早嶋です。
黒烏龍茶の湯気がまだ立つ。口の中には、もっちり少し固めの蓬餅と、ほんのり草の香りが残っている。昨日、旧暦でいえば三月九日。子供の日で、ソフトボールの練習後、チームの子供達と近くの動物園まで出かけた。途中、春の終わりを告げる雑木林を抜けて行く。
福岡市が管理する小さな雑木林は、自然が残っている。最近作り方を教えてもらったよもぎ餅。息子と蓬を採りに行く。作るのは妻だ。柔らかな日差しの下、山裾には蕗(ふき)の葉がうねり、その陰には、控えめながらも凛とした葉を広げた雪ノ下が群れていた。葉の裏にふわりと毛を抱えている。これは食べられるだろうか。そんな問いが頭をよぎったが、どうやら昔は天ぷらにしたり、薬草として火傷に使ったりしていたらしい。華やかさこそないが、生きる力のある草なのだ。
帰宅後、蓬は妻の手に託され、やがて餅へと姿を変えた。私はただ、湯を沸かし、お茶を淹れるだけ。その時、番茶は避けようと思った。私には京番茶の記憶がある。かつて焼鳥屋で出されたあの一杯。まるで煙草のような匂いが鼻腔を突いた。それからというもの、番茶という文字を目にすると味の記憶が蘇り好んで飲まなくなったのだ。
フィリピンには、「五月の初めの雨は幸運をもたらす」という言い伝えがあるそうだ。日本でも、「八十八夜の雨は豊作を呼ぶ」「五月雨は田に恵みを」など、水を祝う旧暦の感覚がいくつもある。草が芽吹き、土が潤い、人が畑に向かう。そんな季節のリズムを私たちはかつて身体で覚えていた。今日は雨だ。晴れていたら、再び雑木林に行き、季節の草を摘みに行こうと思っていた。
頭の中では、雪ノ下の葉に触れ、蕗の茎をかじり、よもぎを摘む。そして、春の終わりを楽しむ。また季節が進めば、野イチゴが赤く染まり、ドクダミが白く咲く。その時、私はまた雑木林まで散歩する。昨日の蓬餅のように、次の物語をひとつ、自然の中から拾いに行くのだ。