀』は6世紀初頭、筑紫君磐井がヤマト王権に反旗を翻し、最終的に鎮圧された「磐井の乱」を大反乱として描写している。一方、『古事記』では磐井の乱は小事件として簡略に触れられるに留まる。また、福岡は神話時代において天孫降臨の出発地・日向の近隣として重視され、『日本書紀』では神武東征の起点は「筑紫の日向」とされている。
考古学的な証拠を洗い出して見る。磐井の乱に関する物証として、筑紫君磐井の本拠地とされる福岡南部では、6世紀前半に有力な地方豪族の存在を示す古墳(代表例:岩戸山古墳)や集落遺跡が発見されている。しかし、その規模やヤマト王権との関係を見ると、磐井勢力は既に一地域政権として確立し、ヤマト朝廷と対等の独立性を持っていた可能性がある。つまり、記紀がいう「反乱」ではなく、地域国家間の戦争と解釈できるのだ。金印の存在も重要だ。福岡の志賀島で見つかった「漢委奴国王印(金印)」は、西暦57年に漢の光武帝から授与されたものとされ、日本列島の早期の国家形成を示す重要史料だ。しかし、記紀にはこの史実が一切言及されていない。後漢書に登場する倭国王の朝貢記事と記紀の沈黙は、記紀の記述年代(1~3世紀)のズレを示している。福岡平野は板付・板付遺跡などに代表される縄文晩期から弥生初期の水稲農耕発祥地であり、日本列島最古級の環濠集落・水田跡が集中する。しかし記紀神話では、この地の繁栄や文化的先進性には触れず、あくまでヤマト中心の歴史観で描かれている。この点で考古学が示す北部九州文明の独自性と記紀の従属的描写との間にギャップが存在するのだ。
(宮崎地域の矛盾点)
宮崎(特に日向)は、神武天皇の東征における出発地として記紀に登場する。高千穂峰は『日本書紀』で天孫降臨の地とされ、ニニギノミコトやホデリ・ホオリ兄弟の神話が展開する舞台だ。また、神武東征では「日向三代」の後、神武が日向を出発し大和建国へ旅立ったとされる。
考古学的証拠だ。西都原古墳群の時代。宮崎県西都原には全長200メートル級の前方後円墳を含む日本有数の古墳群(311基)が存在し、その造営は4世紀後半から6世紀にわたる 。規模や数から見て、この地にはヤマトと並ぶ有力勢力があったことがわかる。しかし記紀は宮崎の古墳文化について言及せず、あくまで神武以前は「日向三代」(山之頂上の神話的統治)という断片的記述しかないのだ。神話と遺跡の食い違いもある。 ニニギノミコトとコノハナサクヤ姫の結婚伝承は宮崎各地に伝承地がある一方で、縄文から弥生移行期の遺跡や出土品(酒器や石製品)からは外来文化の波及が示唆されている。記紀神話に描かれた天津神系譜と、遺物が示す文化交流の実態に乖離があるのだ。宮崎には「記紀の道(ききのみち)」という西都原古墳群周辺の伝承地を結ぶ散策路が整備され、記紀神話と古墳文化の関連を示す試みがなされている。しかしこれは近年の観光整備で、実際には古墳時代の宮崎勢力と記紀神話のつながりは明確にされていない。むしろ、伝承と考古学成果を強引に結びつけている面があり、史実との矛盾が潜んでいる。
(熊本地域の矛盾点)
熊本(肥後・火国)は、記紀ではあまり詳細に語られていないが、神武東征の途上で熊野(現在の和歌山)に至るまでに九州から離脱する地域の一部として触れられている。また、熊本を含む九州南部には古代豪族「熊襲(くまそ)」や「隼人(はやと)」が居住し、ヤマトに従わない勢力として描かれている。『古事記』では景行天皇が熊襲征伐を行い、熊襲建(くまそたける)の討伐譚が有名だ。
熊襲・隼人の実像。南九州から熊本にかけての考古学調査では、大和とは異なる文化を持つ人々の痕跡が見つかっている。隼人の本拠である鹿児島や熊本南部では、独特の土器様式や墳墓(地下式横穴墓)が発掘され、これらはヤマト系文化とは連続性が薄いことが判明している。つまり、熊襲・隼人は単なる伝説上の「賊」ではなく、別系統の文化集団だったと考えられる。記紀では彼らを「土着の反逆者」と描くが、考古学的には在地勢力としての独立性が浮かぶ。熊本の江田船山古墳を中心に装飾古墳文化を観察出来る。鉄刀や装飾品(銀象嵌銘文の大刀など)が多数出土しており、5世紀頃にヤマトと深く関わる豪族の存在が確認されている。一方、記紀で熊本の豪族がヤマト政権中枢に影響を及ぼした記述は希薄だ。この点は、考古資料が示す連合政権の広がりと、記紀の中心地偏重の記述との矛盾だ。
8世紀に大隅隼人が起こした反乱(720~721年)は『続日本紀』などに記録され、最終的に隼人は平定されたが、その背景には隼人独自の文化とヤマト朝廷の緊張関係があった。記紀編纂時(8世紀)には既に隼人征討が完了していたため、神話・伝承内で熊襲や隼人が「征服されるべき敵」と描写されているのだ。しかし、考古学的には隼人社会の高度な武力と自治性が窺え、記紀の従属的描写とのギャップが明らかだ。
(岡山吉備地域の矛盾点)
岡山周辺の吉備国は、記紀ではヤマト王権と対等する有力地として間接的に登場する。例えば崇神天皇紀における四道将軍の派遣では、吉備を平定し服属させたと記され、雄略天皇期には「吉備田狭の乱」(463年)や吉備上道弟君の乱(479年)が記録されている。さらに吉備出身の吉備武彦や吉備氏族の娘が皇妃になる伝承など、ヤマトに統合される様子が描写されている。
吉備地方には、造山古墳(全長約350m)や作山古墳(同282m)など、国内でも最大級の前方後円墳が存在する 。これらはヤマト(奈良盆地)の最大古墳に匹敵し、4世紀後半~5世紀の築造と推定される。記紀の中では吉備の勢力が大和に服属するかのように書かれる一方、考古学的にはヤマト王権と肩を並べる勢力が吉備にあったことが明確だ。吉備は古代、日本有数の鉄生産地で、弥生後期から製鉄や製塩で繁栄したことが遺跡から判明している。特に製鉄技術はヤマト王権の軍事力に直結するため重要だが、記紀では吉備が鉄資源を握る強国であった事実に触れず、単に服属させられた地方としている。記紀のナラティブではヤマト中心だが、物証は吉備の経済的独立性を示唆している。
吉備氏族には大和朝廷に重用された者も多く(例:吉備臣、吉備真備)、中央政界で活躍している。しかし、記紀における天皇系譜には吉備の王は現れず、あくまでヤマト天皇の遠征や妃取りの対象として描かれた。考古学的には吉備各地のクニ(国造制以前の首長国)の存在が認められ、吉備内に複数政権の並立があった。記紀は統一的視点で吉備を扱うが、実際には内部多元的な政治構造があった点が矛盾している。
(出雲地域の矛盾点)
出雲は、神話における中心舞台の一つだ。『古事記』上巻の約1/3は出雲神話で占められ、須佐之男命の退避と大国主命の国造り、そして国譲りの物語が有名だ 。記紀では出雲の大国主神が天照大神の使者に国を譲り、以後出雲国造は天皇家に従属する立場になったと描かれている。また、大国主神を祀る出雲大社の創建も、国譲りの代償として述べられている。
四隅突出型墳丘墓と文化圏としての出雲。出雲地方には古墳時代以前(弥生後期)に特徴的な四隅突出型墳丘墓が分布し、これは北陸地方まで広がる独自の埋葬文化だ。ヤマト圏とは異なるこの墓制は、かつて出雲が日本海側一帯に強い影響力を持つ文化圏を形成していたことを示す。記紀神話の「国引き神話」は、この広域文化圏の記憶を投影したものと考える説もある。しかし記紀本文では具体的な出雲勢力の広がりは語られず、考古学的証拠との間に解釈の差がある。
荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡からは、大量の銅剣・銅鐸・銅矛が出土し、弥生時代の出雲が青銅器祭祀の一大中心地だったことが判明した。これらは1980年代以降の発見で、記紀は青銅器祭祀に関する直接の言及をしていない。大国主命や少彦名命の神話はあるものの、出土遺物が示す実際の宗教的繁栄ぶりとの間に大きな隔たりがあるのだ。考古学的・文献的研究から、古代出雲は東部(鉄器生産中心)と西部(青銅器中心)の二大勢力が併存し、その後統一政権化したとの見解がある。出雲大社の祭祀を代々担う出雲国造家は天穂日命(天照大神の子)の後裔と伝えられ、皇室と同格の古い系譜を誇る。これは、ヤマト王権に先行する在地豪族の長寿な統治を示唆するが、記紀では国譲りによりヤマトに従属したとされる。この在地の独立性の長さと記紀の従属化物語に齟齬が見られるのだ。
(淡路島の矛盾点)
淡路島は、『古事記』冒頭の国生み神話で日本で最初に生成された島とされる。イザナギ・イザナミの二神が天沼矛で海をかき混ぜ、生み落とした最初の島が淡路島(淡路穂狭別島)だ。その後も神武天皇の東征において、速吸門(明石海峡)や紀伊半島渡航の過程で地理的に重要な位置に言及されるが、淡路島自体の具体的な歴史事件は記紀にほとんど登場しない。
淡路島には5世紀代の前方後円墳(例えば石神古墳など)が複数あり、ヤマト王権と連携した豪族の存在が示唆される。また、弥生時代の大規模集落跡(五斗長垣内遺跡など)や銅鐸出土(松帆銅鐸など)の成果から、淡路島は古代に瀬戸内海交易や祭祀の拠点であったことが明らかだ。しかし、記紀にはこれら考古学的に重要な遺構の存在が一切記載されていない。
考古学者は、淡路島が「海人族」の活動拠点であり、古代国家の水軍・航路維持に重要だったと指摘している 。例えば製塩土器や漁具の出土から、海上技術者集団の足跡が確認できる。しかし記紀神話では、淡路島は神々の創生の象徴としてのみ登場し、古代国家を支えた海人の実態が描かれていない。これにより、神話上の淡路島と遺跡が語る現実の淡路島に乖離が生じている。
記紀において淡路島は、国生みで最初に生まれた特別な島でありながら、その後の時代区分では大和政権の一部として平板に扱われる。しかし、考古発掘では淡路島がヤマトと瀬戸内海沿岸をつなぐ海路の要衝であった形跡が多く見つかっている。ヤマト政権は淡路の海人勢力を取り込んで覇権を拡大したと推測されるが、記紀にはそのプロセスは描かれず、神話から唐突に律令期の行政区画に組み込まれているのだ。
(徳島地域の矛盾点)
徳島(阿波国)は、記紀には直接的な神話こそ少ないものの、古事記に登場するオオナムヂ(大国主)の御子神の一柱に阿波に関係する神(八多八代神)が見えたり、『日本書紀』景行天皇紀に日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途に阿波津(現在の徳島付近)に立ち寄る記述がある。しかし全体として、阿波や四国の活躍は記紀ではあまり強調されていない。
徳島平野や吉野川流域では、縄文後期から弥生前期に北部九州系統の土器が出土する遺跡が多く、早い段階から稲作文化が伝わっていたことが判明している。また古墳時代には前方後円墳(八倉比売山古墳など)が築造され、畿内ヤマト政権と交流・同盟関係にあった在地首長の存在が示唆される。しかし、記紀は四国の古代勢力に関する言及がほぼなく、これら考古学的証拠との間に大きな情報量の差があるのだ。
阿波には独自の豪族連合があった可能性が指摘されている。『風土記』の逸文などからも阿波の国造や地方伝承が存在したことが窺えるが、記紀では大和朝廷の視点から四国全体が語られ、阿波の政治的主体性は描かれていない。考古学では、吉野川流域の集落規模や副葬品から、ヤマトと緊張関係にあった勢力もあり得ると推測される中、記紀にはそうした衝突や対等交渉の痕跡が見当たらないのが矛盾する点なのだ。
瀬戸内海沿岸として、阿波もまた海上交通の要衝だった。遺跡からは九州・近畿双方の土器や鉄器が見られ、交流のハブとして機能していたことが伺える。しかし、これほどの交流拠点であったにも関わらず、記紀では阿波に関するエピソードが極端に少ない。国家形成期における海路の重要性を考えれば、明らかに史書の記述が不足している。記紀編纂者が四国方面の伝承を軽視・取捨選択した結果と考えられ、考古学が明らかにした広域ネットワーク像と合致しないのだ。
(奈良大和地域の矛盾点)
奈良(大和)は記紀の舞台そのものだ。神武天皇の大和建国から始まり、以降の天皇系譜や政治事件の中心地だ。記紀は基本的にヤマト朝廷の正統性を語る史書で、大和については詳細で都合の良い記述がなされている。たとえば、神武東征では長髄彦ら土着勢力を破り畝傍山東南に橿原宮を開く話、崇神天皇期以降の条では大和を起点に各地へ将軍を派遣し平定する物語などだ。
奈良盆地には最古級の大型前方後円墳である箸墓古墳(3世紀中頃か)がある。考古学者の多くは箸墓古墳を邪馬台国女王・卑弥呼の墓と関連付けているが、記紀には卑弥呼に該当する人物の記述がないという重大な矛盾があある。中国の史書『魏志倭人伝』に詳しい3世紀の女王卑弥呼の統治と、大和朝廷の初期天皇(神武~開化天皇あたり)の年代は合っていない。記紀編纂者は卑弥呼を無視または別名に置き換えた可能性が指摘されているが、考古学・文献学からは3世紀の大和に女性支配者がいた可能性が高いのだ。この点は記紀と真実の歴史の最大の食い違いの一つだ。
大和の古墳年代測定によれば、初期ヤマト政権の成立は3世紀後半から4世紀初頭と考えられる。しかし、記紀の年代では初代神武天皇即位を紀元前660年とし、初期天皇が数百年にわたり存在したとされる。これは明らかに考古学的編年と合致せず、神話的潤色だ。前方後円墳が各地に普及する時期(4世紀)と記紀の崇神・垂仁朝あたりを対比すると、その齟齬が顕著となる。
奈良盆地でも、ヤマト政権成立前に独自の勢力や集落があった。纒向遺跡(まきむく、現桜井市)は邪馬台国との関連が論じられる3世紀の巨大集落跡で、各地の土器や交易品が見つかる連合的祭祀センターだった。記紀はこの纒向文化について何も触れず、神武の建国物語から一気に大和朝廷の話へ進む。つまり考古学で極めて重要な纒向遺跡の存在(邪馬台国中枢の可能性)を、記紀は全く伝えていないのだ。何か不都合があったのだろう。
ヤマト政権内でも有力豪族(葛城氏・平群氏・物部氏など)が権勢を誇り、古墳を築いた。しかし記紀はそれら豪族の繁栄や対立について制限的にしか記さず、天皇中心史観に沿って整理している。考古学では、巨大古墳の被葬者が必ずしも天皇ではなく地方豪族・宗族である例が多く、ヤマト内部の権力多元性を示している。この点、記紀の単線的皇統譜と合致しない。
(東北蝦夷地方の矛盾点)
東北地方は、記紀の時代には「蝦夷(えみし)」の地として知られる。『日本書紀』や続日本紀では、朝廷が東北へ兵を送り「蝦夷征討」したことが記され、桓武天皇の時代(8世紀末)に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり蝦夷平定を進めた話が有名だ。しかし、記紀自体(8世紀初頭成立)は蝦夷について断片的な言及しかせず、古代の東北は「化外の地」と位置づけられている。また、アラハバキ神など東北独自の伝承は記紀には現れない。
東北北部から北海道にかけては、弥生時代に稲作農耕文化が限定的で、土着の続縄文文化や独特の土器(擦文文化への移行期)が継続していた。考古学的に見ると、古代東北の住民(蝦夷)は文化的には和人とは異なるが、アイヌの祖先とも断定できない混在集団だった。記紀は東北を一括して「エミシ」と呼ぶが、考古学は地域ごとの多様性を明らかにしており、記紀の単純化とは合致していない。
7から9世紀にかけ、朝廷は多賀城(宮城)や秋田城などの城柵(じょうさく)を東北に築き、軍事・行政拠点とした。これらの遺跡からは役所跡や大量の木簡が出土し、ヤマト政権の統治が及んでいった実態が判明する。しかし、その過程は主に『続日本紀』『日本後紀』などで記録され、記紀の範囲外だ。記紀では垂仁天皇や景行天皇の時代に東北遠征神話(四道将軍の派遣)を仄めかす程度で、考古学が証明する律令国家の拡大過程とは時代も内容も整合していない。
注目すべきは、東北南部(宮城・福島)には5世紀以降、前方後円墳がいくつも築かれていることだ。ヤマト勢力が東北南端まで影響力を及ぼしたか、あるいは在地豪族がヤマト風儀礼を取り入れた証拠とされる。しかし7世紀以降、東北の古墳は衰退し、代わって平地や山間に横穴墓や無墳丘墓が現れる。これは東北がヤマトの直接統治下に入らず、独自の埋葬文化を保ったことを示している。記紀はこの変化を伝えず、終始「征服すべき蛮族の地」として概念的に扱っており、地域史の実態と記述にギャップがあるのだ。
(まとめ)
各地域の分析から浮かび上がるのは、『記紀』が8世紀初頭の中央集権国家(ヤマト朝廷)を正当化する史観に基づき、実際の各地の古代史を単純化・改変して記録しているということだ。その結果、考古学的発掘成果と以下の点で矛盾が生じている。まずは、年代のズレだ。記紀に記載の年代(神武紀元や天皇在位年)は考古学の編年と大きく食い違う。次に、記紀未記載の重要遺構についてだ。各地に存在する大規模遺跡・古墳・祭祀遺物(纒向遺跡、荒神谷遺跡、志賀島金印、淡路・阿波の銅鐸など)は記紀で全く触れられないか軽微な扱いになっている。そして、地方勢力の独立性と 記紀での従属描写が少ないあるいはないのだ。出雲・吉備・筑紫など、ヤマトと拮抗し得た地方政権の証拠があるにもかかわらず、記紀ではそれらを従属的立場や反逆者として描き、中央への服従を強調しているのだ。
以上の矛盾点は、最新の考古学研究によって次々に明らかにされている。一次資料としての発掘報告や年代測定結果、そしてそれらを踏まえた研究論文を参照することで、神話や伝承の陰に隠れた真実の古代史が浮かび上がりつつある。考古学と歴史学の学際的アプローチが、記紀の記述を相対化し再検討する契機となっていり。このような照合により、日本古代史の理解はより立体的で実証的なものへと発展している。実に興味深い。
新規事業の旅177 ポッドキャストの未来
2025年5月4日
早嶋です。(約1900文字)
(情報収集の変遷とポッドキャストの再来)
日常的な情報収集の方法は、この数十年で劇的に変化してきた。かつては、読書、つまりは活字による収集、が主流で、リアルな対話や現場での体験も重要な情報源だった。しかし、2000年頃からWebが市民権を得て、インターネットで調べるという行動が急速に一般化した。
さらに、2007年に登場したiPhoneによるスマート革命は、情報の扱い方を一変させる。スマートフォンの普及により、誰もがネットに常時接続し、即時に情報へアクセスできるようになったからだ。その後、SNSが登場し、文字だけでなく、写真、動画、音声といった多様な表現手段がネットの主役になった。
文章を読んで情報を得るスタイルから、動画や音声で理解するスタイルへと、情報消費の重心が移動していったのだ。文字による情報は、実のところスピードと密度という意味では非常に効率的であると私は思う。しかし、若者を中心に「文字を読まない」「読めない」傾向が強まり、結果的に動画が主流の情報媒体として台頭したのだ。
文章を求める場合は、若者の間ではX(旧Twitter)が主要な選択肢となっている。そして、スマートフォンとイヤフォンという組み合わせが日常化するにつれ、一時は過去のテクノロジーと見なされていたポッドキャストが、再び注目を集めるようになった。
(ポッドキャストの起源と復権)
ポッドキャストという言葉は、2004年頃に登場した。私はアップルが始めたと思っていたが、正確にはアップルが始めたサービスではない。しかし「Podcast」という名称は、「iPod」+「broadcast」を掛け合わせた造語で、iPodの普及とともに広まった経緯だ。その意味では、アップルの影響は大きかった。
当時、音楽を“所有”する文化から、インターネット経由で“持ち歩く”時代へと移行しつつあった。ソニーのウォークマンはカセットテープという物理的媒体に依存していたが、iPodは初期には内蔵ストレージ(HDD)に音楽を保存し、やがてネット接続によるストリーミングへと進化する。
この流れの中で、音楽の売り方も変わった。1曲100円〜150円で販売されていた音楽は、月額1000円程度の“聴き放題”というサブスクリプションモデルに収束していくのだ。これがSpotifyなどの登場と成功を支える土壌になったのだ。
(誰もがメディアになる時代)
現在では、SNS、YouTube、ポッドキャストといった多様な媒体が乱立し、プロ・アマ問わず誰もがメディアとして発信できる時代になった。スマートフォンひとつあれば、動画も音声も、簡単に世界中に届けることができる。つまり、私たちは「一億総ジャーナリスト」の時代に突入したのだ。世界に発信できるという観点からすると「80億総ジャーナリスト」の時代とも言える。
Spotify(こちらはスウェーデン発の音楽ストリーミングサービスで、2008年に正式サービス開始)が、ポッドキャストの配信機能を拡充し始めたのは2019年頃からだ。当初、自社アプリ内だけで完結する形だったが、やがてRSSを通じてApple PodcastsやAmazon Musicと連携できる仕組みを整えていく。
一方、YouTubeはもともと動画での情報発信に特化したプラットフォームであるため、音声のみのファイル(MP3など)を直接アップすることはできない。そのため、YouTubeでポッドキャストを配信する場合には、音声を動画形式(MP4など)に変換し、静止画と組み合わせて投稿するのが一般的な方法となる。
とはいえ、YouTubeもポッドキャスト市場に本格参入しており、2023年には「YouTube Podcasts」という機能を強化し始めている。ただし、SpotifyのようなRSS配信との連携は現時点では限定的だ。
(ポッドキャストの未来)
今後、ポッドキャストがさらに普及するにつれ、配信者側の「利便性」が競争力の鍵になる。RSSによって複数のプラットフォームに一括で配信できるSpotify陣営の方が、現時点では有利だ。
YouTubeがもし、音声コンテンツに対してRSS連携を許可するような仕様変更を行えば、状況は変わるだろう。しかし、それはYouTubeが今の“動画王者”というポジションを捨て、オープンな音声配信に踏み込む覚悟を示すことになる。
そう考えると、現時点ではSpotify陣営が「ポッドキャスト配信のプラットフォーム」としての覇権を握っていると見るのが妥当だ。
(ポッドキャスト配信)
アップルのポッドキャストはこちら。
アマゾンのポッドキャストはこちら。
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(過去の記事)
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「コンサルの思考技術」
「実践『ジョブ理論』」
「M&A実務のプロセスとポイント」
旧暦コラム 暮春の記憶
2025年5月1日
早嶋です。
旧暦三月十三日。春も終わりに向かう頃だ。昔の人は、この時期を「春惜しむ」と呼んだという。今日は、まさにそんな一日だったと思う。
妻と唐津へ出かけた。偶に通う料理教室に参加するためだ。教室は、地元の窯元とその旦那さんが営んでいて、庭や畑で採れた野菜と唐津の海の食材を使った季節の献立を習う。器も料理も、そしてそこに流れる時間も、すべてが手づくりだ。
今日は、蕗をご飯に混ぜた。炭と一緒に茹でてアクを抜き、丁寧に筋を取り、刻んで筍と一緒に炊いたご飯に混ぜる。ほろ苦くて、鼻に抜ける香りがよくて、春を名残惜しむのにぴったりの味だった。山椒の葉も、ちょうど柔らかい時期だ。摺鉢で丁寧に摺り、千鳥酢と和えて、備長炭で焼いたスズキに添えた。香ばしさと清涼感が交わり、スズキの旨味を引き立てた。外では鶯が鳴いていて、縁側から吹き抜ける風が心地よい。山の斜面には、大好きなあざみの花が咲いていた。
教室の帰り道、水が張られた田んぼが目に留る。山のかたちが水面に映っている。風が吹くたびに揺らめいている。田植えの準備が始まっているのだろう。自然の営みは静かだけれど、確実に次の季節へと歩みを進めている。春は終わる。でも、こうして春を惜しむ時間を重ねることで、心の奥に季節が残っていくような気がする。
新規事業の旅176 民主主義が絶対主義になる時
2025年5月1日
早嶋です。3300字です。
民主主義という制度にこれまで疑問を呈したことはなかった。良いものだと思っている。しかし、それは複数の前提が満たされなければ機能しない仕組みだ。
例えば、昔のように100人とか300人くらいの組織であれば、同じような経験を積んだ人たちの間で、議論が成立していた。議論する内容に対して参加者の全員に共通認識があり、言葉も噛み合う。だからこそ、合議制は理想的で現実的だった。徐々に、組織の規模が1,000人を超え、あるいは国全体が数千万人規模になると、全員が同じ土俵で議論するのは難しくなる。そこで、代表者を選び、その代表が議論して物事を決める、いわば代議制民主主義という制度が整いはじめた。
ただ、ここでも問題が起こった。代表として選ばれた人たちが、「自分たちこそが物事を決める存在だ」と錯覚し始めるのだ。ただこれは選んだ側も悪い。どこかで、「あいつに任せておけば大丈夫だろう」と思考停止するからだ。代表制はいつしか形骸化し、議論のない合意だけが進んでいく。
そして気がつけば、「選ばれた少数者の発言は素晴らしい」「彼らの言うことに従っておけばいい」という空気が支配するし、異を唱えるものも、不平はいうが自ら手を上げて政治の世界に参加する動機にまでは至らない。そして全体主義の入り口に突入する可能性が高くなる。
この構造、今の日本にも見える気がする。
かつての自民党は、一強ではあっても、党内で複数の派閥があり活発な議論が行われ、さまざまな立場からの政策提案があったように思う。当時は、保守の中にすら多様性があり、利害を調整する機能が働いていた。ところが今は、自民党の中で議論が表に出ることが少なくなった。多くの議員は、自分が次の選挙に当選することが主眼になっており、国策を議論する国士はほんのわずかしか見えないと思う。
一方で野党はといえば、与党の失策を指摘するばかりで、現実的な対案を示すことが少ない、或いは無い。国民の多くも「どうせ変わらない」という前提になり、投票に行かない。行く人ですら、直前の雰囲気やなんとなくのイメージで候補者を選んでしまっている。
米国では、民主党と共和党の二大政党が激しく対立し、政策も定期的に揺り戻される。けれど、今やその争いもエンタメ化し、「どっちが正しいか」ではなく「どっちが共感できるか」「どっちが好きか」といった次元の争いになってきているように見える。金持ち側と一般・貧困層との戦いにすら見えてしまう。
韓国もまた、民主主義が一見機能しているようでいて、実は極端な揺れを繰り返している国だと思う。政権が保守と革新で交互に入れ替わるが、そのたびに前政権のスキャンダルや腐敗を徹底的に断罪し、逮捕や弾劾にまで至るケースが目立つ。朴槿恵(パク・クネ)政権しかり、李明博(イ・ミョンバク)政権しかり、過去の大統領の多くが退任後に何らかの責任を問われている。
一見すれば「政治の透明性が高い」と見ることもできるが、その一方で、政治の対立が司法にまで及び、感情的な報復合戦のような構造ができてしまっている。政策よりもスキャンダルの応酬が目立ち、結果として国民の分断が深まっている。韓国の民主主義は、「参加意識が高く、熱量もある」のに、そのエネルギーが健全な議論よりも対立の拡大再生産に向かいやすい土壌を持っているように思える。SNSでの政治的発言も非常に活発で、選挙も接戦になりやすいが、その一方で「勝った側が徹底的に負けた側を否定する」構図が常態化しているのだ。
これらもまた、民主主義のもう一つの落とし穴かもしれない。制度としての民主主義が整っていても、議論と対話が不在なまま感情で政治が動きすぎると、結果的に民主主義が破壊的に使われるのだ。
そんな中でも、僕が注目しているのはスイスの政治制度だ。スイスでは、年に何度も国民投票が行われ、地方単位での自治や議論の文化が根付いている。少数民族国家で、言語も宗教も違う人々が共存するこの国では、最初から「違いを前提とした議論」が不可欠だったのだと思う。山に囲まれた地形や、中央集権が育たなかった歴史背景もあるだろう。小さな共同体ごとに意見を出し合い、合意を探るしかなかったのだ。それが熟議民主主義として定着したのだろう。つまりスイスは、「違いを超えるために議論せざるを得なかった国」なのだ。
一方で日本は、島国で周囲を海に囲まれた地理的特性のお陰で、比較的同質的な文化と価値観を背景にしてきた。明治維新以降は中央集権型に突き進み、「上が決め、下が従う」仕組みが当たり前になったと思う。空気を読む文化、忖度、周囲と同じ意見を表明することの安心感。これらは民主主義にとって決してマイナスばかりではないが、議論を必要としない社会を温存する構造にもなっている。
結局のところ、民主主義の制度それ自体が悪いのではなく、そこに関わる人間の態度が問われているのだ。特に、過去の過ちを正面から見つめて、修正しようとする姿勢が失われたとき、民主主義は一気に堕落する。「間違いがあった」と言えなくなる。「修正すべき」と言う人を排除するようになる。歴史や失敗をなかったことにして、都合のいい物語だけが語られるようになるからだ。全体主義が生まれる最も大きな条件はここにあるのでは無いだろうか。
もちろん、他にもある。たとえば、「数が正義だ」という誤解が広がったときだ。民主主義は多数決のルールで動くが、それはあくまで最後の手段に過ぎない。少数意見を丁寧に扱い、納得解を探していくプロセスこそが本来の民主主義だ。でもそれが軽視され、数だけで押し切るようになると、暴民政治になりかねない。
また、国民が思考を手放して「誰かに任せればいい」と思い始めると、独裁の土壌ができあがる。カリスマ性のある人物が現れて、「この人が言うなら間違いない」と信じてしまう。そこに異論を唱えると、「反日だ」「反国家的だ」とレッテルを貼られるようになる。これはすでに、民主主義とは呼べない。
さらに最近では、SNSやAIを使った情報操作、偽情報の蔓延も問題になっている。リテラシーがない人はすぐに騙されてしまうし、信じたい情報しか信じない人が増えてしまうと、社会全体の分断が加速する。ファクトチェックも重要だが、それを「誰がやるのか」が難しい。アメリカでは裁判官を大統領が任命する。その裁判官が判断する「真実」に偏りはないのか、という疑問もある。つまり、「正しさ」を決める権力自体が、いつしか危ういものになるのだ。
結局のところ、完璧な制度は存在しない。だからこそ、その都度、状況に応じて柔軟に運用し直すことが大切なのだと思う。でもそれを忘れて、「これが絶対に正しい」と思い込んだ瞬間に、人は制度ではなく「正義」を信じるようになり、そこから絶対主義が始まるのではないだろうか。
ところで、こうした民主主義の劣化や絶対主義への滑落の構造は、国家レベルの話だけではないと思う。むしろ、そのミニチュア版は日本企業の組織の中にも、あちこちに潜んでいるのと。
たとえば現場で若手が議論を重ね、新しい提案を出しても、上層部は「はいはい」と聞き流すだけで、実際には何も動かない。声を出す人が損をする。形式だけの会議、聞くふりをする上司、そして疲弊して沈黙していく若手。極端に書きすぎている面もあるが、そんな構図を想像することが容易に出来た読者は、一定数いると思う。
最初は議論があったかもしれない。けれど、それが無視され続けると、次第に誰も意見を言わなくなる。やがて上の意向だけが通るようになり、それに従わない者は排除される。こうした流れは、組織の中でも立派な「小さな全体主義」だと思う。何より怖いのは、若い人のエネルギーが音を立てて失われていくことだ。「言っても無駄」「どうせ変わらない」――そう思わせた時点で、その組織はゆっくりと、けれど確実に衰退の道を歩み始める。
民主主義とは、大声を出すことではない。正解を知っているふりをすることでもない。違う意見を受け止め、過去を修正し、議論を通じて何度も立ち返る力のことだ。それは国家でも、会社でも、同じことだと思う。
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一度だけで終わらせない、リピーターが増える営業の習慣
2025年4月30日
高橋です。
私がコンサルティングをしている『営業プロセス研修』のエッセンスを、毎回お伝えしています。
今月のテーマは「一度だけで終わらせない、リピーターが増える営業の習慣」です。前回まで契約後のフォローについてお伝えしました。今回は何度もお客様になっていただけるリピーターを増やすことにフォーカスしてお送りします。
「一度ご契約いただいたけれど、次にはつながらなかった…」そのような経験は、営業をしていれば誰でもあります。
でも実は、「営業力の差」が出るのは“契約まで”よりも“契約後”でしたね。お客様がリピーターになってくれるかどうかは、営業の「その後の行動」に大きく左右されます。
トップ営業ともなると、生命保険ですら追加追加でご契約をいただけるケースが多いです。法人契約はもちろん、個人のお客様でもです。今回はリピーターを増やすために効果的な3つのポイントをご紹介します。
1.「小さな接点」を意識的につくる
リピートしてもらうには、お客様の“記憶に残り続ける”ことが必要です。
しかし多くの営業マンが、「何かあればご連絡くださいね」と言って放置しています。次の新規顧客を探すことに一生懸命になってしまうからです。
しかしトップ営業ほど、“小さな接点”を意図的につくっています。たとえば、
・商品納品後のフォローメール(簡単なお礼や不明点はないかだけでもOK)
・誕生日や季節の変わり目の「近況伺い」
・お客様の業界に関連するお役立ち情報の提供(ニュース・コラムなど)
「売り込み」ではなく、「気にかけてくれている」と思ってもらえる行動が、お客様の心に残ります。
2.購入後の“安心感”が、次の相談を呼ぶ
どんなに優れた商談であっても、初めての契約のあと、お客様はこんな不安を感じるものです。
「本当にこれでよかったのかな?」
「この選択で失敗してないよな?」
この不安を放っておくと、次回の相談を避けるようになります。
逆に、購入後に安心感を与える営業には、こんな変化が起きます。
・次のタイミングで真っ先に声をかけてくれる
・「○○さん(営業マン)に相談したい」と思ってくれる
・ご紹介してくださる可能性も高まる
不安を安心に変えるには、納品後や施工後に「一度で終わらないフォロー」が必要です。
3.「お客様の未来」を一緒に考える
リピーターが生まれる営業マンは、“今”だけを見ていません。
たとえばリフォーム営業なら、
「今回の工事が終わったあと、2~3年後に気になるのはどんな部分ですか?」
というように、“未来の困りごと”に先回りして話をします。
つまり、目先の売上ではなく、お客様の「これから」に寄り添う姿勢が、次の相談へとつながっていくのです。
このようにリピーターを増やす営業は、決して“派手なテクニック”を使っているわけでも特殊な能力が必要なわけでもありません。小さな気配り、フォロー、未来視点——この3つを習慣にしているだけです。
一度だけで終わらせないための小さな積み重ねが、紹介やリピートにつながる“強い営業基盤”をつくっていきます。
今日からできる、小さな一歩をぜひ実践してみてください。
営業プロセス、営業研修、人材育成、セールスコーチなどをご検討の経営者・経営幹部・リーダー・士業の方はお気軽に弊社にご相談ください。
新規事業の旅175 ガソリン価格の高騰の本質
2025年4月29日
早嶋です。約3000字です。
2025年4月、日本のガソリン小売価格は1リットル186円に達している。世の中はGWの最中だが、スタンドの表示価格はハイオクであれば200円も間近だ。やはり「高い」と感じることだろう。ところで、本当にガソリン価格は異常に高いのだろうか。少しファクトを含めて調べてみた。結論はガソリン価格は、世の中比較では相応か、寧ろ安く、問うべきは税金に関する議論だった。
ファクトチェックをした。2015年、日本のガソリン小売価格は平均で約130円だ。このとき、WTI原油価格は約50ドル。ドル円レートは約120円。1バレルあたりの円換算価格はおよそ6000円になる。そして、2025年現在。ガソリン小売価格は約185円。WTI原油価格は63ドル。ドル円レートは150円なので円建て原油価格は約9450円となる。
つまり10年間で、ガソリン価格は約1.4倍に上昇しているが、原油の円建てコストは約1.6倍に上昇している。ここからガソリン価格の上昇は、原油コストの上昇幅よりも小さいということが分かる。そのため、「ガソリンが高い」という直感は、正しくないとも言えるのだ。
そこでガソリン価格の内訳を因数分解した。店頭価格の42%以上が税金だ。ガソリン税として、本則28.7円、暫定25.1円、合計53.8円が課される。そして、地方揮発油税が5.2円。さらに、石油石炭税・地球温暖化対策税が合わせて2.8円。極めつけは、それらを合算した金額に対して消費税10%が更に乗るのだ。その結果、ガソリン1リットルあたり、約78.7円が純粋な税金として組み込まれている。
ちなみに、ガソリン税には本則と暫定がある。本則税率の28.7円は、もともと道路整備を目的として1954年に導入されている。戦後の日本には、国土開発、高度成長期のインフラ整備等を支える財源に作られたものだ。ガソリンを使う車が主に、利用者負担で道路を作り、今でもメンテナンスに充てる発送は理屈にかなっていると思う。
しかし、暫定は意味不だ。本来は1974年のオイルショック後の財政危機対策として。時限的に上乗せした税金だ。当時の理由は、燃料消費が減ると道路財源が減る。それを補うために税率を臨時で上げるというものだった。そこで5年間の時限措置が取られたのだ。が、政府は5年毎に延長を繰り返す。そして事実上、恒久税化したのだ。実際、2008年の福田内閣の時に、暫定と言いながら半永久的な税とする法改正が行われているのだ。
日本の直近のガソリン年間消費量は約446億リットルだ。これにより生まれる税収は、
– ガソリン税だけで約2兆4000億円、
– 地方揮発油税で約2300億円、
– 石油石炭税・温暖化対策税で約1250億円、
– さらに消費税で約7500億円程度、
となり、合計すると4.5兆円以上が、ガソリン関連だけで国と地方に流れ込むことになる。国の大きな収入の柱とも言ってよい額だ。(2024年のガソリン税による税収は、国税で約1.5兆、地方税で約5千億となっていた。若干、からくりが不明だが大きな単位はあっているので、ここの理論はこれ以上詰めないでおく)
財務省の建前は、健全な国家財政運営だ。しかし、税収を最大化し、国家支配を維持することのように振る舞っているように感じる。同様に、経済産業省の建前は、産業振興と国民経済の発展だ。しかし現実は、特定産業との関係強化を通じて自らの存在意義を確保をしているかのようだ。燃料油価格激変緩和措置にしても、国民に寄り添う顔をしながら、元売り企業に補助金を与え、その間に行政と産業が利益を確保する構造にみえる。
なぜ、税を下げる選択肢をしないのか不思議だ。確かに、財務省は税収を減らしたくないだろう。そして、経産省は補助金配分の仕組みを手放したくないと思う。更に、地方自治体も地方税収を失いたくないし、元売り企業も補助金で価格維持できるから反対しないと思ってしまう。誰一人として、国民負担を本気で減らそうとはしていない。この事実に、私たちはまず気づかなければならないのだ。
このような状況に対しての合理的な打開策は、財務省の絶対的な予算支配の縮小し、経産省と大企業のつながりの解消(つまり自由化や既得権益の剥奪、そして規制緩和だ)、地方自治体が自律的に動き始め、国民が自分たちで社会を作る主体に戻ることだ。税金は明確な対価として支払われるようになり、補助金での誤魔化しを終えることだ。中央集権ではなく、分散型で自立した社会に生まれ変えることだ。まぁ、とても日本のしくみを考えたとて難しシナリオだが、希望を持てるシナリオだと思う。
しかし、現実は財務省は増税に動き、経済産業省はその財源を元にばら撒きに動き、政治も社会も、本気で「仕組みのスリム化」に取り組まないのだ。理由はなんだろうか?
1つは、官僚組織そのものに縮小するインセンティブが無いことだ。財務省も経産省も、自分たちの組織が大きく、予算が多く、権限が強いほど、将来のポストが増え、人事権が強くなり、天下り先が確保できると思うかもしれない。これが組織の生存本能というものだ。組織にとっては、「合理化=組織の弱体化」になるのだ。だから、合理化を自分からは絶対にやろうとしない。仮にやるときも、ポーズに留まるのは歴史から学んでいる。官僚にとって、国家予算とは国民のために使うものではなく、自分たちの支配力を拡大するために使うものになってしまうのかもしれない。
更には、政治家は本気で仕組みを破壊する気持ちが無いとおもう。本来、官僚を制御するのは政治家の仕事だ。しかし、日本は政治家も選挙に勝つために予算ばらまきを求めるし、官僚に政策立案を依存しているし、逆に官僚組織に取り込まれているという絵も確認できる。特に地方では、国の補助金がないと自治体が回らないため、中央からの財源確保を訴える政治家が重宝されるのだ。結果、政治家自身も、国民に痛みを強いる「合理的改革」には及び腰になり、票を失うリスクを避けて現状維持を選ぶのだ。
そして、極めつけは我々国民自体も痛みを伴う改革を望んでいないのだ。ここが最も根深くて、仕組みのスリム化は、今受け取っている補助金やサービスが減るかもしれない、公務員の数が減るかもしれない、地域の利便性が一時的に下がるかもしれない、ということを想起する。そのため痛みを受け入れう覚悟が後手に回ってしまうのだ。皆誰しも、今の生活水準を下げたくない、目先の安心を失いたくない、他人の権利は削っても、自分の権利は守りたい、という心理が働いているのだ。結局、国民自身が「痛みなき改革」を求めた結果、政治も官僚も、スリム化を真剣に進めないとなっている。
そう、現実は過酷なのだ。財務省の増税は常態化するだろう。経産省は補助金と規制で結果的に既得権益を守り続けると思う。そして地方は2極化し多くは衰退するだろう。若者は未来を失い、社会は静かに沈んでいく。実際、その動きは表面的な秩序を保ちながら、本質的にはゆっくりと沈む船のようになるのだ。
新規事業の本質と構造は同じだ。重要だけど直ぐに結果がでない。やり方が分からない。これまでのぬくぬく生活を捨て、気合を入れて取組む必要がある。その結果、一部の人は頑張るが、それでも1年、2年で状況が変わり、トップが変わり、熱が冷めてしまう。するとズブズブと過去の遺産でごはんを食べていたほうが今は楽なので手を付けなくなるのだ。
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新規事業の旅174 コメ価格高騰の裏側と、これからの日本の米市場
2025年4月28日
早嶋です。約2400文字。
(コメ高騰の現状)
2024年から2025年にかけて、コメの小売価格が約2倍に跳ね上がった。ニュースでも話題になったが、その背景には単純な需給バランスでは片付けられない、もっと深い構造問題が横たわっている。この問題を理解するには、まず日本のコメ市場の仕組みを押さえる必要がある。
過去、日本はウルグアイ・ラウンドにおける日米合意で、米国産のコメを毎年最低30万トン輸入することを義務付けられた。関税は当初試算で700%とも言われたが、現在は実効で200〜400%程度だ。それでも高関税に変わりはなく、国内農家を守るための政策だった。ところが、その輸入米は品質が高いにもかかわらず、ほとんどが人間の食用市場には出回らず、飼料用などに回されている。これは、米農家の経営を守るため、そしてその背後にある農村票を守りたいという政治的思惑が絡んでいる。
一方で、日本の米農家は長年、JA(農協)に集荷と販売を頼り、どれだけ品質の良い米を作っても価格は一定の枠内に抑えられていた。努力しても報われにくい仕組み、安定した補助金。この環境が、農家を骨抜きにしてしまった側面もあると思う。しかし近年、その構造に変化が起き始めている。インターネットの普及、直販型流通の広がりにより、農家が企業や消費者と直接契約する動きが加速したのだ。つまり、JAを通さない流通が増え、JAの集荷量は年々減少してきたのだ。
そのような背景の中、2022年ごろから「コメが不足するかもしれない」という不安がSNSを通じて広まり、一部の流通業者や消費者がコメを過剰に備蓄する動きが広がった。これによって市場に流れるコメが減り、需給バランスがさらに悪化したと考える。結果的にコメの価格は、1年で約2倍に跳ね上がったのである。
政府は備蓄米を放出して対応を試みた。しかし放出されたコメは主にJA全農など大口組織が落札し、小売りや一般流通にはあまり出回らなかった。さらに、備蓄米を落札した業者には「1年以内に同量を買い戻す」義務が課され、リスクを取ってまで流通させる動きが鈍った。つまり、価格抑制策は名ばかりで、現場ではほとんど効果がなかったのである。
(コメの今後)
さて、このような現状を受けて、これから日本の米市場はどうなるのか。未来には、大きく3つのシナリオが考えられる。正常シナリオ、構造化固定シナリオ、改革シナリオだ。
まず、正常化シナリオだ。7月以降に新米が順調に出回り、流通が正常化することで価格も徐々に落ち着くというシナリオだ。ただし、かつての安い水準には戻らず、少し高い価格帯が新常態となると推測する。
次は、構造固定化シナリオだ。高価格帯のブランド米市場と、大量供給型の低価格米市場が二極化し、農家も流通も消費者も分断される推測だ。高級志向と節約志向が、よりくっきりと色分けされる未来だ。
最後は、改革シナリオだ。コメ価格高騰をきっかけに、農業政策の大転換が進み、補助金構造の見直し、JAの市場支配の緩和、流通インフラの再設計が本格化する未来だ。これが実現すれば、農業が再び生産性の高い産業に生まれ変わり、コメの輸出も拡大する可能性が出てくる。
(利害関係者の影響)
これらの未来に対して、関係者にはどのような影響が及ぶのだろうか。まず農家だ。JA依存のままでは生き残れない時代が本格化するだろう。直販やブランド構築ができる農家は大きなチャンスを得る一方、旧来型に留まる農家は淘汰されるリスクが高い。JAにとっては、独占的な集荷・販売モデルが揺らぎ、組織改革や再編を迫られるだろう。単なる守旧派でいる限り、存在感は確実に低下すると思う。
流通業者は、単に安く仕入れて売るだけでは生き残れない。高付加価値型、ストーリー型の販売手法を磨き、消費者との接点を深める必要が出てくるのだ。
そして、消費者もまた、変化を求められる。安く大量に買うだけの時代は終わり、品質、ブランド、生産者との関係性を意識して米を選ぶ時代がやってくるのだ。
最後に政府は、これまでのように場当たり的な対応では済まされない。農政改革を本気で進めなければ、農業そのものが国内外の競争に取り残され、食料安全保障という国家の根幹を揺るがしかねないのだ。
(でも、結局は元の鞘)
ここまで、日本のコメ市場をめぐる現状と未来を整理してきたが、率直に言えば、今回の価格高騰をきっかけに、劇的な変革が起きる可能性は高くないと見る。未来のシナリオとしては、大規模な農政改革や流通構造の大転換ではなく、「正常化」シナリオに落ち着く可能性が高いと思う。
つまり、新米が出回る7月以降、コメの流通量は徐々に回復し、価格も次第に落ち着く。ただし、かつてのような安い水準には戻らず、5kgあたり3000円前後、従来の1.2倍から1.5倍程度の価格帯で定着するだろう。
国は、根本的な改革には動かない。その理由ははっきりしている。今でも日本には、農業に従事する世帯が約100万戸存在し、この票は政治的に無視できない重みを持っているからだ。自民党を中心とする政権にとって、農業票を失うリスクを冒してまで、農政に大ナタを振るうインセンティブはない。
JAもまた、内部に葛藤を抱えているはずだ。中央のJAと地方JAの間で、方向性について温度差がある。しかし、いざ方針を決めるとなれば、多数決や組織防衛本能が働き、地方JAを守る方向へ動くことになるだろう。結果的に、農家を守るという名目のもと、現状維持が優先され、市場の構造的な歪みは温存されることになる。
つまり、「少しだけ変わったように見えて、本質は何も変わらなかった」そんな未来が、静かに、しかし確実に訪れる可能性が高い。これがThis is NIPPONなのだ。
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旧暦コラム 視察がてら季節を楽しむ
2025年4月26日
早嶋です。今回は、福岡から唐津、伊万里、有田、佐世保と視察を済ませ、外海方面に長崎に。途中の寄り道を表現しました。
唐津、伊万里を抜け、峠道を越えていく。眼下に広がる棚田は、まだ水を張る前の硬い黒い土だった。いまは旧暦でいう「穀雨」の頃。春の雨が田畑を潤し、種まきや田植えの支度を促す季節だ。これから田んぼに水が満ち、初夏へ向かう支度が静かに始まる。
この日は、ある商業施設の視察を兼ねた道中だった。日常の延長にありながら、国道沿いや住宅街など、人の暮らしに欠かせない場所だ。そんな現場をいくつか見て回る合間に、思うがままに車を止めた。
佐世保へ向かい、石岳に登る。九十九島の眺めは、春霞にやわらかく包まれていた。晴れ渡った輪郭もいいが、ぼんやりと滲む島影もまた、静かに心に染みてくる。旧暦の季語でいえば、「霞深し」とでも言いたくなる光景だった。
西海橋を渡り、外海へ。海は、穏やかだった。遠藤周作が「沈黙」で描いた、あの舞台。波も音も最小限にとどまり、ただ黙ってそこにある。そんな海だ。遠藤周作記念館にも足を運んだ。館内はさらりと見て回り、海を眺めながら著書に触れられる空間に腰を下ろす。窓の外に浮かぶのは、大角力(おおずもう)、小角力(こずもう)と呼ばれる島々。潮の香りと静かな光のなかで、言葉にならない時間がゆっくりと流れていた。
その夜は実家に泊まる。両親の顔を見て、いつものように庭に出る。これからぐんぐん伸びる草木を、少しだけ剪定する。無心でハサミを入れるうちに、心も静まっていく。西に沈む夕陽が、じんわりと肌を焼き付ける。夕暮れの光も、旧暦でいえば「春の名残」。一日一日が、確かに、夏へと歩みを進めている。
田んぼには、間もなく水が張られるだろう。棚田も、九十九島も、外海も。春から初夏への歩みを、静かに、しかし確かに進めている。
新規事業の旅173 次の時代の生存戦略
2025年4月24日
早嶋です。5200文字です。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書、「NEXUS」を読んだ。これまでの著書、「サピエンス全史」「ホモ・デウス」「21 lessons」を私の解釈で整理した。
「NEXUS」は、情報の本質と人間のつながりを整理した内容だ。人間は、今、膨大な量と種類の「情報」に囲まれ生きている。かつて人間は、見たこと・聞いたこと・触れたことのある範囲の中で世界を理解していた。しかし、技術が進化し、AIが情報を生成する時代に突入した今、人間は自らの目で全てを確かめることも、正しさを保証することも困難な状況に陥っている。
ハラリのこれまでの著書と、今回の「NEXUS」を読んで、私なりに人間がどのようにして情報とつながり、どのようにして虚構と現実を切り分けてきたのか、そしてこれからの時代において人間はどのように情報と向き合っていくべきかを整理する。虚構を信じて発展してきた人間は、AIとともにどこへ向かうのか。そのヒントを、ハラリの「ネクサス=つながり」は紐解いている。
(情報は「事実」ではなく、「解釈」である)
人間は日々、膨大な「情報」に囲まれて生きている。しかし、その情報の本質は何かと問われると、多くの人が「事実」や「真実」と混同する。だが本来、情報とは「誰かがある出来事や状況をどう見たか」という解釈にすぎない。
たとえば、「今日、雨が降った」という一文も、それが「どれくらいの雨だったのか」「いつ、どこで」「誰にとって都合が悪かったのか」などによって、まったく違う意味を持つ。同じ出来事でも、伝える人や受け取る人の視点によって「情報の意味」は変わるのだ。
このような情報の相対性は、インターネットやSNSの登場によって加速した。個人がメディア化し、情報が個人から個人へ、瞬時に拡散されるようになり、もはや「正しいこと」よりも、「共感できること」や情報の受け手が「聞きたいこと」「知りたいこと」が求められるようになり、真実の境目が薄れていった。
たとえば、SNSでバズる投稿の多くは、専門的な正確性よりも、「ウケること」や「共感されること」に重点が置かれている。「これってあるあるだよね」「その気持ち、わかる」と感じる情報こそが拡散され、多くの人の目に触れる。そこには事実の厳密さよりも、感情の共有が根底にある。
たとえば、選挙演説でも、政策の中身より「わかりやすい言葉」や「敵をつくって味方を鼓舞する構図」が好まれる。そのような情報を拡散したほうが、同じような共感する人間に知れ渡ることを政治家が理解しているのだ。そのため、正しいかどうかではなく、納得できるか、心が動かされるか、が重視されている。
つまり、現代において情報とは、「人と人とをつなぐための道具」として機能しているのだ。「これってわかる」「自分もそう思う」という感情の共有や、仲間との共鳴を生み出すこと。それが、情報の最も大きな役割になってきた。もはや情報の正確性や真偽よりも、「どれだけ人とつながれるか」「どれだけ共感を呼べるか」が重視される時代なのだ。
(小集団から広域社会へ:理解の限界と統治の発明)
人類の歴史の大半において、私たちは小さな集団の中で暮らしてきた。顔が見える距離にいて、日々の生活や経験を共有し、誰かが話す内容は他の人も体験していた。だから、情報の内容に対して全員がある程度の共通理解を持ち、対話や合意が成立していた。
しかし、農耕の拡大、人口の増加、都市の誕生によって、集団の規模が飛躍的に大きくなると、全員がすべての事象を体験することが不可能になる。地理的に離れた場所で起きていることや、専門性の高い事象について、共有された経験を前提とした対話はできなくなったのだ。
この時、人間はある課題に直面する。「自分が理解していない情報について、どうやって意思決定に関わるのか」という問題だ。ここから、人類は統治の形を発明する。ひとつが民主主義であり、もうひとつが全体主義だ。
民主主義は、個々の自由を尊重しつつ、重要な意思決定を「話し合い=合議」によって行う。しかし、合議の前提には「合議する参加者の議題に対する一定の理解」が必要である。情報の複雑性が高まり、誰もが内容を深く理解することが難しくなると、投票や選挙の判断は「正しさ」ではなく、「印象」や「好感」「共感」でなされるようになる。
一方で、全体主義は「すべてを理解するのは無理だから、誰かに任せる」という構造だ。統治者が解釈し、決定を下す。大多数は従うだけで済む。その分、効率は良いが、統治者が誤った判断をしても、訂正する仕組みが働きにくい。
このようにして、情報を「共有できる範囲」を超えたとき、人類は「どう意思決定をするか」という課題に対し、民主主義と全体主義という対照的な仕組みを生み出したのだ。
(物語と文字:情報伝達の進化)
人間が「情報」を他者に伝える手段として、もっとも古くから行ってきたのは話すことであり、そこには「物語」があった。単に出来事を列挙するのではなく、登場人物、因果関係、感情を交えながら語られるストーリーは、聞き手の記憶に残りやすく、理解もされやすい。
たとえば、「昨日、北の谷で獣が出た」というだけでは、聞いた人がその情報をどう受け止めるかはまちまちだ。具体性も乏しく、注意喚起としては弱い。一方で、「昨日、狩りに出た仲間が北の谷で巨大な牙を持つ獣に遭遇し、あと一歩で命を落としかけた。逃げ延びたものの、恐怖で声も出せず、今も震えている」と語れば、場所・状況・感情を含めて立体的に相手に伝わる。
このように、人は「出来事そのもの」よりも「物語として語られた出来事」の方に強く反応し、情報を理解する。だからこそ、人類は太古からストーリーテリングによって情報を伝えてきたのだ。
しかし、物語には欠点もある。語る人によって内容が少しずつ変わり、やがて事実と異なるストーリーへと膨らんでいくことだ。人から人へ伝わるうちに尾ひれがつき、全く別の話になってしまうこともあるのだ。
この限界を補うために、人間は言葉を記録する手段を発明した。最初は粘土板や刻印、やがて羊皮紙、そして紙へと発展し、最終的に活版印刷が登場することで、「記録された情報」が広範囲に、そして安定して伝達されるようになった。そして、「何が書かれているか」が「誰が語ったか」よりも重視されるようになり、次第に情報の民主化が始まった。
人間は、ストーリーで伝える柔軟さと、文字で残す確実性、そして情報の公開性という三つの武器を手に入れた。それは情報の進化であり、人間の思考と社会構造を変える大きな転機となったのだ。
(解釈者の権威化と全体主義への転換)
情報が開かれると、再び過去に起きた、新たらしく古い課題に直面する。それは「情報をどう解釈するか」だ。同じ文章を読んでも、解釈は人によって異なる。そこで人々は、情報の意味を「教えてくれる」存在を求めた。宗教のラビ、政治思想のイデオローグ、企業のカリスマ経営者など、「解釈者」が生まれた。現在は、文章を理解出来なくても音声や動画では理解できる人が多く、紙媒体はデジタル媒体になり動画や音声での理解が一定の割合で加速する。
しかしやはり、情報そのものよりも、「誰が語ったか」が重視されはじめるのだ。こうして特定の人間に対して「正しい解釈者」とされる人物が現れ、情報の解釈に関する疑問は排除される。しかし、その解釈が正しいかどうかは重要ではない。そのため、仮に解釈が誤っていても訂正そのものがされない状態が続くのだ。
結果として、情報の民主化が進んだ先で、解釈の独占と支配、しいては全体主義が生まれやすくなるのだ。ただし、すべてがそうなったわけではない。情報を開いたまま多様な解釈を認める、民主主義的な社会も当然に残る。そこでは、議論と訂正が可能であり、変化を受け入れる柔軟性がある。この両者の違いは、情報や判断に対して修正できる構造かどうかにある。
ただ、人間は自ら問いを立て疑問をもつよりも、受け身になって自分が信じる解釈社の言う事を聴いていたほうが楽なことを知っている。そのため、全体主義的な状況に身を置く人間が増え、民主化で互いに議論と訂正をする行動をとる人間がマイノリティになるのだ。
そしてAIが登場する。何が正しいか、誤っているかが不明瞭な時代のAIの登場は痺れるくらい危険もはらむのだ。
(AIと情報の氾濫:判断不能の時代へ)
「正しさとは何か?」という問いに対して、人間は長い間、経験や対話によって答えを模索してきた。一方で、多くの人間はその問いすら考えることもなく過ごしていた。しかし、いよいよ、その問いを考え続けた人間にとっても、根本的に構造が変わる時がきたのだ。
SNSの普及によって、人は「正しい情報」ではなく、「誰とつながれるか」を重視するようになった。情報の内容は重要ではなく、「それ」によって得られる共感や仲間意識が優先されるのだ。そのような環境では、たとえフェイクニュースであっても、信じたい物語に近ければ簡単に受け入れてしまう。或いは、既に多くの人間はフェイクかリアルかの意識を持たないまま、感情や自分が属する場、つまり所属によって関係構築をする道具そのものが情報になっているのだ。
そしてAIが加わった。AIは意図や倫理をまだ持っていない。目的の達成のために、大量の情報を瞬時に生成し発信することができる。その気になれば、発信した情報に対して、あたかも人間が対話しているように場の雰囲気を作り、その情報を活用した場を深め拡散することも可能だ。そしてその精度と速度は人間の認知能力を遥かに超えている。
結果、世界には「事実かどうか」がわからない情報が今に比較にならないほど溢れ、人々は何を信じてよいか分からなくなっていくのだ。それは情報社会の進化の行く末に、判断不能な社会の到来が始まるのだ。
(分断される人間社会:理解できる者と、流される者と)
このような情報環境では、人々の間に新たな分断が生まれる。或いは、既に生まれていたがその境が明確になる。情報を批判的に扱い、AIを理解して活用できる人々と、情報に流され、何も考えずにこれまで通り過ごす人だ。
前者の理解できる者は問い、調べ、判断し、テクノロジーを使いこなす力を持つ。他方、後者の流される者は、情報に流され、何が正しいかを考えることもしなくなる。もちろん出来ない。情報の量と複雑さに圧倒され、感情や関係性で無意識に受け入れるのだ。
この分断は、AIによる情報量の爆発に人間の処理能力が追いつかないこと、そして情報リテラシーや教育環境の格差に起因していると思う。「情報を構造的に理解し、活用できる人々」と「感情で反応し、情報に依存する人々」このような対立が生まれるのだ。そして、これが格差そのものの因果になり、社会に大きな影響力を及ぼすだろう。一部の人々はAIを駆使し、他者を支配しうる。しかし、同じ技術で救うこともできる。理解できる者のモラルは非常に重要だ。
人類は今、分断の渦中にいる。どちらに進むかは、人間の選択、それも理解できるもののモラルににかかっているのだ。
(情報とともに生きる:私たちはどこへ向かうか)
AIが無限に情報を生成し、真偽の境界が曖昧になる今、人間は情報とどう向き合えばよいのか。鍵は、「自ら問う力」だ。与えられた情報を鵜呑みにせず、その背景や意図を問い、自分にとっての意味を考えることだ。また、情報を他者と共有し、対話を重ねる姿勢も必要だ。異なる意見に耳を傾け、多様な視点と接することで、偏りから自由になれる。
AIやSNSをただ恐れるのではなく、正確な情報の見極め方と使い方を学び、つながりを育みながらも、誤った情報に流されない判断力を持つこと。それが、これからの時代の知性である。
人間は、進化の過程で「虚構を信じる力」を手にした。それこそが、他のホモ属との決定的な違いだった。神、国家、貨幣、制度。いずれも目に見えないが、人類はそれらを信じることで、大規模な協力と社会制度を築いてきた。
しかし今、その「虚構を信じる力」が新たな危機を生んでいる。AIが作り出す無限の物語と、人々の信じたい気持ちが重なり、現実との境界が曖昧になっているからだ。虚構を信じて発展してきた人間が、今度はその虚構によって崩壊しかねない状況にあるのだ。
だからこそ、これからは「虚構に耐性のある人間」が生き延びるかもしれない。目の前の現象に向き合い、検証し、問い続ける力。それこそが、次の時代の生存戦略なのかもしれない。虚構を活かすも、囚われるも、人間次第なのだ。
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新規事業の旅172 青を焼くか、重ねるか。文化と技術の対話の先。
2025年4月23日
早嶋です。
パリスダコスタハヤシマの時計づくりは、ある一つの懐中時計から始まった。それは、創業者の一人、トムのもとに代々受け継がれてきたロンジン製の懐中時計。6時位置に小さなスモールセコンドを備え、美しいブルースチールの針が、静かに時間を刻んでいた。その深く落ち着いた青の輝きに、私たちは心を動かされた。この「青」を、自分たちの時計に宿したいと考えたのは、ごく自然な流れだった。
しかし、私たちの時計にはマイクロローターを採用しているという背景がある。これはムーブメントの薄さや軽さを追求した結果であり、ドレスウォッチとしての機能性を高める選択だ。一方で、青焼きに使われるスチールは、帯磁のリスクを完全には排除できない。ムーブメントの近くに磁性を持つパーツを配置することに、私たちは慎重だった。
さらに、私たちの時計では針だけでなく、インデックスやブランドロゴ、さらにはムーブメントの一部パーツに至るまで、「紺碧(こんぺき)」という色をテーマとして統一したいという意志があった。つまり、針だけが「青焼き」で他の部位と色調がズレると、時計全体の調和が失われてしまう。
こうして私たちは、青焼きのもつ美しさと歴史性に敬意を払いながらも、PVD(物理蒸着)によって青を再現するチャレンジを始めた。
だがそれは、簡単な道ではなかった。青焼きのような「深く、光の角度で表情を変える青」をPVDで再現するには、素材と膜厚、蒸着温度や下地処理のすべてを調整する必要があった。均一すぎると冷たく見え、濃すぎると黒く沈む。薄すぎればグレーになり、表情を失う。
何度も試作を繰り返し、ようやく私たちは「これだ」と思える紺碧の青にたどり着いた。それは、火によって焼かれた青とは異なるが、同じく時を重ね、深まる色だった。
この選択は、「伝統を捨てた」ことではない。むしろ、私たちが伝統と誠実に向き合ったからこそ、たどり着いた技術であり、そこに文化と技術が対話する瞬間があったと、今は思っている。
青を焼くか、重ねるか。その問いの先に、私たちは「なぜ青にこだわるのか」という答えを見出した。それは、日常にこそエレガンスを──というパリスダコスタハヤシマの哲学そのものなのだ。
ーー
To Burn or to Layer — A Dialogue Between Culture and Technology
The story of Parris DaCosta Hayashima begins with a single pocket watch.
An heirloom Longines piece, with a small seconds subdial at six o’clock and elegant heat-blued hands that had quietly measured time for generations.
We were drawn to that deep, dignified blue.
It wasn’t just color—it was a feeling. A memory of craftsmanship.
Naturally, we wanted to bring this shade into our own timepieces.
But our watches feature a micro-rotor movement, chosen for its thinness, lightness, and everyday comfort.
This design decision also made us cautious—traditional blued steel carries a risk of magnetism, which could subtly affect movement performance over time.
More than that, our vision was to express a unified tone—Konpeki blue—not just on the hands, but also on the indexes, logo, and even certain components inside the movement.
We wanted the watch to feel complete, harmonious.
But with heat-blued steel, each part would age differently, and color consistency would be hard to maintain.
We realized: traditional bluing wouldn’t serve our purpose of elegant daily wear.
That’s when we began our challenge:
Could PVD (Physical Vapor Deposition) achieve the same emotional depth as heat-bluing—without its limitations?
The answer was not immediate.
Reproducing that soft, shifting blue was anything but simple.
We tuned the substrate, adjusted vapor pressure, played with film thickness, and watched countless samples under natural light.
Too dark? It turned black.
Too pale? It lost its voice.
Too smooth? It felt lifeless.
But eventually, we arrived at something that moved us.
A blue that held depth, warmth, and subtle change.
It wasn’t fire-forged. But it felt alive.
Choosing PVD wasn’t a rejection of tradition.
It was, instead, a conversation with it.
An attempt to carry its values forward—with precision, durability, and quiet beauty for modern life.
So in the end, it’s not about burning or layering.
It’s about why we choose blue at all.
And for us, that reason is clear:
To bring a sense of elegance into the everyday.
To craft something timeless—not only in form, but in spirit.
This is the blue of Parris DaCosta Hayashima.
Rooted in history. Realized through technology.
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