
思想としてのDX・効率化か共同体としての成熟化
2026年2月20日
早嶋です。約6600文字。
DXは企業の中では当たり前に浸透した。ただ、それは言葉として浸透しているだけで、本来の概念的な、理想的な取組は未着手、未実現のままだ。多くの企業が「DX推進室」をつくり、AIを導入し、業務を自動化し、ペーパーレス化を進める理想を持っている。しかし、その成果はどうだろうか。確かに一部では効率が上がり、コストは削減され、生産性も向上している。だが、なぜか手応えが薄い。組織が強くなった実感が乏しいし、SNSなどで見る劇的な変化は感じない。競争優位が決定的になったという声などに至っては皆無だ。
DXをコスト削減の延長線上に置いた組織は、往々にして部分最適に終わる。現場の困りごとをAIで解決し、業務時間を短縮し、人員を削減する。確かに合理的だ。しかし、その合理化は思想を伴っていない。データとデータの因果を理解し、事業全体の構造を深く掘り下げるための仕組みになっていないのだ。
一方で、DXを競争優位の源泉と捉えた組織は様相が異なる。彼らはデータを削コスト減目的で使用しない。物事の因果を探り、構造を読み、全体を理解するために使う。なぜこの部門の売上が上がったのか。その背後にある投資は何か。どの部門が支え、どの過去の意思決定が現在を生んだのか等。問いと探求は自然と広がり、事業運営を強化する思考は縦にも横にも伸びていく。
今回の命題は、DXはITプロジェクトではなく、思想である、だ。
そしてさらに踏み込めば、DXは組織を強くもするが、同時に弱くする側面がある。効率化だけを追えば、人は物事の因果を考えなくなる。ブラックボックス化された仕組みで成果だけを得られるからだ。結果、文明の果実を当然とみなす人間が増えるのだ。だが、因果を可視化し、構造を理解させる仕組みとしてDXを使えば、結果的にDXは人の精神の質をも高める道具になるのだ。
(DXの本質:可視化と大衆化)
では、DXの本質とは何だろう。効率化のツールか、それとも依存構造を可視化する仕組みだろうか。そもそも経済活動で得られた様々なデータは、コスト削減のための道具と捉えて良いのだろうか。それとも、それらを活用して、物事の因果理解を行いより競争優位を獲得するために活用すべきだろうか。
ここで、少し異なる分野の話をしたい。20世紀初頭、スペインの哲学者、ホセ・オルテガ・イ・ガセット は、『大衆の反逆』の中でこう述べた。近代文明は人類の苦闘の末に築かれた成果である。しかし、その過程を知らない世代は、その文明を当然のものとみなし始める。水は蛇口から出る。電気はスイッチで点く。社会は安全である。すべてが当たり前になる。
問題は文明そのものではない。その文明の果実を当然視する人間の態度だ。
彼が言う「大衆」は数の問題ではない。自分に高い要求を課さず、成果だけを享受する人間の精神状態を指している。この視点でDXを見直してみる。もしDXがブラックボックスを増やす方向に進めばどうなるかだ。業務は自動化され、意思決定はアルゴリズムに委ねられ、現場はボタンを押すだけになる。効率は上がるし、考える必要がなくなる。しかし、物事の因果や構造的なメカニズムなどは全く見えなくなると思う。なぜこの数字が上がったのか。なぜこのコストが下がったのか。なぜこの顧客に気に入られているのか。その背後にある構造や歴史、他部門の支えは自然と意識されなくなるのだ。
そのとき組織の中で起きるのは、オルテガが言う大衆化だ。組織の成果は自分の能力と誤認され、組織や利害関係者間の協力や支え合う構造は忘れられ、相互に依存している仕組みは見えなくなる。そう、文明の果実だけを食べる人間が増えていくのだ。
しかし逆も考えられる。DXを因果関係や物事の構造を可視化する装置として設計した場合だ。売上の背後にある投資や行動が見え始める。1つの業務改善が他部門に与える影響が具体的に見え始める。過去の意思決定が現在の競争力にどのような影響を与えたかが分かり始める。従来のブラックボックスが構造として理解できるようになるのだ。
その瞬間、DXは効率化ツールから思考するための道具に変わる。互いの構造や因果関係が具体的に可視化されることで、自分が組織全体の一部であるという自覚が生まれる。そう、依存構造、つまり見えなかった相互協力の連鎖を理解することで、精神は成熟するのだ。
少し簡単な比喩で説明しよう。仕事仲間で、キャンプに行ったとしよう。これまでリーダー的な存在で仕事が出来た人も、料理を作ることも、火を起こすこともできないかも知れない。そんな時、雑務を担当してくれた方が、料理の手際を見せる。他の仲間はできることを探し、薪を探し、火を起こす。テントを張って野営の準備をする人も出るだろう。キャンプをすると、互いに行動が可視化された中で、同時並行的に作業が進む。出来ない人は自然とできる人のフォローに入り、不足する機能を見つければ、誰かが工夫をして環境を整える。互いの相互関係が見え、各自の仕事の因果がわかれば、自立よりも相互依存による結果、成り立つことを理解できるのだ。
仕事に置き換えても同じだ。依存構造、つまり相互関係の構造と理解があれば、人は自然と役割を引き受ける。しかし、全てがブラックボックス化され、他の動きが見えない空間にいる人は自覚がなく、自分の成果だと当然視するのだ。
これがDXの分岐点だ。DXは組織を強くもするが、同時に弱くもする。ブラックボックスを増やせば大衆化を促進する。因果を見せれば成熟を促進するのだ。そのため、DXの本質は技術ではない。それをどう使うかという思想だ。
(共同体の視点)
ここで、更に別の話をして視点を拡げたい。DXを効率や因果の話にとどめるのではなく、「人間とは何か」という地点まで引き上げてみる。
イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリ は、人類史を俯瞰する中でこう述べている。ホモ・サピエンスが生き残ったのは、身体能力が突出していたからではない。集団で協力し、経験や知識を共有し、物語を信じることができたからだ、と。強い個体が勝ったのではない。弱い個体が、協働によって強くなった種が残った、と。
つまり人間は、単体最適で設計された存在ではないのだ。共同体の中で役割を持ち、互いに依存しながら生きるようにできている。この視点から企業や組織を見ると、多くのことが腑に落ちる。
例えば、銀行口座を考えてみたい。あなたの口座に表示されている残高は、物理的にどこかに積まれている現金ではない。単なる数字であり、データであり、記号だ。しかし私たちはその数字を疑わない。ATMに行けば現金が出てくると信じているし実際に出てくる。だが、その背後には巨大な信用ネットワークがあり、中央銀行、商業銀行、決済システム、法律、監査制度、国家の信用力等々が連鎖している。この制度と人々の合意連鎖が「残高」という数字を成立させている。
ハラリ は、人類が他の種より優位に立てた理由を「虚構を共有する力」に見出した。国家も、貨幣も、会社も、法律も、物理的実体ではない。人々がそれを信じるという合意の上に成り立つ「物語」だという。
会社も同じだと思う。法人という存在は、建物でも機械でもない。人々が「この会社は存在する」と信じ、契約を結び、取引をし、従業員が働き、顧客が支払うことで初めて成立する。会社とは、共有された物語の集合体にすぎない。しかし私たちは、ATMから出てくる現金だけを見るように、売上や利益という数字だけを見るようになる。背後にある信用の連鎖や、過去の投資や、他部門の支え合いの構造には思いを巡らせることを忘れてしまう。
近代技術は、この「依存の網」を見えにくくしている。水は蛇口から出る。電気はスイッチで点く。組織では給料は毎月振り込まれる。自分が何かをしなくても、すぐには困らない。責任と結果の距離がうんと遠くなったのだ。しかし実際は複雑な依存があるのだが、その構造が見えない状態が続いているのだ。これが文明の裏側だ。
企業も同じだ。1つの部門の売上は、他部門の投資や支援の上に成り立っている。1つの成功は、過去の失敗の蓄積の上にある。しかし、その連鎖は日常業務の中では見えにくいし、知らなくても仕事ができる。組織は、仕事の流れ(バリューチェーン)や会社間の連携(サプライチェーン)を意識しなくても良い仕組みを作った。組織を細分化して、一部の役割を切り取り、そこに更に標準化してコピペしても動けるような工夫をしている。
ここにDXが加速すると、更に自動化が進み、ブラックボックスを増やすことも容易だ。ますます依存構造が見えなくなる。人は自分の成果を自分の能力と誤認する。共同体的自覚は薄れるのだ。しかし、DXは構造を可視化するための仕組みとして認識するとどうだろう。売上と投資の連鎖が見え、部門間の因果が見える。その結果、優位性を加速するための意思決定と結果の距離がぐんと縮まるのだ。思想を実現する道後としてDXを活用することで、企業は単なる機能の集合体から、再び共同体として立ち現れる。
DXは効率化の道具にもなるし、共同体を再構築する道具にもなり得るのだ。ここに、経営の覚悟が問われる。
(組織と期限付きトップの問題)
ここまで述べた共同体の視点を、現実の組織運営に引き寄せてみたい。私はグループ会社の経営に関わることが多い。そこでは親会社から数年単位で社長が派遣されるケースが少なくない。2年から3年という任期の中で成果を求められ、評価は多くの場合、親会社の基準で下される。
この構造は何を生むだろうか。
任期付きトップは、無意識のうちに「キャリア最適化」に向かうだろう。短期的な数値改善、目に見える改革、リスクの回避。次のポストへ進むための合理的行動だ。これは個人の善悪の問題ではない。制度がそう設計しているのだ。
実は、いわゆる「プロ経営者」も同じ構造の中だ。特定の企業に数年間入り、劇的な改革を行い、成果を出し、次のステージへ進む。PEファンド主導の経営、VC主導の経営もまた、時間制約の中で成果を求められる。そこではどうしても、短期で可視化できる成果に重心が置かれる。
それ自体が悪いわけではない。むしろ合理的だ。しかし問題は、時間制約が「全体最適」と「歴史の継承」を分断しやすい点にある。企業は本来、過去の蓄積の上に現在があり、現在の判断の上に未来がある存在だ。だが時間を区切られた経営は、どうしても現在の成果を最大化する方向に傾きやすい。土壌を耕すよりも、収穫を急ぐイメージだ。
ここに共同体最適との緊張関係が生まれるのだ。繰り返すが、企業は、過去の投資の上に現在があり、現在の判断の上に未来がある。1つの部門の成功は、他部門の支え合いの結果で、1つの決断は、後任者が引き受ける重みを持つ。任期付きであれ、その企業は「通過点」ではない。誰かの終の場所であり、誰かの生活の基盤であり、誰かの人生の舞台なのだ。
この視点で捉えると、キャリアの最適化か、と共同体の最適化か、という分岐が見えてくる。短期的に見栄えのする改革を行うことと、組織の土壌を耕すことは必ずしも一致しない。数字を改善することと、構造を強くすることも一致しない。
オルテガは「大衆」とは数の問題ではないと言った。問題は態度だ。自分に高い要求を課さず、成果だけを享受する姿勢こそが危ういのだと。彼の言う「貴族的精神」とは身分のことではない。自らを律する態度のことだ。それは、自分の任期中の評価だけを考えて意思決定することではない。自分が去った後の組織がどうなるかまで考えて判断することだ。それは、成果を自分の手柄にすることではない。その成果を支えた人や過去の投資に思いを巡らせることだ。それは、昇進や評価のために数字を整えることではない。見えにくいリスクや構造の弱さを引き受けることだ。つまり、共同体の未来に対して、自分の判断がどう影響するかを自覚し、その重みを引き受ける態度である。
DXも同じだ。
DXを短期的な効率改善の道具として使えば、任期中の成果は出るかもしれない。しかしブラックボックスが増え、依存構造が見えなくなれば、次世代はその重みを引き受けることになる。一方で、DXを構造を可視化し、因果を共有し、組織の土壌を強くする装置として使えばどうだろう。それは任期を超えて効いてくるはずだ。
ここで初めて、DXはIT施策から精神設計へと変わるのだ。経営とは、数字を動かすことではない。精神の質を設計することだ。任期があるかどうかは本質ではない。その組織を「通過点」と見るか、「引き受ける場所」と見るか。その差が、DXの使い方を決定するのだ。
(思想設計としてのDX)
ここまで述べたように、DXは単なる効率化の道具ではない。共同体の構造を可視化する仕組みで、その結果企業の競争優位の源泉になる。ここでは、思想までを組織に以下に実装するかについて整理する。
DXを思想として捉えると、現在の組織に対して新たにインストールすべく方針がいくつか見えてくる。
1. 責任と結果の距離を縮める
近代組織の最大の課題は、責任と結果の距離が遠くなったことだと思う。自分の判断がどの数字にどう跳ね返るのかが見えにくいのだ。だからこそ、DXを用いて意思決定と成果を結びつけるのだ。
実際は、小集団でのリーダー経験、プロジェクト単位での収支責任、KPIと現場行動の連動などがイメージしやすいと思う。データを通じて「自分の判断がどこに影響したか」を可視化出来れば、責任が数字に、数字が現実に結びつく感覚を体験できる。それを実装するのだ。
責任と結果が近づけば、人は自然と慎重になり、同時に主体的になるものだ。
2. 全体構造の理解と訓練
DXの最大の可能性は、因果を横断的に見せられる点にある。売上の裏にある投資。コスト削減の裏にある品質リスク。一部門の成果が他部門に与える波及等。
単なる経営ダッシュボードでは足りない。事業構造を可視化し、ビジネスモデルの本質を理解する。そして、常に、「この数字はどこから来たのか」「この改善はどこに影響するのか」を問い続ける組織文化をつくるのだ。
DXはデータの集約をしてコストを削減するツールではない。構造の可視化の上、新たな価値創造をするための道具なのだ。
3. 疑似キャンプ
企業の中では、仕事の役割が細分化され、標準化され、欠席しても他者に代替可能な状態を構築している。これは効率のために必要だが、共同体的自覚を弱める側面もある。
だからこそ、意図的に役割の重なりや相互依存を体験させる場が必要だ。クロス部門プロジェクト、短期集中の事業開発、ハッカソン、合宿型の戦略立案。そこでは「自分が動かなければ進まない」という状況を擬似体験させ、日常の思考回路に定着させることを狙う。
4. 歴史を語る
組織が弱くなる最大の原因は、歴史の忘却だ。過去の投資、失敗、転機、葛藤。それらが語られなくなったとき、忘れた時、現在の成果は当然視される。文明の果実を当然とみなす態度が組織内に広がれば大衆を増産する。
DXを使えば、過去の意思決定と現在の成果をつなげられる。投資履歴、事業の変遷、組織の進化を可視化する。数字の背後に物語を取り戻すのだ。
(DXの再定義)
最後に、敢えて、もう一度DXを定義し直してみる。DXはITプロジェクトではないし、業務改善のスローガンであってもいけない。DXは、組織の事業マインドを可視化させる仕組みそのものなのだ。責任を見せ、依存を見せ、構造を見せ、歴史を見せる。
今回の議論での、はじめの分岐はこうだった。DXを効率化に使うか、因果を理解するために使うか。後者を選んだとき初めて、DXが競争優位の源泉にあり得る。だがここで終わる組織が多い。因果関係は理解したと言って安心してしまうのだ。
だから2つ目の分岐点が生まれる。理解で止まるか、行動に落とし込むかだ。ダッシュボードで満足するか、悲母日の意思決定が変わり行動が変わるまで設計するかだ。
DXを文明の果実として消費するだけなら、人は大衆化する。組織を共同体として成熟させる仕組みとして設計し、実装する。その違いが、数年後の組織の質を決めるのだ。DXの成功は、技術では無い。経営者が、どこまで引き受けるかで全てが決まるのだ。
新規事業の旅 全集
2026年2月20日
こちらは現在連載している「新規事業の旅」の全部のリンクです。
Youtubeは、本ブログを動画に再編集して配信しています。
早嶋聡史のYoutubeはこちら。
ポッドキャストでも配信しています。
アップルのポッドキャストはこちら。
アマゾンのポッドキャストはこちら。
スポティファイのポッドキャストはこちら。
新規事業の旅(1) 旅のはじまり
新規事業の旅(2) 既存と新規は別の生き物
新規事業の旅(3) よし!M&Aだ
新規事業の旅(4) M&Aの成功
新規事業の旅(5) M&Aの活用の落とし穴
新規事業の旅(6) 若手の教育
新規事業の旅(7) ビジネスモデルをトランスフォーメーションする
新規事業の旅(8) 自分ごとか他人ごとか
新規事業の旅(9) 採用
新規事業の旅(10) NBとPB
新規事業の旅(11) 未だメーカーと称す危険性
新規事業の旅(12) 山の登り方
新規事業の旅(13) ポジションに考える
新規事業の旅(14) 経営陣のチームビルディング
新規事業の旅(15) 偶然と必然
新規事業の旅(16) キャズムを超える
新規事業の旅(17) 既存事業の市場進出の場合
新規事業の旅(18) アンゾフ再び
新規事業の旅(19) モノからコトへ転身できない企業
新規事業の旅(20) 自前主義の呪縛とイデオロギー
新規事業の旅(21) 現場とトップのギャップ
新規事業の旅(22) 売ってから始まる事業
新規事業の旅(23) 道具の使い方
新規事業の旅(24) 敵のコトを知りつくそう
新規事業の旅(25) キャズムを超えるまでのKPI
新規事業の旅(26) M&Aの勘所を押さえる
新規事業の旅(27) 仲介会社のビジネスモデルと買い手の事情
新規事業の旅(28) 動画サブスクの落とし穴と処方箋
新規事業の旅(29) 売り手のトラブルは売り手の無知から
新規事業の旅(30) OEは最早役に立たたない
新規事業の旅(31) ジョブと障害とキャズム
新規事業の旅(32) 需要と供給
新規事業の旅(33) ストレッチ目標
新規事業の旅(34) 複利の効果
新規事業の旅(35) 人間は機械の一部になる
新規事業の旅(36) デジタルの弊害を受け入れる
新規事業の旅(37) 会社を居場所に置き換える
新規事業の旅(38) システム化された社会
新規事業の旅(39) 金融リターンではなく事業リターン
新規事業の旅(40) サービス業の苦悩
新規事業の旅(41) 3つの財布
新規事業の旅(42) グループ企業の試練
新規事業の旅(43) 思考と行動
新規事業の旅(44) デジタルバッジ
新規事業の旅(45) デジタル化とOC
新規事業の旅(46) ジョブ発見のコツ
新規事業の旅(47) 器と魂
新規事業の旅(48) Z世代の高級品
新規事業の旅(49) アニメ界のSPA企業が覇者になる日
新規事業の旅(50) PBR1割れの衝撃
新規事業の旅(51) 新規事業の創造3つの方向性
新規事業の旅(52) 別の視点で見るイノベーションのジレンマ
新規事業の旅(53) 新規事業のベストミックス
新規事業の旅(54) サーキュラーエコノミー
新規事業の旅(55) PBR1割れを考える
新規事業の旅(56) 情報の民主化と経済格差
新規事業の旅(57) セキュリティの今後
新規事業の旅(58) サステイナブル経営
新規事業の旅(59) Z世代のアプローチ
新規事業の旅(60) ドローン事業
新規事業の旅(61) ノンカスタマー
新規事業の旅(62) プランB
新規事業の旅(63) Z世代
新規事業の旅(64) 小売とマーケティング
新規事業の旅(65) 高齢者をターゲットにした事業
新規事業の旅(66) ベンチャーキャピタルの実態
新規事業の旅(67) 新規開発の落とし穴
新規事業の旅(68) 覚悟を持って取り組む
新規事業の旅(69) 売れるモノが良いもの
新規事業の旅(70) 性善説と性悪説
新規事業の旅(71) 保身に走らない
新規事業の旅(72) 中国リスク
対立を望まない
新規事業の旅(73) サステナビリティ経営
新規事業の旅(74) ストックオプション
新規事業の旅(75) ゼロイチとM&A
新規事業の旅(76) TAM/SAM/SOM
新規事業の旅(77) 近くと遠く/全体と細部
新規事業の旅(78) 逆境を乗り越えるリーダー
歴史は繰り返す
新規事業の旅(79) ラストイチマイルの柔軟思考
新規事業の旅(80) 業務提携と資本提携
新規事業の旅(81) 部下の視点と視野の狭さはあなたの鏡
新規事業の旅(82) バックキャスティング
新規事業の旅(83) ペット保険にAmazon参入
新規事業の旅(84) ベンチャー企業
衝動買い合戦
新規事業の旅(85) 生成AI1年目の誕生日
グランドセイコーのブランディング
新規事業の旅(86) スケールする前後の組織
新規事業の旅(87) 無線給電
新規事業の旅(88) よく見る風景
新規事業の旅(89) ダイナミックプライシング
新規事業の旅(90) 提携と出資
新規事業の旅(91) アパホテルのプライシング
新規事業の旅(92) コカ・コーラのダイナミックプライシング
新規事業の旅(93) アップルのゴーグル型端末
新規事業の旅(94) 通年採用のススメ
新規事業の旅(95) 情シス事情
新規事業の旅(96) オープンイノベーションの打ち手としてのCVC
新規事業の旅(97) 今後のマーケティング
新規事業の旅(98) エフェクチュエーション
新規事業の旅(99) 2世と3世
そのショッパー有償ですか?
新規事業の旅(100)自分事と他人事
テルモンの一貫性
新規事業の旅(101)最近の経営企画
新規事業の旅(102)ドーミーイン
新規事業の旅(103)誰もわからない
新規事業の旅(104)運とリスク
新規事業の旅(105)経済的なインセンティブの大切さ
新規事業の旅(106)スタートアップと採用
新規事業の旅(107)エクイティにおけるインセンティブ
新規事業の旅(108)イノベーションとCVC
新規事業の旅(109)書店の敵は私学進出(アマゾンじゃなかった)
ファイナンス関連の書籍
新規事業の旅(110)30年の停滞
新規事業の旅(111)30年停滞の要因
新規事業の旅(112)30年停滞からの学び
新規事業の旅(113)ワイガヤ再び
新規事業の旅(114)地域を盛り上げる前の分析の視点
安部修仁語録
2代目ジャパネットタカタ
経営者QA 事業承継の際の覚悟、組織からの協力のポイント、大きな決断の覚悟の背景
経営者QA リーダーシップ 育成
新規事業の旅(115)足るを知る
新規事業の旅(116)継続は力なり
新規事業の旅(117)実践の妨げとなる心の豊かさ
新規事業の旅(118)学習性無力感
新規事業の旅(119)学習性無力感を克服するアプローチ
新規事業の旅(120)実践は時間と努力の変数
新規事業の旅(121)必要は発明の母
新規事業の旅(122)アントレプレナーとイントレプレナー
新規事業の旅(123)人事異動の落とし穴
新規事業の旅 (124)マネジメントの共通認識
為替の要因
新規事業の旅(125)高尚なパーパスの落とし穴
新規事業の旅(126)トレランスと遊び
新規事業の旅(127)行動しないことの考察
新規事業の旅(128)先延ばし
新規事業の旅(129)ベンチャー企業と中小企業
新規事業の旅130 設立から上場までの物語
新規事業の旅131 台湾事情2024その1物価
新規事業の旅132 台湾事情2024その2背景
新規事業の旅133 台湾事情2024その3再び物価
新規事業の旅134 北海道事情2024
国家観の再構築
新規事業の旅135 不祥事の元祖と原因と対策
新規事業の旅136 スタートアップと大企業
新規事業の旅137 提携や資本業務提携の契約
新規事業の旅138 LLCとKK
新規事業の旅139 やり抜けない人材排出の背景と打ち手
新規事業の旅140 創発する組織の会議
新規事業の旅141 高級時計ブランドのはじめ方
新規事業の旅142 グリーンファンド
エアラインの業界構造
新規事業の旅143 アニメ産業の現状と課題
新規事業の旅144 勘違いをぶっ壊せ
新規事業の旅145 テーマパーク
新規事業の旅146 自分と部下の育成方法
新規事業の旅147 ハルメクに学ぶ新規事業の初め方
新規事業の旅148 観光公害と言わないで正面から向き合う
中東情勢の理解
新規事業の旅149 世代ごとの消費の特徴
新規事業の旅150 リユースマーケット
新規事業の旅151 価格と向き合う
新規事業の旅152 人的資本経営
新規事業の旅153 脱東京で成長を加速する
新規事業の旅154 オールドメディアの終焉
新規事業の旅155 マーケティング(2Cと2B)の基礎理解
新規事業の旅156 若手とベテランの壁
新規事業の旅157 NDAを結ばない時
新規事業の旅158 小規模農業者向けの流通プラットフォーム
学びの意味
新規事業の旅159 車社会
新規事業の旅160 消費と浪費
新規事業の旅161 ストア派哲学
新規事業の旅162 単一と統合の生態系
新規事業の旅163 問題設定の大切さ
中途半端な正義
新規事業の旅164 脇毛とマーケティング
プレートの連鎖は考えにくい
新規事業の旅165 アメリカの終焉
新規事業の旅166 新しいことのはじめ方
新規事業の旅167 支援と投資のスタンス
新規事業の旅168 中国は金融戦争を仕掛けるか
新規事業の旅169 重要な取組が出来ない構造
新規事業の旅170 AとBのジレンマの処方箋
新規事業の旅171 増加する組織再編
新規事業の旅172 青を焼くか、重ねるか。文化と技術の対話の先。
新規事業の旅173 次の時代の生存戦略
新規事業の旅174 コメ価格高騰の裏側と、これからの日本の米市場
新規事業の旅175 ガソリン価格の高騰の本質
新規事業の旅176 民主主義が絶対主義になる時
新規事業の旅177 ポッドキャストの未来
最近の考古学の研究成果
新規事業の旅178 企業が思考停止に陥る理由とジョブローテーションの制度疲労
新規事業の旅179 生成AIがかえる都市の機能とカタチ
宗教改革から500年
新規事業の旅180 昭和100年
TSMCがもたらした変化
新規事業の旅181 グループ再編の現場の理想とリアル
新規事業の旅182 地方タクシー会社の未来
新規事業の旅183 PMIの失敗要因
新規事業の旅184 植物カルチャーの進化と熱狂の正体
新規事業の旅185 両利きの経営と時間をつなぐ仕事
新規事業の旅186 米問題に関する構造的課題とその処方箋
定着こそ最強の採用戦略クリニックが人を育成するためにすべきこと
新規事業の旅187 ブランドの3要素と成長戦略
新規事業の旅188
新規事業の旅189 少子高齢化と倫理の断絶
新規事業の旅190 アニメ業界における版権主権モデル
新規事業の旅191 シンギュラリティの隠蔽と創造の円環
新規事業の旅192 医療法人の運営と実態
新規事業の旅193 書く行為から見る未来
新規事業の旅194 個人が主導する情報時代の到来
継続は力なり
新規事業の旅195 モビリティ支配権をめぐる争奪戦
新規事業の旅196 ホワイトカラーの再変遷とAI時代の組織デザイン
新規事業の旅197 知識労働にもスマイルカーブ
新規事業の旅198 「貢献」と「利他」のあいだ
新規事業の旅199 「横の関係」が通じないときのリーダーの振る舞い
新規事業の旅200 MBOとOKR
虚構の政治
新規事業の旅201 未来と現実のギャップに苦しむテスラ
新規事業の旅202 権威の終焉とオーセンティック・リーダーシップ
新規事業の旅203 役員の覚悟と姿勢
不安定という制度を輸出するアメリカ
日本版・選挙推し活モデル
新規事業の旅204 ヒューマノイドの今後の考察
新規事業の旅205 ポッキーの立体商標
新規事業の旅206 日本企業の構造的な惰性
新規事業の旅207 ソフトバンクがインテルに出資する理由
新規事業の旅208 SHEIN制裁が映し出す規制機関の存在論
公務員のマネジメントに思う
新規事業の旅209 20Wで世界を制御する人間
新規事業の旅210 人間の進化と悩み
新規事業の旅211 AI導入の本質
首相交代
新規事業の旅212 独占禁止法に思う
最低賃金1,500円がもたらす構造的なシナリオ
米国の構造的なリスク
真実と虚構の間
箱と運営の両軸
ABOHA
H-1Bビザとアメリカの選挙
新規事業の旅213 暗黙知の形式化と活用
新規事業の旅214 破壊と維持と創造
地方と都市部と人材育成
新規事業の旅215 デジタル選挙の課題
新規事業の旅216
新規事業の旅217 組織布教のフレームワーク
採用・定着・出戻りを循環として設計する
日本の米の価格構造
新規事業の旅218 IPの創造
新規事業の旅219 抹茶の定義と言語化の必要性
新規事業の旅220 変えない攻めと変える攻め 牛丼とプロレス
新規事業の旅221 ガチャガチャの事業構造
新規事業の旅222 日本の世界における立ち位置と為替
新聞のトランスフォーメーション
ブランド価値と株価 比例しそうで、しない関係
ポルシェは、いまどこにいるのか
イデオロギーがマイルド保守に向かう理由
ネーミングライツの落とし穴
労働時間と一人あたりGDPの関係
センチュリー:トヨタ5番目のラグジュアリーブランド
ジョブ型社員の解雇に見る今後の組織戦略
映画アニメファンド
最近の若者はすぐに辞めるは「嘘?」
スクイーズアウトという制度
子ども食堂の未来は?
なぜスタバのEチケットはあんなに使いづらいのか?ブレイケージ(未使用残高)で毎年2億ドル超近く利益を出すスタバの経済学
本社と現場の権限配分
大手のエースが地場企業でパフォーマンスが出せない構造的な理由
プロダクトは一流、顧客体験は昭和
ネットフリックスがワーナー買収へ。世界の「ポスト・ストリーミング時代」が始まる
ワーナー争奪戦の正体、トランプはパラマウントを批判しているのか、支援しているのか
抹茶産業の行く末を議論すべき出来事
ディズニーがOpenAIを選んだ理由
ワーナーの合理的な判断
40万年前から人類は火を活用していた
人のやる気を「What・How・Why」で整理する
競争がある市場は、なぜ成長するのか? AI広告騒動から見た、ブランドと集合知の考察
安定軸で再設計すべき日本のエネルギー政策
しだないくんから始まる問い
煩悩と108に理解を示し心を穏やかにする
人手不足なのに賃金が上がらない理由 転職市場の数字と企業の評価・育成が噛み合わない現実
天皇制度の発明 :磐井の乱・白村江・壬申の乱から読み解く日本国家の起源
レゴはなぜ「プラスチックの積み木」から、世界で最も強い知的ブランドになったのか
ダブルスタンダードに移行した世の中
価値は機能から顧客経済へシフトし、覇者は財布と習慣を握る
AI助成金が野良AIを量産する不都合
労働者を守る法律が、働く意思を縛るとき
本音が出ない1on1は、失敗ではなくスタート地点だ
顧客経済圏の覇者は、AIとロボットを融合させる、その結果、技術思考の会社は常に部品として見られ買収対象になる
モチベーションは下げないようにする
手触りで生きる、概念で生きない。
財政議論がかみ合わない構造
オーバーツーリズムの課題は都市設計の不足
フグレンコーヒーと日本と東京
統合思想なきDXは、必ず分断する
治療か予防か、今後の医療のあり方の考察
豊かになる前に老いる国、豊かになってから縮む国――人口減少が分ける世界の4類型と、日本・沖縄の勝ち筋
思想としてのDX・効率化か共同体としての成熟化
新規事業の旅223
新規事業の旅224
新規事業の旅225
新規事業の旅226
新規事業の旅227
新規事業の旅228
新規事業の旅229
(時にまつわるブログ)
スイス産業とその歴史・その1
スイス産業とその歴史・その2
腕時計とリトルハイア
日本勢の時計の売り方
スイスの腕時計事情
時計の動きに注目
グランドセイコーとブランディング
システム化した社会
グランドセイコーその1
グランドセイコーその2
グランドセイコーその3
タイミングこそ全てだ
グレーマーケット
GSを最高のブランドにするために
選択と集中・発散と自立
日本のメーカーで観察される過去から将来
自己プライミング
ウブロ
エネルギー源は健康と愛
デジタル機器
近年の社会的変化
視点
サラリーマンもサマータイムを
華麗なる小さな国ルクセンブルク
父曰く
ナイキとアップルウォッチ
ビックベン
色の所有
ペルソナとイメージング
脳のウォーミングアップ
導線
ペルソナ
ブランドコントロール
プロダクト・プレイスメント
パルミジャーニとエルメス
豊かになる前に老いる国、豊かになってから縮む国――人口減少が分ける世界の4類型と、日本・沖縄の勝ち筋
2026年2月18日
早嶋です。7600文字です。
人口減少は、国家にとって大きな試練だ。労働力が減り、内需が縮み、社会保障の負担が重くなる。これらは避けられない問題だ。ただ、世界の人口減少を観察すると、経済が未成熟の状態で人口減少が始まる国々が存在する。ここは更に別の問題が発生する。
(人口増減と経済ピークへの懸念)
日本、フランス、ドイツ。これらの国は、人口がピークを迎えたころに、一人あたりGDPが4万ドルから6万ドルあたりまで到達している。つまり、国全体として「生活の基盤ができた」と言える水準まで登ってから、人口減少局面に入っている。人口減少そのものが持つ構造的な大変さはある。しかし、まだ戦える余力があるとも言える状態だ。このような国々は既に国家としてのインフラは整備出来ている。国民の教育水準も高い。そして、資本も技術もある。成長は鈍るであろうが、成熟国としての選択肢はまだ自由度が高い。経済を縮小する決定をしても、その手法を選べるのだ。
一方で、中国やタイは、決定的に違う。人口がピークを迎える段階で、一人あたりGDPは1.5万ドルから2万ドルに届くかの水準になり、その後、人口減少に転じているのだ。国全体が、豊かになりきる前に人口ボーナスが終わる状態なのだ。
この違いが何を生むのか考えてみる。まずは格差だ。極端に金持ち層と、まだ豊かさを実感できない大多数の国民が同時に存在することになる。そして人口が減り始めると、国全体としての成長余地は急に狭くなる。人口のパイがこれ以上大きくならない中で、分配をめぐる緊張感だけが高まっていく。これは怖い。分配の議論は、成長の余白があるときは何とかなる。だが、余白が消えると、分配ではなく奪い合いに近い状態になる。政治と治安と、社会の雰囲気が明らかに悪くなることを意味する。
中国を例にすると、これまでの成長は「人口が多く、安く、よく働く」という前提だった。しかし人口が減少することで、その前提が崩れ、一人あたりの豊かさも積み上げることができなくなる。さらに不動産、地方財政、社会保障の脆弱さを鑑みると、内部にかなり強いストレスが溜まっている構造を推測できる。経済が伸びない中で高齢化だけが進めば、若い世代は負担感だけを背負うことになる。中国は既に、国家の中に見えない内戦が出来上がっているのだ。銃声は鳴らないと思うが、心が既に分断し始めている。そういう種類の危機があるのだ。
タイも似た構図を持っている。中所得国の罠という言葉があるが、まさにその状態で人口が減り始めている。産業の高度化が十分に進まないまま、国内市場は縮み、外資頼みの経済構造は不安定になる。ここでも格差は固定化しやすい。だから、「中国やタイが悲惨な状況になるのでは」という直感は、大げさではないと思う。人口減少そのものが問題なのではなく、経済がピークにいく前に老い、人口が減る構図が致命的なのだ。
(人口と経済で分ける4つの分類)
上記の前提を持って、2つの軸で世界を整理してみた。ひとつは人口動態だ。人口が増加しているか、減少しているかだ。そして、もうひとつは一人あたりの豊かさが一定水準を超えたか否かだ。この2軸で捉えると、世界は4つの型に分類できる。
1つ目は、豊かになってから減る国だ。これを日本型と呼ぼう。日本型は、日本、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン等だ。日本型の特徴は、成長は止まるが制度、資本、教育、技術などが既に一定水準レベルで確立している。従って、今後の問題は「どのように縮小するか」「どのように維持するか」であり、「如何に生き延びるか」ではない。しんどいが、まだ選択肢がある世界なのだ。
2つ目は、豊かになる前に減る国だ。タイ型、あるいは未成熟高齢化型だ。タイ型は、タイ、中国、そして境界線上に韓国。ベトナムはまだ人口は増えるが、出生率低下の速度を考えると将来、タイ型の予備軍になっている。タイ型は日本型と比較して厳しい。成長の果実を広く全国民に配る前に人口ボーナスが終了し、格差が固定化、国家としての余力も小さい。「どのように富を分配をどうするか」という問い以前に、「もう増えないパイをどう奪い合うか」という状態に陥り安いのだ。確実に政治の不安定化を招くことだろう。
3つ目は、人口も増え、経済も豊かな国だ。アメリカ型だ。米国、カナダ、オーストラリア、イスラエル、そして少し変形だがUAEのような国もアメリカ型だ。ポイントは、人口の若さを保つ仕組みが制度として組み込まれていることだ。出生率だけではなく、移民も含めて「若さを輸入できる国」は、人口と成長の両方を回している。これは例外的に強い構造だ。
4つ目は、人口が増えるが貧しい国だ。所謂、新興途上国型だ。インド、パキスタン、バングラデシュ、ナイジェリア、コンゴ民主共和国などだ。人口増がチャンスにも、リスクにもなりうる。若者が厚いというのは、うまく雇用を作れれば強烈な人口ボーナスになるが、失敗すると若者の不満が爆発する。ここは政治と雇用と教育が重要な役割を果たす。
この上記の4分類で見たとき、一番不気味なのは中国だ。平均や中央値で見ればまだ40歳前後に見えるのに、今後、一気に老いる国になる。そして一人あたりの豊かさは、日本型の水準にも届いていない。人口の母数が巨大故に、人口減少の比率が少し動くだけで相当数の人数に影響が出てくる。
(豊かになる前に高齢化する実態)
では、豊かになる前に高齢化する国では、具体的に何が起きるのかを整理しよう。冒頭に示したインフラの未整備という概念を、もう少し分解して捉えるとイメージしやすくなる。水道や下水、道路、橋、港、空港、鉄道、通信、データセンター。これらが未整備、というのはもちろん大きい。ただ本当の問題は、未整備そのものではなく、未整備のまま社会の重心が「支える側」から「支えられる側」に移ることだ。
インフラは作るより維持する方がコストが高い。人口が増える国は、建設も維持も何とかなる。働く人が多く、税収も伸びやすい。だが高齢化が進むと、建設・保守を担う人が減り、税を払う現役世代も減る。つまり未整備のまま老いると、完成する前に維持フェーズに入ってしまうのだ。そして、これが致命的になる。
さらに厄介なのは、病院、役所、法律、消防、警察のような「制度と人のインフラ」だ。ここは金だけでは解決しない。医師、看護師、技術者、法曹、公務員、警察官、消防士。これらは教育に時間がかかり、経験が必要で、しかも高齢化すると需要が増える。豊かになる前に高齢化すると、医療や福祉の需要は急増するのに、それを支える人材の供給が追いつかない状態になる。結果、医療アクセスの格差、法の空白、治安の劣化が同時に起きやすい。これは「不便」ではなく「不安定」を意味するのだ。
通信やデータセンターも、単なるITの話ではない。行政、医療、金融、物流、教育。すべてがデジタル基盤の上に乗っている。ここが弱い国ほど、若者が都市や国外に流出しやすく、地方や弱者ほど取り残される。デジタル弱者と高齢者が重なる国ほど、社会の分断は深くなるのだ。
そして、見えにくいが決定的なインフラがある。教育インフラ、金融・税のインフラ、そして信頼のインフラだ。法が守られる。契約が守られる。役所が機能する。警察が公平である。これは数字に表れにくいが、投資や技術導入、産業高度化の前提条件になる。豊かになる前に高齢化し、財政と人材が先細ると、この信頼インフラがじわじわと壊れはじめる。ここが壊れると、外から金も人も技術も入らなくなる。つまり、上に上がる階段がさらに壊れていくのだ。
(今後の日本の動き)
ここまで見たうえで、日本はどう動くべきかを考えた。日本型の日本は、外部環境に左右される時代に入っている。そのため外交は、国を上げて取り組む必要がある。外交は、気分や好みでやるものではない。壊れない設計を先に作り、そこに日々の判断を当てはめていくものだ。わたしが考える基本線は単純だ。「守るもの」と「稼ぐもの」を混ぜないことだ。
守るのは土台だ。安全保障に加えて、エネルギー、食料、サイバー。ここが揺れると国家そのものが止まってしまう。だから守りは、効率より冗長性が優先される。多少ムダに見えても、切れないようにするのだ。逆に稼ぐのは上物だ。市場、資本、人材、技術標準。ここは攻める領域で、速度と集中が価値になる。
日本がすでに持っている強さは、実はエネルギーのポートフォリオだ。日本はエネルギー輸入国だが、一国依存を避けてきた。中東に偏りすぎない。LNGも複数の供給国に分ける。石炭もウランも分散する。ここで日本がやっているのは「この国は信用できる」という話ではない。もっと冷静な設計で、「誰が揺れても壊れないように、最初から余裕を持ったポートフォイリオ」という発想になっている。信頼ではなく、構造でリスクをコントロールしてきたのだ。このエネルギーで鍛えた感覚を、そのまま外交全体に拡張するイメージが、基本線になる。
まず、日本は「相手が正しいか」「信用できるか」で守りを組まない。これはエネルギーで、もう何十年もやってきたやり方だと思う。中東が不安定だから別の国からも買う。LNGも一社に寄せない。石炭もウランも、複数のルートを持つ。ここに善意はない。「誰が揺れても止まらないように、最初から分ける」。それだけだ。
この考え方を、そのまま安全保障に広げる。同盟は軸に置く。ただし一本足にはしない。物資の供給、重要な鉱物、サイバー、海の輸送路。全部、ひとつ切れても全体が止まらない形にしておく。信じるのではなく、切れない構造を作るのだ。これが守りだ。
一方で、稼ぎは逆だ。こちらは分けない。伸びるところに、はっきりと張る。市場が成長する地域に積極的に出る。資本もそこに投下する。人材は国内に閉じ込めないで、行き来させる。技術は、後から従う側ではなく、最初からルールを作る側に回る。こちらは「止まらない」より「増える」が正義なのだ。
要するに、日本の外交は二層に分けるイメージだ。下は止めない設計、上は増やす設計だ。守りはエネルギーと同じで、冗長でいい。稼ぎは逆に、集中する。この線を曖昧にしないことが、日本にとって一番大事な整理だと思う。
(4つの分類毎の打ち手とロシア)
4つの分類ごとに言うと、日本型の国とは「成熟の勝ち筋」を共同で作り、それを輸出する関係を築くのがいい。人口が減っても社会を回す技術は、これから価値の源泉になるだろう。都市の縮退設計、老朽インフラの更新、労働力が減っても回る行政の仕組み、製造の自動化、エネルギーの安定供給。こういう地味だが強い技術を、欧州と一緒に標準化していくのだ。標準を握ると輸出は楽になるし、相手国の制度の中に日本の強みが入り込む。日本型同士は「同じ悩みを持つ連合」になれる。地味だがパンチがある取組ができると思う。
タイ型の国とは、付き合い方を二層に分けるのが良い。ひとつは現実の隣国としての関与だ。そして、もうひとつはリスクの遮断だ。まず、関与は必要だ。相手の不安定化が日本のサプライチェーンや安全保障に直撃するからだ。ただし遮断も徹底する。技術・資本・人材・情報のどこを渡し、どこから先は渡さないかを決めるのだ。感情論ではなく、産業政策として線を引く。そして依存は落とすのが良い。ただ全面断絶は避ける。どの展開でも致命傷を負わない設計に寄せる。これが現実的な取組だと思う。
アメリカ型の国とは、同盟を核にしつつ、同盟一本足をやめるのが良いと思う。米国は中核でいい。だが唯一の軸にはしないのだ。民主主義国家は内向きの優先順位を強めることがある。これは裏切りではなく自然な振る舞いだ。だからテーマ別の束を増やすイメージを持つ。防衛は防衛、サイバーはサイバー、重要鉱物は重要鉱物、先端半導体は先端半導体。束ね方を分散するのだ。これは米国が揺れても揺れなくても効くだろう。むしろ同盟を長持ちさせるやり方だと思う。
新興途上国型の国とは、「援助」ではなく「産業同盟」として向き合う。人口が増える国は市場も増え、人材も増える。だから若者の雇用を生む産業を一緒に作り、そこで日本の企業が稼ぎ、同時に日本の供給網を強くするイメージだ。インドのような巨大市場とは、投資・製造・デジタルの三点セットで長期の産業同盟を組む。アフリカの若年国とは、いきなり全部を狙わず、港湾・電力・通信・物流の回廊だけを押さえる。時間はかかるが、10年単位で見れば伸びしろが十分にある。日本が成長を目指すなら、結局ここが外需の目玉になる可能性が高い。
ここでロシアはどう扱うべきかを補足する。ロシアは4つの分類にきれいには収まらない。人口は減り、経済は中所得止まりだ。高齢化も進む。ここまではタイ型に近い。だが資源、とくにエネルギーがあることで延命できている。だからロシアは「資源で粘る変形タイ型」として見た方が現実に近いと思う。協調対象ではない。だが市場価格と不安定性を左右する外部変数として無視もできない。結論はシンプルで、「主力にしない。だがゼロ前提にも置かない」。エネルギーで言えば、オプション価値は残すが、ベースロードにはしない感じだ。
(国内の分類と沖縄の方向性)
そして、ここからが面白い。国内に目を向けると、わたしたちはすでに日本の中に「世界の縮図」を持っているのだ。東京、大阪、福岡のように人口流入が続き、若年層が一定数いて、インフラは拡張・高度化がテーマの地域がある。一方で、人口減少と高齢化が先行し、インフラを作るよりどう維持するかが核心の地域もある。沖縄、北海道、東北、四国、中国地方。この「タイ型の国内版」は、実は弱さではない。ここは世界の10年後を先に生きているからだ。その中で、最後は沖縄に注目してみる。
沖縄が特殊なのは、離島が多く、台風・塩害・高温多湿、観光で季節変動が激しい、財政制約が強い、中央から遠い、という条件が重なっていることだ。つまり「資金が潤沢ではない」「自然条件が厳しい」「人が足りない」という三重苦の中でインフラを回してきた。これは東南アジア、島嶼国家、沿岸国、中所得国が直面している条件とピシャリ重なる。だから沖縄のインフラ企業のノウハウは、タイ型の国に輸出できるのだ。ここは机上の空論ではなく、現実に成立しうる勝ち筋だと思う。
ただし、輸出するのは設備そのものではない。運用ノウハウだ。本土の思想のように完璧を目指さない設計。人が少なくても回る運用。壊れない品質よりも、台風や災害などで壊れてもすぐ戻す発想。小規模分散型の思想。巨大集中ではなく、小さく分けて繋ぐ。こういう「止めずに回す」知恵の方が、タイ型の国には価値が高い。
この文脈で沖縄電力のノウハウを一つの商品に見立てると、さらに面白く見える。本土の電力会社は巨大連系系統を運用している。一方で沖縄電力は独自系統を運用し、離島では超閉鎖系のEMS(エネルギーマネジメント・システム)で電力を回してきた。有人離島が多く、系統が小さく、条件が厳しい。だからこそ、再エネ・蓄電池・需要制御を含めた「運用の組み合わせ」で電力を止めない経験がある。しかも海外での実証も動いている。これは思想ではなく、すでに行動レベルの実証ができているのだ。
今後、ヒューマノイドが普及し、AIが爆速で活用されるようになると、半導体と電力がとても重要になる。そうなると、電力会社の価値は再定義されるだろう。電力はkWhではなく、計算能力を動かす血流そのものになるからだ。止まらないこと、分散していること、何かあった場合は即復旧できること。この条件は、ロボットが増えるほど重要になる。沖縄電力はこの「止めない」を、構造として経験しており、タイ型の国に最も適した形式でノウハウを蓄積してきた。
ここに近未来に時間軸を伸ばせば、ヒューマノイドが普及していく。ただし、誤解しやすい点がある。ヒューマノイドによって、O&M(保守と運用)人材が不要になるのかだ。わたしは、そうはならないと思う。消えるのは作業員としてのO&M人材だ。点検する、修理する、操作する。この身体労働は置き換わる可能性は高い。しかし確実に残る、或いは足りなくなる人材に設計・統合・判断が可能なO&M人材だ。どこにロボットを入れるか決める。どの系統をどう切り替えるか判断する。災害時に何を優先するか決める。未整備エリアでそもそもどう回すかを設計する。ここは2030年頃でも人間がボトルネックになりやすい機能だと思う。
今後、日本が沖縄電力のように、これまで培って来たインフラの設計、調達、建築、運用、メンテナンス(EPC・O&M)はタイ型のエリア、そしてその先には新興途上国型で需要が高まっていく。従って、海外に出てプロジェクトを進める技術者と事務系職員は、直近5年から10年位は不足するだろう。上述の通り、ヒューマノイドには未だまだ、任せることが出来ないからだ。海外×未整備×制度未完成の現場故に、人が必要なのだ。技術と判断と交渉を同時にできる人は、育成にも時間がかかる。だから2025年から2035年は「人間が一番高い時代」になるだろう。ロボットが来る前の最後の人材プレミアム期なのだ。
私が電力会社のトップ、特に沖縄電力はだったら、海外EMS/O&Mの専門チームを別枠で作るだろう。本社の人事の論理から切り分け、海外前提の評価制度にするのだ。育成対象を「10年で消える仕事」から切り離し、システム設計・判断・統合の人材に集中する。ヒューマノイド前提でO&Mそのものを再設計し、人は意思決定を主な役割にする。そして海外に出るなら、商社と組むのが現実解だと思う。商社が案件化と資金と政治と横断調整を担い、沖縄電力が設計思想と運用モデルと人材育成とO&Mを担うのだ。その意味で電力会社が主役の座組みを許容できる商社選びが大切だ。海外での収益は、国にあの収益のように国から注文をつけられ電力コストを引き下げる要因にする必要はない。そのため、しばらくは海外で得た収益は、海外で稼ぐ人員の給与に直接つなげることで、はじめは沖縄電力の社員、徐々には他の電力会社で5年から10年程度でインフラの世界普及に従事したい人材を通年で確保していくのだ。
この流れで見ると、沖縄のインフラ運用知の輸出は、地方創生の枠組みではない。日本の未来モデルの輸出実験になると思う。人口減少時代に「止めずに回す」技術は、これから世界で値段がつくだろう。沖縄は日本の中で最も早く世界の未来を経験している地域のひとつなのだ。だから沖縄の会社は、タイ型の国にとって教科書になりうる。問題は「それをどう事業に落とすか」だけだ。
治療か予防か、今後の医療のあり方の考察
2026年2月18日
早嶋です。治療か?予防か?思想としては、治療を維持しつつ、制度そのものを予防にシフトしていくことが理想だと思う。約4,900文字。
(医療は「治す産業」か)
医療の目的は、治療だろうか。少し挑発的な問いだが、医療業界の批判をしたいわけではない。むしろ逆で、医療の重要さを前提に、その構造を検証したいと思う。
医療の中心は、「治療」にある。診察、検査、手術、投薬。いずれも病気が発生した後に行われる行為であり、そこに診療報酬が発生する。制度としても、評価としても、治療行為が中核だ。もちろん、予防も存在する。健診、ワクチン、生活習慣指導等。だけど、産業全体の重心は、やはり発症後の対応にあると言わざるを得ない。
ここで一つの仮定を置いてみる。もし社会全体が本当に健康になり、重篤な疾患が大幅に減少したらどうなるかだ。医療費は下がり、国民の生活の質は向上するだろう。しかし同時に、多くの医療機関の収益は縮小する。この事実は、誰かの悪意を意味するものではない。医師が病気の発生を望むはずがないことは明白だ。ただ、制度設計上、報酬は「治すこと」に厚く置かれている。インセンティブは行動を方向づける。善意とは無関係に、構造は産業の重心を決めるのだ。
冷静に整理すると矛盾が浮かぶよね。医療は社会に不可欠な公共的存在。しかし同時に、経済的活動でもある。公共性と事業性が同居しているのだ。この二面性が、医療を複雑にしている面もあると思う。さらに踏み込めば、医療は誰のものなのかという問いにも行き着く。国家制度である以上、国家のものでもある。高度な専門性を有する以上、医師の領域でもある。命を預ける以上、患者のものでもある。そして今後、データが統合されAIが浸透すれば、プラットフォームの論理も入り込むだろう。
技術は進化し、創薬は加速し、診断は高度化するだろう。しかし、制度の重心が変わらなければ、医療は引き続き「発症後の最適化」を意図することになる。医療を否定したいのではなく、敬意を持っている。その上で整理した。治すことの先にある「病気にならない社会」を本気で設計するか、既存の枠組みの中で最適化を重ねるかを。
(インセンティブの向き)
医療の重心は発症後にあると整理したが、なぜそうなるのだろうか。答えは感情ではなく、設計にある。診療報酬は行為に対して支払われる。診察、検査、処置、手術、投薬。それぞれが点数化され、積み上がる。これは極めて合理的な仕組みだ。行為を可視化し、標準化し、全国で公平に運用するために考えられ精査されてきた。日本の医療制度が安定している理由の一つでもある。
ただ、その設計は明確な方向がある。それは、報酬は「行為」に対して払われることだ。「起きなかったこと」には払われにくい。例えば、生活習慣の改善によって発症を防いだ場合。地域の啓蒙活動によって重症化を抑えた場合。データ連携によって早期に兆候を拾った場合等だ。もちろん評価はされるだろうが、構造の中心にはなりにくい。インセンティブの観点からみても、この差は小さくない。
冷静に考えれば、制度はその社会が重視する行為に報酬を置くものだ。つまり、今の医療制度は「治すこと」に厚く報酬を置いているのだ。繰り返すが、批判ではなく現実の設計の話に焦点をおきたい。現場を見ると、その構造はさらに具体的に見えてくる。
例えば、こんな場面は珍しくない。町のかかりつけ医で血液検査をする。肝機能の数値が高いとか、腫瘍マーカーが少し気になるとか。そこで、念のためCTも撮る。その結果、「一度、大きな病院で詳しく診てもらいましょう。」となり、紹介状を持って基幹病院へ行く。受付で説明し、問診票を書き、診察室に入る。
そこで言われる。「では、もう一度血液検査をしましょう。」「CTも当院で撮り直しますね。」と。患者からすれば、こう思うだろう。え?昨日もやりましたよね?って。
だが、基幹病院の立場はこうだ。自院の責任で判断する以上、他院のデータだけで確定するわけにはいかない。万が一の見落としは許されない。訴訟のリスクもある。機器も違う。基準値も微妙に違う。結果として、同じような検査が繰り返されるのだ。しかし、患者の一生という視点で見るとどうかだ。時間も費用もかかる。精神的な負担も増える。医療資源も二重にも三重にも消費される。誰かが間違っているわけではないが、制度の前提が「自院完結」に置かれている点が問題なのだ。
再び、冒頭に示した問いに戻ると、「治す」ことの延長線上で最適化を続けているのか。それとも「病気にならない社会」を構造から設計しようとしているのか。の思想は、今後の医療制度をどのようにするかに大きな影響を与えるだろう。
(善意の集積が構造を強化する)
医療の世界は、善意の集積でできていると思う。目の前の患者を救おうとする医師。安全を最大化しようとする病院。公平性を担保しようとする制度設計者。部分を見れば、どれも正しい。その善意が時間をかけて業界の構造そのものを強くしてきた。
例えば、基幹病院で検査を撮り直す判断だ。安全を最優先にすれば、合理的だ。自院で確認しないという選択は、医師にとって大きなリスクになるからだ。ただ素人的には、データを完全に共有すればよいのではないかと思うのだ。おそらく、理屈としてはその通りだと思うが、そこにも大きな壁があるのだ。
その場合、責任の所在は誰になるのか?機器の違いをどのように吸収していくか?診療報酬はどのように扱っていくか?情報漏洩のリスクをどのように管理するか?などだ。このような問いを解き進める医療機関は多いと思うが、1つとくとまた別の問題が立ち上がる経験をする中で、現状維持が最も合理的な行動となる判断をしていると思うのだ。
この構造は、医療に限らない。色々な部門最適から全体最適の制度変更で観察できる。しかし、医療は命を扱う分、変化へのハードルが極めて高いのだ。そして、興味深いのは、「変えない」という選択もまた合理的だということだ。制度を変えれば、摩擦が生まれる。すると現場は混乱する。一時的に安全性が揺らぐ可能性もある。それなら、いまの仕組みを磨き続ける方が安定的だと。
この判断は、間違っていないとも思う。しかし、その合理的判断の積み重ねが、発症後中心の構造をより強固にしているのも事実だ。善意が、構造を補強する。これが難しいのだ。
例えば、医療者は日々の診療に追われている。目の前の患者を救うことが最優先だ。その中で、長期的な予防設計やデータ統合の議論に時間を割く余裕は限られている。制度設計側も同じだ。財政の持続性、地域格差、医師不足。対応すべき課題は山積みだ。その中で、「病気にならない社会の設計」という抽象度の高い議論は後回しになってしまう。誰もサボっていないし、誰も無関心ではないのだ。だが、悲しい事に構造は変わらず強化される一方なのだ。
もう一つ重要な視点がある。それは、医療の権威性だ。医療は高度な専門領域だ。通常、一般の人が容易に口を出せる分野ではない。それは当然だし、必要なことだと思おう。しかし、専門性が高い分、外部からの疑問は入りにくい。「現場を知らない人が何を言うのか」という雰囲気が濃い。当然の自然な反応なのだ。
しかし、繰り返し問うているのは現場批判ではない。構造設計の話だ。この違いを理解しない限り、議論はかみ合わない。
(構造を揺るがす技術革新)
ここまで見たように、医療の構造は善意と合理性の積み重ねだ。だから強固で簡単に変わらない。ただ、この構造を揺らすモノが出てきた。制度改革、財政圧力、人口減少とあるが、もっと無視できない要素だ。それがデータとAIだ。
医療の世界では、すでに多くのものがデータ化されている。血液検査の数値、画像診断、処方履歴、電子カルテ。創薬も分子レベルで設計され、シミュレーションが爆速で進む。薬の世界は、ある意味で極めてデジタルだ。化学式が決まれば、同じ品質のものを大量に再現できる。一度承認されれば、全国どこでも同じ薬が処方される。ここは工業の論理が通用する。
一方で、医療機器や材料、そして診療の現場には、まだ多くのアナログが残っている。触診の感覚。経験に基づく判断。微妙なニュアンス。言語化されていない暗黙知だ。ただ、今後AIが本当に揺らすのは、この領域だ。
名医の勘は、どこまでデータ化できるのか。診断のばらつきは、どこまで標準化できるのか。地域差は、どこまで縮められるのか。もし暗黙知が形式知に変われば、医療の重心は少しだけ動きはじめるだろう。
例えば、かかりつけ医で取得したデータが、基幹病院と完全に連携し、AIがリスクを補正し、責任分担が明確になれば、検査の二重化は減るかもしれない。もし生活習慣データやウェアラブルデータが統合され、発症リスクが事前に可視化されれば、「治す前」の介入が中心になる可能性もある。ここで初めて、「病気にならない社会」の設計が現実味を帯びはじめるのだ。
ただし、ここでも問いは残る。AIが診断補助をしたとき、責任は誰が持つのか。データを統合したとき、管理者は誰になるのか。プラットフォームが医療の入り口を握ったとき、医療は誰のものになるのか等々だ。
技術は確実に構造を揺らす。だが、その設計を変えるのは人間だ。AIが入ることで、医療はより効率的になるかもしれない。だが同時に、権限の所在や責任の分配を再定義しなければならなくなる。ここまで来て、最初の問いが再び重みを持つのだ。医療は、治療を前提とする産業のまま定義して良いのか?だ。それとも、データと技術を梃子にして、病気を減らす社会へと重心を移すのかだ。
この選択は、単なる技術論ではない。思想の問題だ。
(医療は誰のものか)
ここまでの整理は、医療批判ではない。むしろ逆だ。医療がいかに真面目に、合理的に、そして善意によって支えられてきたかを確認してきた。その積み重ねが、いまの安定した制度を形づくっている。だからこそ、問いは重いのだ。
医療は、誰のものなのか。
国家の制度の中にある以上、国家のものでもある。高度な専門性を有する以上、医師の領域でもある。命を預ける以上、患者のものでもある。そしてデータが統合され、AIが診断や創薬に深く関与するようになれば、プラットフォームの論理も入り込む。
どれも正しい。だからこそ、簡単ではないのだ。医療は公共財である。しかし同時に経済活動でもある。この二面性は消えない。ならば重要なのは、どこに重心を置くかだ。発症後の最適化を磨き続けるのか。それとも、発症前の設計に本気で舵を切るのか。
前者はこれまでの延長線上にある。制度も評価も整っている。安定している。後者は設計思想の転換を伴う。報酬体系も責任分担も変わる。摩擦は避けられない。
だから難しい。
しかし、人口減少と高齢化が進み、医療費の持続可能性が問われる時代において、「治す」だけを前提に最適化を続けることが本当に合理的なのかは、改めて考える必要がある。データとAIは、その問いを現実に引き戻す力を持っている。
暗黙知が形式知に変わる。地域差が縮まる。発症リスクが事前に可視化される。そのとき、医療は単なる「治療の体系」ではなく、「健康を設計する体系」へと変わる可能性がある。ただし、技術だけでは変わらない。設計を変えるのは、人の意思だ。
インセンティブをどこに置くのか。責任をどう分配するのか。データを誰が握るのか。これらは思想の問題だ。私は医療の専門家ではない。しかし、一人の生活者として、一人の事業に関わる人間として、日本はこの問いを避けることはできないと思っている。医療は、治す産業のままでよいのか。それとも、病気にならない社会を設計する産業へと進化するのか。答えはまだ出ていない。
ただ、この問いを共有すること自体が、構造を少しだけ揺らす力になるのではないかと思う。そして、その揺らぎの中から、新しい設計が生まれるのだとすれば、いまはその入口に立っているのかもしれない。
統合思想なきDXは、必ず分断する
2026年2月17日
早嶋です。約3200文字。
企業のDXには、大きく分けて2つの型がある、自前型と依存型だ。
自前型は、自社の中にITやシステムの専門家がいて、あるいは外部の力を借りながらも徐々にDX部隊のような組織を内製化し、設計思想を自分たちの中に取り込んでいく組織だ。
依存型は、IT部門があっても、その中身は出向者や委託会社で成り立ち、システムの設計思想も意思決定も外にある組織だ。
この違いは、技術力の差ではない。ポイントは2つあり、意思決定権の所在が内側か外側がであることと、DXにおける設計思想を、誰が握っているかだ。20年近く、大手の現場を垣間見ながら色々な戦略整理と問題解決の伴走支援を取り組んできた。DXを競争優位の源泉にして成功している企業は、自前型だ。意思決定と設計思想を強烈に持ち、実行しながらブラッシュアップしている。(※典型的な企業の情シス事業についてはこちらを参考に)
直接の関与はないが、福岡銀行は、DXという点でかなり進んでいると思う。最初はIBMのような外部パートナーを大胆に入れながら、単なる委託で終わらせず、ノウハウを内部に取り込み、子会社をつくり、徐々に内製化していった。今でも外部のプロを適宜活用する組織体制ではあるが、システムの設計思想も意思決定も確実に福岡銀行が主導だ。その結果、生活者目線のアプリは使い勝手がよく、アップデートも速い。裏側には、APIやデータ統合を前提とした思想があるのだろう。
一方で、巨大組織になるほど難しくなるのも理解できる。このような組織は、個別には超優秀な人材が点在している。しかしグループ全体を俯瞰し、統合思想をマネジメントできる構想者がほとんどいない。仮に居たとしても、その人に意思決定の権利がほとんど無いし、発言権も実際は無いようなものだ。その結果、システムは分断される。今では随分と改善されていると思うが、長らくJR九州のアプリ予約は最低な顧客体験を提供していた。アプリで予約しても、改札で発券が必要な意味不な使用体験を平気で実装していたのだ。これはまさに典型で技術がないのではなく、思想と意思決定の権利が追いついていなくて、分断した取組しか出来なかったと推測する。
早嶋はDXの本質は目的に尽きると思う、つまり戦略そのものだ。もし、DXを生産性向上、つまりコスト削減を目的にするなら、既存SaaSを導入すればいいし、RPAで人手を減らせば良いとなり兼ねない。それでも一定の成果は出るだろう。しかし競争力を高めたいのなら話は別だ。顧客体験や業務構造そのものを再設計する必要があるからだ。その際、設計思想と広域な意思決定件がなければ部分最適の積み上げになってしまい、連携が取れず顧客体験が最低になってしまう。
ここ3年で時代が変わった。専門的なAIを駆使する必要もなく、汎用AIが高いレベルで活用できるようになったのだ。今後のDXは、目的を競争優位性の確保とし、AIを活用して進める局面に入ると思う。まだ仮説だが、その構想を以下記述する。
従来のSaaS一辺倒の導入から、現場単位のスクラッチ開発から、徐々に統合していくモデルに再び理想の軸が触れると考える。まずは業務単位で小さな成功をつくる。そして、現場が「これは使える」と実感する雰囲気を演出する。そのうえでデータ統合のレイヤーを構築し、全体最適の構想を常に描き続け実装するのだ。そして共通モジュール化を進め、最終的には他地域や他業界に展開できる形に昇華させる。最初からSaaSで押し込むのではなく、結果としてSaaSにする構想だ。
ガソリンスタンド、レンタカー、メンテナンス、フィットネス、建築、コンビニや携帯店舗や飲食などのFCモデル。これらは、どこにでもある事業だが、実際に現場に入ってみると、まったく同じ会社は1つもない。立地が違えば顧客層が違う。商圏が違えば在庫の回転も違う。店長の癖や職人の段取り、長年の取引先との関係性まで含めて、その会社のやり方、独自ルールのオンパレードだ。
こうした現場に、いきなり巨大SaaSを入れるとどうなるか。標準化という名のもとに、現場の微妙な調整が削ぎ落とされる。すると現場は「使いにくい」と言い始める。やがて裏でエクセルが走り出すのだ。結局、二重管理になってしまい、期待するほどコストは下がらない。むしろSaaSのサブスク料金が従来の取組にアドオンするという不明な状況が構築できるのだ。しかし、経営層はDXが進んでいると勘違いして、現場は5年、10年前との変化を実質的に感じないのだ。
だからこそ、最初の一歩は違うアプローチが必要だ。現場に入り、業務の流れを一緒に観察する。「どこで時間を取られているのか」「どこで判断に迷っているのか」「どこが属人化しているのか」。現場の声を多方面から聞きながら、現場で起きている現象を構造化して整理する。そして、その一部分から、小さく実装してみるのだ。
いまは汎用AIがある。GPTでもGeminiでもいい。画面設計も、簡単なロジックも、データベース設計も、プロトタイプなら数日で形になる。以前のように半年かけて要件定義書を書き込む必要はない。仮説を立てて、試しにつくり、現場で触ってもらい、修正する。このサイクルを高速で回すのだ。
重要なのは、現場の声をそのまま全部実装することではない。現場が感じている不便さの奥にある構造を見つけることだ。例えば「在庫管理が大変」という声の裏には、リアルタイムで数字が見えていないという問題があるかもしれない。「シフト調整が面倒」という声の裏には、繁忙時間帯のデータが共有されていないという構造があるかもしれない。
その構造を抽象化し、モジュールとして設計する。顧客管理モジュール、在庫管理モジュール、要員配置モジュール。最初は一店舗、一拠点で使う前提でつくるが、データ設計だけは将来の統合を見据えておく。IDの持ち方、APIの出口、ログの取り方。ここをきちんと設計しておけば、後から横につなげられるからだ。
こうして、現場の声を起点にしながら、小さくつくり、高速に回し、徐々に共通化していく。最初から「業界標準」を押しつけるのではなく、現場から抽象化された標準を生み出す。この順番が重要だ。業務ごとにモジュール化し、それらをAPIでつなぎ、データ統合レイヤーを後からかぶせる。以前なら大掛かりな基幹刷新が必要だったことが、いまは段階的にできる。だから、このアプローチは十分に現実的だと思っている。
巨大SaaSで一気に塗り替えるのは昔の話になったかもしれない。AIが活用できる今だからこそ、現場で試し、磨き、統合するのだ。その繰り返しの先に、結果としてSaaSを立ち上げる。この順番を間違えないことが、AIを活用した取組では無いだろうか。
成功の鍵は明確だ。業務を理解しないまま設計するエンジニアに任せないことだ。現場の声をそのまま全部入れるわけではないが、現場を無視した設計は必ず破綻する。構想者は、現場の要望の背後にある構造を読み取り、抽象化し、将来の統合を見据えて設計するのだ。
当然に、IT業界の資質がかわる。今後は、人月を積むことでの価値は減少する。能力として、セキュリティを前提とした設計力、データモデルの統一、APIの思想、そして将来拡張を見越したスケーラビリティの想像力が必須になると思う。少数精鋭とは、単にコードが速く書ける人ではない。クライアントの業務構造とデータ構造を同時に描ける人だ。
DXとは、おまじないではなく、企業の戦略に紐づいた取組だ。誰が統合思想を握るか。経営か、現場か、外部の伴走者か。ここを曖昧にすると、どれだけAIが進化しても、部分最適の山が蓄積するだけで現場は混乱するだけなのだ。
フグレンコーヒーと日本と東京
2026年2月13日
早嶋です。約2300文字。
フグレンコーヒーをご存知だろうか。
ノルウェー・オスロ発のカフェブランドだ。1963年創業。もとは小さなコーヒーショップとして始まった。ノルウェー語で「鳥」を意味する「フグレン」。その名の通り、ロゴには渡り鳥が赤く描かれている。やがてブランドは再構築され、北欧ヴィンテージ家具とスペシャルティコーヒー、そして夜にはカクテルバーへと姿を変える二面性を持つ空間へと進化した。
コーヒーショップから始まり、空間を商品として、時間の過ごし方を提案するノルウェーブランドだ。
現在はノルウェー本国に加え、日本、韓国、インドネシアなどに展開している。店舗数は世界で十数店舗規模で小さい。ただし、その展開がユニークだ。急拡大するチェーンではなく、直営を基本とし、世界観を崩さないことを最優先にしている。広告で拡散するのではなく、じわじわと確実に浸透させる。空間を商品としている理由は、家具の販売だ。勿論、豆の販売も、空間にフォーカスしたグッズ販売もある。しかし、フグレンコーヒーが提供しているのは、「北欧の時間」をその土地に提供しているのだと思う。
経営は非公開であるため、売上や利益の詳細は開示されていない。そこで業界水準から推測する。都市型スペシャルティカフェの客単価は900円から1,400円程度だ。顧客の幅は、1日200人から800人程度で、年間約360日営業とすれば、1店舗あたりの年商は概ね6,000万円から2億5,000万円程度のレンジだ。立地が強ければ3億円台も可能だ。
日本には東京を中心に複数店舗があり、神奈川、京都、福岡に展開している。仮に直営6店舗が平均1.5億円の年商と仮定すれば、直営合計で約9億円。さらに焙煎・卸・EC・物販を加味すれば、日本事業全体で12億円から18億円規模という推測は現実的だろう。巨大企業ではないが、文化ブランドとしては十分なスケールだ。
ところで、フグレンコーヒーは、なぜ日本を選んだのだろうか?
理由は単純だが深いと思う。北欧の世界観が、世界で最も正しく評価される市場が実は日本なのだ。日本は「デザインを消費できる国」だ。単に機能や価格ではなく、背景や思想に価値を見出す傾向がある。静けさ、余白、ミニマリズム、経年変化といった概念を理解する文化的素地が既にあるからだ。北欧ブランドにとって、日本は売上市場であると同時に、審査市場でもある。日本で受け入れられれば、世界で通用するという一種の認証が得られるのだ。
さらに、日本は小規模ブランドが戦える数少ない先進国市場でもある。アメリカは巨大であるが競争が過密すぎる。欧州は文化的親和性はあるが市場規模が小さい。新興国は単価が合わない。その中で日本は、単価が成立し、文化消費が成熟し、かつ多様なブランドが共存できる稀有な市場なのだ。
そして何より、日本は丁寧な直営展開が可能な国だ。スタッフ教育の水準(国民のベース素養)が高く、空間の設計思想を確実に守ることが可能だ。急拡大よりも世界観維持を優先するフグレンの経営哲学と相性が良いのだ。
その結果、日本は単なる海外拠点ではなく、アジア展開のハブとなる。ノルウェーから直接アジア各国へ飛ぶよりも、日本でブランドを確立し、その信用を持って広げる方が合理的なのだ。日本で成立した北欧ブランドは、アジアでも通用する。そうした戦略的意味を持っていると思う。
ここで比較対象として、スターバックスを挙げてみよう。
スターバックスは飲料(砂糖と牛乳と少しのコーヒー)企業であり、オペレーションの標準化とスケール拡大を武器に展開する。サードプレイスを提供する戦略がはまり世界中に展開しているが、実際は沢山のメニューから、何を飲ませるかが中心にある。一方、フグレンはどんな時間を過ごすかを販売しようとしている。回転率ではなく滞在価値。標準化ではなく個性。拡大しないことが強さになるモデルだ。つまり大企業は模倣出来ない対局だ。
スタバは既に生活インフラになっていて、特別と言いながらも大衆より少しアッパーの日常になっている。一方で、フグレンは文化インフラとしての挑戦を始めたばかりだ。規模は全く比較にはならないが、思想は対照的でとても興味深い。
そんなフグレンが、なぜ福岡に2店舗目を出すのだろうか?地方都市は他にもある。札幌、仙台、金沢、広島、岡山、熊本、鹿児島等々。しかし福岡は別格と見たのだろう。
福岡は若い。人口が増え、転入超過で、感度層の密度が高い。都市がコンパクトで、カルチャーが歩いて繋がる立地だ。そしてアジアに最も近い大都市であり、国際都市としてのポテンシャルは古代からミャクミャクと続く。海外から見れば、福岡は「第二の東京候補」に映る可能性があるのだ。
博多駅周辺は交通の結節点であり空港も近く、ブランドの入口となる。観光客やビジネス客に触れる場所だ。一方、赤坂・けやき通りエリアは生活圏であり、文化圏だ。大濠公園や美術館に近く、静けさがあり、都市の中に垣間見られる生活の空間が隣接する。繁華街から少し離れた余白のある立地。フグレンの思想と重なったのだ。
1店舗目が認知を作り、2店舗目が根付かせる。東京の展開を見ていると、おそらく3店舗目と複数展開を福岡でも視野に入れている可能性があると思う。店舗数をKPIに置いた展開ではなく、自社のブランドを確立しながら戦略的な配置行為を行うような感覚が見て取れる。
日本という市場でブランドを磨き、福岡という都市で文化を定着させる。おそらく、その次のステージで、アジアへと視線を伸ばすのではないだろうか。海外の目線から見たとき、福岡は単なる地方都市ではなく、既に東京に次ぐ拠点候補として映っているのだ。
オーバーツーリズムの課題は都市設計の不足
2026年2月9日
早嶋です。約3,000文字です。
日本は、海外からの観光客を増やそう!とか、インバウンドの需要で経済を回そう!と連呼している。実際、日本を訪れる外国人は年間約4,000万人規模に達し、旅行消費額は8兆円を超えている。自動車や半導体に並ぶ外貨獲得源と言ってもよい規模だ。ただその数字の裏にはどこの国も辿ってきた、そして似たような問題があるのだ。
まずは、先進国の問題と解決状況をみてみよう。ヨーロッパの観光都市は、日本よりも先にこの局面を経験し現在進行系で対応している。
バルセロナでは、観光客向け短期賃貸が増え、住宅が投資対象になった。家賃は上昇し、元から住んでいた人が住み続けられなくなっている。観光が地域経済を潤す一方で、生活者が退出していく構図が生まれる。結果として市は、2028年までに観光用アパートメントを実質禁止する方向へ舵を切っている。ここに至るまで実に10年以上も抗議や裁判、政治的議論が続いた。
ベネチアでは別の形で限界が露呈した。日帰り観光客が集中し、公共空間が生活空間を飲み込んでしまった。そこで市は2024年から日帰り客に入域料を課す実験を始めた。クルーズ船も歴史地区近くへの入港を制限した。これも一気には決まらず、長い時間をかけて段階的に動いていて、解決の糸口は現在新進行形だ。
アムステルダムでは観光客増による迷惑行為や混雑が問題化し、新規ホテルの増設をほぼ止める政策を導入した。観光は増やす対象ではなく、「都市の住みやすさの範囲内で管理する対象」へと位置づけが変わっている。2035年を一つの節目とした長期の見直しがまさに進み始めている。
どの都市も、観光を否定したわけではないが、ある地点を越えたとき、観光は経済の話ではなく、都市設計の話になることを認識したのだ。
日本でも同じ兆候が出始めている。元々そこに住んでいた人が住み続けにくくなってきた。通勤や通学の足が混雑で使いにくくなる。ゴミが増え、街の管理コストが跳ね上がる。路上飲食や騒音など、日常のルールがゆるみ、自然景観が摩耗していくのだ。
ただ、これは観光客のマナーの問題にすり替えてはいけない。観光客が「悪い人」というのは議論が浅い。真因は、観光客を呼ぶだけよんで、都市の容量を増やす調整や発想がそもそもないことだ。道路の幅は変わらない。ゴミ処理能力も急には増えない。住宅の供給もすぐには追いつかない。それでも観光客は流動的なので、急に増える。企業で言えば、設備も人員も増やさずに売上だけが倍増したようなものだ。どこかが破綻するのは当然の結末なのだ。
シンガポールやスイスが興味深いのは、この順番が逆な点だ。観光客を呼ぶ前に、生活のルールと空間の設計を先に想定している。
シンガポールでは、住宅の短期賃貸は原則として厳しく制限されている。一般的な住宅は3か月未満の短期滞在用途で貸すことができない。観光需要がそのまま住宅市場に流れ込まない構造を先に作っているのだ。観光は歓迎するが、「住む場所」と「泊まる場所」は制度で分けられている。これは観光政策ではなく、都市計画と住宅政策の領域で決められている点が象徴的だ。さらに、街の設計思想もはっきりしている。観光拠点は商業・MICE・エンターテインメントエリアに集中させ、住宅地区は静穏性を優先する。観光客が多いエリアと生活エリアを自然に分ける都市構造になっている。
スイスも似ているが、焦点は住宅より自然環境だ。アルプスの観光地では、交通流入を管理する仕組みが普通に議論される。ラウターブルンネンのような渓谷地域では、観光客の急増を受けて入域課金の検討が進められたことがある。ゼルマットのような観光地では、街の中心部は原則自動車の乗り入れを制限し、交通そのものを設計している。自然が観光資源である以上、「景観が摩耗する前に止める」という考え方が制度に織り込まれている。
どちらの国も共通しているのは、「観光を止める」のではなく、「ここまでは許容できる」という線を先に引いていることだ。住宅に線を引いたのがシンガポールで自然環境に線を引いたのがスイスだ。そのルールがあるから、観光を歓迎できる。観光客が来てからルールを作るのではなく、観光客が来る前に、都市がどこまで耐えられるかを考えて対策しているのだ。
この順番の違いが、後になって大きな差になっていく。日本の課題は、観光が増えたことではなく、観光を都市政策として扱っていないことなのかもしれない。観光税はあるが、市町村ごとにバラバラで、使い道が見えにくい。住民の生活環境の改善に使われている実感が薄い地域もある。民泊は制度化されたが、「住宅を守る」という視点はまだ弱い。観光客数の目標はあるが、「この都市がどこまで受け入れられるか」という上限の議論はあまり見ない。拡大の議論はあるが、容量の議論が少ないのだ。
これは観光の問題に見えて、実は都市経営の問題だと思う。市場が広がることは良いことだが、市場は、社会の上に存在している。社会が持つ容量を超えて市場だけを拡大すると、摩擦が起きる。当然だ。そして、その摩擦は、まず住民の生活に影響を与える。ヨーロッパの都市が制度を動かすまでに10年以上はかかっている。抗議も、政治的摩擦もあった。それでも動かざるを得なかったのは、生活が揺らいだからだ。日本はいま、ちょうどその手前にいるように見える。
観光を歓迎することと、人が暮らせる都市を守ることは、本来対立するものではない。ただ、設計がないと両立しない問題だと思う。観光客4,000万人という規模に入った今、さらにその目標を高めるのであれば、この設計をどう整えるかは、観光政策というより、都市の未来をどう描くかという話に近いのかもしれない。
日本政府観光局(JNTO)「訪日外客統計(訪日外客数)」 https://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/
観光庁(国土交通省)「訪日外国人消費動向調査」
https://www.mlit.go.jp/kankocho/siryou/toukei/shouhityousa.html
Comune di Venezia(ベネチア市)“Contributo di Accesso alla Città Antica”
https://cda.ve.it/en/
Ajuntament de Barcelona(バルセロナ市)観光住宅規制関連政策資料
https://ajuntament.barcelona.cat/
City of Amsterdam “Tourism in Balance Policy”
https://www.amsterdam.nl/en/policy/policy-tourism/
Urban Redevelopment Authority (URA), Singapore
https://www.ura.gov.sg/
Swissinfo / スイス自治体関連情報 スイス観光地におけるオーバーツーリズム対策報道
https://www.swissinfo.ch/
Reuters(国際報道) 欧州各都市の観光規制・住宅問題に関する報道記事
https://www.reuters.com/
財政議論がかみ合わない構造
2026年2月6日
早嶋です。約3200文字です。
日本の財政をめぐる議論は、いつも同じ場所をぐるぐる回っている。「財務省は緊縮路線で行くべきだ」と言う人もいれば、「PB(プライマリーバランス)目標が経済を止めている」と批判する声もある。一方で、「国は通貨を発行できるのだから、家計の借金とは違う」といった反論も出てくる。
どれも一理ある。ただ、それぞれが見ている前提も、時間軸も、リスクの置きどころも異なっているだけなのだ。
財政規律を重視する人は、「信認が崩れた後」の世界を見ている。PB批判をする人は、「いま、需要が不足している現実」を見ている。そして、通貨発行権を重視する人は、「制度として何が可能か」を見ている。
本来、これらは互いに補完関係にあるはずだ。ところが実際には、同じ土俵で正解を争おうとするため、話が噛み合わなくなる。そして、その矛先が財務省に向かっていく。
「財務省は緊縮しか考えていない」「頭がいいはずなのに、なぜ分からないのか」といった具合に。
だが、この理解も少しズレている。財務省の中で、「日本は自国通貨建て国債だから破綻しない」という事実を知らない人はいないだろう。それでも彼らが財政規律を重視するのは、「返せなくなること」を恐れているからではない。
彼らが本当に恐れているのは、政策のコントロールが効かなくなることだ。
つまり問題は「破綻」ではない。「制御不能」の状態である。ここで言う制御不能とは、国が借金を返せなくなるという意味ではない。金利や為替といった市場の反応が急変し、政府が「使う・使わない」を自分で決められなくなる状態を指している。
平時であれば、国は状況に応じて財政支出を増減させることができる。だが市場の信認が揺らぐと、「いま景気対策が必要かどうか」といった判断とは無関係に、金利上昇への対応を迫られる。つまり、政策の優先順位を自分で決められなくなってしまう。財務省が恐れる「制御不能」とは、このことだ。
しかし、この「制御不能」という説明が、一般向けに正面から語られることはほとんどない。理由は単純ではない。この話は確率論的で分かりにくく、しかも「どの程度のリスクを許容するか」という価値判断を避けて通れないからだ。官僚は選挙で選ばれた存在ではない以上、その判断を国民に向けて語る立場にはない。
そこで用いられるのが、「国の借金は家計と同じ」という比喩である。この比喩に強い違和感を覚える人も多いだろう。理論的には正しくないからだ。
だが、ここで問題にされているのは正確さではない。家計という比喩は、誰にでも分かる。借金は怖い。収入以上に使い続けるのは危うい。将来にツケを回すのは良くない。そうした感覚を、説明と同時に内面化させることができる。
つまりこれは、事実を厳密に説明するための言葉ではなく、財政規律を社会に浸透させるためのフレームなのだ。内部では市場と金利を見て、外部には生活感覚に近い言葉で語る。説明のためのフレームと、実際の運用フレームは意図的に分けられている。ただ、そのズレの蓄積が、財務省への不信感につながっている。
もう一つ、よく出てくる疑問がある。「財務省は税収が足りないと言うが、なぜ長年続いたデフレにはあまり触れないのか」さらに、「なぜ国家として保有している資産の話をしないのか」という問いだ。
これらについても、財務省が事実を理解していないわけではない。デフレが税収を押し下げてきたことも、国家に相応の資産があることも、彼らは十分に承知している。
それでも、これらの論点が前面に出てこないのには理由がある。デフレを正面から語れば、議論は必ず「需要が足りないのではないか」という方向に進む。需要不足が原因であれば、次に問われるのは「では国はどこまで財政出動をすべきか」という問題だ。これは、PB目標、つまり借金に頼らずに財政を回すという前提と正面から衝突してしまう。
国家資産についても同様である。帳簿上は多くの資産が存在するが、その多くは簡単に現金化できない。売却すれば社会的・政治的な反発が生じるものも多く、財政運営の機動力としては使いにくい。
そのため財務省は、国全体の資産額よりも、毎年確実に使えるお金の流れ、すなわちキャッシュフローを重視する。日々の財政運営という観点から見れば、一定の合理性はある。
ただし、その合理性には代償もある。ストックとしての国の姿が語られなくなることで、国全体の余力や構造が見えにくくなる。結果として、議論は「足りない」「削るしかない」という方向に傾きやすくなる。
こうした状況が続くと、財政の話は次第に「誰が悪いのか」という問いにすり替わっていく。制度や前提の問題であるはずの議論が、いつの間にか官僚個人の姿勢や思想の問題として語られてしまうのだ。
しかし、官僚個人の能力や善悪は、この種の議論から切り離すべきである。官僚は、与えられた法律と制度の中で合理的に動く存在だからだ。ゴールを疑わないのではない。疑うこと自体が、役割に含まれていない。
官僚が前提とする法律や制度は、すべて過去の時代背景の中で作られたいわば「公理」である。そして、日本の財政思想の根底には、戦後の国家設計が関わっている。
戦後日本は、「二度と国家が暴走しない」ことを最優先に設計された。その象徴が憲法9条であり、軍事力の行使を厳しく制限することで、国家が軍事的に拡張していく道を制度として封じた。
さらに、ブレーキは軍事だけではない。財政についても、同様の思想が組み込まれている。それが財政法4条だ。
この条文は、国債の発行を原則として公共事業などの建設的支出に限定し、赤字を補うための国債発行を例外扱いとする考え方を制度化している。要するに、「借金によって国家が肥大化しない」ための歯止めである。
この二つを並べて見ると、戦後日本の国家像が浮かび上がる。日本は、軍事においても、財政においても、国家が前に出すぎないように設計された国なのだ。
したがって、PB重視や均衡財政志向は、最新の経済理論から導かれた結論というより、国家が自らに課したブレーキの延長線上にある。
官僚は、そのブレーキが前提である国家を、ただ忠実に運用しているにすぎない。
だから、日本の財政議論は、経済学の立場の違いとして語ろうとすると、必ず行き詰まる。緊縮か、積極財政か。PBは守るべきか、見直すべきか。そうした問いは重要だが、いずれも、すでに決められた前提の上での議論にすぎない。
本当に問うべき問いは、もう一段深いところにある。
日本は、戦後に設計された「自己拘束国家」のままでよいのか。軍事だけでなく、財政においても、国家が自らを強く縛る設計を続けるのか。それとも、社会構造や国際環境が大きく変わった今、その前提そのものを更新するのか。
この問いに答えることは、官僚の役割ではない。官僚は、与えられた公理の中で合理的に動く存在だ。法律を変え、前提を問い直すことができるのは政治である。そして、その政治を支え、方向づけるのは、本来、私たち国民だ。
しかし、この段階に議論が進もうとすると、必ず別の空気が立ち上がる。「それは財務省と戦う話なのか」「誰の責任を問うのか」そうした問いが前面に出た瞬間、議論は止まる。
だが、ここで問われているのは、誰が正しいかでも、誰が悪いかでもない。問われているのは、どの前提を生き続けるのかという選択である。
日本の財政論が空回りし続けてきた理由は、誰かが間違っていたからではない。議論の焦点が、ずっと手前の次元で止められてきたからだ。
本当に問うべきは、「緊縮か、拡張か」ではない。日本は、国家を自ら縛るという戦後の選択を、いまも正解として生き続けるのか。それとも、その選択を、あらためて引き受け直すのか。だ、どうだろう。
手触りで生きる、概念で生きない。
2026年2月2日
早嶋です。
経営は、意思決定の連続だと言われる。数字、リスク、将来予測、市場環境。どれも大事だ。だが現場を長く見ていると、もう1つ別の層がある。それは「どのような在り方でその場に立っているか」だ。
多くの経営者や管理職は、未来を考えることが仕事になっている。3年後、5年後、株主、評価、失敗したらどうなるか。先を読む力は勿論確実に必要だ。ただ、それが強くなり過ぎると、今日の自分が消えていく。今この瞬間の実感がなくなり、概念の中で生き始めることになる。失敗のシミュレーションばかりが精密になり、日々の行動が萎縮する。これは合理的に見えて、実は組織を弱くする。
禅の世界では「只管打坐(しかんたざ)」という言葉がある。道元 が説いた、ただ坐るという実践だ。何かを得ようとしない。ただその場に在る。これは経営とは関係なさそうに見えるが、実は近い。打算を一度横に置き、今起きていることを引き受ける姿勢だ。未来を制御しようとする緊張を手放した時に、かえって全体が見える。経営も似ている。常に結果を掴みにいこうとすると視野が狭くなる。
人は嫌なこと、怖いこと、責任が重いことから逃げたくなる。それは自然な反応だと思う。ただ逃げた後に残るものがある。「あの時向き合わなかった」という記憶だ。この記憶は、自信を削り続ける。表面的には穏やかに見えても、内側では自分を信用できなくなる。組織のトップがこれを抱えていると、決断が細くなる。言葉に重みがなくなるのだ。
逆に、結果がどうであれ、怖さを抱えたまま進んだ経験は残る。失敗しても残る。そこには「自分はあの場に立った」という感覚がある。この感覚が経営の土台になり人を作る。部下は、論理よりもこれを感じる。覚悟の手触りのようなものだと思う。
マルティン・ハイデガー は、人間を「死に向かう存在」だと語った。極端な話に聞こえるが、意味は単純で、有限性を自覚した時に初めて人は自分の選択に責任を持つということだ。経営も同じだと思う。常に正解があると思っている間は、決断は他人事になる。どの選択にも傷があると知った時、初めて自分の決断になるのだ。
「今を楽しむ」という言葉があるが、これは軽い意味ではない。楽なことを選ぶことではない。怖さや痛みを含め、その場に参加することだ。経営の現場は楽しくない瞬間が多い。それでもそこに居続ける。その時間を引き受ける。そこにしか手触りは生まれない。
言語学でも似た考え方がある。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン は、言葉の意味は使用の中にあると言った。頭の中の定義ではなく、実際の行為の中で意味が立ち上がる。経営理念も同じだ。文章として掲げるのではなく、苦しい局面でどう振る舞ったかの積み重ねが、その会社の意味になる。
未来を考え過ぎて今を失うな。予測は必要だが、予測の中で生きるな。
怖さがある場面で逃げなかった経験や、言いにくいことを言った経験、そして責任を引き受けた経験。これらが積み重なった人の言葉には力がある。役職からではなく、生き方から出る力だ。経営戦略の前に姿勢がある。姿勢は思考からではなく、経験からつくられる。経験は逃げなかった場面からしか生まれない。乱暴に言えば、これを避け続けると、どんなに賢くても組織は弱い。逆に向き合う人が上にいる組織は、多少不器用でも太くて強い。
結局のところ、経営とは未来を当てる仕事ではなく、今この場にどんな態度で立つかを問われ続ける仕事だ。その積み重ねが、あとから振り返った時に「戦略」や「成功」に見えるのだ。
モチベーションは下げないようにする
2026年2月2日
早嶋です。2200文字。
モチベーションの大前提は次の視点をもつことだ。モチベーションは「上げる」ものではなく、「下げないようにする」という点だ。いわゆる衛生要因の発想に近い。給与、安全、労働時間、人員配置、仕事の明確さ。こうした土台が保てていない状態では、人は前向きになる前に防御モードに入る。やる気以前に、保身が前提にくということだ。これはいわば「何によって変わるか」、つまり外的条件の話になる。モチベーションのWhatの領域だと言ってもいい。環境が人の状態を左右するのは間違いない。ただ、ここだけ整えても、人が自分から動き出すとは限らない。
モチベーションには、「どう関わるか」のHowの領域もある。同じ仕事でも、上司の関わり方で部下のモチベーションが変わるのだ。上司の関与があるか無いかを、部下が感じるか否かで、モチベーションが変わる。承認欲求であるとか、期待なんかが関連する。あいつは評価されて、俺は評価されていないなどの公平理論の文脈にもつながる。また、仕事をしている中で「昨日よりもできるようになった」と感じられるかどうかも大きい。学習理論や強化理論の話になるが、要は自分の行動と結果がつながる実感があるかどうかだ。見られている、認められている、成長している。このHowの領域は、まさに上司が如何に部下と関わるかの世界だ。
そして、3つ目がある。最も根源的な問いだ。それは、なぜ人は内側から動き出すのか、というWhyの領域になる。最近の心理学的なアプローチでは、モチベーションの源泉は外側ではなく内側にあるとされる。自己肯定感、心理的安全性、自分はここにいていいという感覚が前提にあり、その上で「自分は役に立っている」「必要とされている」「任されている」と感じたとき、人は自発的に動き始めると言う。つまりモチベーションは、命令で引き出すものではなく、条件が整ったときに内側から湧いてくるものなのだ。
What(環境)、How(関わり方)、Why(内側の状態)。この3層を分けて考えると、やる気がない人を「性格」のせいにしなくて済む。多くの場合は、その人の問題ではなく、環境か関わり方か、あるいは自己効力感が育っていないだけなのだ。
マネジメントと議論を繰り返している中で、現場で良く起きている事例をいくつか見てみよう。
例えば、建設現場だ。無理な工程がやる気を奪う。これはWhatが欠けている状態の事例だ。あるプラント工事の現場、工程が詰まり納期が押している、人員も不足する、残業が続いている、作業員の一人が次のように発言する。
「言われたことはやりますけど、もう考える余裕がないです。」
これは怠慢ではない。明らかにベースが崩れている状態だ。安全リスクが高く、体が疲れ切り、段取りが見えない。この状態で「やる気出せ」は無理だ。この状況をクリアするための取組として行ったのは、気合を出すことではない。工程の組み換えと応援要因の追加だ。現場からは状況の理解とともに自分たちの作業工程の安全性を守っているという態度を見て一定の心の状態に戻ったのだ。しばらくすると、現場から自然に改善提案が出始める。やる気は「作る」より「出せる状態を作る」ほうが早いのだ。
次は、インフラ整備の現場だ。これは上司の眼差しが届いていない、放置されている感覚から来た事例だ。つまりHowによるモチベーションの低下だ。道路保全チームの若手。彼は黙々と仕事をするが、改善提案をちっとも出さなかった。会社は、一定期間に必ず提出するルールを持っていたのにだ。そして、上司は「受け身なタイプ」として部下にレッテルを張っていた。
マネジメントとモチベーションや部下との関わり方の議論をした後、上司は自分から部下に声をかける行動を始めた。「この前の誘導、事故ゼロだったな。あれ、お前の配置判断良かったぞ。」と。若手は少し驚いた顔をしたそうだ。「見てたんですか?」的な。その後、ヒヤリハットの報告が少しづつ増えたそうだ。承認は甘やかしの側面と捉える場合もあるが、状況や部下によっては、自信の存在の確認にもなるのだ。
清掃会社の事例だ。自分は価値がないという思い込み(Why)だった。大型施設の清掃リーダー。ベテランだが常に次のような発言をしていた。「自分なんて裏方ですから。」と。幾分自分たちの仕事を下にみた感情だった。やはりトレーニング中の上司から以下のような話を切り出してもらった。「この施設、クレーム少ないのはお前の段取りのおかげだと思うぞ。」的な。本人は黙った後、ぽつりと言った。「そんなふうに言われたの初めてです。」と。それ以降、若手への指導が増えたと言う。人は「自分が役に立っている」と感じた瞬間に変わる場合もあるのだ。
事象や状況は変われど、多くの現場でも起きているのは同じことだ。モチベーションが下がるのは「無力感」が強くなったときだ。モチベーションが動くのは「自分は役に立っている」と感じたときだ。上司の仕事はやる気を入れることではなく、無力感を減らすことだ。環境を整え、関わり方を変え、その人の中にある「使っていない力」を引き出してあげるのだ。観念的だが、そんなマネジメントもあると思うのだ。
最新記事の投稿
カテゴリー
リンク
RSS
アーカイブ
- 2026年2月
- 2026年1月
- 2025年12月
- 2025年11月
- 2025年10月
- 2025年9月
- 2025年8月
- 2025年7月
- 2025年6月
- 2025年5月
- 2025年4月
- 2025年3月
- 2025年2月
- 2025年1月
- 2024年12月
- 2024年11月
- 2024年10月
- 2024年9月
- 2024年8月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年4月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2024年1月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年2月
- 2023年1月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年9月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年6月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年9月
- 2021年8月
- 2021年7月
- 2021年6月
- 2021年5月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2021年1月
- 2020年12月
- 2020年11月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年6月
- 2020年5月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2020年1月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年5月
- 2019年4月
- 2019年3月
- 2019年2月
- 2019年1月
- 2018年12月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年9月
- 2018年8月
- 2018年7月
- 2018年6月
- 2018年5月
- 2018年4月
- 2018年3月
- 2018年2月
- 2018年1月
- 2017年12月
- 2017年11月
- 2017年10月
- 2017年9月
- 2017年8月
- 2017年7月
- 2017年6月
- 2017年5月
- 2017年4月
- 2017年3月
- 2017年2月
- 2017年1月
- 2016年12月
- 2016年11月
- 2016年10月
- 2016年9月
- 2016年8月
- 2016年7月
- 2016年6月
- 2016年5月
- 2016年4月
- 2016年3月
- 2016年2月
- 2016年1月
- 2015年12月
- 2015年11月
- 2015年10月
- 2015年9月
- 2015年8月
- 2015年7月
- 2015年6月
- 2015年5月
- 2015年4月
- 2015年3月
- 2015年2月
- 2015年1月
- 2014年12月
- 2014年11月
- 2014年10月
- 2014年9月
- 2014年8月
- 2014年7月
- 2014年6月
- 2014年5月
- 2014年4月
- 2014年3月
- 2014年2月
- 2014年1月
- 2013年12月
- 2013年11月
- 2013年10月
- 2013年9月
- 2013年8月
- 2013年7月
- 2013年6月
- 2013年5月
- 2013年4月
- 2013年3月
- 2013年2月
- 2013年1月
- 2012年12月
- 2012年11月
- 2012年10月
- 2012年9月
- 2012年8月
- 2012年7月
- 2012年6月
- 2012年5月
- 2012年4月
- 2012年3月
- 2012年2月
- 2012年1月
- 2011年12月
- 2011年11月
- 2011年10月
- 2011年9月
- 2011年8月
- 2011年7月
- 2011年6月
- 2011年5月
- 2011年4月
- 2011年3月
- 2011年2月
- 2011年1月
- 2010年12月
- 2010年11月
- 2010年10月
- 2010年9月
- 2010年8月
- 2010年7月
- 2010年6月
- 2010年5月
- 2010年4月
- 2010年3月
- 2010年2月
- 2010年1月
- 2009年12月
- 2009年11月
- 2009年10月
- 2009年9月
- 2009年8月
- 2009年7月
- 2009年6月
- 2009年5月
- 2009年4月
- 2009年3月
- 2009年2月
- 2009年1月
- 2008年12月
- 2008年11月
- 2008年10月
- 2008年9月
- 2008年8月
- 2008年7月
- 2008年6月
- 2008年5月
- 2008年4月
- 2008年3月
- 2008年2月
- 2008年1月
- 2007年12月
- 2007年11月
- 2007年10月
- 2007年9月
- 2007年8月
- 2007年7月
- 2007年6月
- 2007年5月
- 2007年4月
- 2007年3月
- 2007年2月
- 2007年1月
- 2006年12月
- 2006年11月
- 2006年10月
- 2006年9月
- 2006年8月
- 2006年7月
- 2006年6月
- 2006年5月
- 2006年4月
- 2006年3月
- 2006年2月
- 2006年1月
- 2005年12月
- 2005年11月
- 2005年10月
- 2005年9月
- 2005年8月
- 2005年7月
- 2005年6月
- 2005年5月
- 2005年4月










