早嶋です。4400文字。
最近、スーパーで米の値段を見るたびに驚く。5キロで4千円から5千円だ。かつてはもっと安かったと思う米だが、随分と値段が高くなったものだ。ただ、考えてみると「上がった」という表現よりも、もともと高かったのだ、という表現が実は正しいかもしれない。
米価を国際的に比べてみると、日本の異質さが際立ってくる。アメリカやオーストラリアの精米ベースの価格は1kgあたり100円前後だ。韓国でも300円台だ。対して日本は800円前後なのだ。世界の相場を100円台としたら、実に8倍、韓国と比較しても倍の値段なのだ。
もちろん、品種や品質、粘りや香りの違いはあるだろう。それでも、品質を維持したまま3倍程度、すなわち300円前後で販売できるのが国際的に見ても妥当ラインだと思うのだ。それが800円という価格は、日本的な構造が何かしらあると見て間違いないのだ。
では、その構造をみてみよ。勿論、昨今の原材料や肥料費の高騰だけでは説明できない。日本の米の値段には、いくつもの層が重なっていて800円になっているからだ。米のサプライチェーンは、ざっと農家からはじまる。苗床を農家が仕入、田んぼで稲を作り、それを精米し、集荷し、保管し、輸送し、小売の棚に並べる。この間、数え切れないほどの手と費用が介在しているのだ。結果として、消費者が支払う800円の金額のうち、農家の取り分は200円から250円程度で、残りの7割近くが流通と販売に渡る金額になっている。
つまり、日本の米は、そもそもの生産コストも高く、更に流通が非常に長いのだ。そのため、価格を底上げしていると考えて良い。実際、他国と比較してみよう。日本の異質さが際立ってくる。
韓国では、政府が収穫期に一定量を直接買い上げる制度(公的備蓄米制度)を持ち、価格の下支えと流通の安定化を同時に行っている。農家が出荷する段階での価格は1キロあたり約2,500ウォン(約270円)で、都市部のスーパーで販売される国産米の平均価格は3,368ウォン(約360円)ほどだ。この差、およそ90円分が精米・流通・小売の取り分になる。つまり、農家の取り分は約7割で、残りの3割が国内の精米所、地域農協(NACF)、大型スーパーが利益としてコストを分け合っているのだ。韓国の農家が比較的高い比率を維持できているのは、政府の価格調整機能と流通の単純化による成果だ。販売の多くは地域農協が直営する精米センターから大型小売店に直送され、在庫も国主導で統合管理されるため、仲介層が極端に少ない。
生産者の米が、ほぼ二段階で消費者の食卓に届く構造を作り上げている。
一方、アメリカはまったく逆だ。米国農務省のデータによれば、農家が受け取る粗玄米価格は1キロあたり約0.46ドル(約70円)だ。これが精米され、パッケージングされて全米のスーパーで販売される時には1キロあたり2.34ドル(約350円)前後になる。つまり、農家取り分は全体のわずか2割で、残りの8割を、精米工場・ブランド業者・卸・小売が分け合っている。アメリカでは、農地は広大で機械化率が極めて高く、生産コストを限界まで削っているため、農家は量で稼ぐ仕組みだ。一方で、最終価格を決めるのはミリング企業(加工)とブランドホルダーだ。カリフォルニアの中粒米であれば、農家→加工企業→Sun ValleyやNishikiなどのブランド→全米流通網という四段階の流れが一般的だ。コストよりもパッケージ、広告、棚のポジションで価格が決まる。消費者が払う3.5ドルのうち、実際に米を育てた人に届くのは70円分に過ぎない。
そして、オーストラリアはさらに明快だ。最大手のSunRice社が、生産者から籾米を買い上げ、精米からブランド展開、海外輸出までを一社で統合している。農家が受け取る価格は1キロあたり約0.45ドル(約70円)で、スーパーで売られる同社のCalrose米は2.5ドル(約375円)前後だ。ここでも農家の取り分は2割程度だ。しかし、この構造は不公平ではなく、効率の代償としての集中管理モデルに相当する。SunRiceは世界70カ国に輸出し、ブレンドやパッケージを変えて販売している。生産者は少人数でも、企業全体で国際市場を押さえる仕組みがある。
つまり、アメリカとオーストラリアでは、価格の主導権が農家ではなくブランドと小売にあるのだ。それを裏返せば、農家は薄利だが安定した販路を確保できるとも言える。
そして、日本だ。日本は両者の中間の構造で、二重に高い構造になっている。農家の受け取りは1キロあたりおよそ220円前後。小売価格は800円前後。韓国よりも生産コストが高く、アメリカよりも流通マージンが厚い。農家の取り分は25%から30%で、残りの70%超が非農家層に分散される。この非農家層とは、精米業者、集荷・卸、商社、物流、スーパー、そして地域ごとのブランド管理組織までを含む。決して、誰か一人が過剰に利益を取っているわけではない。だが、誰も責任を取らずに積み重ねてきた層の厚みが、最終的に消費者価格に反映されているのだ。結果として、韓国の3倍、米豪の8倍という世界でも突出した価格帯を維持してしまっているのだ。
では、なぜこうなったのだろううか。その理由は地形と歴史にあると思う。日本の田んぼは狭く、山と川に挟まれ、分断されている。大区画で機械を動かす欧米型の稲作には向いていない。戦後の農地改革で細分化された所有権がさらに複雑さを増し、圃場の統合が進まなかった。各地の田んぼはまるで猫の額のように小さく、農家は兼業でそれを守ってきたのだ。一方、流通は農協を中心に全国に張り巡らされたが、これもまた複雑だ。集荷、検査、精米、卸、小売という段階がそれぞれ独立し、保管や在庫のコストが累積しているからだ。ふるさと納税やEC直販の拡大で新たな販路が増えたことも、価格の安定をむしろ難しくしている。結果として、店頭では高値が常態化したまま、誰も全体の構造を最適化しない状態が続いているのだ。
では、仮にすべてを効率化したら、いくらになるだろうか。1つの手がかりは北海道の事例だ。北海道の稲作は大区画で機械化が進み、収量も全国平均より1割高い。十アールあたりの収量が579kgと、全国平均の五533kgを上回る。更に、規模の経済によって生産費は60kgあたり8千円台を実現している。これは、全国平均1.5万円台から見るとおよそ4割から5割安いのだ。もし全国が同じ水準に達したなら、農家段階のコストは1kgあたり250円から140円前後まで下げることができる計算になる。
それでも、流通の構造が同じだと、最終的な店頭価格はせいぜい680円から740円ほどだ。つまり、農地や生産の効率化だけでは劇的な値下げは起こせない。繰り返すが流通構造にもメスを入れる必要があるからだ。そう、本当の課題は生産の後工程にあるのだ。
輸送、在庫、卸、小売。ここにある中間マージンと在庫リスクの再設計が、ポイントになる。
現在の米流通は、収穫期の集荷を基点に、1年を通じて在庫を分散して保管し、季節変動を平準化する仕組みだ。その過程で、倉庫や乾燥施設、保冷輸送などの固定費が積み上がる。さらに、農協や商社、小売各社がそれぞれのルートで動くため、全体の最適化が効かない。ただし、ここにデジタル化と共同化の余地が十分にあると思う。保管・輸送・販売の情報を統合すれば、ロスは大幅に減るはずだ。例えば地域単位で倉庫と物流を一体運営し、在庫をリアルタイムで可視化すれば、重複在庫を削減できる。冷凍・真空パック技術を使えば、長期保管の品質劣化も防げる。これらは地味だが、価格を100円単位で下げる効果を持つだろう。
もう一つ、ブランドと販路の問題を議論するなら、日本の米流通は銘柄のデパートになっている。魚沼産コシヒカリ、ゆめぴりか、つや姫、ひとめぼれ、あきたこまち、ななつぼし・・・。これらはもはや個別企業の製品ではなく、地域・地理・文化を背景に持つ無数のブランドとして消費者に訴えかけている。
実数を見れば、その複雑さが浮かび上がる。登録されている水稲品種は1,031品種にも及び、そのうち主食用途として検査された産地品種銘柄は約286品種に上る。 また、別の資料ではうるち玄米に関する産地品種銘柄が934、もち米が137、醸造用が234という数値も出ており、すでにブランドの候補地は多層に重なっている。
そして、ブランドの多さと流通実勢への反映はイコール、とは限らない。実際には、銘柄の名義上の数と、日々スーパーで売られる銘柄の数は乖離しているからだ。
作付割合の統計を見ると、令和5年産のうるち米ではコシヒカリが全体の約33.1%を占め、上位10銘柄で国内市場の半分近くをカバーしている。つまり、ブランド数は多くとも、実需ルートで競う銘柄は限定され、残りは地域名・ロゴ違いとしての余白的存在になっているのだ。
こうしたブランドの細分化には、大きな構造的帰結がある。生産者は地域単位でブランドを立ち上げることが奨励され、それが誇りにもなっている。しかし、それぞれの銘柄を個別に流通させ、小売店も個別銘柄を扱う構造では、物流の統合やコスト分散(スケールメリット)は働きにくい。配送ルート、倉庫拠点、在庫回転、広告・プロモーションコストなどが、銘柄ごとに「重複」して発生するからだ。
対照的に、小麦やパン原料では、銘柄展開は製粉会社やパン/麺メーカー主導であり、農家ブランドを前面に押す構造はほとんど見られない。流通ルートはシンプルで、ブレンド・混合原料を用い、重複物流を回避する設計が日常的に運用されている。だからこそ、小麦原料の多くはブランド分散型米よりもコスト抑制が効きやすいのだ。
このような構造の違いを見える数で示すと、米のブランド/銘柄の分岐点は数百を越え、小麦側のブランド数・ルート数はおそらく十数から数十に抑えられているだろう。つまり、米流通は「多ブランド・多販路の重層構造」が異常に厚いのだ。
つまり、日本の米価を下げる鍵は、誰かを犠牲にすることではない。農家の手取りを守りながら、流通と販売の仕組みを整え直すことで、全体を軽くすることができると思う。いまのように、生産者が高コスト構造の中で疲弊し、消費者が高価格に慣らされていく関係を続けても、誰も幸せにはならない。
農業は、本来、自然と人との関係を持続させるための営みだ。そこに効率と誠実さの均衡を取り戻すことこそが、これからの課題なのだと思う。米は、単なる食料ではなく、日本社会の構造そのものを映す鏡である。どこに無駄があり、誰が何を守っているのか。その全体像を見つめ直すことが、これからの日本の食と農の再設計につながる。高いか安いかではなく、どうしてこの値段なのかを知ること、その理解から次の一歩が生まれると思う。
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日本の米価を語るとき、「補助金が価格を押し上げているのではないか」という指摘がある。確かに、農政には長く政治的な側面があり、農家を保護するための補助金が多数存在する。しかし、実際に数字を追っていくと、この論点は少し違う顔を見せると考える。
日本の主食用米を支えている補助金の中心は、直接的な「米の買い上げ」ではない。国が米価を政策的に決めていた時代(食管制度)はすでに終わり、現在は「水田活用の直接支払」「農地維持支援」「機械導入補助」など、生産の維持や転作を促すための基盤補助が中心になっている。つまり、補助金は米の価格そのものを引き上げる装置ではなく、小規模で高コストな水田を維持するための“延命措置”として使われてきた側面が強い。
この構造は、早嶋が先に議論した「単位面積あたりの収量の少なさ」と深く関係している。細分化された水田を、家族経営・兼業農家が維持するためには、ある程度の国費投入が避けられない。補助金は、その非効率を補うために設計されてきた。裏を返せば、補助金が存在することで、本来であれば淘汰されるはずの小規模で非効率な田んぼが温存されてきた。その結果、日本の稲作は構造改革が遅れ、北海道型の大区画・高効率モデルに移行しきれなかった。
補助金が米価を直接引き上げたのではなく、補助金が「収量の低さ=生産性の低さ」を長く固定化し、そのことが間接的に米価の高止まりを招いた、と見る方が正確だろう。
もう一つ、米価を語るときに出てくるのが「投機」の話題だ。小麦やトウモロコシ、大豆のような国際商品は、シカゴやロンドンの先物市場で頻繁に売買され、その値動きが世界の価格に大きく影響する。それでは、日本の米も同じように、投機資金に振り回されているのかだ。が、答えは、ほとんど「ノー」に近い。
日本の米は、国際市場で流通していない。日本の米の輸出量は年間数万トンにすぎず、国内消費量の1%にも満たない。輸入も基本的にミニマムアクセス米(MA米)に限られ、一般消費者向けにはほとんど流れない。
つまり、日本の米は国際価格と切り離された閉じた市場として存在している。世界の投機資金は、取引量が小さすぎる商品には近寄らない。投機とは大量に売買できる「流動性」があって初めて成立するが、日本の米にはそれがない。これが、米が投機の対象になりにくい本質的な理由である。
ただし、国内での擬似的投機のような行動がゼロかと言えば、そうでもない。収穫期の相対取引で、商社や卸が来年の価格上昇を見込んで多めに買うといったことは起きる。しかし、これらは世界の穀物市場で行われているような価格吊り上げ・短期売買ではなく、むしろ在庫確保とリスク分散に近い。日本の米価を大きく押し上げるほどの力は持っていない。
むしろ、米が投機の対象にならないことこそが、
1)単位面積あたりの生産性の低さ、
2)流通の多層構造、
3)補助金による延命
の三つが、価格形成の内側で凝り固まっている理由でもある。
世界とつながっていない市場では、外部からの圧力が働かず、構造改革は後回しにされる。投機資金の参入が良いか悪いかは別として、国際との比較圧力が働かないことで、日本の米価は国内構造の重さをそのまま価格に乗せる形になった。言い換えれば、米価の高さは「外部環境ではなく、国内構造だけで完結してしまった」結果である。
米価を押し上げている主因は、投機ではない。投機の不在こそが、日本の米がずっと内側の構造だけで価格を決めてきた証拠であり、その構造を変えない限り、価格は下がらない。そして、その構造とはまさに、生産の細分化と流通の重層化が生んだものだ。補助金はその結果として投入されてきたのであって、原因ではない。