治療か予防か、今後の医療のあり方の考察

2026年2月18日 水曜日

早嶋です。治療か?予防か?思想としては、治療を維持しつつ、制度そのものを予防にシフトしていくことが理想だと思う。約4,900文字。

(医療は「治す産業」か)

医療の目的は、治療だろうか。少し挑発的な問いだが、医療業界の批判をしたいわけではない。むしろ逆で、医療の重要さを前提に、その構造を検証したいと思う。

医療の中心は、「治療」にある。診察、検査、手術、投薬。いずれも病気が発生した後に行われる行為であり、そこに診療報酬が発生する。制度としても、評価としても、治療行為が中核だ。もちろん、予防も存在する。健診、ワクチン、生活習慣指導等。だけど、産業全体の重心は、やはり発症後の対応にあると言わざるを得ない。

ここで一つの仮定を置いてみる。もし社会全体が本当に健康になり、重篤な疾患が大幅に減少したらどうなるかだ。医療費は下がり、国民の生活の質は向上するだろう。しかし同時に、多くの医療機関の収益は縮小する。この事実は、誰かの悪意を意味するものではない。医師が病気の発生を望むはずがないことは明白だ。ただ、制度設計上、報酬は「治すこと」に厚く置かれている。インセンティブは行動を方向づける。善意とは無関係に、構造は産業の重心を決めるのだ。

冷静に整理すると矛盾が浮かぶよね。医療は社会に不可欠な公共的存在。しかし同時に、経済的活動でもある。公共性と事業性が同居しているのだ。この二面性が、医療を複雑にしている面もあると思う。さらに踏み込めば、医療は誰のものなのかという問いにも行き着く。国家制度である以上、国家のものでもある。高度な専門性を有する以上、医師の領域でもある。命を預ける以上、患者のものでもある。そして今後、データが統合されAIが浸透すれば、プラットフォームの論理も入り込むだろう。

技術は進化し、創薬は加速し、診断は高度化するだろう。しかし、制度の重心が変わらなければ、医療は引き続き「発症後の最適化」を意図することになる。医療を否定したいのではなく、敬意を持っている。その上で整理した。治すことの先にある「病気にならない社会」を本気で設計するか、既存の枠組みの中で最適化を重ねるかを。

(インセンティブの向き)

 
医療の重心は発症後にあると整理したが、なぜそうなるのだろうか。答えは感情ではなく、設計にある。診療報酬は行為に対して支払われる。診察、検査、処置、手術、投薬。それぞれが点数化され、積み上がる。これは極めて合理的な仕組みだ。行為を可視化し、標準化し、全国で公平に運用するために考えられ精査されてきた。日本の医療制度が安定している理由の一つでもある。

ただ、その設計は明確な方向がある。それは、報酬は「行為」に対して払われることだ。「起きなかったこと」には払われにくい。例えば、生活習慣の改善によって発症を防いだ場合。地域の啓蒙活動によって重症化を抑えた場合。データ連携によって早期に兆候を拾った場合等だ。もちろん評価はされるだろうが、構造の中心にはなりにくい。インセンティブの観点からみても、この差は小さくない。

冷静に考えれば、制度はその社会が重視する行為に報酬を置くものだ。つまり、今の医療制度は「治すこと」に厚く報酬を置いているのだ。繰り返すが、批判ではなく現実の設計の話に焦点をおきたい。現場を見ると、その構造はさらに具体的に見えてくる。

例えば、こんな場面は珍しくない。町のかかりつけ医で血液検査をする。肝機能の数値が高いとか、腫瘍マーカーが少し気になるとか。そこで、念のためCTも撮る。その結果、「一度、大きな病院で詳しく診てもらいましょう。」となり、紹介状を持って基幹病院へ行く。受付で説明し、問診票を書き、診察室に入る。

そこで言われる。「では、もう一度血液検査をしましょう。」「CTも当院で撮り直しますね。」と。患者からすれば、こう思うだろう。え?昨日もやりましたよね?って。

だが、基幹病院の立場はこうだ。自院の責任で判断する以上、他院のデータだけで確定するわけにはいかない。万が一の見落としは許されない。訴訟のリスクもある。機器も違う。基準値も微妙に違う。結果として、同じような検査が繰り返されるのだ。しかし、患者の一生という視点で見るとどうかだ。時間も費用もかかる。精神的な負担も増える。医療資源も二重にも三重にも消費される。誰かが間違っているわけではないが、制度の前提が「自院完結」に置かれている点が問題なのだ。

再び、冒頭に示した問いに戻ると、「治す」ことの延長線上で最適化を続けているのか。それとも「病気にならない社会」を構造から設計しようとしているのか。の思想は、今後の医療制度をどのようにするかに大きな影響を与えるだろう。

(善意の集積が構造を強化する)

医療の世界は、善意の集積でできていると思う。目の前の患者を救おうとする医師。安全を最大化しようとする病院。公平性を担保しようとする制度設計者。部分を見れば、どれも正しい。その善意が時間をかけて業界の構造そのものを強くしてきた。

例えば、基幹病院で検査を撮り直す判断だ。安全を最優先にすれば、合理的だ。自院で確認しないという選択は、医師にとって大きなリスクになるからだ。ただ素人的には、データを完全に共有すればよいのではないかと思うのだ。おそらく、理屈としてはその通りだと思うが、そこにも大きな壁があるのだ。

その場合、責任の所在は誰になるのか?機器の違いをどのように吸収していくか?診療報酬はどのように扱っていくか?情報漏洩のリスクをどのように管理するか?などだ。このような問いを解き進める医療機関は多いと思うが、1つとくとまた別の問題が立ち上がる経験をする中で、現状維持が最も合理的な行動となる判断をしていると思うのだ。

この構造は、医療に限らない。色々な部門最適から全体最適の制度変更で観察できる。しかし、医療は命を扱う分、変化へのハードルが極めて高いのだ。そして、興味深いのは、「変えない」という選択もまた合理的だということだ。制度を変えれば、摩擦が生まれる。すると現場は混乱する。一時的に安全性が揺らぐ可能性もある。それなら、いまの仕組みを磨き続ける方が安定的だと。

この判断は、間違っていないとも思う。しかし、その合理的判断の積み重ねが、発症後中心の構造をより強固にしているのも事実だ。善意が、構造を補強する。これが難しいのだ。

例えば、医療者は日々の診療に追われている。目の前の患者を救うことが最優先だ。その中で、長期的な予防設計やデータ統合の議論に時間を割く余裕は限られている。制度設計側も同じだ。財政の持続性、地域格差、医師不足。対応すべき課題は山積みだ。その中で、「病気にならない社会の設計」という抽象度の高い議論は後回しになってしまう。誰もサボっていないし、誰も無関心ではないのだ。だが、悲しい事に構造は変わらず強化される一方なのだ。

もう一つ重要な視点がある。それは、医療の権威性だ。医療は高度な専門領域だ。通常、一般の人が容易に口を出せる分野ではない。それは当然だし、必要なことだと思おう。しかし、専門性が高い分、外部からの疑問は入りにくい。「現場を知らない人が何を言うのか」という雰囲気が濃い。当然の自然な反応なのだ。

しかし、繰り返し問うているのは現場批判ではない。構造設計の話だ。この違いを理解しない限り、議論はかみ合わない。

(構造を揺るがす技術革新)

ここまで見たように、医療の構造は善意と合理性の積み重ねだ。だから強固で簡単に変わらない。ただ、この構造を揺らすモノが出てきた。制度改革、財政圧力、人口減少とあるが、もっと無視できない要素だ。それがデータとAIだ。

医療の世界では、すでに多くのものがデータ化されている。血液検査の数値、画像診断、処方履歴、電子カルテ。創薬も分子レベルで設計され、シミュレーションが爆速で進む。薬の世界は、ある意味で極めてデジタルだ。化学式が決まれば、同じ品質のものを大量に再現できる。一度承認されれば、全国どこでも同じ薬が処方される。ここは工業の論理が通用する。

一方で、医療機器や材料、そして診療の現場には、まだ多くのアナログが残っている。触診の感覚。経験に基づく判断。微妙なニュアンス。言語化されていない暗黙知だ。ただ、今後AIが本当に揺らすのは、この領域だ。

名医の勘は、どこまでデータ化できるのか。診断のばらつきは、どこまで標準化できるのか。地域差は、どこまで縮められるのか。もし暗黙知が形式知に変われば、医療の重心は少しだけ動きはじめるだろう。

例えば、かかりつけ医で取得したデータが、基幹病院と完全に連携し、AIがリスクを補正し、責任分担が明確になれば、検査の二重化は減るかもしれない。もし生活習慣データやウェアラブルデータが統合され、発症リスクが事前に可視化されれば、「治す前」の介入が中心になる可能性もある。ここで初めて、「病気にならない社会」の設計が現実味を帯びはじめるのだ。

ただし、ここでも問いは残る。AIが診断補助をしたとき、責任は誰が持つのか。データを統合したとき、管理者は誰になるのか。プラットフォームが医療の入り口を握ったとき、医療は誰のものになるのか等々だ。

技術は確実に構造を揺らす。だが、その設計を変えるのは人間だ。AIが入ることで、医療はより効率的になるかもしれない。だが同時に、権限の所在や責任の分配を再定義しなければならなくなる。ここまで来て、最初の問いが再び重みを持つのだ。医療は、治療を前提とする産業のまま定義して良いのか?だ。それとも、データと技術を梃子にして、病気を減らす社会へと重心を移すのかだ。

この選択は、単なる技術論ではない。思想の問題だ。

(医療は誰のものか)

ここまでの整理は、医療批判ではない。むしろ逆だ。医療がいかに真面目に、合理的に、そして善意によって支えられてきたかを確認してきた。その積み重ねが、いまの安定した制度を形づくっている。だからこそ、問いは重いのだ。

医療は、誰のものなのか。

国家の制度の中にある以上、国家のものでもある。高度な専門性を有する以上、医師の領域でもある。命を預ける以上、患者のものでもある。そしてデータが統合され、AIが診断や創薬に深く関与するようになれば、プラットフォームの論理も入り込む。

どれも正しい。だからこそ、簡単ではないのだ。医療は公共財である。しかし同時に経済活動でもある。この二面性は消えない。ならば重要なのは、どこに重心を置くかだ。発症後の最適化を磨き続けるのか。それとも、発症前の設計に本気で舵を切るのか。

前者はこれまでの延長線上にある。制度も評価も整っている。安定している。後者は設計思想の転換を伴う。報酬体系も責任分担も変わる。摩擦は避けられない。

だから難しい。

しかし、人口減少と高齢化が進み、医療費の持続可能性が問われる時代において、「治す」だけを前提に最適化を続けることが本当に合理的なのかは、改めて考える必要がある。データとAIは、その問いを現実に引き戻す力を持っている。

暗黙知が形式知に変わる。地域差が縮まる。発症リスクが事前に可視化される。そのとき、医療は単なる「治療の体系」ではなく、「健康を設計する体系」へと変わる可能性がある。ただし、技術だけでは変わらない。設計を変えるのは、人の意思だ。

インセンティブをどこに置くのか。責任をどう分配するのか。データを誰が握るのか。これらは思想の問題だ。私は医療の専門家ではない。しかし、一人の生活者として、一人の事業に関わる人間として、日本はこの問いを避けることはできないと思っている。医療は、治す産業のままでよいのか。それとも、病気にならない社会を設計する産業へと進化するのか。答えはまだ出ていない。

ただ、この問いを共有すること自体が、構造を少しだけ揺らす力になるのではないかと思う。そして、その揺らぎの中から、新しい設計が生まれるのだとすれば、いまはその入口に立っているのかもしれない。



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