冗長性を冗長的に考える

2020年10月5日 月曜日

早嶋です。

””デジタルは、重複をさけることで効率をあげる。しかし従来の取り組みは無駄があったからこそ新たな発見が生み出されていた。””

ある種の仮説ですが、私は無理無駄を排除することが適切な活動を作り上げると理解していました。しかし、昨今の状況下において、無理無駄がある程度大切だと考えるようになりました。一定の無駄無理があることで、その個人やその組織は新たな取組のスタートになり、新たな発想が生まれる源泉になっていると考えているからです。

この無理無駄というワードは、なんとなくネガティブな感じを受けるので、ここでは「冗長性」と表記します。

◾デジタルコミュニケーション
デジタルのコミュニケーションが当たり前になり、2020年1月頃から本格的にスタートした非接触の生活。日常の会議では参加していれば一定の存在は示すことができましたが、デジタルの特徴は主張しない、発言しない、書き込まない、レスを示さないはすなわち存在しないかのように扱われます。従来のミーティングは反応が無いことに対して何ら疑問を持たなかった方々が、デジタルになった瞬間に相手の反応を気にするようになりました。Web上の会議のリストには存在していても、うなずくとかアイコンタクトをするとか、表情を動かすなどの変化が読み取りにくい理由もあるのでしょう。

新人。入社して半年程度が立ちますが、基本はデジタルで非接触のトレーニングでした。従来の手厚い新入社員教育が無いため、入社してからの不安は続いています。去年までは誰でも声をかけ、新人は先輩の背中を見ていましたが、デジタル上ではWeb会議が終了した瞬間に部屋の中にひとりぼっちになります。

例年、先輩や上司に相談していいのかタイミングが難しいと新人の悩みはあります。しかし、今年はそもそも誰が先輩で自分以外の社員の他に誰がいるのかも全く把握できていません。階段や廊下やエレベーターで声をかけられることも皆無です。しかし、彼ら彼女らが自ら発信しない限り、デジタルですから先輩や上司も全く問題が無いものとして扱います。去年と今年でコミュニケーションの冗長性が激変した結果、今年の新入社員は去年までと違って様々な苦労をされていると推察できます。

上司。これまで何気なくマネジメントとして仕事をしていた人の多くは恐怖を感じていると思います。デジタルになった瞬間にどのようなプロセスで具体的な成果を上げているのか?とプロセスとコンテンツ(結果)の両方に対して、どのように仕事をしているのかをを上級管理者に示さなくてはならなくなりました。

上級管理職も口では成果を出せばプロセスはどうでも良いといいながらも、多くのマネジメントの動きが気になります。そのため、1週間の仕事の内容を教えてと気軽に聞いたら、ミドルマネジメントの応えに絶句します。「午前中会議で午後はメールチェック」と、小学生以下の返事が年収うん百万円のマネジメント層から平然とかえってくるからです。皆が、「こいつら大丈夫か?と焦ったことでしょう。

しかし、アナログの世界では、その中で成果を出せていたので、ある程度放置していればよかったのです。そこそこ大人の社会ですから適応していました。

デジタルの世界に全てをなじませることをしなくても良いのでは無いかと思います。膝前的に生産性は向上して、10人で行っていた仕事は1人でも回るようになるでしょう。幾度もチェックしていた確認もデジタル化することでアルゴリズムが正しく回り始めたら、チェックをする必要性がなくなるでしょう。

それでもある程度昔のように冗長性をもたせた方が良いのです。無駄と思っていた時間や資源の中から考える余裕や枠組みがうまれるのです。

コロナで非接触を矯正されたからと言って人間の機能を全てデジタル化する必要はないのです。

しかし実際はそうはいきません。急激な変化に対して強制的に0と1の世界を取り入れようとしています。そしてその結果、従来のマネジメントのスタイルをむりやり変えたためマイナスの結果も多数うまれています。急激に厳しくしたり、あまり意味のない取り組みを矢継ぎ早に切り捨てた結果、見た目の効率は高まっているように見えますが、皆が疲弊し始めているのも事実です。

デジタルかアナログかはツールの話であって、本質的に多くのマネジメントがそもそも能力不足だったという仮説も正当化されています。冗長的なマネジメントをしている結果、10人の仲の複数が実は10人以上の管理をしていた。が、その管理者の責任が明確になったことで、効率的な人は仕事の量が減るけれども、非効率な人は仕事ができないまま。結果的に全体としては仕事ができない状態になっている。のでは無いかと考えざるを得ない状況なのです。

◾アイデアの創造
アイデアに対して色々な手法や考え方がありますが、共通する多くのことが偶然や組み合わせなるキーワードです。

そもそも創造する主体に対して新しいとする概念は、これまで認識していなかった、あるいは考えていなかったエリアに対して突如と出てきた概念を組み合わせたり適応させた結果の産物だと思います。従いその組織からするとたまたま新しいという概念になっただけで、実はその概念は他のエリアでは昔からあったというのも珍しくありません。

常々新しいアイデアは既存の延長にはなく、既存の概念の外側にあると考えて良いと思います。

もし、現在の合理性が進み、全てにおいて0と1の間で物事を考えるようになれば、メザニン的な中間的などちらにも属するような概念は都合が悪くデジタルの記述が難しくなるため無理くり排除されることでしょう。

その結果的、概念の冗長性が極めて小さくなります。するとどうでしょう。既存の枠組みが更に小さくなり、結果的に新しい取り組みは全くうまれなくなるのではないでしょうか。

近年リベラルアーツが大切だと言われている理由はここにあると思います。アイデアが既存と何かの組み合わせであれば、全く関係がない、よりその概念と遠い概念を組み合わせたほうが結果的に新しいアイデアが出てくる。そのために関係の無いことを学び視野を広げることに意味が出てくるのです。しかしデジタルになればなる程、明確な区分ができて、そもそも異質の組み合わせはありえなくなるのです。

ホモサピエンスが弱いにもかかわらず、ネアンデルタール人を結果的に排除できたのは、組織で過ごしたからで、組織の個人が発明した取り組みを誰かが模倣して時間の経過とともに組織の文化や文明へと昇華させていったからです。

力が弱い種族だった結果、皆で徒党を組み皆で考えベストプラクティスを更新しながら結果的に皆で守った。その中には当然に全く異なる個性が集まりはじめ、別の知的な行動や思考が偶然に重なり試行錯誤される。そしてそのような事が繰り返し行われた結果、時間の経過とともに良い仕組みができあがったのではないでしょうか。

宗教の芽生えも同じようなもので、たくさんの人が集まり、食べ物を管理し、いつでも暮らせるようにした結果、今では否定されることもある中央集権的な権力者が全体の食べ物を集め弱いものに分配するという仕組みができました。

強い権力者はその地位を維持したくなり、これまで存在しなかった組織のマネジメントを発明します。原始的な宗教も場合によっては人をコントロールする手段としてうまれたのではとも思えるほど宗教は人を組織化する手法としては上手くまとまっていると思います。

人が集まり、それが2,000とか3,000人の集落を作ると、頂点に立つ存在が組織を束ねていきます。当然別のエリアでも同じような取り組みが起こり、やがて食べ物を調達する時に互いに奪い合うという動きがはじまり、同じ種族の人族同士が喧嘩するという活動がうまれました。戦争への発展、そしてそれらから守るため、あるいは積極的に戦うために文明がまた発達していった。当時としては、全て新しい発想だったでしょうし、確実にこれらがきっかけで文明が一気に高まったといえるでしょう。

ネアンデルタール人のように完璧な種族が最高の筋肉と頭脳で少人数で合理的に暮らしていただけだったら、今のホモ属の反映はなかったのです。冗長性が人を今のように進化させていたのです。

◾役割のギャップ
デジタル化を強制的に進めるきっかけを与えたコロナ。アナログ全盛期の世界では頭角を現していた人が、デジタルベースでは急に行動が抑制され、従来の成果を出せなくなるという現象がたびたび観察されたことでしょう。

一方で、これまで何もできないと思っていた若者が、急に会社にデジタルインフラを整備しはじめ、率先して仕組みをつくり、積極的に提案を実現し頭角を表します。このような事例も度々別の組織で観察されています。

どちらも交わることがなかったアナログ的な人種とデジタル的な人種。今回の強制リセットによって交わらざるを得なかった人たちが、結果的にうまい組み合わせになり顧客に価値を提供するようになる。

きっとその組織はこれまでの枠組みが狭すぎただけで、評価されなかった人は、その枠組では特徴を発揮できなかっただけ。でもそのような人材が偶然にもそこにいたからこそ、急激にルールの変更や枠組みの変更があっても組織としては結果的に柔軟に対応できるようになったのです。

アナログ人間の良かったことは、そのようなデジタル人間の能力を認め、結果的に自由に権限を渡し取り組みをさせたことです。

タラレバですが、ここに対して冗長な人材がいなかったら、そのような組織は急に滅びるしかなかったのかなと思うのです。

仮に、全ての人材がデジタル人間だったとしたら、アナログ人間の感情的なギャップや取り組みに対しての不安などが理解できずに、機能的な提案のみで終わってしまい、結果的に今の柔軟な取り組みやシフトができなかったかもしれません。デジタルとアナログの両極が偶然に存在していたから上手く適応できな可能性が一定はあるとおもうのです。冗長性の成せる成果だったのではないでしょうか。

◾性別
世の中平等だという話が進んでいて私は違和感を持つ部分が多々あります。妻ともよく話をしますが、絶対に僕らができない取り組みを、妻は簡単に、時間もかけないで取り組みます。もし僕が挑戦しようとしたら到底時間をかけても同じクオリティでできないことを毎日提供してくれます。妻からすると、僕が行うことに対しても同じような感じる部分がある(と信じています)と思います。

しかし当たり前なのだと思います。互いが同じで、役割も同じで、できることが同じであれば、そこからは何も生まれず拡張もなくなります。

生物における平等の違和感は体力、知力、興味、経験、健康、センス等々、全てを同じにするこではなく、その違いを認めた上で、受け入れた上で公平に取り組むことだと思います。そう考えると結果的に性別が違っているだけで公平に捉えて物事を考え進めることが大切だとおもいます。

互いが同じだと考えるのではなく、性別の違いだけではなく、男性同士でも異なる部分があり、それらの違いを互いが受け入れた上で公平に接することで何か新しい概念がうまれるのでは無いでしょうか。これは女性同士でも同じで、結果的にそのように公平に振る舞える組織は冗長性が高くなり、新たな概念が生まれやすくなると思うのです。

◾で結局?
だとすると、令和2年1月をコロナ元年とした場合、現在で8ヶ月と少しが経過しています。これまで冗長性たっぷりのアナログから、冗長性を排除した0と1の活動が今後は全てに置いて本質的な非効率をうみだすのでは無いでしょうか。

随分と若い頃に、
・85%の人が無意識に行動する
・世界は非合理的にできている
というような本をたくさん読んだのを思い出します。

合理的というのは、定性と定量のようなもので、実は定性の中に定量があるだけであり、数の定義は人が後付した概念です。そのような発想で捉えてみると、非合理の中にたまたま規則性が瞬間的に見いだされただけであって、実はその集合知は非合理なのではという考えがあっても良いのかもしれないと考えます。

真実は定かでは無いですが、合理的に捉えた方が確率では高い。しかし、繰り返し事象を行っていく上で、非合理に捉えた方が良いような場合も出てくる。その際は、自分の合理性をリセットしてバージョンアップする思考や態度の柔軟さがあっても良いのでは無いかと思います。

そのためこれまでデジタルで捉えていた組織はアナログの冗長性を受け入れ、アナログで捉えていた組織はデジタルの良い側面を受け入れることで実は新たな組織に変化していくのではないか?と考えます。そうなると今年1年苦しんだ取り組みが、結果的に来年以降の組織に上手く反映していくのかもしれませんね。



コメントをどうぞ

CAPTCHA