新規事業の旅219 抹茶の定義と言語化の必要性

2025年10月22日 水曜日

早嶋です。2400文字。

抹茶の定義が揺らいでいる

お茶は、畑から茶碗や湯呑みに届くまでに、複数のステップがある。まず、育て方だ。日光をそのまま浴びせて育てる「露地栽培」と、収穫前に覆いをかけて光を遮る「覆い下栽培」に別れる。

露地栽培は、煎茶や番茶の原料で、渋味とすっきりとした味わいが特徴になる。覆い下栽培は、玉露や抹茶の原料になる。遮光することでテアニンという”うま味”成分が増え、渋味が減るのだ。

収穫した茶葉は、まず蒸して酸化を止める。その後に「揉む」か「揉まない」かで、また分かれ目がある。揉むと葉の細胞が壊れ、香りが立つ。お湯で抽出する際に、旨味が出るようにするのだ。これが「のび茶」と呼ばれる形で、煎茶や玉露に仕上がる。

一方で、揉まないまま乾燥させたものが「てん茶」だ。これを石臼で挽けば、抹茶になる。抹茶の場合は、茶葉そのものを食すことになる。そのため細胞を壊す必要が無いのだ。

興味深いのは、この「揉む」か「揉まない」の工程の違いで、味わいだけでなく、文化的な意味までも変えてしまうことだ。揉むというのは、茶葉を“開かせる”工程だ。玉露はお湯を注いで成分を抽出するために、細胞を壊して香りを引き出す。

一方で、抹茶は茶葉そのものを飲む。揉むことで細胞が破壊される。すると酸化して色や香りが飛んでしまう。それをさせないために揉まないのが抹茶だ。抹茶は、あえて揉まずに乾かし、熱を避け、静かに挽く。静かに石臼で挽く理由は茶葉に熱を与えないで摩擦熱を出さないようにするためだ。高級抹茶は、石臼で1時間にわずか40グラム程度しか出来ない。非常に手間がかかる工程なのだ。そして、この「時間をかけて守る」工程にこそ、抹茶の繊細さがある。

ところが、いま世界でブームになっている“matcha”の多くは、本来の抹茶とは異なる。覆い下栽培のてん茶を石臼で挽いたものではなく、煎茶やかぶせ茶などの「のび茶」を粉砕機で砕いた“もが茶抹茶”が大量に流通しているのだ。見た目は似ていても、風味は全く違う。まろやかな旨味ではなく、青臭さと渋味が前面に出る。だが価格は安く、加工食品やドリンク用途ではそれで十分に“それらしく”見える。効率と商売が優先され、本来の製法や哲学が置き去りにされているのだ。

抹茶には、「お詰めは?」という言葉がある。これは、どの茶商がどんな茶葉を選び、どのようにブレンドしたかを尋ねる表現だ。その年の気候や収穫時期、葉の出来によって味や香りは微妙に異なる。そこで、茶商は熟練の感覚で複数の産地や品種を見極め、味の均衡を整える。

この“ブレンド”こそが抹茶づくりの核心でもある。つまり、最高級の抹茶とは、単に特定の畑の葉ではなく、「誰が詰めたか」という技に宿るのだ。ブレンダーが持つ審美眼と経験が、味の奥行きを決めている。だから茶席では、「お詰めは?」という問いが交わされる。

それは、茶の銘柄を尋ねるよりも、“その味の背景にある人と思想”を確かめる行為に近い。この伝統的なブレンドの文化は、まさに日本的な感覚の象徴だと思う。一つひとつの工程に意味があり、そこに職人の判断と時間が積み重なっている。だが、その「工程の意味」こそが、現代では語られなくなりつつある。

この問題の根は深い。日本では昔から、「語らずに伝える」文化があった。茶、漆、刀、和菓子。どの分野でも、師の背中を見て学び、感覚で覚える。言葉にしなくても、共同体の中では理解が通じ、嘘をつく人もいなかった。正直さと暗黙知が、自然な品質統制を生んでいた。

しかし、グローバル市場ではそれが通用しない。ヨーロッパでは、製法や地域、作り手の哲学を制度として明文化し、文化ごとに守ってきた。ワインなら、ブドウの品種や土壌、醸造家の考えまでがラベルの中に含まれている。その物語が価値となり、ブランドとなる。

一方で日本は、製法の背景や意味を語る文化を持たない。だから「てん茶」と「のび茶」の違いが説明されず、“matcha”という言葉だけが世界を独り歩きした。そこに利益差を見つけた海外の業者が入り込み、粉末緑茶を抹茶として輸出して荒稼ぎする。これは単なる商売の問題ではなく、文化の知的所有権を奪われているようなものだ。

日本が本当に守るべきは、技術そのものよりも「意味を語る力」だと思う。抹茶とは何か。それは、光を遮り、葉を眠らせ、うま味を引き出す“覆いの文化”であり、
熱や摩擦を避け、自然の香りを閉じ込める“静寂の技術”だ。玉露が「開く茶」なら、抹茶は「守る茶」だと表現できる。この思想そのものが日本の美意識の結晶なのだ。

ヨーロッパでは、ワインが語られる。日本は、それを語らない。だから、文化が正しく伝わらず、価値の一部だけがコピーされていると思うのだ。このまま“matcha”の表面だけがブームになると、根にある哲学が消えていく可能性があると思う。

文化は守るだけでは生き延びない。本物を守るためには、世界に向けて「翻訳」する努力も必要では無いだろうか。製法の厳密さを伝えるだけでなく、そこに込められた時間、静けさ、そして人の手の意味、そのような日本人に取っての当たり前を言語化するのだ。観光や体験、教育を通じて「一杯の抹茶を飲む」という行為を文化として再構築するのだ。

それが“matcha experience”として世界に広がれば、単なる健康食品ではなく「時間を味わう文化」として再び尊敬されるだろう。石臼で1時間にわずか40グラム。その一杯には、手間と静寂と美意識が詰まっている。

日本の問題は、技術を世界一精密に磨きながら、その意味を世界に説明してこなかったことだ。抹茶の話は、お茶の話に見えて、実は日本の構造的な課題そのものだ。暗黙知の文化は美しいが、言葉にしなければ世界には届かない。これからの日本に必要なのは、技術を守りながら、その意味を「語れる文化」として再編集していくことだと思う。



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