考える習慣

2008年8月3日 日曜日

早嶋です。



「自然のままでは、人間は殆ど考えない。考える事は、他の全ての技術と同じように、人間が学んで身につける技術で、しかも学ぶのにいっそう骨がおれることだ。私は、男女いずれに対しても、本当に区別されるべき階級は二つしか認めない。一つは考える人々の階級で、もう一つは考えない人の階級だが、この違いが生じるのはもっぱら教育によるものといっていい」(今野一雄訳)



先月の日経新聞の記事を抜粋したものです。思想家のジャン・ジャック・ルソーの「エミール」からの引用です。



考える人材は企業が求めている人材像、どの企業に行ってもこのようなことを耳にします。しかし、ルソーの言葉にあるように「考える」行為は学んで身に付くものではありません。寧ろ習慣的なものだと思います。



最近、脳の研究が進み、クリエイティブな人とロジカルな人、単に脳みその使い方が偏っているだけ!という論調の論文が多く執筆されています。クリエイティブな人は右の脳を、論理的な人は左の脳を良く使っていただけというのです。



脳の仕組みは利き腕の仕組みと同じ。もし自分が右利きだったら、左手で文字を書くと、変な字になることでしょう。でも、これも普段から右手だけ使って訓練していないだけです。小学校や中学校のクラスに、利き腕を骨折してギブスをはめて不便な生活をして過ごしていた友達が1人くらいいたと思います。彼・彼女は、しょうがなく利き手と反対の手を使って生活をしていたので、どちらの手も器用に使えるようになりました。このような話、みなさんの中にもあると思います。



これも習慣。使うか使わないかなのです。現代の人々が考える人が少ない!といわれるのも習慣の成せる技だと思います。小さい頃の学校の授業では、何度と無く考えろ!と喝をもらったのですが、結局最後には正しい答えが与えられます。つまり、無意識のうちに考える機会を剥奪されていたのではないでしょうか?考えろといいながら、答えを提供する。当に、ダブルバインド(Double bind)です。



企業でも同じ事が繰り返されています。教えた方が早い!と上司は部下に答えを与えます。考え方を提供するのと答えを提供するのでは意味が違います。このようにすると考える機会が剥奪されます。これが繰り返されれば、習慣化され考える部下がいなくなり、言うことを聞く聞き分けの良い部下だけが育っていきます。



考えることに重要性を見出しているのであれば、習慣化させるために何をするのか?少しだけ、今の行動を見直してみると良いかもしれません。



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