新規事業の旅206 日本企業の構造的な惰性

2025年8月20日 水曜日

早嶋です。3000文字です。

(構造的惰性)
複数の事業を持ち、本部機能と現場機能を内包する比較的大きな組織では、「壁」の存在が問題視される。本部と現場の壁。事業部間の壁。部門間の壁。こうした壁があることで、コミュニケーションは滞り、情報は共有されず、「言いたいことが言えない」空気が蔓延する。結果として、対処が遅れ、問題の発見も遅れ、課題が組織の中で停滞したままとなる。そして、その状態が当たり前になり、誰も本気で対処しなくなる。

その一方で、現場の多くの社員は「忙しい」と口にする。しかし、何に忙殺されているのかを問い直しても、その実態は可視化されておらず、行動と時間消費に対する妥当性の検証もされていない。「忙しい」が日常語となり、問い直されることのない前提として放置されているのだ。

さらに、恒常的に耳にするのは「人手不足」だ。しかし実際に人員が足りていないのかと言えば、話はそう単純ではない。問題は「人材の量」ではなく「質」、つまり「優秀な人材がいない」という論調にすり替わるのだ。だが、その優秀の定義を問うと、明確な答えは返ってこない。

このように、「壁」「忙しい」「人手不足」という言葉は、どれも現象としては認識されているが、具体的な中身に踏み込んで構造的に整理されていない。課題が言語化されず、過去の繰り返しを惰性的に回し続けているだけであり、それが組織の慢性的な停滞を生んでいるのだ。「惰性の安定」の先には、「ゆるやかな死」が待っている。悲しいかな、急激に崩壊することはないが、じわじわと競争力を失い、誰もその兆候に気づかないまま沈んでいく。そんな未来が見えてしまう。

(なんとなくの正体)
多くの企業では、人の採用を「学歴」で判断してきた。学歴はラベルである。本来見るべきは、その人のキャラクターや経験、ポテンシャルであるべきだが、採用は配置要員の確保という組織都合で行われた。採用後は、画一的な新人教育を経て、任意の事業部に割り振られる。この時点で、個人の能力や適性よりも、「組織の空きポスト」が優先されている。今の若手世代が「ガチャ」と表現する。言い得て妙だ。

教育についても、全社的には新人研修と階層別研修がある程度で、実践的な専門教育は事業部に丸投げされている。しかし、事業部側においても、教育が仕組み化されているケースは稀であり、ほとんどは「見て学べ」「先輩の背中を見ろ」という属人的な育成に依存している。上司にノウハウがあれば育つが、なければ放置。ここに、育成の再現性はないのだ。

その結果、「なんとなく人がいない」「なんとなく教育ができていない」「なんとなく通じ合えない」といった「なんとなくの不全」が蔓延する。これもまた、可視化されず、誰も問い直さない。

私の仮説だ。原因の一つは、日本社会が長年維持してきたメンバーシップ型雇用だと思うのだ。職務の定義がなく、人ではなく空席に人を入れる。そして、育成もキャリアも評価もすべて曖昧なまま回していく。キャリアプランなどはなく、定期的に配置を変えて突然の異動のあらし。逆らえば分が悪くなると思った社員は徐々に無気力になっていく。

(鍵はジョブ型だが進まない)
この構造を打破する鍵は、間違いなく「ジョブ型雇用」への移行である。しかし、日本におけるジョブ型移行は、掛け声だけが先行し、実態が伴っていない。

なぜか。最大の理由は、「制度・構造・文化のすべてが、ジョブ型と相容れない」からだ。考えられるポイントは6つある。

まず、日本の企業は 解雇規制が強すぎるのだ。ジョブ型は「仕事に人をつける」発想である。つまり、仕事が消えれば雇用も終了するのが本来の姿だ。しかし日本では、職務が消滅しても、人を解雇するのは非常に困難である。そのため、これまで解雇をせずに、職種を変えてでも雇用を守ってきたのだ。ただ、この運用は本来のジョブ型と相反するのだ。

次に、年功的な賃金カーブが足かせになっている。本来、ジョブ型では職務の価値に応じて報酬が決まる。しかし、伝統的な日本企業は、年齢や勤続年数による賃金カーブが残り続け、それがジョブ型設計の足かせとなっている。若手で適切な能力を持つ人員対して、適正な報酬を与えられず、ベテランの処遇を下げることもできないのだ。

3つ目は、労働組合との調整が不可避であることだ。労働組合は「雇用の安定」と「年功処遇」を前提に機能している。しかし、ジョブ型はこの思想と根本的に衝突する。そのため制度変更には慎重な交渉が必要となり、スピード感が削がれているのげ現実だ。

4つ目は、管理職に職務定義力が欠如していることだ。どのような職務に、どのような経験・スキルを持った人材が必要かを定義できる管理職が非常に少ない。なぜならば、これまで人事の采配で異動してきた人材に、今の仕事を行って貰えばよかったので、必要な能力やスキルを定義する習慣がなかったのだ。そのため人材要件の設計という発送が育まれなかった。

そして、人事部門も十分に機能していない。人事部門は制度運用に長けていても、業務設計や組織戦略に基づいた職務再編の能力を持っていないケースが多いからだ。現場理解も乏しく、形式的なジョブディスクリプションが形骸化している。

最後は、組織文化の壁だ。冒頭で議論した通り、日本企業は長年「あいまいな役割」と「気配り・助け合いの文化」で成り立ってきた。これ自体は素晴らしいことだが、ジョブ型の場合は役割が明確になる。しかし、従来の土壌では役割に忠実であることが必ずしも評価に繋がらない。むしろ自分の職務だけを果たす人は冷遇される土壌すらあったからだ。

(では、どうする?)
結論から言えば、ジョブ型への移行には、制度や運用を表面的に取り替えるだけでは不十分だ。組織の構造そのものを見直し、段階的にリデザインしていく覚悟が必要だからだ。

まず最初に取り組むべきは、組織全体の「仕事の棚卸し」をすることだ。自分たちの会社には、どんな仕事があり、どの仕事が本当に価値を生み出しているのか。そうした整理を行う過程で、一つひとつの業務や役割を洗い出し、それを再定義していくのだ。これがなければ、どんな人材が必要かを語る土台すら持てない。

次に重要なのは、管理職自身が「人材を定義する力」を持つことだ。誰かが来てくれたら育てよう、という受け身の姿勢ではなく、「この成果を出すには、こういう能力と経験が必要だ」と、逆算して考える力が求められる。職務記述書を作ることが目的ではない。成果から人材を設計する力こそが、これからのマネージャーに必要なスキルになる。

そして、変革はいきなり全社的に行わないことだ。まずは一つの部門、あるいは一つの職種で構わない。小さな範囲でジョブ型の仕組みを導入し、うまくいった例を丁寧に積み上げていく。その成功体験が、やがて他部門にも広がり、組織全体の変革へとつながっていくのだ。

(まとめ)
ジョブ型は「制度」ではなく「思想の転換」だ。人を組織の歯車として配置するのではなく、「価値創出の主体」として再定義することだ。役割を明確にし、責任と成果で評価する文化を、少しずつ育てていくしかない。

そのために、「なぜ壁があるのか?」「本当に忙しいのか?」「その人手不足は構造の問題ではないか?」などにもスルーしないで、整理していく。この問いと整理の連続の過程に、組織の変化が現れるのだと思う。



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