早嶋です。約4200文字。
前回、抹茶についてブログを書いたところ、いくつか問い合わせをもらった。その中で、私は1つの企業体の存在を知ることになった。その企業が販売している抹茶を仮に「C」と呼ぶことにする。Cは八女の抹茶として、観光客向けに広く流通している。特にインバウンドには人気のようだ。価格は30gでおよそ3,000円。裏千家御用達として知られる濃茶用の抹茶と同水準の値段で販売している。抹茶不足の昨今、多くの茶商やお茶屋さんが抹茶の販売を控える中、その企業が展開する店舗では抹茶の在庫が豊富でインバウンドの顧客が列をなして購入している。
企業の名前は、業界ではどうも歓迎されていない。そのCは抹茶として販売しているが、業界団体からすると抹茶ではないのでは無いか。という声が発端だった。そこで事実を確かめるべく、その企業が展開している店舗に出向きCを購入。そして、茶商や見識者と共に、実際に試飲を行った。
今回試した4種類の抹茶をAからDの呼称をつけた。今回、比較対象として用意したのは次の4種だ。
A:裏千家御用達として知られる、濃茶用の抹茶
B:同じ系譜にある、薄茶向けの抹茶
C:今回問題提起の対象となる、八女で流通している抹茶
D:中国産の緑茶をすり潰した、いわゆる抹茶パウダー
AとBはいずれも、長年の実績を持つ正統派だ。Dは、あくまで比較のために用意した「抹茶ではないもの」である。そしてCが、今回の焦点だ。
試飲の結果だ。Cは、率直に言って抹茶では無い。抹茶として成立していなかった。苦味が先に立ち、舌に残る。後味が切れず、生の葉を噛んだような不快感がある。低温では旨味が出ず、温度を上げるほど雑味が強調される。AやBにある、あの静かな甘みの立ち上がりはないのだ。Dと比べても、むしろDの方が用途が想像できる分、まだ分かりやすい。これは好みの問題ではないと思った。茶商も、見識者も、評価は一致していた。
「これは抹茶ではない」
では、なぜCはこうなるのかの仮説を立てた。味には必ず理由がある。工程、物性、味覚は、因果でつながっているからだ。
■仮説1:原料が「てん茶」ではない
抹茶の原料は、本来てん茶だ。覆い下栽培を行い、蒸した後に揉まず、酸化を抑えた茶葉である。Cには、その前提が感じられない。テアニン由来の旨味が乏しく、カテキン由来の苦味が前に出ている。これは、覆いが不十分、あるいは煎茶系の葉を使っている可能性を示す。
■仮説2:揉んだ茶葉を粉砕している
抹茶は「抽出しない茶」だ。そのため、細胞を壊す揉み工程を意図的に避ける。Cの味は、細胞破壊後の酸化が進んだ茶葉を、そのまま飲まされている印象に近い。これは、のび茶(揉み茶)を粉砕した場合に典型的に起きる。
■仮説3:高速粉砕による熱劣化
石臼で挽いた抹茶は、粒子が丸く、熱を持たない。一方、高速粉砕は摩擦熱を生み、クロロフィルや香気成分を壊す。Cの粉は、粒度が不均一で、光の反射が強い。香りは立たず、後味にだけ重さが残る。これは、機械粉砕の特徴と一致する。
■仮説4:茎・葉脈の除去が不十分
抹茶は、葉を飲む茶だ。だからこそ、飲めない部分は徹底的に取り除く。Cには、繊維質由来の舌触りと雑味がある。この工程を省いている可能性は高い。
見た目・色・香りは、工程の結果そのものだ。AとBは、深く落ち着いた緑色をしている。粉は均一で、光の反射が柔らかい。湯を注ぐ前から、香りが静かに立ち上がる。しかし、Cは違う。色は黄緑寄りで、どこか濁る。粉の主張が強く、香りが弱い。Dはさらに分かりやすい。明るい黄緑で、完全に別物だ。見た目は嘘をつかない。それは、工程の積み重ねがそのまま現れた結果だからだ。
Cの缶には「抹茶」と書かれている。原材料は「緑茶」。だが、「てん茶」「覆い下」「石臼」といった表現は一切ない。一方、AやBは表記こそ簡潔だが、保存方法や鮮度への注意が徹底している。これは、抹茶が極めて壊れやすいものであることを、売り手が理解している証拠だ。
ここまでCの評価を味覚と香りと色等で評価し、早嶋の推測を書いた。しかし、Cは決して違法を働いているわけではない。興味深いことに、現時点で「抹茶とは何か」を定義する法的基準が存在しないという点だ。てん茶を石臼で挽いたものでなくても、「抹茶」と名乗れてしまうのだ。しかし、仮にCがそれを理解したうえで抹茶として提供しているのであればモラルと文化的な破綻を感じる。
なおCは、同一の価格帯で、同様の抹茶商品を複数展開している。この手法自体は、マーケティングの観点から見れば理解できる。味に幅を持たせることで、評価を「良し悪し」ではなく「好み」の問題へと転換できるからだ。
実際、抹茶に詳しくない消費者にとっては、「これは合わなかったが、別の種類なら違うかもしれない」と受け止められる余地が生まれる。ただ、抹茶という飲み物が、本来は明確な工程と思想によって成立してきた文化的産物であることを踏まえると、こうした評価の曖昧化を前提とした商品設計には、違和感を覚える。
抹茶は本来、どの葉を使い、どの工程を踏み、どのような味に設計したのかが問われる飲み物であり、その問いを「好み」という言葉で回避する構造が常態化すれば、抹茶という文化そのものの輪郭が、徐々にぼやけていく。
戦略として巧妙であることと、文化的に健全であることは、必ずしも一致しない。
仮に法的に問題がなかったとしても、工程や定義を語らないまま消費者の理解不足に依存する売り方が広がれば、長期的には市場の信頼を損なうリスクを内包する。
早嶋は、その点にこそ、注意を向ける必要があると感じている。
そもそも抹茶とは、
●覆い下栽培した茶葉を、
●蒸した後に揉まず、
●茎や葉脈を除去し、
●低熱で微粉末化し、
●単体で飲めるよう設計された茶だ。
これは嗜好の話ではない。科学と工程の積み重ねだ。抹茶は、玉露や煎茶と決定的に異なる点がある。それは、抽出して飲む茶ではなく、葉そのものを摂取する茶だという点だ。
煎茶や玉露は、茶葉の成分を湯に溶かし出して飲む。一方、抹茶は粉末化した葉をそのまま体内に取り込む。この違いが、栽培方法から製造工程に至るまで、すべての設計思想を決めている。
まず、なぜ覆い下栽培を行うのかだ。茶葉は日光を浴びると、渋味や苦味の元となるカテキンを多く生成する。一方で、日光を遮ることで、旨味成分であるテアニンが分解されにくくなり、葉の中に蓄積される。抽出する茶であれば、多少の苦味は湯加減で調整できる。しかし、葉を丸ごと摂取する抹茶では、苦味が直接舌に現れてしまう。そのため、抹茶には覆い下栽培が不可欠になるのだ。
次に、なぜ蒸した後に揉まないのかだ。揉むという工程は、茶葉の細胞を壊し、成分を外に出しやすくするためのものだ。煎茶や玉露では、香りを立たせ、抽出効率を高めるために必要な工程である。しかし抹茶は、抽出を前提としない。細胞を壊してしまうと、酸化が進み、色や香りが劣化しやすくなる。抹茶では、細胞構造をできるだけ保ったまま乾燥させることで、旨味と色を葉の内部に閉じ込める。
さらに、なぜ茎や葉脈を除去するのかだ。抹茶は葉を飲む茶である以上、舌触りと消化性が極めて重要になる。茎や葉脈には繊維質が多く、苦味や雑味の原因にもなる。抽出茶であれば、これらは湯に溶けにくいため問題になりにくい。しかし抹茶では、そのまま口に入る。だからこそ、飲めない部分を徹底的に排除する工程が発達したのだ。
最後に、なぜ熱を与えないよう細心の配慮がなされるのかだ。抹茶の色や香りは、熱に極めて弱い。摩擦熱によってクロロフィルが変性すれば、色はくすみ、揮発性の香気成分は簡単に失われる。そのため、石臼のような低速・低温の粉砕方法が選ばれてきた。効率は悪いが、抹茶として成立するためには不可欠な工程なのだ。
こうして見ると、抹茶とは単に「粉にしたお茶」ではない。葉をそのまま食すという前提から、逆算的に設計された、極めて論理的な飲み物だと言える。AやBの色、香り、味は、この工程の必然的な結果だ。そして仮説だがCは、まったく別のものだと思うのだ。
これはもはや個社の問題ではない。構造的な問題だ。抹茶の定義が共有されていないこと。行政も、業界も、それを外に語っていないこと。その結果、「抹茶風の商品」が、本物と同等、或いはより高く沢山それとして売られているのだ。しかも、観光客という一見さん相手にだ。代々、茶道を行う方ではなく。そして、Cは、市や周辺組織からも大々的に支援されている。抹茶ブームに便乗し、文化的に成立していないものを、本来の抹茶より注目を集めているのだ。早嶋には、極めて歪な状態に見て取れる。
もし、このままの状況が進んだ場合、抹茶産業のシナリオはどうなるだろう。海外では「抹茶=苦い粉」という認識が広がる。本物の抹茶は「分かりにくい高級品」として埋もれ、工程を守る生産者ほど、報われなくなる。これは、すでに他の嗜好品産業で見てきた構図だ。
たとえばワイン。市場が拡大した初期段階では、「赤ワイン=渋くて酸っぱい酒」という雑な理解が広がった。大量生産された安価なワインが市場を席巻し、本来のテロワールや醸造思想を持つワインは、「分かる人だけの高級品」として隅に追いやられた。結果として、丁寧な畑仕事と醸造を続けてきた生産者ほど、価格競争に巻き込まれ、苦しむことになった。
ウイスキーでも同じことが起きている。ブームの中で、「スモーキーで強ければ良い」「熟成年数が長ければ価値がある」といった単純な物差しが独り歩きし、本来は原酒の設計や熟成環境で評価されるべき品質が、マーケティング用の言葉に置き換えられていった。結果として、粗製濫造と価格の乖離が起き、市場が一度冷え込む局面を迎えた。
日本酒も例外ではない。「フルーティで甘い=良い酒」という分かりやすさが消費者に受け入れられる一方で、地域性や造りの違いは語られなくなり、長年の技と思想を守ってきた蔵ほど、説明不足のまま埋もれていった。
これらに共通するのは、定義や工程が語られないままブームが先行し、市場が「分かりやすいが本質ではないもの」に支配されるという点だ。抹茶も、今まさに同じ分岐点に立っている。
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