早嶋です。
AIが仕事を置き換えるかどうかの議論は、未来の話ではない。現在進行形で進んでいる。重要なポイントは、AIが人の仕事を代替できる条件だ。私は、以下の2つに集約されると思う。
1. 相手がAIを信頼していること
2. AI側に相手の状況が十分にインプットされていること
この2つだ。例えば、M&Aアドバイザーや経営コンサルタントなどの職業は、体系化された知識を文脈に応じて提供する仕事であり、これらの条件を満たせば、かなりの部分がAIで置き換え可能である。精神科医やカウンセラーのように「信頼関係」と「状況把握」が前提となる職業でも、一定の条件が整えば、AIによって代替可能な場面が増えつつある。
では、「人間にしかできない仕事はあるだろうか?」もちろん、確実に存在すると思う。それらは、
1. 信頼を起点に、他者に影響を与えること
2. 目的や意味を構造の中に注ぎ込むこと
3. 偶発性を受け入れ、新たな価値を創造すること
この3つだ。これらの行為には、知識やデータだけでは到達できない、人間特有の「感性」「直感」「関係性」が介在している。たとえば、ある企業の事業転換の意思決定において、論理的に正しくても現場が動かないことがある。そのときに必要なのは、「正しさ」よりも「共感」や「納得」を引き出すストーリーだ。その語り手は、仲間や従業員に信頼される必要がある。ある意味、語り手のような存在だ。そして、このような行動が出来るのがAIではなく、まだ人間の活躍できる領域なのではないかと思う。人間がそのような創造と伝達ができるのだ。
もちろん、この信頼とストーリーの活用を善悪の判断だけではなく、悪意を持って使うことも可能だ。信頼されているように見える人を模倣させ、その人の言葉や表現を使い、偽のストーリーをつくることだ。または、弱者の共感を誘導するようなストーリーを意図的に創作して、関係性が良い組織の分断や操作を生むことも可能だ。その意味では、ストーリーは武器にもなる諸刃の剣だ。その根底は、共感という感情を通して人は動き、動かされる特徴があり、信頼というインフラが、実は極めて脆弱なものなのだ。このような状況において、私たちに必要なことは、批判的思考だ。
そのストーリーは「誰が語っているのか?」「何を前提にしているのか?」「その物語はどこへ向かわせようとしているのか?」等々の視点をもつことだ。これらを読み解く力がないと、容易に感情を利用され、悪意ある構造の中で利用されることになるのだ。そして、この読み解く力のベースになるのだ、「倫理」なのではないかと思う。正しさや正義の基準が自分の中に備わっていなければ、どの物語に共感するか、どの行為が善なのかを判断できない。倫理は、情報の受け手としての防波堤であり、発信者としての責任にもなるからだ。
では、「倫理は、いつ、どのようにして育まれるのか?」これに対して私の信念がある。倫理やモラルという人間の根幹は、小学生頃までに、もっと言えば0歳〜6歳頃までの模倣と体験によって形成されると。親や大人が、ごく日常的にゴミを拾い、他者に感謝し、嘘をつかず、誠実に振る舞う。それを子どもが無意識に模倣し、自分の中に取り入れていく。その積み重ねこそが、「人間性」や「倫理性」の根となると思っている。ところが、今の日本社会はこの根の部分を失いつつある。
背景は色々あるが、切り取ると、働くことが正義となり、子どもを早期から保育施設に預けることが当たり前になっている。国の制度も仕事をすることにインセンティブを与え、母や父や育ての親が家庭にいて幼少期に一緒に過ごすことについて金銭的な補助が少なくギア年がない。育児はコストとして発想され、この時期に親が関わる時間こそが将来の豊かな日本の投資になる思想が薄いのだ。
かつては家族や地域社会が担っていた、日常の中で倫理を育む役割は、いまや希薄になっている。代わりに、保育園や学校、行政の制度がその機能を代替しようとしている。つまり、人間関係や模倣によって自然に形成されていた倫理が、制度による「管理された育成」へと置き換えられてしまっているのだ。そして最も深刻な状況がある。それは、最も人格形成に影響を与える小学校や幼稚園の教育現場に、経験や人間性が不足した教育者が配置される傾向があることだ。教員の序列が中高大優位にある日本では、初等教育が最も軽視されているように感じる。
都市部では共働きが前提となり、生活スタイルは時間効率と利便性に最適化されている。しかし、それがあたかも「日本の標準」であるかのように制度が設計され、全地方に展開されてしまっている。日本の人口の大半は地方に暮らしており、東京23区内には900万人しか住んでいない。制度上の設計は、その23区内の価値観で設計され、メジャーな残りの1.1億人を一律の制度で当てはめようとする思想が既に極めて暴力的だと思うのだ。更に厄介なことは、23区内の住民や仕事をしている方々が、残りの1.1億人が生活する実態や現場を観察していないのだ。
「地方の子育てがどういう苦労をしているのか?」「実質的に利用できない制度がどれだけあるのか?」「少子化がモラル形成のインフラをいかに破壊しているか?」等々。このような現場の理解がないまま、「支援しているつもり」の制度ができあがっている。そして、成果検証もなされず、改善も遅れるのだ。
日本では制度や政策の意思決定が「積み上げられたデータ」ではなく、「その場の会議体の空気感」や「既存の関係者の都合」によって左右される。短期的な評価や支持を得ることが優先され、本来必要な長期的な効果検証や現場の実態との突き合わせが行われない。
たとえば、ドイツでは30年前の育児支援政策の結果がどう出たかという長期データをもとに、制度の見直しが行われている。アメリカもまた、地域や階層ごとの多様な家庭構成を反映した制度検証があり、政策評価という明確なプロセスを経て次の施策につなげている。対して日本は、資料を提示しても「こういう声もある」でかき消され、最終的には「丸く収める」ことが重視されるのだ。結果として、制度が形骸化し、誰も本気で責任を持たない曖昧な支援策が繰り返されるばかりだ。この合議制文化と長期視点の欠如こそが、制度の改善を困難にし、育児や倫理形成といった重要な社会課題を見落とす大きな盲点となっていると言いたい。
文化は勝手に出来ない。実際に観察された現実をデータとして、それらに意味づけを与える。解釈するのだ。それをストーリーとして他社に伝え、他者の心に伝わる回路として活用する、つまり共感を得るのだ。そして、されらを制度としてテスト運用する。この一連のプロセスが、時間をかけて繰り返され、検証と修正を重ねることで、ようやく「文化」として根付いていく。
たとえばドイツや米国では、このプロセスにおいて「フィードバック=振り返りと評価」が明確に組み込まれている。制度を設計したら終わりではなく、その後に何が起きたかを数年単位、あるいは数十年単位で追跡し、改善すべき点を抽出する仕組みがある。一方日本では、このフィードバックの機会が極めて弱い。会議や審議会の場では、「関係者の顔を立てる」「場の空気を壊さない」ことが優先され、議論が抽象的になりがちだ。最終的には「いろいろな意見が出たので、これで進めましょう」といったちゃんちゃん会議で幕引きされ、具体的な改善策や責任の所在は曖昧なままになる。
文化を育てるには、データから始まるフィードバックの循環が不可欠であり、それを阻む合議制の空気文化を乗り越える勇気と構造改革が求められている。私たちホモ・サピエンスは、100年、1000年の時間をかけてこの文化を築いてきた。
ところが今の制度は、
– データがない、あっても使われない
– 物語は操作され、意味が歪む
– 共感は演出され、真実が届かない
– 制度は誰のためか分からず、持続しない
この断絶を直視することが必要だ。そして、倫理・信頼・共感をもう一度人間社会の中核に戻し、「人を育てること」そのものが価値として制度化されるような社会に転換すべきなのだ。これが、経済合理性を超えた、文明の再設計だ。
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