疑うべきマーケティングの手法

2018年11月28日 水曜日

早嶋です。

マーケティングのゴールは、個々の細部のKPIの達成ではなく、売上の獲得、敷いては合理的な利益を残し、その原資を使って企業のミッションを実現することにあります。しかし、細分化された組織は、細分化された指標の達成に追われて、上記を見失います。その結果、部分最適になり、追いかけても効果が出ない取り組みに一生懸命になります。悲しいことに、その取組を行っている本人や部隊はそのことに気がつくことなく、自分たちは精一杯の努力をしており、会社に貢献している気分になります。そして、周りもその取組はきっと会社の役に立っているだろうと考えます。

しかし、それを実際にデータや上記の目標、つまり売上や利益やミッションの追求にマッチしているかを確認する部隊は少ないのです。皆、ある程度想いで動き、想いで考え、結果も出ているだろうと予測します。確かに、マネジメントが測定しなければならない個々のKPIは達成している可能性が高いので当然といえば当然です。しかし、そのKPIの設定が今でも正しいか?という基本的な質問を投げかける機能がかなり脆弱なのです。

例えば、販促でよく行われる商品や企業ブランドの認知に対して、広告を特定の数にリーチすることをゴールにするか、その特定の数が認知することをゴールとするか、その認知した人が記憶してもらうことをゴールとするか、その先の購買までをゴールとするか。どこまでのバリューチェーンを部隊が認識するかにうよって取り組みが異なります。

一般的に、広告にリーチできた場合、リーチした人が認知する確率は4割(実際は、それよりも低いと筆者は推定)、認知した人がそのことを記憶する確率は4割(同上)です。したがって100人にリーチしたところで、認知する人は40人、記憶する人は16人になるのです。このように考えると、はじめのリーチした人の84人は無駄打ちになったとも言えます。これらを考慮せずに、何人が見たという例えば視聴率を指標にしたところで、そこから実際に購買、購買後のアクションがどの程度確立されるかまで考慮しなければ、実際のビジネスにはあまり役にたたない。という見解も一部理解できると思います。

マーク・トゥエインの言葉です。「教育の本質は既成概念や常識を疑うこと」と。我々は理科の実験で習いました。仮説は間違っていても良い、検証をする過程でその仮設の筋を見直して修正する。そのプロセスを繰り返し踏むことで心理にたどり着く。ただし、実験を行った環境や前提条件によって、仮説は変わって来る可能性があるので、絶対の真理を問い続けることが大切だと。

このように考えるとマーケティングにおいての仮説の検証は、近年のビックデータや購買行動の記録やそれらを大規模に分析をする技術が発展して安価になることによって、大分実証が可能になってきました。それ以前は、それっぽい話を、それっぽい人が話して、それとなく結果が出ているような感じだったのかもしれません。実際の、その施策が効果を出したか否かが特定できないため、一度始めた取り組みを中止する意思決定が非常に難しくなり、気がつけば惰性でその行動を取り続けていることも多いのです。多分。

特に日本人は言霊と儒教の教えがある程度浸透しているので、変なことを口にするのは良くない。本当にそうなってしまうから。偉い人や目上の人、経験豊富な人が間違うはずがない。という思考になっているのです。また、実際は概念がよくわからず、性格な知識すら有していないため、誰も実はまともな質問が出来ていない。という側面もあると思います。



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