早嶋です。約4200文字。
日本でも、ようやくスタートアップへの注目が集まりつつある。経済産業省が主導する「スタートアップ育成5か年計画」では、1000億円を超える規模のファンドが複数立ち上がった。だが一方で、本当に必要な「制度整備」や「インセンティブ設計」は、まだ追いついていない。特に、「ディープテック」や「バイオテック」などの長期戦型のスタートアップにとって、それは致命的な差を生んでいる。これらを、ストックオプション(SO)制度を軸に、日米の制度設計の違いを丁寧に整理することで、日本での成長の限界を示したい。
(ストックオプション)
ストックオプション(SO)は、将来、あらかじめ決められた価格で自社の株を買うことができる権利だ。たとえば、今、会社の株価が1株100円だとする。あなたが「100円で買える権利(SO)」を持っていて、会社が成長して株価が1株1000円になったとき、差額の900円が利益となる。
これを活用することで、会社が上場やM&Aで成功した際に、社員や経営陣にもリターンがもたらされる。つまり、会社の成長が自分の報酬と連動する仕組みとして、スタートアップのモチベーション設計の柱となっている。
(アメリカの先進性と制度)
少し結論的な話になるが、SOの「行使価格」は、公正な市場価格(FMV)である必要がある。これは税制上のルールだ。もし、実際の株の価値よりも極端に安い価格でSOを発行すると、税務当局から「不当な報酬だ」と見なされ、多額のペナルティ課税を受けるからだ。そして、その公正価格を評価仕組みがあり、それが409A評価だ。これは、外部の独立機関がその会社の株価(FMV)を客観的に算定する仕組みだ。外部の機関が、DCF法(将来キャッシュフローを現在価値に割引)などを用い、公正な価値を提示してくれるのだ。
この制度があることで、会社も、従業員も、税務当局も、「この行使価格は正当だ」と合意でき、安心してSOを付与・行使・保有できるのだ。つまり、透明性と予測可能性があるからこそ、SOという制度が広く活用されているのだ。
アメリカのスタートアップでは、資金調達のたびに経営陣や従業員用にSOプール(例:全体の20%)を確保しておくのが常識になっている。このSOプールは、会社として将来株式を発行する予約枠のようなもので、実際には株式が発行されていない段階で準備される。
たとえば、1000億円を調達する際に、「将来の従業員報酬として20%の株式を確保しておきましょう」と決める。この20%は誰かが持っているわけではなく、会社が予約しておく報酬の原資のようなものだ。このように先に設計しておけば、あとからSOを発行しても、創業者や経営陣の持ち分がさらに削られることはない。むしろ、持ち分を守りながらチームにリターンを配れるという意味で、SOプールはとても合理的な設計なのだ。
よく誤解されがちだが、SOプールを用意することは、あらかじめ将来の報酬原資を準備しておくことであり、現時点では実際に株式を発行したわけではない。ストックオプションは、将来的に条件を満たした社員が「株を買える権利」であって、現時点で株主ではない。だから、SOプールの段階では創業者の持ち分は直接には減らない。そして資金調達時には、投資家と一緒に「SO分の希薄化をあらかじめ考慮した株主構成」を設計しておくため、後になってから創業者の株がさらに削られるということが起きない設計が可能なのだ。
(日本のインフラの脆弱性)
日本にもSO制度はあるが、409A評価のような第三者による株価算定の仕組みがない。税制も非常に複雑で、「行使時に課税されるのか?」「売却時に課税されるのか?」がわかりにくい。結果として、創業者やVCは「SOを発行したくない」と考えがちになるのだ。特に、バイオやディープテックのような「時間がかかるが社会的意義の高い分野」では、途中で優秀な人材が報酬面で報われないという深刻な問題が起きるのだ。
たとえば、大学発スタートアップや研究機関発のディープテックベンチャーでよく見られる課題がある。経営側が、「優秀な研究者にも株式インセンティブを渡したい」と考え、SOを配分しようとする。しかし、いざストックオプションを発行しようとしても、「どの価格で、いつ、どれだけ渡すか」に明確なルールがない。株価の評価を会社が独自に決めざるを得ず、税務署に「時価を不当に安くした」と判断されるリスクが残る。実際にSOを行使した時点で、「売却もしていないのに課税が発生」する可能性がある。結果として、「研究に集中していたら税金の支払いが生じた」「給与より税額が多くて困った」といったことすら現実に起こっているのだ。
また、アメリカのようにSOプールをあらかじめ準備しておくという慣習もないため、「この研究者に報いるには、誰かが自分の株を差し出すしかない」という歪んだ構造になってしまう。これでは、経営陣の側も誰にも報いられない設計に追い込まれやすいのだ。
これはVCがスタートアップに投資する際にもハードルになる。日本のVCは創業者が一定比率の株を持っていないと投資しなくなるのだ。これは日本のVCが厳しい、という話ではない。むしろ、SOなどでチーム全体に報酬を配る制度が整っていないからこそ、創業者が多くの株を持っていないと誰もモチベートできないという現実があるのだ。つまり、SOが機能していないために、創業者の持ち分にインセンティブ設計のすべてを担わせざるを得ないのだ。
(アメリカの制度や文化)
アメリカの従業員の中には、IPO前にSOを行使し、あえて株を売らずに保有し続けるという選択を取る人がいる。なぜかだ。米国では、SO行使から1年以上保有すれば、売却益が長期キャピタルゲイン税(税率20%)の対象になるというのが答えだ。一方、IPO後に行使&即売却すると、所得税(40%超)がかかってしまう。これを避けるため、IPO前に安い価格(409A評価)でSOを行使し、一定期間保有することで、税率を抑える戦略が存在するのだ。
だが問題は、「そのためには大金が必要になる」ということだ。たとえば、行使価格が1株2ドルで10万株なら、2000万円。株価が上がっていれば、その差額に対して数百万円から数千万円の税金も先に発生してしまう。合計で数千万円という現金が、IPO前に必要になってしまう。多くの従業員には、そんなお金はないだろう。そこで登場するのが、Secfi、EquityBee、Liquid Stockのような専門のSOファイナンス企業だ。
これらの企業は、上場予定のスタートアップ従業員に対し、SO行使のための資金+税金分を立て替える。そしてその資金は返済義務はなく、売却できた時点で利益から回収する(ノンリコース)が主流だ。そのかわり、フィアンす企業は成功したときに報酬(成功報酬)をしっかりと受け取るのだ。つまり彼らは、 株が上場して儲かればシェアをもらうし、上場しなければ損を飲み込むという、極めてスタートアップ的なリスク・リターンの設計をしている。
このモデルが成り立つのは、アメリカ社会が「リスクは共有し、成功で回収する」ことに寛容だからだと思う。株式価値が市場で透明に評価されている。409A評価があることでリスクの下限を読みやすい。法律上、ノンリコースでも契約が成立しやすい。従業員と投資家が共にリスクを取るという発想が根付いている。このような文化や制度の考え方がアメリカのユニコーンを連発する背景にあるのだ。だからこそ、SOを行使して保有しようとする従業員を、社会全体で支援できる構造になっているのだ。
(日本に欠けている制度的なインフラ)
一方日本だが、このようなSOファイナンス企業は、存在しない。制度上も文化上も、それを支える土壌がないからだ。日本では、未上場企業の株価評価が顧問税理士や社内の恣意的な判断に委ねられている。外部に公正な評価機関がないため、時価を不当に安く見積もったと判断されれば、会社も従業員も追徴課税や罰金のリスクを負う。例えば、大学発スタートアップのCFOが研究員にSOを1株100円で付与したとする。だが後に投資家が1株500円で株式を購入していた事実が発覚したら、税務署が「SOの価格設定は不当」として、研究員に所得税+加算税を課し、会社にも責任が及ぶという事案が起こるのだ。
SOの課税タイミングが極めて不明瞭で、行使時なのか売却時なのかの判断が難しい。というか、そのような税を想定した制度が整備されていないのが現状だ。特に売却していない段階で課税される「ペーパーゲイン課税」が混乱の元となっている。たとえば、ITベンチャーの社員がSOを行使(価格100円/FMV1000円)したが、売却できていないのに900円の課税対象となったなどの例だ。そして、その後、株価が下落し、税金だけ支払って何も残らずに退職するという恐怖がある。
アメリカでは、SecfiやEquityBeeといったファイナンス企業が、SO行使+税金の支払いのために資金をノンリコース型・成功報酬型で提供する。失敗すれば返済不要、成功すれば一部リターンを分け合うという仕組みだ。先にも説明したが、アメリカのSaaS企業の従業員は、年収800万円、貯金100万円でも、Secfiから1000万円の行使資金を借りてIPO後に3000万円の手残りを得るということが可能なのた。日本の同様のスタートアップでは、行使資金がなくSOを失効する事例もある。
そして、日本では、SOによる大きなリターンが「ズルい」「投機的」と見なされがちで、制度自体が萎縮しやすいのだ。ある東証マザーズ上場企業で、エンジニアがSOで1億円のリターンを得たことが社内外で問題視され、社内制度としてのSO配分が見直されたなどの事実もあるのだ。
「成功したら回収、失敗したら失う」。ハイリスク・ハイリターン、それがスタートアップの本質だ。そして、そのリスクを一緒に背負ってくれる存在(投資家、社員、ファイナンス企業)がいることが、アメリカのスタートアップを強くしている。日本が本気でスタートアップ社会を築くのであれば、資金だけでなく、報酬設計、税制、制度、そしてリスクと報酬を分け合う文化を育てていく必要がある。単に「お金を集めること」ではない。人を動かし、報いる制度があるかどうか。 そこが、ユニコーンの生まれるか否かを分ける本質だと思うのだ。