
本社と現場の権限配分
2025年12月2日
早嶋です。
本社と現場、本店と支店。その権限をどちらに寄せるべきかという議論は、昔から組織の永遠のテーマのようだ。しかし昨今、この問いそのものがズレ始めていると思う。その理由は、単純だ。市場の変化が圧倒的に速くなり、一方でリスクや規制はむしろ強まった。現場で拾える情報の価値は高まり、本社が抱える責任の重さも増した。つまり、現場の即応力と本社の統制力、この二つを同時に求められる矛盾した時代になってしまったのだ。
そのため、昔のように「本社主導か、現場主導か」という二項対立で組織を決めてしまうと、どちらも機能不全に陥る。いま求められているのは、権限の総量をどちらに寄せるかではなく、速度、再現性、データの扱い、リスクの質という4つの軸に照らしてどのプロセスを、どちらが担うべきかを丁寧に分解することだと思う。
では、この4つの軸を前提に、業界が変わると権限配分はどう姿を変えるのかを、製造業、インフラ、金融、公務員、サービス業、そして地方に多くの拠点を構える企業という6つの領域を取り上げ、それぞれの構造的な違いをベースに考察したい。
実務に関わる多くの読者は、自社の「当たり前」が実は業界固有の構造であったことに気づくきっかけになれば嬉しく思う。
(製造業──「標準化された本社」と「改善する現場」が共存する世界)
製造業において、権限配分の核を成すのは品質と安全だ。製品そのものが物理的であり、ミスが許されない。ゆえに生産技術、品質管理、安全衛生、設備投資といった領域は、本社が強い統制権を持つべきだ。この点では業界間の差はほとんどなく、グローバルでも同じ構造が確認できる。
だが一方で、現場の改善活動は現場にしかできない。生産計画の微調整、不良発生時の判断、段取り替え、ラインの改良などは、現場の速度と思考が価値を生む。工場という組織は「標準化された本社」と「改善する現場」が二階建て構造でかみ合うと、一気に強くなる。この二つの層がズレると、どれだけ理念を掲げても実績は積みあがらない。
製造業は、現場と本社が役割で分かれ、能力で補完する典型的な産業だと思う。
(インフラ──「止めない」ために権限は本社へ集中する)
電力、ガス、鉄道、通信等。この領域に共通する最優先事項は止めないことだ。サービスが止まるということは、社会の基盤が揺らぐことを意味する。だからこそ、安全、法令遵守、技術基準、設備更新の判断基準などは、本社が一手に握らざるを得ない構造になる。
災害が起きたときの緊急対応は現場の役割だ。しかし、その背後にある戦略的な設備投資や政府との調整、保安規程の設計は本社が担うことが合理的だ。ここに現場裁量を広げすぎると、意図せぬ事故が起こり、企業全体が揺らぐことになる。
インフラ産業は、他産業とは異なり、権限の分散よりも責任の集中が優先される。ここが最大の違いだ。分権化すればするほど現場は楽になるが、社会の安全保障としてはむしろ危うくなるのだ。
(金融──市場感とリスク管理が常にぶつかる世界)
金融業はとても不思議な構造を持つ。支店の現場は顧客との接点であり、情報の源泉だ。しかし、本社は巨大なリスク管理の機構を抱えている。金融庁の規制、コンプライアンス、信用リスク、AML(マネーロンダリング対策)、商品設計。これらは完全に本社側の世界であり、現場が関与できる余地はほとんどない。
その一方で、地域の経済を知り、企業の実態を掴み、個人の背景を読み取るのは支店の力量だ。数字では測れない信用の手触りは、どうしても支店の裁量に依存する。
つまり金融は、本社と現場がどちらも正しい構造を持つ稀有な業界だ。本社はリスクの視点で正しく、現場は顧客接点の視点で正しい。両者の摩擦やギャップをどう調律するかで、その金融機関の競争力が決まる。
(公務員──公平性と地域性が常にせめぎ合う)
行政の世界では、法令の扱いに例外が許されない。公平性、透明性、手続の平等性。これらを守るために、本庁(=本社)の権限は必然的に強くなる。予算編成、制度設計、監査、情報公開は、本庁が一元的に持つほかない。
しかし、省庁・自治体がいくら原則を決めても、最終的に住民と向き合うのは現場だ。地域特性や住民の事情を理解し、生活課題に寄り添う役割は、どうしても現場の力に依存する。
公務領域は、現場の裁量を広げれば不公平が生まれ、本庁が統制しすぎると住民に寄り添えないという構造的ジレンマを抱える。民間企業とはまったく違う、独特の権限配分の世界が広がっている。
(サービス業──顧客価値の中心は圧倒的に現場にある)
飲食、ホテル、小売、介護、コールセンターなど、サービス業全般に共通する鉄則は、顧客価値のほぼすべてが現場で生まれるということだ。接客、身のこなし、クレーム対応、空間の空気感、瞬時の判断。これらはどれも現場の判断力と人間力に依存する。
本社はブランドを守り、商品戦略や価格設計を行い、教育とIT基盤を整える。しかし、実際に価値が生まれる場所は現場だ。だから、この業界では本社が権限を握りすぎると、一気に組織が弱くなる。現場の自由度を奪った途端、顧客にとっての魅力が消えてしまうからだ。
サービス業は、本社と現場の役割がはっきり分かれた例だと思う。ブランドは本社がつくり、価値は現場が生む。この二つが適切に分離されると、とても強い組織になる。
(地方に多拠点を持つ企業──地域差こそ価値なのか、それとも統一性こそ価値なのか)
地方に多くの拠点を構える企業は、最後のタイプとして非常に興味深い構造を持っている。たとえば、地方商社、建設、医療・介護、運輸、通信、インフラ子会社などが該当する。
この領域で決定的に重要なのは、「地域差そのものが価値になるのか、それとも全国一律の品質が価値になるのか」という問いだ。
地域によって顧客の気質、行政の姿勢、インフラ、水道、交通、人口動態、競合環境が全く異なる企業では、現場の判断能力が圧倒的に重要になる。地域ごとに「最適解」が違うため、本社の指示がそのまま通用しないからだ。
一方で、安全基準、労務、法務、IT、設備投資、全社最適の取り組みは本社が握るべき領域になる。これは地域差が関係ない。ルールは一つでいい。
つまり、多拠点企業の本質は、「現場の差異が価値なのか、統一性が価値なのか」を冷静に見極め、その上で権限の境界線を引くことに尽きる。
(総括)
本社と現場の権限配分は、もはや、どちらが強いべきか、という単純な議論では立ち行かない時代に入った。速度を求める領域は現場に寄せ、再現性や安全が価値になる領域は本社が握る。データは全社で集め、リスクは質によって線引きする。そして、業界構造によってその最適解が大きく変わる。
●製造業は、標準化された本社と改善する現場の二階建てで強くなる。
●インフラは、止めないために権限の集中が不可欠だ。
●金融は、市場感とリスク管理という相反する力を調律する産業だ。
●公務員は、公平性と地域性の綱引きが永遠のテーマになる。
●サービス業は、顧客価値の中心が現場にある。
●多拠点企業は、地域差が価値なのか統一性が価値なのかを見極め、構造を設計すべきだ。
権限というものは置きどころではなく、設計の問題へと進化した。この視点を持てるかどうかが、これからの組織の強さを決める重要なポイントになる、と思う。
なぜスタバのEチケットはあんなに使いづらいのか?ブレイケージ(未使用残高)で毎年2億ドル超近く利益を出すスタバの経済学
2025年12月1日
早嶋です。約7900文字。
(スタバのEチケット)
前提として、多くの読者はスタバの「eGift」や「Eチケット」を使ったことがないと思う。ざっくり言えば、LINEやメール、各種SNS経由で送れるデジタル版ドリンクチケットだ。スタバ公式のeGiftは、オンラインで700円・500円などの金額指定のドリンクチケットや、ドーナツなどに使えるフードチケットとして購入できる。送る側はスマホ上で相手を選び、メッセージカードを選び、決済すれば、相手にURLつきのメッセージが届く。受け取る側は、そのURLを開くとメッセージカードとともに「ドリンクチケット」が表示され、レジでQRコードを提示して使う。そんな商品だ。
ここでポイントになる仕様を、事実ベースで押さえておく。
●eGiftは1枚のチケットにつき、1つの商品としか引き換えできない。複数の商品に分割して使うことはできない。
●おつりは出ない。700円のチケットで590円のドリンクを買っても110円はどこかに消える。差額を次回に繰り越すこともできない。
●有効期限がある。公式の利用規約では「発行日から5ヶ月以内の当社が指定する期日まで」とされており、期限を過ぎると自動的に無効になる。もちろん返金はない。
●チケットはスタバカードへのチャージには使えず、モバイルオーダーにも基本的には使えない。店頭レジでQRコードを読み取ってもらう必要がある。
つまり、スタバいわく、「金券」ではなく、あくまで「1回限りの商品引換券」として設計されている、ということだ。
(体験した際のモヤモヤ感)
実際の利用フローは紙のクーポンより複雑だ。LINEギフトで受け取った場合を例にとると、LINEのトークからスタバeGiftのURLを開く。メッセージカードが表示され、その下にドリンクチケットが並ぶ。使いたいチケットをタップするとQRコードが表示される。そして、レジでそのQRコードを読み取ってもらう。
iPhoneの場合、チケット画面から「Apple Walletに追加」ができるが、ウォレットに保存できても、それがなんtの使えない。スタバの公式ヘルプでは、eTicketやQRコードをスクリーンショットで保存して使うことは推奨しておらず、「お会計の際にご利用いただけない場合もございますので、ご利用時に表示したeTicketをご提示ください」とある。そのため、現場のスタッフによっては、「Apple Walletの画面ではなく、LINEで届いた元の画面を見せてください」と案内するケースが出てくる。
そう、ユーザー体験は一気に品雑化するのだ。レジ前でウォレットを開き、店員に「LINEの元画面を」と言われ、トーク一覧に戻り、どのトークだったか探し、ようやくQRを出す。混んでいる時間帯なら、後ろに並んでいる人の視線も気になる。たかがコーヒー1杯を買うのに、ここまでアプリの中を往復しなければならない。「デジタルでスマートに」のはずが、実際はUIの迷路を彷徨うはめになる。
今回私が体験したのは、典型的な「700円ドリンクチケット」だった。仕様として、1枚のチケットで1つの商品、差額の繰り越し不可、というルールがあるので、700円以内のドリンクを1杯だけ買うしかない。
たとえばこういうシーンだ。700円のチケットを持っている。普通にコーヒーだけなら、トールで500円から600円台に収まる。だったらドーナツも一緒に買って、合計780円だな。「チケット700円分+差額80円を現金かカードで払おう!」と考えるのは、人間として自然だと思う。しかし、ここで「1枚のチケットにつき1商品」の壁が立ちはだかる。
コーヒーとドーナツ、2つまとめて精算しながら1枚のチケットで700円分を充当することはできない。チケットを使えるのは、どちらか片方だけ。実際に私が遭遇したときも、「コーヒー2つで700円程度にして差額は払う」と考えたが、速攻でNGを食らう。
さらにややこしいのは、「700円ドリンクチケット」と「ドーナツチケット」の2枚を同時に出したときだ。最初、スタッフは「この2枚を同時には使えません」と言い切った。ところが、レジを操作し直し、奥で誰かに確認した結果、「やっぱり使えます」という結論に変わった。つまり、現場のオペレーションが仕様に全く追いついていない。
更に、有効期限の話もあった。このときのチケットは有効期限がその日までだった。しあbらくラインでもらったことを覚えていて何かのタイミングで使って見ようと思い出した。直感的には「今日が期限なら、今日まとめて2枚使って終わらせたい」と思ったのだ。しかし、スタッフの口から出てきた言葉は、「有効期限があるので、チケットは別の日に使われるのがいいと思います!」という、謎のアドバイスだった。私がレジ前でもたついていて、要領を得ていないのはわかる。レジの後ろに待ち行列があるのもわかる。令和のiPhoneを使った購買体験を準備したのはスタバなのに、なんかとても申し訳ない気持ちになる。それを見計らったかのような提案。店員の目は作ったスマイルで目は笑っていない。
(最低に近い顧客体験のファクト整理)
いや、今日が期限だからこそ、今日使わせてくれ、と思うわけだが、その感覚はどうやら共有されていない。こうして私は、最低に近い顧客体験を、見事に味わうことができた。仕様としての「ややこしさ」と、そこから生まれる違和感。ここまでを、いったん感情を抑えて「事実」として並べてみる。
●eGiftは1枚につき1商品にしか使えない。
●チケット金額内であっても、複数商品への分割利用はできない。
●おつりは出ないし、残額の繰り越しもできない。
●有効期限は発行から5ヶ月以内で、期限切れになっても返金はない。
●モバイルオーダーでは原則使えず、店頭レジでのQR提示が必須。
●スクリーンショット利用は公式には「非推奨」で、店舗によっては受け付けない。
●店舗によっては同一会計で使えるチケット枚数に上限(例えば2枚)が設けられているという利用者報告もあり、現場の説明も統一されていない。
そして、ここに人間の行動側の要素が重なる。
●LINEのトーク内で埋もれ、どのスレッドにチケットがあったか分からなくなる。
●ウォレットに入れたものの、店舗側が「LINEの元画面を」と要求し、行ったり来たりする。
●スクショで保存しても、店舗によっては「お受けできません」と言われるリスクがある。
●「いつか使おう」と思っているうちに、有効期限が過ぎる。
私だけが「面倒だ」と感じたのかと思って、別の場面で何度か話題にしてみた。た追えば、経営者の集まり。都市部で日常的にスタバを利用している層の集まり。普段はほとんどスタバに行かない層の集まり。
いずれの場でも、eギフトの利用体験は総じて満足度が低かった。「期限切れで結局使わなかった」「アプリの中でどこに行ったか分からなくなった」「何となく面倒で放置した」といった話が、いくつも出てきた。送られてうれしくはあるが、使い切る前に忘れてしまうパターンが、かなりの割合で存在している。
ここまで来ると、感覚としてはこうなる。「これは、スタバが意図的にややこしくしているのではないか?」と。
(金券ではなくドリンクチケットという戦略)
スタバ側の合理性を考えるとき、重要なのはeGiftが金券ではなく商品引換券として設計されていることだ。「金券」のように扱うと、会計・税務のルールは一気に重くなる。前払式支払手段としての扱い、残高管理、未使用残高の処理、返金の扱い等々、金融商品に近いルールが適用されてくる。一方、「指定商品の引換券」として設計すれば、より自由度が高く、企業側にとって都合のいい運用が可能になる。
実際、スタバのeGift利用規約では、「有効期限内に使えなかった場合でも返金しない」「スタバカードへのチャージはできない」と明記されている。つまり、使われないまま期限切れになったeGiftの売上は、そのままスタバの収益になるのだ。ギフトカード業界では、こうした未使用残高を「ブレイケージ(breakage)」と呼ぶ。スタバはアメリカ本社の開示でも、ギフトカードの未使用残高に関して「ブレイケージ収益」を計上している。
2025年春の報道によれば、スタバはプリペイドカードやロイヤルティ残高として約18.5億ドル(約2,800億円)の顧客前払金を抱え、その一部が毎年「未使用のまま」残り、年間で2億ドル超(約300億円)がブレイケージとして利益に寄与しているとされる。これは全社売上約362億ドル、営業利益率15%前後という規模の中で、おおよそ利益の4%程度を占める数字だという指摘もある。
要するに、「使われなかった分」は、ほぼコストゼロで利益になるのだ。その構造を、スタバはグローバルに持っている。eGiftも、その一種として設計されていると考えるのが自然だろう。
(欠陥仕様なのに修正しない)
ここで、一旦整理してみる。ユーザーから見れば、eGiftの体験は明らかに分かりにくく、使い勝手が悪い。店舗オペレーション側も仕様を完全に理解しきれておらず、現場で混乱が生じている。それにもかかわらず、eGiftという仕組みは何年も継続され、改善のスピードも遅い。これは「現場が不勉強だから」では説明しきれない。スタバほどデータドリブンな企業が、このレベルの顧客不満を本社レベルで把握していないはずがないからだ。それでも、仕様が大きく変わらないのであれば、そこには企業側の明確な意思があると考えるべきだろう。
●1枚のチケットで1商品に限定させる
●おつりは出さない
●分割利用も認めない
●有効期限を策略的に設定する
●利用フローはデジタルに閉じ紙クーポン化させない
こうした仕様が組み合わさると、ブレイケージは自然に増える。「700円分あるから、今度スタバ行ったときに使おう」と思う。でも、その「今度」がなかなか来ないのだ。気づいたときには、有効期限が切れていて、あるいは、LINEの底の方でチケットが眠ったまま忘れられてしまう。eGiftの設計を、顧客目線で見れば「欠陥仕様」と呼びたくなる。しかし、スタバ本社の目線で見れば、「多少不便でも、ブレイケージと送客の両方を生む優秀なプロダクト」となるのだろう。
(売上構造から見える「甘い飲み物の会社」という正体)
ここから議論を、スタバ全体の収益構造に広げてみよう。スタバの会社全体の売上構成を見ると、世界の直営店ベースで、売上の約7割前後がドリンク、2割から3割がフードやその他商品とされる。2024年の開示でも、直営店の売上のうち飲料が74%、フードが23%、その他3%という構成が示されている。つまり、売上の大半は「飲み物」で稼いでいるのだ。フードやマグカップなどの物販もあるが、あくまでサブという構造だ。
では、その「飲み物」の中身はどうか。スタバのドリンクメニューをざっと眺めれば分かるように、いわゆる「ブラックコーヒー」だけを売っている会社ではないのだ。ラテ、モカ、マキアート、フラペチーノ各種、季節限定の甘いドリンク(代表的なのがパンプキンスパイスラテ)等々。
こうした甘味系・ミルク系ドリンクが、客単価を大きく押し上げている。パンプキンスパイスラテだけを見ても、2003年の発売以来、アメリカを中心に文化的現象と言えるレベルのヒットとなり、スタバの売上拡大に大きく寄与してきた。おそらく、あなたの周りのスタバ利用者を思い浮かべても、「毎回ショートサイズのドリップコーヒーだけ」という人は少数派だろう。
感覚的な仮説として、飲料売上全体を100とするとブラックに近いコーヒー類(ドリップ・アメリカーノ等)が1割から2割。甘めのミルク系・フラペチーノ系ドリンクが残りの大半という比率になっていると考えても、大きく外れてはいないはずだ。
さらに、単価の差がここに乗ってくる。シンプルなコーヒーは、トールサイズで数百円台前半。甘いラテやフラペチーノは、トールからグランデで600円から800円台。サイズを上げれば上げるほど、単価は上がる。原価構成を考えると、シロップやホイップ、ミルクの追加はコストに比べて高粗利になりやすいのだ。
スタバの財務データを見ると、全社レベルの営業利益率は年によって変動はあるものの、おおむね15%前後で推移している。この数字を支えているのは、コーヒー豆単体のビジネスというより、むしろ「砂糖とミルクと視覚効果をまとったドリンクの高マージン構造」だと考えるのが自然だ。
(「甘いものを大きくしたくなる」心理と、経済合理性)
人間の心理から見ても、スタバの設計は極めて巧妙だ。700円のドリンクチケットを持って店に入ると、多くの人はこう考える。「せっかくなら、いつもよりちょっと良いものを飲もうかな」と。ここで、「ブラックコーヒーをショートで」にはなかなか行かない。有料カスタマイズや、サイズアップ、期間限定フラペチーノに目が行く。
●ホイップを乗せる
●シロップを足す
●グランデやベンティを選ぶ
こうして、金額をきっちり使い切る方向に心が動く。スタバラバーズは、eGiftの攻略を得意げに説明して、「700円を使い切るために有料カスタマイズやサイズアップを活用するんだ!」と誇らしげに語る。経済合理性の観点から言えば、シンプルなコーヒーは原価に対して価格差がそこそこ。しかしシロップやホイップの追加は、原価に対する価格差がさらに大きい。サイズアップも、追加される飲料の原価よりも、価格の上昇幅の方が大きい。
つまり、顧客が「せっかくだから」と甘く・大きく・派手に注文するほど、スタバの利益率は上がる構造になっている。eGiftは、その「背中を押す」役割を果たす。
「700円分あるから、今日はフラペチーノにしよう」とか、「せっかくなので、トッピングも追加しよう」と。
このとき、チケット金額をちょうど使い切ることに小さな快感があるかも知れない。しかし、ブレイケージでキャッシュをゲット出来なくても、その裏側では、スタバ側は高利益商品の販売比率と客単価を上げつづけているのだ。
冷静に言えば、スタバは「コーヒー屋」の顔をしながら、実態としては高利益の甘味系ドリンク会社として収益を積み上げている。
(依存構造と「第三の場所」というの魔法)
もちろん、砂糖とミルクだけがリピートの理由ではない。スタバが強いのは、マーケティング、文化、社会心理学、建築、都市の文脈を総動員して、「第三の場所」という物語を作り続けている点だ。
●家でも職場でもない、居心地の良い場所
●ノートPCを広げて仕事をしている(風の)自分
●スマホとスタバカップを並べて写真を撮る自分
●「丸の内で働いている私」「都心で頑張るフリーランスの私」という自己陶酔
極端に言えば、高級バッグや高級レストランほどの出費はできないが、600円から800円のスタバなら頑張れる。それでいて、長時間座っていられる。Wi-Fiと電源がある。周りも似たような「頑張っている人(風)」に見える。
結果として、スタバは多くの人にとって、「自分の居場所をコスパ良く確保できる空間」になっているのだ。ここで重要なのは、お金が潤沢ではない層ほど、スタバに長居する傾向があるということだ。
自宅にワークスペースがない、会社に残りたくない、でもどこかで「仕事している自分」を確認したい。そのとき、スタバはちょうどいい。
●高級オフィスワーカーの下で働く大多数
●都市生活に憧れる地方の若者
●「意識高い系でありたい」と思うが、本格的なラグジュアリーには手が届かない層
ひょっとして、こうした人々の承認欲求、孤独、自己陶酔を、スタバは見事に吸い上げているのでは無いか。eGiftは、その中にさらに「ギフト」という文脈を差し込み、他者から「頑張ってね」と言われた気がする。そのチケットを手に、スタバという舞台に足を運ぶ。そこでまた「頑張っている自分」を演出する。
スタバは、砂糖とミルクの依存構造だけでなく、都市のライフスタイルと承認欲求の依存構造も同時に作っているのだと思う。
(スタバのターゲット層)
ここまで見てくると、スタバのターゲット像はかなり輪郭がはっきりしてくる。高級ブランドをバンバン買える層ではない。かといって、完全な低所得層でもない。高級バッグは買えないが、スタバなら「頑張っている自分」を演出できる。自分の場所を本当の意味で所有することはできないが、スタバで長居することで、自尊心を維持できる。それを「生産的な自分」だと、半ば本気で思っている。
視覚的にも、スタバは徹底している。ロゴの入ったカップ。写真映えするドリンクの色と層。店内の木材と照明、音楽。
これらすべてが「私はスタバでコーヒーを飲んでいる=それなりに良い暮らしをしている」という錯覚を上手に支えるのだ。そしてeGiftは、その世界に「デジタルギフト」という入口を付け加えた。送る側は数タップで完結する。使う側は、アプリを掘ったり、有効期限を気にしたり、レジ前で画面を切り替えたりしなければならない。
そこに、私はどうしてもこういう構図を見てしまう。送り手の手間は徹底的に軽く、受け手の体験は微妙に面倒で、期限切れや残額を通じてスタバだけが最後に得をする。
(スタバは「悪い会社」ではない)
ここまで書くと、「スタバ、ひどい会社だな」と感じる人もいるかもしれない。
しかし、私はそうは思っていない。むしろ、極めて戦略的で、利益志向がはっきりしていて、それでいてターゲット層にはそう思われないように、自分たちのイメージを設計している会社だと捉えている。
実態は高利益の甘味系ドリンク会社。収益を支えるのは、砂糖・ミルク・視覚的演出・「第三の場所」という魔法。ギフトカードやeGiftではブレイケージを巧みに取り込み、年間で数百億円レベルの「使われなかったお金」からも利益を生む。それでも、多くの人は「おしゃれなコーヒー屋さん」として好意的に受け止めている。
こういう会社は、マーケティング・財務・空間デザイン・デジタルプロダクトのすべてが一つのストーリーに束ねられている。だからこそ、スタバのeGiftに違和感を覚えたとき、それを単なる「使いにくいクーポン」として片付けるのはもったいないと考えた。むしろそこには、スタバという企業が大事にしている「本音の設計思想」が、むき出しのまま乗っているように見えたのだ。
(魔法の外側の視点)
私自身、スタバを完全に否定する気はない。偶に利用する。便利な場所にあり、ちょっと時間を潰すにはちょうど良い。エスプレッソをさっと飲んで10分もしないうちに店を出るだけなら、極めて合理的な場所だ。
ただ、今回eGiftを使ってみて、改めてこう感じた。顧客体験よりも、収益構造を優先する設計が、プロダクトの細部にまで染み込んでいるということ。それでも多くの人は、その魔法の中で楽しそうに過ごしている。そのギャップこそ、現代の消費社会の一つの縮図なのだろうと。
スタバのeGiftにモヤッとした人は、それをただの「使いづらいチケット」として忘れてしまうのではなく、一歩引いて「自分はどういう魔法をかけられてしまったのか?」を問いただしてみると良い。一度、魔法の外側に立ってみると、いつものフラペチーノが、少し違って見えるかもしれない。
子ども食堂の未来は?
2025年11月29日
早嶋です。約5100文字。
ここ十数年で、日本のあちこちに「子ども食堂」が展開されている。はじめに「子ども食堂」という言葉が広く知られるようになったのは、2012年に東京都大田区の八百屋さんが始めた取り組みだと言われる。八百屋の店先で、近所の子どもたちに安く、あるいは無料でご飯を食べてもらう。それが新聞やテレビで取り上げられ、「自分たちの地域でもやってみよう」と動く人たちが現れた。そこから広がった。消費者庁の調査では、現在活動している子ども食堂のうち、活動開始が2011年以降の団体が約98%を占めている。つまり、子ども食堂は、ここ10年から15年のあいだに生まれ、まだ新しい現象なのだ。
(数で見る「子ども食堂」の爆発的な増え方)
子ども食堂の数は、まさに右肩上がりだ。複数の調査をつなぎ合わせると、だいたい次のようになる。
2012年頃:全国で十数か所から数十か所程度。まだ「知る人ぞ知る」活動。
2016年:319か所
2017年:2,286か所
2018年:3,718か所
2019年から2020年頃:5,000〜6,000か所と推計。
2021年:7,363か所
2022年:9,132か所
2024年度の調査:10,867か所と報告。
公立中学校の数(約9,200校)を比較するとイメージが湧くだろう。十数年前まではほとんど存在しなかった活動が、「全国どこに行っても、探せば近くに一つはある」レベルにまで広がっているのだ。子ども食堂は、もはや一部の熱心な人だけのチャレンジではなく、新しい形の社会インフラだと言って良いと思う。
(平均的な「子ども食堂」の姿)
「子ども食堂」のスタイルや運営をイメージしてみる。農林水産省が行ったアンケートでから、開催頻度の分布をみてみる。
●月に1回から2回のペースで開催:全体の4割程度
●週に1回から2回開いている:約2割
●ほぼ毎日のように開いている食堂:ごく少数
1回あたりの参加人数も、そこまで多くない。平均すると、子どもが約15人、大人が約23人で、合計38人程度だ。中央値は31人なので、「子どもが20人前後いて、大人が10人程度利用している」という光景が、典型的な子ども食堂のイメージだ。
参加費も、かなり抑えられている。子どもの参加費は平均134円で、中央値は100円。つまり、100円玉を1枚だけ持ってくれば食事ができる設計だ。そもそも子どもは「無料」のところも多く、アンケートでは、半数以上の食堂が「子どもは無料」と答えている。一方、大人の参加費は平均310円、中央値300円で、こちらもコンビニ弁当より安い。
場所は、公民館や地域センター、自治会館、寺や教会、飲食店の定休日、企業の社員食堂、学校の家庭科室や給食室などが使われている。10食から20食程度の小さなところもあれば、100食以上を用意する大規模なところもあるが、30人から50人前後が集まる中規模の食堂が全体のイメージに近い。
整理すると、平均的な子ども食堂とは、「月1回から2回、多くても週1回から2回ほど開き、1回あたり子どもが20人前後、大人も含めて30人から40人ほどが集まる。子どもは100円か無料、大人は300円程度で食べられる場所」ということだ。
(年間のコスト)
このインフラは、年間どれくらいのお金で支えられているのかを想定してみた。全国の子ども食堂を支援する「むすびえ」が行った大規模な調査では、9,132か所の子ども食堂のデータから、全国全体で1年間に動いているお金が推計されていた。人件費を除いた運営費用(食材費や消耗品費、家賃、光熱費など)の総額は、約216億円(21,632,725,395円)だという。これを1か所あたりに割ると、平均で約236万円/年になる。
人件費の勘案が無い。つまりボランティアで成り立っているので、仮にボランティアの労働を、最低賃金ベースで「お金に換算」してみた数字を出してみた。同じ調査をベースに計算すると全国で約349億円という金額になった。1か所あたりで見ると、約380万円/年だ。つまり、子ども食堂は、現金としては年間236万円ほどの原材料費等と380万円相当のボランティア労働がかかる構造だ(ただし、ここには調理器具や設備投資の減価償却は含まれていない)。
1回あたりの直接費は、参加人数によって大きく違う。参加者が10人から20人規模の食堂では、1回の開催で使うお金の中央値は約6,000円。21人から30人だと約15,000円、31人から50人だと約26,000円、51人から100人で約57,000円、100人を超える大規模食堂になると、1回あたり約88,000円とされている。
ここに、場所代などがさらに加わるので、「子ども一人あたり100円」ではとうてい賄えないことがよくわかる。
(事業として成り立つのか?)
子ども食堂を「事業」として捉えたとき、どこまで自立できるのかを考えて見よう。分かりやすくするために、いったん人件費をゼロ、つまり「すべてボランティア」と仮定して考えてみる。
典型的なケースとして、1回あたり30人程度(子ども20人+大人10人)が参加し、月2回開催する食堂をイメージする。先ほどの中央値を参考にすると、1回の開催で必要な直接費は15,000円から25,000円程度だ。月に2回開催すれば、合計で3万から5万円になる。
一方で収入はどうか。子どもが20人来て、1人100円を払うと2,000円。大人が10人来て、1人300円を払うと3,000円。合わせて1回あたり5,000円。月2回で1万円の収入になる。そうすると、毎月2万から4万円は赤字になり、その分を寄付や助成金、食材の寄付などで埋める必要がある。年間で見ると、24万から48万円の不足だ。
もう少し規模が大きく、40人から50人が参加し、月4回開催している食堂を考えてみると、毎月のコストは10万から20万円程度になる。参加費収入は、大人も含めて月2.8万円ほど。ここでも、月あたり7万から17万円、年間にすると80万から200万円を、外部の資金で補わなければならない計算になる。
この数字を見ると、「子ども食堂単体を、参加費だけで成り立つビジネスにする」という発想はほぼ不可能だと分かる。もし参加費を本気でコストに見合う水準まで上げるなら、子どもは500円、大人は800円から1,000円といった価格設定が必要になるだろう。しかし、それをやってしまうと、そもそもの目的である「貧困対策」や「孤食対策」とは矛盾してしまう。来てほしい家庭ほど来られなくなるからだ。
従い、現実には、子ども食堂は「事業」というより、「マルチな資金を束ねた社会的な取り組み」として成立している。公的な補助金、企業からの協賛金、ふるさと納税の仕組み、地域住民や企業からの寄付、フードバンクやスーパー・農家からの食材寄付、さらには宗教施設や自治会館の無償提供、こうした資源を総動員することで、ようやく年間200万から300万円の活動プラス、そこに関与する人のボランティアで回っているのが実態なのだ。
(立地のパターンと可能性)
子ども食堂の立地を考えるとき、いくつかの典型的なパターンがある。
一つは、企業の社員食堂を開放する形だ。すでに厨房設備が整っており、衛生管理の体制もある。余った食材や、社食の仕込みの一部を活用することで、食材コストを抑えることもできる。職住近接のオフィスであれば、社員の子どもがそのまま立ち寄ることもできる。企業にとっては、地域貢献(CSR)と、社員のワークライフバランス支援を同時に実現できるモデルだ。ただし、オフィス全体のセキュリティ設計や、社員以外の人の出入りをどう管理するか、といった課題は残る。
次に、学校の調理室や家庭科室、給食室を放課後に活用するモデルがある。すでに子どもたちは放課後も学校にいる。多くの自治体では、放課後子ども教室や学童保育が学校の敷地内で行われている。ここに子ども食堂が組み合わされると、「仕事で帰りが遅い家庭の子どもが、学校でそのまま宿題をして、晩ご飯も食べてから帰る」という形が実現できる。孤食の問題にも直接的に効いてくる。ただ、学校現場の教職員の負担をどう抑えるか、教育委員会や自治体との調整をどう進めるか、という別のハードルがある。
現状もっとも広く使われているのは、公民館や地域センター、自治会館、寺や教会といった、地域の公共空間だと思う。ほとんどの自治体には、こうした場所が何らかの形で存在する。調理室がついているところも多い。高齢者サロンや趣味のサークル、地域の会合といった活動とも組み合わせやすく、子どもだけでなく、地域の大人や高齢者も一緒になって食卓を囲む場を作りやすい。ただし、人気のある公民館ほど利用枠の競争が激しく、使用料も1回数千円から数万円かかることがある。自治体がここを「子ども食堂優先枠」として位置づけ、料金や利用条件を優遇するような制度設計をすれば、さらに広がる余地は大きい。
最後に、ゼロから専用拠点をつくるモデルもある。空き店舗や古民家を改修して、「子ども食堂+学習スペース+地域カフェ」といった複合施設にするやり方だ。昼間は一般向けのカフェとして営業し、夕方から夜にかけては子ども食堂として開放する。場合によっては、コワーキングスペースやフリーランス向けのオフィス機能を備えることも考えられる。こうした専用拠点は、まちの「顔」となりやすく、ブランドも育てやすい。ただし、初期投資や家賃の負担が大きく、運営もそれなりに複雑になる。ここまで来ると、もはや子ども食堂単体というより、「ソーシャルビジネス拠点」の一機能として子ども食堂を位置づける発想が必要になってくる。
(インフラとして成熟した先の税金投入の可能性)
ここまで見てきたように、子ども食堂はすでに「新しいインフラ」としての姿を見せ始めている。全国で1万か所以上あり、多くの地域で、子どもだけでなく大人や高齢者も含めた「居場所」となっている。貧困対策、孤食対策、見守り、高齢者との交流、食育、さらには学習支援や相談窓口など、担っている役割は多岐にわたる。
ここまで役割が広がると、次の問いが浮かぶ。「これは、市民活動としてだけでなく、公共サービスとしても位置づけるべきではないか?」という問いだ。日本は、どうしても「公務員が直接やる仕事」が前提になりがちだが、子ども食堂のような取り組みは、民間やNPOが主体となり、行政が資金や制度面で支える、という形の方が相性が良い分野だと思う。行政がすべてを自前で抱え込むのではなく、地域のNPOや市民団体を「パートナー」として位置づける。その代わり、税金を一定程度投入し、継続性を担保する。
その前提として、本来の公務員の仕事も見直す必要がある。今の行政は、膨大な事務作業やルール運用に多くの時間を費やしている。これを、AIやロボット、デジタルツールにどんどん移していく。会計処理、申請書のチェック、補助金の事務、統計の集計、こうした仕事は機械の方が得意だ。逆に、人間にしかできないのは、子どもの表情の変化に気づくこと、一人ひとりの事情を聞き取ること、地域の信頼関係を紡ぐことだ。
もし自治体が、「人手が必要な支援は人がやる。それ以外は徹底的にデジタル化する」という方針を本気で掲げるなら、子ども食堂のような取り組みに税金を振り向ける余地は十分に出てくるはずだ。
(まとめ)
子ども食堂は、十数年前にはほとんど存在しなかった。しかし今では、全国で1万か所以上が活動し、年間236万円の現金と380万円相当のボランティア労働で支えられている。参加する子どもは平均で1回あたり15人前後。大人も含めると30人から40人が集う。参加費は子ども100円、大人300円程度。数字で見ると、どれだけ「無理をして」成り立っているかがよく分かる。
それでも、このインフラを支えているのは、地域の人たちの「子どもを見守りたい」「一人で食べる子を減らしたい」という思いだ。その思いに、これからどこまで制度が追いついていくのか。NPOや市民活動としての自律性を残しながら、公共サービスとしても位置づけることができるのか。
子ども食堂をめぐる数字を追いかけていると、日本のこれからの福祉や教育、地域社会のあり方が、そのまま縮図として見えてくる気がする。ここから先をどう設計するのかは、政治のテーマでもあり、同時に、地域の一人ひとりが考えるべきテーマでもあるのだと思う。
スクイーズアウトという制度
2025年11月27日
早嶋です。約2300文字。
大きな資本の動きよりも、むしろ小さな持分の存在が決定的な影響を及ぼすことがある。ある会社が9割以上の株式を持っているにもかかわらず、残り数%の株主が「反対」を示し、合併や組織再編そのものが動かなくなる場合だ。これは実務では珍しくなかった。少数の意見が悪いわけではないが、再編全体が人質のように扱われるケースが続けば、企業の意思決定はいつまでも前に進まない。
この状況を解きほぐすために用意された制度が「スクイーズアウト」だ。日本語では「株式等売渡請求」と呼ばれる。簡単に言えば、9割以上の株式を持つ支配株主が、残りの株主に対して「あなたの株式を買い取ります」と請求できる制度だ。少数株主の同意は不要で、対価は裁判所の制度によって公正が担保される。企業側は速やかに再編を進められ、少数株主側は適正な価値での買取が保証される。いわば、双方が秩序を失わずに出口へ向かうための仕組みだ。
スクイーズアウトが日本で制度化された背景には、古い企業統治の仕組みと、新しい市場の動きが正面衝突するような事件が続いたことがある。企業側がどれだけ多数の株式を持っていても、少数株主が反対すれば再編が動かず、合併も買収も前に進まないという制度的な弱さが目立ち始めていた。九割を持つ親会社がいても、残り一割弱の声で企業統治が止まる。そんな状況をいつまでも続けるわけにはいかない。これがまず、制度設計の根底に流れる考え方だった。
さらに、当時の日本では、企業支配のルールそのものが曖昧だった。誰が支配権を持つのか。何をもって支配権を握ったと言えるのか。その判断基準が国際的な標準とずれていた。そこに「市場で株式を買い進め、新しいルールで企業支配を取りに行く」ようなプレイヤーが現れたとき、旧来型の企業統治は対応しきれなかったのだ。
象徴的だったのは、ライブドアとニッポン放送を巡る一連の買収劇である。ライブドアは何も法を破ったわけではなく、むしろ市場の仕組みを正面から使って株式を買い進めた。大量保有を前提とした海外では当たり前の企業買収の手法であり、経済合理性だけを見れば、極めて標準的な動きだった。海外の投資ファンドであれば、ごく自然に行われる行動である。
しかし、当時の日本ではこの動きを受け止める制度が整っていなかった。持株構造をきちんと整理してこなかった側にも問題があったし、買収防衛策も不十分だった。その結果、市場と裁判所が同時に巻き込まれ、企業支配の問題が長期化してしまった。ライブドアが悪者だったわけではない。むしろ、日本放送とフジテレビ側のガバナンスが旧来型のままで、制度の穴を突かれたことによって混乱が生まれたという方が正しいだろう。
結局のところ、この事件は「誰が悪いか」という単純な話ではない。制度が整っていない国で企業買収が起きると、全員が混乱し、現場は迷走するという典型例だった。市場のルールで動く新しいプレイヤーと、慣行で動く旧来型企業が衝突したとき、日本の制度がその衝突に耐えられなかった。それだけのことだ。
こうした経験が積み重なり、ようやく2006年の会社法改正でスクイーズアウトが整備された。少数株主の権利を守りつつも、企業再編が止まらないようにする。国際標準のM&Aの手続きに合わせ、企業が前に進めるよう制度を整えた。その結果、日本でも支配株主が適正なプロセスで100%子会社化し、再編を高速に進める道が開けた。
スクイーズアウトの仕組みを理解するには、具体的な状況を思い浮かべると分かりやすい。たとえば、ある企業が9割以上の株式を保有する関連会社があったとする。その会社は長らく赤字が続き、債務超過も膨らみ、将来のキャッシュフローも見通せない。経営合理化のために完全子会社化し、最終的には吸収合併したいと親会社は考えている。しかし、残り数%を持つ少数株主が反対しているため、合併に向けた手続きが進められない。
このとき、スクイーズアウトが有効に働く。親会社が9割以上を持っているなら、少数株主の株式を「公正な価格」で買い取ることを請求できる。少数株主は合併そのものを止めることはできず、争えるのは価格だけになる。そして、仮にその会社が債務超過で、将来の収益も期待できない状態であれば、株式の経済的価値はほぼゼロだと判断される。それが第三者との実際の取引によって裏付けられている場合、公正価値として「1円」という評価も十分に成り立つ。
スクイーズアウトが完了すると、親会社は100%の株主となる。ここから先は再編が一気に進む。完全子会社であれば、吸収合併もスムーズに行える。株主総会の手続きも軽くなり、反対株主も存在しない。企業再編のスピードが格段に上がる。制度はまさに、再編の最終段階で会社が立ち止まらずに済むよう設計されている。
仕組みそのものを見れば、スクイーズアウトは強い制度に見えるかもしれない。ただ、導入の背景を辿ると、その本質は「秩序を取り戻すための制度」であることが分かる。少数株主の権利を保護しつつ、それが会社全体の未来を妨げるほど大きな力になってしまうことを防ぐ。企業が責任を持って前に進むための道筋を確保する。その意味では、スクイーズアウトは企業統治の成熟を象徴する制度と言えるかもしれない。
企業再編は、外から見ればドラマのようだが、中に入ると泥臭さや複雑さがどうしても残る。そのなかで、少しずつ整理を重ねながら未来の構造を描いていく。その過程を支える最後の仕組みとして、スクイーズアウトは存在している。制度の文面だけを見るより、歴史や理由を踏まえて眺めてみると、その設計思想がすっと理解できるはずだ。
最近の若者はすぐに辞めるは「嘘?」
2025年11月26日
早嶋です。約2100文字。
「最近の若者はすぐ辞める」「3年で3割が離職」という言説は、一見、最近の現象のように語られるが、実際は誤りだ。大卒の3年以内3割離職は、1995年以降ほぼ30年間ずっと続いている構造的傾向で、直近だけが特別に離職率が高いわけではない。むしろ高卒では、2000年前後は3年以内に5割が離職というより厳しい時期があり、現在(約38〜40%)は改善しているのだ。そのため「最近の若者は〜」という議論は、データを見る限りミスリードであり、早期離職は昔から一貫して存在する労働市場の特性と捉えるべきなのだ。
厚労省「新規学卒就職者の在職期間別離職状況」および同内容を引用した統計記事より数字を引っ張ってきた。
■ 大卒「就職後3年以内離職率(%)」(主要年のみ抜粋、1990年代〜2020年代)1995年から2025の約30年間、ずっと「3年で3割前後」でほぼ固定している。直近だけが特別高いわけではなく、むしろ2000年前後の方が高かったことが分かる。
卒業年 離職率
1992年 23.7%(突出して低い)
1994年 27.9%
1995年以降:30%台が定着
1996年 33.6%
1999年 34.3%
2000年 36.5%
2001〜2004年 35〜37%(山の時期)
2007年 31.1%
2009年 28.8%(リーマン後の低さ)
2013〜2019年 31〜33%
2021年 34.9%
2022年 33.8%
■ 高卒「就職後3年以内離職率(%)」(主要年のみ抜粋、1990年代〜2020年代)
2000年前後は「3年で半分が辞める」という極めて高い水準だった。現在(約38〜40%)は当時より明確に低く改善していることが分かる。
卒業年 離職率
1995年 46.6%
1996〜2004年 47〜50%(ピーク帯、最大50.3%)
2006年 44.4%
2007年 40.4%
2008年 37.6%
2010〜2016年 39〜41%
2018年 36.9%
2021年 38.4%
2022年 37.9%
厚生労働省の統計を30年スパンで確認すると、離職率は構造的な数値でむしろ高卒の離職率は改善していることがわかる。
大卒に関しては、就職後3年以内に約3割が離職するという構図は、1995年以降ほぼ一貫して続く。むしろ2000年前後には35%から37%と、現在より高い時期もあった。言い換えれば、現在の離職率は例外的に高いどころか、過去30年間の延長線上にある安定したトレンドなのだ。
一方で高卒については、2000年前後は3年以内に5割が離職するという極めて高い水準だった。しかしその後は改善が進み、現在は約38%から40%程度まで低下している。つまり、高卒の早期離職率は長期的にはむしろ良くなっているのだ。
これらを総合すると、「最近の若者はすぐ辞める」という言説は、統計的には支持されない。若者の離職率はこの30年間で大きく増えていないどころか、部分的には改善すらしている。早期離職は現代特有ではなく、日本の労働市場に長く根付いた構造的な現象であり、若者の気質変化ではなく、職場環境・労働条件・キャリア観・産業構造などの要因に左右され続けてきた結果なのだ。
ここに一つ、補足の議論を加えたい。それは、高卒離職率の高さを説明する要因として、しばしば挙げられる「女性の結婚退職(いわゆる寿退社)」についてである。確かに1990年代前半までは、女性が20代前半で結婚を機に離職することが一般的で、高卒女性の離職率を押し上げていた側面は否定できない。これは統計の年齢帯とも重なっており、一定の影響を与えていたことは確かだろう。
しかし、結婚退職は高卒離職率のピーク(1996年から2004年、離職率47%から50%)を生み出した主因ではない。理由は明確だ。
まず、女性の結婚後の就業継続が本格的に増加したのは2005年以降で、離職率ピークの時期と一致しない。次に、同時期の高卒男性の3年以内離職率も40%から45%と極めて高く、女性だけに起因した現象とは言えない。更に、企業側要因、バブル崩壊後の雇用悪化、非正規化の進行、労働負荷の高い業種構造、小売・飲食・製造などにおける労働環境の厳しさが高卒離職の主因として強く作用していたことが分かっている。加えて、2010年代に離職率が低下した背景も、女性の継続就業が増えたからだけでは説明できない。むしろ、人手不足の深刻化に伴う企業の離職防止施策、労働条件の改善、若年層に対する研修整備、働き方改革に伴う時間外労働の抑制など、企業側の努力による部分が大きい。結果として、かつてよりマッチングが改善し、辞めにくい職場が増えたことの方が説明力を持つ。
以上の事実を踏まえると、「最近の若者はすぐ辞める」という言説は、データにも歴史的推移にも支えられていないのだ。むしろ、1990年代後半から2000年代初頭にかけての方が、離職率は高卒・大卒ともに高かった。早期離職は新しい現象ではなく、労働市場の構造変化、景気循環、業種ごとの労働環境、企業側の受け皿の質といった要因の中で長く続いてきたものである。若者の気質の変化よりも、労働環境や採用構造の側に目を向けた方が、実態に即した理解につながるだろう。
映画アニメファンド
2025年11月25日
早嶋です。約5500文字です。
日本のアニメ産業がまた面白くなる。みずほフィナンシャルグループが立ち上げた、アニメ映画向けの投資ファンド「Talent of Talents(タレント・オブ・タレンツ)」だ。
●アニメ業界の資金調達課題で、製作委員会方式が中心で、金融機関からの出資スキームが定着していない。
●海外(例として韓国)では映画製作にファンドが深く入り込み、資金規模や作品機会の差につながっている。
●ファンドの設計・仕組みは、50作品候補から2から3作品に絞り出資する。
●目安として1作品あたり製作費7億円、うち5億円をファンドで賄う。
ファンド規模の表記はないが、5億円程度を3作品からなので、規模は15億から20億をベースにスタートさせるのだろう。直近の目標として 国内外の個人・機関投資家を巻き込み、アニメ産業を支援し、制作現場・クリエイターに還元できる仕組みを構築することをビジョンに掲げている。
みずほが指摘するように、日本では「製作委員会方式」という独自の仕組みがアニメ映画の制作を支えてきた。しかし、近年、この構造が限界に近づいている。クリエイターへ利益が戻らない問題は本ブログでも指摘してきたが、それ以上に深刻なのは、IP(知的財産)の長期的育成が阻害され、作品が持つ本来の経済価値を十分に活かせていない点にある。
みずほのアニメ映画ファンドは、こうした日本アニメ産業の構造疲労に対して、金融サイドから新しい血を入れる試みだ。しかし、みずほのサイトを読むだけでは、なぜファンドが必要なのか、どこに本質的な課題があるのかの表面的な部分にしか触れていないと感じた。そこで本ブログでは、みずほファンドの背景を整理しつつ、韓国、中国、ハリウッドの映画ファイナンスと比較しながら整理した。最後に、もし日本のアニメ制作スタートアップが100%IPを保持したまま、みずほファンドから出資を受けた場合、収益はどのように分配されるのかを、数値に基づいてシミュレーションした。
(製作委員会方式の限界)
みずほがファンドを立ち上げた背景に触れるためには、日本特有の「製作委員会方式」の特徴を理解する必要がある。この仕組みは、テレビ局や出版社、広告代理店、玩具メーカー、音楽レーベルなど複数の企業が出資し、共同で作品のリスクを取りながら、出資比率に応じて収益を分け合うというものだ。
一見すると健全な分散投資の仕組みに見える。しかし現実は違うのだ。製作委員会方式は、制作会社やクリエイターが作品の成功から十分な利益を得られない構造になっているからだ。委員会を構成する企業は、自社の利益回収を最優先に考え、制作会社の取り分はごくわずかだ。さらに意思決定は合議制で、スピードが求められる現代のIPビジネスには不向きだ。
さらには、制作会社がIP(著作権)そのものを持てないケースが多い。制作会社は命を削るように作品を作っても、IPのオーナーシップは出版社やテレビ局が握り、続編・グッズ・ゲーム・海外ライセンスといった本丸の利益にアクセスできない。結果として、制作会社には次の挑戦のための資金も、クリエイターに還元する余力も生まれず、業界全体としての発展が阻害されている。
これらの解決が、みずほが立ち上げたファンドの背景だ。つまり製作委員会方式の外側に、より合理的な資本スキームを作ろうとしている。金融の仕組みを使ってIPを持つ側に力を戻す。その構造転換こそが、今回のファンドの本質だ。
なお、アニメ業界の現状と課題については、早嶋の別のブログを参照して欲しい。
(日本以外の映画ファンド)
「アニメ映画ファイナンス」と聞くと複雑に感じるが、世界を見渡すとむしろ日本のほうが特殊だ。資金がどのように集まり、どのように回収されるか。これがその国の映画産業の育ち方を決める。だからこそ、海外との比較は避けて通れない。みずほのファンドを理解するためにも、海外の映画ファイナンスの特徴を外観することでより、みずほの課題認識を理解できるようになる思う。
韓国では、アニメや映画は国家的産業として育成され、映画ファンドの仕組みが驚くほど整っている。特に重要なのが、韓国映画振興委員会(KOFIC)が運営する「母胎ファンド(Motae Fund)」だ。これは公的資金を核にしつつ、民間の投資マネーを呼び込み、制作会社へ直接投資するための仕組みだ。韓国の映画ファンドは、制作会社がIPを保持することを前提に作られている。投資家はあくまで映画単体の収益から回収する。つまり、映画は広告塔であり、IP全体の価値は制作会社に残るという構造だ。そして、ウォーターフォール(収益分配の順番)も合理的だ。劇場収入から配給やマーケ費用を回収し、その後、投資家の元本・優先利益を回収する。そのうえで残った利益を制作会社とクリエイターが分け合う。透明で、公平で、制作会社が成長できる設計になっている。韓国映画が世界的に存在感を増している理由の一端は、この合理的な金融設計にあると思う。
中国は興行市場が巨大だが、映画ファンドの構造は制作側に厳しい。ハリウッド作品が中国で稼いでも、スタジオ側には興行収入の25%しか戻らない。劇場や配給、税金が非常に強く、プロデューサーの取り分は総興行収入の38〜39%が限界だと言われている。つまり、中国市場は売上は大きいが、制作側に残る利益は小さい。映画を収益源として見る場合、この国の構造はあまり魅力的ではない。逆に言うと、中国では映画そのものより、グッズ、ゲーム、モバイルアプリなど、IP派生ビジネスが本丸になる。映画はきっかけに過ぎないのだ。
ハリウッドでは、投資回収の仕組みが精緻に体系化されている。「Recoupment Waterfall(レクープメント・ウォーターフォール)」という概念が一般的で、投資家がどの順番で回収されるかが厳密に決められている。最優先はデット(銀行やプライベートクレジット)。その次にエクイティ投資家が元本と優先リターンを回収し、最後に制作会社やプロデューサー、監督やキャストが残余利益を受け取る。ハリウッドが強い理由は単純だ。仕組みが透明で、資金が集まりやすく、制作会社にも利益が残る設計になっているからだ。その構造がIPの継続的な拡大につながっているのだ。
世界を見れば明らかだが、映画の構造が変われば、IPの価値の育ち方も変わる。日本の製作委員会方式は閉じた設計だったが、韓国やハリウッドはIPオーナーが育つ仕組みになっている。そして、みずほのファンドが挑んでいるのは、この日本の古い設計の外側に、新しい資本スキームをつくることだろう。
(みずほファンドの不明点)
みずほのファンドは、アニメ制作会社やクリエイターに光を当てようとする試みであり、その方向性は評価できる。しかし、記事には収益の具体的な分配方法、いわゆるウォーターフォールが書かれていない。早嶋はここを最も重要な部分だと考える。
海外のスタンダードでは、映画ファンドは 映画に直接紐づく収益(興行、配信、海外rights、BD/DVD、劇場物販)にのみ関与する というルールがある。そして、IPそのものの長期的な収益(グッズ、ゲーム、アプリ、出版、テーマパーク、海外ローカライズなど)には一切関与しない。これが世界標準だ。したがって、もし日本のアニメ制作会社がIPを100%保有したまま映画化を行う場合、ファンドはあくまで映画P/Lの中だけに入る構造になる。これは制作会社にとって極めて有利だ。なぜなら、映画によって上がるIP価値の果実はすべて自社に残るからだ。映画はあくまで広告塔であり、真の利益は映画の外側にあるのだ。これが、国際水準でのIPビジネスの考え方だ。
みずほがここを明確にしないのは出資案件ごとに、細かく出資契約等を結び条件を交渉する考えがある。或いは、何らかの理由で明かしていないと思う。
(ケーススタディ)
みずほアニメ映画ファンドが示すように、映画の制作費7億円に対して5億をファンドが出資する場合、収益の流れが、どのようになるか整理した。ここでは、その「ウォーターフォール(収益の流れる順番)」を示してみよう。
前提として、日本のアニメスタートアップが100%IPを保有し、制作費7億円の映画をつくる。みずほファンドは5億円を出資し、その見返りとして「優先リターン(年15%)」を要求する。興行収入はロー・ミドル・ハイの3つのケースで試算し、日本の業界慣行である劇場50%、配給10%、制作側40%のシェアを前提にした。
映画による総収入は、観客が劇場で支払ったチケット代の総額だ。売上が100とした場合、50が映画館、10が配給会社に支払われ、残りの40が制作側の取り分になる。この40をファンドと制作会社で配分する原資となる。その際の40の分配の順番を示したのがウォーターフォールだ。順番はシンプルだ。
1:ファンドの元本5億を最優先で回収する
2:次に、ファンドが出資した元本に対する優先リターンとして、元本の15%を回収する
3:そのうえで、残った利益をファンドと制作会社で分け合う(配分はファンド40%、制作会社60%が一般的。制作会社が強い、IPが協力な場合は配分はファンド30%、制作会社70%になる場合もある。ここは交渉だ。)
この優先リターンは、利益の15%ではない。ファンドが出資した元本に対して年間15%の利回りを約束するという意味だ。つまり5億円を1年間運用した見返りとして15%の7500万円をファンドは先に回収する権利を持つ。映画ファンドは通常のファンドと比較して投資期間が短い。制作から公開まで1.5年から2年程度だ。通常の10年ファンドの利回りを考えたら、年15%は妥当な数字だ。短期高リスク故のプレミアムと捉えることができる(参照:ベンチャーキャピタルの実態)。
では、実際、映画の総収入が6億の場合(ローケース)、12億の場合(ミドルケース)、20億の場合(ハイケース)で実際のお金の動きをみてみよう。
■ ローケース(興行6億)
興行収入6億の場合、劇場は50%の3億、配給会社は10%の0.6億を取る。残る40%の2.4億が制作側の取り分だ。ローケースの場合、ファンドは元本の5億を回収することはできない。そのため2.4億は全てファンドの元本返済に回り、制作会社の取り分はゼロだ。ただし、制作会社は現金を受け取らないが「損はしない」とも考えることができる。映画が完成し、劇場公開されることでIPの知名度は確実に向上する。映画は広告塔で、収益の本丸はその外側にあるからだ。制作会社(スタートアップ)にとっては、ダウンサイドが限定されるのだ。
■ ミドルケース(興行12億)
興行収入12億の場合、劇場は50%の6億、配給は10%の1.2億をとる。残る40%の4.8億が制作側の取り分だ。ミドルケースでもファンドの元本5億には届かないため、制作会社の取り分はゼロだ。しかし映画公開前後から動き始める収益があるだろう。グッズ、YouTube、IP関連の売上や、海外展開など、映画外の売上だ。IPは確実に動きがあるので、制作会社にとって、この状況は悪くないのだ。
■ ハイケース(興行20億)
興行収入20億の場合、制作側の取り分は8億円だ(劇場が10億、配給が2億の残り)。ようやく映画プロダクションの損益計算書として意味のある数字になる。まず、ファンドが元本5億を回収する。残りは3億だ。次に、優先リターンとして 0.75億円 をファンドが受け取る。残る 2.25億円 をファンド40%、制作会社60%で分け合う。従い、ファンドは0.9億、制作会社は1.35億を得る。
整理すると、ファンドは、元本5億+優先リターン0.75億+残余利益0.9億円=6.65億円を回収する。制作会社は映画プロダクションの売上として1.35億円を得る。しかし、もっと重要なのはこれ以降だ。映画がヒットすると、指名検索は跳ね上がり、グッズは売れ、海外での評価も高まる。IPの価値は爆発的に伸びるだろう。映画は単体で儲けるものではなく、IPを世界に知らしめる媒体だ。映画で得た利益は 1 億円かもしれないが、その後ろに続くIPの外側で立ち上がる数億規模の収益こそが本丸になるのだ。
(映画を認知媒体として活用)
映画で儲けるの発想ではなく、映画でIPを世界に認知する媒体として活用するのだ。これまで、日本のアニメ制作会社が抱えてきたジレンマは、制作委員会方式の中に閉じ込められ、IPを持てなかったことだ。しかし、IPを自社で持ち、ファンドから資金を得て映画を制作することで、構造は一変する。映画の収益はファンドと分け合えばいい。しかし、映画によって増幅されたIP価値、そこから生まれる長期収益の全ては、自社に残るのだ。映画をゴールにするのではなく、起点と考えるのだ。IPが持つ世界観を、映画という最高峰の表現で一度爆発させ、その後の10年、20年の収益を目指すのだ。
みずほのアニメ映画ファンドは、こうした国際標準のIPビジネスモデルを、日本のエンタメ産業にもたらす可能性がある。製作委員会方式という古い器から、制作会社がIPを保持し、金融がリスクを取り、作品が世界市場へと飛び出していく。日本でIPを育てる企業、特にスタートアップにとって、この変化は大チャンスだ。映画を作ることはゴールではない。映画をきっかけに、世界の子どもたちに知られたIPへと成長させる。そのための仕組みが、ようやく日本にも生まれつつあるのだ。
ジョブ型社員の解雇に見る今後の組織戦略
2025年11月24日
早嶋です。約2000文字です。
「ジョブ型社員・解雇は容易か?(2025年11月24日・日経朝刊)」をベースに、
日本企業の低迷と今後の提言について考えた。
記事の概要はこうだ。三菱UFJ銀行が、年収3,000万円の専門職人材を、業務廃止を理由に解雇した。その有効性を東京高裁が認め、判決が確定した。大きなポイントは、職務(ジョブ)を契約上限定した高度専門人材は、職務そのものが消滅した場合、整理解雇の4要素を満たせば解雇が可能になる、と司法が明確に示したことだ。
「整理解雇の4要素」とは、1975年の判例以来、日本の労働法で基準となっている判断枠組みだ。人員削減の必要性、解雇回避努力、人選の合理性、手続きの妥当性
の4つだ。この条件を満たすか否かで解雇の正当性が判断される。
人員削減の必要性は、会社が事業撤退や部門縮小など、合理的な理由で人員整理を行う必要があるかだ。解雇回避努力は、配転・教育・再配置・希望退職募集など、解雇以外の手段を尽くしたかだ。3つ目の人選の合理性は、解雇される人の選定基準が客観的で、公正かだ。そして最後は、手続きの妥当性だ。説明や協議を適切な手順で行い、透明性があったかだ。
今回の判決では、三菱UFJ銀行が業務移管先への受入れ打診、別職種の提案、再就職支援金提示(4600万円)など、解雇回避努力を尽くした点が重要だった。裁判所は、年収3,000万円という専門性と市場流動性の高さを考慮し、「同水準の職務を新しく作る義務まではない」と判断した。もちろん、いきなり解雇ができるわけではない。しかし、今回の判決は「市場価値に応じた人材の流動化」を示唆する強いメッセージだ。
今後、ジョブ型採用を前提に、専門性の高い人材を外部から積極的に採用する企業は、より挑戦的で、大胆な経営判断ができるようになると思う。新規事業を立ち上げ、失敗したら解散し、専門人材を次へ送る。この循環が、産業や組織の新陳代謝を生み、競争力を高める。一方で、従来型のメンバーシップ雇用の企業は、労働組合との関係や、社内の「公平感」に縛られ、大胆なジョブ型採用を実行できない。
例えば、新規IT化で1000人分の事務を数人の高度専門職で代替できるとしても、
「平均700万円の会社で、年収2000万円を払うことは不公平だ」という理由で止まるだろう。結果として、変化を恐れて現状維持を選択する企業と、変化を前提に市場と向き合う企業の間に、決定的な差 が生まれるのだ。
たとえば、自動車産業は象徴的だ。世界は、自動運転レベル4・レベル5に向けて熾烈な競争を続けている。テスラ、Waymo、BYDは、膨大な走行データを機械学習し、アルゴリズムを強化し続けている。本質は「データを蓄積した者が勝つ」構造だ。一方、日本はどうか。安全性や法規制、社会受容性を理由に、議論は「慎重」ではなく、ほとんど「停止」していた。そして、労働組合は運転手の雇用維持を理由に、自動運転の本格導入に消極的だった。しかし、反対し続けることで守れるのは数年の猶予だけで、最終的には、変化を受け入れた国と企業が全て奪っていくことになるのだ。
地方公共交通はさらに深刻だ。人口減少、運転手不足、採算悪化。本来なら、AIによるダイヤ編成、自動運転バス、オンデマンド交通が必須になるはずだ。しかし多くの自治体は、「既存雇用の保護」を理由に新しい仕組みを拒んできた。結果として、利用者は更に減り路線は縮小している。サービスの質も落ち、最終的には撤退し、地域ごと交通網が消えるのだ。守ることが目的化する組織は、最後に自らの存在を失う。その典型だと思う。
メディア産業も同じ構造に見える。テレビ局や新聞社は、デジタルへの本格転換を「既存モデルの保護」を理由に遅らせてきた。結果、若者の接触率は激減し、広告はGAFAに吸い取られた。にもかかわらず、彼らが主張するのは日本の文化の危機だ。デジタルは質が低いとか、既存メディアの維持が必要だとか、導入しない前提を軸に議論すら進めていない。しかし市場は既に別次元に移動している。変わるべきは世界ではなく、自分たちなのだ。
短期的に雇用を守ろうとする力は、長期的に雇用を破壊する。自動運転を反対してバス会社全体が衰退する構造と、何も変わらない。雇用の流動性の低さ、労働組合の硬直化、内部の公平性の呪縛。これらは、日本企業が30年停滞した本質的原因のひとつだ、と私は考える。
未来の企業は、二つに分かれるだろう。
① 高度専門人材を市場価値で採用し、新陳代謝を前提に挑戦する企業。
② 内部公平性を守るために挑戦できず、緩やかに衰退する企業。
今回の判決は、日本がどちらの道を選ぶかを問うメッセージだ。未来は、挑戦する者だけに開かれている。皆さんはどちらを選びたいだろうか?
センチュリー:トヨタ5番目のラグジュアリーブランド
2025年11月21日
早嶋です。約3400文字。
センチュリーというブランド名が、重要な意味を帯びる日は来るべくして来ている。世界のラグジュアリーは「日本の価値観」を求めているのだ。EVでもない、テクノロジーでもない、もっと深い価値。トヨタはセンチュリーというブランドで樹アパニーズ・ラグジュアリーという概念を一気に高いレベルに仕上げていくと思う。
これまで、世界の高級車市場は長らく欧州のブランドにより支配されてきた。ロールス・ロイス、マイバッハ、ベントレーだ。いずれも100年以上の歴史を持ち、貴族文化という物語の上に存在してきた。しかし、昨今の現実を直視すると違和感がある。それは、この欧州ブランドたちが、ブランドとしての純度を保てなくなっている点だ。
ロールス・ロイスは、英国文化の象徴でありながら、いまはBMW(ドイツ)の傘下だ。ベントレーも英国を名乗りながら、VW(ドイツ)のコングロマリットの一部になった。更に、マイバッハは一度ブランド消滅したが、メルセデスによって再構築された経緯がある。つまり、資本と文化が断絶しているのだ。ブランドは約束である以上、その物語が濁ることは致命的だと思う。欧州ラグジュアリーが長年積み上げてきた「貴族文化」「格式」「歴史」は、資本構造の揺れの中で薄まりつつあるのだ。これは、ラグジュアリーブランドにとって決して軽い変化ではない。文化資本の断絶は、ブランドの価値と大きく関係があるのだ。
さて、そこにトヨタだ。今のトヨタを理解するためには、数字を冷静に見ることをお勧めする。2024年、トヨタの販売台数は年間1,080万台で世界1位だ。売上は45.1兆円、営業利益は5.35兆円に達し、利益率は約12%という驚異的な水準を記録している。対して、世界を代表するメーカーの数字だ。フォルクスワーゲン・グループは販売台数で900万台、売上はトヨタと同規模にあるものの、営業利益率は約6%前後で、トヨタの半分だ。BMWは年間約245万台、メルセデスは約240万台とプレミアム領域に集中しているといえ、世界シェアでいえば2%から3%程度だ。このように俯瞰すると、トヨタとVWは世界の二強であり、BMWやメルセデスはそもそも生産規模も市場支配力も違う次元にあるのだ。つまり、トヨタは、量・質・収益力の三拍子が揃った唯一の企業という事実がわかる。トヨタが今後、超高級ブランドをポートフォリオに追加することは全く不自然ではなく、むしろ当然の流れとさえ思えてきただろう。
トヨタは、4つの明確なブランド階層があった。ダイハツ(大衆)、トヨタ(高品質)、レクサス(プレミアム)、日野(商用)だ。この4つのカテゴリーだけでも、世界の乗用車市場のほぼ全域をカバーしてきた。そこに、「センチュリー」という5つ目の最上位ブランドが加わる。トヨタの企業規模を考えれば、この階層追加は当然の判断だ。、
トヨタという巨大なピラミッドは、これまで長くレクサスを頂点として運営されてきた。1989年に北米でデビューしたこのブランドは、わずか40年弱という短い歴史でありながら、BMWやメルセデスと肩を並べる世界的なプレミアムブランドに育った。これは奇跡に近い成功だと思う。レクサス以前にプレミアムブランドを立ち上げた日本メーカーは他にもある。ホンダのアキュラは1986年に誕生し、日産のインフィニティもレクサスより早い。
だが、この二つが北米以外の市場で存在感を持てず、世界ブランドに育たなかったことを考えると、トヨタがレクサスをここまで押し上げたことの意味は大きい。単に高級車を売ろうとしたのではなく、ブランドを育てるという覚悟と長期戦略を持ち続けた唯一の日本メーカーだった。しかし、レクサスが大成功していく一方で、内部では別の課題が生まれていた。レクサスで開発した先端技術、静粛性、乗り心地、耐久性、品質管理の仕組み、素材の扱い方。これらをトヨタ車にも展開する。これは消費者から見れば歓迎される動きだ。ただでさえ品質の良いトヨタ車が、あり得ないくらいの品質向上で驚くばかりである。
だが、この戦略は、レクサスとトヨタの違いを徐々に曖昧にしたのも事実かしれない。顧客の中には「レクサスとトヨタの違いって何なのか?」と感じる層も出てきて、やがてBMWやベンツに流れていく層も出てきたと思う。
現場の技術者の間でも、「レクサスをより尖らせるべきか、それともトヨタへの水平展開を優先するべきか」という議論が繰り返されてきたのではないだろうか。つまり、レクサスの成功が大きければ大きいほど、その成功の影としてブランドの棲み分けが難しくなるという構造的な課題があったのだ。この状況の中で、トヨタがもう一段上のブランド階層を持つという決断は、自然な帰結だったと思う。レクサスをレクサスとして明確に尖らせるためにも、そしてトヨタ全体のブランドピラミッドをより立体的にするためにも、センチュリーという「超高級・ショーファーカー」ブランドを最上位に据えることは必然だったのだ。センチュリーが入ることで階層は5つになる。
大衆(ダイハツ)、高品質(トヨタ)、プレミアム(レクサス)、商用(日野)、超高級(センチュリー)だ。この構造は、トヨタの規模とブランド体力を考えれば、ようやく完成したと言えるかも知れない。レクサスの成功を押し上げ、同時にその負荷を軽減し、さらに上位の物語を創るための、きわめて合理的で戦略的な動きなのだ。
センチュリーの強さは、トヨタの技術力や品質といった次元では完成しない。それを超えるもう一つの価値が必要だ。早嶋は皇室文化との結びつきにこそあると思っている。日本の皇室は、世界の中で最も長く続く王朝だ。2600年以上の歴史を持ち、その連続性は欧州王室の比ではない。英国王室は1000年前後であり、フランスは革命で途絶え、ドイツに至っては19世紀の統一国家であり、王室の連続性は存在しない。この世界でも稀有な文化の連続性を背負うことができる唯一の車、それこそがセンチュリーなのだ。センチュリーはこれまで、官公庁の役人を乗せ、首相官邸の移動を担い、宮内庁の御料車として皇室の移動を支えてきた歴史を持つ。これは、ロールス・ロイスにも、マイバッハにも、ベントレーにも持ち得ない物語だ。
普通のブランドは、広告とマーケティングで「物語」をつくるだろう。しかし、センチュリーはすでに物語そのものの上に存在しているのだ。これは文化的にもブランド的にも圧倒的なアドバンテージになると思う。
世界の上位所得者たちの価値観は、この十年で大きく変わったのでは無いかと思う。以前は「見せる」ことが高級の前提だったかも知れない。豪華な装飾、大きなエンブレム、派手な内装。高級とは、目に見える誇示だった。しかし今は違う。世界の富裕層は静けさや控えめさ、内省的な上質に価値を移しつつある。茶室のような余白の美、光と影の陰影、素材の深み、手仕事の気配。欧州的な「豪奢」とは真逆の価値観だ。京都に世界のファッションメゾンが工房を構え、日本の工芸技術を内装に取り入れ、世界中から富裕層が日本旅館や茶文化に興味を示している現象は、この価値観の変化を裏付けていると思う。
そう近年、ジャパニーズ・ラグジュアリーが世界的に確実に注目されているのだ。そして、その日本独自の美学をそのまま体現した車がセンチュリーなのだ。誇示ではなく静謐、主張ではなく存在感、豪華さではなく品格。まさに日本の価値観そのものなのだ。
欧州のラグジュアリーが文化の濁りの中で揺れている今、トヨタは世界の王者として、まったく新しい頂点を作る準備を整えている。その頂点に立つセンチュリー。
トヨタの圧倒的な生産規模と技術力、世界トップクラスの収益性、そして日本という国の2600年の文化資本。そのすべてを背景に持つ超高級車ブランドは、世界でもセンチュリーしか存在しない。センチュリーはロールス・ロイスの後追いではない。マイバッハの対抗でもない。ベントレーの模倣でもない。センチュリーは完全に異なる軸、静謐のラグジュアリー、皇室文化のブランド、という唯一の位置で勝負ができる。
早嶋は、センチュリーが世界のラグジュアリー市場に新しい基準を生み出し、その意味で「世界の頂点」と呼ばれる存在になると確信している。
労働時間と一人あたりGDPの関係
2025年11月14日
早嶋です。約6400文字です。
日本の「失われた30年」と呼ばれる時代の正体は何か。日本だけが停滞した理由、一人あたりGDPが他の先進国に比べて伸びなかった理由。現時点での早嶋の仮説だが、ある程度体系立てて整理できていると思う。今日は、その中でも「労働時間」と「一人あたりGDP」の関係について、少し詳しく書いてみる。
(高度成長期の労働時間)
日本の高度経済成長期、そしてバブル前夜までの1980年代を思い返すと、当時の日本人は長く労働した。実際、データを見ると、1970年代半ばで全年齢平均の年間労働時間は2000時間を軽く超えていたし、企業によっては2200時間から2300時間くらいが普通だった。もちろん当時の残業の実態は今より遥かに曖昧で、企業文化として残業前提で設計されている部署も少なくなかった。つまり、公式統計で2000時間前後という数字が出ていても、実感ベースでは明らかにもっと働いていたと考えられる。
この頃の日本は、世界が驚嘆するほどの勢いで経済的な力をつけた。1975年、一人あたり名目GDP(ドル換算)は4,674ドルだったが、その後の20年間で44,000ドルへと急伸した。約10倍だ。もちろん、これは円高ドル安の影響もあるし、ドル換算の数字は為替に大きく左右されてしまう。しかし、それを差し引いても当時の日本が質と量の両面で圧倒的に強かったことは、確かな事実だ。産業構造で言えば、自動車、電機、半導体、鉄鋼、造船、繊維機械、どれをとっても高い競争力があった。大企業が設備投資を重ね、生産計画がうまく回り、熟練技能が蓄積されていくという、日本型経営の強さが最も輝いていた時期だ。
(75年から95年:「時間は減り、生産性は跳ねた」時期)
ここでポイントになるのは、1975年から1995年の日本では、すでに労働時間が減り始めていたにもかかわらず、一人あたりGDPは伸び続けていたということだ。実際、OECDのデータを参照すると、就業者1人あたりの年間実労働時間は1975年の約2000時間台から1995年には1880時間前後に減っている。約9%の減少だ。それでも経済は伸びた。理由は、1時間あたりの付加価値が飛躍的に伸びたからだ。
米国連銀(FRB)がまとめている実質GDP/労働時間のデータでは、1970年に約13ドルだった日本の1時間あたりの生産額が、1989年には約26ドル近くまで跳ね上がっている。名目のドル換算で見るとさらに差は大きい。当時の日本企業は、自動車、電機、半導体、鉄鋼など世界のトップクラスで競いながら、設備投資も積極化し、工場の自動化、品質管理、研究開発、熟練技能の蓄積という生産の仕組みそのものを強化し続けていた。働く時間は減ったが、その減少を上回る速度で、1時間あたりで生み出す価値が増えたのだ。この20年間で起きたことは、単なる景気の良さではなく、日本経済そのものの質的な進化だったのだ。日本は、量ではなく質で成長するモデルを、この時期、75年から95年頃に確立していたのだ。
ところが、1995年を境に状況は大きく変わる。1995年の日本は世界経済の勝ち組だった。円は94円前後の超円高で、ドル換算のGDPは世界最高レベル。ソニーやトヨタは世界の象徴であり、日本の生活用品や電子機器が世界を席巻していた。しかし、この年をピークに、日本の成長エンジンは止まり始めた。
(95年以降:時間だけが先に減っていく)
1995年から2023年までの間に、年間労働時間はさらに15%減少する。これは1975年から1995年までの9%減と比較しても、かなり大きい。働き方改革が本格化する前からも、既に日本は働く時間を減らす方向へ動いていた。さらに、2000年代以降の少子高齢化で働き手そのものも減少している。総労働時間という意味で見れば、日本はこの30年で相当量の労働投入を失っている。
その相当量の労働投入はどのくらいか。少し粗いが計算してみた。まず、就業者数は実はほとんど変わっていない。1995年が約6700万人、2023年が約6800万人だ。表面上の差はないが、働き方の中身は変化している。
1995年の就業者一人あたりの年間労働時間は1884時間とされている。一方、2023年の年間労働時間は1611時間ほどだ。この差は273時間。率にして15%の減少だ。では、この「一人あたり△273時間」の変化が、国全体の総労働量に換算するとどれほどの影響になるのか。単純に「就業者数 × 年間労働時間」で総労働量を推計できる。荒い計算だが、この方法でおおまかな全体像がつかめる。
1995年は、就業者6700万人に対して1人が1884時間働く。だから、
6700万人 × 1884時間 = 約1.26兆時間。
これが1995年の日本の「総労働時間」だ。
次に2023年。就業者はほぼ同じ6800万人前後だが、一人あたりの労働時間は1611時間に落ちている。同じ方法で計算すると、
6800万人 × 1611時間 = 約1.10兆時間
となる。
つまり、日本全体で見ると、1995年の1.26兆時間から、2023年には1.10兆時間へと、およそ1600億時間の労働が消えたことになる。率にすると13%ほどの減少だ。1600億時間という数字は、日常感覚では大きく掴みにくい。たとえばフルタイム換算すると、フルタイム労働者が年間およそ1850時間働くと仮定すれば、1600億時間は、
1600億時間 ÷ 1850時間 = 約800万人。
つまり、この30年の間に、日本全体ではフルタイムの働き手が800万人いなくなったのと同じだけの労働量が失われた計算になる。就業者数はほとんど変わらない。にもかかわらず、労働量は800万人分も消えているのだ。この構造が、日本のここ30年の経済を理解するうえで重要なポイントだと思う。人数が減ったのではなく、労働時間と働き方が変わった。しかも、人口の高齢化とともに、働く時間が短い層(高齢者、女性、パートタイム)が全体の比率を引き上げている。その結果、見た目の「就業者数」は横ばいだが、実際の「総労働量」は大きく減るという現象が起きているのだ。
数字を追うと、この構造はとてもシンプルだ。労働時間が273時間減り、それが6800万人分積み重なるから、1600億時間という巨大な差になっている。日本がこの30年でどれほどの労働の総量を失ってきたかが、より明確に見えてくる。
(95年以降の「時間あたり生産性」をどう見るか)
では、1995年以降の日本の時間あたり生産性はどうだろう。ここも丁寧に整理すると、状況がさらに明確になる。1995年から2023年までのおよそ30年間で、日本の時間あたり名目GDPは1.3倍ほどになっている。数字としては悪くはない。OECDの労働生産性統計を見ても、日本の「GDP per hour worked」は主要国の中で中位に位置し、決して極端に低いわけではない。だが問題は、その伸び率だ。
1975年から1995年の20年間では、同じ時間あたりGDPが3倍近くに伸びていた。これはFRBの「Real GDP per hour worked」のデータでも、1970年の約13ドルから1989年に26ドル超と、実質ベースでも倍増していることから裏付けられる。
しかし1995年以降は、伸びが止まっている。OECDの時間あたりGDP(PPPベース)で比較すると、1995年から2023年の日本の伸びは約20〜25%にとどまる一方、同時期の米国は約60%、ドイツも50%前後で伸びている。つまり、日本は絶対値が低いのではなく、相対的に成長していない、と言えるのだ。これは経済学で言えば、全要素生産性(TFP)の伸びが弱い状態が長期化していた、ということになる。
(TFPの概説)
TFPは、経済学の概念で少しとっつきにくいが、実はとても素朴な概念だ。端的に言えば、TFPとは「同じ人数と同じ設備を使って、どれだけうまく生産できているか」を表す指標だ。つまり、人とモノという分かりやすい要素では説明しきれない、目に見えない力を数字にしているにすぎない。
企業でも国でも、生産というのは大きく三つの要素で決まる。ひとつは働く人の数や時間、もうひとつは機械や設備の量、そして最後に、仕組みや技術、現場の工夫といった要素だ。TFPはこの三つ目、つまり労働と資本では説明できない「残り」を測る指標だと言える。
生活の例で考えると分かりやすい。同じ材料、同じ人数で料理をしても、段取りの良い人が作れば早くできるし、工夫のある人が作れば味が良くなる。キッチンの動線が整っていれば作業は格段に速くなる。材料も人も同じなのに、成果が違う。この違いこそTFPだ。段取り、工夫、レシピの質、組織の賢さ。こうした見えない改善の総体が、TFPという数字に姿を変えて表れている。
経済の長期的な成長を支えているのも、実はこのTFPだ。人口が増えなくても、設備投資が頭打ちになっても、技術が進み、働き方が工夫され、組織が賢くなることで、生産性は伸び続ける。アメリカの経済が粘り強い理由も、TFPの底堅さにある。逆にいくら人を増やしても、設備にお金をかけても、働き方や仕組みが変わらなければ生産性は上がらない。1995年以降の日本がこの状態だ。人と設備の投入は一定あるのに、やり方が変わらず、TFPが伸びていない。
だからTFPとは、単なる統計用語ではなく、「工夫」「技術」「仕組み」「組織文化」「マネジメントの質」など、企業や社会の総合力の象徴だと言える。目に見えるものではないが、国や企業を長期的に豊かにする根本の力がどこにあるのかを示してくれる指標だ。
(TFPが伸びなかった三つの理由)
では、なぜTFPが伸びなかったのか。わたしは、要因を三つに分けて見ている。
1つめは、産業ミックスの変化だ。1990年代後半から2000年代にかけて、日本は製造業の海外シフトを大幅に進めた。これは円高下での最適化としては合理的だったが、問題は「どの工程を海外に出したか」だ。本来国内に残すべき高付加価値の工程、たとえば研究開発、設計、工程設計、品質保証、試作などのコア技術までも同時に外へ持っていってしまった。経済学の生産関数で言えば、「技能資本」「知識資本」「組織資本」といったストックが国内で積み上がらず、TFPを押し上げる内生的なメカニズムが弱まったということだ。
その結果、国内にはサービス産業が比率として大きく残った。だが日本のサービス業は、国際比較で見ても価格が低く、値付けの文化が30年間ほとんど変わっていない。飲食、理美容、小売、介護、宿泊、交通など、生活サービスはアメリカや欧州の3分の1から5分の1の価格帯で提供されている分野がいくつもある。こうした「低価格・低マージン」の構造は、資本装備率やIT投資を押し上げる余力を企業にもたらさず、結果として時間あたり生産性を押し上げる力を失わせたのだ。
2つめは、設備投資とICT投資の弱さだ。OECDデータで確認すると、1995年以降の日本のICT投資比率(ICT investment over GDP)は主要国の中で最も低いグループにある。米国は1995年以降、ICT投資を毎年強力に積み上げ、TFPの上昇を牽引した。日本は逆で、設備投資は横ばい、ICT投資も欧米の半分から3割程度にとどまった。結果として、装置産業が縮小し、労働生産性を押し上げる資本装備効果(capital deepening)が働きにくくなった。これは経済学的には非常に重要で、TFPが上がらないときに生産性を押し上げる唯一の道は資本装備率の上昇だが、それが起きなかったということなのだ。
3つめは、労働投入そのものの減少だ。日本の総労働量は、1995年の約1.26兆時間から2023年の1.10兆時間へと落ち込んでいる。差し引き1600億時間、13%の減少で、これはフルタイム労働者に換算すれば800万人分の労働が消えた計算になる。「就業者数はほぼ横ばいで変わらないのに、総労働量は大きく減っている」という構造が日本特有で、これは生産関数で言えばL(労働投入)が減っている状態だ。しかし、本来はここでTFPが相応に伸びればGDPは維持される。実際、1995年以前の日本は、労働時間が9%減ってもTFPが強く伸びたため問題にならなかったのだ。それが1995年以降は、労働投入が減り、TFPも伸びず、資本装備率も伸びずという三重の停滞が重なったのだ。
こうした背景から、1995年以降に「生産性のジャンプ」が起きなくなった理由が見えてくる。産業構造が変わらず、TFPを押し上げる要素が弱まり、価格を上げず、資本投資もしない。労働時間だけが減り、労働投入も減る。すると一人あたりGDPはどうなるか。横ばいになる。極めてシンプルな経済の話だ。表面的には「日本は生産性が低い」と言われるが、より正確に言えば「生産性の伸びが小さい」。そして、その背後には、30年間動かなかった産業構造と投資の不足、そして値付け文化の問題が横たわっている。つまり、日本は生産性が低い国ではない。生産性を上げられなくなった国なのだ。
(為替というもう一つのレンズ)
もうひとつ忘れてはいけないのは為替の存在だ。一人あたりGDPを国際比較するとき、ほとんどの指標はドルベースで見られる。これが日本の見栄えをさらに悪くする。
1995年は1ドル=94円という円高。2023年は1ドル=140円台の円安。つまり、同じ国内の付加価値でも、ドルに換算した瞬間に3〜4割も目減りしてしまう。だから、「日本の一人あたりGDPは世界的に低い」という見方は、半分は事実だが、半分はドルという物差しのせいで矮小化されている。
こう整理してみると、日本の30年間が「本当に停滞していたのか?」という問いそのものが揺らいでくる。しかし、より正直に言えば、日本は停滞していたのではなく「他国が急激に伸び、かつ日本は価格と産業構造を変えなかった」ために低く見えるだけなのだ。日本の一人あたりGDPが減ったのではない。他国が高くなり、日本は値付けを変えられなかった。それに円安が乗っかって、国際比較では小さく見えるようになったということなのだ。
(時間を増やす議論と、本当に変えるべきところ)
現在、国会では、働き方改革や36協定を見直して、労働時間を増やす議論をしている。つまり、労働時間を増やしてGDPを増やそうという魂胆だ。早嶋はこの問いに対して、「部分的にYES、しかし本質はそこではない」と考える。
確かに短期的には労働時間の総量を増やすことでGDPの底上げは可能だ。しかし、1995年以降の停滞の本質は、時間ではなく「付加価値単価が上がらなかったこと」にある。つまり、日本の企業が30年間「値段を上げる覚悟」を持てなかったということだ。産業再編を進め、規模の経済を働かせ、投資余力を作り、生産性を本当の意味で高めていく。そのうえで、サービス産業を中心に「値付けの文化」を変えていく。わたしはここが最重要だと思っている。
こうした議論をしていくと、結局のところわたしたちの経済の問題は「働き方改革のせいで停滞した」のではなく、「働き方改革より前に、産業が変わらなかった」というところに行き着く。1975年から1995年までは、時間を減らしても産業が進化した。しかし1995年から2023年までは、産業が進化しないまま、時間だけが減り続けた。その違いだ。
時間を増やすかどうかではなく、付加価値を高められる産業構造に変えていくかどうか。その方向性こそが、本当の意味での成長戦略だと考える。
旧暦コラム 霜月の入りにて
2025年11月12日
早嶋です。
この一週間で、空気が一気に冷え込んだ。子どものソフトボールの応援も、夏の装いから冬の防寒へ。秋がなくなったように感じるほどだが、ふと見渡せば、木々は確かに紅葉している。秋は、まだそこにいる。
プラットフォームから、今年も新米が届いた。BBTからも同じく、長野の秋の恵みが届く。袋を開けた瞬間に広がる、あの香り。新米を研ぐ水の冷たさに、季節の深まりを感じる。熊本からは、旬のれんこんを使ったからし蓮根。地の辛味が鼻を抜ける。近くの和食屋では、銀杏の焼きと揚げ。独特の苦みが舌に残り、心にスイッチを入れる。台所では、妻が栗の皮を剥き、渋皮煮を仕込んでいる。その姿は、我が家の秋の風物詩だ。
ベランダの紅葉は風に吹かれながら衣替えを始め、葉の先から少しずつ赤く染まり出した。並木道のけやきと銀杏も、まるで合図を交わすように、いっせいに秋の色へと変わっていく。
旧暦では、今は霜月のはじめ。霜が降りるほどに空気が澄み、しかし自然はまだ、秋の光を惜しむように柔らかい。冬の入口で、秋が最後の輝きを見せている。
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