意味は無い

2021年5月13日 木曜日

早嶋です。

養老孟司さんの話の中で、感覚所与の話題が出てくる。これが実に興味深い。例えば、学校の黒板にチョークで青と書いた状況を想像してみてください。「青」と、まぁこんな感じでしょうか。

おそらく、このブログを読んでいる人は僕と同じ40代前後の方々でしょうから、青という言葉のイメージをアタマの中に取り入れたと思います。一方で、ヒト以外の動物と何らかの方法でコミュニケーションができたら、彼ら彼女らは、白いチョークで書かれているだから感じの意味はさておき、白い何かというイメージをアタマの中に取り入れるでしょう。

白い文字でも、赤い文字でも感じで「青」と表現すると、ヒトはアタマの中で解釈して青という概念を想定します、少なくとも日本の教育を受けていれば。しかし、動物はアタマの中で解釈することが出来ないので見た情報そのものを捉えるのです。これが感覚所与です。

例えば、震災直後の地震が来ると、多くのヒトは恐怖を覚え、避難経路の確認や情報収集といった行動を取ったと思います。これは感覚所与を受けてすぐに行動をしているのです。その際、脳に刺激を与えながら得たインプットを処理して判断して行動を起こします。しかし10年経過して、たまに地震を感じると、その行動のフィードバックを整理すると、そろそろ大丈夫ということで慣れてしまい、結果、10年前のような行動をしなくなるのです。

自然界では常に想定外の刺激が外部環境からやってくるので、アタマで考えて処理するのでは遅く、取り入れたインプットから意味を考えずにすぐにアウトプットを繰り返します。しかし、そのような行動を繰り返し行うとヒトは学習し始めて、インプットとアウトプットの差分を比較するようになるのです。ITにおけるいわば、フィードバックループのようなものです。そして、そこにギャップが生じていれば、つまり得たインプットを解釈してアウトプットしたけれども効果が薄かったなとなれば、徐々にそのインプットに対してはアウトプットしなくなり結果的に慣れてしまうのです。

つまり変化があれば人は行動をするでしょうが、その変化がづっと続けば慣れてしまい、何もしなくなるのです。この感覚所与はありとあらゆる感覚に生じます。つまりヒトが持つ五感です。

大学1年生、2年生の夏、富士山8合目の白雲荘という山小屋で長期のバイトをしていました。当時のバイトの仕事の中で辛かったのがトイレ処理です。今では信じられませんが、トイレはそのまま山の斜面に垂れ流していました。バイトの仕事は、たまにその現場に言って人工物を取り除くという仕事です。はじめは最悪だと思おっていましたが、実際行う中で慣れてきてその強烈な変化に対して慣れてしまったのです。

田舎で用を足すときのぽっとん便所。あれも今は無いのでイメージできないひともいるかも知れませんが。はじめのうちは匂いがきつくて出来ませんでしたが、徐々に慣れてきて鼻が鈍ってしまいます。これもヒトの慣れなのでしょう。

チョークで書いた青の話に戻ります。自分を振り返ると、小学校や中学校や高校と記憶優位の勉強を進めていたときは、先生が言ったこと、すなわち正解と無意識に捉えていました。しかし、今同じようなことを聴いた場合は、すぐに「ん?」それって本当なのか?片方の意見のみの情報で反対する側の意見はどうなっているんだ?と何らか受け取った情報に対して違和感を覚えるようになりました。昔は、先生が神様、正解と思っており、その情報が慣れてしまったら、全てを受け入れるようになったと思います。今は、受け入れても異なる世界が無数に有ることを知りました。したがって意識的に外部からの刺激があった場合、あまり考えないで行動していることに対しては時々振り返りをしています。

養老さんの話の中に、このような話題が出てきて、「感覚所与は意味あると思うものに限定して最小の世界を作り出す、そして世界を閉じ世界を満たす」という表現を使って話されています。非常に納得できることです。自分の興味があるものに関して意味を捉え、それ以外の外部からの刺激は無視するということです。その結果、自分で小さい世界を作り出し、無限に広がる世界の中で起きていることはそのヒトにとって全く関係なくなるのです。

話は飛躍しますが、結果的にヒトは概念の世界を作り出し、ヒトの世界を自分たちで限定し始めました。それが文明の世界で、今では都市の世界になっています。そして、ある時意味の無いものに触れた瞬間に、その意味を考え始め、自分が理解できないことに苦しむのです。

でも、本来は、意味があるか否かの意味さえもなく、意味が有るものを勝手に自分の中で意味があると思いこんでいたに過ぎないのです。自然の中を有るきまわれば、すべてのものに注意を向けて考え込むかと言えばそうでは無いと思います。しかし都市の現代社会の中に、ぽつんと大きな岩があったら、ヒトはその岩を排除する方向に動くでしょう。交通の妨げになるからです。でも自然の中を歩いていても、そのような行動をしないのです。

それは、最終的にヒトが定義した意味のあるもの以外の排除によって、自分たちの世界を作ったつもりになったからです。でも実際は、世の中のすべてのモノが意味があると捉えるよりも、意味は無いと捉えた方が自然なのです。すると九に、思考がすーっと楽になることが多々あります。

ソクラテスの無知の知。知らないことを知っていれば、全てにおいて興味がわく。勝手に脳が働いて楽しいことに満ち溢れる。意味がないことを前提に排除するのではなく、自分たちで意味付けをする世界を知る。することで常に考えて動き始めることができる。

ただ、上記の度がすぎると脳に対して負荷がかかり始めるので、意味を見出して考えなくなるという選択肢をヒトは選んだのかもしれません。



コメントをどうぞ

CAPTCHA