新規事業の旅195 モビリティ支配権をめぐる争奪戦

2025年6月26日 木曜日

早嶋です。約6300文字です。

(自動運転)
多くの人は、自動運転と聞くと「ハンドルを握らなくてもいい車」のことを想像する。確かにそれも間違っていない。しかし、いま本当に進行しているのは、それをはるかに超えた世界だ。これは、車の進化ではない。都市の再構築であり、OSとしてのモビリティの支配権をめぐる争奪戦だ。

移動という行為は、すべての社会活動の前提にある。それを誰が、どのロジックで、どのインフラで制御するか。それが決まるということは、ある意味で都市の振る舞いや人々の行動パターンすら、ソフトウェアによって「書き換えられる」ことを意味する。

しかも、これは米中という二つの超大国の間で、静かに、しかし確実に進行している。表向きには、車が自動で走るという技術競争に見える。だがその裏には、インフラ、AI、地図、OS、クラウド、そして統治のアルゴリズムが折り重なった、国家と企業の複雑な設計がある。

そして今、私たちの目の前には、アメリカと中国という二つの全く異なるモデルが並んで立っている。片や技術で突き進み、片や都市ごと支配する。そこに、欧州、中東、日本といった他地域が、どう絡むか、あるいは絡めずに終わるのか。これは単なるイノベーションの話ではない。地政学の話であり、世界のOSをめぐる物語だ。

(米国の主導権)
自動運転の世界において、米国は先行者だ。なかでも目立つのは、Waymo、Tesla、Zooxの3社だ。彼らの思想やアプローチはまるで違うが、同じゴールに向かって進んでいるように見える。つまり、「人間の移動を再定義する」という取組だ。

Waymoは、Google=Alphabetの内部から始まった。地図、AI、クラウド、そしてスマートフォンを握るGoogleにとって、自動運転は自然な延長線上だ。Waymoは地道に都市と交渉し、センチ単位の精度でマップを整備し、完全自律型のロボタクシーを走らせている。これは、AIと都市インフラが融合するGoogleの未来像そのものだ。

Zooxは少し異なる。Amazon傘下としての戦略が透けて見える。彼らは「人が運転する」という前提を捨て、EVをゼロベースで設計した。ハンドルもアクセルもない。物流と都市交通を一気通貫で制御するために、Amazonはこの企業をグループ傘下に加えた。言い換えれば、「人の運転を経由せずに、人と荷物を動かす」という夢を、物理的に具現化した存在がZooxなのだろう。

Teslaは異端にして本命かもしれない。FSD(Full Self-Driving)という看板を掲げながら、実際にはレベル2からレベル3の支援システムに過ぎない。しかし、彼らの強みは「実装と分布」にある。ソフトウェアをオンラインで更新し、走行中の車からリアルタイムにデータを集め、学習させる。つまり、インフラや規制を先に整えるのではなく、「ユーザーを走らせてから整える」という逆転の発想だ。都市を制御するというより、ユーザーを都市より先にアップデートしてしまうのだ。

ここにGAFAMの全体像が浮かび上がる。GoogleはWaymoで都市と融合し、AmazonはZooxで物流と接続し、Teslaはクラウド化された車そのもので戦っている。AppleはProject Titanとして一度は参入しようとしたが、現在は実質撤退。Meta(旧Facebook)も自動運転には消極的で、ARやVR空間の中に「移動」を再構成しようとしている。MicrosoftはCruiseやAuroraのクラウド基盤を支え、裏側からこのゲームに参加している。

つまり、GAFAMの中で、「自動運転を戦略の中核に据えているプレイヤー」は限られている。今のところ、Google、Amazon、Teslaの三つ巴。その構図の中で、勝ち筋がもっとも明確なのはWaymoだ。すでに完全無人のロボタクシーを実装している都市を複数持ち、AIとマップの精度も随一。だが、圧倒的ユーザー数を背景にTeslaがいつ逆転してもおかしくはない。その意味で、米国は「技術完成度とデータ規模」の二軸で覇者を争っている構造だと言える。

(中国の本気)
中国の自動運転は、もはや「本気」どころではない。これはもはや国家戦略の一部であり、都市そのものを支配することを前提に組み立てられている。

筆頭はBaiduだ。Apollo Goというロボタクシーのブランドを掲げ、北京、武漢、深センなど15都市以上で展開している。すでに1,000台以上の車両が日常的に街を走り、完全無人の運転も始まっている。Baiduはもともと検索エンジンの企業だが、Googleと同様にAIと地図の文脈で自動運転に突き進んできた。今では専用EV「RT6」を自社で設計し、まさに都市の「足」として根付かせようとしている。

次にPony.ai。この企業は米中両方に拠点を持ち、トヨタなどのグローバルOEMとも連携している。冗長なセンサー設計と独自の地図生成エンジンを武器に、都市単位での運行モデルを磨いている。北京や深センでは、完全無人の運行も実施済み。技術主導の民間企業ながら、公共交通の一部として組み込まれつつあるのだ。

そしてWeRide。ロボタクシー、ロボバス、ロボ物流の三位一体を掲げ、すでにアブダビやシンガポールなど国外展開も進めている。中国国内では広州、武漢、上海などで実装されており、むしろ「乗り物」ではなく「都市機能」の一部として扱われている節すらある。

ここで注目すべきは、中国の「GAFAM的存在」だ。つまり、Baidu、Tencent、Alibabaのような巨大IT企業が、この覇権ゲームにどう関与しているかだ。

Baiduは説明した通り、完全に自動運転の中核を担うプレイヤーだ。一方、Tencentはモビリティそのものには直接手を出していないが、インフラ、地図、そしてゲーム空間などの「メタ空間」との連動で布石を打っている。Alibabaも直接の自動運転ではなく、Cainiao(菜鳥)による物流ネットワークや、AliOSによる車載OSなど、裏方として関わっている。

加えて、中国にはBYDという圧倒的なハードプレイヤーが存在する。テスラのライバルとされがちだが、実際にはすでにハードの規模ではテスラを凌駕しており、独自のADAS「God’s Eye」をほぼ全車に標準搭載するなど、自動運転の手前で「既成事実」を積み上げている。

中国の自動運転は、企業が単独で勝つのではない。企業と国家と都市が連動して勝ちに行くのだ。この構造は、自由市場でバラバラに勝負を挑む米国とはまったく異なる。ここには、「どの都市で、どの車を、どれだけ、どのルートで走らせるか」という政治性すら入り込む。もはや「技術」ではなく「統治の一部」なのだ。

(欧州の時間稼ぎ)
欧州は、強い。少なくとも、法とルールをつくるという点においては、誰よりも洗練されている。だが、こと自動運転というゲームにおいては、その「強さ」は逆に重たくなっているようにも見える。

Volkswagen、BMW、Mercedes、Stellantis。欧州を代表する名だたる自動車メーカーたちは、確かに一定の開発を進めてはいる。VW傘下のCariad、英国発のWayveなど、技術ベンチャーの台頭もあるにはある。

だが、最大の問題は、「走らせて学ぶ」という米中の手法に、都市側の許容が追いついていないことだ。GDPRを代表とするプライバシー保護、AI法案によるリスク等級制、道路交通法の厳格な規制。すべてが、自動運転の実証を「慎重に」「ゆっくりと」進めざるを得ない構造になっている。

欧州は、自動運転のOSそのものではなく、「その動きを制限する憲法」を作ってきた。これは、一定の戦略性を持つ。ルールを握れば、プレイヤーを支配できるという思想だ。しかし現実には、WaymoもBaiduも、そしてTeslaすらも、欧州の市場に対しては「慎重に見守る」姿勢を取っている。つまり、欧州は自らの規制によって、覇権の舞台から外れていっているのだ。

その時間を使って、自前のプレイヤーを育てることができるか。技術開発において2年から3年のギャップは致命的だ。世界が動く速度に比して、欧州の動きは確実に遅れている。法と規制のバリアで時間は稼げても、それは一時しのぎのシェルターに過ぎないのかもしれない。

(実験都市としての中東)
世界で最も自動運転の社会実装が早いのは、アメリカでも中国でもない。それは、「受け入れる意思のある都市」だ。この意味で、中東、とりわけUAEやサウジアラビアは、今や世界最大の実験場になっている。

アブダビでは、WeRideがミニバスとロボタクシーを同時に走らせている。Pony.aiもテストエリアを広げ、すでに一般利用者の乗車も始まっている。規制は緩く、地元政府の後押しも強い。なぜなら、彼らにとってこれは、「石油の次に来る国家像」を見せるためのデモンストレーションだからだ。

サウジアラビアのNEOMは、その極致だ。都市そのものを再定義し、ゼロから構築するなかで、自動運転は「初期装備」として組み込まれている。そこには、「道路をどう作るか」という次元ではなく、「人をどう動かすか」という哲学がある。

中東は、覇権を争う舞台ではない。だが、そのど真ん中に位置している。米国の技術も、中国の都市設計思想も、ここでは等しく歓迎される。それは、両者を比較し、採用する側の視点を持てるという優位にほかならない。

中東は、自動運転を「未来の自分たちの生活を飾る技術」として受け入れようとしている。その姿勢こそが、もしかすると最も柔軟で、最もしたたかなのかもしれない。

(その他周辺国や地域)
日本はトヨタがいる。ホンダも日産も、技術的には一定の水準にある。だが、それが「都市OSの構築」という文脈で評価されることはほとんどない。

トヨタはWoven Cityという実証都市を作った。そこでは、ヒューマンセントリックな未来を描こうとしている。だが、あまりに慎重で、あまりに内向きだ。海外展開もない。データも閉じている。その結果、日本の自動運転は「自国向けADASの延長」で止まっている。

ASEANはどうか。GrabのようなMaaS企業が急成長しているが、そのプラットフォームの背後には、WeRideやBaiduといった中国系テクノロジーの影がある。南米やアフリカでは、BYDのEVが続々と導入され、中国製のモビリティが「デフォルト」になりつつある。

つまり、米中のどちらのネットワークに接続されるかが、今後の分断を決める。それは、車のメーカーを選ぶというよりも、「どのOSを採用するか」という決断に近い。

覇権を握るのは、国家ではない。技術でもない。都市の振る舞いを支配するOSそのものなのだ。

(OS戦争の行方)
自動運転は、もはや車だけの話ではない。それは、都市の振る舞いを誰が設計し、誰が制御し、誰が所有するのかという争いだ。アクセルを踏むのが人間である必要がなくなった瞬間、移動はインフラの一部に変わる。そうなったとき、問題となるのは「どのOSで動かすのか」という構造の話になる。自動運転とは、車を進化させる技術ではなく、都市そのものを再構成する力学だ。

この覇権をめぐる戦いは、すでに米国と中国という二大勢力の構図へと収束しつつある。技術とデータ、インフラと規制、国家と企業が複雑に絡み合いながら、まったく異なる2つのモデルが進行している。

アメリカでは、Waymo、Tesla、Zooxの三者が覇を競う。WaymoはGoogleの叡智を背景に、地図とAIを駆使しながら都市と接続していく。その技術は静かだが、確実に人間の移動を置き換え始めている。ZooxはAmazon傘下として、物流と交通を一体に制御するための「人間不要の移動体」をゼロから設計した。ここには、ラストワンマイルを誰が握るかというAmazonの本質が現れている。そしてTesla。未だ完全な自動運転ではないものの、すでに100万台を超えるFSD搭載車を走らせ、ユーザーの行動そのものをデータ化し、ソフトウェアで世界を更新しようとしている。つまり、都市を制御する前に、人間の行動をアルゴリズムに吸収しようとしているのだ。

ここに、GAFAMの動きが重なる。Appleは撤退。Metaはバーチャルへ。Microsoftは裏方でクラウドを握る。今や、自動運転を戦略の中心に据えるテックジャイアントは、Google(Waymo)、Amazon(Zoox)、そしてTeslaだけだ。つまり、米国のモデルは「技術で勝つ」ことと、「市場でスケーリングする」ことの両輪で動いている。

対する中国は、まったく異なる風景を描いている。ここでは都市そのものが、国家主導で自動運転に最適化されていく。BaiduのApollo Goは、北京や武漢など15都市以上で1,000台超のロボタクシーを運行中。すでに完全無人運転が日常風景になりつつある。Pony.aiはトヨタや複数のOEMと連携し、民間技術としての完成度を追求しつつも、都市と直結する運行モデルを構築している。WeRideはさらに広く、ロボタクシーだけでなく、ロボバスや物流も統合したインフラとしての自動運転を押し出している。

中国の強さは、企業と国家と都市が一体化している点にある。そこにBaidu、Tencent、Alibabaといった中国版GAFAMが関与し、Baiduは中核プレイヤーとして技術と運用を推進。Tencentはマップやゲーム空間と結びつけ、Alibabaは物流網やOSレイヤーで接続してくる。そしてBYDが、膨大な車両とADAS技術で「既成事実」を物理的に構築していく。これは、自由競争の皮をかぶった中央集権型モビリティ支配の完成形だ。都市を誰が制御するのか、その問いに、中国は国家全体で答えようとしている。

欧州は、これにどう向き合っているか。答えは「ルールを作ることで時間を稼ぐ」だ。GDPRに象徴されるような情報保護、AI法、道路交通の厳格な法体系。外資系プレイヤーの侵入を抑えながら、自国のスタートアップやOEMに呼吸を与えている。しかしその間にも、Waymoは都市を増やし、Baiduは車両を増やしていく。法による時間稼ぎが、技術による既成事実に追いつけるのか。欧州の選択は、ある意味で防戦に見える。

中東はどうか。アブダビやサウジではすでにPony.aiやWeRideが実装されており、NEOMのような未来都市構想では、自動運転は「前提条件」として組み込まれている。石油以後の経済と国家像を描く中東にとって、自動運転は象徴的なイメージ装置なのだ。つまり中東は、覇権を争う戦場ではなく、その優劣を証明する展示会場として機能している。

こうしてみると、世界はすでに分岐している。米国モデルは、技術とスケール。中国モデルは、統治と制御。欧州はルールで抵抗し、中東は開かれた実験場として使われる。

自動運転とは、単なる機械の話ではない。これは、どのOSが人間の移動を支配するかという問いだ。都市を走る車を、誰が設計し、誰がアップデートし、誰のデータで学習させるのか。それは、その都市が誰の思想で動いているのかを意味する。

もはや、覇権を握るのはエンジンでもなければ、デザインでもない。人の流れと都市の振る舞いを、どのアルゴリズムで制御するか──その争いこそが、自動運転の本質なのだ。



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