早嶋です。約4600文字。
全国に約6.8万件ある歯科医院。その9割以上が、院長ひとりで診療と経営を兼ねる個人事業主モデルだ。医療法人化している医院もあるが、そのほとんどは名ばかり法人で、実質は1医院体制だ。2医院以上を展開して、スタッフを分業し、管理機能や教育体制を持っている医院は、全国でみてもほんの数パーセントしかない。
実際、厚生労働省の統計では全国6.8万件の内、医療法人化した医院は30%から35%で2万から2.4万件だ。その中で2店舗以上展開する法人数は僅か2,000件未満。法人化しているとて、実態は1院運営のケースがほとんどで、9割以上は実質、1医院単位の個人開業モデルなのだ。
この構造で、採用難や人手不足という問題が起きるのは当然なのだ。求人が出ても応募が来ない。やっと採用しても、3年もしないうちに離職する。多くの院長が「人がいない」「若い子が続かない」と口にするが、果たして本質はそこにあるのだろうか。
まず押さえるべきは、歯科衛生士という仕事の構造と、その成長欲求とのミスマッチだ。若い衛生士たちは、資格を取ると都市部での勤務を希望する。地方や郊外では求人に対して応募がまったくないという話もよく聞く。医院側としては、保険点数をベースに安定した診療を提供しようとするが、予防歯科の業務は基本的に単調になりやすい。毎日、口腔内のチェックとクリーニング、歯石除去の繰り返しだからだ。これでは、意欲のある衛生士ほど「ここにいても成長できない」と思ってしまうのだろう。
一方で、自費を中心とする医院ではホワイトニング、インプラント、矯正などを扱い、専門性は高く、衛生士としてもやりがいがあるかもしれない。だが、ここにも落とし穴がある。強烈なキャラクターを持つ院長、成果主義的なカルチャー、ミスが許されない空気感。そうした緊張が続く中で多くの衛生士が早期に離職してしまうのだ。
さらに、ライフステージの問題もある。20代で働き始めた衛生士が、30歳前後で結婚、出産、育児というライフイベントを迎える。合理的な歯科医院であれば一時的に休職し、育児後に復職してもらえるよう配慮するはずだ。だが、現実には「それなら辞めてもらった方がいい」といった空気が医院側にあり、せっかく育った人材が現場を去っていくのだ。
勤務時間の問題も深い。衛生士側は、保育園の迎えがある、夕方以降は働けないなどの事情を抱えている。しかし多くの歯科医院は患者のニーズに合わせて、夕方や夜も診療を続けようとする。こうした「患者優先・スタッフ無視」の営業姿勢は、今や完全に時代遅れだ。定着している医院の多くは、予約制を徹底し、無理な時間帯の営業はしない。採用しやすい時間帯に集中し、組織として回している。
もう一つ、離職理由として見逃せないのが、院長やスタッフ間の人間関係の問題だ。実際、時給をいくら上げても辞める医院は多数ある。一方で、10年以上定着している医院は、給与や立地では説明できない「院内環境の安定」がありそうだ。つまり、「給与で釣る」のではなく、「安心して働けるかどうか」が鍵だと言えるのだ。
さて、ここで採用を「投資」として考えてみよう。採用コストの内訳をモデル化する。採用の直接コストとして、求人媒体、採用サイト、リスティング広告の費用をXとする。Xは、1回の採用で30万から50万円程度掛けている。次に、採用した場合は紹介料が発生する。通常の相場は初年度の年収の2割から3割だ。これをYとする。Yは、年収を300万と想定しても60万から90万程度の費用になる。それから忘れがちなのが間接的な損失や新たに採用した後に発生する教育コストだ。これをZとする。Zは、育成期間の教育時間やその際の機会損失、医院長などの指導工数が相当する。採用後、半年から1年程度はそれなりの時間やコストがかかるだろう。Zを30万から50万と見積もって見よう。
すると、求人広告や紹介料で1人あたりの採用コスト(X+Y)は120万円〜190万円だ。育成期間に院長やスタッフが取られる時間的コスト(Z)を含めれば、さらに増える。仮にこのコストを費やして採用した衛生士が3年で辞めた場合と、6年在籍した場合での違いを比較してみる。
仮に、1人の衛生士が1日3名のメンテナンス患者を貢献利益分として対応し、1件の保険点数が約3,000円(保険負担3割で1,000円程度)とした場合、衛生士の貢献粗利は1日に9千円。20日稼働として毎月18万円になる。
ざっくりと試算しても、3年在籍なら純益貢献は約460万円。6年在籍なら約1,100万円だ。当たり前の皮算用だが、言語化すると定着期間が2倍になれば、利益は2倍に跳ね上がる。
この数字を見て、まだ「採用は求人媒体で何とかなる」と思うだろうか?本来であれば、衛生士が「辞めた理由」を分析し、再現しないように院内体制を変えるべき点に投資をするほうが賢い。つまり、「なぜ続かなかったのか」「どこで成長を阻まれたのか」「どこで関係性が崩れたのか」などに真摯に向かい合うことだ。それが「採用コストを回収する」ための本質的な取り組み、あるいは「不要な採用コストを支払わない取組」なのだ。
もちろん、1院体制の個人医院であっても、上記を鑑みた上で、組織的な発想を取り入れることは可能だ。「教育係の配置」「シフト管理をスタッフに任せること」「院長が現場を握りすぎない仕組みをつくる」「復職支援制度を整える」「人間関係に配慮した面談や1on1を取り入れる」などだ。
このような工夫を積み重ねることで、「定着こそが最大の採用策」であるという考え方に近づけると思うのだ。それでは、後半は具体的にどのように個人医院が人材定着に向けて戦略的なアプローチをとるかについて考察してみる。
これまでの議論で、歯科医院の構造的な課題は、もはや「人がいない」では済まされない。衛生士が不足しているのではなく、辞めたくないと思える環境をつくれていないことが、本当の問題だからだ。上記では、採用コストの見える化と定着年数による収益差を整理したが、それはある意味、問いの入口に過ぎない。医院にとって重要なのは、「人が集まる医院」ではなく「人が辞めない医院」である、という感覚を持てるかどうかが、今回の議論で提案するパラダイムシフトになる。
とはいえ、全国の9割以上の歯科医院が、1医院体制のいわば「超個人プレー」だ。院長ひとりが診療し、経営し、採用し、教育もしなければならない。そのなかで、どこまで組織的なアプローチができるのか?これこそが、多くのドクターが頭を抱える問いではないだろうか。だからこそ、「組織を持たない医院が、組織のように振る舞う」ための仕組みが要るのだ。ここでは、それを「準組織化」の取組と称しよう。
まず必要なのは、院長が「全部自分でやる」という思考から離れることだ。多くの院長が「スタッフが育たない」と言うが、育たないのではない、育てるプロセスが設計されていないし、実装されていないのだ。準組織化の第一歩は、「役割の言語化」だと思う。
例えば、院内に「教育係」「チーフ衛生士」「受付リーダー」など、職位とは違う役割の名前を与える。この時、注意すべきは権限ではなく、目的だ。役割を与えることで、その人が何を担っているのかを周囲が認識できるようになる。これは信じられないほど心理的な効果を持つのだ。
次に、「人事を制度にする」のではなく、「人事を話題にする」ことが大切だ。例えば、月1回のミーティングで、「〇〇さん、今後この医院でどうなりたいの?」と尋ねてみる。それだけで、「私のことを見てくれている」という感覚が生まれるのだ。制度よりも先に、対話が空気を変えるという理屈だ。
さらに、診療時間ではなく「仕組みの時間」を確保する必要がある。1日30分でも、月に1時間でもいい。院長とスタッフだけでなく、スタッフ同士の関係性をつくる時間があるかどうか。それが、採用広告よりもはるかに「応募される医院」をつくるのだ。
次に問いたいのは、「成長したい衛生士を受け止める医院は、どこにあるのか?」だ。多くの衛生士が、保険診療中心の医院に入ってしばらくすると、「このままでいいのか」と思い始める。ルーチンワーク、単調な予防処置、同じ会話。やがて他の医院を見に行き、自費中心の医院に移ってはみたものの、そこには強烈な院長と、無言のプレッシャーと、成果に追われる日々が待っている。どこにも「ちょうどよい成長環境」がないことに転職してはじめて実感するのだ。これが今の歯科衛生士業界の沼なのかも知れない。
であれば、「その中間のポジション」を戦略的に狙えばいい。例えば、保険をベースに安定した収益を確保しつつ、「ホワイトニングだけは院内研修でできるようにする」とか、「マウスピース矯正の相談対応だけは衛生士に任せてみる」とか、「インプラントの説明やメンテは衛生士主導にする」等の役割を決めて任せることだ。こうした「半歩先の裁量」を任せることで、衛生士は成長実感を持てるようになる。ここで重要なのは、「全部任せる」ではなく「段階的に任せる」ことだ。段階的に任せ、褒め、認める。その繰り返しが、「この医院にいれば成長できる」という納得感につながるのだ。
最後に、院長自身がマネジメントに苦手意識を持っている場合、どうすればよいかについてちょいとだけ議論する。「私は経営のプロじゃない」「話すのが苦手」「時間が足りない」、そう思う院長が結構多い。だからこそ、「自分にできる範囲で」人を巻き込む仕組みが必要になるのだ。
その1つ目は、「頼ることを決める」ことだ。院内に一人でも信頼できるスタッフがいるなら、その人に「医院をよりよくしたいんだけど、協力してくれない?」と伝えることから始める。それだけでも十分で、院長が孤独でなくなることで、医院が変わるきっかけになるのだ。
2つ目は、「定例の時間を仕組みにする」ことだ。週1回の5分の立ち話でも、「月曜日の朝は顔を合わせる」と決めてしまえば、それは立派なマネジメントになる。話す内容より、習慣が場をつくるのだ。
3つ目は、「外部の力を借りる」ことをためらわないことだ。同業の勉強会、専門家のコンサルティング、オンラインの教育動画でもいい。「院長ひとりで全部やる」ことをやめる勇気こそ、最も重要なマネジメント力なのだ。
歯科医院は「小さな医療法人」であると同時に、「小さな人間関係の場」でもある。衛生士や歯科助手が長く働く医院には、共通した空気がある。それは、制度が整っているからでも、給料が高いからでもない。毎日の挨拶が気持ちいいとか、何かあったときにすぐ相談できるとか、そういう「当たり前の安心感」が医院の雰囲気をつくっていると思うのだ。だから、制度よりも習慣。給与よりも信頼となり、これが、歯科医院という組織の持続力を支える最も根源的な土台になるのだ。
組織化とは、何も複雑なルールをつくることではない。小さな仕組み、小さな会話、小さな約束を、毎日少しずつ積み重ねていくこと。その延長線上に、「辞めない医院」「育つ医院」「信頼される医院」があるのだと思う。