
新規事業の旅214 破壊と維持と創造
2025年10月2日
早嶋です。1400文字。
イノベーションという言葉は、度々使い古されながらも、今だに人の心を惹きつけている。新しいことをする。壊す。そして、また創る。そんな営みは一見過激に見えても、実は人間の歴史そのものだ。
ヒンドゥー教の「トリムルティ(三神一体)」の話を思い出す。創造のブラフマー、維持のヴィシュヌ、破壊のシヴァ。これらの神々が途方もない月日の年単位で宇宙を創っては壊すという神話がある。そう考えると、人類がイノベーションを巡って議論していること自体が、すでにそのサイクルの中にあるのではないかと思えてくる。
企業においても、コンピテンシー・トラップという罠がある。過去の成功体験が逆に視野を狭め、新しいことに挑めなくなる状態だ。最初は探索し、やがて洗練され、完成形を目指す。だがその時点で、もう衰退の芽が生まれている。イノベーションを真に起こすには、探索と深化、創造と破壊を何度も繰り返さなければならない。
トヨタが米国のスーパーに着想を得て、ジャスト・イン・タイムの生産方式を創ったのも、蔦屋が消費者金融のCRMを取り込み、ライフスタイル提案型店舗という新しい価値を生んだのも、越境の力だ。そして、クロネコヤマトが吉野家の牛丼一筋という特化の姿勢にヒントを得て、宅配市場に個人配送という概念を持ち込んだことも、単なる模倣ではない。そこには、自らの視野を拡張するための異業種の観察があり、概念の翻訳がある。
こうした越境のイノベーションの代表例として、ダイソンのサイクロン掃除機も挙げられる。ジェームズ・ダイソンは、吸引力が落ちない掃除機を開発するにあたって、F1マシンの空気の流れを研究した。遠心力で空気とゴミを分離するサイクロン構造は、レーシングカーの冷却システムや空力制御から着想を得ている。掃除機という日用品に、F1の極限技術が活かされているというのは、非常に象徴的な話ではないかと思う。
このように、創造は単独で生まれない。そこには維持と破壊が必要なのだ。ヒンドゥーの宇宙観では、世界は永遠に存在するのではなく、創られ、維持され、破壊され、また創られる。そのサイクルを「マハーユガ(大輪廻)」と呼び、ブラフマーの1日(カラパ)は43億2000万年というスケールで語られる。何億年も続いた世界が、シヴァの踊りによって破壊される。そして、また蓮の花の中からブラフマーが現れ、新たな宇宙を創る。
経営における「両利き」とは、まさにこの宇宙的リズムの縮図ではないかと感じる。探索と深化の両立、新規事業と既存事業の両立。新しいことを始めるには、古い何かを壊さねばならず、しかしそれは単なる破壊ではなく、次の創造のための土壌を耕す作業でもある。成功している時こそ危機であり、変わらないことこそ最大のリスクである。だからこそ、企業は「創造・維持・破壊」の三位一体を、自らの内部に内在させなければならないのだ。
ヒンドゥーの神話は、それを宗教という形で人類に伝えてきた。そして、私たちはそれを経営という言葉で、あるいはイノベーションという言葉で、また繰り返そうとしている。人類は賢いのではない。忘れっぽいのだ。だが、同じ構造を繰り返すことで、少しずつ前に進んでいるのだと思う。
さあ、次のサイクルへ。破壊の舞が聞こえたら、創造の始まりはもうすぐだ!
新規事業の旅213 暗黙知の形式化と活用
2025年9月30日
早嶋です。5500文字。
APIの概念を、コンピュータから組織に持ち込むとどうなるだろうか?
APIとは Application Programming Interface の略称で、もともとはソフトウェア同士がやり取りするための「入り口と出口の取り決め」を指す。たとえば地図アプリに天気情報を組み込んだり、ネットショップがクレジットカード決済を外部サービスと連携したりするのは、APIを介して異なるシステム同士がつながっているからだ。
入口と出口のルールを共有することで、メーカーも言語も関係なく動く仕組みがAPIだ。つまり、中身の実装はブラックボックスでも、インターフェースが揃えば生態系が広がる、つまり汎用度が高くなる。これをそのまま人と仕事に適用すると、「人の頭の中(実装)」に依存せず、「入出力(判断条件・手順・成果物)」さえ合意できれば、誰がやっても一定の結果が出るという世界観が作れそうだ。属人化に悩む現場ほど、この視点が効くと思うのだ。
実際、企業の現場を見渡せば、形式知化されずに属人化が深まっている領域は少なくない。たとえば建設現場での設計や工程管理、プラント・エンジニアリングにおける見積もりや積算業務、あるいは法人営業での複雑な組織営業などは、その人の経験や勘に強く依存している。社員のベテラン化と高齢化が進めば進むほど、こうしたノウハウが次世代に引き継がれないリスクが現実味を帯びてくる。言語化や標準化が進まない企業ほど、「知っている人がいなくなれば途端に立ち行かなくなる」危うさを内包しているのだ。
ここでは、言語化されない状況を3つのパターンに分けて、それぞれの状況に対して打ち手を提案する。1つ目は、日常の仕事そのものが言語化を生む設計になっているかだ。次に、属人知を体系に落とすための棚卸しの型や習慣があるかだ。そして、3つ目は、資格や認定の仕組みを、現実のキャリア設計と噛み合わせて動機づけできているかだ。順に見ていこう。
(日常の仕事そのものの言語化を生む設計)
まず、日常の仕事そのものの言語化を生む設計についてだ。例えば、トヨタの改善提案は象徴的だ。現場の小さな気づきを毎日短く書く。上司がその場で評価し、良いものは標準作業に即反映し、さらに他ライン・他工場へ水平展開するのだ。提案は書かなければ次に進めない、つまり社員や従業員が必ず言語化して形式知として次の流れに活用させるのだ。結果として「仕事=記録の更新」となり、確実にアップデートするようになっている。
Amazon は新規プロジェクトで、まず「プレスリリースとFAQ」を書くことから始めるそうだ。考えや概念を先に言葉にして、何が価値で、誰のためで、何ができないのかまで言語化する。IDEO はプロセスをストーリーボード化して共有する。そして、サイボウズは社内の意思決定をグループウェア上に開いたまま残す。GitHub 文化も同じで、変更は説明文とレビューを伴わないと統合されない。
これらに共通するのは、特別なナレッジ活動ではなく、普段のワークフローがそのまま言語化装置になっていることだ。だから日常の仕事の中で膨大な知見がナレッジとして蓄積されるのだ。そして、日常の習慣に組み入れることに成功したからこそ続くのだ。
トヨタの改善データベースの回り方は示唆が多い。現場で即時に試し、うまくいけば標準作業に昇格し、そこから水平展開する。溜まったものは教育資産にもなるし、分析すれば「どの工程に改善余地が集中しているか」「どの工場が強いか」といった経営の目にもなる。要するに、データベースは死蔵させないことがポイントだ。常に業務の中で使う前提で言語化し、使った結果でブラッシュアップするのだ。
私はこの仕組みを「ナレッジの Git 運用」と読んでいる。Gitとは、ソフトウェア開発で広く使われている分散型バージョン管理システムのことで、変更履歴をすべて記録し、誰がどこをどう修正したのかを追跡できる仕組みだ。さらに、複数人が同時に作業しても統合(マージ)でき、必要なら分岐(フォーク)させて独自に発展させることも可能だ。つまり、「知識や改善の履歴を残しながら進化させ、必要に応じて分岐・共有できる」運用スタイルを示す言葉として、Gitはとても相応しいのだ。
たとえば、現場から上がってくる改善提案は、ソフトウェア開発で言うところの プルリクエスト(Pull Request) に相当する。現場の小さな気づきを差し込み、既存の標準作業に変更を加える試みだからだ。それを受けた上司やリーダーの確認作業は、まさに コードレビュー のようなものである。提案の妥当性や安全性を確かめ、内容の筋が通っていれば、既存の標準作業書へと統合される。これはソフトウェアで言う マージ(merge) のプロセスだ。そして、そこで確立された標準は、他の工場や部署へと展開され、現場ごとに応用されていく。これはまさに フォーク(fork) に近い動きで、他拠点が同じ知識を引き取り、自分たちの環境に合わせて使い始める流れだ。
こうして見ていくと、改善活動を Git 的な運用になぞらえることは単なる言葉遊びではない。提案は履歴とともに記録され、改定理由が残り、承認プロセスを経て標準に反映される。そして、その標準は組織全体で再利用される。APIの概念が「入口と出口を定義することで、誰が呼び出しても同じ動きをする仕組み」だとすれば、この運用もまさにそれに重なる。改善という知識が、個人の暗黙知から「呼び出し可能な仕様」に変わり、組織全体で共有され、進化し続けるのだ。
(属人知を体系に落とすための棚卸しの型や習慣)
次に、すでに属人化が進んでいる現場で、どう棚卸しを始めるかだ。私は、ベテラン(あるいは、匠)が自分たちの活動を言語化することが出来ないと思っている。もし出来ていたら、既に世の中標準化されているのだ。そこで、ベテランにはこれまで通り仕事や作業をしてもらう。その代わり、ベテランの仕事を観察して逐一質問を投げかけ、事細かい行動や取り組みに対して言語化する役割をあてがうことが良いと思っている。この役割をナレッジエンジニアと称す。ナレッジエンジニアは、ベテランと一緒に仕事をして、ベテランを逐一観察するのだ。そして「今、なぜそれをした?」「次に進む判断の根拠は?」と問い続け、匠の思考や概念を逐一言語化するのだ。
ナレッジエンジニアがベテランの思考を言語化する際に、道具も使うと更に良い。単にペアでインタビューするだけではなく、ベテランの行動を動画で記録するのだ。また、インタビューのやり取りも録音する。これによってナレッジエンジニアがベテランの行動や仕事を言語化する仕組みも徐々に標準化されることが期待できる。
ベテランの頭の中にある暗黙知を引き出すには、本格的な認知工学の調査法を持ち込む必要はない。Applied Cognitive Task Analysis(熟練者の思考過程を分解して言語化する手法)や Critical Decision Method(具体的な事例をたどりながら判断の根拠を掘り出す手法)のような枠組みも、問いの型だけを借りれば十分だと思う。つまり、「なぜ今その作業をしたのか」「その判断の根拠は何か」「もし条件が違ったらどう動くか」といった素朴な質問を繰り返すだけで、ベテランが無意識に積み重ねてきた知恵をかなりの部分まで言語化できるからだ。
抽出した知恵は、長い文章のままでは回らない。私はそれらの体系化やプロセス化がポイントになると思う。仕事を小さなモジュールに分解し、目的、前提(入力)、手順、判定基準(合否の数値や状態)、例外分岐、使用ツールと安全、出力(記録様式)までを整理するのだ。これが蓄積することで、組織の API 仕様書になるのだ。
そして、平常時の手順は短く、例外対応は厚く、が基本設計だ。検証も忘れてはいけない。その仕様を新人やそのエリアの仕事の経験値が低い人材に渡し、実際に試してもらうのだ。そして、ここで再びナレッジエンジニアに登場してもらい、仕様の過不足を確認して、最終的に新人や経験値が低い人、つまり実際に試した人からのレビューを得るのだ。こうやって再現性を確認しながら標準化仕様に昇格させていく。
こうすることで、言語化できていない部分も蓄積される。勿論標準作業が整い始めた後の変更は、理由付きの改訂申請(プルリク)を徹底させる。これらの仕様が蓄積されたら、次はスキルマップと紐づけて、誰がどのレベルで教えられるかを可視化していく。
最後に、それぞれの仕様をベクトル検索に入れて「聞けば返る」ような、対話ボットにすることで、現場での参照性が飛躍的に向上するようになると思う。現場で活用するのであれば、キーボードで入力することも難しいだろうから、音声での入力にも対応するように初めから設計しておけば、リプライは画像の表示と音声でのフィードバックになり、使い勝手が良くなるだろう。
日常的に言語化されていない仕事は、時に、コンサル型の棚卸しが役立つ場面もある。マッキンゼーがやってきたのは、プロジェクトの知恵を使える単位で残す設計だ。案件ごとに「何の業界で、どんな課題を、どう解き、何が学びだったか」を Engagement Summary に落とす。汎用化できる手法は Toolkit 化して部品にするのだ。成果物は匿名化してアーカイブし、検索で引けるようにする。人のプロフィールも経験タグ(ケイパビリティマップ)として検索可能にする。MECE とピラミッド構造に従い、結論→要旨→詳細の順で残すから、後続がすぐに使えるようになる。これを現場の案件運営に移植すれば、建築現場や、インフラの保守メンテナンスの現場、設計や企画の現場などにも一定の効果を出す可能性は高い。更に、案件の事の仕様書を作るつもりでまとめ、例外と失敗も含めて要件化しておけば、次のチームはゼロから始めなくて済むようになるのだ。
ここまでの取り組みができるようになれば、1つ目の事例のように、その取組を日常にインストールするのだ。そうすることで、通常の仕事が進む範囲で作業や思考などのナレッジが常にデータベースに落ちるようにすることが可能なのだ。
(資格や認定の仕組みを現実のキャリア設計と噛み合わせる)
資格の話に移ろう。業界によっては資格が権限の保管庫になり、資格の有無だけが論点になっていることを観察する。しかし、資格を取得する人材には仕事が集中して他の無資格保持者よりも仕事が忙しくなるケースが観察される。そのような組織は、資格を取得すること=罰ゲームのように捉えることさえある。一方で、一定のステージで資格を保持することが本人の成長の証で、資格を持たない者よりも当然に高い目線でみられる仕組みを有する組織もある。
後者は、評価と運用の設計が異なるのだ。資格取得を給与テーブルや昇進に直結させるのは当然として、資格に関わる学習時間と受験対策を業務時間内に組み込んでいることが多い。勿論、教材や模試は会社負担だ。取得者コミュニティを用意し、ロールモデルを可視化する。資格そのものは、社外でも通用するバッジとして見せ、社内ブランド(当社の○%が●●の資格保有)という具合に活用する。そして、何より大切なのは、「資格保有者=お前しかできない仕事」にしない設計を考えることだ。取得者は標準のレビュワーや教育者という役割を担い、実務と育成の仕事を分散させるのだ。結果として、資格保持者は代替可能性の向上に効くようになる。ここを履き違えると、若手は逃げだしたい職場になるのだ。
では、資格と評価がまったく連動していない会社はどう動くべきかを考える。私は、三択(現状維持/手当/持たない人の減額)ではなく、第四の道を取るべきだと思う。それは、資格をキャリアの可視化に組み込むのだ。具体的には、職務グレードごとに担当できる仕事をある程度を定義する。そして、その一部に資格を要件として紐づける。要件や資格の習得は、通常の業務フローの中に設計して、合格後は上位の仕事と報酬が手に入る。合わせて、その仕組のメンテナンスと後輩の始動にも紐づけるのだ。評価や資格は単に保有することでは意味がない。あくまでも、使って組織の再現性を上げる際に価値が出る。そう、仕事上の仕組みに入れ込むことで、取らない人の減額というネガティブな圧力に頼らず、自然と上を目指す文化ができると思うのだ。
(まとめ)
企業の規模や業種にかかわらず、属人知を言語化する課題はどこにでも存在する。製造や建設の現場でも、営業や企画の仕事でも、経験や勘に依存したやり方が長く続けば、いずれ継承リスクに直面する。だからこそ、私はこの取り組みを三つの階層に整理して考えることを提案した。
第一に、日常業務そのものが言語化を生むようにワークフローを組み替えること。改善提案や記録の習慣を業務の必須手順に組み込めば、自然に知識は残っていく。
第二に、ベテランの暗黙知を体系に落とすために、観察や問いかけを通じて言語化し、Pull Request のように改定とレビューを繰り返す仕組みをつくる。
第三に、資格や認定の仕組みをキャリア設計と噛み合わせ、取得後は知識を独占するのではなく分配役になるよう設計することだ。
この三層の設計を踏めば、どの業界でもナレッジの再現性と持続性を高められると思う。
H-1Bビザとアメリカの選挙
2025年9月25日
早嶋です。2400文字。
アメリカのH-1Bビザ制度は、長年にわたってグローバルな優秀人材の登竜門として機能してきた。とりわけテック企業は、母国以外から才能あるエンジニアや研究者を獲得するための生命線とも言える制度だった。シリコンバレーがイノベーションを牽引できた背景には、このビザ制度の存在があったと言っても過言ではない。
しかし、現場での運用には歪みが生じていたのだ。元々「高度な専門技術を持つ者」に限定されていたはずのH-1Bビザが、いつの間にか「低コストの外国人労働力確保手段」として扱われるようになったのだ。とりわけ、インド系のITアウトソーシング企業による大量取得が問題視された。年に8万5,000枠しかないはずのビザが、ある意味抜け道として利用され、結果的にアメリカ人の雇用機会が脅かされているという声が上がったのだ。
実際に、アメリカの大手銀行や保険会社では、既存の米国人エンジニアを解雇したうえで、H-1Bで雇用された外国人労働者に業務の引き継ぎをさせていた例がある。解雇された側が自分の後任をトレーニングするという皮肉な構図に、労働者の怒りが噴き出したのだ。一部のH-1B労働者は、米国の法律で定められた最低賃金さえ受け取っておらず、HCLなど大手企業が賃金盗用で訴えられた事例もあった。中には、仲介企業を通して雇用され、同じ職場で働く米国人よりはるかに低賃金で働かされていたケースもある。
こうした現場のねじれは、制度の本来の趣旨を踏みにじるものであり、同時に国内の労働市場に対する信頼も損ねた。そして、この構造に不満を持ったのが、いわゆる「低スキルの白人労働者層」だ。彼らはテック企業が外国人に職を奪われていると感じ、ナショナリズムを背景にトランプを支持してきた。そして今回、そのトランプが再びH-1B制度に手を入れると公言したことで、大きな波紋が広がっている。
今回の動きのポイントは、「H-1Bビザの抽選制度を廃止し、技能・給与水準に基づいたポイント制へ移行する」というものだ。表向きは「優秀な人材をより適切に選ぶ」という方針だが、実際には、これまでアウトソーシング企業などが量的に押さえていた分を排除し、より限定的なエリート層のみに門戸を開くという意図がある。制度の原点回帰とも言えるが、それだけでは済まない複雑な余波がある。
たとえば、これまでは1人の外国人に対して、複数の企業が「この人を雇いたい」と申し込むことができた。ある優秀な学生が10社から内定をもらえば、その人の名前はビザの抽選に10回出ることになり、当選する可能性も高くなっていた。しかし、今年からの制度では「1人につき抽選は1回だけ」と決まった。つまり、どれだけたくさんの会社から内定をもらっても、抽選のチャンスは1回しかないのだ。その結果、たくさんの企業に評価されている優秀な人ほど、ビザを取れる確率がむしろ下がってしまうという、ちょっとおかしな現象が起きるのだ。これは、制度として「みんなに平等なチャンスを与える」ことを重視した結果ではあるが、一方で「企業と申請者が自由に動ける柔軟さ」が失われてしまったとも言える。
さらに、申請コストも大きく跳ね上がった。かつては数千ドルだった申請費用が、今回の制度改定で一気に数万ドル規模にまで引き上げられる。一部では「新規申請に最大10万ドルの手数料」という案まで浮上しており、現実味を帯びている。これにより、スタートアップや地方の中小企業は、事実上H-1Bを使えなくなっていく。今後は、大手グローバル企業だけが、この高額ビザを使って人材を確保する時代に入るのかもしれない。
たしかに、H-1B制度はかつて、その本来の目的を逸脱した部分があった。結果的に、米国の労働者から見れば「外国人に仕事を奪われている」という感覚が生まれたのも事実だ。制度を見直すこと自体は悪いことではない。だが今回の見直しが示しているのは、「エリートは歓迎、その他は門前払い」という、明確な二極化の思想だと思う。
例えば、現在アメリカの大学に在籍し、OPT(Optional Practical Training)制度を経てH-1Bに移行しようとしている外国人学生たちは、今後ますます狭き門に直面する。彼らにとって、ビザの取得は就職やキャリア構築に直結するだけに、制度変更は将来設計を揺るがすものになる。また、雇う側の企業にとっても、より高スキルで高給な人材を前提とすることで、コストと採用のリスクが増す可能性もある。
つまり、この制度変更がもたらすのは「優秀な外国人はウェルカムだが、それ以外は要らない」という、いかにもトランプ的な二極化構造だ。これは一見合理的に見えるかもしれないが、長期的にはアメリカの多様性と人的流動性の低下、さらにはスタートアップなど中堅・中小テック企業の競争力低下にもつながりかねない。
そして何より、これは移民政策というより「選挙政策」だ。トランプはH-1Bに手を入れることで、自らの支持層に「外国人に甘くしない」という明確なメッセージを送りつつ、大企業に対しては「ちゃんと払うなら使ってもいい」と踏み絵を迫っている。アメリカという国は、かつて「移民こそが国家の強さ」と信じていた。だが今は、「誰を入れるか、誰を排除するか」が政治の最前線になっている。H-1Bビザの議論は、まさにその縮図だと思う。今回の制度見直しの背景には、選挙、経済、そしてアメリカという国のアイデンティティそのものが絡んでいる。
この一件を通じて、日本も他人事ではいられない。これからの時代、どの国がどのような人材に門戸を開くのか。その制度設計と運用こそが、国家の競争力と信頼を決める時代が始まっているのだと思う。
ABOHA
2025年9月24日
早嶋です。1000文字。
韓国で「ABOHA」という言葉が広がっている。日本で言う「やってる感」に辟易して「ありのままの自分」でいようというニュアンスの動きや考え方だ。SNS疲れなる表現も日本ではあり、同じような文脈を一瞬考えた。「無理にイケてる風に装うのをやめて、素の自分でいる」。SNSや社会の評価軸から一歩引き、ただそこにいることを肯定する姿勢だそうだ。一部の若者たちの間で美意識として受け入れられているという。
韓国では、日本以上に過剰なまでの成果を子供の頃から求められている。あくまでの僕の印象だが。そのため常に成果を出しているような演出を強いられてきたのだ。皮肉なことに、そのような社会の中で、真正面から向き合い、疲れ果てた末に辿り着いた、概念のようにも感じた。
更には、朝鮮半島の歴史、中国大陸との距離感、属国としての経験、侵略の記憶、そういった構造が韓国という社会の深層に多大な影響を及ぼし今を構築していると思う。そのような視点から現代の整形文化や学歴主義、そして社会的な振る舞いのクセにまで目を向けたとき、単なる嗜好や流行ではなく、より深く根を張った背景が浮かび上がる。
一方で、韓国の若者たちは、そうした文脈をも越えて、自分の輪郭をどう保つかを模索しているようにも見える。北朝鮮に対する冷ややかな距離感や、過剰な政治的言動を避けるリアリズム。あるいは、K-POPやファンダムを通して社会に関与していく独特のスタイル。そこには、前の世代とは異なる視点で社会とつながろうとする態度が垣間見える。
その姿を、日本の若い世代の動きと重ねて考えてみた。K-POPや韓国のファッション、カルチャーに親しみながらも、背景にある価値観や社会構造には、あまり触れようとしない。政治や社会制度に対する関心も相対的に薄く、どこか無風のような凪のような静けさがある。統一教会の問題に対する日本と韓国の対応の差も、そうした意識の違いを映しているように思えた。
現在の一人あたりGDPや文化発信力、若者のエネルギーなどを見て、「日本は韓国に遅れを取っているのではないか」という感覚もある。もちろん、国の持つ課題の重さやリスクの質は単純には比較できない。韓国が抱える構造的な問題、社会的な圧力、精神的ストレスの大きさを考えれば、そこに安易な称賛や模倣が成り立たないことは明らかだ。
それでも、自分たちの社会が、かつて持っていた可能性や価値観をどこかで見失ってしまったような感覚は、否応なく湧き上がってくる。そしてそれが、ある種の焦りや、言葉にならない悔しさとして残るのだと思う。
箱と運営の両軸
2025年9月22日
早嶋です。2700文字。
福岡や長崎の街を歩いていると、再開発が進むたびに街の表情が変わっていくことを実感する。かつて福岡の天神には、ビルの地下や雑居ビルの一角に地元の名店が集まり、昼も夜も人で賑わっていた。しかし天神ビックバンのような大規模再開発が始まると、立ち退きを余儀なくされた店は今泉や薬院、大名、西中洲といった周辺エリアに移り、再び戻ることはなかった。新しいビルは家賃が高く、外観もどこか入りにくい雰囲気をまとっており、その空間に入るのは資本力を持ったチェーン店や東京資本の高級店ばかりになる。ところがそうした店は地元の需要と合わず、珍しさで一度は人が入っても、やがて売上が立たず撤退してしまう。結果として土地の値段が上がれば上がるほど、街の活気が失われる可能性は無いだろうか?
同じことは長崎でも起きている。浜の町商店街は長らく街の中心であり、人々の暮らしと文化を支えてきたが、駅前や大波止、さらにはスタジアムシティといった大規模施設が相次いで建ち、人の流れは分散した。名店や老舗の商店はその影響で売上を落とし、やむなく店を畳んでいった。その後に入るのは全国チェーンの店やナショナルブランドばかりで、街の景色は全国どこでも見られるものに変わってしまった。浜の町商店街にはパチンコ店や百円ショップ、ファーストフードだけが残り、露店や屋台のような生活の匂いを残すものは衛生の名目で排除された。通りはアスファルトで舗装され、無機質な空間となり、街が本来持っていた温かみや偶然性は失われた。同じ長崎の中でも、住吉や大黒町といった他の商店街も同様の道を辿り、魅力のない通りに変わっている。
一方で、今でも活気を保つ商店街も存在する。高松の丸亀町商店街は民間主導の再開発で新しい施設を導入しながらも地元の店を残し、人の回遊を工夫して維持している。熊本の上通や下通も、市電やバスといった公共交通とつながっており、平日でも人通りが絶えない。こうした街は「歩いて回る楽しさ」を守っている点が共通している。観光地と結びついた金沢の近江町市場もその典型で、公共交通で来て、徒歩で回遊し、偶然の出会いを楽しむ仕組みが残っている。
これに対して、地方の郊外型モールはまったく異なる発想で栄えている。広大な駐車場を無料で備え、車で来ることを前提に設計されている。モールの中には買い物だけでなく、映画館やフードコート、子どもの遊び場、シニアが休めるスペースまで揃い、天候に左右されず一日過ごせるようになっている。田舎であっても「ここに行けばなんとかなる」という安心感があり、家族も若者もシニアも同じ場所に吸い込まれる。
ここで街が栄える要素を考察してみた。
たとえば高松の丸亀町は、地権者が中心になって区画ごとに段階的な再開発を行い、百貨店やホテルなどの核を入れつつ、路面の回遊性と地元店の居場所を残した。箱だけを更新するのではなく、街の運営主体(まち会社)が「家賃設定」「テナント編集」「イベント運営」まで手を入れた点が大きい。結果として、駅→商店街→周辺の歩行回遊が切れず、更新後も日常利用が続いている。これは「再開発=チェーン化」という短絡に陥らず、地場と広域集客を両立させた国内の稀有な例だ。
熊本の上通・下通は、郊外モールが強い九州圏にあっても中心市街のアーケードが粘り強く機能している。市電・バスと一体のアクセス、雨天でも歩ける環境、周辺の飲食集積との相互送客が続いている。観光向けの見せ方に寄り過ぎず、日常需要(買い回り・外食・通過導線)を保ったことが強みだ。
金沢の近江町市場は、観光をうまく抱き込んで日常と非日常を接続した。駅から徒歩圏・短距離バスでつなぎ、場内に細かな買い回りと飲食の偶然性を残している。観光偏重に振れれば地元の台所機能が痩せるが、アクセスの簡便さと「歩いて回る面白さ」を維持する運営で均衡を取っている。
海外事例を見ると、手法はさらに明確だ。コペンハーゲンのストロイエは大胆な歩行者化で滞留時間と来街者を増やし、売上はむしろ下支えされた。歩行空間の質を上げることが、小売の基礎体力を回復させる—その定理を早い段階で証明した。
ソウルの清渓川では高速道路を撤去し、中心部に気候適応型の公共空間をつくったことで、地価や事業者数、歩行者が増え、都市の評価軸そのものを変えた。維持費や通水の課題は残るが、「車中心から人中心へ」の転換が商業と都市価値を押し上げうることを示した。 バルセロナのスーパーブロックは、面的に車の通過交通を減らし、生活道路を広場化するプログラムだ。騒音や大気の改善とともに、近隣小売の来店頻度を引き上げる効果が初期評価で観測されている。
一方で、地方で郊外モールが強い理由は単純だ。車来訪を前提に無料かつ巨大な駐車場を用意し、天候非依存で一日完結できる機能を箱の内側に集約したからだ。ここには明快なメリットがある。家族・若者・シニアの誰が来ても過ごせる安心感、移動コストの低さ、そして施設側の運営一元化による快適性の標準化だ。デメリットは、中心市街の偶然性や多様性を吸い上げ、街の外側で消費を完結させてしまうこと。結果として中心部の地元商店は薄まる。日本のコンパクトシティを掲げた富山市がLRT整備と中心集約を同時に進めたのは、この流れを反転させるためだった。
これらを踏まえると、福岡や長崎のまちづくりに欠けている可能性は3つの議論から言える。第一に、再開発の箱をつくるだけでなく、運営とテナント編集を地場の目線でやり切る体制づくりだ。高松のように、家賃水準と区画寸法を「挑戦できるサイズ」に保つ設計を最初から織り込む必要がある。
第二に、アクセスの総設計である。郊外の車需要を否定せず、中心部の周縁に安価な駐車場やパーク&ウォークを用意し、中心の細街路は歩いて楽しい思想に振り切る。公共交通と徒歩の回遊を太くする一方で、車は最寄りまでのツールとして捉え、穏やかに誘導する。そのために車と公共交通機関の接合を立体的に設計してインストールするのだ。
第三に、路上や仮設のにぎわいを制度として取り戻すことだ。衛生や安全の基準を明文化して露店・屋台・ポップアップを許可し、偶然の発見を街に戻すのだ。清渓川やストロイエの教訓は、空間の質が上がると人は長く滞在し、小売は持ち直す、という単純だが強い事実だ。
要するに、商店街とモールの違いは導線設計にとどまらない。誰が運営を担い、どの価格帯の店が挑戦でき、どの交通手段で来て、どのくらい偶然に出会えるか。国内外の事例は、メリットとデメリットを抱えながらも、「人中心」に振ったときにだけ中心市街が持続的に回復することを示している。福岡でも長崎でも、次の一手は箱の更新より運営の更新に力を言えれるべきだと思う。
真実と虚構の間
2025年9月18日
早嶋です。1800字。
2022年以降、生成AIが急速に普及した。誰でも、数秒で「それっぽい文章」を書けるようになったのだ。もちろん、大きな可能性であり、情報の民主化の過程とも言える。ただ同時に、いま、私たちが日々接している情報の中には、「本物」の情報と「それっぽく見えるだけのもの」とが、区別なく並んでいる可能性が高い。はじめはなんとなくの違和感だったが、実は深刻な構造変化なのだと思い始めた。
特に、学術の世界では「ペーパーミル(paper mill)」と呼ばれる問題が深刻になっている。本来、論文というのは、研究者が時間をかけて調査し、仮説を立て、検証し、そして何度も推敲して仕上げる営みだ。その重みこそが、論文の信頼性を支えていたはずだ。だが、ペーパーミルはその構造を壊す存在だ。論文のような文章を、AIやゴーストライターを使って大量に作成し、論文として販売する。購入者は、それを自分の成果としてジャーナルに投稿する。もちろん、査読も抜け道がある。仲間内で回す、偽のレビューを仕込む、そもそも査読のないハゲタカジャーナルに投稿する、という手段が使われるのだ。そうして、「見た目は正しそうな論文」が、ひそかに学術界に流れ込みはじめているそうだ。
さらに問題なのは、こうした論文が互いに引用し合い、あたかも信頼性があるかのように見せかける構造だ。何本も似たような論文が並んでいると、人はそれが「定説」だと思い込んでしまう。こうなると、もはやフェイクであるか否かは、内容ではなく、量と反復によって決まってしまう。これは、非常に危うい構図だと思う。
では、信憑性の高い情報はどうなるだろうか。それは、むしろ人目につきにくい場所に追いやられている。時間をかけて丁寧に作られた文章は、当然ながらコストがかかる。そのため、クローズドな研究会や有料の媒体で流通するようになる。結果として、無料でアクセスできる情報の多くが「速くて薄い」ものになり、じっくりと構成された本物の文章は、むしろアクセスしにくくなる。こうして、真実は隔離され、フェイクが主流になる、という逆転現象が起きているのだ。
こうした状況を、社会学の枠組みを通して調べてみた。たとえば「社会構築主義」という考え方がある。現実とは、単に客観的に存在するのではなく、人々の認識や関係性の中で作られていく、という考え方だ。つまり、人が「これは本当だ」と信じれば、それが現実になってしまうというのだ。たとえそれが、AIが自動生成した「それっぽいだけ」の内容でも、何度も目にし、多くの人が信じれば、それが「常識」になってしまう可能性を示している。実に恐ろしいことだが、それが現実なのだ。
ボードリヤールという思想家は、シミュラークルという概念を使い、似たようなことを主張した。「現実のコピーが、本物以上のリアリティを持ってしまうことがある」だ。たとえば、旅行先の風景を見る前にインスタの写真で予習してしまい、実際の景色よりも「見慣れた写真」の方がリアルに感じられるような感覚だ。論文も同じだ。AIが書いたような文章を何度も目にすると、「こういうのが本物っぽいんだ」と脳が学習してしまうのだ。
さらに現代は、情報が信用できるかどうかを、内容の正しさよりも、「わかりやすいか」「共感できるか」で判断してしまう傾向が強いと思う。SNSや動画プラットフォームがそれを助長している。みんながシェアしている、いいねを押している、それだけで情報に信頼を寄せてしまうのだ。だが、その情報の中身を誰が検証しているのか。誰が責任を取っているのか。そうした視点がどんどん失われているように思える。
こうなると、人は知らないうちに「虚構の現実」を生きるようになる。実体のない情報を本物だと思い込み、それを前提に判断し、語り、行動する。しかも、それに気づかないまま、日常を送ってしまうのだ。かなり危うい時代に入ったということだ。これらを踏まえて、我々に今できることは、すぐに答えは出ないが、少なくとも、「目にした情報を鵜呑みにしない」という姿勢が引き続き大切になる。誰が、なぜ、その情報を発信しているのか。その背景を考える癖をつけるのだ。そして、できることなら、自分で考え、自分の言葉で発信する。それが、虚構の波に飲み込まれずに生きる、ひとつの方法なのではないかと思う。
【動画】武者修行研修 課長版
2025年9月12日
※本ページは、2025年度武者修行研修課長版参加者向けのページです。
(Day1)
参加当日までに、以下の事前課題を整理し動画を視聴下さい。
1)「自己紹介シート」の作成
目的は、参加者同士の相互理解です。それぞれ自己紹介シートを作成下さい。テンプレートは事務局の指示に従って下さい。
2)事前課題「動画視聴」 戦略思考の基礎
自社や他社の課題を抽出する際に参考下さい。経営学等の修士・学位等をお持ちの方は視聴しなくても結構です。
※PWは別途事務局からお知らせがあります。
戦略思考の基礎 戦略思考編
戦略思考の基礎 全社戦略編
戦略思考の基礎 成長戦略編
戦略思考の基礎 基本戦略編
戦略思考の基礎 環境分析編
戦略思考の基礎 戦略立案編
3)「自社紹介と自社の経営課題の整理」 ※各社ごとでまとめる
詳細は、受講ガイドを参考下さい。
(Day2&Day3)
参加当日までに、以下の事前課題を整理、動画を視聴下さい。
1)事後課題
Day1で議論した自社課題の解決に向けて、何らかの行動を起こしてください。Day2で各企業の進捗を共有を簡単に行います。※この際、資料は特に不要です。口頭レベルで進捗を確認します。
2)事後課題
テーマオーナーに対して戦略提言を行う際に必要な資料や情報等を適宜収集してください。また、Day2の午前中にグループワークで共有する時間を確保します。
3)事後課題
動画を数本準備しています。視聴は任意です。
(不確実への対応)
マネジメントの基礎の動画の一部です。成熟する事業運営の中、既存の取組を行いながら新規の取り組みを行うためのマインドを確認できます。
マネジメントの基礎 不確実への対応
(事業分析の基礎)
事業分析を行う際に、考え方を整理しています。問題解決の流れに沿って、市場分析、競合分析、自社分析、マクロ分析の流れの後、解決策(戦略)を議論する考え方を示しています。一部、セッション1でも概説しています。こちらの動画は、合わせて問題解決の考え方の参考にもなります。
事業分析の基礎(概要)
事業分析の基礎(前提)
事業分析の基礎(問題と課題)
事業分析の基礎(市場顧客)
事業分析の基礎(競合代替)
事業分析の基礎(自社)
事業分析の基礎(マクロ)
事業分析の基礎(解決策)
4)他
セッション1で議論した、(無意識)✕(既存)の領域から、(意識)✕(既存)の領域にいくための思考の視覚化、そこから意識的に新規の議論をする概念等について整理した著書です。ビジョンを持って行動を継続することの大切さについて、経験則から考えたことを整理しています。
「コンサルの思考技術」総合法令出版 早嶋聡史著
※Amazonのリンクです。参考までに。
(Day4)
課長版武者修行研修の参加者は、必要に応じて以下の補足動画を視聴下さい。次回のプレゼンテーションの参考動画です。プレゼンテーションの流れや準備、コンテンツ(中身)の作り方や、発表(配信)の仕方を整理しています。プレゼンテーションに不慣れな方は参照ください。
プレゼンテーションの基礎①概説
プレゼンテーションの基礎②流れ
プレゼンテーションの基礎③準備
プレゼンテーションの基礎④中身
プレゼンテーションの基礎⑤配信
米国の構造的なリスク
2025年9月12日
早嶋です。2800文字。
米国経済の先行きはどうなるだろうか?様々な要因が同時に動くことで、極めて不安定な構造を帯びつつあることは間違いない。
まず、関税強化により輸入コストが上昇。それが消費者物価に転嫁されている。実際に最新の統計では消費者物価指数(CPI)が前年比2.9%上昇、コアCPIも3%を超えており、インフレの粘着性が改めて確認された、つまり一過性ではなく持続的だと観察できる。これは企業の価格設定だけでなく、アップルのiPhone価格引き上げのように、グローバル企業の販売戦略にまで影響を及ぼしている。
一方で、労働市場は新規失業保険申請件数が増加するなど、減速の兆しを見せている。特に新卒学生にとっては厳しい状況だ。AIの急速な普及が、これまで新人が担ってきたルーチン業務を代替し、企業にとって「経験の場」を提供するインセンティブを削ぎ落としている。この構造的変化は、若年層の雇用機会を狭め、消費力の低下につながりやすい。米国経済の7割を占める消費の足元が揺らげば、景気全体の縮小圧力となるのは避けられない。
さらに社会的なリスクとして、政治暴力が現実化した。保守系の活動家チャーリー・カーク氏がユタ州で暗殺される事件は、すでに二極化した社会の緊張を一気に高める。政治的不安は治安コストや社会的分断を深め、資本逃避や投資マインドの萎縮を招く可能性がある。治安の悪化はサービス業のコスト増にも直結するだろう。
こうした状況を踏まえると、米国経済がたどる道筋はいくつかのシナリオに分かれる。最も可能性が高いのは、インフレが下がらない一方で雇用が冷え込む「スタグフレーション型のハードランディング」だ。
この局面では、生活必需品や住居費の高止まりによって家計の実質購買力が削られ、低所得層から消費が急速に冷え込む。企業は需要減退に直面する一方で、人件費や仕入れコストを吸収できず、利益率が圧迫される。金融市場では、FRBがインフレ抑制と景気下支えの狭間で身動きの取れない状態に陥り、政策対応は後手に回る。結果として株式市場は調整色を強め、企業投資も停滞する。
さらに時間が経てば、この悪循環は社会的なひずみを広げる。若年層の失業は高止まりし、格差や不満が政治的対立を増幅させる。治安不安や政治的分断が続けば、海外投資家のリスク回避姿勢も強まり、ドルや米国債の信認に影響を与える可能性すらある。つまり、単なる一時的な景気後退ではなく、「持続的な低成長と社会不安」が組み合わさった未来が現実味を帯びるのだ。
日本の状況と重ねて見れば、経済停滞の中で保守的な潮流が強まる点は共通している。しかし、日本では怒りが暴力や抗議行動に直結しにくく、むしろ静かな右傾化として表れるのに対し、米国では分断が可視化され、政治的暴力というかたちで爆発する。この違いが、両国の未来におけるリスクの性質を大きく分けているといえるだろう。
他には、「政治暴力の連鎖がマーケットのリスクプレミアムを跳ね上げるケース」だ。もし暗殺や襲撃事件が断続的に発生すれば、米国社会に横たわる分断は一気に表面化し、抗議行動や衝突が日常化するだろう。こうした緊張は経済の実体に直接作用する以上に、投資家心理に大きな影を落とす。資本市場では安全資産への逃避が加速し、ドル短期債や金への資金シフトが進む一方で、株式や企業債の調達環境は急速に冷え込む。政治日程そのものも混乱し、政策決定の停滞が景気悪化をさらに深める。最悪の場合、選挙の正統性や統治能力に疑念が生まれ、海外投資家は米国リスクを一段と重く見積もるようになるだろう。
「財政赤字と国債増発によって長期金利が高止まりするケース」もある。政府が大型の減税や歳出拡大を続ければ、国債の供給は膨張し、投資家はリスクに見合う利回りを要求する。景気が減速しても長期金利は下がらず、むしろ財政への懸念からじわじわと上昇圧力がかかる。住宅ローン金利は高止まりし、個人消費をさらに圧迫する。企業にとっても社債発行コストが上がり、資金調達の道が狭まる。やがて不動産開発や中小企業の借換えが困難になり、信用不安が局地的に顕在化する。金融機関は貸し渋りや引当増を余儀なくされ、与信の縮小が実体経済を押し下げる。つまり、このシナリオでは「インフレが続かなくても」金利の呪縛によって経済が締め付けられるのだ。
あと2つくらいある。「関税報復合戦で貿易や供給網が混乱するケース」、「あるいはAI投資の期待が剥落して株式市場が逆回転するケース」だ。
関税報復合戦のケースでは、米国が中国やEUに対して関税を強化し、それに対する報復が連鎖する。サプライチェーンの混乱は企業コストを押し上げ、物価高と供給不足が同時に進む。消費者は高価格に直面し、耐久財や輸入品を中心に購買を手控えるだろう。輸出依存度の高い産業は直撃を受け、世界貿易全体の減速が米国市場にも反射する。結果として企業業績は悪化し、株式市場は広範な売り圧力に晒される。
AI投資逆回転のケースでは、過剰な期待を背負った生成AIやデータセンター投資が、収益化の遅れによって評価を大きく下げる可能性だ。巨額の設備投資を続けたテック企業がガイダンスを引き下げれば、成長株のバリュエーション調整は避けられない。指数を牽引してきたメガテックが一斉に値を崩せば、市場全体が逆回転し、投資家は「新しい成長物語」を信じられなくなる。テクノロジー主導の強気相場が崩れるとき、その心理的打撃は他セクターにも広がっていくだろう。
いずれにせよ共通するのは、「消費の減速」と「投資家心理の悪化」が連鎖することで、株式市場が20%から30%規模の調整に陥るリスクも過去を見ればあり得る数字だ。
2000年のITバブル崩壊では約▲49%、2008年のリーマンショックでは約▲57%、2020年のコロナ危機でも一時▲34%の急落が起きている。1970年代のスタグフレーション期にも複数回の▲20%から30%級の下落が繰り返された。今回の状況は金融危機級ではないにせよ、インフレと雇用不安が重なれば、少なくとも70年代型の「中規模暴落」に近づく可能性もあると思う。
さらに、現在のS&P500の予想PERは20倍超と高水準にあり、景気後退局面で一般的な15倍程度に戻るだけで▲25%前後の下落が理論的に導かれる。そこに企業収益の悪化が重なれば、▲30%規模の調整は十分に射程に入るのだ。
これを回避するには、FRBの柔軟な金融政策や、関税運用での例外設定、財政支出の質の転換、さらには政治暴力を抑止する超党派の取り組みが不可欠だ。つまり現在の米国は、経済・社会・政治の三重の不安を同時に抱え、暴落の芽がいくつも散らばった状態なのだ。もちろん全てのシナリオが机上の空論かもしれない。現実化するかは未定だ。ただ、「平時の調整」ではなく「構造的リスクの時代」に入ったと見るのは大切な視点だと思う。
最低賃金1,500円がもたらす構造的なシナリオ
2025年9月11日
早嶋です。3500文字。
最低賃金は国が決めるべきでは無いと思う。一方的な釣り上げは結果的に弱い層の労働そのものを急速に淘汰するシナリオになると思うからだ。
たとえば、今の最低賃金が1,000円だとして、これを1,500円に上げるべきかの議論についてだ。政治屋は、賃金を上げることを簡単に捉えている。しかし、社会保障や福祉の文脈に加えて産業構造や雇用構造を理解していない証左だとも思う。
政府の強い意思、あるいは政治的なメッセージとして、1,000円からいきなり1,500円に引き上げるとどうなるだろうか。表面的には「労働者の所得改善」が起きるように映るかもしれない。が、その背後には確実に労働分配率の急激な変化が、産業の在り方そのものを塗り替えていくのだ。
労働分配率とは、企業が生み出した付加価値、つまり売上から原材料費などを差し引いた粗利のうち、どれだけが人件費として分配されているかを示す指標だ。式で書けばシンプルで、「人件費 ÷ 付加価値 × 100」だ。たとえば、ある企業が年間10億円の付加価値を生み出していて、そのうち人件費に4億円を支払っているとすれば、労働分配率は40%になる。
では、この企業が最低賃金の引き上げにより、仮に人件費が1.5倍になったとしよう。人件費は6億円に跳ね上がる。付加価値は変わらないとすれば、労働分配率は60%に到達する。これは、単純な数字遊びではない。企業にとっては、「利益が残らない」どころか、「赤字を垂れ流す構造」に変貌することを意味する。とりわけ、もともと薄利多売を前提としていた業界、つまり小売業や飲食業、あるいは介護業界においては、致命的なインパクトをもたらす。
これらの業界は、そもそも人件費が安いからこそ、労働集約型の事業モデルが成り立っていた。つまり、人が人力でレジを打ち、配膳をし、介助を行うというスタイルは、人件費が安いからこそ合理的だった。だが、これが一転して高コスト労働になると、企業は合理性のある次の一手を取らざるを得なくなる。それが「設備投資」であり、「資本集約型事業への転換」だ。
実際に、すでにその兆候は街の中に現れている。近所のスーパーでは、レジがセルフレジに置き換わっていく。かつては4人から5人が並んでいた有人レジの姿がなくなり、今では1人のスタッフが6台のセルフレジを監視しているだけだ。人件費が1.5倍になることを想定すれば、1台あたり100万円のセルフレジはもはや安い。投資回収期間は1年未満かもしれない。
飲食店でも同じような変化が起きている。大手ファミリーレストランでは、かつてホールスタッフが運んでいた食事を、今では配膳ロボットが静かに、正確に、淡々と運ぶ。ロボットは文句も言わず、疲れも見せず、業務を繰り返す。しかも、一度導入すれば深夜手当も、社会保険も必要ない。人間が担ってきた役割が、コストの面でも、安定性の面でも、すでにロボットの方が優れていると見なされる地点に到達してしまったのだ。最低賃金が上がれば、この動きは加速する。人間らしい会話を含めてサービスを提供する高級店以外は、人がやる意味は見出しづらいのだ。
つまり、労働分配率の急騰は、企業の合理性判断を根本から変えてしまう。そしてこの投資行動は、資本余力のある大企業にとっては好機であり、資本を持たない中小零細企業にとっては死刑宣告に等しくなる。中小企業の多くは、IT化やロボット導入の初期投資すら捻出できない。その結果として、退場を余儀なくされるのだ。そして、企業数は劇的に減少し、地方では店舗そのものが倒産、あるいは減っていき更に生活しにくくなる姿が浮かぶ。もちろん弱肉強食の世界が更に進み都市部では淘汰が加速する。
では、どのくらいの影響が出るだろうか。皮算用的なレベルで弾いてみよう。小売業の就業者は900万人、飲食業は400万人、介護業は約220万人。清掃や警備といった、同様に技能や資格に依存しない職種を合わせると、最低賃金レベルで働く人の数は全国で960万人程度と見積もることができる。
仮に、最低賃金が現行の1,000円から1.5倍の1,500円へと引き上げられた場合、最も深刻な影響を受けるのは、これまで人件費の安さを前提に成立していた中小のサービス業だ。特に小売業や飲食業、介護や清掃業のような、いわゆる労働集約型産業では、売上に占める人件費の比率がすでに高い傾向にある。
飲食業をはじめとする労働集約型のサービス産業には、いくつかの共通した構造的な問題がある。そのひとつが、そもそも粗利率が低いという点だ。食材や光熱費といった固定費が高く、そのうえ人手に依存するオペレーションモデルが多いため、人件費が売上に対して占める比率はもともと高い。こうした業界で最低賃金が一気に1.5倍になれば、労働分配率はたちまち50%を超え、企業にとって利益を出すことが極めて難しくなる。
もちろん、ある程度の資本を持つ大手チェーンであれば、値上げやシステム化によってこのコスト増を吸収できる余地がある。しかし、大半を占める中小零細事業者には、そのような柔軟性がない。借入に頼って資金繰りを維持しているような店舗や、家族経営でギリギリのラインを支えている個人店にとっては、「設備投資もできない」「値上げも難しい」「それでも賃金だけは上がる」という、典型的な板挟みの状況に陥ることになる。
この構造的な脆弱性は、コロナ禍によってすでに可視化された。たとえば、2020年には負債1,000万円以上を抱えて倒産した飲食業の件数が842件に達し、過去最多を記録している。さらに、2023年にはその数が768件にのぼり、2022年比で約1.7倍という急増を見せた。これらの数字は、制度的な外圧や突発的なショックが、この業界にとっていかに致命的であるかを物語る。
このように、飲食業や小売業、介護・清掃などの業界では、すでに廃業率の上昇傾向が続いている。だからこそ、もしここに「最低賃金1.5倍」という制度的ショックが重なれば、さらなる退出が起こるのは避けられない。特に中小企業においては、事業継続を断念せざるを得ない企業が全体の2割から3割に達する可能性は、決して極端な話ではないと思うのだ。
このような業界に従事している人の多くは、技能や資格ではなく時間給で働く層だ。全国で最低賃金圏で働いている人は、ざっと見積もって900万人から1,000万人にのぼる。もしこのうちの3割から5割が雇用の場を失えば、単純計算でも300万人から500万人規模の失業が発生することになる。
もちろん、これは一足飛びの話ではない。だが、制度的な強制によって賃金構造が変化すれば、企業の経営構造も、それに従う形で静かに、しかし確実に変わっていく。その先に待っているのは、底辺労働の消滅で、設備投資を前提とした新しい産業構造だ。そしてその構造に適応できない企業と人から順番に社会から退場する厳しい現実が見え隠れするのだ。政治屋は表面的に善意のつもりかもしれない。だが、もう一つの側面が存在する可能性を議論すべきだと思う。
それだけではない。生き残った企業は、資本とテクノロジーで武装した「資本集約型企業群」であり、マーケットは寡占化へと向かう。実際に、大手外食チェーンでは、調理機器の統一、レシピの自動化、バックヤードオペレーションのクラウド化が進み、すでに人手は大幅に削減されている。スーパーマーケットやドラッグストアでも、AIによる発注、自動在庫管理、集中仕入れなどが日常化している。個人店や小規模チェーンがそれらに対抗できる術は、現実にはほとんどない。
ここまで見てきたとおり、最低賃金の引き上げは、それ自体が目的のように語られがちだ。しかし、本質的には「社会における労働の再編を加速させる」トリガーであるのだ。しかもその再編は、決して平等なものではない。スキルを持たない労働者は仕事を失い、投資余力のない企業は淘汰され、資本を持つプレイヤーがマーケットを塗り替えていく。意図せざる格差拡大が、賃上げという善意の施策の裏側で進行する可能性は否定できないのだ。
だからこそ、「賃上げするか否か」ではなく、「その賃上げが何を引き起こすか」について突っ込んだ議論が必要だ。構造を見ずに、表層の数字だけをいじることが、いかに危ういか。経済は、善意では回らない。そして構造を変える力を持つのは、いつだって数式ではなく、人間の合理的で非合理な行動原理なのだ。
新規事業の旅212 独占禁止法に思う
2025年9月10日
早嶋です。約2,000文字。
EUがGoogleやAppleといった巨大テック企業に対して、再び独占禁止法の観点から介入を強めている。検索エンジンや地図、アプリストア、OS、さらには自動運転技術までを含めた広範囲な事業領域において、それぞれの企業が支配的な地位にあるという判断だ。
たしかに、現代のプラットフォーマーたちは、検索・地図・モバイル・広告・AIなどを包括的に取り込んで、まるで巨大なインフラとして私たちの生活の中に根を張っている。だが一方で、それらの企業がどれだけのリスクを取り、何十年にもわたってインフラを無料で提供しながら技術を進化させてきたかを想像すると、彼らの「支配」と「影響」は我々に取って生活体験そのものを確実にアップデートしている。しかし、EUは「悪」と捉えたいのだ。
独占禁止法(antitrust law)という制度そのものは、もともと今から130年以上前の19世紀アメリカで生まれた。ロックフェラーのスタンダード・オイル社を筆頭に、石油、鉄鋼、鉄道といった基幹産業に巨大資本が集中し、あからさまな価格操作や新規参入排除が横行していた時代だ。こうした企業が消費者や労働者を「支配」し、民主主義の仕組みすらねじ曲げようとする流れに対して、国家が「市場に介入する権利」を初めて明文化したのが独占禁止法の原点だ。
この時代の企業は、情報を握ることで市場をコントロールしていた。商品の値段も仕入れの経路も、誰が競合なのかすら一般の消費者には見えない。情報の非対称性のなかで、強者は強者の論理を押し通し、弱者は声すら上げられない。そうした構造の中で生まれたのが独禁法であり、それによってアメリカ社会は「自由競争の回復」という理念を取り戻そうとした。
だが、時代は変わった。2000年代以降、インターネットとスマートフォンの普及によって、情報の流通構造そのものが劇的に変わった。私たちはGoogleで何でも検索し、YouTubeでレビューを見て、TwitterやInstagramで口コミを確認する。価格比較サイトやレビューアプリ、掲示板やSNSを通じて、もはや「企業だけが情報を持っている時代」は終わった。むしろ、消費者こそが「企業を評価する力」を手に入れたのだ。
このような時代において、GAFAが得ている富は、情報の非対称性を悪用した結果ではない。それは、ユーザーが日々の利便性を評価し、その対価としてお金を支払っている、いわば選好の集積としての富だ。Googleの検索が便利だから使う。AppleのiPhoneが美しくて安心だから選ぶ。Amazonの配送が早くて返品も簡単だからリピートする。それだけの話だ。
それにも関わらず、欧州を中心とする規制当局は、あたかもGAFAが旧来のロックフェラーと同じ「支配構造」にあるかのように語っている。しかし、これは20世紀型の思考枠組みを21世紀に無理やり持ち込んでいるようにも見える。現在のGAFAのビジネスモデルは、単なる「構造の囲い込み」ではない。むしろ、「連携によるUX(ユーザー体験)の最適化」であり、「ユーザーにとっての手間の最小化」なのだ。
たとえば、Appleの製品は、ハード・OS・ソフト・サービスが一体設計されているからこそ、安全性と快適さが両立する。Googleの各種サービスも、検索から地図、メール、翻訳、広告、クラウドとつながることで、生活に深く根ざした「便利さ」が成立している。これらを「分離せよ」というのは、UXの崩壊を意味する。つまり、「自由競争のためにUXを壊す」という、本末転倒な論理がまかり通りかねないのだ。
さらに言えば、今のGAFAは、自らの力で市場を切り拓き、誰よりも早くリスクを取り、世界中にプラットフォームを浸透させてきた。その結果として構造的に強くなっているわけであり、それを「強すぎるから分割せよ」と言われたら、どの企業も挑戦できなくなる。リスクを取った者が報われず、逆に分割されて罰せられるとしたら、果たして次のGoogleやAppleはどこから生まれるのだろうか。
もちろん、独占があらゆる面で肯定されるわけではない。たとえば、新興企業の買収によるイノベーション潰しや、アプリストアにおける強制的な手数料設定など、力の濫用が起き得る領域はある。だが、それらは「独占そのものの悪」ではなく、「行為としての不当性」を正しく見極めて対処すべき問題である。
これからの時代に必要なのは、古い「独占=悪」という二項対立ではなく、UX、透明性、選好、そして自律性といった新しい価値軸に基づいた制度設計だと思う。構造を無理に分けるよりも、消費者が不利益を被らない仕組みをどう担保するか、プラットフォーマーが過剰に価格支配をしないようどのようにインセンティブを組むか。つまり、「規制」ではなく「共進化」が求められているのだ。
テクノロジーが急速に進化し、社会そのものが変化している今、独占禁止法という正義のルールもまた、時代に即してアップデートされるべき時に来ていると思う。
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