個性を伸ばせと言う前に、受け入れる社会を創ろう。

2021年5月27日 木曜日

早嶋です。

私が小学校の時頃から個性が大切だと聞かされた。が、実際に個性が際立つ人は、先生に目をつけられ個性を潰された。それでも自分の違和感やみんなと違うことに対しての息苦しさを誰かに気づいてもらいたかったのだろう。彼ら彼女らなりに表現をした。その方法は周りからすると「なんで?」となるが、彼ら彼女らからすると、それ以外の方法を他に知らなかったのだろう。髪を赤く染め、ちょっとだけ丈が短い、あるいは長い学ランを羽織り、ちょっとだけワタリが太い、あるいはちょっとだけ足首が細いズボンを履いて主張するのだ。明らかに寂しく、根底は誰からか注目してもらい、自分をわかってもらいたかったのだろう。

個性って、基本的に人と人を隔てるなにかとすれば、それは自然に自分に身についたモノだから、その個性は自分ではコントロールできないものだと思う。

私の髪の毛は、今日のように湿度が高くなると、ありえないくらい巻き出す。小さい頃は、この髪の毛が嫌で嫌で仕方がなかった。高校生の時にお金をためてストレートパーマをかけて登校したことがある。周りのみんなが直ぐに気づいた。「かけたの?」って。自分の中ではまっすぐ伸びた髪の毛をみて嬉しかったが、2日、3日もすれば髪が巻き始めた、相当強烈なくせ毛なのだ。

ある日先生に尋ねられた、ストレートパーマが取れたくせ毛がいい感じにパーマを掛けた風に見えたのだろう。当時の校則はありえないくらい個人の人権を無視していたので髪を自由にする権利など高校生にはなかった。「パーマをかけたろ?」と先生。「はい」と私。「だって髪の毛がクネクネしていてまっすぐしたかったら」と私。そして先生は笑った。なぜかと言えば、逆に捉えていたからだ。元々真っ直ぐな髪に、あえてのパーマをかけていると思っていたのだ。じみにパンチを食らったようでショックだった。実際は大したことでは無いが、髪の毛の話は当時の私に取っては大きな悩みだった。

しかしそれは私にどうにもできることが無いことで、一度それを受け入れることができればどうなるだろう。今のように、むしろ髪がクルクルしていると手入れをしなくて楽になるし。セットしてもしなくても、そもそも変わらないのだし、手間がかからなくて楽なのだ。

個性って人と人を隔てるなにかなのだから、当然に自然に身についたモノで、その個性は本人にもコントロールできないのだ。そこで個性を受け入れて、自分の特徴を理解することができれば、かなり楽になる。加えて、それは自分にだってどうすることもできないことだから受け入れる態度を取った瞬間に世界が変わりはじめるのだ。

しかし、次の困難がやってくる。他人が自分の個性を受け入れることをしないのだ。個性が大切といいながら、個性を潰す行動をとるからだ。その理由は、組織を管理したい大人が沢山いるからだと思う。自分の都合の良いように人を束ねて何かを成し遂げたいと思っているのだ。

例えば、世の中、個性を大切にしようと言っているが、実際に個性の集まりは管理することが難しいし、みんなの意見を聴いてなにかを進めようものなら、基本的に話がぐちゃぐちゃになってしまうから、何らかのタガにはめて丸め込みたいと思っている。と思う。ということで、ある程度の合理性っぽく見せた、見せかけのルールを作り、縛り、管理したいのだ。

そのため比較的おとなしい(このおとなしいのは静かだとかいう意味ではなくて、強烈ではない程度の意味で)個性の持ち主であれば、その枠の中にたまたま収まり息苦しさ等は感じないものとしよう。でもちょっとだけ他と比較したら強烈な個性を持っている人からすると、その枠の中に入ることすら耐えられないのだ。そして、その感覚は個人でもどうすることもできない。それが個性だからだ。

その時に、本人が本人の個性を知っていても、それを他人が見た時に、意図的にその枠から出ているのだと勘違いする場合が現時点では圧倒的に多いと思う。その他人はたまたま、枠の中に収まった個性の持ち主で、自分が当たり前で、他のみんなも同じようなものだと思っているかもしれない。その場合、ちょっとだけ枠から外れた他人をみると理解できなくなる。なんで枠の中に「収まらない」のだろうと疑問を持つのだ。ポイントは、収まらない人は意図的に、本人の意思で敢えてはみ出ているに違いないと推定してしまうことだ。

しかし枠から出ている当人は、それが個性の為せる技で、自分で意識してもどうにもできないことなのだから、結構大変なのだ。この困難を乗り切るためには、自分の個性を受け入れ、周りと自分が違うことを受け入れることにあると思う。

しかし、またここに困難が待ち受ける。それはみんなは同じだというところに属していると勘違いしていることで、何らかの安堵感を持っている人が多いからだ。米国の心理学者のマズローは言う。人は生理的欲求、つまり腹減ったとか喉乾いたとかを満たせば、次に安全の欲求を求めるという。家の中や敵から守られているなどだ。すると徐々に社会的欲求が芽生えてくる。何らかの組織や社会に属しているという欲求だ。ここで、人は自分は他と同じだと勘違いするようになったのでは無いかと私は思う。社会的欲求を満たすためには、自分の個性を殺して他と或いは他の組織の中に属しやすいような理想の勘違いの自分を想定して、そこになりきろう、収まろうとするのだ。そして、今たまたまその取り組みができた人が多数で、その取り組みができなかった人がアウトローと言われているのかもしれない。

だけど実際は違うのだ。その証拠は、人は常に幸せをもとめたり、常に他人と比較して自分の存在を認める節があることだ。ガリバーの話は秀逸で、小人の国に行ったときは自分が大きな人になり、巨人の国に行ったときは自分が小さな人間だと勘違いして性格まで変わってしまった。しかしガリバーはガリバーなのだ。

本当は、個人は個人で相対的な存在である必要が無いのに多くの人は絶対的な個人を持つことを苦手としている。だから常に自分自身と比較することなく、他人と比較してしまうのだ。ここが根本で息苦しさの理由になるのだ。

個性とは人と人を隔てる何かで、それは自分ではコントロールできない。自然に宿っているものだから。だから個人でもそれを理解して、個人の個性を受け入れる。そして他人に対しても他人の個性を理解して、次に受け入れる。みんな同じと考えないで、当たり前だけど違うんだよと受け入れることを始めたら、きっと世界はちょっとだけ行きやすくなるものだと思う。

ルール1:自分の個性を理解する(クルクルパーマを受け入れる)
ルール2:自分の個性はどうにもできない(ストパーをかけても基に戻る)
ルール3:他人も別の個性を持つことを気づく(ストレートヘアの人もいる)
ルール4:他人の個性を受け入れ、皆違うことを理解する(意図的に剃っている人もいれば、生えない人もいる)
ルール5:比較しない。みんな違うのだ。バカボンのパパのそれでいいのだ。は実に奥深しい。。



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