早嶋です。1400字です。
石破首相が辞任を表明した。彼は、米国との関税交渉に区切りがついたタイミングだと辞任の理由を説明している。参院選の惨敗直後に辞めなかった理由は「交渉が終わるまでは政府の責任だ」と繰り返してきた。それ自体は筋が通っているようにも聞こえる。
だが実際にはどうだったのだろうか。これは「辞める理由」を整えるための、ひとつの演出にすぎないのではないか。政治の内側では、表向きの説明とは別に、菅義偉氏や小泉進次郎氏らによる働きかけがあり、党内の分裂を避けるための操縦だった、という見方が強まっている。
つまり石破氏の辞任は、本人の信念や成果に基づく自律的な判断というより、党の都合に合わせた引き際だった、ということだ。そもそも石破政権は、最初から暫定の色合いが濃かった。本命を高市早苗にしたくない勢力が結託し、消去法の結果として選ばれた首相、という側面は否めない。人心の漂流は岸田政権の時点で始まっており、石破政権はその延長戦でしかなかったのだ。
メディアは既に次の筋書きを始めていると思う。石破氏を説得して辞任に導いたのは小泉進次郎だ。こうやって小泉氏の名前を露出していいく。そして、彼を次のリーダーに押し上げる物語を整えるのだ。若さ、刷新感、世代交代。演出しやすい記号がズラリと並ぶ。
一方で、SNSは別の温度になる。いわゆる「小泉節」は、かつては武器だったが、今はしばしば中身がないという皮肉の対象になるのだ。短尺動画や切り抜きでフレーズが拡散され、パロディ化される。いわゆる「小泉構文」として冷笑が重なり、露出が増えるほど反作用も強まるのだ。報道が推すほど、ネットは剥がそうとする。そういう時代になっている。
メディアが高市早苗を積極的に推さないのも、構図としては分かりやすい。扱いづらい本格保守は、既得の言説空間にとってリスクが大きい。だが露出が少なくても、SNSや草の根の場では浸透が進み、支持はむしろ硬くなる。報道されないことが、逆説的に支持を厚くする。その象徴を、私たちはこの数年で何度も見てきた。
ただし、本質は「誰を選ぶか」では終わらない。自民党という器の中身を、私たちは問うべきなのだ。自民党という数を守るためなら主義の異なる勢力とも手を組む政治団体。いまの維新や国民民主との連携は、そのことを赤裸々に示している。高校無償化は譲歩の産物であり、もともとの自民の主張と整合的だったとは言い難い。選挙では消費税に触れながら、政権ではほとんど手をつけない。給付やばらまきを口にしながら、実行は鈍い。言葉と行為の乖離が積み上がり、信頼は磨耗した。その隙間を、小さくても明確な主張を掲げる野党が埋め始めている。
だから今回の総裁選は、単なる顔ぶれの入れ替えではない。内部崩壊への分水嶺になり得るのだ。問うべきは、「次に誰が首相になるか」よりも、「なぜその人物が選ばれるのか」、そして「どんな構造がそれを可能にしているのか」だ。
石破辞任は幕引きではない。メディアとSNSのせめぎ合いという表層の下に、自民党という巨大な器の空洞化を浮かび上がらせた序章だと思う。私たちは、誰を選ぶか以上に、何を選び、その選択をどう検証するのかを、いま問われている。そして本来の政治とは、日本という国を10年単位でどう変革し、どのような姿を目指すのかを示す営みであるはずだ。自分たちの票田のことや人気取りばかりを考える政治家は、退出して欲しい。