早嶋です。
パリス・ダコスタ・ハヤシマ(PDCH)。本ブログ読者の中で、どのくらいご存知の方がいらっしゃるでしょうか。PDCHは時計好きが集まり立ち上げたメゾンで腕時計の製造はスイス・ヌーシャテル州フルリエで行う独立系腕時計ブランドです。
長いブランド名は創業者3人のファミリーネームを連ねています。IT会社を中国で経営しているドイツ人のリチャード(パリス・リチャード)。医薬業界向けのコンサル会社を経営しているトム(トム・ダコスタ)、そして私の3人です。時計業界も宝飾品業界も高級ブランドの経験も無いただの時計ギークのオヤジ3人、好きが講じて起こした小さなメゾン。起ち上げたきっかけも誰もがする飲み屋の立ち話から。
10年位前、ロンドンでトムの結婚式がありました。同席していたリチャードとトムと話が盛り上がり、互いの趣味が腕時計だということがわかりました。それからリチャードが来日するタイミングに同じ話を繰り返しているうちに、我々が理想とする時計がありそうで無いことに気が付き、「だったらつくろう」というのがきっかけでした。博多の人は飲み屋で語り、次の人は「そんなこと言ったっけ・・・」と続かないのが常識ですが、そこは三国同盟有言実行。まぁ、すんなりいくものでもなく今でも多難の連続で、それ自体を遊びのように楽しんでいる状況です。
今回は腕時計の歴史について触れてみます。私達はブランドを構築する際に土地の力を信じています。同じ時計でもスイスやドイツやフランスと聞くと、その土地の匂いと同時にブランドがもつ特有の何かが浮かび、時計の表情やスタイルをイメージします。もちろん国産(日本)時計も同様です。理想の時計をつくる中で我々が考えたのは場所はスイス時計。しかもマニアックにヌーシャテル州フルリエ。これは国産の時計でもやっぱり岩手、そして雫石だね、という感覚にすごく近いでしょうか(このニュアンスが分かる方もこっちの世界に近い方々かな)。
スイスの時計産業はすでに4世紀以上の伝統と歴史があります。スイスは専門的な知見と高度な技術が集積しており、継続的に技術革新が行われ世界市場でもトップクラスの地位を維持しています。アイフォンやアップルウォッチがあれば時間を気にする必要は無い時代ですが、当時は時計を腕に巻くサイズにすることすら革新でした。今ではチープカシオなどの時計は1,000円くらいで購入できますが、クオーツ時計の技術も当時はセンセーショナルなものでした。当然、水につけても大丈夫という商品は無く防水機能を取り入れることも、スマートに腕に収めるために薄く小さなムーブメントを開発することも全てにおいて歴史と技術と試行錯誤の蓄積があってこその作品なのです。そして上記の技術は全てスイスからスタートしており、やがて世界に広まっていきました。スイス時計に雰囲気があるのはこのような400年以上の歴史があるからだと思います。
スイスにおける時計産業の歴史は14世紀頃から始まります。しかし当時の機械式時計の製造はイタリア、ドイツ、フランス、イギリス、オランダなどが盛んで時計自体は貴族の贅沢品か或いは船舶用の付属精密機械としての需要でした。当時のスイスは世界を席巻する存在ではありません。
16世紀半ばのジュネーブから本格的な歴史が始まります。当時よりスイス・ジュネーブでは宝飾細工が盛んで多くの職人を排出していました。しかしフランス出身の神学者であるジャン・カルヴァン(Jean Calvin)の宗教改革を皮切りに華美な装飾品の着用が禁止されます。1541年のことでした。結果、これまで金細工職人や宝石商などで活躍していた人たちは仕事がなくなります。
背景を説明します。当時のマジョリティであったカトリックは、極端な話、「聖書の解釈はローマ教皇と聖職者の役割だから一般人は教えを請い従いなさい」的な上から目線でした。カトリックの特徴の善行主義ももともとは自体はボランティアや恵まれない人に施しをすることを大切にしていたので問題はありませんでした。しかし徐々に、ローマ教皇に多額の寄付をすることも善行として認められたのです。その結果、「悪いことをした場合は、贖宥(しょくゆう)状を発行しますから多額の寄付をしなさい!」的な動きになり、聖職者が権力と富を握り汚職や不正が横行し始めたのです。
これに対してメスを入れたのがドイツの神学者、マルティン・ルターです。ルターは、「神と人が向き合うのが基本で、善行ではなく信仰そのものが大切だよね」と当時はおそらく命がけで宗教改革を起こしたと思います。同じ時期、コペルニクスは当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)に気がついていましたが最後まで正式な出版を行いませんでした。おそらく教皇に目をつけられるのを恐れたからだと思います。
ルターの宗教改革を進めたのが印刷技術の発達もあったと言われています。印刷技術が発達する以前はオリジナルの聖書を目にすることはそうそうなかったでしょう。そのため神やキリストが著者だったとしても、ローマ教皇や聖職者がマスコミのような動きをしていたので、実は都合が良い解釈を一般人に行っていたのかも知れません。しかし印刷技術の発達によってオリジナルの聖書がどんどん刷られ、いろいろな国々の言葉に翻訳されたので一般人も自分の目で直接聖書を読めるようになったのです。
この動きがスイスでも広がりゴージャスなカトリック、富と権力を集中する聖職者や教皇を批判して、カルヴァンは贅沢品を目の敵にしたのです。そして同じ頃、フランスではユグノー(カルヴァン派の新教徒であるプロテスタントのフランスでの呼び名)と体制派のカトリックの間で30年以上にわたるユグノー戦争が勃発していました。当初フランス王家(ヴァロア朝)はカトリックとユグノーの対立を利用してより自分たちの立場を強化しようと試みました。しかし、ユグノーの勢力が徐々に強まりユグノー率いるブルボン家のナヴァル王アンリが優勢になりフランス王となったのです。
このユグノー戦争が起きていた30年もの間、フランス国内で弾圧を受けていたユグノーがジュネーブやベルンなどのスイスの都市に亡命していきます。その結果、当時パリで盛んだった時計産業のノウハウもユグノーを通じてスイスに流入していったのです。カルヴァンの宗教革命で職を失ったスイスの金細工職人や宝石商はこれらをチャンスと捉えて時計産業に生き延びる道を見出したのです。そして時計と宝飾の技術がジュネーブを中心に融合してスイス時計産業が本格的にスタートしたのです。
1601年、ジュネーブで世界初の時計職人のギルトが設立されて、その後100年で多くの時計職人がジュネーブで技と経験を蓄積していきます。そして溢れかえった職人は、徐々に工房をジュネーブからジュラ山脈付近にまで広げていきました。ジュラという単語はジュラ紀のジュラです。恐竜好きでなくても聞いたことがある言葉でしょう。地質学における地質時代の1つでジュラシックなどもジュラ山脈が語源です。石灰岩を主とする堆積層の山脈でスイス高原を形成しています。古来からフランスとスイスとイタリアの堺にあり、地理的文化的な境界の1つとして機能している場所でした。
スイス時計を語る上で特徴的な人物にダニエル・ジャンリシャール(1665-1741)がいます。彼はエタブリサージュ(établissage)という分業方法を時計産業に導入した人物として知られます。それまでの時計師ギルトは1人の親方が雇える職人と徒弟は1人か2人までででした。更に、部品製作用の機械類の使用に関しても型押し、裁断、プレス、ばね用製造機械などを禁止するという考えを持ち合わせていました。一方でフランスから逃れて来た時計技師の一部は徐々に部分的な分業を進め高まる時計需要に応じるべきだという考えを持っていました。
やがて分業する動きも広がりジュネーブ市内の時計師は17世紀末頃から部品の製造はジュラ地方に移り住んだ専門職人に任せ、組立や仕上げなどの仕事に集中するようになります。経済的な見地から言えば全ての工程を一人で仕上げるよりも分業することでより効率的に、そして品質の向上も果たせることが分かっていたのです。ダニエル・ジャンリシャールは時計師でもありましたがそれ以上に金細工職人の天才と称されていました。組立や仕上げの際に金細工を施すことで仕事に集中するとともに、最終工程の仕上げと組立をジュネーブで行うことでジュネーブ製として高く販売できることも裏にはあったと考えます。
一方、歴史は面白いもので、当時のギルトは分業することでジュネーブ市街に大量に時計や半完成品の時計が溢れ価格が暴落することを恐れていました。そこでジュネーブで勝手に組み立てた時計や半完成品時計の持込を制限しルールを破った業者は罰金を課せるなどの管理を徹底したのです。後にも触れますが、日本は大量生産、大量放出することで価格破壊(クオーツショック)を起こしましたが、スイスは当初から伝統的な価値を維持しながら量産を両立する知恵を持っていたのです。
ムーブメントの歯車類を収める板部品であるエボーシュ、時計の歯車、機構の往復運動の精度を高めるテンプ、文字盤、針、リューズ、バックル等を専門の職人や工場から購入します。そして部品同士の調整や仕上げと組み立てを行う、日本語のニュアンスでは水平分業に近いでしょうか、エタブリサージュが確立されていきました。時計の設計や部品の手配、仕上げや組立、出荷から小売を手掛けるメーカーはエタブリスールと呼ばれ、まさに時計産業の中核をなしたのです。
ちなみにジャンリシャールが創業したメゾンは長いあいだ休眠状態でしたが、1994年にジラール・ペルゴを運営するソーウインドグループ(イタリア拠点)が彼の業績に敬意を評して復活させています。
エタブリサージュの効果は絶大だったと思います。当時の時計産業をイメージする数値に1790年の時点で、ジュネーブではすでに6万個以上の腕時計を輸出しているという記録が残っています。古い統計を見返すと、当時のフランスとベルギーの1800年時点での人口が300万人〜400万人程度なので、6万個の時計の製造と輸出は驚愕ですよね。
18世紀後半頃より時計製造は家内工業として地場産業と化していきます。ジュラ地方は現在のスイス・ヌーシャテル州、ジュラ州、ベルン州、ヴォー州にまたがる山岳部で、現在でもスイス時計産業の主要生産地です。ここまで読んでPDCHがスイス・ヌーシャテル州に拘ったことが理解いただけると思います。土地の力はまさにその土地の歴史そのものなのです。時計は時間を刻む道具です。我々はその時計を刻む瞬間を豊かに感じ、普段から身につけて、それを世代に継承することを理想に掲げています。時計をつくる人の歴史を重んじ、時計を使った人が世代を超えてその時を刻む。それらを体現するために土地の力を求めたのです。
ジュラ地方は雪深く、夏は放牧や農業を営み、長い冬の期間にきれいな水と器用な手先を活用して精密加工や機械加工、そしてレース編みなどで生計を立てていました。ジュネーブのような都市部と比較しても賃金水準が低く、分業を当初拒んだギルトも存在しなかったためフランスから追われた職人と共に徐々に時計製造の分業を家内労働の中心に置き換えたのです。当時の様子は、製造パートナーのヴォーシェが本社をおくフルリエの隣町、モンティエ(ボヴェBovetの本社がある街)にある時計博物館で見学することができます(現在、ヴォーシェが管理しているので広報に連絡すると開けてくれるでしょう)。
ジュラ地方では多くの農家が部品業者に転身して各々が技と経験とノウハウを蓄積していき各々が専門とする部品供給の役割を担います。そしてヴォーシェのように組立専門の企業が最終的な調整と組立と検査をして完成させる生産工程が確立されたのです。ブレゲ、ブランパン、ピアジェ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ジャガー・ルクルト、パテック・フィリップといった有名ブランドが誕生しています。現在でも時計産業の集積地としてスイス全土に26あるカントン(州や準州)の内、ジュラ地方のヌーシャテル、ベルン、ジュネーブ、ジュラ、ヴォー、ゾルトゥルンの6つのカントンだけでスイス時計産業の9割以上の雇用と85%以上の企業が集積しています。
参考
– 「機械式時計の歴史2」ウオッチ製造の歴史 土屋建治氏
– スイス時計協会FH 公式サイト
– 「スイスの時計産業の歴史と発展」財務総合政策研究所 佐藤栄一郎
– FDFA, Presence Switzerland 公式サイト
‘モノより思い出’ カテゴリーのアーカイブ
スイスの時計産業と歴史 ーその1ー
日本文化と感性工学
原です。
日本の夏の風物詩の一つに、風鈴(ふうりん)があります。
私は田舎育ちだったので、夏休みになると屋根の軒下に風鈴をぶら下げ、風鈴の音を楽しみました。
大学からは都会で暮らしはじめ、風鈴をぶら下げる習慣はなくなりましたが、帰省中や旅先で風鈴の音を聞くと、子供の頃に聞いた情緒ある風鈴の音や風情までも思い出し、一時的に子供の頃にタイムスリップした気になれます。
このように、風鈴の優れたところは、「わび・さび」を連想させる形状だけでなく、日本人の本来敏感な情緒的な感覚を刺激するところではないかと実感しています。
つまり、風鈴は長く培われてきた日本人独特の和の暮らしへの関心や美意識を呼びおこす作用を持つ「感性を軸とした製品」と言えます。
一方で、日本家屋が少なくなり、マンションや西洋風の建築が増えました。これらの建築物はエアコンが主流であり、日本式に窓を開け放して風を呼び込むということはしません。なので、若い人たちには「風鈴」を知らない人が増えています。
しかし、最近では、古民家を再生した新たなライフスタイルなど、和の暮らしが見直されてきています。日本人がその伝統的な様式に「癒やし」を見出そうとしていることが背景にあります。
私も災害プロジェクトの起案をきっかけに、オリジナルの風鈴作りに取り組んでいます。風鈴を作ったからといって災害への問題解決にはなりませんが、心の復興にはつながるのではないかと考え実行しました。
今後は、心地よい風鈴の音の解析など科学的な領域も取り入れながら、日本独特の美意識について探求していきます。
成熟化した時代では、モノの豊かさよりも、「心地良さ、癒やし、共感」など、心の豊かさが求められます。感性(右脳)と工学(左脳)の融合による新しい価値の創造が「ビジネスモデル、商品開発、サービス開発、政策形成、企画立案」には必要なのです。
デルギウディスの赤バック 連載002
早嶋です。
デルギウディス・ローマの赤いバック。出張先、仕事先、普段の出勤。はじめて出会ってからほぼ一緒に時を過ごすバックです。デルギウディスローマは1959年にデルギウディス夫妻によって創業されたローマのバックメーカーです。イタリアは大企業や組織の規模が大きい企業に高額の税金を課した背景があることから、小さな組織やファミリービジネスにとどまる企業が多いです。しかし、規模は小さくても素晴らし製品サービスを生み出し、それを世界相手に商売をする企業が自然と増えていきました。
結婚したての頃、妻とローマに行きました。ゆっくりと時間を過ごしたかったので6泊か7泊かをローマに。観光地をめぐり、地元のカフェで何度もお茶して、人間観察とおしゃべりの日々。非常に良い旅行でした。ローマは、ファッション感度が高く、まちなかを歩くだけで欲しい商品が沢山ありました。ということで、ローマの旅行では私も妻も結構な買い物をした記憶があります。
バックとの出会いはローマ旅行の最終日。買い物は随分したので、最後にローマの街をぶらぶらして夕方の飛行機まで時間をすごうそうと妻と話していました。が、しばらく行くことが出来ないと思うと、なんだかお店の前を通る度に欲しい商品が飛び込んで来ました、最終日が一番買い物をしたのかもしれません。
そんな楽しい時間を過ごしながら、路地裏の細い道を進み、蜂の巣が名物だというお店を見つけてランチをすることに。美味しい蜂の巣料理を食べながら、目の前に素敵なお店がありました。それがデルギウディスでした。お店の真ん中に私が今使っているバックがあり、その赤の発色が綺麗だなと思いながら妻と話していました。妻も同じく気になっていたようです。食事を済ませ店を訪ねます。当然の如く買ってしまったバックでした。
出張が多く、毎日のように酷使すると頑丈なバックでも3年程度でボロボロになります。このバックも傷んできたので、そろそろ買い替えようと思いました。気に入ったものは使い続けたいという癖からネットを叩きました。するとサイトから注文できることをしりました。注文する際に、当時のバックの出会いやこれまでの経緯を残しショッピングしました。すると創業者のお子さんであるアンドレアさんから丁寧な返事がかえってきました。
仕事がら色々な人に会います。バックが目立つので、スモール・トークのネタにすることが多いです。中には私も欲しいという方がちらほら。そんな時は、そのような方の注文をまとめて年に数回はオーダーをかけています。当然、アンドレアさんとのメールでのおしゃべりも継続しています。
Established in 1959 by Marcello Del Giudice and his wife Rita, Del Giudice is an Italian artisan firm that specializes in the manufacturing of leather bags byskilled craftsmen who have been trained and guided by the original founder.
参照:https://www.delgiudiceroma.com/briefcases-and-messenger-bags/leather-briefcase-etoile-de-6-74.html
ファーバーカステルのローラーボール 連載001
早嶋です。
ファーバーカステルのローラーボールペン。商品名はオンドロ。1761年、同社のスカパー・ファーバーはニュールンベルグのシュタインで鉛筆の製造を始めました。そして1851年に鉛筆の形状の標準を世の中に誕生させました。あの六角形のデザインです。それから鉛筆の長さ、太さ、高度、形が徐々に世界に浸透して今のスタンダードな商品が出来上がったのです。
ファーバーカステル社の鉛筆はプロセイン当時のビスマルク首相やフェルナンド・ポルシェ博士にも愛用され現在に至っています。ポルシェ博士はファーバーカステルの鉛筆で数々の名車をデザインされたようです。そしてこのオンドロの六角形の形状はそんな鉛筆元祖のファーバーカステルの偉業を記念してデザインされたペンなのです。
が、私がこのペンに出会ったのは別の経緯でした。それはパイロット社のフリクションボールのリフィルがそのまま改造せずに使えるからです。フリクションボールは、温度変化により色が変わるインクを使用し、間違って書いた文字や線を専用ラバーで擦り熱を与えることでインクの色を無色にすることができます。
鉛筆と消しゴムの関係は、鉛筆の成分が紙に吸着した部分を消しゴムを使って削ることで文字を消します。一方、フリクションボールはインクを摩擦熱で透明にすることで消した感覚を提供するイノベーティブな商品です。これだと消しかすが出ないし、紙が削られることがないので、きれいな状態での書き消しを実現出来る全く新しい顧客体験を提供する商品になりました。日本では2007年に発売され、それ以後驚異的なスピードで販売を続けています。
当初、フリクションボールを好んで使っていましたが、徐々になんだかテンションが下がります。機能は好きでもペンそのもののデザインが気に入らないのです。確かに書き心地と機能性は抜群でメモや相談業務の時、あるいはスケジュール帳の利用には最高の使用感ではありました。が、毎回そのペンを握るために、かなり残念な気持ちになるのです。
ある時、フリクションボールのリフィルの形を見ていると、なんとなくペリカンのローラーボールのそれとにていると感じました。そこで実際に、ペリカンのローラーボールにフリクションのリフィルを入れてみましたが、やはり引っかかってうまく使えません。が、その時からひょっとしての感覚で、熱意持ってフリクションボールのリフィルがそのまま入る形状のイケてるボールペンを探し始めたのです。
出張中、時間がある時は文房具屋に行きました。そして私の経緯と思いを説明しました。それから「フリクションノールのリフィルが入るか確認させて欲しい。もし、入ったら買います。」と。しかし半数の文具屋さんは受け入れてくれず、試させてくれませんでした。まぁ、売り物に何かあったら誰が保証するの?的な感じはわかりますが。
同じ要領で暇を見つけては文具屋に入っていた時、羽田空港に入っているペンショップで実験させていただくことが出来ました。販売員さんもペン好きだったようですし、私のペインも十分に理解して頂けたようです。そして、幾つか持ってきましょう。同じようなリフィルが入りそうなペンがいいですね。と。さすが餅屋、形状を見てどブランドやどの種類が良いのかの当りがあるのです。
そこで出会ったのがこちらのファーバーカステル。当時、限定色として売りに出されたオレンジの商品は定番としてラインナップされているようです。鉛筆が出来て150周年を記念して作られたモデルとか。そちらでそのモデルを購入して使い続けています。
現在は、エンジのペンに赤のリフィル。黒のボディーに黒のリフィル、木製のペンに青のリフィルを入れて使っています。文字を消す際は、フリクションボール純正の消しゴムが単体で売っているので、そちらを個別に使っています。そう今、興味の対象は、そのフリクションボールの消しゴムを納める筒です。やはりプラスチック製でパイロットのロゴが目立ち雰囲気がありません。今度はこちらを何かで削り出してケースを作ろうと考えています。
絵:岩間杏美
参照:http://www.faber-castell.jp/products/rollerball-pens/
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