
新規事業の旅186 米問題に関する構造的課題の整理と処方箋
2025年5月28日
早嶋です。
新規事業の旅174で昨今の米問題を考察した。今回は、より本質を深堀りした。JAは組合員のために農業ではなく、大家業の支援をして、農業の関心を全体としては希薄させたこと。国自体が制度が崩壊しているにもかかわらずメスを入れていないこと。従い、農地を集約したくても誰も手放さない状態が放置されていること。これらは今の米問題ではなく、政治の責任として、農政の尻拭いとして、大きな変革の時期が今なのだ。その処方箋は、法人化の躍進と土地の集約、それから米の流通の完全なる自由化だと思う。
(JAの役割と収益構造の変化)
かつて戦後間もない日本では、農業が国民の生命線であり、農家は国民の半数近くを占める存在だった。1950年代には約1,500万人以上の農業従事者が存在し、国の政策は「保護と自給」の色彩を強く帯びていた。これに対応するかたちで、農業共同組合(JA)は、営農支援のみならず生活インフラや金融、保険機能までも一体となって提供する地方の小さな国家としての役割を果たした。JAの当時の機能は素晴らしく、このベースがその後の経済成長を牽引した事実はあると思う。しかし、2020年代の今、農業従事者は100万人から200万人まで減少、国民の1%前後にまで縮小しており、その大多数が65歳以上の高齢者なのだ。にもかかわらず、農政の枠組みや支援制度、JAの構造は、戦後の大多数の農家を支える思想に立脚したままで、アップデートがされていないのだ。この制度疲労こそが最大の課題だ。
JAは、本来「農業を支えるインフラ」として発足し、営農指導や農産物の集荷、販売といった実務を通じて農家を支援する組織だった。だが、今日のJAの実態は、その設立理念から大きく乖離していると思う。JAは現在、実質的に「保険会社+地方銀行」なのだ。JAの総収益のうち約9割以上が「共済(保険)」と「信用(金融)」で占められており、営農収益はわずか1%未満で、しかも赤字が続いている。この結果、JA自身に「農業を強くする」インセンティブがないのだ。むしろ、農家が小規模でバラバラであった方が、農機の個別販売や金融商品の貸し出しにおいて収益性が高いという構造的矛盾すらある。営農指導員は、事業的視点よりも組合員との人間関係を重視し、地域内の均衡と保守的な指導に終始することが多い。
この構造は、農家にとっても少なからず影響がある。たとえば、農家はJAを通じて以下のようなサービスを受けるのだ。農機具購入時のローンやリース(トラクター、田植え機、乾燥機など)、施設建設資金の融資(ビニールハウスや冷蔵施設、選果場の設置など)、自家用車や住宅のローン、共済保険による天候・災害リスクのヘッジ(台風や干ばつに備える収入補填型共済など)などだ。このようなサービスは、一見「農家支援」に見える。しかし、実態としてはJAの信用事業、つまりローン利息の加担、共済事業、つまり保険料がJAの主たる収益源となり、営農支援とは切り離された収益構造があるのだ。さらに近年では、都市部の「準組合員」(非農家の加入者)に対しても保険や金融サービスを提供しており、これが全体収益の安定に貢献している。都市住民が自家用車購入時にJAのマイカーローンを利用したり、住宅購入時にJAバンクを活用することも少なくない。2020年時点でJAの準組合員は1,000万人を超え、正組合員(農家)の数よりも大幅に多いという逆転現象すら起きている。
この構造下では、JAが農業を本気で強くしようという動機付けは乏しい。むしろ、農家が小規模でバラバラであった方が、農機具の販売や個別融資の件数が増え、結果として金融収益の最大化につながる構造なのだ。たとえば、地域で共有できる大型機械を導入するよりも、1軒1軒が自前で小型の機械を購入する方が、JAとしては売上になる。また、JAの営農指導員は、マーケティングや経営分析の専門家というよりは、地域内の人間関係や組合内のバランスに配慮した調整役に近い存在で、事業的な視点からのアドバイスや厳しい経営改革の指導を行うことは稀だ。これは、農家側も同じ地域の人間として指導員を見る傾向が強く、対等な経営相談というよりも、相談しやすいお兄さんとか、おじさんのような存在として関係性が築かれてきた。
このようにして、JAは制度上「農業協同組合」でありながら、実質的には地域密着型の金融・保険事業体へと変質しており、農業の強化や産業化を目指す構造的インセンティブをほぼ失っていると言える。この状況を放置すると、農業はいつまでも「事業」ではなく「保護対象」のまま停滞し続けるのだ。
(スケールメリットが出来ない構造)
日本の農地面積は、一つの農家あたりの平均で1.6ha前後だ。米国が180ha以上、オーストラリアが3,000haを超える現状と比べると、桁違いの零細構造と言える。日本の農機具は極端に小型で、狭小農地に対応する特化型が多い。ヤンマーやクボタは、独自の機械を国内向けに開発し、JAの個別融資との連動により独特の小型農業機器のジャンルを確立した。ちなみに、農業の「単位あたりのスケール」が桁違いに小さいことは、「生産コスト」「機械化の合理性」「販売競争力」に直結する。
戦後直後(1950年頃)の農地は600万ha以上あった。これが現在(2023年時点)で、約430万haまで減少している。農地面積も3割減少しているのだ。背景は、農家の高齢化・後継者不足とともに離農がある。更に、市街地化による農地転用(特に都市周辺)、そもそもの耕作放棄地の増加(2020年で42万ha以上)がある。
農地転用は先に説明したJAの信用事業としてのアパート建設融資と深い関係がある。JAは、農地転用の支援として、市街化調整区域における農地の宅地転用手続きを支援する。そしてアパート建設資金(長期ローン)を提供し、併せて建物の火災や地震保険を提供する。そして、不動産の管理委託や入居者募集の代行までをサポートしたのだ。金融支援スキームを活用して、結果的に農業と無関係な大家業の金融サポートを請け負う存在になっていたのだ。ただJAの理屈は筋が通っている。JAは組合員の所得を増加させる目的があるからだ。実際、米や野菜での所得が年収で200万前後だったのに加え、アパート収入が300万から500万の安定収入を作り出した。JAからの融資を受けて建設したアパートは、JAグループの不動産会社が管理・運営を代行するため、「不労所得」に近い状態を作り出す。大学の多い地域(地方国立大学の周辺)、福岡市西区、京都の伏見・宇治、名古屋市郊外などの郊外のベットタウンで顕著に進んだ。
農業への融資は天候・市場価格に左右されて不安定だが、人口ボーナス時期のアパートローンは土地の担保価値が明確で、入居率が高ければ収益も安定でき、更に保険や管理もグループで内製化できことを考えると、JAにとっても高利回りな安定事業となった。借り手は農家の正組合員で最も信頼できる顧客そうだ、貸し倒れリスクも比較的低いと判断した背景もあるだろう。たしかに農家(組合員)の所得は増加して、農家の救済として機能したのは事実だと思う。しかし、長期的な弊害がどんどん露呈しているのだ。それは、農家が本業である農業から離れる構造が固定化したこと。JAが信用+共済ビジネスで肥大化し、営農支援が空洞化したこと、都市近郊の農地は不動産としてしか見られなくなったこと、結果的に農業者は大家というミスマッチな姿が一般化したことだ。
(オーストラリアの農業との比較)
米豪は、確実に規模の経済を活かせる構造が制度的かつ市場的に整っている。豪州では、農業は法人経営(ファームコーポレーション)が主体だ。そのため土地の集約・売買が自由で、農地規模の拡大が容易だった。人を雇って農業をする、いわゆる雇用型農業が一般的。農作業も人力ありきではなく、巨大な農機具(コンバイン、GPSトラクター)をフル活用している。そのため穀物や綿花など、均一で大量生産が可能な作物に集中した。もちろん政府は市場との連動に注力し、直接的な価格統制は少ないのだ。その結果、一人あたりの農民が数百から数千haの農地を管理する仕組みが成立したのだ。
日本の農業をみてみよう。結論を言えば、今の構造で何かをしてもどうにもならない状態だと思う。土地は分散し、スケールメリットが出ない。小さな土地に機械化を進めている。土地の広さと比較して農機具が高額になるが、土地そのものが狭くて活用回数も収量も少ない。更に、農業を主体的に進める方々が高齢化による体力と判断力の限界がきている。いまだ農業の法人化率は2割以下で、市場で売る努力よりも補助金で赤字を充填する構造が一般的になっているのだ。海外とのコスト比較のみをすると、スタート地点で負けが確定しているのだ。
ただ例外的成功要素はかなりある。特化型高付加価値農業は、日本の得意技だと思う。シャインマスカットや夕張メロン、高級イチゴや果物などだ。それから6次産業化による地域加工や観光とセットとして捉えた農業。また地域での農地集約と法人化は北海道などの一部では進んでいる。
(流通の一律化と品質インセンティブの欠如)
JAによる米の流通もまた問題である。JAは農家から米を集荷し、等級制度に基づき一律に近い価格で買い取る。理論上は品質評価は存在するが、実態としては「量重視」の集荷構造が強く、個々の農家が努力しても報われない仕組みが根づいている。さらに、JA経由での流通は販路が限定され、農家は「売り方」を学ばずとも生き残れてしまう。結果として、農家はマーケットインではなく、プロダクトアウト、つまり自分たちが作りたいものを作るという構図に陥いったのだ。流通やブランディングの視点が育たず、事業者としての意識形成も起きにくい構造にしてしまったのだ。
JAは長年にわたり、全国の農家から米を集荷し、等級制度に基づいて買い取る形をとってきた。表向きは「品質に応じた評価」だが、実態は「量と安定供給」を最優先した仕組みに他ならない。たとえば、1等米、2等米、3等米といった等級差はあるものの、その差額はせいぜい数百円から千円程度。そのため、手間暇をかけて品質を高めても、コストとリターンが合わないという現象が発生していたはずだ。
魚沼産コシヒカリの農家は、山間部の棚田で減農薬・手作業に近い方法で丹精込めて育てている。1kgあたりで言えば市場では2,000円前後で売れるブランド米だ。しかし、JAに卸すと60kgあたり15,000から16,000円(1kgあたり250〜270円)でしか評価されない。この農家は「自分で売らなければ意味がない」と、オンライン販売に移行するも、周囲の多くはJAに出荷するしか販路がなく、「やっても意味がない」という空気が定着するのだ。そして、JAを通じて出荷すれば、誰かが買ってくれる。となる。この安心感は一方で、農家自身がマーケットを知らず、ブランディングも販促も行わない文化を温存させてしまったのだ。本来、農業を「事業」とするならば、「どこに」「誰に」「どんな価値で」売るのかを考えるのが本来だ。しかしJAの仕組みはそれを奪う形で農家の農業経営者化を阻んでしまう結果になった。
更に、飼料米の政策が農家を駄目にしたと思う。国は余剰米の対策で、飼料用米の生産を奨励した時がある。これは、家畜の餌として米を使い、主食用米の供給過多を調整する政策的措置だ。一見何も問題はないのだが、この飼料米が、補助金により主食用米と同じか、それ以上の収入になるよう設計されてしまったのだ。主食用米が60kgあたり13,000円から14,000円に対して、飼料用米が60kgあたり8,000円程度、そして補助金で6,000円以上が加算され、実質14,000円以上になったのだ。つまり、「努力して人間が食べる高品質の米を作る」のと、「大量に作って牛や豚に食べさせる米を作る」のとで、収入がほとんど変わらない、もしくは飼料米の方がリスクが低くて手堅いという逆転現象を起こさせたのだ。農家の意欲を著しく削ぎ、「頑張るより飼料米。飼料米よりアパート経営」という流れを加速させたのだ。
(政治責任と票田としての農政の限界)
農業の制度、構造の中核にあるのは、農業を「競争の主体」ではなく「守るべき存在」と位置づけ続けてきた国家の姿勢だ。確かに、かつての飢餓体験、戦後の食糧難を経て、農業の保護は国策で最重要だった。しかし、人口構造も国際競争も全く異なる現在において、過去の枠組みを延命し続けることが今まさに最大のリスクとなっているのだ。ここまで述べた構造の硬直化の背後には、政治の意図的な不作為がある。日本の政治家は農村を「票田」として耕す」ことに熱心であり、「産業としての農業を再構築する」意思を欠いていたのだ。
農家は人口比では1%から2%に満たないが、地域としての選挙区では政治的影響力が今でも大きい。このため、「農業改革」は票離れを恐れて常に避けられ、JAと政治家の間には見えない相互依存が構築された。その結果として、農業は構造転換を迫られず、補助金と制度で延命され続けてきたのだ。今、総理大臣が「米を3,000円代で提供できなければ責任を取る」と発言する事態に至ったのは、この延命政策の末路だ。構造を変えずに価格だけを操作するのは、経済の原則を無視した幻想に過ぎない。
(処方箋)
日本の農業、とりわけコメを中心とした構造的課題は、ここまで述べた通り制度疲労と構造的矛盾に満ちている。私が考える対策の方向性は、農地の法人化と流通の自由化と販路の多様化だ。国内外の成功事例を研究し、今後の人で不足に備えて機械化を併せて進めていく流れだ。
国内にも成功事例は溢れている。北海道の大規模農業法人モデル、長野の高冷地での高付加価値野菜の生産、熊本や福岡のブランド果実、都市近郊の観光連携型6次産業化など、日本には既に光る成功事例が存在する。これらは高付加価値型の農業として、輸出産業にもなり得る希望の芽である。それぞれの事例を個別に深掘りし、その要諦を明らかにすることが、再現性あるモデルとしての確立に不可欠だ。
海外事例からの学びは、農業の工業化だ。オランダでは温室栽培やAI制御によるスマートアグリ、物流の徹底的な効率化により、国土が狭くても農業輸出大国となっている。カリフォルニアでは干ばつ地帯にもかかわらず、集中管理と高効率生産で世界市場を押さえている。これらは「土地の広さ」ではなく「技術と知恵」で勝っている事例だ。
さらに、流通に関しては視野を国際的に広げる必要がある。安く仕入れられるものは海外から買い、高く売れるものはそのエリアに直接販売するという「経済合理主義」に立つことだ。ただ、米国のように分断を良しとするトランプ的保護主義が再来した場合には最適地への販売が妨げられるリスクもある。そのため、初めから米国依存を避け、アジアや欧州など他の市場を合理的な販売先と見据えて戦略を立てるべきだ。
農業テクノロジーも進んでいる。ドローンによる播種・防除、センシングデータによる水管理、AIによる収穫予測、労働力不足を補うロボット導入、さらにはブロックチェーンを用いた流通履歴の可視化など、農業は既に第四次産業革命の射程にある。問題は、それを使いこなせる経営体と、活用できるだけの規模と人材が存在するかどうかに尽きる。
これらを踏まえて、法人化と流通の自由化を徹底的に進めることが私は良いと思っている。農業の法人化は、しかしながら現実的な壁がある。今の農家は、土地をそもそも手放さないのだ。農地の固定資産税は住宅地に比べて極端に低く、保有コストが小さいため、所有権の移動が進まない。また、相続税も農地については特例措置があるため、代々の相続が繰り返されても土地は細分化されたまま残りやすい。この硬直性を打破するために提案したいのが、農地配当スキームだ。農地を集約化したい法人に対して、農家が土地を提供し、その対価として法人から配当を受け取る仕組みを設ける。さらにこの配当権は1世代まで無税で相続できるようにし、それ以降は通常の課税に戻す。これにより、農家には手放す合理的インセンティブが与えられ、農業からの撤退も「責められることなく選択できる道」として提示される。
それから、流通の自由化と販路の多様化だ。現在、流通業者が中間マージンを乗せて価格を引き上げる構造があるが、価格情報が不透明であり、農産物の価格が実際の原価と乖離している。完全に価格が自由化され、かつ透明化されれば、農産物の原価の3倍程度で市場価格が安定するだろう。今の米の小売価格(5キロで約4,000円)は、そもそも原価が高すぎる構造によるものだ。だが、大規模化と合理化が進めば、現状の1キロ250円から300円の原価は1/10の25円から30円まで下げられる可能性がある。そうなれば5キロ500円でも利益が出せ、1,000円ならば関係者全体が潤う構造になるのだ。
(法人化)
農業の法人化は、現代の日本農業における最大の課題だ。しかも、単に法人をつくれば良いという話ではない。根本にあるのは、土地が動かない構造そのものにある。今の農家は、土地をそもそも手放さない。理由は明確だ。農地の固定資産税は住宅地等と比較すると極端に低く、地域にもよるがおおよそ1/1000以下といった水準である。実際、坪単価で見ると都市部の住宅地では年間数万円の課税がある一方、農地では数百円で済むことが多い。また、農業を継続する限り、相続税においても「農地納税猶予制度」が適用され、最大で100%近くの納税が免除される。結果として、土地を持っていれば課税も売却圧力もかからない、保有コストが極めて小さい資産として農地は温存されているのだ。
この制度構造の中で、「法人化して土地を集約しましょう」と叫んでも、誰も土地を手放さない。結果、法人が事業拡大しようにも農地を確保できず、耕作放棄地が増えても実際には手が出せないという逆説が起きている。この構造を変えるためには、土地を手放すことに合理的なインセンティブを与える制度が必要だ。そこで提案したいのが、「配当受取型土地提供制度(仮称)」だ。この制度は、農地を集約化したい法人に対して、農家がその土地を提供する代わりに一定の配当を継続的に受け取れるという仕組みだ。つまり、農家は地主ではなく法人の収益に連動する出資者となる。さらにこの配当権利については、一世代まで無税で相続できる特例を設け、それ以降は通常の課税対象に戻す。これにより、農地を事業に役立てながら、農家には退場のための尊厳ある出口を提示できると思う。
効果として、農地の流動化が進み、事業化・機械化が可能となる。農家にとっては、農業を辞めた後も安定収入を得られる。法人にとっては、長期的な経営計画や投資が可能になる。農地を手放すことは裏切りだという道徳圧力から、農家を解放できるなどがある。ただし、この制度には新たな法整備が必要になる。農地法の制約を超えて法人への提供を認める仕組み、相続税法上の配当相続に関する特例、そして農地を資本として活かすための新たな農業経済法の設計だ。すでに耕作放棄地は全国で42万haを超え、持ち主不明の農地も急増している。土地が「耕す手段」ではなく、「動かない過去の遺物」と化している現実に、正面から向き合うべき時だ。農業の法人化は、単なる経営体の問題ではなく、農地を事業として活かすか、放置して腐らせるかの選択なのだ。
(流通の自由かと販路の多様化)
流通の自由化と販路の多様化は、農家の収益構造を変える前に、農産物の価格がそもそもなぜ高くなるのか、その根本を問い直すところから始めなければならない。現在、日本のコメの小売価格は、1キロあたり800円から1,000円前後が一般的でだ。一見すると、「流通が乗せすぎている」「中抜きがひどい」と思われがちだが、問題はそこではない。そもそも、1キロあたりの生産コストが250円から300円もかかっていること自体が最大の問題なのだ。農林水産省の2022年統計では、全算入生産費は10aあたり約12万8,932円、60kgあたり約15,273円。つまり、1キロあたりおよそ255円となる。これが標準的な日本の米農家のコスト構造だ。小規模・高齢化・分散化された農地に、個別融資で導入された高額な農機具、補助金依存の営農体制。このすべてが絡み合い、「努力してもコストが下がらない農業」を作り出したのだ。
対して、アメリカではカルローズ米が1キロあたり50円から100円程度の原価で生産されており、オーストラリアに至っては国産中粒米がスーパーマーケットで1キロ約350円(小売価格)で販売されている。輸送費や関税を考慮しても、生産段階の原価は日本より圧倒的に低い。その理由は明白で、大規模農業のスケールメリット、徹底した機械化、土地集約、法人経営、販売までを内製するモデルが機能しているからだ。
つまり、ここで問うべきは「末端価格が高いこと」ではなく、「なぜ1キロ300円もかかる農業を続けているのか」ということだ。そしてこの問いに真正面から答えるのが、農業の法人化と土地集約化であり、その次に必要なのが、この構造から解放された農家が「自由に売る力を取り戻すこと」になる。流通の自由化とは、単にJAを通さずに売るということではない。農家自身が価格を設定し、販路を選び、顧客とつながる「経営主体」に立ち返ることだ。具体的には、契約栽培による飲食店・学校給食・企業向け供給や、D2C(Direct to Consumer)モデルによるオンライン販売、地元マルシェ・直売所との連携、SNS・ECプラットフォームを活用したブランディング、そして地域外消費者や海外富裕層への高付加価値商品提供などがある。
しかし、これにはスキルが必要だ。農業にマーケティング、ブランド戦略、物流、価格設定の能力が求められるのは当然であり、それを支える教育と制度が今後不可欠になる。自由に売るとは、自由に責任を持つということなのだ。だからこそ、国は支援策を構造的に設計すべきである。それは、JA集荷制度の見直しと、販売チャネル多様化の容認、6次産業化に対応した農家向け経営研修の整備、オンライン直販のためのインフラ補助・物流統合、輸出市場向け農産物ファンド(輸送・規格・プロモーションを統合支援)等だ。
価格が自由になれば、農家が原価を意識し始め、コストを下げ、品質で勝負する姿勢が育つ。今は価格が固定され、努力が報われず、「出せば売れる」というぬるま湯の中に、農業が眠っている。この眠りを覚ますのは、法人化による構造変革と、流通自由化による価格競争の導入しかない。農業はもはや「作るだけ」ではなく、「売るまでが農業」なのだ。
農業を「保護対象」から「戦略産業」に変えるには、票田政治の延命装置であった旧来型農政を断ち切る覚悟が不可欠だ。農地は耕作のためにある。農家は地主である前に経営者でなければならない。努力が報われる市場構造を創るために、制度、流通、技術、教育すべてを変える時が来ているのだ。
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旧暦コラム 四月尽
2025年5月26日
早嶋です。
2025年5月25日。新暦ではもうすぐ初夏と呼ばれる頃だが、旧暦では4月29日。卯月の終わり、四月尽と呼ばれる日だ。公園では、草木が一斉に伸び、みるみるうちに地面を覆う。雨が降るたびに、その勢いは加速し、大地そのものが目覚めていくようだ。福岡城趾のお掘りに沿った水路も、数日前まで静かな流れだったのが、今は一変、草花が水面を覆い尽くしはじめている。その先には、蓮が芽を出し、葉を水に浮かる。命のひらきだ。四月尽は、旧暦四月の終わりを意味する言葉だ。「つきる」という響きには、どこか切なさや寂しさがある。反面、単なる終わりではなく、次の季節の始まりを告げる節目でもある。
この時期の水辺の植物は一斉に目覚める。蓮もその一つだ。泥の中から芽を出し、水面に大きな葉を広げる。葉は青々としていて、雨粒をはじく。その上に、白や桃色の花が咲くことを思うと、今の静けさが序章のように感じられる。蓮が葉を広げるこの季節、カエルたちもまた命の変化の只中にある。春先に孵ったオタマジャクシたちは、ちょうど今、足を生やし、尻尾を縮め、小さなカエルへと姿を変えていく。雨が降り、気温が上がると、カエルたちは鳴きはじめる。それは夏の訪れを告げる自然のサインだ。命が音と姿であふれる季節。旧暦でいえば、それはまさに卯月の終わりから皐月の始まりにかけての出来事である。
四月尽の日、我が家にもひとつの節目が訪れた。自治体のソフトボールチームに所属する次男が、チームとしてのはじめての体外戦だった。新チームは、6年生がひとりもいない5年生以下のチーム。キャッチャーの息子とピッチャーが5年生で、あとはみんな4年生以下。小さなチームが試合が出来るとは思っていなかった。ちびっこ達は、ボールを怖がり、逃げて取るだけで拍手が湧く状態。それでも繰り返し練習を重ねて、ようやくボールを取るようになる。そして、投げられるようになる。一歩ずつできることが増えてきたのだ。試合の勝敗はどうでもよく、チームが節目に立ち、次へ踏み出すその瞬間に立ち会えたことが嬉しかった。蓮の葉が水に浮かぶように、蛙が水面に顔を出すように、チームは自分たちの季節を切り開いた一日だった。
新暦で過ごす私たちは、月と自然とのつながりを見失いがちだ。旧暦で生きていた人々にとって、月の満ち欠けと自然のリズムは直結していた。田植えが始まる頃には蛙が鳴き、蓮の葉が水面を覆う頃には水路に涼が生まれる。梅雨入りと呼ばれる言葉すら、自然の動きに寄り添っていた。この時期は、麦の収穫期、麦秋でもあり、また田植えの準備に忙しい農繁期のピークでもある。自然の満ちる力と、人の働きが重なる、生命の高鳴りの季節だ。
四月尽。尽くとは、消えることではない。満ちて、溢れ、そして次の流れに移ること。次男率いる新チームの公式戦は6月1日。長男は中学校で別の試合。これまで兄弟揃っての試合応援が当たり前だったが、別々の場所で各々プレーをする。親としてはどちらも応援したいし声を掛けたい。我々夫婦にとっても新しいフェーズが始まったのだ。
新規事業の旅185 両利きの経営と時間をつなぐ仕事
2025年5月23日
早嶋です。
(両利きの経営という前提)
企業が成長を続けるために抱えなければならない矛盾がある。それが「両利きの経営」だ。これは、既存事業を深化成長させる努力と、新たな事業を探索創造する取り組みを、同時に並行して進めることだ。前者は効率性、再現性、正確性が求められる世界で、後者は柔軟性、仮説検証、失敗からの学びが求められる世界だ。この2つは、性質も、必要とされる組織文化も、求められる人材の資質も異なるため、両者を一つの組織内で共存させることは簡単ではない。
この既存(深化)と新規(探索)のバランスを誤ると、企業は未来に対する成長の糸口を失ってしまう。実際に、安定した収益を出していた既存事業が、突如競合や技術革新に押され、あっという間に陳腐化してしまうことは、これまで何度も繰り返されてきたと思う。にもかかわらず、多くの企業は新規(探索)に向き合うことができない。なぜなら、新規(探索)は成果が見えにくく、社内の評価制度や資源配分の論理が、どうしても短期成果を求める既存事業に傾く構造があるからだ。
(新規事業が「探索」されない理由)
新規(探索)の役割を果たすために、多くの企業がCVC(コーポレート・ベンチャー・キャピタル)やR&D部門を設置している。形式的には両利きの構造を備えているように見えるが、実態は異なる。一定期間(多くは3年から5年)成果が見えなければ、経営会議で「回収が不透明」「収益貢献が薄い」とされ、資源が再び既存事業へと戻されるのだ。
これは、「時間の非対称性」と「不確実性耐性の低さ」からくる。新規事業は本質的に時間のかかる営みであり、すぐにKPIが達成できるものではない。また、既存事業のように市場が整い、収益構造が明確になっているわけでもない。そうした前提に立って戦略を描くべきだが、短期で成果を出す前提で設計されるから、プロジェクトは頓挫する。しかも、経営者自身が新規事業のメカニズムに対する実体験を持っていないことが多く、正しい支援や評価が行われにくいのが現状だ。
資本主義が強すぎて、株主に対して四半期ごとに成果を示さなければならないプレッシャーもあるだろう。長期的に安定的にその企業を応援する株主は少なく、やはり自信の利益を確定するための株主は長期的な利益よりも短期的な利益に焦点がいくのである。ここにも矛盾はつきない。
(CVCの本当の役割)
本来、CVCは単なるファンド運営やスタートアップ投資のために存在するのではない。最も重視すべきは、既存事業が抱えている顧客課題、特に「顧客があきらめていること」「無意識に努力していること」など、いわゆる「ジョブ」を発見し、それを外部の知を活用することで価値創造を行うという点だ。
そのために、CVCチームはまず既存事業の顧客理解を徹底することが大切だ。顧客インタビュー、利用状況の観察、サービスの前後工程の棚卸しなど、多角的に顧客の業務や生活に踏み込み、潜在的な不満やニーズを抽出するのだ。そこから見えてきたジョブに対して、自社の技術やリソースで解決可能かを検討する。解決困難な場合は、CVCとして外部スタートアップとの連携を模索する。
そのジョブを解決出来そうなスタートアップを常に100社以上リストアップし、Zoomなどで対話を繰り返す。投資を前提にしたコミュニケーションではなく、ジョブ解決に向けた可能性探索としての接点である。もちろん、この際に、一企業担当者が連絡するよりもCVCとしてコンタクトをとったほうがスタートアップの対応は早い。
やり取りの中で感触の良いスタートアップはミドルリストに追加し、より深いディスカッションを経て、事業連携やPoC(実証実験)、出資に進むのだ。重要なのは、出資そのものではなく、「どのジョブに、どの技術が、どのように刺さるのか」という事業構造を描ききることにある。もちろん、CVCの機能にもリトルハイアにこそ価値がある。この議論を起点に継続的に事業部に価値を与える存在にスタートアップが出来るようにチームとして継続的に伴走支援するのだ。
(Dの意義と外部との共創)
R&Dの文脈で言えば、これまで多くの企業がR(研究)に注力する傾向にあった。たしかに、10年後の技術シーズを先行して押さえることは、競争優位の源泉となるし継続する必要は引き続きある。一方、D(開発)についてはどうだろう。Dは、研究成果を製品化・サービス化する過程とされるが、必ずしも内製化にこだわる必要はない。更に昨今の直近の成果を急ぐ企業のD(開発)の役割は、上市した製品の不具合を一生懸命こなす部隊として取組んでいる姿も多々観察できる。本来、両利きの経営を行うのであればD(開発)の役割にもフォーカスすべきなのだ。
つまり、顧客起点で見出した課題に対して、外部の技術やソリューションを「共に開発する」姿勢だ。CVCとR&Dが連携し、社外スタートアップと共に、仮説構築と試作を高速で回すことで、未来の事業の芽を作っていく。これは、従来の「自社で完結する開発」から、「越境して編み直す開発」への転換であり、まさにDの再定義といえるだろう。
特に両利きの経営を行ううえでの「D」は、既存事業の深化に寄与する改善的な開発ではない。探索活動と連携して顧客の未解決ジョブに対する新たな価値を生み出すという意味合いが強まるのだ。これは従来の「開発=研究成果の製品化」という直線的な発想とは異なり、「ジョブドリブンで外部知を活かして新しい文脈をつくる」という、より複雑で動的な開発プロセスを意味するのだ。私はこの点に気づき言語化できたことで、Dの役割をより広く深く捉え直す視点を持つことができた。
(経営者の学習能力と、時間の壁)
ここまで述べてきた構造は、理屈として難しくはない。にもかかわらず、なぜ企業は同じ過ちを繰り返すのだろうか。それは、「合理を阻む感情」と「時間の断絶」があると最近は思っている。
特に問題なのは、経営陣の交代による、探索プロジェクトの打ち切り構造だ。新規事業の多くは5年から10年かけて芽を出す。一方で、経営者の任期は多くの場合3年から5年程度だろう。交代した新体制が、前任の掲げたビジョンやプロジェクトを「自分ごとではない」として止めてしまうことが、実に多くの企業で起きているのだ。
さらに、一部の経営者ではあるが、ファイナンスや戦略、海外企業との連携といった重要なテーマについての知識や言語アレルギーを抱える経営者も少なくない。ここに、「学習し続ける経営者」と「思考を止める経営者」の分かれ道が生まれている。仮説を立て、自分の言葉で議論し、理解できないことに愚直に向き合う経営者は、組織の知性そのものを底上げしていく。だが、表層的な理解にとどまり、自分の専門領域でしか語らない経営者では、探索は続かないし、結果的に組織の衰退を招いてしまうのだ。
(時間をつなぐ役割)
我々、コンサルの仕事には、大きな役割があると思う。それは、「時間をつなぐ」ことだ。施策を導入することももちろん大切だ。そして更に、定着させることは行動を促し成果に直結する。変化を一時的に起こしても元の鞘に収まってしまう。そうではなく、継続的に育てることだと思うのだ。5年、10年という時間軸の中で、プロジェクトが途中で中断されないように、経営者が交代しても文脈が失われないように、組織の記憶として残し、橋渡しをする。それはまさに、未来に向けた「時間の番人」としての役割なのだ。
企業が本気で未来を創りたいと考えるならば、単に探索部門を設置するのではなく、その活動が持続するように、制度・評価・文化・人材・時間すべてをデザインし直す必要がある。そして、それを後押しする役割の選択肢に、我々のような第三者も存在しているのだ。
経営者が交代しても、顧客のジョブは続いている。探索は続けなければならない。ビジョンは続いているからだ。従い、我々はそれらを次代へとつなぐ文脈として設計し、受け渡すのだ。それが、「両利きの経営」における、もう一つの両利き──過去と未来をつなぐ仕事だと思う。
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新規事業の旅184 植物カルチャーの進化と熱狂の正体
2025年5月22日
早嶋です。
この10年、日本の植物カルチャーは大きく様変わりしたと思う。かつて観葉植物は、パキラやポトスなどの「空間を彩る緑」として、インテリアの脇役だった。園芸は高齢者の趣味か、郊外の庭付き一戸建ての話であり、都市生活者にとって植物とは「管理すべき存在」にすぎなかった。
しかし今、その常識は覆りつつある。植物はただの装飾ではなく、「再現芸術」としての趣味の対象になった。アフリカや中南米に自生する多肉植物やサボテン、湿度を愛する熱帯雨林系のシダや着生植物、さらには水槽内でジャングルの生態系を構築するアクアテラリウムまで、育てる対象も方法も、驚くほど進化している。
この変化の背景にあるのは、明確にテクノロジーの進化だ。たとえばLEDライト。わずか数年前まで高価だった育成用ライトは、今では波長を調整でき、植物の光合成に最適なスペクトルを安価に再現できる。さらに湿度・温度・風・CO₂濃度といったパラメータを調整できる機材も揃い、もはや日本の四季とは無関係に、地球上の特異な環境を再現することが個人でも可能になったのだ。
この再現の文化は、水槽の中にも及ぶ。熱帯魚ファンから派生したネイチャーアクアリウムでは、自然の渓流やジャングルをそのまま切り取ったような光景が、都市の水槽内で静かに展開されている。もはや水を張ることすら必須ではない。苔や着生植物だけで構築された陸上の熱帯水槽の世界もある。つまり、植物カルチャーは「生育」から「再構築」へと進化したのだ。
そして、この「再構築」の美学が、いま水の中にも、土の上にも静かに広がっている。水槽を使って熱帯雨林の空間を再現するネイチャーアクアリウムやアクアテラリウムでは、水中だけでなく陸上に湿度を帯びたジャングルの一角を描き出すような構成が増えている。流木に着生する植物、ミストで湿る苔、下層に潜むエビや小魚たち。そこにあるのは単なる水槽ではなく、生きた風景なのだ。
この「生きた風景」を、より植生や地域性にこだわって表現しようとするスタイルが、近年静かに注目されている。それが「ハビタットスタイル」だ。ハビタットとは「生息環境」を意味する言葉だが、ここでは、植物が自生する地形や環境、他の植物との共生関係まで含めて再現する飾り方を指す。たとえばナミビアの乾燥地帯で風に削られた岩の裂け目に自生するハオルチアを、あえて同じような岩場風に配置して飾る。または、東南アジアの熱帯林で木にしがみつくように生きるビカクシダを、壁面に倒木を模した流木とともに飾る。
これは単なる見栄えの問題ではない。植物の姿や形、色彩を、なぜそのように進化させたのかという「意味」まで含めて表現するという、より知的なアプローチで、同時に深い没入感を得られる飾り方でもある。都市の室内に、ナミビアの岩場を再現し、インドネシアの熱帯林を壁に掛ける等々。そこには育てるという行為を超え、植物が育ってきた「物語」を空間に翻訳するという新しい愉しみがあるの。
このカルチャーの文脈を語る上で、欠かせない存在が雑誌『BRUTUS』だ。2015年、「珍奇植物(ビザールプランツ)」をテーマにした特集号が話題を呼び、それ以降も2016年、2018年、2019年と連続して特集を重ねた。そして2020年には、過去の内容をまとめた『合本・新・珍奇植物』がムック本として発行されるまでに至る。
『BRUTUS』は単なる園芸雑誌ではない。彼らの特集は「ファッション」と「自然」を接続するという独自の目線で編集されており、植物を美意識の対象として都市生活に再定義することに成功した。そして2025年には、6年ぶりに「珍奇植物」の特集を再掲。LEDの進化、栽培環境の進化、自生地探訪記などを通して、植物カルチャーが趣味やブームの域を超え、知的で情熱的なコミュニティに支えられた一つの文化になったことを証明した。
この文化の深化は、SNSと動画プラットフォームによって加速したと思う。Instagramでは「#コーデックス」「#塊根植物」などのタグが定着し、YouTubeには育成記録や自生地のVlogが次々とアップされている。かつては数少ない専門家が知っていた知識が、民主化され、体系化され、次の誰かの「育成物語」へと変換されていく。
やがて、熱心なマニアたちは自らの育てた植物を互いに交換・売買しはじめる。その過程で自然と目利きの感覚が醸成され、植物を見る目と語る言葉に文化が宿るのだ。同じ種であっても、幹のうねり方、葉のつき方、育ち方、あるいは根の張り具合といった風貌によって価値は大きく異なり、「個体差」というアート的な概念が重要視されるようになる。
こうして、一点ものとしての個体にプレミアムがつき、市場が自然発生的に立ち上がる。それは単なる金銭的な売買ではなく、背景にある育成技術や審美眼、そしてストーリーまでもが取引されているということなのだだ。この構造は、クラシックカーやヴィンテージの機械式腕時計、あるいはアート作品の世界と極めて似ていると思う。機能を超えた「意味」と「時間」が宿る対象物に、人は無意識に価値を感じるのだろう。しかも植物には、時間とともにその姿が変化するという成長がある。固定された物体ではなく、常に変化を続ける存在であるという点が、より一層この市場に奥行きを与えている。
面白い点もある。熱狂が大衆へと波及するきっかけだ。しばしば著名人のふとした所作だったりするのだ。テレビや雑誌、SNSの一枚に映り込んだ塊根植物やサボテン、あるいはリビングの隅に吊るされたエアプランツ。その一瞬の目撃が、熱狂の導火線になることがあるのだ。「◯◯さんの家にあったあれ、なんだろう?」そんな問いが検索され、名前を知り、育て方を知り、やがて市場が生まれるのだ。文化は熱狂だけでは成立しない。認知、共感、再現というプロセスを経て、はじめて人々の間に根を下ろすのだ。著名人の一言がそれを加速させるのは、カルチャーが成熟しつつある証でもあると思う。
現代の植物カルチャーは、単なる園芸の延長ではない。それは、技術と情報を手にした都市生活者が、「自然の一部を自分の部屋で再現する」という地球規模のミクロ表現であり、環境と美意識を自ら編集する創造的な行為なのだ。植物は生き物である。一方で、文化を体現する媒体でもある。このことに気づいた人々が、いま世界中で、静かに熱狂しているのだろう。
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新規事業の旅183 PMIの失敗要因
2025年5月20日
早嶋です。
M&Aを行うことは買い手にとって戦略を行使する選択肢の一つだ。以外にもPMIを丁寧に組織にインストール出来ている事業会社はまだ少ないと思う。PMIの失敗は2つあり、「戦略なき買収後にそのまま統合に突入するケース」「PMIのゴールと成果が曖昧なままPMIが進むケース」がある。大きな意味では戦略の不足だが、日本の事業会社を観察していると敢えて2つに分けると理解が進むと思う。
(戦略なき買収後にそのまま統合に突入するケース)
この場合、特に以下のような案件で顕著だ。たとえば、金融機関や取引先からの紹介、特定の役員人脈から持ち込まれた案件、スキーム主導(節税目的や一時的なBS/PL改善)で進む買収だ。この3つの共通項は、買収を中止する選択肢が最初から存在しないことだ。意思決定の段階で、すでに「買うこと」が前提化している。それにもかかわらず、統合後に事業を引っ張るべきリーダーは、買収時点では蚊帳の外に置かれている状況が非常に多いのだ。
この分断が致命的だと思う。本来は、「誰が責任を持って経営するのか」という問いを常に立てられるように、言い出しっぺの当事者を初期段階から巻き込み、PMIのチーム編成においても、以下の3者は必須メンバーとするべきだと思う。それは、全体戦略を理解する者(経営企画や新規事業責任者)、PMIの現場作業を実行する担当者(財務経理総務人事等の管理部門等)、そして統合後の数値責任を持つ事業リーダー(P/L責任者)だ。この3者が揃ってこそ、「やるべきこと」だけでなく「やる意味」「やる覚悟」が揃うのだ。
(PMIのゴールと成果が曖昧なままPMIが進むケース)
M&Aの目的や大義に対して、「シナジーを出す」「コストを共通化する」といったふわっとした目的だけが共有されているケースも非常に多い。ここは更に深掘りをして掘り下げるべきと思う。「どの分野でどれだけのコスト削減をするのか?」「売上シナジーはどのプロダクト・チャネルで生むのか?」「それはいつまでに、どのくらいの数値で可視化されるのか?」等々だ。
こうしたKGI(最終目標)やKPI(進捗指標)が不在のまま時間が経過し、「まあ少し赤字が減ったからいいか」とうやむやになる。結果的に、PMIプロジェクトは管理職の評価対象にもならず、次の買収で同じ過ちが繰り返されるのだ。
M&Aや統合の規模が例えば小さいときによくおこる。全体の売上が1000億程度で、M&Aや統合する事業の売上規模が10億程度であれば、役員は、そもそも細かな理解はない。一方で、その統合には将来の新規事業の投資金額100億の内、予算で20億とか使うのだ。規模感という勘違いも有耶無耶の原因かもしれない。
その他、補足として次のような項目もPMIには欠かせない。まずは組織文化の適応だ。システム統合や戦略は机上で描ける。しかし「文化」はそうはいかない。報告の頻度、会議体の運営、意思決定の速度、昇進のルールなど、目に見えない「組織OS」が異なる場合、現場は深刻な疲弊を招くからだ。
そして現場の「小さな違和感」を拾い上げる努力も必要だ。PMI初期段階では「スムーズです」と報告されるが、実際は多くの不満や違和感が潜在化している。特に、報告系統が変わる、評価制度が変わるといった「人間の不安」に直結する変更に関しては、ヒアリングや対話を意図的に設計する必要があるのだ。経験すると分かるのだが、経験しないときは、まさか「そんなことで!」と思うことが多々あるのだ。
(理論としての補足)
ちなみにPMIについては、様々に議論されている。現場での肌感や試行錯誤も重要だが、理論やフレームワークとして整理された考え方を押さえておくと、後で立ち返る指針になる。代表的な3つを紹介する。
1つ目は、Haspeslagh & Jemisonが提唱した統合アプローチだ。彼らは、買収企業と被買収企業のあいだにある「組織的な自律性」と「戦略的な相互依存性」という2つの軸から、PMIの進め方を類型化した。たとえば、完全に子会社化して組織ごと吸収してしまう方法もあれば、文化や組織を維持しながら財務的にグループ化する保持型、あるいはお互いのノウハウや資産を活かす対等統合型など、複数のスタイルが存在する。重要なのは、「全てを一律に統合すべき」という発想を捨て、企業の関係性や目的に応じて統合の深度を設計することだ。
2つ目は、マッキンゼーが主張する考えだ。こちらはより実務的な視点からPMIを段階的に捉えたもので、統合が決まる前の戦略整合から始まり、Day1までの具体的な計画作り、統合初日の実行、そして100日間の集中フェーズを経て、最終的に長期的な価値創出に至るという流れだ。重要案指摘は、PMIはDay1から始まるのではなく、むしろその前から準備すべきであると明示している点だ。多くの日本企業が見落としがちな重要ポイントだと思う。Day1にバタバタするのではなく、Day1までにどこまで設計できているかが、その後の成否を左右するということなのだ。
3つ目は、KPMGが示す8つの実務要素による整理だ。これは「統合チェックリスト」として現場で活用できるフレームで、ガバナンス体制の設計から始まり、戦略の再確認、人材と文化の融合、業務やITの統合、財務の整理、ブランドと顧客戦略の調整、さらには社内外のコミュニケーション戦略に至るまで、PMIに必要な観点を網羅的に提示している。とくに初期の段階で「早期の成功体験を作れ」としている点が現場感覚と合致しており、小さな勝ちを積み重ねることで全体の統合をスムーズに進める知恵が込められている。
(まとめ)
M&Aはあくまで手段だ。従い、買い手にとっては取得してからが本領を発揮すべき取組だ。各々のM&Aとその統合は、毎回一回限りの「非連続的な変化」だ。だからこそ、制度と戦略、作業と責任、仕組みと文化を意図的に構築して実務に落とし込む設計が必要なのだ。PMIは、買収を意識した瞬間から始まる。そしてそれを成功させるためには、未来を背負う当事者を巻き込むこと、曖昧な目標を数値と期限で縛り具体化すること。この2点を軽視してはならないのだ。
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【動画】25年度サクセッションプランC3
2025年5月19日
※本ページは、サクセッションプランC3に参加の関係者向けのページです。PW等は事務局に従ってください。
第1回:己と仲間と会社を知る
新規事業の基礎
事業責任者として、一連の事業内容を把握議論する際の考え方、そのヒントを整理しています。経営の知識や事業の立案等に対して、体系的に整理が出来ていないと感じる方は視聴ください。
(おまけ)
第1回は、仲間づくりがメインです。将来の経営陣が関係構築をする理由をポッドキャストで配信しています。ご興味がある方は視聴ください。
ポッドキャスト:経営陣のチームビルディング
第2回:組織長の職責と使命
マネジメントの基礎(不確実への対応)
組織長として、事業を回していく覚悟やマインドセットを行う目的で整理しています。新規や既存に関係なく、不確実性が増す中、事業を切り盛りする責任者に対しての覚悟を問う内容です。
マネジメントの基礎概要
マネジメントの役割(方向性)
マネジメントの役割(行動)
マネジメントの役割(能力)
リーダーシップの発揮
組織長に必要な基本的なマネジメントの考え方を整理しています。
第3回:問題解決(1)
問題解決の基礎(事例と概要)
問題解決の基礎(問題)
問題解決の基礎(課題)
問題解決の基礎(解決策)
問題解決の基本的な考え方を整理しています。
第4回:戦略
戦略思考
企業戦略と事業戦略
成長戦略
基本戦略
環境分析
戦略立案
戦略を議論する際の基本的な知識インプットを整理しています。
第5回:問題解決(2)
事業分析の基礎(概論)
前提条件
問題と課題
市場と顧客
代替と競合
自社分析
マクロ分析
解決策
問題解決思考をベースに、戦略を導き出す流れを整理しています。
第6回:マネジメント
経営計画のポイント
経営計画の詳細
経営計画書を作成する場合の考え方や項目を整理しています。必要な方は視聴ください。
提案書とは
提案書作成の流れ
準備
構想
作成
提案書やプレゼン資料等を作成するまでの流れや考え方を整理しています。必要な方は視聴ください。
第7回:事業提言リハ
プレゼンテーション概論
プレゼンテーションの3つのステップ
準備
コンテンツ
デリバリー
プレゼンテーションについて全体を整理しています。必要な方は視聴ください。
第8回:事業提言
※事前動画はありません。
新規事業の旅182 地方タクシー会社の未来
2025年5月16日
早嶋です。約2800文字。
地方のタクシー会社のM&Aに関与したとき、タクシー業界の未来を感じた。相談を受けるタクシー会社の像は、タクシーの台数が20台から30台程度で、ドライバーの数は台数よりも少なく、20人から25人程度だ。見た目は車の方が多くて余裕があるように見えるが、タクシーの稼働率で考えると5割程度だ。実際は余裕があるのではなく、動かせるドライバーが不足しているのだ。
全国の統計を見ると異なる数字がみえてくる。統計では、法人のタクシーは約18万台あり、ドライバーは23万人いる。ドライバーの方が多い。あれ、矛盾してると思うかもしれないけれど、これは都市部の構造が平均値を引き上げているからだ。東京や大阪などでは、1台の車を2人とか3人で回すシフト制が普通で、タクシーの稼働率も高い。逆に地方では、1人1台、昼間だけ、あるいは決まった時間だけ、という運行が多く、結果的に車が余っている。だから全国平均だけで議論すると、実態が見えなくなるのだ。
タクシー業界全体としては、最近プラットフォームの導入が進んでいる。Uber、GO、DiDiなんかがそうだ。これを入れると、流しの効率が向上する。街中でお客さんを捕まえるのが劇的に楽になるのだ。アプリが集客から、ナビ、そして決済も自動にこなす。何なら道を知らなくてもナビゲーション通りに運転できさえすれば一応タクシーの機能は提供できる。だから、タクシーの未経験でもドライバーとして仕事ができるようになったのだ。
例えば、1日4万円くらいの売上を作り、15日働いたとする。半分が手取りだとすれば、月に30万円くらいになる。地方でこの水準なら、まあまあいい。だが、実際には地方の売上はそこまでいかない。都市部なら4万円から5万円は可能かもしれないが、地方では日当2万から3万円程度が平均だと思う。月収にすると20万から25万円くらいだ。しかも、アプリがあっても、そもそも絶対的にお客さんが少ないエリアもあるだろう。それでもプラットフォームを導入することで、タクシーの運営は劇的に良くなるはずなのだ。
しかし問題がある。プラットフォームの活用は、短期的には稼げる。しかし、長期的には乗せているお客さんが、「自分たちのお客さん」じゃなくなることだ。昔のように、タクシー会社に直接予約の電話をかけるお客さんも減っていくだろう。お客さんのタクシーとの接点はプラットフォーム起点になり、顧客の情報も、移動履歴も、決済も、全部プラットフォーム側が持ってしまうのだ。
今、地元の人が「〇〇タクシーさんに頼もう」と思い、その会社に電話をしても予約が取れないこともある。自分も経験したことがあるが、2日後の朝5時半にタクシーを予約したくても、「出来ない」と言われることが増えてきた。朝の時間はドライバーがいないとか、アプリからの需要が効率がよいからという理由もあると思う。ただ、この状況が広がると、◯◯タクシーの配車係の仕事も、◯◯タクシーと地域の人との接点も、どんどん消えていくのだ。そして、気がつけば商売の根本である顧客との直接的な接点や関係性を完全に失うことになる。
地方の小さなタクシー会社が、今でも経営出来ている理由の一つに規制がある。タクシーは、需給調整規制があり、誰でも自由に参入できない。地域やエリアごとに車両台数が制限され、営業許可が必要だ。簡単に大手や新規プレイヤーが入れない仕組みになっているのだ。だから、車両10台とか50台以下の規模でも、地元では一定の経営を続けることが出来ている。
その規制に守られた小さな会社が、上流工程の営業の予約を自分たちから取らないで、プラットフォームに任せ始めている。守られた規制の中でこれまで培ってきた顧客リストを自ら手放しはじめているのだ。実に奇妙な構造だと思う。
タクシー業界は、ライドシェアのあり方に対して奇怪な動きを見せる。日本でも議論が進んでいて、実証実験も始まっている。ただ、制度の中身をよく見るとおかしな点がある。ライドシェアが解禁されるのは、需要が多い時期や特定のエリアだ。海外のように24時間どのエリアでもOKという訳ではない。更に、仮にライドシェアに参加しようとしても、タクシー会社が管理する車両を使わなければならない等、諸々ライドシェアに参加する運転手からは使い勝手が凄くわるい。結果、タクシーを利用する側の利便性の向上にもつながらないし普及も進んでいない。
こういった制度設計を見ると、誰のための議論なのか、わからなくなる。移動に困っている人や、公共交通が不便な地域の住民のためにこそ、ライドシェアはあるべきなのに、今の方向はタクシー業界の都合が優先されているようにしか見えない。
さらに未来を見据えると、問題はここで終わらない。自動運転、特にレベル4以上の技術が実用化され、同時にライドシェアが解禁される未来が訪れる可能性は十分にある。そのとき、タクシーは「人が運転する乗り物」ではなく、「ソフトウェアと連動した自律走行車」に変わる。人件費がゼロになるのだ。24時間365日、稼ぎ続ける機械が道路を走る。顧客情報をせっせとプラットフォーマーに流し、地元の顧客基盤と交換に目先の利益をあげて生き延びたタクシー会社の未来は暗い。プラットフォーマーはハードを持つことは選択しないだろう。大手のタクシー会社以外は、大型の投資はできない。そうなれば地域のタクシーのオーナーは、例えばソフトバンクやオリックスなど、ファイナンスに長けた企業や、地元の資本を抑えた一部のプレイヤーになると思う。プラットフォーマーと連携して、確実に利益が得られる場所で事業を行うのだ。
小さなタクシー会社は刃が立たない。今のビジネスモデルは、売上の半分を人件費に割り当てる構造だ。その根幹が崩れ、顧客基盤も無くなっている。仮に自動運転車が1台400万円で導入できるようになれば、その投資は数年で回収できる。もはや、人を雇って1日2万円の利益を出すより、機械に任せて5万円を自動で稼がせたほうがいい。小さなタクシー会社は終焉を迎えるのだ。これまで地域に根差し、地元の足として、信頼を蓄積してきた存在だったのにだ。この変化は突然ではない。プラットフォームの便利さに酔いしれ、顧客との接点を放棄し、自社のデータを失い、人を育てることを諦めた結果として、静かに、しかし確実にやってくる未来なのだ。
テクノロジーを否定するつもりはまったくない。しかし、「便利さ」と「支配されること」の違いを、今のうちに認識しておかなければいけないと思う。小さなタクシー会社が生き残る道があるとすれば、それは自社のデータ、自社の関係性、自社のストーリーを、いかに手放さずに持ち続けるかだ。そして、プラットフォームに巻き込まれながらも、飲み込まれない戦略を持つのだ。
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新規事業の旅181 グーループ再編の現場のリアルと理想
2025年5月14日
早嶋です。
現在、日本の産業界では「グループ再編」が国家政策の後押しを受け加速している。経済産業省は、産業競争力強化法の枠組みを通じ、中堅・中小企業を中心に再編を促進しようとしている。背景には、いくつかの構造的な問題がある。
日本の中小企業は、その数が多い反面、1社あたりの規模は極めて小さく、生産性も国際比較で見劣りする。特に、同じ地域や業界内で似たような会社が乱立し、過当競争を招いているケースは多い。経産省は、これを「過少な規模」「過剰な数」「過当な競争」という三重苦と捉え、再編による統合と規模の最適化を通じ、生産性の向上と競争力の確保を狙っている。
再編による効果は多岐に渡る。経営資源の集中、重複業務の削減、財務基盤の強化、人材確保の容易化、そして次世代への事業承継の効率化などが挙げられる。とくに後継者不在が深刻な中小企業にとっては、グループ内再編が企業存続の鍵にもなりうる。
このような政策的な支援のもとで、多くの企業が再編に踏み出している。しかし、現場では、その実行には大きな温度差と課題が存在する。再編のスキームは、親会社が100%出資している完全子会社か、外部に少数株主がいるマジョリティ出資の子会社かで大きく異なる。
完全子会社であれば、親会社の意思でスピーディに再編が進む。社内でプロジェクトチームを立ち上げ、出向者や兼務役員を通じて対象会社に施策を落とし込み、合併や吸収、会社分割などのスキームを設計しながら、比較的円滑に進行することが多い。
しかし、少数株主がいる場合は話が違う。再編にあたっては特別決議や同意が必要であり、経済合理性だけでなく、株主間の利害調整、価格の妥当性、説明責任が生じる。そのため、制度設計よりも関係者調整が主戦場となる。
だが、もっと大きな課題は、実は再編の「中」ではなく「後」にある。たとえば、再編の対象となったグループ会社に、赤字を出している事業があるとしよう。その事業を吸収するか統合するかを決める際、本社の類似部門に統合する判断がされるケースが多い。このとき、本社でその事業を担当する責任者、もしくは再編後の統合会社でその事業を任される人材が必要になる。仮にその人物をA氏とする。
A氏は、本社で同事業を担当していた場合、吸収される側のグループ会社の社長である場合、もしくは外部から新たに登用される場合など、ケースは様々だが、多くの場合、A氏は再編の「後」にアサインされる。再編はすでに決まっており、事業の整理が一段落ついた段階で呼ばれるのだ。
問題はここからだ。再編を決めた段階では、「この事業は今後成長が期待できる」「本社主導で立て直す」という漠然とした意欲はある。だが、その意欲が「事業としての具体的な戦略」や「2〜3年の計画」として明文化されているケースは少ない。本来であれば、M&Aと同じくPMI(Post Merger Integration)フェーズにおいて、A氏を中心に経営企画部門と連携し、組織、業務、人事、財務などの統合計画を詰めるべきだ。しかし、多くの企業では、再編そのものを目的とし、その後の体制整備や戦略策定は「後から考える」ものとして後回しにされる。
その結果、A氏は、統合したが損益はマイナス。組織の風土も異なる。人員整理や設備再配置も済んでいない。という火中の栗を拾わされるような立場になる。しかも、本社の社長がその経緯を理解しているうちはまだ良い。だが、多くの大企業では、社長は2年から3年で交代する。新任の社長にとって、A氏が担っている事業は、「再編したが赤字の部門」でしかないのだ。
たとえA氏が地道に黒字化に向けて努力し、ある程度の成果を上げていたとしても、新体制下では「非中核」「収益性が低い」とされ、最悪の場合は更なる事業売却や縮小、そして人事責任の対象になる。A氏にしてみれば、「自分は会社の命令でやったのに、なぜ責任だけ押し付けられるのか」となる。こうした構造を目の当たりにしてきた事業部長や幹部たちは、再編という言葉に「希望」ではなく「恐怖」を感じ始めていると思う。
では、あるべき再編とPMIの姿とは何か。まず第一に、再編を決定する段階から、A氏のような現場の責任者をPMIチームに参画させることが重要だ。紙の上で戦略を描くのではなく、実行者が事前に全体像を共有し、合意を得ながら進めることで、後の責任の分断を防ぐ。
第二に、再編後のPMIには成果基準と耐性期間を明確に定めることだ。たとえば、「2年は損益を問わず、組織統合と業務の最適化に集中する」「評価指標は、KPIではなく組織融合度や制度整備の完了度」といった具合である。
第三に、トップマネジメントの交代リスクに備え、PMI方針の継続性を制度化しておくことが欠かせない。社長が変わってもPMIの基本方針は役員会で保持され、途中でぶれることがないという構造的な裏打ちが必要だ。
そして最後に、リスクを引き受ける人材への敬意と保障を明文化することだ。うまくいかなかったときに、個人の責任ではなく、組織として再編に取り組んだ結果だと認識し、次の挑戦を許容する文化がなければ、再編に本気で取り組む人材は出てこない。
再編とは、スキームや法務の話ではなく、「人の信頼」の話なのだ。そこに希望を描けるかどうか。いま、多くの企業がその本質を見つめ直すときに来ているのではないか。
TSMCがもたらした変化
2025年5月12日
早嶋です。約1600文字。
本日、「一般社団法人九州・台湾未来研究所の創設記念イベントに参加。基調講演のtsmc著者林宏文氏の講演を聞きながら整理した内容だ。設計と製造が分業する前の日本に戻る可能性は十分にあり、その勝ち筋を九州を中心に目指す方法があると感じた。
TSMCが熊本に拠点を構え、日本政府が1兆円を超える補助を決定したとき、多くのメディアは「製造回帰」や「経済安全保障」といったキーワードで報じた。だが、本日の講演を聴いて、この流れをもっと深く、戦略的に捉えるべきだと思った。TSMCの事例は、単なる工場誘致ではなく、台湾から日本への主導権の一部移転という構造的な変化と捉えることが出来るからだ。
TSMCはなぜ日本を選んだのか。その理由は単純ではない。米国アリゾナ、欧州ドイツ、そして日本熊本という三拠点への展開は、台湾という国家が生き残るための地政学的分散戦略に他ならない。台湾はTSMCという経済的中枢を国外に少しずつ共有することで、各国が台湾の存在に利害を持つ構造を築いている。まさに経済版NATOのようなものだ。熊本はその中で、日本の自動車産業や産業機器産業を支えるアジア側の安全装置として位置付けられているのだ。
TSMCが巨額を投じたアリゾナ工場は、建設遅延・コスト高騰・技術者不足といった問題に直面している。米国では責任ある精密作業に対する文化的乖離が大きく、TSMCが求める基準を再現することは容易ではなかった。工場の建設に対しても2年程度の期間が4年程度かかるなど、政治的な理由での投資の側面が大きい。一方で熊本は、政府・企業・地域が一定の調和のもとでTSMCの製造文化を受け入れている。日本は最先端製造の静かな受け皿として、アジアで最も安定した選択肢になりつつあるのだ。
ただ、日本の半導体戦略には決定的な空白がある。それがIC設計、つまり、何を作るかを定義する力が不足している点だ。製造・装置・材料・歩留まり、これらに強みを持ちながら、設計の分野ではAppleやNVIDIA、Armといった海外勢に完全に依存しているのが日本の現実だ。思想を持った回路設計、つまりIP(知的財産)を日本が生み出せなければ、製造を国内に持っていても最終的にはTSMCの黒子、もしくは下請けにとどまってしまう。
実際、日本国内には活かされていないIPの種が豊富に眠っている。センサー制御、車載電源、ミリ波レーダー、医療画像処理、MEMS、環境センシング。これらの技術は、大手企業や研究機関に蓄積されてきたものだ。しかし、それを再利用可能な部品、つまりはIPとして構成し直し、世界のEDA(Electronic Data Interchange/電子データ交換)環境で流通させる取り組みはほとんど行われてこなかった。これを変えるには、大学・研究機関とスタートアップを結ぶ、いわば翻訳装置が必要なのだ。
研究成果を社会実装へと変えるスピード感と視野を持つのがスタートアップだ。日本のアカデミアには世界レベルの成果があるが、それを事業化し、製品に昇華させる役割がこれまで決定的に不足していた。いま、熊本にTSMCという実体化のための手段がある。そこに、日本の研究者の構想力とと、スタートアップの翻訳する役割としての足を結びつければ、日本は「設計と製造の自立した国」として再生できる可能性が十分に生まれる。
ここで、今回の講演のスライドのまとめが思い出される。そこにはこう書かれていた。
「日本は基礎研究と長期視点、職人気質が強く、台湾はスピードと資本活用に優れる。この違いがあってこそ、電子産業は競争力を持つ」と。
これは単なる美辞麗句ではない。実際に、TSMCを日本に持ってきた構造そのものが、こうした補完関係によって成り立っているのだと思う。日本の研究と、台湾の実装力。日本の重厚な知見と、台湾の敏捷な組織力。これらが交差する地点に、世界と戦える設計思想が生まれるのだ。そしてその思想を回路に変えるのは、我々の意志と、起業家たちの挑戦なのかもしれない。
新規事業の旅180 昭和100年
2025年5月12日
早嶋です。約2800文字。
2026年、昭和が始まって100年の節目を迎える。昭和100年は単なる懐古的な記念ではないと思う。いま我々が生きる令和は、世界規模での分断と再構築が進むな、改めて昭和の思想・文化・経済構造を照らし返す必要に迫られているからだ。同時に、いま日本という国家がどこに立ち、どこへ向かうべきかも、重要な問いとして考える必要があるのだ。
若者のファッション界隈で流行しているY2K(2000年代前後)トレンドには、80年代から90年代の昭和的なモチーフが頻繁に引用されている。ダボっとしたデニム、ナイロン素材、レトロなロゴなど、一度は古くなったはずの要素が「逆に新しい」と再評価されている。また、テレビドラマや配信コンテンツも、昭和的な価値観を現代に持ち込む構造が目立つ。『不適切にもほどがある』のように昭和と令和をタイムスリップ的に対比させたり、『続・続・最後から二番目の恋』のように50代、60代以降の登場人物を中心に据えたものが視聴者の共感を呼んでいる。
昭和という時代は、社会としてのエネルギーに満ちていた。教師が絶対的存在だった部活動、会社での猛烈な労働と遊び、喫煙が許されていた新幹線、未来への希望、そして子どもたちが「夢」を語っていた風景。経済も拡大を続け、人々の努力には報酬が伴っていた。だが現在、多くの若者が「夢を語れない」。年上の我々も「夢を語らない」。未来は明るくなく、努力が報われる実感も乏しいのだ、少なくともそう勘違いしている。登校拒否、出社拒否、社会からのドロップアウトも、もはや特別な選択ではなくなっているのだ。我々の世代は週休2日でも休み過ぎなのに、週休3日を提唱して、働かない改革を推し進める謎の声も市民権を得つつあるのだ。
1980年代、日本はアジアの絶対的リーダーだった。中国は改革開放の入り口、韓国は日本の後追い、ASEAN諸国もまだ新興国で、日本は常に一歩先を走った。しかし現在、構図は大きく変わった。中国は法の緩やかさと巨大な国土、独裁政権という構造を最大に活かして、失敗を繰り返しながら社会実験を繰り返してきた。ITインフラと共に、現場の判断と即応性が進化を加速させた。結果、ITやAIなどの世界に対しては、誰も疑わずに世界のトップランナーである。
韓国は、国のスケールが小さいことを逆手に取り、1997年のアジア通貨危機を契機に外需依存型の経済にシフトした。K-POP、ドラマ、eスポーツ、ファッションなど、文化コンテンツを国家戦略として輸出し、補助金を通じてグローバルブランドを形成した。韓国の認知を高め、質を高める取組として、一部の選ばれた企業には徹底して資本と制度を集中させる設計が国家的になされたのだ。
対して日本はどうか。国内では大企業同士が市場を奪い合い、海外では同じ日本のメーカー同士がカニバリゼーションを起こして共倒れになる。そして他の国々に負けてしまうのだ。国家が方針を示して民間を引っ張る形は皆無で、「内向きな自立」が競争力をむしろ削いでしまっているのだ。
かつての情報収集は書籍や新聞、現地での対話が中心だった。しかし現在、若者を中心に情報取得は動画と音声、タイムラインでの受動的な摂取に変化した。自ら疑問を立てて調べ、答えを考える機会が減り、思考の浅さが社会全体を覆っている。全ては2次情報で済ませ、現地現物現実を感情を伴って感じながら判断する1次情報の重要性を体験として理解することも薄くなっている。
しかし、教育制度は一方で昭和のままだ。答えがある勉強、中央集権型の制度、間違いを避ける訓練、絶対的な権威が生徒や組織を抑圧する制度。いくら情報としてイノベーションを言葉で語ることはできても、リスクを取り挑戦する行動に変える土壌は絶対に育たない、或いは育ちにくいのだ。
一方で、希望はある。それは制度の中ではなく、制度の外に現れているのだ。スケボー、BMX、サーフィン、料理、ファッション、デザイン、YouTubeでの映像制作。このような分野では、子どもたちが自らの意思で世界と接続し、努力を積み重ねて成果を出している。誰かに指示されたわけではない。学校のカリキュラムの成果でもない。「好き」や「好奇心」が原動力になって、ネットに通じる世界をベースに始めから世界の頂点を目指して戦っているのだ。そして、その結果をSNS等を通じて表現できる世界が後押しして、結果的に注目を集める結果を構築している。
現在の日本は、超円安を背景に多くの外国人が訪れている。彼らが魅力を感じているのは、日本の正確さ、親切さ、自然、清潔さ、そして秩序だった社会の佇まいである。これは短期的な観光ブームではなく、むしろ日本が持つ「文化資本」が世界に発見されつつある兆しなのでないか。
それにもかかわらず、日本人自身はその価値を軽視している。古来の木造建築や地域景観を破壊し、東京都に象徴されるように、コンクリートと太陽光パネルによる環境対応プロパガンダに従い、都市の顔を無機質化している。そして、そのコピペを全国に拡張しようとしているのだ。
このような現状を受け、日本にはおおよそ次の二つの選択肢があると思う。それぞれAとBだ。
A:全国を一律にデジタル化・都市化し、均衡ある発展を追求する道。
B:成長可能性の高い都市に集中的に資源を投下し、それ以外のエリアは自然共生型として再設計する道。
A案は理想的である一方で、少子高齢化と財源制約のなかで実現困難である可能性が高い。私は、B案に軸足を置き、構想を展開することが合理だと考える。
これからの時代、日本は「すべての地域を平均的に成長させる」という幻想を捨てるべきだ。その代わりに、成長する都市と、自然と共生するエリアを明確に分け、国家としての構造設計を行うべきだと考える。
例えば、東京、大阪、名古屋、札幌、福岡などの都市部では、デジタル・AI・バイオなどの先端技術と国際人材を集約し、超高密度型都市として強化するのだ。駅直結のビル、タワーマンション、地下・高架の交通インフラ整備。競争と効率性のための都市化を徹底する。
そして、山間部や海岸部、温泉地などを有するそれ以外の過疎が進む偉いも独自の路線を打ち出すのだ。そう、最も人間にとって価値がある自然エリアだ。ここでは、江戸時代的な自然共生型の景観に回帰するのだ。アスファルトや護岸整備ではなく、地形を活かした暮らしを推進し、湯治、農泊、長期滞在の促進を図る。ダムの解体や護岸の自然化を進めることも視野に入れ、自然に戻す活動に注力するのだ。
昭和100年とは、過去を懐かしむだけの節目ではないと思う。むしろ、明治維新や戦後の復興と同じくらいの強度で、国家ビジョンを更新する好機だ。強く成長する都市、慎ましく美しい自然、そしてその両方を支える調和の設計。これを実現できたとき、日本は再び世界の希望たりうる国になるのではないだろうか。
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