早嶋です。約1万文字。
2世紀から3世紀の日本列島は、天皇が治める国ではなかった。そこには、筑紫、隼人、熊襲、吉備、出雲、畿内、さらに関東や東北にまで、それぞれの王や首長が存在し、海と川と山の流通を押さえながら、それぞれの地域を動かしていた。北部九州は朝鮮半島や中国と直結し、鉄も人も情報も入ってくる最前線だった。隼人や熊襲は南九州の独自の軍事文化と霊性を持ち、吉備は瀬戸内海の海上交易を背景に巨大な勢力を築き、出雲は神話に象徴される別系統の宗教と政治の中枢だった。関東や東北にも、ヤマトとは異なる古墳文化と首長層が広がっていた。
当時の畿内は、これらの勢力を一元的に支配していたわけではない。しかし、瀬戸内海と大和川水系の結節点に位置し、海と内陸をつなぐ交通と儀礼の中心として、列島の複数の勢力を束ねうるハブの役割を果たしていた。瀬戸内と大和川水系の結節点として、物流と人の交差点に位置していたにすぎない。つまり当時の日本列島は、一つの国家ではなく、いくつもの政治圏と宗教圏が重なり合う連合体のような世界だったのだ。
ここから、磐井の乱、乙巳の変、白村江の戦いを経て、どうやってこの多極世界が「天皇と藤原」という二重構造に収斂していくのか。その過程が、日本という国が出来上がる物語だ。
(朝鮮半島をめぐる国際政治)
当時の連合体的な日本列島の均衡を、決定的に揺さぶっていたのが、朝鮮半島をめぐる国際政治だった。朝鮮半島では、百済・高句麗・新羅が覇権を争い、その背後から中国の王朝、のちの隋や唐が影響力を伸ばそうとしていた。朝鮮半島は、東アジアの軍事と外交がぶつかる最前線だったのだ。
日本列島から見ると、朝鮮半島は単なる隣国ではない。鉄器や仏教、文字、律令的な統治技術など、当時の「先端文明」は、ほぼすべて半島を経由して入っていた。つまり朝鮮半島は、文化と技術の入口であると同時に、国際秩序と軍事的緊張が流れ込む窓口でもあったのだ。
ここで重要なのは、倭国が中国と直接つながっていたのではなく、百済や高句麗といった半島の国家と交流することで、大陸世界と関係を持つことが出来た点だ。そのため、どの国と組むかによって、入ってくる技術も人材も情報も変わった。中でも百済と結びついた畿内の政権は、仏教や建築技術、文書行政、外交儀礼といったものを一気に取り込むことができた。それは単なる文化交流ではなく、日本列島の政治のあり方そのものを、より国家的なものへと引き上げる力を持っていた。
ところが、日本列島の西端、つまり筑紫は、この朝鮮半島とのネットワークを自前で持つ位置にあった。北部九州は対馬海峡に面し、百済だけでなく、高句麗や新羅とも直接航路を持ち、中国大陸とも短距離でつながる。鉄資源や武器、馬、織物、さらには外交情報までが、まず筑紫に集まり、そこから日本列島へと流れていった。言い換えれば、筑紫は畿内を経由せずに、東アジア世界と直結できる玄関口だったのだ。
この筑紫の自立性こそが、畿内にとって最大の戦略リスクだった。畿内が百済と結び、朝鮮半島を足場に国家を組み立てようとするなら、筑紫が新羅や高句麗と別に動くだけで、日本列島の対外窓口は分裂する。その瞬間、畿内は外交も軍事も主導できなくなる。
(磐井の乱)
ここで起きたのが磐井の乱だ。527年、筑紫君磐井が畿内の命令に抗して動き、翌528年に武力で鎮圧される。史料の細部には議論があるが、骨格ははっきりしている。磐井はもともと畿内王権の外側にいる反逆者ではなかった。むしろ筑紫の代表として、畿内と半島をつなぐ外交と軍事の実務を担う、有力な同盟者だった。
問題は、畿内が百済と連携し朝鮮半島へ軍事行動を行おうとしたとき、その出兵ルートと外交の主導権を誰が握るのか、という点だった。畿内は、筑紫を経由して半島へ兵を送り、鉄や武器、技術を受け取る従来のやり方を、「畿内が直接統制する流れ」に切り替えようとした。これに対して磐井は、自分が構築してきた朝鮮半島との関係と交易の主導権が奪われることを拒んだと考えられる。
つまり磐井の「反抗」は、畿内への反逆というより、筑紫が長年担ってきた東アジアとの窓口を手放さないという意思表示だった。畿内と筑紫は、それまで協調して朝鮮半島と向き合ってきたからこそ、この利権と主導権の衝突は、妥協ではなく武力で決着するしかなくなったのだ。
本来なら、筑紫がそのまま列島の中心、いわば「大和のポジション」を取っていても不思議ではなかった。しかし、この敗北によって、日本列島の外側につながる窓口は、九州の自立ではなく、畿内の統制に組み込まれる方向へと大きく舵を切った。ここから、日本の国家形成の重心は、決定的に畿内へと寄っていく。
ただ、磐井の乱で直ちに畿内が列島を一元支配したわけではない。列島は依然として多極的で、畿内も豪族連合の微妙なバランスの上に成り立っていた。ただし一つだけ決定的に変わったのは、東アジアとつながる外のネットワークが、九州から畿内へと引き寄せられたことだ。
(蘇我氏の台頭)
この新しい状況の中で力を伸ばしたのが蘇我氏だった。蘇我はもともと畿内の在地豪族だが、磐井の乱以降、百済と結びついた渡来人ネットワーク、仏教僧、工人、外交使節を積極的に受け入れ、畿内に集積させていった。鉄器の製造、仏教寺院の建設、文書行政、対外外交。これらはもはや個々の豪族が担えるものではなく、外の世界と直結した専門集団の協力が不可欠だった。蘇我氏は、その「朝鮮半島とつながる実務ネットワーク」を畿内の中枢で取りまとめる役割を担ったのである。
つまり、磐井の乱で九州が担っていた独立した対外窓口が政治的に封じられたあと、その「東アジアにつながる機能」を別の形で引き受けたのが、畿内の中の蘇我氏だった。ただしそれは、筑紫の港や人脈をそのまま引き継ぐという意味ではない。蘇我氏は、百済を中心とする半島諸国との人的・宗教的・技術的なネットワークを畿内に直接組み込み、外交・軍事・仏教・工人集団を一体として動かす新しいネットワークを作り上げた。
こうして、列島の外交、技術、宗教、軍事は、もはや九州の豪族を経由するのではなく、百済を窓口として畿内に集約されるようになる。その実務を現実に運用したのが蘇我政権だった。ここで列島は、在地豪族がゆるく連合する世界から、朝鮮半島の国際秩序と深く結びついた「国際政権」へと質的に転換していく。
しかしこの転換は、王権内部に緊張を生んだ。643年、蘇我入鹿は、聖徳太子の系譜を引く皇族である山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族を攻め滅ぼす。これは単なる権力闘争ではない。百済との結びつきを基盤に国を動かしてきた蘇我氏にとって、太子系皇族が掲げる「天皇中心の秩序」への志向は、自分たちの政治モデルそのものを脅かすものに映っていた。
蘇我氏なりに考えれば、この行動は「国際政権」を守るための先制防衛だった。半島情勢が急速に不安定化する中で、内部から制度転換が起これば、外交と軍事の実務が分裂しかねない。そうした危機感が、皇族への直接的な武力行使という、取り返しのつかない一線を越えさせたと考えられる。
しかし、この山背大兄王一族の殺害こそが、決定的な引き金となった。実務を担う一豪族が、王統そのものに手をかけたことで、調整や妥協の余地は消える。ここで初めて、王権内部に「蘇我を切らなければ国家は持たない」という共通認識が生まれ、やがて645年の乙巳の変へと雪崩れ込んでいく。
(乙巳の変)
この蘇我体制を切ったのが、645年の乙巳の変だ。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺し、宗家を倒すに至った背景には、単なる権力争い以上の切迫した状況があった。そして、この切迫は、国際情勢だけが理由ではない。その2年前、643年に起きた出来事が、中大兄皇子にとって決定的だった。
蘇我入鹿は、聖徳太子の子である山背大兄王とその一族を滅ぼした。太子系王統は、理念と象徴として王権を支える存在だったが、蘇我にとっては、自らの政治構想と相容れない存在でもあった。この事件は、皇族内部に明確なメッセージを突きつけた。蘇我政権の構想に合わない王族は、血筋であろうと排除されると。
中大兄皇子にとって、これは他人事ではなかった。調整や共存の余地は消え、自分もまた、いつ排除されてもおかしくない立場に置かれたことを悟る。乙巳の変は、計画された改革であると同時に、時間切れの選択でもあった。
この時点で、東アジアの国際秩序はすでに大きく傾き始めていた。唐と新羅が半島の主導権を握りつつある中で、百済との私的な結びつきに依存する蘇我体制は、列島全体を外圧の最前線に晒しかねない構造になっていた。それは、国家としての判断ではなく、一氏族の関係が列島全体の運命を左右する構造だった。
中大兄皇子と中臣鎌足が直面していたのは、「誰が列島の対外関係を代表するのか」という問題だった。蘇我氏は百済を通じて半島と直結する私的な外交・技術・宗教のネットワークを持ち、それを基盤に王権の実務を動かしていた。しかし、それは同時に、畿内の王権が自分自身の意思で外交や軍事を統御できないことを意味していた。唐と新羅という巨大な外圧に直面するなかで、この状態は、国家として致命的な不安定さを孕んでいた。
乙巳の変は、「どの家の血が正しいか」を争った事件ではなかった。問題になっていたのは、列島がこれから誰の手で、どんなやり方で、外国と向き合い、国を動かしていくのか、ということだった。
それまでの蘇我政権は、百済との強い結びつきを通じて、外交や技術や宗教を取り込み、実際の政治を回していた。しかしそれは同時に、日本の国の進む方向が、特定の一族と半島の関係に大きく左右される状態でもあった。唐と新羅という強大な国が半島を支配し始める中で、このままでは国の命運を自分たちで決められないという不安が強まっていた。
中大兄皇子と中臣鎌足が目指したのは、そうした不安定な仕組みを壊し、天皇を中心に、外交も軍事も制度として管理する国へと作り替えることだった。乙巳の変は、そのための強引だが決定的な一歩だったのである。そしてこの出来事を起点に、日本は「大化改新」と呼ばれる国家づくりへと踏み出していく。
(白村江の戦い)
この政治改革に、決定的な緊張を与えたのが白村江の戦いだった。663年、倭国は百済を助けるために朝鮮半島へ軍を送り、唐と新羅の連合軍と戦って大敗する。
なぜ倭国が、そこまでして百済を守ろうとしたのか。それは単なる同盟国だからではない。百済は、何世代にもわたって、日本列島に仏教、文字、建築技術、医療、暦、外交儀礼を送り込んできた、いわば「文明の窓口」だった。畿内の王権や蘇我政権の政治と文化は、百済の人材と知識によって支えられていた。百済が滅びるということは、日本が東アジアの最先端とつながるパイプを失うことを意味した。
さらに重要なのは、百済が消えれば、その領土を唐と新羅が支配するという現実だった。そうなれば、日本のすぐ目の前に、中国の巨大帝国と半島の統一国家が現れる。倭国は、もはや半島を緩衝地帯として使えなくなり、いきなり東アジアの覇権国家と向き合う立場に置かれる。
だから倭国は、百済の再興に賭けて出兵した。百済を取り戻せば、半島に自分たちの友好勢力を残し、外交と文化の窓口を守れると考えたのである。しかし白村江での敗北によって、その構想は完全に崩れた。日本は海戦で負け、半島での足場を失い、百済も失った。
この瞬間、日本列島は初めて、「外へ打って出て半島を動かす側」から、「外の巨大国家にどう備えるかを考える側」へと立場を変えた。唐と新羅が半島の覇権を握った以上、次に何が起きてもおかしくない。白村江の敗北は、日本にとって軍事的な敗戦であると同時に、国の生き方を根本から変える体験だった。
白村江の敗北が突きつけたのは、単なる軍事的な敗北ではなかった。それは、「この日本列島の政治のあり方では、唐と新羅という巨大な国家と向き合えない」という現実だった。筑紫、畿内、出雲、吉備といった複数の勢力が並び立つ構造のままでは、誰が兵を出し、誰が税を集め、誰が外交を決めるのかが曖昧なままになる。これでは、国家として一つの意思を持つことができない。
唐は、戸籍を整え、人民を把握し、徴兵と課税によって巨大な軍と財政を維持していた。新羅もまた、その制度を受け入れ、唐と協調しながら半島の統一を進め、やがては同じ制度国家として唐と対峙する力を持つに至った。白村江の敗北は、倭国に「相手はもはや部族連合ではなく、制度化された国家だ」という事実を突きつけた。
これが、後世に「大化の改新」と呼ばれることになる改革の実体である。それは、645年の一つの出来事ではなく、乙巳の変から白村江の衝撃を経て、列島が生き残るために選び取った「国家への転換」そのものだった。具体的に何が変わったのかと言えば、豪族が土地と民を私的に支配する世界から、土地と人民を国家が把握し、戸籍と制度によって動員する世界への転換だ。誰がどこに住み、誰が兵になり、誰が税を負担するのかを、中央が直接把握する。そのための仕組みが、ここで初めて導入されていく。
唐と新羅という制度国家を前にして、「そうでなければ生き残れない」という現実が、日本にその選択を迫った結果だった。こうした発想を持ち込んだのは、百済や唐から来た渡来人官僚や僧侶、そしてそれを理解し使いこなせる畿内の知識層だった。彼らは、東アジアの「国家の作り方」を実地で知っていた。その知が、天武の時代に一気に実装されていく。
(壬申の乱)
この流れの中で起きたのが壬申の乱だ。白村江の敗北と、それに続く国家改造の必要性を背負ったまま、668年に天智天皇は近江大津宮で即位する。天智は、中大兄皇子として乙巳の変を主導し、大化改新の名のもとに改革を進めた人物だが、晩年の彼は1つの深刻な問題を抱えていた。それは、「この新しい国家を、誰が継ぐのか」という問題だった。
天智には有力な息子、大友皇子がいた。しかし、列島が直面していたのは、唐と新羅という巨大国家に囲まれた国際危機の時代である。単なる血統だけではなく、軍事と官僚と外交を束ねられる統治能力が後継者に求められていた。その点で、天智の弟である大海人皇子(のちの天武)は、軍事力と人脈の両方を持ち、渡来系官僚や仏教勢力とも深く結びついていた。
天智の死後、皇位は形式的には大友皇子に引き継がれた。しかし、大海人はそれを認めず、吉野に下って挙兵する。これが672年の壬申の乱である。この戦争は、単なる「兄の子と弟の争い」ではなかった。白村江の敗北後の日本が、「誰の手で、どの構想で国家を作り直すのか」を決める内戦だった。
天武側には、唐や百済の制度を知る渡来系官僚、仏教勢力、そして畿内・東国の武装勢力が結集した。天智の政権が築いた改革を引き継ぎつつ、それをより徹底した「唐型国家」へと進める構想が、天武の側に集まっていったのである。結果として天武が勝利し、日本の国家づくりの主導権は、ここで決定的に彼の側へと移る。
こうして成立した天武政権のもとで、戸籍、軍制、官僚制、律令、そして神話の再編が同時に進む。天皇とは、単に昔からいた王の名前ではなく、この国家という新たな仕組みの中心に据えられた、新しいタイプの権威だった。言い換えれば、天武は戦争に勝っただけでなく、その勝利を千年続く支配に変える「物語と制度」を発明したのだ。
(天皇制度の発明)
天武が行った国家づくりは、戸籍や軍制のような制度だけでは終わらない。制度は人を動かすが、制度だけでは人の心は揃わない。特に古代は、「なぜこの王に従うのか」という問いに対して、武力や税だけでは答えになりにくい。そこで必要になるのが、王権の正当性を支える物語だ。
ここで言う物語とは、単なる伝説ではない。国家の中心にいる者が、どこから来たのか。なぜその血筋が特別なのか。なぜ列島の諸勢力は、その中心にまとまるべきなのか。こうした問いに対して、社会全体が共有できる説明を与える。これが古代国家にとっての「神話の役割」だった。
天武の時代まで、列島にはいくつもの豪族の系譜と伝承があり、地域ごとに自分たちの始まりがあった。出雲には出雲の物語がある。吉備にも、筑紫にも、東国にも、それぞれの由来がある。つまり、列島には「最初から全国を貫く一本の歴史」が存在していなかった。だからこそ、制度を整えた天武政権は次に、「歴史の一本化」に取りかかる必要があった。
その仕上げが、古事記(712年)と日本書紀(720年)だ。ここで初めて、「神代から連なる唯一の王統」が、文章として固定される。これは単に古い話を書き留めたのではない。列島中に散らばっていた伝承や系譜を集め直し、取捨選択し、整合性が取れるように編集し、「この王統が列島の中心である」という筋書きを作る作業だった。
ここで決定的なのは、神話の頂点に天照大神を置き、その子孫として天皇を位置づけたことだ。天照大神から天孫降臨、そして地上の王統へという一本の流れを作ることで、天皇の権威は単なる現世の勝者ではなく、「天から正統に降りてきた血統」として語られるようになる。これによって、2から3世紀に実際に天皇がいたかどうかとは別に、8世紀初頭の時点で「最初から天皇がいたことにする」ことが可能になる。現実の後から物語を組み立て、その物語を国家の土台として固定する。これが、天武の国家づくりの本質だった。
では、なぜ古事記と日本書紀は2つ作られたのか。内容は似ているが、用途が違うからである。古事記は、神話から始まり、天皇の系譜を一つの流れとして語り、王統の内側に向けて「私たちはこういう国で、こういう家が中心だ」という物語を固める役割を持つ。いわば国内向けの、思想と系譜の核だ。
一方で日本書紀は、より「歴史書らしい」体裁を持ち、年ごとの出来事を整え、外交や戦いの記録も含めながら、国家としての公式の年代記を作る性格が強い。つまり、国内の統合だけでなく、唐や新羅など外の世界に対して「我々はこういう国家で、こういう正統性を持つ」という姿を示すための、公的な看板でもある。2つを並べることで、内向きの統合と、外向きの正当化を同時に達成する。これが二本立てにした理由だと考えると分かりやすい。
ここで一つ、重要な点に触れておく必要がある。日本書紀には、聖徳太子が遣隋使に際して「東の天皇から西の皇帝へ」といった趣旨の書簡を送ったと記されている。これをそのまま事実と受け取れば、7世紀初頭の段階で、倭国はすでに「天皇」という称号と対等外交の意識を持っていたことになる。
しかし、この記述が史実そのものかどうかについては、慎重であるべきだと考える。隋側の史料には同様の文言が確認できず、また制度としての天皇制が整うのは、明らかに天武朝以降だ。そう考えると、日本書紀のこの記述は、当時の事実をそのまま記録したというよりも、8世紀初頭に成立した天皇制国家を、過去へと遡って正当化するための編集であった可能性が高い。
これは日本書紀の信頼性を否定する話ではない。むしろ、日本書紀が「過去を記録する歴史書」であると同時に、「国家の成立を内外に説明するための文書」であったことを示している。天皇という制度は、天武の時代に完成した。しかし日本書紀は、それを突然現れた新制度として描くのではなく、列島の長い歴史の中で育まれてきたものとして語り直すことで、国家の成り立ちに連続性を与えた。
ここで重要なのは、物語が現実の後に編まれているという点だ。それは事実を歪めるという意味ではない。国家が生き残るために必要な、共通の理解の枠組みを社会に与えるという役割を、物語が担っているということだ。そして制度は、その物語を長期にわたって支え、維持するための器になる。天武が作ったのは、軍事的な勝利だけではない。制度と物語を噛み合わせることで、「天皇」という中心を、列島の時間の奥行きの中に定着させる仕組みだった。
この新しい国家の構造を、実際に運用したのが藤原氏だった。ただし藤原という名前は、最初からあったわけではない。彼らの元の名前は中臣氏で、古くから宮廷で祭祀と儀礼を司る一族だった。神にどう祈り、どう言葉を捧げ、どう天と王権をつなぐか。その「作法と言語」を専門に扱うのが中臣の役割だった。
乙巳の変で蘇我氏が倒されると、中臣鎌足は天智・天武の王権と結びつき、この祭祀と正統性の専門家としての地位を一気に高める。やがて鎌足は「藤原」という新しい姓を与えられ、中臣氏は藤原氏として再編される。これは単なる改名ではない。天皇を中心とする新しい国家において、「神話と儀礼を管理する一族」として公式に位置づけられたことを意味する。
蘇我氏が握っていたのは、百済を通じて半島と直結する人と技術のネットワークだった。それに対して藤原氏が握ったのは、天皇の血統と神話をどう語り、どう正当化するかであった。天武のもとで天皇制国家が整備されると、藤原は王になるのではなく、王の正統性を外側から支え、管理する立場を選ぶ。これが、天皇と藤原が分業する二重構造の始まりになる。
その後、藤原氏は天皇の后を出すことで外戚となり、政治の実権を徐々に握る。平安時代の摂関政治とは、この構造が制度として完成した姿だ。かつて西日本や朝鮮半島へと開いていた回路は、白村江の敗北とその後の危機の中で閉じられ、国家の重心は畿内に集まった。その畿内の中心で、「天皇という象徴」を言葉と儀礼で支配したのが藤原氏だった。
ここに、筑紫や百済を起点とする外向きの世界が、なぜ最終的に近畿と藤原へと収斂していったのかの答えがある。外のネットワークが危険になったとき、国家は内に閉じ、その中心を強化する。そして、その中心を意味の上で支配できた者が、長期的な勝者になる。藤原は、まさにその場所にいた一族だった。
藤原と天皇が分業するこの二重構造は、その後の日本を長く安定させた。天皇は神話と血統の象徴として君臨し、藤原をはじめとする公家が政治と制度を運用する。武士が台頭した後も、この枠組みは壊れなかった。鎌倉幕府も室町幕府も、天皇の権威を形式的に認め、その下で実務を担うという形をとった。つまり、武士が政権を握っても、「天皇という中心」と「それを支える京都」という構造そのものは維持され続けたのである。
(地方分権と中央集権の反復)
しかし、この仕組みは時間とともに内側から歪んでいく。公家も武士も、京都の権威を奪い合うようになり、天皇と幕府、将軍と守護大名の関係は複雑に絡み合う。やがて、中心を守るための仕組みが、中心そのものを不安定にしていった。
その歪みが一気に噴き出したのが、応仁の乱だった。1467年からの内戦で京都は戦場となり、室町幕府の権威は崩れ、日本は戦国時代へと入っていく。これは、天武と藤原が作った「象徴と実務の分離構造」が、もはや内部の競合を抑えきれなくなった瞬間でもあった。
ここで起きたのは、「天皇・公家・京都という中心の政治的な弱体化」だ。つまり国家の実務は地方へ分散していく。しかし面白いのは、中心が燃えても中心という概念は消えないことだ。戦国大名が上洛を志向し、権威を欲しがり、最終的に天下統一が「京都と天皇をどう扱うか」に回収されていくのは、天武と藤原が作った二層構造が、まだ生きているからだ。中心が壊れても、中心を欲しがる。権威が弱っても、権威を借りる。これが日本の構造のしぶとさだ。
磐井の乱は、列島の西の窓口を畿内が押さえる分岐点だった。乙巳の変は、半島と結びついた私的ネットワークを切って、制度国家へ付け替える革命だった。白村江は、その改革を必要不可欠にした外圧の衝撃だった。そして天武から記紀へ、天皇は制度と物語として固定された。最後に、藤原はその固定された象徴を外側から運用する仕組みを完成させ、以後の日本史は、その枠組みの上で地方分権と中央集権を振り子のように繰り返す。応仁の乱は振り子が大きく地方へ振れた瞬間だが、それでも中心の物語は壊れなかった。
(日本の深い骨格)
日本史をこの流れで眺めると、天皇とは「最初からあった永遠の存在」ではなく、列島が東アジアの激動の中で生き残るために選び取った、1つの答えだったことが見えてくる。筑紫や出雲や吉備が並び立つ多極の世界は、白村江という外圧の前で持ちこたえられなかった。だから列島は、外のパイプを閉じ、内に中心を作り、その中心に物語と制度を重ねた。その中心に置かれたのが「天皇」だった。
磐井の乱は、外の窓口を畿内に集めるための分岐点だった。乙巳の変は、私的な国際ネットワークを切り、国家のネットワークへ付け替える革命だった。白村江は、その改革を避けられなくした起爆剤だった。そして天武と記紀は、その選択を「永遠の物語」に固定した。藤原は、その物語を現実の政治として運用する役割を引き受けた。
こうして生まれた「象徴としての天皇」と「それを支える実務の中枢」という二重構造は、応仁の乱で一度は崩れながらも、その後も日本の奥底に残り続ける。中心が燃えても、人々はまた中心を求める。その中心をめぐる物語と制度こそが、日本という国の、もっとも深い骨格なのだ。









