早嶋です。
経営は、意思決定の連続だと言われる。数字、リスク、将来予測、市場環境。どれも大事だ。だが現場を長く見ていると、もう1つ別の層がある。それは「どのような在り方でその場に立っているか」だ。
多くの経営者や管理職は、未来を考えることが仕事になっている。3年後、5年後、株主、評価、失敗したらどうなるか。先を読む力は勿論確実に必要だ。ただ、それが強くなり過ぎると、今日の自分が消えていく。今この瞬間の実感がなくなり、概念の中で生き始めることになる。失敗のシミュレーションばかりが精密になり、日々の行動が萎縮する。これは合理的に見えて、実は組織を弱くする。
禅の世界では「只管打坐(しかんたざ)」という言葉がある。道元 が説いた、ただ坐るという実践だ。何かを得ようとしない。ただその場に在る。これは経営とは関係なさそうに見えるが、実は近い。打算を一度横に置き、今起きていることを引き受ける姿勢だ。未来を制御しようとする緊張を手放した時に、かえって全体が見える。経営も似ている。常に結果を掴みにいこうとすると視野が狭くなる。
人は嫌なこと、怖いこと、責任が重いことから逃げたくなる。それは自然な反応だと思う。ただ逃げた後に残るものがある。「あの時向き合わなかった」という記憶だ。この記憶は、自信を削り続ける。表面的には穏やかに見えても、内側では自分を信用できなくなる。組織のトップがこれを抱えていると、決断が細くなる。言葉に重みがなくなるのだ。
逆に、結果がどうであれ、怖さを抱えたまま進んだ経験は残る。失敗しても残る。そこには「自分はあの場に立った」という感覚がある。この感覚が経営の土台になり人を作る。部下は、論理よりもこれを感じる。覚悟の手触りのようなものだと思う。
マルティン・ハイデガー は、人間を「死に向かう存在」だと語った。極端な話に聞こえるが、意味は単純で、有限性を自覚した時に初めて人は自分の選択に責任を持つということだ。経営も同じだと思う。常に正解があると思っている間は、決断は他人事になる。どの選択にも傷があると知った時、初めて自分の決断になるのだ。
「今を楽しむ」という言葉があるが、これは軽い意味ではない。楽なことを選ぶことではない。怖さや痛みを含め、その場に参加することだ。経営の現場は楽しくない瞬間が多い。それでもそこに居続ける。その時間を引き受ける。そこにしか手触りは生まれない。
言語学でも似た考え方がある。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン は、言葉の意味は使用の中にあると言った。頭の中の定義ではなく、実際の行為の中で意味が立ち上がる。経営理念も同じだ。文章として掲げるのではなく、苦しい局面でどう振る舞ったかの積み重ねが、その会社の意味になる。
未来を考え過ぎて今を失うな。予測は必要だが、予測の中で生きるな。
怖さがある場面で逃げなかった経験や、言いにくいことを言った経験、そして責任を引き受けた経験。これらが積み重なった人の言葉には力がある。役職からではなく、生き方から出る力だ。経営戦略の前に姿勢がある。姿勢は思考からではなく、経験からつくられる。経験は逃げなかった場面からしか生まれない。乱暴に言えば、これを避け続けると、どんなに賢くても組織は弱い。逆に向き合う人が上にいる組織は、多少不器用でも太くて強い。
結局のところ、経営とは未来を当てる仕事ではなく、今この場にどんな態度で立つかを問われ続ける仕事だ。その積み重ねが、あとから振り返った時に「戦略」や「成功」に見えるのだ。









