早嶋です。2500文字程度です。
ヒューマノイドの領域で、最も激しい動きを見せているのは中国だ。すでに200社以上がこの分野に参入し、上海や深圳ではヒューマノイド専門の販売店まで登場している。そこでは単にモノを売るのではなく、いわゆる「4S」、Sales(販売)、Stock(在庫)、Spare(部品)、Search(検索・体験)までを含めた、ユーザーエクスペリエンスを丸ごと提供するモデルが確立されつつあるという。
中国のヒューマノイドロボット市場は、2024年時点で約2.76億元(約3.8億ドル)。2030年には750億元(約103億ドル)、日本円にしておよそ1,600億円規模に達すると予測されている。世界全体では、2024年に約21.4億ドル(約3,100億円)、2034年には696億ドル(約10兆円超)という巨大市場が形成される見通しだ。
この市場のうち、約7割を占めるのがハードウェアだ。センサーやアクチュエーター、駆動装置などがこれに含まれる。ソフトウェアとその応用は残りの3割だ。だが今後は、ChatGPTのような生成AIの進化とともに、ロボットの脳に相当するソフト領域が一気に伸びてくるだろう。つまり、これまで「動かすこと」が中心だった設計思想が、「何を考えさせ、どう振る舞わせるか」にシフトするのだ。
米国でも、テスラの「Optimus」に代表されるように、ヒューマノイド開発は進められてきた。しかしここに来て、明確な足かせとなっているのが、ハード供給の中国依存である。主要部品の多くが中国産である以上、米中対立の激化により、製品化・量産化が思うように進まない。実際、テスラも2025年からの量産計画に遅れが生じており、Optimusの実装は再設計のフェーズに入っていると推察される。
それでも2030年までの数年間で、ヒューマノイドは産業用・物流用・介護補助などの分野に一部導入される予測だ。家庭用としては、高価格帯での試験導入が先行し、一般家庭にまで浸透するにはまだ時間がかかる。しかし、2050年という長期の視点に立てば、風景は大きく変わっているだろう。
あるレポートによれば、2050年には世界中で9.3億体のヒューマノイドが稼働しているという。最多は中国の3.02億体、次いで米国の0.78億体。日本もそこに並ぶが、問題は台数ではない。「どう使われるか」というフェーズに、我々の文明は入りつつある。つまり、ヒューマノイドはただの道具ではなく、人間との関係性を持つ存在になるのだ。
そもそも、中国がヒューマノイドに巨額の資本を投下する理由は何だろうか。答えは明快だ。人口減少への備えと、国家主導の産業制御だ。中国は今、世界最大規模の高齢化社会に突入しており、製造業・物流業・介護などあらゆる現場で労働力の不足が確実視されている。ヒューマノイドは、この穴を埋める最も論理的な選択肢だ。そしてこれは単なる労働の代替ではない。人間ではない、ストライキも要求もしない労働力であることが肝要なのだ。
加えて、国家(共産党)が中央制御できる「非人間の人的資源」という意味合いも大きい。ヒューマノイドは行動ログを残し、映像を収集し、データを国家に還元する。つまり、労働と監視が一体化した装置として機能する未来を確実に描いているのだ。それはまさに、制御可能な未来人材とでも呼ぶべき存在なのだ。
ここに、あくまで私の仮説を提示したい。中国はヒューマノイドの中でも、特に「ロボット型ラブドール」の開発・輸出に力を入れている。深圳周辺の工場では、AIを搭載し、会話・感情・動作をリアルに再現する高機能ラブドールが大量に製造されており、欧米や日本へも輸出されている。私は、これを単なるビジネスとは見ていない。むしろ、中国はこの領域を文化的な麻薬として捉えているのではないかと感じている。
具体的には、各国の若者を仮想的な性愛体験に依存させ、リアルな恋愛や結婚、子育てを忌避させる。結果として、家族形成や社会参加が鈍化し、国家の「社会エネルギー」が長期的に削がれていく。戦車もミサイルも要らない。ロボットで人間の欲望を満たせば、その国の文明構造そのものが静かに崩れていくのだ。
これは、ある種の性的サイバー戦争の形態である。もちろん証拠はない。しかし、構造としては十分に起こり得る話だと感じている。
このような擬似人間が生活に入り込むとき、もっとも先に揺らぐのは倫理の境界だ。イギリスでは、児童型のSEXロボットの輸入がすでに禁止されている。倫理学者たちは、「これは性暴力の模倣であり、人間の関係性を破壊する装置だ」とまで言い切っている。
フランスやドイツでは、「電子的存在に人格を与えるべきか」という哲学的な議論がEUレベルで始まっており、ロボットを人間に準ずる準人格と見なすことに慎重な態度を取っている。一方でアメリカは、連邦法としてチャイルド型ロボットは禁止したものの、大人型のSEXロボットについては表現の自由との兼ね合いで、明確な規制には踏み込めていない。
では、日本はどうか。驚くほど静かだ。アニメ・マンガ・フィギュア文化の延長線上で、ロボット型性愛も自然に受け入れられてしまう。法的にも倫理的にも、整備や議論の土台がない。このままでは、無規制のグレーな欲望楽園として、外資系ラブドール企業の草刈り場になる可能性すらある。
我々は、技術の進化に熱狂する一方で、それによって生まれる新たな問題から目を逸らしがちだ。ヒューマノイドは、人間の代替として現れる。が、それ以上に、人間の本質や欲望を映し返す鏡として機能するはずだ。一国がこの技術に注力する理由は、単なる利便性ではない。文化と政治と支配の三位一体構造として、ヒューマノイドは未来の武器にもなりうるのだ。そのとき、我々は選択をしなければならない。技術か、人間か。利便性か、倫理か等々。
この問題は、いずれ必ず現実になると思う。だからこそ、今のうちから考えておく必要がある概念なのだ。