新規事業の旅209 20Wで世界を制御する人間

2025年8月29日 金曜日

早嶋です。1700文字。

人間は1日わずか20W程度のエネルギーで、すべての思考と、生命を維持する活動を行っている。脳の重さは約1.4kg。たったそれだけの質量の中に、知性、感情、直感、記憶、判断、行動のすべてが詰まっている。そして、冷却装置もなく、ほぼ無音で稼働しつづけている。

この「20W」という数字は、生理学と神経科学の研究に基づいている。人間の脳は体重のわずか約2%しかないが、基礎代謝全体の約20%から25%ものエネルギーを消費している。一般成人の基礎代謝はおよそ1,300kcal/日から1,500kcal/日であり、そのうち約260kcalから350kcalが脳の活動に使われていることになる。これは電力量に換算すると約0.3kWh/日から0.4kWh/日(=1,200〜1,500キロジュール)に相当し、平均出力でいえば15Wから20W前後になるのだ。

つまり私たちは、朝起きて、考え、食べ、動き、悩み、笑い、眠るまでのあらゆる営みを、20Wの省エネ脳で処理していることになる。すごいのだ!

一方、現在のAIはというと、たった1つの推論を出すのに数百Wから数kWの電力を消費している。たとえばGPT-4では、1回の応答でおよそ500Wh(=0.5kWh)前後のエネルギーが使われると試算されている。これは、人間が1日かけて生きる全消費エネルギーと同じである。

つまり、AIは人間の1日分の生きるエネルギーを、たった1回の発言で使っているということだ。

この差はどこからくるのか興味があると思う。それは、AIが「超正確に」あらゆる可能性をロジックで組み上げて解を出そうとするのに対して、人間は「曖昧に」考えることで、より早く、安く、省エネで答えを出しているのがメカニズム的な理由だ。

この曖昧さは、怠惰や雑ではなく、むしろ直感や経験則に基づく近似アルゴリズムであり、ヒューリスティック(heuristic)と呼ばれる。「なんとなくこっち」「たぶんこうだろう」というものだ。そうした判断の背景には、実は数えきれない過去のパターンの蓄積がある。

AIの世界でも、チェスや将棋などの特定領域においてヒューリスティックなアルゴリズムは成功している。特定の局面では「最善手」を選ぶための効率的な近道が開発されているのだ。しかし、それはあくまで閉じたルール内での最適化であり、人間のようにその思考様式を他領域に応用すること(汎用化)はまだできていない。人間は、将棋で学んだ戦略性を、ビジネスや人間関係に転用できる。AIは、まだそれができないのだ。

近年では、エッジAIやTinyMLなど、マイコンレベルでの省エネAIの実装も進んでいる。さらに、スパイキング・ニューラルネットワーク(SNN)という、人間の神経細胞の「発火」モデルを応用した仕組みも登場しており、電力効率の面では非常に期待されている。

だが、現時点ではこれらはおもちゃレベルの域を出ておらず、現実の複雑さを処理できる次元には至っていない。

また、現在主流のLLM(大規模言語モデル)は、Transformerという非常に重い構造で全ての入力パターンを計算しており、「直感で飛ばす」「経験で割り切る」といった省エネ的な思考は一切行っていない。

将来的には、「思考ルーチンそのものを選ぶ」メタ・ヒューリスティック構造、つまり「このタイプの問題にはこう答えればいい」という知識の再利用ができるAIが登場するかもしれない。だがそれも、20Wで世界を制御する人間の脳には、まだ到底及ばない。

「よくわからないけど、こっちの気がする」
「経験上、この道はまずいかもしれない」
「いや、こっちの方がうまくいくはずだ」

そうした曖昧で確信的な判断は、実は何百万回もの試行錯誤と体験によって磨かれた、圧縮された知性なのだ。私たちはその機能を、わずか1.4kgの脳に実装しており、それをたったの20Wで動かしている。冷却装置も、ファンも、水冷タンクも不要。沈黙の中で、何十年も絶え間なく、迷い、学び、判断を続けている。

AIがこの境地にたどり着くには、まだ長い旅が必要なのだ。



コメントをどうぞ

CAPTCHA