新規事業の旅180 昭和100年

2025年5月12日 月曜日

早嶋です。約2800文字。

2026年、昭和が始まって100年の節目を迎える。昭和100年は単なる懐古的な記念ではないと思う。いま我々が生きる令和は、世界規模での分断と再構築が進むな、改めて昭和の思想・文化・経済構造を照らし返す必要に迫られているからだ。同時に、いま日本という国家がどこに立ち、どこへ向かうべきかも、重要な問いとして考える必要があるのだ。

若者のファッション界隈で流行しているY2K(2000年代前後)トレンドには、80年代から90年代の昭和的なモチーフが頻繁に引用されている。ダボっとしたデニム、ナイロン素材、レトロなロゴなど、一度は古くなったはずの要素が「逆に新しい」と再評価されている。また、テレビドラマや配信コンテンツも、昭和的な価値観を現代に持ち込む構造が目立つ。『不適切にもほどがある』のように昭和と令和をタイムスリップ的に対比させたり、『続・続・最後から二番目の恋』のように50代、60代以降の登場人物を中心に据えたものが視聴者の共感を呼んでいる。

昭和という時代は、社会としてのエネルギーに満ちていた。教師が絶対的存在だった部活動、会社での猛烈な労働と遊び、喫煙が許されていた新幹線、未来への希望、そして子どもたちが「夢」を語っていた風景。経済も拡大を続け、人々の努力には報酬が伴っていた。だが現在、多くの若者が「夢を語れない」。年上の我々も「夢を語らない」。未来は明るくなく、努力が報われる実感も乏しいのだ、少なくともそう勘違いしている。登校拒否、出社拒否、社会からのドロップアウトも、もはや特別な選択ではなくなっているのだ。我々の世代は週休2日でも休み過ぎなのに、週休3日を提唱して、働かない改革を推し進める謎の声も市民権を得つつあるのだ。

1980年代、日本はアジアの絶対的リーダーだった。中国は改革開放の入り口、韓国は日本の後追い、ASEAN諸国もまだ新興国で、日本は常に一歩先を走った。しかし現在、構図は大きく変わった。中国は法の緩やかさと巨大な国土、独裁政権という構造を最大に活かして、失敗を繰り返しながら社会実験を繰り返してきた。ITインフラと共に、現場の判断と即応性が進化を加速させた。結果、ITやAIなどの世界に対しては、誰も疑わずに世界のトップランナーである。

韓国は、国のスケールが小さいことを逆手に取り、1997年のアジア通貨危機を契機に外需依存型の経済にシフトした。K-POP、ドラマ、eスポーツ、ファッションなど、文化コンテンツを国家戦略として輸出し、補助金を通じてグローバルブランドを形成した。韓国の認知を高め、質を高める取組として、一部の選ばれた企業には徹底して資本と制度を集中させる設計が国家的になされたのだ。

対して日本はどうか。国内では大企業同士が市場を奪い合い、海外では同じ日本のメーカー同士がカニバリゼーションを起こして共倒れになる。そして他の国々に負けてしまうのだ。国家が方針を示して民間を引っ張る形は皆無で、「内向きな自立」が競争力をむしろ削いでしまっているのだ。

かつての情報収集は書籍や新聞、現地での対話が中心だった。しかし現在、若者を中心に情報取得は動画と音声、タイムラインでの受動的な摂取に変化した。自ら疑問を立てて調べ、答えを考える機会が減り、思考の浅さが社会全体を覆っている。全ては2次情報で済ませ、現地現物現実を感情を伴って感じながら判断する1次情報の重要性を体験として理解することも薄くなっている。

しかし、教育制度は一方で昭和のままだ。答えがある勉強、中央集権型の制度、間違いを避ける訓練、絶対的な権威が生徒や組織を抑圧する制度。いくら情報としてイノベーションを言葉で語ることはできても、リスクを取り挑戦する行動に変える土壌は絶対に育たない、或いは育ちにくいのだ。

一方で、希望はある。それは制度の中ではなく、制度の外に現れているのだ。スケボー、BMX、サーフィン、料理、ファッション、デザイン、YouTubeでの映像制作。このような分野では、子どもたちが自らの意思で世界と接続し、努力を積み重ねて成果を出している。誰かに指示されたわけではない。学校のカリキュラムの成果でもない。「好き」や「好奇心」が原動力になって、ネットに通じる世界をベースに始めから世界の頂点を目指して戦っているのだ。そして、その結果をSNS等を通じて表現できる世界が後押しして、結果的に注目を集める結果を構築している。

現在の日本は、超円安を背景に多くの外国人が訪れている。彼らが魅力を感じているのは、日本の正確さ、親切さ、自然、清潔さ、そして秩序だった社会の佇まいである。これは短期的な観光ブームではなく、むしろ日本が持つ「文化資本」が世界に発見されつつある兆しなのでないか。

それにもかかわらず、日本人自身はその価値を軽視している。古来の木造建築や地域景観を破壊し、東京都に象徴されるように、コンクリートと太陽光パネルによる環境対応プロパガンダに従い、都市の顔を無機質化している。そして、そのコピペを全国に拡張しようとしているのだ。

このような現状を受け、日本にはおおよそ次の二つの選択肢があると思う。それぞれAとBだ。

A:全国を一律にデジタル化・都市化し、均衡ある発展を追求する道。
B:成長可能性の高い都市に集中的に資源を投下し、それ以外のエリアは自然共生型として再設計する道。

A案は理想的である一方で、少子高齢化と財源制約のなかで実現困難である可能性が高い。私は、B案に軸足を置き、構想を展開することが合理だと考える。

これからの時代、日本は「すべての地域を平均的に成長させる」という幻想を捨てるべきだ。その代わりに、成長する都市と、自然と共生するエリアを明確に分け、国家としての構造設計を行うべきだと考える。

例えば、東京、大阪、名古屋、札幌、福岡などの都市部では、デジタル・AI・バイオなどの先端技術と国際人材を集約し、超高密度型都市として強化するのだ。駅直結のビル、タワーマンション、地下・高架の交通インフラ整備。競争と効率性のための都市化を徹底する。

そして、山間部や海岸部、温泉地などを有するそれ以外の過疎が進む偉いも独自の路線を打ち出すのだ。そう、最も人間にとって価値がある自然エリアだ。ここでは、江戸時代的な自然共生型の景観に回帰するのだ。アスファルトや護岸整備ではなく、地形を活かした暮らしを推進し、湯治、農泊、長期滞在の促進を図る。ダムの解体や護岸の自然化を進めることも視野に入れ、自然に戻す活動に注力するのだ。

昭和100年とは、過去を懐かしむだけの節目ではないと思う。むしろ、明治維新や戦後の復興と同じくらいの強度で、国家ビジョンを更新する好機だ。強く成長する都市、慎ましく美しい自然、そしてその両方を支える調和の設計。これを実現できたとき、日本は再び世界の希望たりうる国になるのではないだろうか。

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