ABOHA

2025年9月24日 水曜日

早嶋です。1000文字。

韓国で「ABOHA」という言葉が広がっている。日本で言う「やってる感」に辟易して「ありのままの自分」でいようというニュアンスの動きや考え方だ。SNS疲れなる表現も日本ではあり、同じような文脈を一瞬考えた。「無理にイケてる風に装うのをやめて、素の自分でいる」。SNSや社会の評価軸から一歩引き、ただそこにいることを肯定する姿勢だそうだ。一部の若者たちの間で美意識として受け入れられているという。

韓国では、日本以上に過剰なまでの成果を子供の頃から求められている。あくまでの僕の印象だが。そのため常に成果を出しているような演出を強いられてきたのだ。皮肉なことに、そのような社会の中で、真正面から向き合い、疲れ果てた末に辿り着いた、概念のようにも感じた。

更には、朝鮮半島の歴史、中国大陸との距離感、属国としての経験、侵略の記憶、そういった構造が韓国という社会の深層に多大な影響を及ぼし今を構築していると思う。そのような視点から現代の整形文化や学歴主義、そして社会的な振る舞いのクセにまで目を向けたとき、単なる嗜好や流行ではなく、より深く根を張った背景が浮かび上がる。

一方で、韓国の若者たちは、そうした文脈をも越えて、自分の輪郭をどう保つかを模索しているようにも見える。北朝鮮に対する冷ややかな距離感や、過剰な政治的言動を避けるリアリズム。あるいは、K-POPやファンダムを通して社会に関与していく独特のスタイル。そこには、前の世代とは異なる視点で社会とつながろうとする態度が垣間見える。

その姿を、日本の若い世代の動きと重ねて考えてみた。K-POPや韓国のファッション、カルチャーに親しみながらも、背景にある価値観や社会構造には、あまり触れようとしない。政治や社会制度に対する関心も相対的に薄く、どこか無風のような凪のような静けさがある。統一教会の問題に対する日本と韓国の対応の差も、そうした意識の違いを映しているように思えた。

現在の一人あたりGDPや文化発信力、若者のエネルギーなどを見て、「日本は韓国に遅れを取っているのではないか」という感覚もある。もちろん、国の持つ課題の重さやリスクの質は単純には比較できない。韓国が抱える構造的な問題、社会的な圧力、精神的ストレスの大きさを考えれば、そこに安易な称賛や模倣が成り立たないことは明らかだ。

それでも、自分たちの社会が、かつて持っていた可能性や価値観をどこかで見失ってしまったような感覚は、否応なく湧き上がってくる。そしてそれが、ある種の焦りや、言葉にならない悔しさとして残るのだと思う。



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