生きる意味

2021年7月7日 水曜日

早嶋です。

生きる意味はなんでしょう。

(結論)
あると考えないで、そんなの無いと思った方がよいのかな。一方で、生きる意味を敢えて見出すとすると、それは生きることそのもので、加えて自分の周りの人々が、本人から何かを与えられる。と考えれば、実は生きる意味とは自分のためではなく、相手のためにあると思うのです。

(とりとめもない問答)
生きる意味を自分に見出した場合、自分が満足する生き方を手に入れることで達成するとする。だとすると自分が満足する世界というのが存在する。もしその世界がイメージ出来た場合、その世界を達成した時か、その世界を維持している時に意味があることになる。

でも、これだとしっくりこない。その世界を手に入れるまではきっとたくさんの時間を要すると思うからだ。生きる意味が結果にあるということは、その結果を成し遂げるための過程においては意味を常に問い続けることになる。そして成し遂げるために生きているとなれば、中々成し遂げることが難しい世界を見出した人は常に満足することは無い。

仮に達成することが出来たとしても、その世界は過去に考えたイメージだ。時間という隔たりは常に僕らの思考を変異させる。それは環境変化が与える影響かもしれないし、取り組む中で自分が成長した結果生じたことかもしれない。いずれにせよ、時間のおかげで、達成した時に、当時考えたイメージと異なる感情を抱くかも知れない。そもそも当時の感情と比較することすら難しい。

だとしたらどうだろう。生きる意味を結果に見出すこと自体が意味がないのかも知れない。だとしたら生きる意味を過程に見出してみる。つまり何かを達成しようとする過程において、人は生きる意味があり、それを続けることそのものが意味となるのだ。

簡単な言葉に置き換えたら、結果に意味を見出すか、過程に意味を見出すかだ。まぁ、どちらが正解とはならないと思うが、僕は結果に意味を見出すことから過程に意味を見出すことに変えて、少しばかり自分を自分として表現することができるようになった。そして不思議なことに過程に意味を見出すうちに、冒頭議論した通り、当初の目標やゴールが変わる対象もあれば、変わらない対象もあることに気がついた。ただ、どちらに傾こうが、過程にフォーカスしているので、常に意味があることになる。少なくとも自分の定義では。

20代の頃は、誰よりも大きく、誰よりも知名度を高くして、誰よりも価値を創出する人になりたいと思っていた。そして当然、行動を続けるうちに、どんどんと野望が大きく、高く、手が届かないところに拡張していく。頑張れば頑張るほど結果が遠くなるのだ。周囲には涼しい顔をしているけれども、当人は勝手につらいと思っているのだ、不思議なものだ。人に対してはビジョンや目標の達成やギャップの分析が重要です。そして実現するための行動が大切です。と言っている。しかし、紺屋の白袴で自分の行動に対して向き合える年齢ではなかった。

30代、家族ができた。世の中のために頑張るぞという壮大過ぎた自分の妄想は、対象がより具現化して家族のために頑張るとなっていった。従来の早嶋聡史と全くことなる発想だ。世の中のためと言いながら、最も最小ユニットの家族と接する時間がなくて、家族が満足していないかも知れない。と考えたのだ。早嶋聡史が世の中に費やす時間が増えれば増えるほど家族との時間が減る。しかし世の中はこれっぽっちも変化しない。なんとも虚しい時間であった。そこで考えを逆転した。世の中のためにという最小ユニットは、やっぱり家族だと。そこにフォーカスすると自分が楽になり、時間も調整もできるようになる。そして冷静に判断して見ると、20代の頃よりも今の方が家族との時間も取れるようになり、一方で当時から考えている社会に対してのインパクトも結果て少しではあるが与えることができている。

今は40代。経験は増えたが、継続的なインプットを続け、時には過去の成功体験を捨てる取り組みを続けている。20代や30代から比較すると、一定の積み重ねがアドバンテージになっている部分もある。一方で、アタマの回転の速さや、行動力や瞬発力は明らかに落ちている。それでも物事が進む感覚を常に持ち、特定の仕事に対しては自分が表に出なくてもコントロール出来ているような気分である。実際はどうだか分からないが、1年程度のスパンで見れば、大きな前進があるのは間違いない。しかし基本は家族や自分を軸に、過程を楽しむ取り組みをしている。

そして家族という概念に自分の中での親の存在があらためて大きくなった。自分の年令を考えると当然ながら両親の老いがある。幸い、遠くない距離に住んでいるから定期的に会う時間を増やしている。自分や妻や子供の存在、そして自分の兄弟の存在が常に両親の人生に楽しみと生きがいをもたらしている。何のための人生かと問えば、自分だけの人生ではないことがわかってくる。

VC界隈で有名な話がある。漁師に投資する話だ。朝漁に出て、昼ごはんを家族と過ごし、のんびりして夜は早めに寝る。そしてまた朝漁にでる。その生活を見ている投資家が船を買って人を雇って規模を大きくしようと漁師に提案する。漁師は尋ねる。目的は?と。投資家は言う。ドンドンおおきくなれば、お金が勝手に入ってきて、家族と時間をともにして、好きなことに没頭して、のんびりできると。漁師は既に実現しているという。

この話は面白い。まさに僕が考えた20代、30代、40代現在進行系を表現している。実は今が一番ハッピーで、それは常に変わらない。過程にフォーカスしているので何らかの状況の変化はあるだろうが、結果を求めることを過度にしないので、常にココロが安定している。更に、世の中のためという大義名分を家族のため、そしてそれ自身が自分のためという概念を見出したことで、穏やかな毎日を楽しむ余裕ができてきた。一方で、常に行動にフォーカスしているので1年単位の変化を見れば、明らかに理想に近づいている。

結果と過程。社会と家族と個人。最終的な結果を結果目標として設定して、その達成をイメージするために細分化する。それらを通過目標として捉え、その通過目標につながる行動を特定して、その行動を続けることに専念する。大きな組織の大義名分を見出したら、それを組織毎に細分化して、最終的にはチームや行動をともにするユニットに落とし込んでいく。一定期間の間隔で行動が通過目標につながっているかをチューニングし1年程度のスパンで、そもそもの結果目標は正しいのかをフィードバックする。そしてそこで得た議論を基に、結果目標のチューニングを行う。それを組織単位、チーム単位、個人単位で行う。後はそれの繰り返し。

そうか、自分でクライアントに言ってきた取り組みを、企業から早嶋聡史個人に落としただけだったんだ。と妙に納得することができた。

世の中、何かの成果を出すために、その成果に向けて行動を続けた結果、たまたま成果が出ると考えた場合、時間の割合でいけば結果がでるのはわずかな瞬間でしかない。目的を達成するために努力をするというが、長い人生の中でその瞬間のために時間を費やすといのは、ものぐさな私からするといただけない。

世の中のみなをハッピーにするために、自分と最小ユニットの家族とその周りをハッピーにすることを考えて動く。結果、その連鎖が拡張するかもしれないし、実際は分からない。しかしプロフェッショナルとして対価を頂きながら大きな組織にアドバイスをさせて頂く仕事である以上、常に自分のパフォーマンスを高める努力は必要だ。僕の場合は、それが家族と自分自身のココロの安定ということに40になってようやく気がついたのだ。

そこであらためて考えて見る。なんのために生きるのか。結果は、しらんがな。ただもし目的が仮にあったとして、その目的のために取り組むことが目的だったらどうだろう。あまり意味のないことだが、取り組むことが目的なので、その瞬間は達成するまで継続する。つまり長い。生きている間の大半は行動をしていることになるので、満足度も高い。そしてそれは自分のためと捉えるよりも、自分の周りに居る家族の人生に自分がいることを理解する。そうすると生きる以外の選択肢は存在しなくなる。つまり自分のためには、同時に家族のためになると思うからだ。そうやって自分と問答することに解はでないが、実は意味があるのかも知れない。いや意味を見出そうとするから苦しくなるのだ。そう、意味なんて無いのだ。



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